画家とセリセリス
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著者名:南部修太郎 

         1

 それが癖(くせ)のいつものふとした出來心(できごころ)で、銀座(ぎんざ)の散歩(さんぽ)の道(みち)すがら、畫家(ぐわか)の夫(をつと)はペルシア更紗(さらさ)の壁掛(かべかけ)を買(か)つて來(き)た。が、家(うち)の門(もん)をはひらない前(まへ)に、彼(かれ)はからつぽになつた財布(さいふ)の中(なか)と妻(つま)の視線(しせん)を思(おも)ひ浮(うか)べながら、その出來心(できごころ)を少(すこ)し後悔(こうくわい)しかけてゐた。始終(しじふ)支拂(しはら)ひに足(た)らず勝(が)ちな月末(つきずゑ)までにもう十日(か)とない或(あ)る秋(あき)の日(ひ)の夕方(ゆふがた)だつた。
「あら、またこんな物(もの)を買(か)つてらしたの?」
 さすがに隱(かく)しきれもせずに、夫(をつと)がてれ臭(くさ)い顏附(かほつき)でその壁掛(かべかけ)の包(つつ)みを解(ほど)くと、案(あん)の條(でう)妻(つま)は非難(ひなん)の眼(め)を向(む)けながらさう言(い)つた。
「うん、近(ちか)い内(うち)に取(と)り掛(か)かる裸體(らたい)のバツクに使(つか)ふ積(つも)りなんだよ」
「まア。うまい言譯(いひわけ)をおつしやるのね」
 と、妻(つま)は口元(くちもと)に薄(うす)い笑(わら)ひを浮(うか)べた。
「いや、ほんとだよ」
「ふふふ、怪(あや)しいもんだわ。始終(しじふ)そんな道具立(だうぐだ)てばかりなすたつて、お仕事(しごと)の方(はう)はちつとも運(はこ)ばないぢやないの」
「そんな事(こと)はない。今度(こんど)はきつとする。展覽會(てんらんくわい)の方(はう)の約束(やくそく)もあるんだから‥‥」
「どうだか、またいつもの豫定(よてい)だけなんでせう」
 妻(つま)は微笑(びせう)をつづけながら言(い)つたが、そこで不意(ふい)に眞顏(まがほ)になると、
「だけど、あなたは、ほんとにお氣樂(きらく)ね」
「何(なに)が?」
「何(なに)がつて、もう少(すこ)し家(うち)のことや子供(こども)のことを考(かんが)へて下(くだ)すつたつていいと思(おも)ふわ」
「考(かんが)へてないと思(おも)つてるのか、君(きみ)は?」
 と、夫(をつと)も少(すこ)し顏色(かほいろ)をあらためた。
「だつて、考(かんが)へていらつしやらないも同然(どうぜん)だわ。今日(けふ)はもう二十日(はつか)過(す)ぎよ。それに、こないだから、子供(こども)の洋服(やうふく)や靴(くつ)をあんなに買(か)つてやりたいつて言(い)つてたぢやないの?」
「それがどうしたと言(い)ふんだい?」
 夫(をつと)はふてくされた氣持(きもち)で言(い)ひ返(かへ)した。
「まア、空(そら)とぼけるなんて卑怯(ひけふ)だわ。そ、そんな贅澤(ぜいたく)な壁掛(かべかけ)なんかを氣(き)まぐれにお買(か)ひになる餘裕(よゆう)があるんならつて言(い)ふのよ」
「だから言(い)つてるぢやないか。仕事(しごと)に使(つか)ふんだつて‥‥」
「□(うそ)ウ、あなたのいつもの癖(くせ)にきまつてるわ。ねエ、子供(こども)の洋服(やうふく)や靴(くつ)は必要品(ひつやうひん)よ。それに、月末(つきずゑ)だつてもう近(ちか)いんだし、何(なに)もそんなあつてもなくつてもいい壁掛(かべかけ)なんかを今(いま)お買(か)ひになることないぢやありませんか」
「分(わか)らないなア、仕事(しごと)に使(つか)ふんだつて‥‥」
「よして頂戴(ちやうだい)、そんな逃(に)げ口上(こうじやう)は‥‥」
 と、妻(つま)は強(つよ)く夫(をつと)の詞(ことば)を遮(さへぎ)りながら、眼(め)の前(まへ)の更紗(さらさ)模樣(もやう)に侮蔑的(ぶべつてき)な視線(しせん)を投(な)げた。
「とにかく、あなたが始終(しじふ)こんな氣(き)まぐれな贅澤(ぜいたく)ばかりなさるから、月末(つきずゑ)の拂(はら)ひが足(た)りなかつたり、子供(こども)の身(み)のまはりをちやんとしてやれないのよ。考(かんが)へても御覽(ごらん)なさい、夏繪(なつゑ)は來年(らいねん)もう學校(がくかう)よ。暫(しばら)くはまだいいけれど、さうなつてから今(いま)のやうなのはあたしまつぴらだわ[#印刷不鮮明、87-14]。第(だい)一、こんな暮(くら)し方(かた)をしてゐて、さきさきどうなるかと思(おも)ふと不安(ふあん)ぢやなくつて?」
 言(い)ひながら、妻(つま)はまともに夫(をつと)の顏(かほ)を見(み)た。
 夫(をつと)は思(おも)はず眼(め)をそらした。すつかり弱味(よわみ)を突(つ)かれた感(かん)じで内心(ないしん)まゐつた。が、そこで妻(つま)の非難(ひなん)をすなほに受(う)けとるためには夫(をつと)の氣質(きしつ)はあまりに我儘(わがまま)で、負(ま)け惜(をし)みが強(つよ)かつた。それに自分(じぶん)でも可成(かな)り後悔(こうくわい)しかけてゐる矢先(やさき)だつたのが、反撥的(はんぱつてき)に、夫(をつと)の氣持(きもち)をあまのじやくにした。
「ふん、それでまた貯金(ちよきん)でもしたいつていふ例(れい)の口癖(くちぐせ)だらう?」
「だつて、さうでもしなかつたら‥‥」
「よせ、よせ。僕(ぼく)はそんな貯金(ちよきん)なんて、けち臭(くさ)い、打算的(ださんてき)なやり方(かた)は大嫌(だいきら)ひだ。なアに、その時(とき)はまたその時(とき)でどうにかなる。いや、きつと、どうにかするよ」
「だけど、あなたのそのどうにかするつていふことほど、いつも當(あ)てにならないのはないぢやありませんか」
「然(しか)し、お互(たがひ)に日干(ひぼ)しにもならない所(ところ)を見(み)ると、たしかにどうにかなつて行(ゆ)きつつあるぢやないか」
「あア、あなたにはとても叶(かな)はない」
 妻(つま)はふつと笑(わら)ひ出(だ)した。
「何(なに)しろ何(なん)だ、そんな世帶(しよたい)染(じ)みた事(こと)を言(い)ふなアよしてくれ。聞(き)いただけでもくさくさするよ」
 と、夫(をつと)は調子(てうし)に乘(の)りながら、
「貧乏(びんばふ)畫家(ぐわか)の妻(つま)として三年間(ねんかん)で三百圓(ゑん)溜(た)めたあたしの經驗(けいけん)か?」
「厭(い)や、厭(い)や、そんなに茶化(ちやくわ)しておしまひになるの‥‥」
 妻(つま)はちよつと夫(をつと)を睨(にら)むやうにしながら、
「ほんとにあたし眞劍(しんけん)に言(い)つてるのよ。お願(ねが)ひですから、子供(こども)にだけは、子供(こども)にだけはみじめな思(おも)ひをさせないやうにね」
「分(わか)つた、分(わか)つた」
 不意(ふい)にうるんだ妻(つま)の瞳(ひとみ)を刹那(せつな)に意識(いしき)しながら、夫(をつと)はわざと投(な)げつけるやうに言(い)つた。何(なに)か重(おも)いものが胸(むね)に來(き)た。そして、夫(をつと)は壁掛(かべかけ)を手(て)に取(と)ると、急(いそ)ぎ足(あし)にアトリエの方(はう)へ立(た)つて行(い)つた。

         2

 二三日(にち)經(た)つた或(あ)る晴(は)れた日(ひ)の午後(ごご)だつた。朝(あさ)の半日(はんにち)をアトリエに籠(こも)つた夫(をつと)は庭(には)で二人(ふたり)の子供(こども)と快活(くわいくわつ)な笑聲(わらひごゑ)を立(た)ててゐた[#句点が抜けていると考えられる]長女(ちやうぢよ)の夏繪(なつゑ)と四つになる長男(ちやうなん)の敏樹(としき)と、子供(こども)好(ず)きの夫(をつと)は氣持(きもち)よく仕事(しごと)が運(はこ)んだあとでひどく上機嫌(じやうきげん)だつた。
「さあ、夏繪(なつゑ)。今度(こんど)はうまく受(う)け取(と)るんだぞ。そら、ワン、ツウ、スリイ‥‥」
 と、夫(をつと)は四五間(けん)向(むか)うに立(た)つてゐる子供(こども)の方(はう)へ色(いろ)どりしたゴム鞠(まり)を投(な)げた。が、夏繪(なつゑ)は息込(いきご)んでゐたのがまたも受(う)け取(と)りそこねて、鞠(まり)は色彩(しきさい)を躍(をど)らしながらうしろの樹蔭(こかげ)へころがつて行(い)つた。
「駄目(だめ)よ、パパア。そんなにひどくはふつちやア‥‥」
 と、夏繪(なつゑ)は紺(こん)のスカアトを飜(ひるがへ)しながら鞠(まり)を追(お)つた。
「そオら、今度(こんど)は敏樹(としき)はふつて御覽(ごらん)‥‥」
「うん‥‥」
 と受(う)け答(こた)へて、茶色(ちやいろ)のスエエタアを着(き)た、まるまる肥(ふと)つた體(からだ)をよちよちさせながら、敏樹(としき)は別(べつ)の小(ちひ)さな鞠(まり)を投(な)げた。が、見當(けんたう)はづれて、それは夫(をつと)の横(よこ)へそれてしまつた。
「やアい、パパだつて下手(へた)だわ」
 途端(とたん)に、夏繪(なつゑ)は手(て)を叩(たた)きながら、復讐的(ふくしふてき)に野次(やじ)り立(た)てた。
 わざと大袈裟(おほげさ)に頭(あたま)をかきながら、夫(をつと)は鞠(まり)を追(お)つた。そして、庭(には)の一隅(すみ)の呉竹(くれたけ)の根元(ねもと)にころがつてゐるそれを拾(ひろ)ひ上(あ)げようとした刹那(せつな)、一匹(ぴき)の蜂(はち)の翅音(はおと)にはつと手(て)をすくめた。見返(みかへ)ると、黒(くろ)に黄色(きいろ)の縞(しま)のある大柄(おほがら)の蜂(はち)で、一度(ど)高(たか)く飛(と)び上(あが)つたのがまた竹(たけ)の根元(ねもと)に降(お)りて來(き)た。と、地面(ぢべた)から一尺(しやく)ほどの高(たか)さの竹(たけ)の皮(かは)の間(あひだ)に蜘蛛(くも)の死骸(しがい)が挾(はさ)んである。蜂(はち)はそれにとまつて暫(しばら)く夫(をつと)の氣配(けはい)を窺(うかゞ)つてゐるらしかつたが、それが身動(みうご)きもしないのを見(み)ると、死骸(しがい)を離(はな)れてすぐ近(ちか)くの地面(ぢべた)に飛(と)び降(お)りた。そして、暫(しばら)くあたりを歩(ある)きまはつてゐたが、ちよつとした土(つち)の凹(くぼ)みにぶつかると、嘴(くちばし)と前脚(まへあし)で穴(あな)を掘(ほ)り出(だ)した。
(セリセリスだな。)
 いつか讀(よ)んだアンリ、フアブルの「昆蟲記(こんちうき)」を思(おも)ひ浮(うか)べながら、夫(をつと)は好奇(かうき)の瞳(ひとみ)を凝(こ)らした。そして、ばたばた近寄(ちかよ)つて來(き)た夏繪(なつゑ)と敏樹(としき)を靜(しづか)にさせながら、二人(ふたり)を兩方(りやうはう)から抱(いだ)きよせたまま蜂(はち)の動作(どうさ)を眺(なが)めつゞけてゐた。
 蜂(はち)は絶(た)えず三人(にん)の存在(そんざい)を警戒(けいかい)しながらも、一心(しん)に、敏活(びんくわつ)に働(はたら)いた。頭(あたま)が土(つち)に突進(とつしん)する。脚(あし)が盛(さかん)に土(つち)をはねのける。それは靜(しづか)に差(さ)した明(あか)るい秋(あき)の日差(ひざし)の中(なか)に涙(なみだ)の熱(あつ)くなるやうな努力(どりよく)に見(み)えた。そして、一厘(りん)二厘(りん)と、穴(あな)は小(ちひ)さな蜂(はち)の體(からだ)を隱(かく)すほどにだんだん深(ふか)く掘(ほ)られて行(い)つた。
「パパ。あの蜂(はち)何(なに)してるの」
 と、息(いき)を凝(こ)らしてゐた夏繪(なつゑ)が低(ひく)く尋(たづ)ねかけた。
「うん、今(いま)あの穴(あな)の中(なか)へ子供(こども)を生(う)みつけるんだよ。」
 と、夫(をつと)は何(なに)か胸(むね)を打(う)つものを感(かん)じながら小聲(こごゑ)に答(こた)へた。
 全(まつた)くわき眼(め)も振(ふ)らないやうな蜂(はち)の動作(どうさ)は變(へん)に嚴肅(げんしゆく)にさへ見(み)えた。そして、瞬(またた)きもせずに見詰(みつ)めてゐる内(うち)に、夫(をつと)はその一心(しん)さに何(なに)か嫉妬(しつと)に似(に)たやうなものを感(かん)じた。すぐ夫(をつと)は傍(そば)から松葉(まつば)を拾(ひろ)ひ上(あ)げて穴(あな)の中(なか)をつつ突(つ)いた。と、蜂(はち)はあわてて穴(あな)から出(で)て來(き)たが、忽(たちま)ち松葉(まつば)に向(むか)つて威嚇的(ゐかくてき)な素振(そぶり)を見(み)せた。
「あら、蜂(はち)が怒(おこ)つてよ」
 と、夏繪(なつゑ)は恐(おそ)れるやうに囁(ささや)いて夫(をつと)の手(て)を抑(おさ)へた。
 が、惡戯(いたづら)氣分(きぶん)になつて、夫(をつと)は手(て)を引(ひ)かなかつた。そして、なほも蜂(はち)の體(からだ)につつ突(つ)きかかると、すぐ嘴(くちばし)が松葉(まつば)に噛(か)みついた。不思議(ふしぎ)にあたりが靜(しづ)かだつた。が、やがて不意(ふい)に松葉(まつば)から離(はな)れると蜂(はち)はぶんと飛(と)び上(あが)つた。三人(にん)ははつとどよめいた。けれども、蜂(はち)は大事(だいじ)な犧牲(ぎせい)の蜘蛛(くも)の死骸(しがい)を警戒(けいかい)しに行(い)つたのだつた。で、その存在(そんざい)をたしかめると、安心(あんしん)したやうにまたすぐ穴(あな)の所(ところ)へ飛(と)び降(お)りて來(き)た。
「パパ、また穴(あな)を掘(ほ)るよ」
 と、しやがんで膝(ひざ)にぢつと兩手(りやうて)をついたまま、敏樹(としき)が何(なに)か恐(おそ)れるやうな聲(こゑ)で囁(ささや)いた。
 穴(あな)はもう殆(ほとん)ど蜂(はち)の體(からだ)のすべてを隱(かく)すやうな深(ふか)さになつてゐた。が、蜂(はち)はまだその劇(はげ)しい勞働(らうどう)を休(やす)めなかつた。そして、その間(あひだ)にも絶(た)えず三人(にん)の樣子(やうす)を警戒(けいかい)し、なほも二三度(ど)蜘蛛(くも)の死骸(しがい)の存在(そんざい)をたしかめに行(い)つた。
(本能(ほんのう)、これがただ本能(ほんのう)だけで出來(でき)ることか知(し)ら?)
 その眞劍(しんけん)さに打(う)たれて、夫(をつと)はそんな事(こと)を考(かんが)へつづけながら、ぢつと瞳(ひとみ)を凝(こ)らしてゐた。
 體(からだ)が穴(あな)の中(なか)にすつかり見(み)えなくなるほどの深(ふか)さになると、蜂(はち)はやがてほつとしたやうにそとへ出(で)て來(き)た。そして、なほも警戒(けいかい)するやうに念(ねん)を入(い)れるやうに穴(あな)のまはりを歩(ある)きまはつてゐたが、やがてひよいと飛(と)び上(あが)ると、蜘蛛(くも)の死骸(しがい)をくはへて再(ふたた)び穴(あな)の所(ところ)へ舞(ま)ひもどつて來(き)た。
「まア、あの蜘蛛(くも)どうしたの? 死(し)んぢやつてるのね?」
「うん、蜂(はち)に殺(ころ)されたんだよ。そして、あれが蜂(はち)の子供(こども)の御飯(ごはん)になるんだよ」
「御飯(ごはん)に?」
「うん、だから見(み)てて御覽(ごらん)。今(いま)にあの穴(あな)の中(なか)へちやんとおしまひするから‥‥」
「蜘蛛(くも)なんておいしくないね、パパ‥‥」
 敏樹(としき)が上(うは)ずつた聲(こゑ)を挾(はさ)んだ。
「でも、蜂(はち)の子供(こども)には御馳走(ごちさう)なんだよ」
 穴(あな)の二三寸(ずん)手前(てまへ)に降(お)りた蜂(はち)は、やがて頭(あたま)と前脚(まへあし)で蜘蛛(くも)の死骸(しがい)を穴(あな)の深(ふか)みへ押(お)して行(い)つた。そして、それを押(お)し入(い)れきつてしまふと、蜂(はち)は今度(こんど)は逆(ぎやく)にあとずさりしながら、自分(じぶん)の尻(しり)の方(はう)を穴(あな)の中(なか)へ差(さ)し込(こ)んだ。と同時(どうじ)に、穴(あな)のそとに出(で)た頭(あたま)と前半身(ぜんはんしん)が不思議(ふしぎ)な顫動(せんどう)を起(おこ)しはじめた。
「まア、をかしい、何(なに)してるの?」
 と、夏繪(なつゑ)が頓狂(とんきやう)な聲(こゑ)を立(た)てた。
「しつ、穴(あな)の中(なか)へ卵(たまご)を生(う)みつけてゐるんだよ。そしてね、來年(らいねん)の春(はる)になつて卵(たまご)がかへると蜘蛛(くも)が蜂(はち)の子供(こども)の御飯(ごはん)になるのさ」
 と、話(はな)し聞(き)かせてゐる内(うち)に、夫(をつと)の頭(あたま)の中(なか)には二三日(にち)前(まへ)の妻(つま)との對話(たいわ)が不意(ふい)に思(おも)ひ浮(うか)んで來(き)た。夫(をつと)は我(われ)知(し)らず苦笑(くせう)した。蜂(はち)の眞劍(しんけん)さが、その子供(こども)に對(たい)する用意周到(よういしうたう)さが何(なに)か皮肉(ひにく)に胸(むね)に呼(よ)びかけてゐるやうな氣持(きもち)だつた。
 不思議(ふしぎ)な顫動(せんどう)が何(なに)か必死的(ひつしてき)な感(かん)じで二三分間(ぷんかん)つづくと、蜂(はち)はやがて穴(あな)のそとへ出(で)て來(き)た。そして、ちよつと息(いき)を入(い)れたやうな樣子(やうす)をすると、今度(こんど)はまた頭(あたま)と前脚(まへあし)を盛(さかん)に動(うご)かしながら掘(ほ)り返(かへ)した土(つち)で穴(あな)を埋(う)め出(だ)した。而(しか)も、幼蟲(えうちう)が出易(でやす)くするためであらう、蜂(はち)は明(あきらか)にこまかい土(つち)の選擇(せんたく)に氣(き)を附(つ)けてゐるらしかつた。さうして穴(あな)がすつかり埋(う)められてしまふと、蜂(はち)は暫(しばら)く穴(あな)のまはりを歩(ある)きまはつてゐたが、やがてぷうんと翅音(はおと)を立(た)てながら、黒黄斑(くろきまだら)の弧線(こせん)を清澄(せいちよう)な秋(あき)の空間(くうかん)に描(ゑが)きつつどこともなく飛(と)び去(さ)つて行(い)つた。
「はつはつは、パパは馬鹿(ばか)だな、ほんとにパパは馬鹿(ばか)だな」
 と、立(た)ち上(あが)りざま、夫(をつと)は高(たか)い笑聲(わらひごゑ)とともに不意(ふい)に無意識(むいしき)にそんな事(こと)を呟(つぶや)いた。そして、兩方(りやうはう)の手(て)で夏繪(なつゑ)と敏樹(としき)を自分(じぶん)の體(からだ)の方(はう)へ引(ひ)き締(し)めるやうにしながら、庭(には)の樹(き)の間(あひだ)をアトリエの方(はう)へ歩(ある)き出(だ)した。




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