職業婦人気質
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著者名:吉行エイスケ 

職業婦人気質吉行エイスケ     1 美容術をやっている田村スマ子女史は山ノ手に近代風なささやかなビュテイ・サロンを営んで、美しいモダァン・マダムたちにご奉仕していた。そして彼女の夫の田村英介氏は才能あるにもかかわらず不幸にしてまだ無名の文士ではあったが、スマ子女史がつねに「彼氏浮気もの」と称しているだけになか/\各方面に発展してスマ子女史に愉快な煩悶(はんもん)をときどき提供するのであった。 すでにスマ子女史と英介氏が結婚して数年になっていたが、いまだかつて二人は、ちょいと拗(す)ねたり、お小使いがなくてすこしばかり憂鬱(ゆううつ)になることはあっても、こんにちかぎり僕は君と別れる、とか、そんなに君が云うんなら妾(わたし)でて行きますなどと夫婦でいさかうようなことをしたことがないのだ。 スマ子女史は英介氏と結婚して東京の郊外に文化住宅を借りて棲(す)んだところ、最初に彼女を煩悶さす事件があった。それは英介氏のむかし馴染みの女友だちがたずねてやってきて、英介氏を郊外の酒場へさそったり、彼女たちのアパルトマンでポーカーを一晩中やったり、英介氏にタキシードを着せてテッフィン(レストラン)に連れだしたりしたからだ。 そんなときスマ子女史は、彼女の「彼氏浮気もの」を待つあいだを英語の勉強をしたり寝台のうえで体操をしたり日本の作家の有名な小説を読んだりしているが「彼氏浮気もの」が、にこ/\わらいながらかえってくれば、悦(うれ)しくなって、なにしろ彼は可愛いいので、だがすこしばかり眼に涙をためて、――おかえり! 英ちゃん! 君が妾を待たすなんてけしからんなあ!――ごめんね、これからは二どと、あんな女とでかけないよ。僕ぁ、よくなかったね。――うん、いいんだよ。だが、君ぁ、たちのよくない子供だと妾思うわ。 ところが、ある日のことスマ子女史はつねとはすこし真面目な顔をして英介氏に云った。――妾、いいこと考えたのよ。でも、これは君の決心を必要とすることだわ。――やあ、あらたまったな、なんだい。――妾たちいまはパパからお金もらって生活しているでしょう。それなのに君は小説家志願でいつになったらお銭(あし)がとれるようになるかわかんないでしょう。だから妾、発奮して美容術を習って二、三年後になって君と妾とだけの生活の道をつくっておきたいと思ったので、じつは丸の内の山根さんのところへ二年間内弟子にしてもらうことに決めたわ。――やあだが、承知するが、パパは君が美容術をやることは反対するね。――ママが泣いちゃう! そして、数年後、田村スマ子女史は山ノ手の彼女のビュテイ・サロンで勇ましく朝から夜まで働いた。     2 ストリート・ガールであった、鋪道(ほどう)のアヴァンチュールにかけては華やかな近代娘の典型であった四家フユ子が、赤い梯子(はしご)を登ったのだ。 粋な銀座の裏街のホテルの一室で――ええ、そうよ。妾は浮気が商売よ。と、当代の男性にとっての理想の女性は脚部の肉色のデコルテを紊(みだ)して云った。 いままでソファの底に沈んで、情婦のつくってくれたあたたかいラム・パンチをのんでいた田村英介氏は四家フユ子のデコルテの紊れに強い感情を乱されて、――おまい、僕と別れたいんだろう――――ノン、あなたが妾を囲いものにするからさ。――だが、浮気の道を封ずることは男の特権だからな。――お可笑(かし)な生理学なんか妾、知らない。 しかし四家フユ子は英介氏の腕輪のなかに障害馬のように飛こむと、棕櫚(しゅろ)の毛皮のような髪の毛を乱雑にカールした黄色い額の波打際を仰向けにして、ずるそうに彼にわらいかけた。――クリスマス・イブは、おまいの古巣へ行って踊るか。――タムラ、あなたの贈りものは? 銀色の絞られた水平線まで彼女は片脚あげて、恋愛の条約による奥の手を英介氏にひらめかすのであった。     3 田村スマ子女史が眼覚めると、隣室で仕事をしていた「彼氏浮気もの」が、――やあ、お眼ざめですか、親愛な女史よ。――あら、お早う、いつおかえり? ご挨拶なしで………………。 寝台から跳ねあがる音がして、黒いスカートのもとから素足のままで、フランのワイシャツに汚れたネクタイを締めながらスマ子女史は英介氏の部屋にやってきて、ストーブのまえでうずくまりながら、――お仕事できたらしいわねえ。いいわねえ。カフェーでもいれますか?――ありがと。 スマ子女史はワイシャツの縫目からミス・フランセのコバルトの細巻をとりだして火をつけると、蒸気のこもった部屋に水沫(すいまつ)のように緑色の煙を吐き出して、――だが、人に聞くと君はちかごろ恋のテクニックに夢中なんですって? ほんと?――うそだよ。 カフェーを沸かしながら彼女は卓上電話をとると、麹町にある彼女の経営している店に電流を通じて、その日のスケジュールをつくるために店員たちと約束客の時間の繰合わせについて打合せを始めた。 午前九時前であった。――ちょいと君はこんどのクリスマス・イブには妾になにを贈ってくれる?――精神的なものを――。――じつはね、妾、君にクリスマス・プレゼントしたいのよ。なにがいい。――僕は――ね、楢原氏や久能氏がダンスするだろう。あの素晴らしい光景をみているうちにすっかり踊子のもつ魅惑に蠱(まど)わされてしまったのだ。――あら、それがどうしたっての? もっとも楢原さんのダンスは玉置さん仕込みだけあってボールが板の間についていてわるかぁないけど。――僕はね、あの小説家の楢原氏のように正確なダンスでなくっても、もっとセンジュアルなのでもいいんだが、君から習いたいんだけど。――それからどうするの。――クリスマスの夜にそれを適宜に用いようと思うのだけど……。――妾忙しいわ。そんなことにかまってられません。 スマ子女史が苦(にが)わらいして立あがった。午前九時にやってくる月極のタクシーがすでに玄関わきで彼女の出勤を待っていた。     4 午後五時すぎに田村英介氏の部屋の卓上電話が、ジャバの女の快楽のときの悲鳴に似たときのこえをあげる。 受話器をとりあげる。スマ子女史のわらい声がこだまする。彼女が電話の気分を出そうためにいたずらにフォックス・トロットをかけている。「ハロー」「うん――。」「なにをしてるの?」「近代生活を読んでいる。」「妾、銀座へ夕餐(デイナー)をとりにいくのよ。」「どうぞ…………」「君つきあってくれない。」「O・K」「そんならタクシーで誘いますよ。」 タクシーが日比谷かいわいまでやってくるとスマ子女史はハンド・バッグから口紅をとりだしてお化粧をはじめた。――おしゃれかい。――そうよ、口紅ぐらいつけなくちゃネオン・サインにたいしてすまないわ。 すでに、くるまが尾張町の交換地帯で停止していた。――タイガーで支那料理はどう?――そういえばタイガーの入口の電飾はにんしんした支那女の入墨(いれずみ)のあるお腹みたいだぜ。 ハイ・ヒルの靴を支那女の腹部に背をみせると、機械色のスカートのなかで小きざみに足並をそろえて彼女があるきだした。――フジ・グリルのビフテキは?――いいわ。 街のコーナーから灰色の影を消して彼氏と彼女はフジの二階にさっさと登って行った。そこの卓子(テーブル)の一隅にはパラマント・オン・パレードで男前を見せたかのマツイ翠声(すいせい)がお可笑(かし)な顔をしてスープをすすっていた。そう云えばさっきフジに面した舗道に汚い小型自動車が棄ててあった。マツイがこの小型フォードを操縦する手並を想像してスマ子女史は愉快になっていた。猫舌のアメリカ人がスープを睨(にら)んでいる。 いつのまにかスマ子女史の「彼氏浮気もの」は階下の電話口にやってきて四家フユ子を呼びだした。「なにをしてるんだい、え? コオセットをはめてるところ………………靴下はもちろん黒檀(こくたん)色がいいよ、だが門外不出、自分で自分を監禁することはできないって? いや待ちたまえ、すぐ行く。貴嬢のご機嫌(きげん)奉仕をつかまつる。じゃ待っていてくれるか…………そいつはありがたい。香料は今晩はミモザがよかあないか。」 卓子でスマ子女史がビフテキに銀色のナイフを深く惨ませて云った。――浮気?――さうだ。――じゃ妾、ここを出てフロリダで一踊りしてから帰っていますわ。――ああ。――そのかわり、クリスマスには精神的な贈りものをきっとくれる?――ああ、精神的なものを………………
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