石油ランプ
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著者名:寺田寅彦 

(この一篇を書いたのは八月の末であった。九月一日の朝、最後の筆を加えた後に、これを状袋に入れて、本誌に送るつもりで服のかくしに入れて外出した。途中であの地震に会って急いで帰ったので、とうとう出さずにしまっておいた。今取出して読んでみると、今度の震災の予感とでも云ったようなものが書いてある。それでわざとそのままに本誌にのせる事にした。)

 生活上のある必要から、近い田舎の淋しい処に小さな隠(かく)れ家(が)を設けた。大方は休日などの朝出かけて行って、夕方はもう東京の家へ帰って来る事にしてある。しかしどうかすると一晩くらいそこで泊るような必要が起るかもしれない。そうすると夜の燈火の用意が要る。
 電燈はその村に来ているが、私の家は民家とかなりかけ離れた処に孤立しているから、架線工事が少し面倒であるのみならず、月に一度か二度くらいしか用のないのに、わざわざそれだけの手数と費用をかけるほどの事もない。やはり石油ランプの方が便利である。
 それで家が出来上がる少し前から、私はランプを売る店を注意して尋ねていた。
 散歩のついでに時々本郷神田辺のガラス屋などを聞いて歩いたが、どこの店にも持合わせなかった。それらの店の店員や主人は「石油ランプはドーモ……」と、特に「は」の字にアクセントをおいて云って、当惑そうな、あるいは気の毒そうな表情をした。傍で聞いている小店員の中には顔を見合せてニヤニヤ笑っているのもあった。おそらくこれらの店の人にとって、今頃石油ランプの事などを顧客に聞かれるのは、とうの昔に死んだ祖父の事を、戸籍調べの巡査に聞かれるような気でもする事だろう。
 ある店屋の主人は、銀座の十一屋(じゅういちや)にでも行ったらあるかも居〔知〕れないと云って注意してくれた。散歩のついでに行って見ると、なるほどあるにはあった。米国製でなかなか丈夫に出来ていて、ちょっとくらい投(ほう)り出しても壊れそうもない、またどんな強い風にも消えそうもない、実用的には申し分のなさそうな品である。それだけに、どうも座敷用または書卓用としては、あまりに殺風景なような気がした。
 これは台所用としてともかくも一つ求める事にした。
 蝋燭(ろうそく)にホヤをはめた燭台(しょくだい)や手燭(てしょく)もあったが、これは明るさが不充分なばかりでなく、何となく一時の間に合せの燈火だというような気がする。それにランプの焔はどこかしっかりした底力をもっているのに反して、蝋燭の焔は云わば根のない浮草のように果敢(はか)ない弱い感じがある。その上にだんだんに燃え縮まって行くという自覚は何となく私を落着かせない。私は蝋燭の光の下で落着いて仕事に没頭する気にはなれないように思う。
 しかし何かの場合の臨時の用にもと思ってこれも一つ買う事にはした。
 肝心の石油ランプはなかなか見付からなかった。粗末なのでよければ田舎へ行けばあるだろうとおもっていたが、いよいよあたって見ると、都に近い田舎で電燈のない処は今時もうどこにもなかった。従ってそういう淋しい村の雑貨店でも、神田本郷の店屋と全く同様な反応しか得られなかった。
 だんだんに意外と当惑の心持が増すにつれて私は、東京という処は案外に不便な処だという気がして来た。
 もし万一の自然の災害か、あるいは人間の故障、例えば同盟罷業(どうめいひぎょう)やなにかのために、電流の供給が中絶するような場合が起ったらどうだろうという気もした。そういう事は非常に稀な事とも思われなかった。一晩くらいなら蝋燭で間に合せるにしても、もし数日も続いたら誰もランプが欲しくなりはしないだろうか。
 これに限らず一体に吾々は平生あまりに現在の脆弱(ぜいじゃく)な文明的設備に信頼し過ぎているような気がする。たまに地震のために水道が止まったり、暴風のために電流や瓦斯(ガス)の供給が絶たれて狼狽する事はあっても、しばらくすれば忘れてしまう。そうしてもっと甚だしい、もっと永続きのする断水や停電の可能性がいつでも目前にある事は考えない。
 人間はいつ死ぬか分らぬように器械はいつ故障が起るか分らない。殊に日本で出来た品物には誤魔化(ごまか)しが多いから猶更である。
 ランプが見付からない不平から、ついこんな事まで考えたりした。
 そのうちに偶然ある人から日本橋区のある町に石油ランプを売っている店があるという事を教えられた。やっぱり無いのではない、自分の捜し方が不充分なのであった。
 丁度忙しい時であったから家族を見せに遣(や)った。
 その店は卸し屋で小売はしないのであったが、強いて頼んで二つだけ売ってもらったそうである。どうやらランプの体裁だけはしている。しかし非常に粗末な薄っぺらな品である。店屋の人自身がこれはほんのその時きりのものですから永持ちはしませんよと云って断っていたそうである。
 どうして、わざわざそんな一時限りの用にしか立たないランプを製造しているのか。そういう品物がどういう種類の需要者によって、どういう目的のために要求されているかという事を聞きただしてみたいような気がした。何故もう少し、しっかりした、役に立つものを作らないのか要求しないのか。
 この最後の疑問はしかしおそらく現在の我国の物質的のみならず精神的文化の種々の方面に当て嵌(は)まるものかもしれない。この間に合せのランプはただそれの一つの象徴であるかもしれない。
 二つ買って来たランプの一つは、石油を入れてみると底のハンダ付けの隙間から油が泌(し)み出して用をなさない。これでは一時の用にも立ちかねる。これはランプではない。つまりランプの外観だけを備えた玩具か標本に過ぎない。
 ランプの心(しん)は一把(わ)でなくては売らないというので、一把百何十本買って来た。おそらく生涯使っても使いきれまい。自分の宅(うち)でこれだけ充実した未来への準備は外にはないだろうと思っている。しかしランプの方の保存期限が心の一本の寿命よりも短いのだとすると心細い。
 このランプに比べてみると、実際アメリカ出来の台所用ランプはよく出来ている。粗末なようでも、急所がしっかりしている。すべてが使用の目的を明確に眼前に置いて設計され製造されている。これに反して日本出来のは見掛けのニッケル鍍金(めっき)などに無用な骨を折って、使用の方からは根本的な、油の漏れないという事の注意さえ忘れている。
 ただアメリカ製のこの文化的ランプには、少なくも自分にとっては、一つ欠けたものがある。それを何と名づけていいか、今ちょっと適当な言葉が見付からない。しかしそれはただこのランプに限らず、近頃の多くの文化的何々と称するものにも共通して欠けているある物である。
 それはいわゆる装飾でもない。
 何と云ったらいいか。例えば書物の頁の余白のようなものか。それとも人間のからだで云えば、例えば――まあ「耳たぶ」か何かのようなものかもしれない。耳たぶは、あってもなくても、別に差支えはない。しかしなくてはやっぱり物足りない。

 その後軽井沢に避暑している友人の手紙の中に、彼地(かのち)でランプを売っている店を見たと云ってわざわざ知らせてくれた。また郷里へ注文して取寄せてやろうかと云ってくれる人もあった。しかしせっかく遠方から取寄せても、それが私の要求に応じるものでなかったら困ると思って、そのままにしてある。どうせ取寄せるなら、どこか、イギリス辺の片田舎からでも取寄せたら、そうしたらあるいは私の思っているようなものが得られそうな気がする。
 しかしそれも面倒である。結局私はこの油の漏れる和製の文化的ランプをハンダ付けでもして修繕して、どうにか間に合わせて、それで我慢する外はなさそうである。
(大正十三年一月『文化生活の基礎』)



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