醜婦を呵す
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著者名:泉鏡花 

 村夫子(そんぷうし)は謂(い)ふ、美の女性に貴ぶべきは、其面(そのめん)の美なるにはあらずして、単に其意(そのこゝろ)の美なるにありと。何(なん)ぞあやまれるの甚(はなはだ)しき。夫子(ふうし)が強(あなが)ちに爾(しか)き道義的誤謬(ごびう)の見解を下したるは、大早計にも婦人を以て直ちに内政に参し家計を調ずる細君と臆断(おくだん)したるに因るなり。婦人と細君と同じからむや、蓋(けだ)し其間(あひだ)に大差あらむ。勿論(もちろん)人の妻なるものも、吾人(ごじん)が商となり工となり、はた農となるが如(ごと)く、女性が此世に処せむと欲して、択(えら)ぶ処の、身過(みすぎ)の方便には相違なきも、そはたゞ芸妓(げいぎ)といひ、娼妓(しやうぎ)といひ、矢場女(やばをんな)といふと斉(ひと)しく、一個任意の職業たるに過ぎずして、人の妻たるが故(ゆゑ)に婦人が其本分を尽したりとはいふを得ず。渠等(かれら)が天命の職分たるや、花の如く、雪の如く、唯(たゞ)、美、これを以(もつ)て吾人男性に対すべきのみ。
 男子の、花を美とし、雪を美とし、月を美とし、杖を携へて、瓢(へう)を荷(にな)ひて、赤壁(せきへき)に賦(ふ)し、松島に吟ずるは、畢竟(ひつきやう)するに未(いま)だ美人を得ざるものか、或(あるひ)は恋に失望したるものの万(ばん)止(や)むを得ずしてなす、負惜(まけをしみ)の好事(かうず)に過ぎず。
 玉の腕(かひな)は真の玉よりもよく、雪の膚(はだへ)は雨の結晶せるものよりもよく、太液(たいえき)の芙蓉(ふよう)の顔(かんばせ)は、不忍(しのばず)の蓮(はす)よりも更(さら)に好(よ)し、これを然(しか)らずと人に語るは、俳優(やくしや)に似たがる若旦那と、宗教界の偽善者のみなり。
 されば婦人は宇宙間に最も美なるものにあらずや、猶且(なほかつ)美ならざるべからざるものにあらずや。
 心の美といふ、心の美、貞操か、淑徳か、試みに描きて見よ。色黒く眉(まゆ)薄く、鼻は恰(あたか)もあるが如く、唇(くちびる)厚く、眦(まなじり)垂れ、頬(ほゝ)ふくらみ、面(おもて)に無数の痘痕(とうこん)あるもの、豕(ゐのこ)の如く肥(こ)えたるが、女装して絹地に立たば、誰(たれ)かこれを見て節婦とし、烈女とし、賢女とし、慈母とせむ。譬(たと)ひこれが閨秀(けいしう)たるの説明をなしたる後(のち)も、吾人一片の情(じやう)を動かすを得ざるなり。婦人といへども亦(また)然らむ。卿等(けいら)は描きたる醜悪の姉妹に対して、よく同情を表し得るか。恐らくは得ざるべし。
 薔薇(ばら)には恐るべき刺(とげ)あり。然れども吾人は其美を愛し、其香を喜ぶ。婦人もし艶(えん)にして美、美にして艶ならむか、薄情なるも、残忍なるも、殺意あるも亦(また)害なきなり。
 試(こゝろみ)に思へ、彼(か)の糞汁(ふんじふ)はいかむ、其(その)心美なるにせよ、一見すれば嘔吐(おうと)を催す、よしや妻とするの実用に適するも、誰(たれ)か忍びてこれを手にせむ。またそれ蠅(はへ)は厭(いと)ふべし、然れどもこれを花片(はなびら)の場合と仮定せよ「木の下は汁(しる)も鱠(なます)も桜かな」食物を犯すは同一(おなじ)きも美なるが故(ゆゑ)に春興たり。なほ天堂に於ける天女(エンゼル)にして、もしその面貌醜ならむか、濁世(だくせい)の悪魔(サタン)が花顔雪膚(くわがんせつぷ)に化したるものに、嗜好(しかう)の及ばざるや、甚(はなは)だ遠し。
 希(こひねがは)くば、満天下の妙齢女子、卿等(けいら)務めて美人たれ。其意(そのこゝろ)の美をいふにあらず、肉と皮との美ならむことを、熱心に、忠実に、汲々(きふ/\)として勤めて時のなほ足らざるを憾(うらみ)とせよ。読書、習字、算術等、一切(すべて)の科学何かある、唯(たゞ)紅粉粧飾(こうふんさうしよく)の余暇に於て学ばむのみ。琴や、歌や、吾(われ)はた虫と、鳥と、水の音と、風の声とにこれを聞く、強(しひ)て卿等を労せざるなり。
 裁縫は知らざるも、庖丁(はうちやう)を学ばざるも、卿等が其美を以てすれば、天下にまた無き無上権を有して、抜山蓋世(ばつざんがいせ)の英雄をすら、掌中に籠(ろう)するならずや、百万の敵も恐るゝに足らず、恐るべきは一婦人(いつぷじん)といふならずや、そも/\何を苦しんでか、紅粉を措(お)いてあくせくするぞ。
 あはれ願(ねがは)くは巧言、令色、媚(こ)びて吾人に対せよ、貞操淑気を備へざるも、得てよく吾人を魅せしむ。然る時は吾人其恩に感じて、是(これ)を新しき床の間に置き、三尺すさつて拝せんなり。もしそれやけに紅粉を廃して、読書し、裁縫し、音楽し、学術、手芸をのみこれこととせむか。女教師となれ、産婆となれ、針妙(しんめう)となれ、寧ろ慶庵(けいあん)の婆々(ばゞあ)となれ、美にあらずして何(なん)ぞ。貴夫人、令嬢、奥様、姫様(ひいさま)となるを得むや。ああ、淑女の面(めん)の醜なるは、芸妓、娼妓、矢場女、白首(しろくび)にだも如(し)かざるなり。如何(いかん)となれば渠等(かれら)は紅粉を職務として、婦人の分を守ればなり。但(たゞ)、醜婦の醜を恥ぢて美ならむことを欲する者は、其衷情憐むべし。然れども彼(か)の面の醜なるを恥ぢずして、却(かへ)つてこれを誇る者、渠等は男性を蔑視するなり、呵(か)す、常に芸娼妓矢場女等教育なき美人を罵(のゝし)る処の、教育ある醜面の淑女を呵す。――如斯(かくのごとく)説(い)ふものあり。稚気笑ふべきかな。
(明治三十年八月)



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