朱日記
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著者名:泉鏡花 

       一

「小使(こづかい)、小ウ使。」
 程もあらせず、……廊下を急いで、もっとも授業中の遠慮、静(しずか)に教員控所の板戸の前へ敷居越に髯面(ひげづら)……というが頤(あご)頬(ほお)などに貯えたわけではない。不精で剃刀(かみそり)を当てないから、むじゃむじゃとして黒い。胡麻塩頭(ごましおあたま)で、眉の迫った渋色の真正面(まっしょうめん)を出したのは、苦虫と渾名(あだな)の古物(こぶつ)、但し人の好(い)い漢(おとこ)である。
「へい。」
 とただ云ったばかり、素気(そっけ)なく口を引結んで、真直(まっすぐ)に立っている。
「おお、源助か。」
 その職員室真中(まんなか)の大卓子(おおテエブル)、向側の椅子(いす)に凭(かか)った先生は、縞(しま)の布子(ぬのこ)、小倉(こくら)の袴(はかま)、羽織は袖(そで)に白墨摺(ずれ)のあるのを背後(うしろ)の壁に遣放(やりぱな)しに更紗(さらさ)の裏を捩(よじ)ってぶらり。髪の薄い天窓(あたま)を真俯向(まうつむ)けにして、土瓶やら、茶碗やら、解(とき)かけた風呂敷包、混雑(ごった)に職員のが散(ちら)ばったが、その控えた前だけ整然として、硯箱(すずりばこ)を右手(めて)へ引附け、一冊覚書らしいのを熟(じっ)と視(なが)めていたのが、抜上った額の広い、鼻のすっと隆(たか)い、髯の無い、頤(おとがい)の細い、眉のくっきりした顔を上げた、雑所(ざいしょ)という教頭心得(きょうとうこころえ)。何か落着かぬ色で、
「こっちへ入れ。」
 と胸を張って袴の膝へちゃんと手を置く。
 意味ありげな体(てい)なり。茶碗を洗え、土瓶に湯を注(さ)せ、では無さそうな処から、小使もその気構(きがまえ)で、卓子(テエブル)の角(かど)へ進んで、太い眉をもじゃもじゃと動かしながら、
「御用で?」
「何は、三右衛門(さんえもん)は。」と聞いた。
 これは背の抜群に高い、年紀(とし)は源助より大分少(わか)いが、仔細(しさい)も無かろう、けれども発心をしたように頭髪をすっぺりと剃附(そりつ)けた青道心(あおどうしん)の、いつも莞爾々々(にこにこ)した滑稽(おど)けた男で、やっぱり学校に居る、もう一人の小使である。
「同役(といつも云う、士(さむらい)の果(はて)か、仲間(ちゅうげん)の上りらしい。)は番でござりまして、唯今(ただいま)水瓶(みずがめ)へ水を汲込(くみこ)んでおりまするが。」
「水を汲込んで、水瓶へ……むむ、この風で。」
 と云う。閉込(しめこ)んだ硝子窓(がらすまど)がびりびりと鳴って、青空へ灰汁(あく)を湛(たた)えて、上から揺(ゆす)って沸立たせるような凄(すさ)まじい風が吹く。
 その窓を見向いた片頬(かたほ)に、颯(さっ)と砂埃(すなほこり)を捲(ま)く影がさして、雑所は眉を顰(ひそ)めた。
「この風が、……何か、風……が烈(はげ)しいから火の用心か。」
 と唐突(だしぬけ)に妙な事を言出した。が、成程、聞く方もその風なれば、さまで不思議とは思わぬ。
「いえ、かねてお諭しでもござりますし、不断十分に注意はしまするが、差当り、火の用心と申すではござりませぬ。……やがて、」
 と例の渋い顔で、横手の柱に掛(かか)ったボンボン時計を睨(にら)むようにじろり。ト十一時……ちょうど半。――小使の心持では、時間がもうちっと経(た)っていそうに思ったので、止まってはおらぬか、とさて瞻(みつ)めたもので。――風に紛れて針の音が全く聞えぬ。
 そう言えば、全校の二階、下階(した)、どの教場からも、声一つ、咳(しわぶき)半分響いて来ぬ、一日中、またこの正午(ひる)になる一時間ほど、寂寞(ひっそり)とするのは無い。――それは小児(こども)たちが一心不乱、目まじろぎもせずにお弁当の時を待構えて、無駄な足踏みもせぬからで。静(しずか)なほど、組々の、人一人の声も澄渡って手に取るようだし、広い職員室のこの時計のカチカチなどは、居ながら小使部屋でもよく聞えるのが例の処、ト瞻(みつ)めても針はソッとも響かぬ。羅馬数字(ロオマすうじ)も風の硝子窓のぶるぶると震うのに釣られて、波を揺(ゆす)って見える。が、分銅だけは、調子を違えず、とうんとうんと打つ――時計は止まったのではない。
「もう、これ午餉(おひる)になりまするで、生徒方が湯を呑みに、どやどやと見えますで。湯は沸(たぎ)らせましたが――いや、どの小児衆(こどもしゅ)も性急で、渇かし切ってござって、突然(いきなり)がぶりと喫(あが)りまするで、気を着けて進ぜませぬと、直きに火傷(やけど)を。」
「火傷を…うむ。」
 と長い顔を傾ける。

       二

「同役とも申合わせまする事で。」
 と対向(さしむか)いの、可なり年配のその先生さえ少(わか)く見えるくらい、老実な語(くち)。
「加減をして、うめて進ぜまする。その貴方様(あなたさま)、水をフト失念いたしましたから、精々(せっせ)と汲込んでおりまするが、何か、別して三右衛門(さんえむ)にお使でもござりますか、手前ではお間には合い兼ね……」
 と言懸けるのを、遮って、傾けたまま頭(かぶり)を掉(ふ)った。
「いや、三右衛門でなくってちょうど可(い)いのだ、あれは剽軽(ひょうきん)だからな。……源助、実は年上のお前を見掛けて、ちと話があるがな。」
 出方が出方で、源助は一倍まじりとする。
 先生も少し極(きま)って、
「もっとこれへ寄らんかい。」
 と椅子をかたり。卓子(テエブル)の隅を座取って、身体(からだ)を斜(はす)に、袴(はかま)をゆらりと踏開いて腰を落しつける。その前へ、小使はもっそり進む。
「卓子の向う前でも、砂埃(すなッぽこり)に掠(かす)れるようで、話がよく分らん、喋舌(しゃべ)るのに骨が折れる。ええん。」と咳(しわぶき)をする下から、煙草(たばこ)を填(つ)めて、吸口をト頬へ当てて、
「酷(ひど)い風だな。」
「はい、屋根も憂慮(きづか)われまする……この二三年と申しとうござりまするが、どうでござりましょうぞ。五月も半ば、と申すに、北風(ならい)のこう烈(はげ)しい事は、十年以来(このかた)にも、ついぞ覚えませぬ。いくら雪国でも、貴下様(あなたさま)、もうこれ布子から単衣(ひとえもの)と飛びまする処を、今日(こんにち)あたりはどういたして、また襯衣(しゃつ)に股引(ももひき)などを貴下様、下女の宿下り見まするように、古葛籠(ふるつづら)を引覆(ひっくりかえ)しますような事でござりまして、ちょっと戸外(おもて)へ出て御覧(ごろう)じませ。鼻も耳も吹切られそうで、何とも凌(しの)ぎ切れませんではござりますまいか。
 三右衛門なども、鼻の尖(さき)を真赤(まっか)に致して、えらい猿田彦(さるだひこ)にござります。はは。」
 と変哲もない愛想笑(あいそうわらい)。が、そう云う源助の鼻も赤し、これはいかな事、雑所先生の小鼻のあたりも紅(べに)が染(にじ)む。
「実際、厳(きびし)いな。」
 と卓子(テエブル)の上へ、煙管(きせる)を持ったまま長く露出(むきだ)した火鉢へ翳(かざ)した、鼠色の襯衣(しゃつ)の腕を、先生ぶるぶると震わすと、歯をくいしばって、引立(ひった)てるようにぐいと擡(もた)げて、床板へ火鉢をどさり。で、足を踏張(ふんば)り、両腕をずいと扱(しご)いて、
「御免を被(こうむ)れ、行儀も作法も云っちゃおられん、遠慮は不沙汰(ぶさた)だ。源助、当れ。」
「はい、同役とも相談をいたしまして、昨日(きのう)にも塞(ふさ)ごうと思いました、部屋(と溜(たまり)の事を云う)の炉(ろ)にまた噛(かじ)りつきますような次第にござります。」と中腰になって、鉄火箸(かなひばし)で炭を開(あら)けて、五徳を摺(ず)って引傾(ひっかた)がった銅の大薬鑵(おおやかん)の肌を、毛深い手の甲でむずと撫(な)でる。
「一杯沸(たぎ)ったのを注(さ)しましょうで、――やがてお弁当でござりましょう。貴下様組は、この時間御休憩で?」
「源助、その事だ。」
「はい。」
 と獅噛面(しかみづら)を後へ引込(ひっこ)めて目を据える。
 雑所は前のめりに俯向(うつむ)いて、一服吸った後を、口でふっふっと吹落して、雁首(がんくび)を取って返して、吸殻を丁寧に灰に突込(つっこ)み、
「閉込んでおいても風が揺(ゆす)って、吸殻一つも吹飛ばしそうでならん。危いよ、こんな日は。」
 とまた一つ灰を浴(あび)せた。瞳(ひとみ)を返して、壁の黒い、廊下を視(なが)め、
「可(い)い塩梅(あんばい)に、そっちからは吹通さんな。」
「でも、貴方様まるで野原でござります。お児達(こだち)の歩行(ある)いた跡は、平一面(たいらいちめん)の足跡でござりまするが。」
「むむ、まるで野原……」
 と陰気な顔をして、伸上って透かしながら、
「源助、時に、何、今小児(こども)を一人、少し都合があって、お前達の何だ、小使溜(こづかいだまり)へ遣(や)ったっけが、何は、……部屋に居るか。」
「居(お)りまするで、しょんぼりとしましてな。はい、……あの、嬢ちゃん坊ちゃんの事でござりましょう、部屋に居りますでございますよ。」

       三

「嬢ちゃん坊ちゃん。」
 と先生はちょっと口の裡(うち)で繰返したが、直ぐにその意味(こころ)を知って頷(うなず)いた。今年九歳(ここのつ)になる、校内第一の綺麗(きれい)な少年、宮浜浪吉といって、名まで優しい。色の白い、髪の美しいので、源助はじめ、嬢ちゃん坊ちゃん、と呼ぶのであろう?……
「しょんぼりしている。小使溜(こづかいだまり)に。」
「時ならぬ時分に、部屋へぼんやりと入って来て、お腹が痛むのかと言うて聞いたでござりますが、雑所先生が小使溜へ行っているように仰有(おっしゃ)ったとばかりで、悄(しお)れ返っておりまする。はてな、他(ほか)のものなら珍らしゅうござりませぬ。この児(こ)に限って、悪戯(いたずら)をして、課業中、席から追出されるような事はあるまいが、どうしたものじゃ。……寒いで、まあ、当りなさいと、炉の縁へ坐らせまして、手前も胡坐(あぐら)を掻(か)いて、火をほじりほじり、仔細(しさい)を聞きましても、何も言わずに、恍惚(うっとり)したように鬱込(ふさぎこ)みまして、あの可愛げに掻合(かきあわ)せた美しい襟に、白う、そのふっくらとした顋(あご)を附着(くッつ)けて、頻(しき)りとその懐中(ふところ)を覗込(のぞきこ)みますのを、じろじろ見ますと、浅葱(あさぎ)の襦袢(じゅばん)が開(はだ)けまするまで、艶々(つやつや)露も垂れるげな、紅(べに)を溶いて玉にしたようなものを、溢(こぼ)れまするほど、な、貴方様(あなたさま)。」
「むむそう。」
 と考えるようにして、雑所はまた頷く。
「手前、御存じの少々近視眼(ちかめ)で。それへこう、霞(かすみ)が掛(かか)りました工合(ぐあい)に、薄い綺麗な紙に包んで持っているのを、何か干菓子ででもあろうかと存じました処。」
「茱萸(ぐみ)だ。」と云って雑所は居直る。話がここへ運ぶのを待構えた体(てい)であった。
「で、ござりまするな。目覚める木の実で、いや、小児(こども)が夢中になるのも道理でござります。」と感心した様子に源助は云うのであった。
 青梅もまだ苦い頃、やがて、李(すもも)でも色づかぬ中(うち)は、実際苺(いちご)と聞けば、小蕪(こかぶ)のように干乾(ひから)びた青い葉を束ねて売る、黄色な実だ、と思っている、こうした雪国では、蒼空(あおぞら)の下に、白い日で暖く蒸す茱萸の実の、枝も撓々(たわわ)な処など、大人さえ、火の燃ゆるがごとく目に着くのである。
「家(うち)から持ってござったか。教場へ出て何の事じゃ、大方そのせいで雑所様に叱られたものであろう。まあ、大人しくしていなさい、とそう云うてやりまして、実は何でござります。……あの児(こ)のお詫(わび)を、と間を見ておりました処を、ちょうどお召でござりまして、……はい。何も小児でござります。日頃が日頃で、ついぞ世話を焼かした事の無い、評判の児でござりまするから、今日(こんにち)の処は、源助、あの児になりかわりまして御訴訟。はい、気が小さいかいたして、口も利けずに、とぼんとして、可哀(かわい)や、病気にでもなりそうに見えまするがい。」と揉手(もみで)をする。
「どうだい、吹く事は。酷(ひど)いぞ。」
 と窓と一所に、肩をぶるぶると揺(ゆす)って、卓子(テエブル)の上へ煙管(きせる)を棄(す)てた。
「源助。」
 と再度更(あらたま)って、
「小児(こども)が懐中(ふところ)の果物なんか、袂(たもと)へ入れさせれば済む事よ。
 どうも変に、気に懸(かか)る事があってな、小児どころか、お互に、大人が、とぼんとならなければ可(い)いが、と思うんだ。
 昨日夢を見た。」
 と注(つ)いで置きの茶碗に残った、冷(つめた)い茶をがぶりと飲んで、
「昨日な、……昨夜(ゆうべ)とは言わん。が、昼寝をしていて見たのじゃない。日の暮れようという、そちこち、暗くなった山道だ。」
「山道の夢でござりまするな。」
「否(や)、実際山を歩行(ある)いたんだ。それ、日曜さ、昨日は――源助、お前は自(おのず)から得ている。私は本と首引(くびッぴ)きだが、本草(ほんぞう)が好物でな、知ってる通り。で、昨日ちと山を奥まで入った。つい浮々(うかうか)と谷々へ釣込まれて。
 こりゃ途中で暗くならなければ可(い)いが、と山の陰がちと憂慮(きづか)われるような日ざしになった。それから急いで引返したのよ。」

       四

「山時分じゃないから人ッ子に逢(あ)わず。また茸狩(たけがり)にだって、あんなに奥まで行(ゆ)くものはない。随分路(みち)でもない処を潜ったからな。三ツばかり谷へ下りては攀上(よじのぼ)り、下りては攀上りした時は、ちと心細くなった。昨夜(ゆうべ)は野宿かと思ったぞ。
 でもな、秋とは違って、日の入(いり)が遅いから、まあ、可(よ)かった。やっと旧道に繞(めぐ)って出たのよ。
 今日とは違った嘘のような上天気で、風なんか薬にしたくもなかったが、薄着で出たから晩方は寒い。それでも汗の出るまで、脚絆掛(きゃはんがけ)で、すたすた来ると、幽(かすか)に城が見えて来た。城の方にな、可厭(いや)な色の雲が出ていたには出ていたよ――この風になったんだろう。
 その内に、物見の松の梢(こずえ)の尖(さき)が目に着いた。もう目の前の峰を越すと、あの見霽(みはら)しの丘へ出る。……後は一雪崩(ひとなだれ)にずるずると屋敷町の私の内へ、辷(すべ)り込まれるんだ、と吻(ほっ)と息をした。ところがまた、知ってる通り、あの一町場(ひとちょうば)が、一方谷、一方覆被(おっかぶ)さった雑木林で、妙に真昼間(まっぴるま)も薄暗い、可厭(いや)な処じゃないか。」
「名代(なだい)な魔所でござります。」
「何か知らんが。」
 と両手で頤(あご)を扱(しご)くと、げっそり瘠(や)せたような顔色(かおつき)で、
「一(ひと)ッきり、洞穴(ほらあな)を潜(くぐ)るようで、それまで、ちらちら城下が見えた、大川の細い靄(もや)も、大橋の小さな灯も、何も見えぬ。
 ざわざわざわざわと音がする。……樹の枝じゃ無い、右のな、その崖(がけ)の中腹ぐらいな処を、熊笹(くまざさ)の上へむくむくと赤いものが湧(わ)いて出た。幾疋(いくひき)となく、やがて五六十、夕焼がそこいらを胡乱(うろ)つくように……皆(みんな)猿だ。
 丘の隅にゃ、荒れたが、それ山王(さんのう)の社(やしろ)がある。時々山奥から猿が出て来るという処だから、その数の多いにはぎょっとしたが――別に猿というに驚くこともなし、また猿の面(つら)の赤いのに不思議はないがな、源助。
 どれもこれも、どうだ、その総身の毛が真赤(まっか)だろう。
 しかも数が、そこへ来た五六十疋という、そればかりじゃない。後へ後へと群(むらが)り続いて、裏山の峰へ尾を曳(ひ)いて、遥(はる)かに高い処から、赤い滝を落し懸けたのが、岩に潜(くぐ)ってまた流れる、その末の開いた処が、目の下に見える数よ。最も遠くの方は中絶えして、一ツ二ツずつ続いたんだが、限りが知れん、幾百居るか。
 で、何の事はない、虫眼鏡で赤蟻(あかあり)の行列を山へ投懸けて視(なが)めるようだ。それが一ツも鳴かず、静まり返って、さっさっさっと動く、熊笹がざわつくばかりだ。
 夢だろう、夢でなくって。夢だと思って、源助、まあ、聞け。……実は夢じゃないんだが、現在見たと云ってもほんとにはしまい。」
 源助はこれを聞くと、いよいよ渋って、頤(あご)の毛をすくすくと立てた。
「はあ。」
 と息を内へ引きながら、
「随分、ほんとうにいたします。場所がらでござりまするで。雑所様、なかなか源助は疑いませぬ。」
「疑わん、ほんとに思う。そこでだ、源助、ついでにもう一ツほんとにしてもらいたい事がある。
 そこへな、背後(うしろ)の、暗い路をすっと来て、私に、ト並んだと思う内に、大跨(おおまた)に前へ抜越(ぬけこ)したものがある。……
 山遊びの時分には、女も駕籠(かご)も通る。狭くはないから、肩摺(かたず)れるほどではないが、まざまざと足が並んで、はっと不意に、こっちが立停(たちど)まる処を、抜けた。
 下闇(したやみ)ながら――こっちももう、僅(わず)かの処だけれど、赤い猿が夥(おびただ)しいので、人恋しい。
 で透かして見ると、判然(はっきり)とよく分った。
 それも夢かな、源助、暗いのに。――
 裸体(はだか)に赤合羽(あかがっぱ)を着た、大きな坊主だ。」
「へい。」と源助は声を詰めた。
「真黒(まっくろ)な円い天窓(あたま)を露出(むきだし)でな、耳元を離した処へ、その赤合羽の袖を鯱子張(しゃちこば)らせる形に、大(おおき)な肱(ひじ)を、ト鍵形(かぎなり)に曲げて、柄の短い赤い旗を飜々(ひらひら)と見せて、しゃんと構えて、ずんずん通る。……
 旗(はた)は真赤(まっか)に宙を煽(あお)つ。
 まさかとは思う……ことにその言った通り人恋しい折からなり、対手(あいて)の僧形(そうぎょう)にも何分(なにぶん)か気が許されて、
(御坊、御坊。)
 と二声ほど背後(うしろ)で呼んだ。」

       五

「物凄(ものすご)さも前(さき)に立つ。さあ、呼んだつもりの自分の声が、口へ出たか出んか分らないが、一も二もない、呼んだと思うと振向いた。
 顔は覚えぬが、頤(あご)も額も赤いように思った。
(どちらへ?)
 と直ぐに聞いた。
 ト竹を破(わ)るような声で、
(城下を焼きに参るのじゃ。)と言う。ぬいと出て脚許(あしもと)へ、五つ六つの猿が届いた。赤い雲を捲(ま)いたようにな、源助。」
「…………」小使は口も利かず。
「その時、旗を衝(つ)と上げて、
(物見からちと見物なされ。)と云うと、上げたその旗を横に、飜然(ひらり)と返して、指したと思えば、峰に並んだ向うの丘の、松の梢(こずえ)へ颯(さっ)と飛移ったかと思う、旗の煽(あお)つような火が松明(たいまつ)を投附けたように※(ぱっ)[#「火+發」、463-5]と燃え上る。顔も真赤(まっか)に一面の火になったが、遥(はる)かに小さく、ちらちらと、ただやっぱり物見の松の梢の処に、丁子頭(ちょうじがしら)が揺れるように見て、気が静(しずま)ると、坊主も猿も影も無い。赤い旗も、花火が落ちる状(さま)になくなったんだ。
 小児(こども)が転んで泣くようだ、他愛がないじゃないか。さてそうなってから、急に我ながら、世にも怯(おび)えた声を出して、
(わっ。)と云ってな、三反ばかり山路(やまみち)の方へ宙を飛んで遁出(にげだ)したと思え。
 はじめて夢が覚めた気になって、寒いぞ、今度は。がちがち震えながら、傍目(わきめ)も触(ふ)らず、坊主が立ったと思う処は爪立足(つまだちあし)をして、それから、お前、前の峰を引掻(ひっか)くように駆上(かけあが)って、……ましぐらにまた摺落(ずりお)ちて、見霽(みはら)しへ出ると、どうだ。夜が明けたように広々として、崖のはずれから高い処を、乗出して、城下を一人で、月の客と澄まして視(なが)めている物見の松の、ちょうど、赤い旗が飛移った、と、今見る処に、五日頃の月が出て蒼白(あおじろ)い中に、松の樹はお前、大蟹(おおがに)が海松房(みるぶさ)を引被(ひっかず)いて山へ這出(はいで)た形に、しっとりと濡れて薄靄(うすもや)が絡(まと)っている。遥かに下だが、私の町内と思うあたりを……場末で遅廻りの豆腐屋の声が、幽(かすか)に聞えようというのじゃないか。
 話にならん。いやしくも小児(こども)を預って教育の手伝もしようというものが、まるで狐に魅(つま)まれたような気持で、……家内にさえ、話も出来ん。
 帰って湯に入って、寝たが、綿(わた)のように疲れていながら、何か、それでも寝苦(ねぐるし)くって時々早鐘を撞(つ)くような音が聞えて、吃驚(びっくり)して目が覚める、と寝汗でぐっちょり、それも半分は夢心地さ。
 明方からこの風さな。」
「正寅(しょうとら)の刻からでござりました、海嘯(つなみ)のように、どっと一時(いっとき)に吹出しましたに因って存じておりまする。」と源助の言(ことば)つき、あたかも口上。何か、恐入っている体(てい)がある。
「夜があけると、この砂煙(すなけぶり)。でも人間、雲霧を払った気持だ。そして、赤合羽の坊主の形もちらつかぬ。やがて忘れてな、八時、九時、十時と何事もなく課業を済まして、この十一時が読本(とくほん)の課目なんだ。
 な、源助。
 授業に掛(かか)って、読出した処が、怪訝(おかし)い。消火器の説明がしてある、火事に対する種々(いろいろ)の設備のな。しかしもうそれさえ気にならずに業をはじめて、ものの十分も経(た)ったと思うと、入口の扉を開けて、ふらりと、あの児(こ)が入って来たんだ。」
「へい、嬢ちゃん坊ちゃんが。」
「そう。宮浜がな。おや、と思った。あの児は、それ、墨の中に雪だから一番目に着く。……朝、一二時間ともちゃんと席に着いて授業を受けたんだ。――この硝子窓(がらすまど)の並びの、運動場のやっぱり窓際に席があって、……もっとも二人並んだ内側の方だが。さっぱり気が着かずにいた。……成程、その席が一ツ穴になっている。
 また、箸(はし)の倒れた事でも、沸返(にえかえ)って騒立つ連中が、一人それまで居なかったのを、誰もいッつけ口をしなかったも怪(あやし)いよ。
 ふらりと廊下から、時ならない授業中に入って来たので、さすがに、わっと動揺(どよ)めいたが、その音も戸外(おもて)の風に吹攫(ふきさら)われて、どっと遠くへ、山へ打(ぶ)つかるように持って行(ゆ)かれる。口や目ばかり、ばらばらと、動いて、騒いで、小児等(こどもら)の声は幽(かすか)に響いた。……」

       六

「私(わし)も不意だから、変に気を抜かれたようになって、とぼんと、あの可愛らしい綺麗な児(こ)を見たよ。
 密(そっ)と椅子の傍(そば)へ来て、愛嬌(あいきょう)づいた莞爾(にっこり)した顔をして、
(先生、姉さんが。)
 と云う。――姉さんが来て、今日は火が燃える、大火事があって危ないから、早仕舞(はやじまい)にしてお帰りなさい。先生にそうお願いして、と言いますから……家(うち)へ帰らして下さい、と云うんです。含羞(はにか)む児だから、小さな声して。
 風はこれだ。
 聞えないで僥倖(さいわい)。ちょっとでも生徒の耳に入ろうものなら、壁を打抜(ぶちぬ)く騒動だろう。
 もうな、火事と、聞くと頭から、ぐらぐらと胸へ響いた。
 騒がぬ顔して、皆(みんな)には、宮浜が急に病気になったから今手当をして来る。かねて言う通り静(しずか)にしているように、と言聞かしておいて、精々落着いて、まず、あの児をこの控所へ連れ出して来たんだ。
 処で、気を静めて、と思うが、何分、この風が、時々、かっと赤くなったり、黒くなったりする。な源助どうだ。こりゃ。」
 と云う時、言葉が途切れた。二人とも目を据えて瞻(みまも)るばかり、一時(ひとしきり)、屋根を取って挫(ひし)ぐがごとく吹き撲(なぐ)る。
「気が騒いでならんが。」
 と雑所は、しっかと腕組をして、椅子の凭(かか)りに、背中を摺着(すりつ)けるばかり、びたりと構えて、
「よく、宮浜に聞いた処が、本人にも何だか分らん、姉さんというのが見知らぬ女で、何も自分の姉という意味では無いとよ。
 はじめて逢ったのかと、尋ねる、とそうではない。この七日(なぬか)ばかり前だそうだ。
 授業が済んで帰るとなる、大勢列を造って、それな、門まで出る。足並を正さして、私が一二と送り出す……
 すると、この頃塗直した、あの蒼(あお)い門の柱の裏に、袖口を口へ当てて、小児(こども)の事で形は知らん。頭髪(かみ)の房々とあるのが、美しい水晶のような目を、こう、俯目(ふしめ)ながら清(すず)しゅう□(みは)って、列を一人一人見遁(みのが)すまいとするようだっけ。
 物見の松はここからも見える……雲のようなはそればかりで、よくよく晴れた暖い日だったと云う……この十四五日、お天気続きだ。
 私も、毎日門外まで一同を連出すんだが、七日前にも二日こっちも、ついぞ、そんな娘を見掛けた事はない。しかもお前、その娘が、ちらちらと白い指でめんない千鳥をするように、手招きで引着けるから、うっかり列を抜けて、その傍(そば)へ寄ったそうよ。それを私は何も知らん。
(宮浜の浪ちゃんだねえ。)
 とこの国じゃない、本で読むような言(ことば)で聞くとさ。頷(うなず)くと、
(好(い)いものを上げますから私と一所に、さあ、行(ゆ)きましょう、皆(みんな)に構わないで。)
 と、私等を構わぬ分に扱ったは酷(ひど)い! なあ、源助。
 で、手を取られるから、ついて行(ゆ)くと、どこか、学校からさまで遠くはなかったそうだ。荒れには荒れたが、大きな背戸へ裏木戸から連込んで、茱萸(ぐみ)の樹の林のような中へ連れて入った。目の□(ふち)も赤らむまで、ほかほかとしたと云う。で、自分にも取れば、あの児にも取らせて、そして言う事が妙ではないか。
(沢山(たんと)お食(あが)んなさいよ。皆(みんな)、貴下(あなた)の阿母(おっか)さんのような美しい血になるから。)
 と言ったんだそうだ。土産にもくれた。帰って誰が下すった、と父(おやじ)にそう言いましょうと、聞くと、
(貴下のお亡(なく)なんなすった阿母(おっかさん)のお友だちです。)
 と言ったってな。あの児の母親はなくなった筈(はず)だ。
 が、ここまではとにかく無事だ、源助。
 その婦人が、今朝また、この学校へ来たんだとな。」
 源助は、びくりとして退(さが)る。
「今度は運動場。で、十時の算術が済んだ放課の時だ。風にもめげずに皆(みんな)駆出すが、ああいう児だから、一人で、それでも遊戯さな……石盤へこう姉様(あねさま)の顔を描(か)いていると、硝子戸越(がらすどごし)に……夢にも忘れない……その美しい顔を見せて、外へ出るよう目で教える……一度逢ったばかりだけれども、小児は一目顔を見ると、もうその心が通じたそうよ。」

       七

「宮浜はな、今日は、その婦人が紅(あか)い木(こ)の実の簪(かんざし)を挿していた、やっぱり茱萸(ぐみ)だろうと云うが、果物の簪は無かろう……小児(こども)の目だもの、珊瑚(さんご)かも知れん。
 そんな事はとにかくだ。
 直ぐに、嬉々(いそいそ)と廊下から大廻りに、ちょうど自分の席の窓の外。その婦人の待っている処へ出ると、それ、散々に吹散らされながら、小児が一杯、ふらふらしているだろう。
 源助、それ、近々に学校で――やがて暑さにはなるし――余り青苔(あおごけ)が生えて、石垣も崩れたというので、井戸側(いどがわ)を取替えるに、石の大輪(おおわ)が門の内にあったのを、小児だちが悪戯(いたずら)に庭へ転がし出したのがある。――あれだ。
 大人なら知らず、円くて辷(すべ)るにせい、小児が三人や五人ではちょっと動かぬ。そいつだが、婦人が、あの児(こ)を連れて、すっと通ると、むくりと脈を打ったように見えて、ころころと芝の上を斜違(はすっか)いに転がり出した。
(やあい、井戸側が風で飛ばい。)か、何か、哄(どっ)と吶喊(とき)を上げて、小児が皆(みんな)それを追懸けて、一団(ひとかたまり)に黒くなって駆出すと、その反対の方へ、誰にも見着けられないで、澄まして、すっと行ったと云うが、どうだ、これも変だろう。
 横手の土塀際の、あの棕櫚(しゅろ)の樹の、ばらばらと葉が鳴る蔭へ入って、黙って背(せなか)を撫(な)でなぞしてな。
 そこで言聞かされたと云うんだ。
(今に火事がありますから、早く家(うち)へお帰んなさい、先生にそう云って。でも学校の教師さん、そんな事がありますかッて肯(き)きなさらないかも知れません。黙ってずんずん帰って可(よ)うござんす。怪我(けが)には替えられません。けれども、後で叱られると不可(いけ)ませんから、なりたけお許しをうけてからになさいましよ。
 時刻はまだ大丈夫だとは思いますが、そんな、こんなで帰りが遅れて、途中、もしもの事があったら、これをめしあがれよ。そうすると烟(けむ)に捲(ま)かれませんから。)
 とそう云ってな。……そこで、袂(たもと)から紙包みのを出して懐中(ふところ)へ入れて、圧(おさ)えて、こう抱寄せるようにして、そして襟を掻合(かきあわ)せてくれたのが、その茱萸(ぐみ)なんだ。
(私がついていられると可(い)いんだけれど、姉さんは、今日は大事な日ですから。)
 と云う中(うち)にも、風のなぐれで、すっと黒髪を吹いて、まるで顔が隠れるまで、むらむらと懸(かか)る、と黒雲が走るようで、はらりと吹分ける、と月が出たように白い頬が見えたと云う……
 けれども、見えもせぬ火事があると、そんな事は先生には言憎(いいにく)い、と宮浜が頭(かぶり)を振ったそうだ。
(では、浪ちゃんは、教師さんのおっしゃる事と、私の言う事と、どっちをほんとうだと思います。――)
 こりゃ小児(こども)に返事が出来なかったそうだが、そうだろう……なあ、無理はない、源助。
(先生のお言(ことば)に嘘はありません。けれども私の言う事はほんとうです……今度の火事も私の気でどうにもなる。――私があるものに身を任せれば、火は燃えません。そのものが、思(おもい)の叶(かな)わない仇(あだ)に、私が心一つから、沢山の家も、人も、なくなるように面当(つらあ)てにしますんだから。
 まあ、これだって、浪ちゃんが先生にお聞きなされば、自分の身体(からだ)はどうなってなりとも、人も家も焼けないようにするのが道だ、とおっしゃるでしょう。
 殿方の生命(いのち)は知らず、女の操というものは、人にも家にもかえられぬ。……と私はそう思うんです。そう私が思う上は、火事がなければなりません。今云う通り、私へ面当てに焼くのだから。
 まだ私たち女の心は、貴下(あなた)の年では得心が行(ゆ)かないで、やっぱり先生がおっしゃるように、我身を棄てても、人を救うが道理のように思うでしょう。
 いいえ、違います……殿方の生命は知らず。)
 と繰返して、
(女の操というものは。)と熟(じっ)と顔を凝視(みつ)めながら、
(人にも家にも代えられない、と浪ちゃん忘れないでおいでなさい。今に分ります……紅(あか)い木の実を沢山(たんと)食べて、血の美しく綺麗な児(こ)には、そのかわり、火の粉も桜の露となって、美しく降るばかりですよ。さ、いらっしゃい、早く。気を着けて、私の身体(からだ)も大切な日ですから。)
 と云う中(うち)にも、裾(すそ)も袂も取って、空へ頭髪(かみ)ながら吹上げそうだったってな。これだ、源助、窓硝子(まどがらす)が波を打つ、あれ見い。」

       八

 雑所先生は一息吐(つ)いて、
「私が問うのに答えてな、あの宮浜はかねて記憶の可(い)い処を、母のない児(こ)だ。――優しい人の言う事は、よくよく身に染みて覚えたと見えて、まるで口移しに諳誦(あんしょう)をするようにここで私に告げたんだ。が、一々、ぞくぞく膚(はだ)に粟(あわ)が立った。けれども、その婦人の言う、謎のような事は分らん。
 そりゃ分らんが、しかし詮(せん)ずるに火事がある一条だ。
(まるで嘘とも思わんが、全く事実じゃなかろう、ともかく、小使溜(こづかいだまり)へ行って落着いていなさい、ちっと熱もある。)
 額を撫(な)でて見ると熱いから、そこで、あの児をそららへ遣(や)ってよ。
 さあ、気になるのは昨夜(ゆうべ)の山道の一件だ。……赤い猿、赤い旗な、赤合羽を着た黒坊主よ。」
「緋(ひ)、緋の法衣(ころも)を着たでござります、赤合羽ではござりません。魔、魔の人でござりますが。」とガタガタ胴震いをしながら、躾(たしな)めるように言う。
「さあ、何か分らぬが、あの、雪に折れる竹のように、バシリとした声して……何と云った。
(城下を焼きに参るのじゃ。)
 源助、宮浜の児を遣ったあとで、天窓(あたま)を引抱(ひっかか)えて、こう、風の音を忘れるように沈(じっ)と考えると、ひょい、と火を磨(す)るばかりに、目に赤く映ったのが、これなんだ。」
 と両手で控帳の端を取って、斜めに見せると、楷書(かいしょ)で細字(さいじ)に認(したた)めたのが、輝くごとく、もそりと出した源助の顔に赫(か)ッと照って見えたのは、朱で濃く、一面の文字(もんじ)である。
「へい。」
「な、何からはじまった事だか知らんが、ちょうど一週間前から、ふと朱でもって書き続けた、こりゃ学校での、私の日記だ。
 昨日(きのう)は日曜で抜けている。一週間。」
 と颯(さっ)と紙が刎(は)ねて、小口をばらばらと繰返すと、戸外(おもて)の風の渦巻に、一ちぎれの赤い雲が卓子(テエブル)を飛ぶ気勢(けはい)する。
「この前の時間にも、(暴風)に書いて消して(烈風)をまた消して(颶風(ぐふう))なり、と書いた、やっぱり朱で、見な……
 しかも変な事には、何を狼狽(うろたえ)たか、一枚半だけ、罫紙(けいし)で残して、明日の分を、ここへ、これ(火曜)としたぜ。」
 と指す指が、ひッつりのように、びくりとした。
「読本が火の処……源助、どう思う。他(ほか)の先生方は皆(みん)な私より偉いには偉いが年下だ。校長さんもずッとお少(わか)い。
 こんな相談は、故老(ころう)に限ると思って呼んだ。どうだろう。万一の事があるとなら、あえて宮浜の児一人でない。……どれも大事な小児(こども)たち――その過失(あやまち)で、私が学校を止(や)めるまでも、地□(じだんだ)を踏んでなりと直ぐに生徒を帰したい。が、何でもない事のようで、これがまた一大事だ。いやしくも父兄が信頼して、子弟の教育を委(ゆだ)ねる学校の分として、婦(おんな)、小児(こども)や、茱萸(ぐみ)ぐらいの事で、臨時休業は沙汰(さた)の限りだ。
 私一人の間抜(まぬけ)で済まん。
 第一そような迷信は、任(にん)として、私等が破って棄ててやらなけりゃならんのだろう。そうかッてな、もしやの事があるとすると、何より恐ろしいのはこの風だよ。ジャンと来て見ろ、全市瓦(かわら)は数えるほど、板葺屋根(いたぶきやね)が半月の上も照込んで、焚附(たきつけ)同様。――何と私等が高台の町では、時ならぬ水切(みずぎれ)がしていようという場合ではないか。土の底まで焼抜(やきぬ)けるぞ。小児たちが無事に家へ帰るのは十人に一人もむずかしい。
 思案に余った、源助。気が気でないのは、時が後(おく)れて驚破(すわ)と言ったら、赤い実を吸え、と言ったは心細い――一時半時(いっときはんじ)を争うんだ。もし、ひょんな事があるとすると――どう思う、どう思う、源助、考慮(かんがえ)は。」
「尋常(ただ)、尋常ごとではござりません。」と、かッと卓子(テエブル)に拳(こぶし)を掴(つか)んで、
「城下の家の、寿命が来たんでござりましょう、争われぬ、争われぬ。」
 と半分目を眠って、盲目(めくら)がするように、白眼(しろまなこ)で首を据えて、天井を恐ろしげに視(なが)めながら、
「ものはあるげにござりまして……旧藩頃の先主人が、夜学の端に承わります。昔その唐(から)の都の大道を、一時(あるとき)、その何でござりまして、怪しげな道人が、髪を捌(さば)いて、何と、骨だらけな蒼(あお)い胸を岸破々々(がばがば)と開けました真中(まんなか)へ、人(ひ)、人(ひと)という字を書いたのを掻開(かっぱだ)けて往来中駆廻ったげでござります。いつかも同役にも話した事でござりまするが、何の事か分りません。唐の都でも、皆(みん)なが不思議がっておりますると、その日から三日目に、年代記にもないほどな大火事が起りまして。」
「源助、源助。」
 と雑所大きに急(せ)いて、
「何だ、それは。胸へ人という字を書いたのは。」とかかる折から、自分で考えるのがまだるこしそうであった。
「へい、まあ、ちょいとした処、早いが可(よ)うございます。ここへ、人と書いて御覧じゃりまし。」
 風の、その慌(あわただ)しい中でも、対手(あいて)が教頭心得の先生だけ、もの問(とわ)れた心の矜(ほこり)に、話を咲せたい源助が、薄汚れた襯衣(しゃつ)の鈕(ぼたん)をはずして、ひくひくとした胸を出す。
 雑所も急心(せきごころ)に、ものをも言わず有合わせた朱筆(しゅふで)を取って、乳を分けて朱(あか)い人。と引かれて、カチカチと、何か、歯をくいしめて堪(こら)えたが、突込む筆の朱が刎(は)ねて、勢(いきおい)で、ぱっと胸毛に懸(かか)ると、火を曳(ひ)くように毛が動いた。
「あ熱々(つつ)!」
 と唐突(だしぬけ)に躍り上って、とんと尻餅を支(つ)くと、血声を絞って、
「火事だ! 同役、三右衛門、火事だ。」と喚(わめ)く。
「何だ。」
 と、雑所も棒立ちになったが、物狂わしげに、
「なぜ、投げる。なぜ茱萸(ぐみ)を投附ける。宮浜。」
 と声を揚げた。廊下をばらばらと赤く飛ぶのを、浪吉が茱萸を擲(なげう)つと一目見たのは、矢を射るごとく窓硝子(まどがらす)を映(さ)す火の粉であった。
 途端に十二時、鈴(りん)を打つのが、ブンブンと風に響くや、一つずつ十二ヶ所、一時に起る摺半鉦(すりばん)、早鐘。
 早や廊下にも烟(けむり)が入って、暗い中から火の空を透かすと、学校の蒼(あお)い門が、真紫に物凄(ものすご)い。
 この日の大火は、物見の松と差向う、市の高台の野にあった、本願寺末寺の巨刹(おおでら)の本堂床下から炎を上げた怪し火で、ただ三時(みとき)が間に市の約全部を焼払った。
 烟は風よりも疾(と)く、火は鳥よりも迅(はや)く飛んだ。
 人畜の死傷少からず。
 火事の最中、雑所先生、袴(はかま)の股立(ももだち)を、高く取ったは効々(かいがい)しいが、羽織も着ず……布子の片袖引断(ひっちぎ)れたなりで、足袋跣足(たびはだし)で、据眼(すえまなこ)の面(おもて)藍(あい)のごとく、火と烟の走る大道を、蹌踉(ひょろひょろ)と歩行(ある)いていた。
 屋根から屋根へ、――樹の梢(こずえ)から、二階三階が黒烟りに漾(ただよ)う上へ、飜々(ひらひら)と千鳥に飛交う、真赤(まっか)な猿の数を、行(ゆ)く行く幾度も見た。
 足許(あしもと)には、人も車も倒れている。
 とある十字街へ懸(かか)った時、横からひょこりと出て、斜(はす)に曲り角へ切れて行(ゆ)く、昨夜(ゆうべ)の坊主に逢った。同じ裸に、赤合羽を着たが、こればかりは風をも踏固めて通るように確(しか)とした足取であった。
 が、赤旗を捲(ま)いて、袖へ抱くようにして、いささか逡巡(しゅんじゅん)の体(てい)して、
「焼け過ぎる、これは、焼け過ぎる。」
 と口の裡(うち)で呟(つぶや)いた、と思うともう見えぬ。顔を見られたら、雑所は灰になろう。
 垣も、隔ても、跡はないが、倒れた石燈籠(いしどうろう)の大(おおき)なのがある。何某(なにがし)の邸(やしき)の庭らしい中へ、烟に追われて入ると、枯木に夕焼のしたような、火の幹、火の枝になった大樹の下(もと)に、小さな足を投出して、横坐りになった、浪吉の無事な姿を見た。
 学校は、便宜に隊を組んで避難したが、皆ちりちりになったのである。
 と見ると、恍惚(うっとり)した美しい顔を仰向けて、枝からばらばらと降懸(ふりかか)る火の粉を、霰(あられ)は五合(ごんご)と掬(すく)うように、綺麗な袂(たもと)で受けながら、
「先生、沢山に茱萸が。」
 と云って、□長(ろうた)けるまで莞爾(にっこり)した。
 雑所は諸膝(もろひざ)を折って、倒れるように、その傍(かたわら)で息を吐(つ)いた。が、そこではもう、火の粉は雪のように、袖へ掛(かか)っても、払えば濡れもしないで消えるのであった。
明治四十四(一九一一)年一月



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