一兵卒と銃
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著者名:南部修太郎 

 霧(きり)の深(ふか)い六月(ぐわつ)の夜(よる)だつた。丁度(ちやうど)N原(はら)へ出張演習(しゆつちやうえんしふ)の途上(とじやう)のことで、長(なが)い四列(れつ)縱隊(じうたい)を作(つく)つた我我(われわれ)のA歩兵(ほへい)聯隊(れんたい)はC街道(かいだう)を北(きた)へ北(きた)へと行進(かうしん)してゐた。
 風(かぜ)はなかつた。空氣(くうき)は水(みづ)のやうに重(おも)く沈(しづ)んでゐた。人家(じんか)も、燈灯(ともしび)も、畑(はたけ)も、森(もり)も、川(かは)も、丘(をか)も、そして歩(ある)いてゐる我我(われわれ)の體(からだ)も、灰(はひ)を溶(とか)したやうな夜霧(よぎり)の海(うみ)に包(つつ)まれてゐるのであつた。頭上(づじやう)には處處(しよしよ)に幽(かす)かな星影(ほしかげ)が感(かん)じられた。
「おい小泉(こいづみ)、厭(い)やに蒸(む)すぢやないか‥‥」と、私(わたし)の右隣(みぎどなり)に歩(ある)いてゐる、これも一年(ねん)志願兵(しぐわんへい)の河野(かうの)が囁(ささや)いた。
「さうだ、全(まつた)く蒸(む)すね。惡(わる)くすると、明日(あした)は雨(あめ)だぜ‥‥」と、私(わたし)は振(ふ)り向(む)き樣(ざま)に答(こた)へた。河野(かうの)の眠(ねむ)さうな眼(め)が闇(やみ)の中(なか)にチラリと光(ひか)つた。
「うむ‥‥」と、河野(かうの)は頷(うなづ)いた。「然(しか)し、演習地(えんしふち)の雨(あめ)は閉口(へいこう)するな‥‥」と、彼(かれ)はまた疲(つか)れたやうな聲(こゑ)で云(い)つた。
「ほんとに雨(あめ)は厭(い)やだな‥‥」と、私(わたし)はシカシカする眼(め)で空(そら)を見上(みあ)げた。
 夜(よる)は大分(だいぶん)更(ふ)けてゐた。「遼陽城頭(れうやうじやうとう)夜(よ)は更(ふ)けて‥‥」と、さつきまで先登(せんとう)の一大隊(だいたい)の方(はう)で聞(きこ)えてゐた軍歌(ぐんか)の聲(こゑ)ももう途絶(とだ)えてしまつた。兵營(へいえい)から既(すで)に十里(り)に近(ちか)い行程(かうてい)と、息詰(いきづま)るやうに蒸(む)し蒸(む)しする夜(よる)の空氣(くうき)と、眠(ねむ)たさと空腹(くうふく)とに壓(お)されて、兵士達(へいしたち)は疲(つか)れきつてゐた。誰(たれ)もが體(からだ)をぐらつかせながら、まるで出來(でき)の惡(わる)い機械人形(きかいにんぎやう)のやうな足(あし)を運(はこ)んでゐたのだつた。隊列(たいれつ)も可成(かな)り亂(みだ)れてゐた。
 私(わたし)の左側(ひだりがは)にゐる中根(なかね)二等卒(とうそつ)はもう一時間(じかん)も前(まへ)から半分(はんぶん)口(くち)をダラリと開(あ)けて、眠(ねむ)つたまま歩(ある)いてゐた。平生(へいぜい)からお人好(ひとよ)しで、愚圖(ぐづ)で、低能(ていのう)な彼(かれ)は、もともとだらしのない男(をとこ)だつたが、今(いま)は全(まつた)く正體(しやうたい)を失(うしな)つてゐた。彼(かれ)は何度(なんど)私(わたし)の肩(かた)に倒(たふ)れかゝつたか知(し)れなかつた。そしてまた何度(なんど)私(わたし)は道(みち)の外(そと)へよろけ出(だ)さうとする彼(かれ)を抑(おさ)へてやつたか知(し)れなかつた。
「おい、寢(ね)ちやあ危(あぶな)いぞ‥‥」と、私(わたし)は度毎(たびごと)にハラハラして彼(かれ)の脊中(せなか)を叩(たた)き著(つ)けた。が、瞬間(しゆんかん)にひよいと氣(き)が附(つ)いて足元(あしもと)を堅(かた)めるだけで、また直(す)ぐにひよろつき出(だ)すのであつた。
「みんな眠(ねむ)つちやいかん‥‥」と、時時(ときどき)我我(われわれ)の分隊長(ぶんたいちやう)の高岡軍曹(たかをかぐんそう)は無理作(むりづく)りのドラ聲(ごゑ)を張(は)り上(あ)げた[#「上(あ)げた」は底本では「上(あ)けた」]。が、中根(なかね)ばかりではない、どの兵士達(へいしたち)ももうそれに耳(みみ)を假(か)すだけの氣力(きりよく)はなかつた。そして、まるで酒場(さかば)の醉(よ)ひどれのやうな兵士(へいし)の集團(しふだん)は濕(しめ)つた路上(ろじやう)に重(おも)い靴(くつ)を引(ひ)き摺(ず)りながら、革具(かはぐ)をぎゆつぎゆつ軋(きし)らせながら劍鞘(けんざや)を互(たがひ)にかち合(あは)せながら、折折(をりをり)寢言(ねごと)のやうな唸(うな)り聲(ごゑ)を立(た)てながら、まだ五六里(り)先(さき)のN原(はら)まで歩(ある)かなければならなかつた。
「F町(まち)はまだかな‥‥」とまた河野(かうの)が振(ふ)り向(む)いて、思(おも)ひ出(だ)したやうに訊(たづ)ねた。
「もう直(ぢ)きだ。よつ程(ぽど)前(まへ)にE橋(はし)を渡(わた)つたからな‥‥」と、私(わたし)は眠(ねむ)たさを堪(こら)へながら生返事(なまへんじ)をした。
「さうか、それでもまだ先(さき)はなかなか遠(とほ)いなあ‥‥」と、河野(かうの)は右手(みぎて)の銃(じう)を重(おも)さうにずり上(あ)げながら云(い)つた。
「うん、それもさうだが、何(なに)しろ己(おれ)はもう眠(ねむ)くて閉口(へいこう)だ。此處(ここ)らでゴロリとやつちまひたいな‥‥」
「全(まつた)くだ。今(いま)一寢入(ひとねいり)させてくれりやあ命(いのち)も要(い)らないな‥‥」
「はは、かうなりやあ人間(にんげん)もみじめだ‥‥」と、私(わたし)は暗闇(くらやみ)の中(なか)で我知(われし)らず苦笑(くせう)した。
 河野(かうの)も私(わたし)もそのまま口(くち)を噤(つぐ)んだ。そして、時々(ときどき)よろけて肩(かた)と肩(かた)をぶつけ合(あ)つたりしながら歩(ある)いてゐた。私(わたし)はもう氣(き)になる中根(なかね)の事(こと)なんかを考(かんが)へる隙(すき)はなかつた。自分自身(じぶんじしん)まるで地上(ちじやう)を歩(ある)いてゐるやうな氣持(きもち)はしなかつた。重(おも)い背嚢(はいなう)に締(し)め著(つ)けられる肩(かた)、銃(じう)を支(ささ)へた右手(みぎて)の指(ゆび)、足(あし)の踵(かかと)――その處處(ところどころ)にヅキヅキするやうな痛(いた)みを感(かん)じながら、それを自分(じぶん)の體(からだ)の痛(いた)みとはつきり意識(いしき)する力(ちから)さへもなかつた。そして、――寢(ね)てはならん‥‥と、一所懸命(しよけんめい)に考(かんが)へてはゐながら、何時(いつ)の間(ま)にかトロリと瞼(まぶた)が落(お)ちて、首(くび)がガクリとなる。足(あし)がくたくたと折(を)れ曲(まが)るやうな氣(き)がする。はつと氣(き)が附(つ)くと、前(まへ)の兵士(へいし)の背嚢(はいなう)に鼻先(はなさき)がくつついてゐたりした。
「眠(ねむ)つては危險(きけん)だぞ。左手(ひだりて)の川(かは)に氣(き)を附(つ)けろ‥‥」と、暫(しばら)くすると突然(とつぜん)前(まへ)の方(はう)で小隊長(せうたいちやう)の大島少尉(おほしませうゐ)の呶鳴(どな)る聲(こゑ)が聞(きこ)えた。
 私(わたし)はきよつとして眼(め)を開(ひら)いた。と、左手(ひだりて)の方(はう)に人家(じんか)の燈灯(ともしび)がぼんやり光(ひか)つてゐた――F町(まち)かな‥‥と思(おも)ひながら闇(やみ)の中(なか)を見透(みすか)すと、街道(かいだう)に沿(そ)うて流(なが)れてゐる狹(せま)い小川(をがは)の水面(みづも)がいぶし銀(ぎん)のやうに光(ひか)つてゐた。霧(きり)は何時(いつ)しか薄(うす)らいで來(き)たのか、遠(とほ)くの低(ひく)い丘陵(きうりよう)や樹木(じゆもく)の影(かげ)が鉛色(なまりいろ)の空(そら)を背(せ)にしてうつすりと見(み)えた。
「志願兵殿(しぐわんへいどの)、何時(なんじ)でありますか‥‥」と、背後(うしろ)から兵士(へいし)の一人(ひとり)が訊(たづ)ねた。
「一時(じ)十五分前(ふんまへ)だ‥‥」と、私(わたし)は覺束(おぼつか)ない星明(ほしあか)りに腕時計(うでどけい)をすかして見(み)ながら答(こた)へた。
 が、さう答(こた)へながらも夜(よる)がそんなに更(ふ)けたかと思(おも)ふと同時(どうじ)に、私(わたし)の眠(ねむ)たさは一さう濃(こ)くなつた。そして、ふらふらしながら歩(ある)き續(つづ)けてゐる内(うち)に現實的(げんじつてき)な意識(いしき)は殆(ほとん)ど消(き)えて、變(へん)にぼやけた頭(あたま)の中(なか)に祖母(そぼ)や友達(ともだち)の顏(かほ)が浮(うか)び上(あが)つたり、三四日前(かまへ)にK館(くわん)で見(み)た活動寫眞(くわつどうしやしん)の場面(ばめん)が走(はし)つたりした。――夢(ゆめ)かな‥‥と思(おも)ふと、木(き)の空洞(うつろ)を叩(たた)くやうな兵士達(へいしたち)の鈍(にぶ)い靴音(くつおと)が耳(みみ)に著(つ)いた。――歩(ある)いてるんだな‥‥と思(おも)ふと、何時(いつ)の間(ま)にか知(し)らない女(をんな)の笑(わら)ひ顏(がほ)が眼(め)の前(まへ)にはつきり見(み)えたりした。仕舞(しまひ)には、そのどつちがほんとの自分(じぶん)か區別(くべつ)出來(でき)なくなつた。そして、時時(ときどき)我知(わたし)らずぐらぐらとひよろけ出(だ)す自分(じぶん)の體(からだ)をどうすることも出來(でき)なかつた。
 何分(なんぷん)か經(た)つた。突然(とつぜん)一人(ひとり)の兵士(へいし)が私(わたし)の體(からだ)に左(ひだり)から倒(たふ)れかかつた。私(わたし)ははつとして眼(め)を開(ひら)いた。その瞬間(しゆんかん)私(わたし)の左(ひだり)の頬(ほほ)は何(なに)かに厭(い)やと云(い)ふ程(ほど)突(つ)き上(あ)げられた。
「痛(いた)い、誰(だれ)だつ‥‥」と、私(わたし)は體(からだ)を踏(ふ)み應(こた)へながらその兵士(へいし)を突(つ)き飛(と)ばした。と、彼(かれ)は闇(やみ)の中(なか)をひよろけてまた背後(はいご)の兵士(へいし)に突(つ)き當(あた)つた、「氣(き)を附(つ)けろい‥‥」と、その兵士(へいし)が呶鳴(どな)つた。彼(かれ)はやつと我(われ)に返(かへ)つて歩(ある)き出(だ)した。
「中根(なかね)だな、相變(あひかは)らず爲樣(しやう)のない奴(やつ)だ‥‥」と、私(わたし)は銃身(じうしん)で突(つ)き上(あ)げられた左(ひだり)の頬(ほほ)を抑(おさ)へながら、忌々(いまいま)しさに舌打(したう)ちした。
 が、この出來事(できごと)は私(わたし)の眠氣(ねむけ)を瞬間(しゆんかん)に覺(さ)ましてしまつた。闇(やみ)の中(なか)を見透(みすか)すと、人家(じんか)の燈灯(ともしび)はもう見(み)えなくなつてゐた。F町(まち)は夢中(むちう)で通(とほ)り過(す)ぎてしまつたのだつた。そして、變化(へんくわ)のない街道(かいだう)は相變(あいかは)らず小川(をがは)に沿(そ)うて、平(たひら)な田畑(たはた)の間(あひだ)をまつ直(す)ぐに走(はし)つてゐた。霧(きり)は殆(ほとん)ど霽(は)れ上(あが)つて、空(そら)には星影(ほしかげ)がキラキラと見(み)え出(だ)した。ひんやりした夜氣(やき)が急(きふ)に體(からだ)にぞくぞく感(かん)じられて來(き)た。
「おい河野(かうの)‥‥」と、私(わたし)は變(へん)な心細(こころほそ)さと寂(さび)しさを意識(いしき)して、右手(みぎて)を振(ふ)り向(む)いて詞(ことば)を掛(か)けたが、河野(かうの)は答(こた)へなかつた。首(くび)をダラリと前(まへ)に下(さ)げて、彼(かれ)は眠(ねむ)りながら歩(ある)いてゐた。
 ――然(しか)し、みんなやつてるな‥‥と、續(つづ)いて周圍(しうゐ)を見廻(みまは)した時(とき)、私(わたし)は夜行軍(やかうぐん)の可笑(をか)しさとみじめさを感(かん)じて呟(つぶや)いた。四列縱隊(れつじうたい)は五列(れつ)になり三列(れつ)になりして、兵士達(へいしたち)はまるで夢遊病者(むいうびやうしや)のやうにそろそろ歩(ある)いてゐるのだつた。指揮刀(しきたう)の鞘(さや)の銀色(ぎんいろ)を闇(やみ)の中(なか)に閃(ひらめ)かしてゐる小隊長(せうたいちやう)の大島少尉(おほしませうゐ)さへよろけながら歩(ある)いてゐるのが、五六歩(ほ)先(さき)に見(み)えた。
 が、寢(ね)そけてしまつた私(わたし)の頭(あたま)の中(なか)は變(へん)に重(おも)く、それに寒(さむ)さが加(くは)はつて來(き)てゾクゾク毛穴(けあな)がそば立(だ)つのが堪(たま)らなく不愉快(ふゆくわい)だつた。私(わたし)は首(くび)をすくめて痛(いた)む足(あし)を引(ひ)き摺(ず)りながら厭(い)や厭(い)や歩(ある)き續(つづ)けてゐた。
「さうだ、もう月(つき)が出(で)る時分(じぶん)だな‥‥」と、暫(しばら)くして私(わたし)は遠(とほ)く東(ひがし)の方(はう)の地平線(ちへいせん)が白(しら)んで來(き)たのに氣(き)がついて呟(つぶや)いた。その空(そら)の明(あか)るみを映(うつ)す田(た)の水(みづ)や、處處(ところどころ)の雜木林(ざふきばやし)の影(かげ)が蒼黒(あをぐろ)い夜(よる)の闇(やみ)の中(なか)に浮(う)き上(あが)つて見(み)え出(だ)した。私(わたし)はそれをぢつと見詰(みつ)めてゐる内(うち)に、何(なん)となく感傷的(かんしやうてき)な氣分(きぶん)に落(お)ちて來(き)た。そして、そんな時(とき)の何時(いつ)もの癖(くせ)で、Sの歌(うた)なんかを小聲(こごゑ)で歌(うた)ひ出(だ)した。何分(なんぷん)かがさうして過(す)ぎた。
 と、いきなり左(ひだり)の方(はう)でガチヤガチヤと劍鞘(けんざや)の鳴(な)る音(おと)がした。ゴソツと靴(くつ)の地(ち)にこすれる音(おと)がした。同時(どうじ)に「ウウツ‥‥」と唸(うな)る人聲(ひとごゑ)がした。私(わたし)がぎよツとして振(ふ)り返(かへ)る隙(すき)もなかつた。忽(たちま)ち夜(よる)の暗闇(くらやみ)の中(なか)に劇(はげ)しい水煙(みづけむり)が立(た)つて、一人(ひとり)の兵士(へいし)が小川(をがは)の中(なか)にバチヤンと落(お)ち込(こ)んでしまつた。
 ――とうとうやつたな‥‥と、私(わたし)は思(おも)つた。そして、總身(そうみ)に身顫(みぶる)ひを感(かん)じながら立(た)ち留(どま)つた。中根(なかね)の姿(すがた)が見(み)えなかつた。小川(をがは)の油(あぶら)のやうな水面(すゐめん)は大(おほ)きく波立(なみだ)つて、眞黒(まつくろ)な人影(ひとかげ)が毆(こは)れた蝙蝠傘(かうもりがさ)のやうに動(うご)いてゐた。
「誰(だれ)だ、誰(だれ)だ‥‥」と、小隊(せうたい)の四五人(にん)は川岸(かはぎし)に立(た)ち止(ど)まつた。
「中根(なかね)だ‥‥」と、私(わたし)は呶鳴(どな)つた。
 混亂(こんらん)が隊伍(たいご)の中(なか)に起(おこ)つた。寢呆(ねぼ)けて反對(はんたい)に駈(か)け出(だ)す兵士(へいし)もゐた。ポカンと空(そら)を見上(みあ)げ[#「見上(みあ)げ」は底本では「見上(みあ)け」]てゐる兵士(へいし)もゐた。隊列(たいれつ)の後尾(こうび)にゐた分隊長(ぶんたいちやう)の高岡軍曹(たかをかぐんそう)は直(す)ぐに岸(きし)に駈(か)け寄(よ)つた。
「早(はや)く上(あ)げてやれ‥‥」と、彼(かれ)は呶鳴(どな)つた。
 中根(なかね)は水(みづ)の中(なか)で二三度(ど)よろけたが、直(す)ぐに起上(おきあが)つた。深(ふか)さは胸程(むねほど)あつた。
「おい銃(じう)だよ、誰(だれ)か銃(じう)を取(と)つてくれよ‥‥」と、中根(なかね)は一所懸命(しよけんめい)に右手(みぎて)で銃(じう)を頭(あたま)の上(うへ)に差(さ)し上(あ)げながら呶鳴(どな)つた。そして、右手(みぎて)でバチヤバチヤ水(みづ)を叩(たた)いた。割(わり)に流(なが)れのある水(みづ)はともすれば彼(かれ)を横倒(よこたふ)しにしさうになつた。
「大丈夫(だいぢやうぶ)だ、水(みづ)は淺(あさ)い‥‥」と、高岡軍曹(たかをかぐんそう)はまた呶鳴(どな)つた。「おい田中(たなか)、早(はや)く銃(じう)を取(と)つてやれ‥‥」
「軍曹殿(ぐんそうどの)、軍曹殿(ぐんそうどの)、早(はや)く早(はや)く、銃(じう)を早(はや)く‥‥」と、中根(なかね)は岸(きし)に近寄(ちかよ)らうとしてあせりながら叫(さけ)んだ。銃(じう)はまだ頭上(づじやう)にまつ直(す)ぐ差(さ)し上(あ)げられてゐた。
「田中(たなか)、何(なに)を愚圖々々(ぐづぐづ)しとるかつ‥‥」と、軍曹(ぐんそう)は躍氣(やつき)になつて足(あし)をどたどたさせた。
「はつ‥‥」と、田中(たなか)はあわてて路上(ろじやう)を[#「路上(ろじやう)を」は底本では「路上(ろじやう)は」]腹這(はらば)ひになつて手(て)を延(の)ばした。が、手(て)はなかなか届(とど)かなかつた。手先(てさき)と銃身(じうしん)とが何度(なんど)か空間(くうかん)で交錯(かうさく)し合(あ)つた。
「留(とま)つとつちやいかん。用(よう)のない者(もの)はずんずん前進(ぜんしん)する‥‥」と、騷(さわ)ぎの最中(さいちう)に小隊長(せうたいちやう)の大島少尉(おほしませうゐ)ががみがみした聲(こゑ)で呶鳴(どな)つた。
 岸邊(きしべ)に丸(まる)くかたまつてゐた兵士(へいし)の集團(しふだん)はあわてて駈(か)け出(だ)した。私(わたし)もそれに續(つづ)いた。そして、途切(とぎ)れに小隊(せうたい)の後(あと)を追(お)つて漸(やうや)くもとの隊伍(たいご)に歸(かへ)つた。劇(はげ)しい息切(いきぎ)れがした。
 間(ま)もなく小隊(せうたい)は隊形(たいけい)を復(ふく)して動(うご)き出(だ)した。が、兵士達(へいしたち)の姿(すがた)にはもう疲(つか)れの色(いろ)も眠(ねむ)たさもなかつた。彼等(かれら)は偶然(ぐうぜん)の出來事(できごと)に變(へん)てこに興奮(こうふん)して、笑(わら)つたり呶鳴(どな)つたり、飛(と)び上(あが)つたりしてはしやいでゐた。大地(だいち)に當(あた)る靴音(くつおと)は生(い)き生(い)きして高(たか)く夜(よる)の空氣(くうき)に反響(はんきやう)した。
「とうとう『馬(うま)さん』やりやあがつた‥‥」と、一人(ひとり)の兵士(へいし)がげらげら笑(わら)ひ出(だ)した。
「選(よ)りに選(よ)つて奴(やつ)が落(お)ちるなんてよつぽど運(うん)が惡(わる)いや‥‥」と、一人(ひとり)はまたそれが自分(じぶん)でなかつた事(こと)を祝福(しゆくふく)するやうに云(い)つた。
「また髭(ひげ)にうんと絞(しぼ)られるぜ‥‥」
「可哀想(かはいさう)になあ‥‥」
 中根熊吉(なかねくまきち)の「馬(うま)さん」は二年兵(ねんへい)の二等卒(とうそつ)で、中隊(ちうたい)でもノロマとお人好(ひとよ)しとで有名(いうめい)だつた。教練(けうれん)の度毎(たびごと)にヘマをやつて小隊長(せうたいちやう)や分隊長(ぶんたいちやう)に小言(こごと)を云(い)はれ續(つづ)けだつた。戰友達(せんいうたち)にもすつかり馬鹿(ばか)にされてゐた。鼻(はな)が低(ひく)くて眼(め)が細(ほそ)くて、何處(どこ)か間(ま)の拔(ぬ)けた感(かん)じのする平(ひら)べつたい顏(かほ)――その顏(かほ)が長(なが)いので「馬(うま)さん」と言(い)ふ綽名(あだな)がついた。が、中根(なかね)は都會生(とくわいうま)れの兵士達(へいしたち)のやうにズルではなかつた。決(けつ)して不眞面目(ふまじめ)ではなかつた。彼(かれ)は實際(じつさい)まつ正直(しやうぢき)に「天子樣(てんしさま)に御奉公(ごほうこう)する」積(つも)りで軍務(ぐんむ)を勉強(べんきやう)してゐたのである。が、彼(かれ)の生(うま)れつきはどうする事(こと)も出來(でき)なかつた。で、彼(かれ)はムキになればなるだけ教練(けうれん)や武術(ぶじゆつ)に失敗(しつぱい)し、上官達(じやうくわんたち)に叱(しか)りつけられ、戰友達(せんいうたち)にはなぶり物(もの)にされるのだつた。――氣(き)の毒(どく)だな‥‥と、思(おも)ふことが私(わたし)も度々(たび/\)あつた。
「然(しか)し、僕(ぼく)もずゐ分(ぶん)氣(き)を附(つ)けちやあゐたんだぜ‥‥」と、私(わたし)は傍(そば)の兵士(へいし)を顧(かへり)みた。
「さうですか。でも、ありやあ好(い)い眠氣覺(ねむけざま)しですよ‥‥」と、彼(かれ)は冷淡(れいたん)に答(こた)へた。
「ふふ、眠氣覺(ねむけざま)しも利(き)き過(す)ぎらあ‥‥」
「はつはつはつ、水(みづ)の中(なか)で一生懸命(しよけんめい)に銃(じう)を差(さ)し上(あ)げた處(ところ)は好(よ)かつたね‥‥」
「とんだ五九郎(らう)だ‥‥」と、誰(だれ)かが呟(つぶや)いた。劇(はげ)しい笑聲(せうせい)がわつと起(おこ)つた。
 が、暫(しばら)くすると中根(なかね)の話(はなし)にも倦(あ)きが來(き)た。そして、三十分(ぷん)も經(た)たない内(うち)にまた兵士達(へいしたち)の歩調(ほてう)は亂(みだ)れて來(き)た。ゐ眠(ねむ)りが始(はじ)まつた。みんなは下弦(かげん)の月(つき)が東(ひがし)の空(そら)に出(で)て來(き)たのも氣(き)が附(つ)かずに醉(よ)ひどれのやうに歩(ある)いてゐた。
 N原(はら)の行手(ゆくて)はまだ遠(とほ)かつた。私(わたし)が濡(ぬ)れしよびれた中根(なかね)の姿(すがた)を想像(さうぞう)して時時(ときどき)可笑(をか)しく[#「可笑(をか)しく」は底本では「可笑(をか)じく」]なつたり、氣(き)の毒(どく)になつたりした。が、何時(いつ)か私(わたし)も襲(おそ)つてくる睡魔(すゐま)を堪(こら)へきれなくなつてゐた。

 N原(はら)の出張演習(しゆつちやうえんしふ)は二週間程(しうかんほど)で過(す)ぎた。我我(われわれ)[#「我我」は底本では「我日」]は日日(にちにち)の劇(はげ)しい演習(えんしふ)に疲(つか)れきつた。そして、六月(ぐわつ)の下旬(げじゆん)にまたT市(し)の居住地(きよぢうち)に歸營(きえい)した。中根(なかね)の話(はなし)はもうすつかり忘(わす)れられてゐた。中根(なかね)自身(じしん)も相變(あひかは)らず平(ひら)ぺつたい顏(かほ)ににやにや笑(わら)ひを浮(うか)べながら勤務(きんむ)してゐた。
 歸營(きえい)してから三日目(かめ)の朝(あさ)だつた。中隊教練(ちうたいけうれん)が濟(す)んで一先(ひとま)づ解散(かいさん)すると、分隊長(ぶんたいちやう)の高岡軍曹(たかをかぐんそう)は我々(われわれ)を銃器庫裏(ぢうきこうら)の櫻(さくら)の樹蔭(こかげ)に連(つ)れて行(い)つて、「休(やす)めつ‥‥」と、命令(めいれい)した。私(わたし)はまた何(なに)かの小言(こごと)でも聞(き)くのかと思(おも)つて、軍曹(ぐんそう)の鼻(はな)の下(した)にチヨツピリ生(は)えた口髭(くちひげ)を眺(なが)めてゐた。
「何(なん)でえ、何(なん)でえ‥‥」と、小聲(こごゑ)でいぶかる兵士(へいし)もあつた。
 高岡軍曹(たかをかぐんそう)は暫(しばら)くみんなの顏(かほ)を見(み)てゐたが、やがて何時(いつ)ものやうに胸(むね)を張(は)つて、上官(じやうくわん)らしい威嚴(いげん)を見(み)せるやうに一聲(ひとこゑ)高(たか)く咳(せき)をした。
「今日(けふ)貴樣達(きさまたち)を此處(ここ)へ集(あつ)めたのは外(ほか)でもない。この間(あひだ)N原(はら)へ行(ゆ)く途中(とちう)に起(おこ)つた一(ひと)つの出來事(できごと)に對(たい)する己(おれ)の所感(しよかん)を話(はな)して聞(き)かせたいのだ。それは其處(そこ)にゐる中根(なかね)二等卒(とうそつ)のことだ。貴樣達(きさまたち)も知(し)つとる通(とほ)り中根(なかね)はあの行軍(かうぐん)の途中(とちう)過(あやま)つて川(かは)へ落(お)ちた‥‥」と、軍曹(ぐんそう)はジロりと中根(なかね)を見(み)た。「クスつ‥‥」と、誰(だれ)かが同時(どうじ)に吹(ふ)き出(だ)した。中根(なかね)はあわてて無格好(ぶかくかう)な不動(ふどう)の姿勢(しせい)をとつたが、その顏(かほ)には、それが癖(くせ)の間(ま)の拔(ぬ)けたニヤニヤ笑(わら)ひを浮(うか)べてゐた。――またやられるな‥‥と思(おも)つて、私(わたし)は中根(なかね)のうしろ姿(すがた)を見(み)た。
「然(しか)るに、あの川(かは)は決(けつ)して淺(あさ)くはなかつた。流(なが)れも思(おも)ひの外(ほか)早(はや)かつた。次第(しだい)に依(よ)つては命(いのち)を奪(うば)はれんとも限(かぎ)らなかつた。その危急(ききふ)の際(さい)中根(なかね)はどう云(い)ふ事(こと)をしたか。さあ、みんな聞(き)け、此處(ここ)だ‥‥」と、軍曹(ぐんそう)は詞(ことば)を途切(とぎ)つてドタンと、軍隊靴(ぐんたいぐつ)で大地(だいち)を踏(ふ)みつけた。「中根(なかね)はあの時(とき)、自分(じぶん)の身(み)の危急(ききふ)を忘(わす)れて銃(ぢう)を高(たか)く差(さ)し上(あ)げて『銃(ぢう)を取(と)つてくれ‥‥』と、己(おれ)に向(むか)つて云(い)つたのだ。即(すなは)ち銃(ぢう)を愛(あい)し守(まも)る立派(りつぱ)な精神(せいしん)を示(しめ)したのだ‥‥」と、軍曹(ぐんそう)は咳(がい)一咳(がい)した。
「抑(そもそ)も銃(じう)は歩兵(ほへい)の命(いのち)である。軍人精神(ぐんじんせいしん)の結晶(けつしやう)である。歩兵(ほへい)にとつて銃(じう)程(ほど)大事(だいじ)な物(もの)はない。場合(ばあひ)に依(よ)つてはその體(からだ)よりも大事(だいじ)である。譬(たと)へば戰場(せんぢやう)に於(おい)て我々(われわれ)が負傷(ふしやう)する。負傷(ふしやう)は直(なを)る、然(しか)し、精巧(せいかう)な銃(じう)を毀(こは)したならば、それは直(なを)らない。況(ま)してあの時(とき)中根(なかね)が銃(じう)を離(はな)して顧(かへり)みなかつたならば、銃(じう)は水中(すゐちう)に無(な)くなつたかも知(し)れない。即(すなは)ち歩兵(ほへい)の命(いのち)を失(うしな)つたことになる。然(しか)るに、中根(なかね)は身(み)の危急(ききふ)を忘(わす)れて銃(じう)を離(はな)さず、飽(あ)くまで銃(じう)を守(まも)らうとした。あの行爲(かうゐ)、あの精神(せいしん)は正(まさ)に軍人精神(ぐんじんせいしん)を立派(りつぱ)に發揚(はつやう)したもので、誠(まこと)に軍人(ぐんじん)の鑑(かがみ)である。一體(たい)中根(なかね)は平素(へいそ)は決(けつ)して成績佳良(せいせきかりやう)の方(はう)ではなかつた。己(おれ)も度度(たびたび)嚴(きび)しい小言(こごと)を云(い)つた。が、人間(にんげん)[#「人間」は底本では「人聞」]の眞面目(しんめんもく)は危急(ききふ)の際(さい)に初(はじ)めて分(わか)る。己(おれ)は中根(なかね)の眞價(しんか)を見誤(みあやま)[#ルビの「みあやま」は底本では「みあや」]つてゐた。實(じつ)に中根(なかね)は歩兵(ほへい)の模範的精神(もはんてきせいしん)を己(おれ)に見(み)せ[#「せ」は底本では欠]てくれた。實(じつ)に‥‥」と、感情的(かんじやうてき)な高岡軍曹(たかをかぐんそう)は躍氣(やつき)となつて中根(なかね)を賞讃(しやうさん)した。そして、興奮(こうふん)した眼(め)に涙(なみだ)を溜(た)めてゐた。「貴樣達(きさまたち)はあの時(とき)の中根(なかね)の行爲(かうゐ)を笑(わら)つたかも知(し)れん。然(しか)し、中根(なかね)は正(まさ)しく軍人(ぐんじん)の、歩兵(ほへい)の本分(ほんぶん)を守(まも)つたものだ。豪(えら)い、豪(えら)い‥‥」
 かう云(い)ひ續(つづ)けて、高岡軍曹(たかをかぐんそう)はやがて詞(ことば)を途切(とぎ)つたが、それでもまだ賞(ほ)め足(た)りなかつたのか、モシヤモシヤの髭面(ひげづら)をいきませて、感(かん)に餘(あま)つたやうに中根(なかね)二等卒(とうそつ)の顏(かほ)を見詰(みつ)めた。分隊(ぶんたい)の兵士達(へいしたち)はすべての事(こと)の意外(いぐわい)さに呆氣(あつけ)に取(と)られて、氣(き)の拔(ぬ)けたやうに立(た)つてゐた。が、日頃(ひごろ)いかつい軍曹(ぐんそう)の眼(め)に感激(かんげき)の涙(なみだ)さへ幽(かす)かに染(にぢ)んでゐるのを見(み)てとると、それに何(なん)とない哀(あは)れつぽさを感(かん)じて次(つぎ)から次(つぎ)へと俯向(うつむ)いてしまつた。
 が、中根(なかね)は營庭(えいてい)に輝(かがや)く眞晝(まひる)の太陽(たいやう)を眩(まぶ)しさうに、相變(あひかは)らず平(ひら)べつたい、愚鈍(ぐどん)な顏(かほ)を軍曹(ぐんそう)の方(はう)に差(さ)し向(む)けながらにやにや笑(わら)ひを續(つづ)けてゐた。




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