天守物語
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著者名:泉鏡花 

時  不詳。ただし封建時代――晩秋。日没前より深更にいたる。所  播州姫路。白鷺城の天守、第五重。登場人物天守夫人、富姫。(打見は二十七八)岩代国猪苗代、亀の城、亀姫。(二十ばかり)姫川図書之助。(わかき鷹匠)小田原修理。山隅九平。(ともに姫路城主武田播磨守家臣)十文字ヶ原、朱の盤坊。茅野ヶ原の舌長姥。(ともに亀姫の眷属)近江之丞桃六。(工人)桔梗。萩。葛。女郎花。撫子。(いずれも富姫の侍女)薄。(おなじく奥女中)女の童、禿、五人。武士、討手、大勢。
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舞台。天守の五重。左右に柱、向って三方を廻廊下(まわりろうか)のごとく余して、一面に高く高麗(こうらい)べりの畳を敷く。紅(くれない)の鼓の緒、処々に蝶結びして一条(ひとすじ)、これを欄干のごとく取りまわして柱に渡す。おなじ鼓の緒のひかえづなにて、向って右、廻廊の奥に階子(はしご)を設く。階子は天井に高く通ず。左の方(かた)廻廊の奥に、また階子の上下の口あり。奥の正面、及び右なる廻廊の半ばより厚き壁にて、広き矢狭間(やざま)、狭間(はざま)を設く。外面は山岳の遠見(とおみ)、秋の雲。壁に出入りの扉あり。鼓の緒の欄干外(そと)、左の一方、棟甍(むながわら)、並びに樹立(こだち)の梢(こずえ)を見す。正面おなじく森々(しんしん)たる樹木の梢。
女童(めのわらわ)三人――合唱――
ここはどこの細道じゃ、細道じゃ、
天神様の細道じゃ、細道じゃ。
――うたいつつ幕開(あ)く――
侍女五人。桔梗(ききょう)、女郎花(おみなえし)、萩(はぎ)、葛(くず)、撫子(なでしこ)。各(おのおの)名にそぐえる姿、鼓の緒の欄干に、あるいは立ち、あるいは坐(い)て、手に手に五色(ごしき)の絹糸を巻きたる糸枠に、金色(きんしょく)銀色の細き棹(さお)を通し、糸を松杉の高き梢を潜(くぐ)らして、釣(つり)の姿す。
女童三人は、緋(ひ)のきつけ、唄いつづく。――冴(さ)えて且つ寂しき声。
少し通して下さんせ、下さんせ。
ごようのないもな通しません、通しません。
天神様へ願掛けに、願掛けに。
通らんせ、通らんせ。
唄いつつその遊戯をす。
薄(すすき)、天守の壁の裡(うち)より出づ。壁の一劃(かく)はあたかも扉のごとく、自由に開く、この婦(おんな)やや年かさ。鼈甲(べっこう)の突通し、御殿奥女中のこしらえ。
薄 鬼灯(ほおずき)さん、蜻蛉(とんぼ)さん。女童一 ああい。薄 静(しずか)になさいよ、お掃除が済んだばかりだから。女童二 あの、釣を見ましょうね。女童三 そうね。いたいけに頷(うなず)きあいつつ、侍女等の中に、はらはらと袖を交(まじ)う。
薄 (四辺(あたり)を□(みまわ)す)これは、まあ、まことに、いい見晴しでございますね。葛 あの、猪苗代(いなわしろ)のお姫様がお遊びにおいででございますから。桔梗 お鬱陶(うっと)しかろうと思いまして。それには、申分のございませんお日和でございますし、遠山はもう、もみじいたしましたから。女郎花 矢狭間も、物見も、お目触りな、泥や、鉄の、重くるしい、外囲(そとがこい)は、ちょっと取払っておきました。薄 成程、成程、よくおなまけ遊ばす方たちにしては、感心にお気のつきましたことでございます。桔梗 あれ、人ぎきの悪いことを。――いつ私たちがなまけましたえ。薄 まあ、そうお言いの口の下で、何をしておいでだろう。二階から目薬とやらではあるまいし、お天守の五重から釣をするものがありますかえ。天の川は芝を流れはいたしません。富姫様が、よそへお出掛け遊ばして、いくら間(ひま)があると申したって、串戯(じょうだん)ではありません。撫子 いえ、魚を釣るのではございません。桔梗 旦那様の御前(おまえ)に、ちょうど活(い)けるのがございませんから、皆(みんな)で取って差上げようと存じまして、花を……あの、秋草を釣りますのでございますよ。薄 花を、秋草をえ。はて、これは珍しいことを承ります。そして何かい、釣れますかえ。女童(めのわらわ)の一人の肩に、袖でつかまって差覗(さしのぞ)く。
桔梗 ええ、釣れますとも、もっとも、新発明でございます。薄 高慢なことをお言いでない。――が、つきましては、念のために伺いますが、お用いになります。……餌(えさ)の儀でござんすがね。撫子 はい、それは白露でございますわ。葛 千草八千草秋草が、それはそれは、今頃は、露を沢山(たんと)欲しがるのでございますよ。刻限も七つ時、まだ夕露も夜露もないのでございますもの。(隣を視(み)る)御覧なさいまし、女郎花さんは、もう、あんなにお釣りなさいました。薄 ああ、ほんにねえ。まったく草花が釣れるとなれば、さて、これは静(しずか)にして拝見をいたしましょう。釣をするのに饒舌(しゃべ)っては悪いと云うから。……一番(いっち)だまっておとなしい女郎花さんがよく釣った、争われないものじゃないかね。女郎花 いいえ、お魚とは違いますから、声を出しても、唄いましても構いません。――ただ、風が騒ぐと下可(いけ)ませんわ。……餌の露が、ぱらぱらこぼれてしまいますから。ああ、釣れました。薄 お見事。と云う時、女郎花、棹(さお)ながらくるくると枠を巻戻す、糸につれて秋草、欄干に上り来(きた)る。さきに傍(かたわら)に置きたる花とともに、女童の手に渡す。
桔梗 釣れました。(おなじく糸を巻戻す。)萩 あれ、私も……花につれて、黄と、白、紫の胡蝶(こちょう)の群(むれ)、ひらひらと舞上る。
葛 それそれ私も――まあ、しおらしい。薄 桔梗さん、棹をお貸しな、私も釣ろう、まことに感心、おつだことねえ。女郎花 お待ち遊ばせ、大層風が出て参りました、餌が糸にとまりますまい。薄 意地の悪い、急に激しい風になったよ。萩 ああ、内廓(うちぐるわ)の秋草が、美しい波を打ちます。桔梗 そう云ううちに、色もかくれて、薄(すすき)ばかりが真白(まっしろ)に、水のように流れて来ました。葛 空は黒雲(くろくも)が走りますよ。薄 先刻(さっき)から、野も山も、不思議に暗いと思っていた、これは酷(ひど)い降りになりますね。舞台暗くなる、電光閃(ひらめ)く。
撫子 夫人(おくさま)は、どこへおいで遊ばしたのでございますえ。早くお帰り遊ばせば可(よ)うございますね。薄 平時(いつも)のように、どこへとも何ともおっしゃらないで、ふいとお出ましになったもの。萩 お迎いにも参られませんねえ。薄 お客様、亀姫様のおいでの時刻を、それでも御含みでいらっしゃるから、ほどなくお帰りでござんしょう。――皆さんが、御心入れの御馳走(ごちそう)、何、秋草を、早くお供えなさるが可(よ)いね。女郎花 それこそ露の散らぬ間(ま)に。――正面奥の中央、丸柱の傍(かたわら)に鎧櫃(よろいびつ)を据えて、上に、金色(こんじき)の眼(まなこ)、白銀(しろがね)の牙(きば)、色は藍(あい)のごとき獅子頭(ししがしら)、萌黄錦(もえぎにしき)の母衣(ほろ)、朱の渦まきたる尾を装いたるまま、荘重にこれを据えたり。
――侍女等、女童とともにその前に行(ゆ)き、跪(ひざまず)きて、手に手に秋草を花籠に挿す。色のその美しき蝶の群、斉(ひとし)く飛連れてあたりに舞う。雷(らい)やや聞ゆ。雨来(きた)る。
薄 (薄暗き中に)御覧、両眼赫燿(かくよう)と、牙も動くように見えること。桔梗 花も胡蝶(ちょう)もお気に入って、お嬉しいんでございましょう。時に閃電(せんでん)す。光の裡(うち)を、衝(つ)と流れて、胡蝶(こちょう)の彼処(かしこ)に流るる処、ほとんど天井を貫きたる高き天守の棟に通ずる階子(はしご)。――侍女等、飛ぶ蝶の行方につれて、ともに其方(そなた)に目を注ぐ。
女郎花 あれ、夫人(おくさま)がお帰りでございますよ。はらはらとその壇の許(もと)に、振袖、詰袖、揃って手をつく。階子の上より、まず水色の衣(きぬ)の褄(つま)、裳(もすそ)を引く。すぐに蓑(みの)を被(かつ)ぎたる姿見ゆ。長(たけ)なす黒髪、片手に竹笠、半ば面(おもて)を蔽(おお)いたる、美しく気高き貴女(きじょ)、天守夫人、富姫。
夫人 (その姿に舞い縋(すが)る蝶々の三つ二つを、蓑を開いて片袖に受く)出迎えかい、御苦労だね。(蝶に云う。)――お帰り遊ばせ、――お帰り遊ばせ――侍女等、口々に言迎う。――
夫人 時々、ふいと気まかせに、野分(のわき)のような出歩行(である)きを、……ハタと竹笠を落す。女郎花、これを受け取る。貴女の面(おもて)、凄(すご)きばかり白く□長(ろうた)けたり。
露も散らさぬお前たち、花の姿に気の毒だね。(下りかかりて壇に弱腰、廊下に裳(もすそ)。)
薄 勿体(もったい)ないことを御意遊ばす。――まあ、お前様、あんなものを召しまして。夫人 似合ったかい。薄 なおその上に、御前様(ごぜんさま)、お痩(や)せ遊ばしておがまれます。柳よりもお優しい、すらすらと雨の刈萱(かるかや)を、お被(か)け遊ばしたようにござります。夫人 嘘ばっかり。小山田の、案山子(かかし)に借りて来たのだものを。薄 いいえ、それでも貴女(あなた)がめしますと、玉、白銀(しろがね)、揺(ゆるぎ)の糸の、鎧(よろい)のようにもおがまれます。夫人 賞(ほ)められてちっと重くなった。(蓑を脱ぐ)取っておくれ。撫子、立ち、うけて欄干にひらりと掛く。
蝶の数、その蓑に翼を憩う。……夫人、獅子頭に会釈しつつ、座に、褥(しとね)に着く。脇息(きょうそく)。
侍女たちかしずく。
少し草臥(くたび)れましたよ。……お亀様はまだお見えではなかったろうね。
薄 はい、お姫様(ひいさま)は、やがてお入(い)りでござりましょう。それにつけましても、お前様おかえりを、お待ち申上げました。――そしてまあ、いずれへお越し遊ばしました。夫人 夜叉(やしゃ)ヶ池(いけ)まで参ったよ。薄 おお、越前国大野郡(おおのごおり)、人跡絶えました山奥の。萩 あの、夜叉ヶ池まで。桔梗 お遊びに。夫人 まあ、遊びと言えば遊びだけれども、大池のぬしのお雪様に、ちっと……頼みたい事があって。薄 私(わたくし)はじめ、ここに居(お)ります、誰ぞお使いをいたしますもの、御自分おいで遊ばして、何と、雨にお逢(あ)いなさいましてさ。夫人 その雨を頼みに行(ゆ)きました。――今日はね、この姫路の城……ここから視(み)れば長屋だが、……長屋の主人、それ、播磨守(はりまのかみ)が、秋の野山へ鷹狩(たかがり)に、大勢で出掛けました。皆(みんな)知っておいでだろう。空は高し、渡鳥、色鳥の鳴く音(ね)は嬉しいが、田畑と言わず駈廻(かけまわ)って、きゃっきゃっと飛騒ぐ、知行とりども人間の大声は騒がしい。まだ、それも鷹ばかりなら我慢もする。近頃は不作法な、弓矢、鉄砲で荒立つから、うるささもうるさしさ。何よりお前、私のお客、この大空の霧を渡って輿(かご)でおいでのお亀様にも、途中失礼だと思ったから、雨風と、はたた神で、鷹狩の行列を追崩す。――あの、それを、夜叉ヶ池のお雪様にお頼み申しに参ったのだよ。薄 道理こそ時ならぬ、急な雨と存じました。夫人 この辺(あたり)は雨だけかい。それは、ほんの吹降りの余波(なごり)であろう。鷹狩が遠出をした、姫路野の一里塚のあたりをお見な。暗夜(やみよ)のような黒い雲、眩(まばゆ)いばかりの電光(いなびかり)、可恐(おそろし)い雹(ひょう)も降りました。鷹狩の連中は、曠野(あらの)の、塚の印(しるし)の松の根に、澪(みお)に寄った鮒(ふな)のように、うようよ集(たか)って、あぶあぶして、あやい笠が泳ぐやら、陣羽織が流れるやら。大小をさしたものが、ちっとは雨にも濡れたが可(い)い。慌てる紋は泡沫(あぶく)のよう。野袴(のばかま)の裾(すそ)を端折(はしょ)って、灸(きゅう)のあとを出すのがある。おお、おかしい。(微笑(ほほえ)む)粟粒(あわつぶ)を一つ二つと算(かぞ)えて拾う雀でも、俄雨(にわかあめ)には容子(ようす)が可い。五百石、三百石、千石一人で食(は)むものが、その笑止さと言ってはない。おかしいやら、気の毒やら、ねえ、お前。薄 はい。夫人 私はね、群鷺(むらさぎ)ヶ峰(みね)の山の端(は)に、掛稲(かけいね)を楯(たて)にして、戻道(もどりみち)で、そっと立って視(なが)めていた。そこには昼の月があって、雁金(かりがね)のように(その水色の袖を圧(おさ)う)その袖に影が映った。影が、結んだ玉ずさのようにも見えた。――夜叉ヶ池のお雪様は、激(はげし)いなかにお床(ゆか)しい、野はその黒雲(くろくも)、尾上(おのえ)は瑠璃(るり)、皆、あの方のお計らい。それでも鷹狩の足も腰も留めさせずに、大風と大雨で、城まで追返しておくれの約束。鷹狩たちが遠くから、松を離れて、その曠野を、黒雲の走る下に、泥川のように流れてくるに従って、追手(おいて)の風の横吹(よこしぶき)。私が見ていたあたりへも、一村雨(むらさめ)颯(さっ)とかかったから、歌も読まずに蓑をかりて、案山子の笠をさして来ました。ああ、そこの蜻蛉(とんぼ)と鬼灯(ほおずき)たち、小児(こども)に持たして後ほどに返しましょう。薄 何の、それには及びますまいと存じます。夫人 いえいえ、農家のものは大切だから、等閑(なおざり)にはなりません。薄 その儀は畏(かしこま)りました。お前様、まあ、それよりも、おめしかえを遊ばしまし、おめしものが濡れまして、お気味が悪うござりましょう。夫人 おかげで濡れはしなかった。気味の悪い事もないけれど、隔てぬ中の女同士も、お亀様に、このままでは失礼だろう。(立つ)着換えましょうか。女郎花 ついでに、お髪(ぐし)も、夫人様(だんなさま)夫人 ああ、あげてもらおうよ。夫人に続いて、一同、壁の扉に隠る。女童(めのわらわ)のこりて、合唱す――
ここはどこの細道じゃ、細道じゃ。
天神様の細道じゃ、細道じゃ。
時に棟に通ずる件(くだん)の階子(はしご)を棟よりして入来(いりきた)る、岩代国(いわしろのくに)麻耶郡(まやごおり)猪苗代の城、千畳敷の主(ぬし)、亀姫の供頭(ともがしら)、朱の盤坊、大山伏の扮装(いでたち)、頭に犀(さい)のごとき角一つあり、眼(まなこ)円(つぶら)かに面(つら)の色朱よりも赤く、手と脚、瓜(うり)に似て青し。白布(しろぬの)にて蔽(おお)うたる一個の小桶(こおけ)を小脇に、柱をめぐりて、内を覗(のぞ)き、女童の戯(たわむ)るるを視(み)つつ破顔して笑う
朱の盤 かちかちかちかち。歯を噛鳴(かみな)らす音をさす。女童等、走り近(ちかづ)く時、面(つら)を差寄せ、大口開(あ)く。
もおう!(獣の吠(ほ)ゆる真似して威(おど)す。)
女董一 可厭(いや)な、小父(おじ)さん。女童二 可恐(こわ)くはありませんよ。朱の盤 だだだだだ。(濁れる笑(わらい))いや、さすがは姫路お天守の、富姫御前の禿(かむろ)たち、変化心(へんげごころ)備わって、奥州第一の赭面(あかつら)に、びくともせぬは我折(がお)れ申す。――さて、更(あらた)めて内方(うちかた)へ、ものも、案内を頼みましょう。女童三 屋根から入った小父さんはえ?朱の盤 これはまた御挨拶(ごあいさつ)だ。ただ、猪苗代から参ったと、ささ、取次、取次。女童一 知らん。女童三 べいい。(赤べろする。)朱の盤 これは、いかな事――(立直る。大音に)ものも案内。薄 どうれ。(壁より出迎う)いずれから。朱の盤 これは岩代国会津郡(あいづごおり)十文字ヶ原青五輪(あおごわ)のあたりに罷在(まかりあ)る、奥州変化の先達(せんだつ)、允殿館(いんでんかん)のあるじ朱の盤坊でござる。すなわち猪苗代の城、亀姫君の御供をいたし罷出(まかりで)ました。当お天守富姫様へ御取次を願いたい。薄 お供御苦労に存じ上げます。あなた、お姫様(ひいさま)は。朱の盤 (真仰向(あおむ)けに承塵(てんじょう)を仰ぐ)屋の棟に、すでに輿(かご)をばお控えなさるる。薄 夫人(うちかた)も、お待兼ねでございます。手を敲(たた)く。音につれて、侍女三人出づ。斉(ひと)しく手をつく。
早や、御入(おんい)らせ下さりませ。
朱の盤 (空へ云う)輿傍(かごわき)へ申す。此方(こなた)にもお待(まち)うけじゃ。――姫君、これへお入(い)りのよう、舌長姥(したながうば)、取次がっせえ。階子(はしご)の上より、真先(まっさき)に、切禿(きりかむろ)の女童、うつくしき手鞠(てまり)を両袖に捧げて出づ。
亀姫、振袖、裲襠(うちがけ)、文金の高髷(たかまげ)、扇子を手にす。また女童、うしろに守刀(まもりがたな)を捧ぐ。あと圧(おさ)えに舌長姥、古びて黄ばめる練衣(ねりぎぬ)、褪(あ)せたる紅(あか)の袴(はかま)にて従い来(きた)る。
天守夫人、侍女を従え出で、設けの座に着く。
薄 (そと亀姫を仰ぐ)お姫様(ひいさま)。出むかえたる侍女等、皆ひれ伏す。
亀姫 お許し。しとやかに通り座につく。と、夫人と面(おもて)を合すとともに、双方よりひたと褥(しとね)の膝を寄す。
夫人 (親しげに微笑(ほほえ)む)お亀様。亀姫 お姉様(あねえさま)、おなつかしい。夫人 私もお可懐(なつかし)い。――――(間。)
女郎花 夫人(おくさま)。(と長煙管(ながぎせる)にて煙草(たばこ)を捧ぐ。)夫人 (取って吸う。そのまま吸口を姫に渡す)この頃は、めしあがるそうだね。亀姫 ええ、どちらも。(うけて、その煙草を吸いつつ、左の手にて杯の真似をす。)夫人 困りましたねえ。(また打笑(うちえ)む。)亀姫 ほほほ、貴女(あなた)を旦那様にはいたすまいし。夫人 憎らしい口だ。よく、それで、猪苗代から、この姫路まで――道中五百里はあろうねえ、……お年寄。舌長姥 御意にござります。……海も山もさしわたしに、風でお運び遊ばすゆえに、半日路(じ)には足りませぬが、宿々(しゅくじゅく)を歩(ひろ)いましたら、五百里……されば五百三十里、もそっともござりましょうぞ。夫人 ああね。(亀姫に)よく、それで、手鞠をつきに、わざわざここまでおいでだね。亀姫 でございますから、お姉様(あねえさま)は、私がお可愛(かわゆ)うございましょう。夫人 いいえ、お憎らしい。亀姫 御勝手。(扇子を落す。)夫人 やっぱりお可愛い。(その背を抱(いだ)き、見返して、姫に附添える女童に)どれ、お見せ。(手鞠を取る)まあ、綺麗な、私にも持って来て下されば可(よ)いものを。朱の盤 ははッ。(その白布の包を出(いだ)し)姫君より、貴女様へ、お心入れの土産がこれに。申すは、差出がましゅうござるなれど、これは格別、奥方様の思召(おぼしめ)しにかないましょう。…何と、姫君。(色を伺う。)亀姫 ああ、お開き。お姉様の許(とこ)だから、遠慮はない。夫人 それはそれは、お嬉しい。が、お亀様は人が悪い、中は磐梯山(ばんだいさん)の峰の煙か、虚空蔵(こくうぞう)の人魂(ひとだま)ではないかい。亀姫 似たもの。ほほほほほ。夫人 要りません、そんなもの。亀姫 上げません。朱の盤 いやまず、(手を挙げて制す)おなかがよくてお争い、お言葉の花が蝶のように飛びまして、お美しい事でござる。……さて、此方(こなた)より申す儀ではなけれども、奥方様、この品ばかりはお可厭(いや)ではござるまい。包を開く、首桶(くびおけ)。中より、色白き男の生首を出し、もとどりを掴(つか)んで、ずうんと据う。
や、不重宝(ぶちょうほう)、途中揺溢(ゆりこぼ)いて、これは汁(つゆ)が出ました。(その首、血だらけ)これ、姥(うば)殿、姥殿。
舌長姥 あいあい、あいあい。朱の盤 御進物が汚れたわ。鱗(うろこ)の落ちた鱸(すずき)の鰭(ひれ)を真水で洗う、手の悪い魚売人には似たれども、その儀では決してない。姥殿、此方(こなた)、一拭(ひとぬぐ)い、清めた上で進ぜまいかの。夫人 (煙管を手に支(つ)き、面(おもて)正しく屹(きっ)と視(み)て)気遣いには及びません、血だらけなは、なおおいしかろう。舌長姥 こぼれた羹(あつもの)は、埃溜(はきだめ)の汁でござるわの、お塩梅(あんばい)には寄りませぬ。汚穢(むさ)や、見た目に、汚穢や。どれどれ掃除して参らしょうぞ。(紅(あか)の袴(はかま)にて膝行(いざ)り出で、桶を皺手(しわで)にひしと圧(おさ)え、白髪(しらが)を、ざっと捌(さば)き、染めたる歯を角(けた)に開け、三尺ばかりの長き舌にて生首の顔の血をなめる)汚穢や、(ぺろぺろ)汚穢やの。(ぺろぺろ)汚穢やの、汚穢やの、ああ、甘味(うま)やの、汚穢やの、ああ、汚穢いぞの、やれ、甘味いぞのう。朱の盤 (慌(あわただ)しく遮る)やあ、姥(ばあ)さん、歯を当てまい、御馳走が減りはせぬか。舌長姥 何のいの。(ぐったりと衣紋(えもん)を抜く)取る年の可恐(おそろ)しさ、近頃は歯が悪うて、人間の首や、沢庵(たくあん)の尻尾(しっぽ)はの、かくやにせねば咽喉(のど)へは通らぬ。そのままの形では、金花糖の鯛でさえ、横噛(よこかじ)りにはならぬ事よ。朱の盤 後生らしい事を言うまい、彼岸は過ぎたぞ。――いや、奥方様、この姥が件(くだん)の舌にて舐(な)めますると、鳥獣(とりけもの)も人間も、とろとろと消えて骨ばかりになりますわ。……そりゃこそ、申さぬことではなかった。お土産の顔つきが、時の間(ま)に、細長うなりました。なれども、過失(あやまち)の功名、死んで変りました人相が、かえって、もとの面体(めんてい)に戻りました。……姫君も御覧ぜい。亀姫 (扇子を顔に、透かし見る)ああ、ほんになあ。侍女等一同、瞬きもせず熟(じっ)と視(み)る。誰も一口食べたそう。
薄 お前様――あの、皆さんも御覧なさいまし、亀姫様お持たせのこの首は、もし、この姫路の城の殿様の顔に、よく似ているではござんせぬか。桔梗 真(ほん)に、瓜二つでございますねえ。夫人 (打頷(うちうなず)く)お亀様、このお土産は、これは、たしか……亀姫 はい、私が廂(ひさし)を貸す、猪苗代亀ヶ城(しろ)の主、武田衛門之介(えもんのすけ)の首でございますよ。夫人 まあ、貴女(あなた)。(間)私のために、そんな事を。亀姫 構いません、それに、私がいたしたとは、誰も知りはしませんもの。私が城を出ます時はね、まだこの衛門之介はお妾(めかけ)の膝に凭掛(よりかか)って、酒を飲んでおりました。お大名の癖に意地が汚くってね、鯉汁(こいこく)を一口に食べますとね、魚の腸(はらわた)に針があって、それが、咽喉(のど)へささって、それで亡くなるのでございますから、今頃ちょうどそのお膳が出たぐらいでございますよ。(ふと驚く。扇子を落す)まあ、うっかりして、この咽喉に針がある。(もとどりを取って上ぐ)大変なことをした、お姉様(あねえさま)に刺さったらどうしよう。夫人 しばらく! 折角、あなたのお土産を、いま、それをお抜きだと、衛門之介も針が抜けて、蘇返(よみがえ)ってしまいましょう。朱の盤 いかさまな。夫人 私が気をつけます。可(よ)うござんす。(扇子を添えて首を受取る)お前たち、瓜を二つは知れたこと、この人はね、この姫路の城の主、播磨守とは、血を分けた兄弟よ。侍女等目と目を見合わす。
ちょっと、獅子にお供え申そう。
みずから、獅子頭の前に供う。獅子、その牙(きば)を開き、首を呑(の)む。首、その口に隠る。
亀姫 (熟(じっ)と視(み)る)お姉様(あねえさま)、お羨(うらやま)しい。夫人 え。亀姫 旦那様が、おいで遊ばす。間。――夫人、姫と顔を合す、互に莞爾(かんじ)とす。
夫人 嘘が真(まこと)に。……お互に……亀姫 何の不足はないけれど、夫人 こんな男が欲(ほし)いねえ。――ああ、男と云えば、お亀様、あなたに見せるものがある。――桔梗さん。桔梗 はい。夫人 あれを、ちょっと。桔梗 畏(かしこ)まりました。(立つ。)朱の盤 (不意に)や、姥殿、獅子のお頭に見惚(みと)れまい。尾籠(びろう)千万。舌長姥 (時に、うしろ向きに乗出して、獅子頭を視(なが)めつつあり)老人(としより)じゃ、当館(やかた)奥方様も御許され。見惚れるに無理はないわいの。朱の盤 いやさ、見惚れるに仔細(しさい)はないが、姥殿、姥殿はそこに居て舌が届く。(苦笑(にがわらい)す。)舌長姥思わず正面にその口を蔽(おお)う。侍女等忍びやかに皆笑う。桔梗、鍬形(くわがた)打ったる五枚錣(しころ)、金の竜頭(たつがしら)の兜(かぶと)を捧げて出づ。夫人と亀姫の前に置く。
夫人 貴女、この兜はね、この城の、播磨守が、先祖代々の家の宝で、十七の奥蔵(おくぐら)に、五枚錣に九ツの錠(じょう)を下(おろ)して、大切に秘蔵をしておりますのをね、今日お見えの嬉しさに、実は、貴女に上げましょうと思って取出しておきました。けれども、御心入(おこころいり)の貴女のお土産(みや)で、私のはお恥しくなりました。それだから、ただ思っただけの、申訳に、お目に掛けますばかり。亀姫 いいえ、結構、まあ、お目覚しい。夫人 差上げません。第一、あとで気がつきますとね、久しく蔵込(しまいこ)んであって、かび臭い。蘭麝(らんじゃ)の薫(かおり)も何にもしません。大阪城の落ちた時の、木村長門守の思切ったようなのだと可(い)いけれど、……勝戦(かちいくさ)のうしろの方で、矢玉の雨宿(あまやどり)をしていた、ぬくいのらしい。御覧なさい。亀姫 (鉢金(はちがね)の輝く裏を返す)ほんに、討死をした兜ではありませんね。夫人 だから、およしなさいまし、葛や、しばらくそこへ。指図のまま、葛、その兜を獅子頭の傍(かたえ)に置く。
お帰りまでに、きっとお気に入るものを調えて上げますよ。
亀姫 それよりか、お姉様(あねえさま)、早く、あのお約束の手鞠(てまり)を突いて遊びましょうよ。夫人 ああ、遊びましょう。――あちらへ。――城の主人(あるじ)の鷹狩が、雨風に追われ追われて、もうやがて大手さきに帰る時分、貴女は沢山(たんと)お声がいいから、この天守から美しい声が響くと、また立騒いでお煩(うるさ)い。亀姫のかしずきたち、皆立ちかかる。
いや、御先達、お山伏は、女たちとここで一献(いっこん)お汲(く)みがよいよ。
朱の盤 吉祥天女、御功徳でござる。(肱(ひじ)を張って叩頭(こうとう)す。)亀姫 ああ、姥、お前も大事ない、ここに居てお相伴をしや。――お姉様(あねえさま)に、私から我儘(わがまま)をしますから。夫人 もっともさ。舌長姥 もし、通草(あけび)、山ぐみ、山葡萄、手造りの猿の酒、山蜂の蜜、蟻の甘露、諸白(もろはく)もござります、が、お二人様のお手鞠は、唄を聞きますばかりでも寿命の薬と承る。かように年を取りますと、慾(よく)も、得も、はは、覚えませぬ。ただもう、長生(ながいき)がしとうござりましてのう。朱の盤 や、姥殿、その上のまた慾があるかい。舌長姥 憎まれ山伏、これ、帰り途(みち)に舐(な)められさっしゃるな。(とぺろりと舌。)朱の盤 (頭を抱う)わあ、助けてくれ、角が縮まる。侍女たち笑う。
舌長姥 さ、お供をいたしましょうの。夫人を先に、亀姫、薄と女(め)の童(わらわ)等、皆行(ゆ)く。五人の侍女と朱の盤あり。
桔梗 お先達、さあさあ、お寛(くつろ)ぎなさいまし。朱の盤 寛がいで何とする。やあ、えいとな。萩 もし、面白いお話を聞かして下さいましな。朱の盤 聞かさいで何とする。(扇を笏(しゃく)に)それ、山伏と言っぱ山伏なり。兜巾(ときん)と云っぱ兜巾なり。お腰元と言っぱ美人なり。恋路と言っぱ闇夜(やみよ)なり。野道山路(やまみち)厭(いと)いなく、修行積んだる某(それがし)が、このいら高の数珠(じゅず)に掛け、いで一祈り祈るならば、などか利験(りげん)のなかるべき。橋の下の菖蒲(しょうぶ)は、誰が植えた菖蒲ぞ、ぼろぼん、ぼろぼん、ぼろぼんのぼろぼん。侍女等わざとはらはらと逃ぐ、朱の盤五人を追廻す。
ぼろぼんぼろぼん、ぼろぼんぼろぼん。(やがて侍女に突かれて□(どう)と倒る)などか利験のなかるべき。
葛 利験はござんしょうけれどな、そんな話は面白うござんせぬ。朱の盤 (首を振って)ぼろぼん、ぼろぼん。鞠唄聞ゆ。
――私(わし)が姉(あね)さん三人ござる、一人姉さん鼓が上手。
一人姉さん太鼓が上手。
いっちよいのが下谷(したや)にござる。
下谷一番達(だて)しゃでござる。二両で帯買うて、
三両で括(く)けて、括けめ括けめに七総(ななふさ)さげて、
折りめ折りめに、いろはと書いて。――
葛 さあ、お先達、よしの葉の、よい女郎衆ではござんせぬが、参ってお酌。(扇を開く。)朱の盤 ぼろぼんぼろぼん。(同じく扇子にうく)おとととと、ちょうどあるちょうどある。いで、お肴(さかな)を所望しょう。……などか利験のなかるべき。桔梗 その利験ならござんしょう。女郎花さん、撫子さん、ちょっと、お立ちなさいまし。両女(ふたり)立つ。
ここをどこぞと、もし人問わば、ここは駿河(するが)の
府中の宿よ、人に情(なさけ)を掛川の宿よ。雉子(きじ)の雌鳥(めんどり)
ほろりと落いて、打ちきせて、しめて、しょのしょの
いとしよの、そぞろいとしゅうて、遣瀬(やるせ)なや。
朱の盤 やんややんや。女郎花 今度はお先達、さあ。葛 貴方(あなた)がお立ちなさいまし。朱の盤 ぼろぼん、ぼろぼん。此方(こなた)衆思(おもい)ざしを受きょうならば。侍女五人扇子を開く、朱の盤杯を一順す。すなわち立つ。腰なる太刀をすらりと抜き、以前の兜を切先(きっさき)にかけて、衝(つ)と天井に翳(かざ)し、高脛(たかずね)に拍子を踏んで――
戈□剣戟(かせんけんげき)を降らすこと電光の如くなり。
盤石(ばんじゃく)巌(いわお)を飛ばすこと春の雨に相同じ。
然(しか)りとはいえども、天帝の身には近づかで、
修羅かれがために破らる。
――お立ち――、(陰より諸声(もろごえ)。)
手早く太刀を納め、兜をもとに直す、一同つい居る。
亀姫 お姉様(あねえさま)、今度は貴方が、私へ。夫人 はい。舌長姥 お早々と。夫人 (頷(うなず)きつつ、連れて廻廊にかかる。目の下遥(はるか)に瞰下(みおろ)す)ああ、鷹狩が帰って来た。亀姫 (ともに、瞰下す)先刻(さっき)私が参る時は、蟻のような行列が、その鉄砲で、松並木を走っていました。ああ、首に似た殿様が、馬に乗って反返(そりかえ)って、威張って、本丸へ入って来ますね。夫人 播磨守さ。亀姫 まあ、翼の、白い羽の雪のような、いい鷹を持っているよ。夫人 おお。(軽く胸を打つ)貴女。(間)あの鷹を取って上げましょうね。亀姫 まあ、どうしてあれを。夫人 見ておいで、、それは姫路の、富だもの。蓑(みの)を取って肩に装う、美しき胡蝶(こちょう)の群、ひとしく蓑に舞う。颯(さっ)と翼を開く風情す。
それ、人間の目には、羽衣を被(き)た鶴に見える。
ひらりと落す特、一羽の白鷹颯(さっ)と飛んで天守に上るを、手に捕う。
――わっと云う声、地より響く――
亀姫 お涼しい、お姉様(あねえさま)。夫人 この鷹ならば、鞠を投げてもとりましょう。――沢山(たんと)お遊びなさいまし。亀姫 あい。(嬉しげに袖に抱(いだ)く。そのまま、真先(まっさき)に階子(はしご)を上る。二三段、と振返りて、衝(つ)と鷹を雪の手に据うるや否や)虫が来た。云うとともに、袖を払って一筋の征矢(そや)をカラリと落す。矢は鷹狩の中(うち)より射掛けたるなり。
夫人 (斉(ひと)しくともに)む。(と肩をかわし、身を捻(ひね)って背向(そがい)になる、舞台に面(おもて)を返す時、口に一条(ひとすじ)の征矢、手にまた一条の矢を取る。下より射たるを受けたるなり)推参な。――たちまち鉄砲の音、あまたたび――
薄 それ、皆さん。侍女等、身を垣にす。
朱の盤 姥殿、確(しっか)り。(姫を庇(かぼ)うて大手を開く。)亀姫 大事ない、大事ない。夫人 (打笑む)ほほほ、皆が花火線香をお焚(た)き――そうすると、鉄砲の火で、この天守が燃えると思って、吃驚(びっくり)して打たなくなるから。――舞台やや暗し。鉄砲の音止(や)む――――
夫人、亀姫と声を合せて笑う、ほほほほほ。
夫人 それ、御覧、ついでにその火で、焼けそうな処を二三処(ヶしょ)焚(や)くが可(い)い、お亀様の路(みち)の松明(たいまつ)にしようから。舞台暗し。
亀姫 お心づくしお嬉しや。さらば。夫人 さらばや。寂寞(せきばく)、やがて燈火(ともしび)の影に、うつくしき夫人の姿。舞台にただ一人のみ見ゆ。夫人うしろむきにて、獅子頭に対し、机に向い巻ものを読みつつあり。間(ま)を置き、女郎花、清らかなる小掻巻(こがいまき)を持ち出で、静(しずか)に夫人の背(せな)に置き、手をつかえて、のち去る。――
ここはどこの細道じゃ、細道じゃ。
天神様の細道じゃ、細道じゃ。
舞台一方の片隅に、下の四重に通ずべき階子(はしご)の口あり。その口より、まず一(ひとつ)の雪洞(ぼんぼり)顕(あらわ)れ、一廻りあたりを照す。やがて衝(つ)と翳(かざ)すとともに、美丈夫、秀でたる眉に勇壮の気満つ。黒羽二重の紋着(もんつき)、萌黄(もえぎ)の袴(はかま)、臘鞘(ろざや)の大小にて、姫川図書之助(ずしょのすけ)登場。唄をききつつ低徊(ていかい)し、天井を仰ぎ、廻廊を窺(うかが)い、やがて燈(ともしび)の影を視(み)て、やや驚く。ついで几帳(きちょう)を認む。彼が入(い)るべき方(かた)に几帳を立つ。図書は躊躇(ちゅうちょ)の後決然として進む。瞳(ひとみ)を定めて、夫人の姿を認む。剣夾(つか)に手を掛け、気構えたるが、じりじりと退(さが)る。
夫人 (間)誰。図書 はっ。(と思わず膝を支(つ)く)某(それがし)。夫人 (面(おもて)のみ振向く、――無言。)図書 私(わたくし)は、当城の大守に仕うる、武士の一人(いちにん)でございます。夫人 何しに見えた。図書 百年以来、二重三重までは格別、当お天守五重までは、生(しょう)あるものの参った例(ためし)はありませぬ。今宵、大殿の仰せに依って、私(わたくし)、見届けに参りました。夫人 それだけの事か。図書 且つまた、大殿様、御秘蔵の、日本一の鷹がそれまして、お天守のこのあたりへ隠れました。行方を求めよとの御意でございます。夫人 翼あるものは、人間ほど不自由ではない。千里、五百里、勝手な処へ飛ぶ、とお言いなさるが可(よ)い。――用はそれだけか。図書 別に余の儀は承りませぬ。夫人 五重に参って、見届けた上、いかが計らえとも言われなかったか。図書 いや、承りませぬ。夫人 そして、お前も、こう見届けた上に、どうしようとも思いませぬか。図書 お天守は、殿様のものでございます。いかなる事がありましょうとも、私(わたくし)一存にて、何と計らおうとも決して存じませぬ。夫人 お待ち。この天守は私のものだよ。図書 それは、貴方(あなた)のものかも知れませぬ。また殿様は殿様で、御自分のものだと御意遊ばすかも知れませぬ。しかし、いずれにいたせ、私(わたくし)のものでないことは確(たしか)でございます。自分のものでないものを、殿様の仰せも待たずに、どうしようとも思いませぬ。夫人 すずしい言葉だね、その心なれば、ここを無事で帰られよう。私も無事に帰してあげます。図書 冥加(みょうが)に存じます。夫人 今度は、播磨が申しきけても、決して来てはなりません。ここは人間の来る処ではないのだから。――また誰も参らぬように。図書 いや、私(わたくし)が参らぬ以上は、五十万石の御家中、誰一人参りますものはございますまい。皆生命(いのち)が大切でございますから。夫人 お前は、そして、生命は欲しゅうなかったのか。図書 私(わたくし)は、仔細(しさい)あって、殿様の御不興を受け、お目通(めどおり)を遠ざけられ閉門の処、誰もお天守へ上(あが)りますものがないために、急にお呼出しでございました。その御上使は、実は私(わたくし)に切腹仰せつけの処を、急に御模様がえになったのでございます。夫人 では、この役目が済めば、切腹は許されますか。図書 そのお約束でございました。夫人 人の生死(いきしに)は構いませんが、切腹はさしたくない。私は武士の切腹は嫌いだから。しかし、思い掛(がけ)なく、お前の生命(いのち)を助けました。……悪い事ではない。今夜はいい夜(よ)だ。それではお帰り。図書 姫君。夫人 まだ、居ますか。図書 は、恐入ったる次第ではございますが、御姿を見ました事を、主人に申まして差支えはございませんか。夫人 確(たしか)にお言いなさいまし。留守でなければ、いつでも居るから。図書 武士の面目に存じます――御免。雪洞(ぼんぼり)を取って静(しずか)に退座す。夫人長煙管(ながぎせる)を取って、払(はた)く音に、図書板敷にて一度留(とど)まり、直ちに階子(はしご)の口にて、燈(ともしび)を下に、壇に隠る。
鐘の音。
時に一体の大入道、面(つら)も法衣(ころも)も真黒(まっくろ)なるが、もの陰より甍(いらか)を渡り梢(こずえ)を伝うがごとくにして、舞台の片隅を伝い行(ゆ)き、花道なる切穴の口に踞(うずく)まる。
鐘の音。
図書、その切穴より立顕(たちあらわ)る。
夫人すっと座を立ち、正面、鼓の緒の欄干に立ち熟(じっ)と視(み)る時、図書、雪洞を翳(かざ)して高く天守を見返す、トタンに大入道さし覗(のぞ)きざまに雪洞をふっと消す。図書身構(みがまえ)す。大入道、大手を拡げてその前途(ゆくて)を遮る。
鐘の音。
侍女等、凜々(りり)しき扮装(いでたち)、揚幕より、懐剣、薙刀(なぎなた)を構えて出づ。図書扇子を抜持ち、大入道を払い、懐剣に身を躱(かわ)し、薙刀と丁(ちょう)と合わす。かくて一同を追込み、揚幕際に扇を揚げ、屹(きっ)と天守を仰ぐ。
鐘の音。
夫人、従容(しょうよう)として座に返る。図書、手探りつつもとの切穴を捜(さぐ)る。(間)その切穴に没す。しばらくして舞台なる以前の階子の口より出づ。猶予(ためら)わず夫人に近づき、手をつく。
夫人 (先んじて声を掛く。穏(おだやか)に)また見えたか。図書 はっ、夜陰と申し、再度御左右(おそう)を騒がせ、まことに恐入りました。夫人 何しに来ました。図書 御天守の三階中壇まで戻りますと、鳶(とび)ばかり大(おおき)さの、野衾(のぶすま)かと存じます、大蝙蝠(おおこうもり)の黒い翼に、燈(ともしび)を煽(あお)ぎ消されまして、いかにとも、進退度を失いましたにより、灯を頂きに参りました。夫人 ただそれだけの事に。……二度とおいででないと申した、私の言葉を忘れましたか。図書 針ばかり片割月(かたわれづき)の影もささず、下に向えば真の暗黒(やみ)。男が、足を踏みはずし、壇を転がり落ちまして、不具(かたわ)になどなりましては、生効(いきがい)もないと存じます。上を見れば五重のここより、幽(かすか)にお燈(あかり)がさしました。お咎(とが)めをもって生命をめさりょうとも、男といたし、階子から落ちて怪我(けが)をするよりはと存じ、御戒(おんいましめ)をも憚(はばか)らず推参いたしてございます。夫人 (莞爾(にっこり)と笑む)ああ、爽(さわや)かなお心、そして、貴方はお勇(いさま)しい。燈(あかり)を点(つ)けて上げましょうね。(座を寄す。)図書 いや、お手ずからは恐多い。私(わたくし)が。夫人 いえいえ、この燈(ともしび)は、明星、北斗星、竜の燈、玉の光もおなじこと、お前の手では、蝋燭(ろうそく)には点(つ)きません。図書 ははッ。(瞳を凝(こら)す。)夫人、世話めかしく、雪洞(ぼんぼり)の蝋を抜き、短檠(たんけい)の灯を移す。燭(しょく)をとって、熟(じっ)と図書の面(おもて)を視(み)る、恍惚(うっとり)とす。
夫人 (蝋燭を手にしたるまま)帰したくなくなった、もう帰すまいと私は思う。図書 ええ。夫人 貴方は、播磨が貴方に、切腹を申しつけたと言いました。それは何の罪でございます。図書 私(わたくし)が拳(こぶし)に据えました、殿様が日本一とて御秘蔵の、白い鷹を、このお天守へ逸(そら)しました、その越度(おちど)、その罪過でございます。夫人 何、鷹をそらした、その越度、その罪過、ああ人間というものは不思議な咎(とが)を被(おお)せるものだね。その鷹は貴方が勝手に鳥に合せたのではありますまい。天守の棟に、世にも美しい鳥を視(み)て、それが欲しさに、播磨守が、自分で貴方にいいつけて、勝手に自分でそらしたものを、貴方の罪にしますのかい。図書 主(しゅう)と家来でございます。仰せのまま生命(いのち)をさし出しますのが臣たる道でございます。夫人 その道は曲っていましょう。間違ったいいつけに従うのは、主人に間違った道を踏ませるのではありませんか。図書 けれども、鷹がそれました。夫人 ああ、主従とかは可恐(おそろ)しい。鷹とあの人間の生命(いのち)とを取(とり)かえるのでございますか。よしそれも、貴方が、貴方の過失(あやまち)なら、君と臣というもののそれが道なら仕方がない。けれども、播磨がさしずなら、それは播磨の過失というもの。第一、鷹を失ったのは、貴方ではありません。あれは私が取りました。図書 やあ、貴方が。夫人 まことに。図書 ええ、お怨(うら)み申上ぐる。(刀に手を掛く。)夫人 鷹は第一、誰のものだと思います。鷹には鷹の世界がある。露霜の清い林、朝嵐夕風の爽かな空があります。決して人間の持ちものではありません。諸侯(だいみょう)なんどというものが、思上った行過ぎな、あの、鷹を、ただ一人じめに自分のものと、つけ上りがしています。貴方はそうは思いませんか。図書 (沈思す、間)美しく、気高い、そして計り知られぬ威のある、姫君。――貴方にはお答が出来かねます。夫人 いえ、いえ、かどだてて言籠(いいこ)めるのではありません。私の申すことが、少しなりともお分りになりましたら、あのその筋道の分らない二三の丸、本丸、太閤丸(たいこうまる)、廓内(くるわうち)、御家中の世間へなど、もうお帰りなさいますな。白銀(しろがね)、黄金(こがね)、球、珊瑚(さんご)、千石万石の知行より、私が身を捧げます。腹を切らせる殿様のかわりに、私の心を差上げます、私の生命(いのち)を上げましょう。貴方お帰りなさいますな。図書 迷いました、姫君。殿に金鉄の我が心も、波打つばかり悩乱をいたします。が、決心が出来ません。私(わたくし)は親にも聞きたし、師にも教えられたし、書もつにも聞かねばなりません。お暇(いとま)を申上げます。夫人 (歎息す)ああ、まだ貴方は、世の中に未練がある。それではお帰りなさいまし。(この時蝋燭を雪洞に)はい。図書 途方に暮れつつ参ります。迷(まよい)の多い人間を、あわれとばかり思召せ。夫人 ああ、優しいそのお言葉で、なお帰したくなくなった。(袂(たもと)を取る。)図書 (屹(きっ)として袖を払う)強いて、たって、お帰しなくば、お抵抗(てむかい)をいたします。夫人 (微笑(ほほえ)み)あの私に。図書 おんでもない事。夫人 まあ、お勇ましい、凜(りり)々しい。あの、獅子に似た若いお方、お名が聞きたい。図書 夢のような仰せなれば、名のありなしも覚えませぬが、姫川図書之助と申します。夫人 可懐(なつかし)い、嬉しいお名、忘れません。図書 以後、お天守下(した)の往(ゆき)かいには、誓って礼拝をいたします。――御免。(衝(つっ)と立つ。)夫人 ああ、図書様、しばらく。図書 是非もない、所詮(しょせん)活(い)けてはお帰しない掟(おきて)なのでございますか。夫人 ほほほ、播磨守の家中とは違います。ここは私の心一つ、掟なぞは何にもない。図書 それを、お呼留め遊ばしたは。夫人 おはなむけがあるのでござんす。――人間は疑深い。卑怯(ひきょう)な、臆病(おくびょう)な、我儘(わがまま)な、殿様などはなおの事。貴方がこの五重へ上って、この私を認めたことを誰もほんとうにはせぬであろう。清い、爽かな貴方のために、記念(しるし)の品をあげましょう。(静(しずか)に以前の兜(かぶと)を取る)――これを、その記念(しるし)にお持ちなさいまし。図書 存じも寄らぬ御(おん)たまもの、姫君に向い、御辞退はかえって失礼。余り尊い、天晴(あっぱれ)な御兜(おんかぶと)。夫人 金銀は堆(うずたか)けれど、そんなにいい細工ではありません。しかし、武田には大切な道具。――貴方、見覚えがありますか。図書 (疑(うたがい)の目を凝(こら)しつつあり)まさかとは存ずるなり、私(わたくし)とても年に一度、虫干の外には拝しませぬが、ようも似ました、お家の重宝(ちょうほう)、青竜の御兜。夫人 まったく、それに違いありません。図書 (愕然(がくぜん)とす。急に)これにこそ足の爪立(つまだ)つばかり、心急ぎがいたします、御暇(おいとま)を申うけます。夫人 今度来ると帰しません。図書 誓って、――仰せまでもありません。夫人 さらば。図書 はっ。(兜を捧げ、やや急いで階子(はしご)に隠る。)夫人 (ひとりもの思い、机に頬杖(ほおづえ)つき、獅子にもの言う)貴方、あの方を――私(わたくし)に下さいまし。薄 (静に出づ)お前様。夫人 薄か。薄 立派な方でございます。夫人 今まで、あの人を知らなかった、目の及ばなかった私は恥かしいよ。薄 かねてのお望みに叶(かの)うた方を、何でお帰しなさいました。夫人 生命(いのち)が欲(ほし)い。抵抗(てむかい)をすると云うもの。薄 御一所に、ここにお置き遊ばすまで、何の、生命(いのち)をお取り遊ばすのではございませんのに。夫人 あの人たちの目から見ると、ここに居るのは活(い)きたものではないのだと思います。薄 それでは、貴方の御容色(ごきりょう)と、そのお力で、無理にもお引留めが可(よ)うございますのに。何の、抵抗(てむかい)をしました処で。夫人 いや、容色(きりょう)はこちらからは見せたくない。力で、人を強いるのは、播磨守なんぞの事、真(まこと)の恋は、心と心、……(軽く)薄や。薄 は。夫人 しかし、そうは云うものの、白鷹を据えた、鷹匠(たかじょう)だと申すよ。――縁だねえ。薄 きっと御縁がござりますよ。夫人 私もどうやら、そう思うよ。薄 奥様、いくら貴女のお言葉でも、これはちと痛入(いたみい)りました。夫人 私も痛入りました。薄 これはまた御挨拶でござります――あれ、何やら、御天守下が騒がしい。(立って欄干に出づ、遥(はるか)に下を覗込(のぞきこ)む)……まあ、御覧なさいまし。夫人 (座のまま)何だえ。薄 武士が大勢で、篝(かがり)を焚(た)いております。ああ、武田播磨守殿、御出張、床几(しょうぎ)に掛(かか)ってお控えだ。おぬるくて、のろい癖に、もの見高な、せっかちで、お天守見届けのお使いの帰るのを待兼ねて、推出(おしだ)したのでござります。もしえもしえ、図書様のお姿が小さく見えます。奥様、おたまじゃくしの真中(まんなか)で、御紋着(ごもんつき)の御紋も河骨(こうぼね)、すっきり花が咲いたような、水際立ってお美しい。……奥様。夫人 知らないよ。薄 おお、兜あらためがはじまりました。おや、吃驚(びっくり)した。あの、殿様の漆みたいな太い眉毛が、びくびくと動きますこと。先刻(さっき)の亀姫様のお土産の、兄弟の、あの首を見せたら、どうでございましょう。ああ、御家老が居ます。あの親仁(おやじ)も大分百姓を痛めて溜込(ためこ)みましたね。そのかわり頭が兀(は)げた。まあ、皆(みんな)が図書様を取巻いて、お手柄にあやかるのかしら。おや、追取刀(おっとりがたな)だ。何、何、何、まあ、まあ、奥様々々。夫人 もう可い。薄 ええ、もう可いではございません。図書様を賊だ、と言います。御秘蔵の兜を盗んだ謀逆人(むほんにん)、謀逆人、殿様のお首に手を掛けたも同然な逆賊でございますとさ。お庇(かげ)で兜が戻ったのに。――何てまあ、人間というものは。――あれ、捕手(とりて)が掛(かか)った。忠義と知行で、てむかいはなさらぬかしら。しめた、投げた、嬉しい。そこだ。御家老が肩衣(かたぎぬ)を撥(はね)ましたよ。大勢が抜連れた。あれ危い。豪(えら)い。図書様抜合せた。……一人腕が落ちた。あら、胴切(どうぎり)。また何も働かずとも可いことを、五両二人扶持(ににんぶち)らしいのが、あら、可哀相(かわいそう)に、首が飛びます。夫人 秀吉時分から、見馴(みな)れていながら、何だねえ、騒々しい。薄 騒がずにはいられません。多勢に一人、あら切抜けた、図書様がお天守に遁込(にげこ)みました。追掛けますよ。槍(やり)まで持出した。(欄干をするすると)図書様が、二重へ駈上(かけあが)っておいでなさいます。大勢が追詰めて。夫人 (片膝立つ)可(よ)し、お手伝い申せ。薄 お腰元衆、お腰元衆。――(呼びつつ忙(せわ)しく階子(はしご)を下り行く。)夫人、片手を掛けつつ几帳越に階子の方を瞰下(みおろ)す。
――や、や、や、――激しき人声、もの音、足蹈(あしぶみ)。――
図書、もとどりを放ち、衣服に血を浴ぶ。刀を振(ふる)って階子の口に、一度屹(きつ)と下を見込む。肩に波打ち、はっと息して□(どう)となる。
夫人 図書様。図書 (心づき、蹌踉(よろよろ)と、且つ呼吸(いき)せいて急いで寄る)姫君、お言葉をも顧みず、三度の推参をお許し下さい。私(わたくし)を賊……賊……謀逆人(むほんにん)、逆賊と申して。夫人 よく存じておりますよ。昨日今日、今までも、お互に友と呼んだ人たちが、いかに殿の仰せとて、手の裏を反(かえ)すように、ようまあ、あなたに刃(やいば)を向けます。図書 はい、微塵(みじん)も知らない罪のために、人間同志に殺されましては、おなじ人間、断念(あきら)められない。貴女(あなた)のお手に掛(かか)ります。――御禁制(ごきんぜい)を破りました、御約束を背きました、その罪に伏します。速(すみやか)に生命(いのち)をお取り下されたい。夫人 ええ、武士(さむらい)たちの夥間(なかま)ならば、貴方のお生命を取りましょう。私と一所には、いつまでもお活きなさいまし。図書 (急(せ)きつつ)お情(なさけ)余る、お言葉ながら、活きようとて、討手の奴儕(やつばら)、決して活かしておきません。早くお手に掛け下さいまし。貴女に生命を取らるれば、もうこの上のない本望、彼等に討たるるのは口惜(くちおし)い。(夫人の膝に手を掛く)さ、生命(いのち)を、生命を――こう云う中(うち)にも取詰めて参ります。夫人 いいえ、ここまでは来ますまい。図書 五重の、その壇、その階子を、鼠のごとく、上(あが)りつ下りついたしおる。……かねての風説、鬼神(おにがみ)より、魔よりも、ここを恐しと存じておるゆえ、いささか躊躇(ちゅうちょ)はいたしますが、既に、私(わたくし)の、かく参ったを、認めております。こう云う中にも、たった今。夫人 ああ、それもそう、何より前(さき)に、貴方をおかくまい申しておこう。(獅子頭を取る、母衣(ほろ)を開いて、図書の上に蔽(おお)いながら)この中へ……この中へ――図書 や、金城鉄壁。夫人 いいえ、柔い。図書 仰(おおせ)の通り、真綿よりも。夫人 そして、確(しっ)かり、私におつかまりなさいまし。図書 失礼御免。夫人の背(せな)よりその袖に縋(すが)る。縋る、と見えて、身体(からだ)その母衣の裾(すそ)なる方(かた)にかくる。獅子頭を捧げつつ、夫人の面(おもて)、なお母衣の外に見ゆ。
討手どやどやと入込(いりこ)み、と見てわっと一度退く時、夫人も母衣に隠る。ただ一頭青面の獅子猛然として舞台にあり。
討手。小田原修理(しゅり)、山隅九平(くへい)、その他。抜身(ぬきみ)の槍(やり)、刀。中には仰山に小具足をつけたるもあり。大勢。
九平 (雪洞(ぼんぼり)を寄す)やあ、怪(あや)しく、凄(すご)く、美しい、婦(おんな)の立姿と見えたはこれだ。修理 化(ばけ)るわ化るわ。御城の瑞兆(ずいちょう)、天人のごとき鶴を御覧あって、殿様、鷹を合せたまえば、鷹はそれて破蓑(やれみの)を投落す、……言語道断。九平 他(ほか)にない、姫川図書め、死(しに)ものぐるいに、確にそれなる獅子母衣に潜ったに相違なし。やあ、上意だ、逆賊出合(いであ)え。山隅九平向うたり。修理 待て、山隅、先方で潜った奴(やつ)だ。呼んだって出やしない。取って押え、引摺出(ひきずりだ)せ。九平 それ、面々。修理 気を着けい、うかつにかかると怪我をいたす。元来この青獅子(あおじし)が、並大抵のものではないのだ。伝え聞く。な、以前これは御城下はずれ、群鷺山(むらさぎやま)の地主神(じしゅじん)の宮に飾ってあった。二代以前の当城殿様、お鷹狩の馬上から――一人町里(まちさと)には思いも寄らぬ、都方(みやこがた)と見えて、世にも艶麗(あでやか)な女の、一行を颯(さっ)と避けて、その宮へかくれたのを――とろんこの目で御覧(ごろう)じたわ。此方(こなた)は鷹狩、もみじ山だが、いずれ戦(いくさ)に負けた国の、上□(じょうろう)、貴女、貴夫人たちの落人(おちうど)だろう。絶世の美女だ。しゃつ掴出(つかみいだ)いて奉れ、とある。御近習、宮の中へ闖入(ちんにゅう)し、人妻なればと、いなむを捕えて、手取足取しようとしたれば、舌を噛(か)んで真俯向(まうつむ)けに倒れて死んだ。その時にな、この獅子頭を熟(じっ)と視(み)て、あわれ獅子や、名誉の作かな。わらわにかばかりの力あらば、虎狼(とらおおかみ)の手にかかりはせじ、と吐(ほざ)いた、とな。続いて三年、毎年、秋の大洪水よ。何が、死骸(しがい)取片づけの山神主が見た、と申すには、獅子が頭(かしら)を逆(さかしま)にして、その婦(おんな)の血を舐(な)め舐め、目から涙を流いたというが触出(ふれだ)しでな。打続く洪水は、その婦(おんな)の怨(うらみ)だと、国中の是沙汰(これざた)だ。婦(おんな)が前髪にさしたのが、死ぬ時、髪をこぼれ落ちたというを拾って来て、近習が復命をした、白木に刻んだ三輪牡丹高彫(ぼたんたかぼり)のさし櫛(ぐし)をな、その時の馬上の殿様は、澄(すま)して袂(たもと)へお入れなさった。祟(たたり)を恐れぬ荒気の大名。おもしろい、水を出さば、天守の五重を浸(ひた)して見よ、とそれ、生捉(いけど)って来てな、ここへ打上げたその獅子頭だ。以来、奇異妖変(ようへん)さながら魔所のように沙汰する天守、まさかとは思うたが、目(ま)のあたり不思議を見るわ。――心してかかれ。九平 心得た、槍をつけろ。討手、槍にて立ちかかる。獅子狂う。討手辟易(へきえき)す。修理、九平等、抜連れ抜連れ一同立掛(たちかか)る。獅子狂う。また辟易す。
修理 木彫にも精がある。活(い)きた獣も同じ事だ。目を狙(ねら)え、目を狙え。九平、修理、力を合せて、一刀(ひとたち)ずつ目を傷(きずつ)く、獅子伏す。討手その頭(かしら)をおさう。
図書 (母衣(ほろ)を撥退(はねの)け刀を揮(ふる)って出づ。口々に罵(ののし)る討手と、一刀合すと斉(ひと)しく)ああ、目が見えない。(押倒され、取って伏せらる)無念。夫人 (獅子の頭をあげつつ、すっくと立つ。黒髪乱れて面(おもて)凄(すご)し。手に以前の生首の、もとどりを取って提ぐ)誰の首だ、お前たち、目のあるものは、よっく見よ。(どっしと投ぐ。)――討手わッと退き、修理、恐る恐るこれを拾う。
修理 南無三宝(なむさんぽう)。九平 殿様の首だ。播磨守様御首(みしるし)だ。修理 一大事とも言いようなし。御同役、お互に首はあるか。九平 可恐(おそろし)い魔ものだ。うかうかして、こんな処に居べきでない。討手一同、立つ足もなく、生首をかこいつつ、乱れて退く。
図書 姫君、どこにおいでなさいます。姫君。夫人、悄然(しょうぜん)として、立ちたるまま、もの言わず。
図書 (あわれに寂しく手探り)姫君、どこにおいでなさいます。私(わたくし)は目が見えなくなりました。姫君。夫人 (忍び泣きに泣く)貴方、私も目が見えなくなりました。図書 ええ。夫人 侍女(こしもと)たち、侍女たち。――せめては燈(あかり)を――――皆、盲目(めくら)になりました。誰も目が見えませんのでございます。――(口々に一同はっと泣く声、壁の彼方(かなた)に聞ゆ。)
夫人 (獅子頭とともにハタと崩折(くずお)る)獅子が両眼を傷つけられました。この精霊(しょうりょう)で活きましたものは、一人も見えなくなりました。図書様、……どこに。図書 姫君、どこに。さぐり寄りつつ、やがて手を触れ、はっと泣き、相抱(あいいだ)く。
夫人 何と申そうようもない。貴方お覚悟をなさいまし。今持たせてやった首も、天守を出れば消えましょう。討手は直ぐに引返して参ります。私一人は、雲に乗ります、風に飛びます、虹(にじ)の橋も渡ります。図書様には出来ません。ああ口惜(くやし)い。あれら討手のものの目に、蓑笠着ても天人の二人揃った姿を見せて、日の出、月の出、夕日影にも、おがませようと思ったのに、私の方が盲目になっては、ただお生命(いのち)さえ助けられない。堪忍して下さいまし。図書 くやみません! 姫君、あなたのお手に掛けて下さい。夫人 ええ、人手には掛けますまい。そのかわり私も生きてはおりません、お天守の塵(ちり)、煤(すす)ともなれ、落葉になって朽ちましょう。図書 やあ、何のために貴女が、美しい姫の、この世にながらえておわすを土産に、冥土(めいど)へ行(ゆ)くのでございます。夫人 いいえ、私も本望でございます、貴方のお手にかかるのが。図書 真実のお声か、姫君。夫人 ええ何の。――そうおっしゃる、お顔が見たい、ただ一目。……千歳(ちとせ)百歳(ももとせ)にただ一度、たった一度の恋だのに。図書 ああ、私(わたくし)も、もう一目、あの、気高い、美しいお顔が見たい。(相縋(あいすが)る。)夫人 前世も後世(ごせ)も要らないが、せめてこうして居とうござんす。図書 や、天守下で叫んでいる。夫人 (屹(きっ)となる)口惜(くや)しい、もう、せめて一時(いっとき)隙(ひま)があれば、夜叉ヶ池のお雪様、遠い猪苗代の妹分に、手伝を頼もうものを。図書 覚悟をしました。姫君、私(わたくし)を。……夫人 私は貴方に未練がある。いいえ、助けたい未練がある。図書 猶予をすると討手の奴(やつ)、人間なかまに屠(ほふ)られます、貴女が手に掛けて下さらずば、自分、我が手で。――(一刀を取直す。)夫人 切腹はいけません。ああ、是非もない。それでは私が御介錯(ごかいしゃく)、舌を噛切(かみき)ってあげましょう。それと一所に、胆(きも)のたばねを――この私の胸を一思いに。図書 せめてその、ものをおっしゃる、貴方の、ほのかな、口許(くちもと)だけも、見えたらばな。夫人 貴方の睫毛(まつげ)一筋なりと。(声を立ててともに泣く。)奥なる柱の中に、大音あり。――

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