日本人の自然観
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著者名:寺田寅彦 

     緒言

「日本人の自然観」という私に与えられた課題の意味は一見はなはだ平明なようで、よく考えてみると実は存外あいまいなもののように思われる。筆を取る前にあらかじめ一応の検討と分析とを必要とするもののようである。
 これは、日本人がその環境「日本の自然」をいかに見ていかに反応するか、ということ、またそれが日本人以外の外国人がそれぞれの外国の自然に対する見方とそれに対する反応しかたと比べていかなる特色をもつかということを主として意味するように思われる。そうして第二次的には外国人が日本の自然に対する見方が日本人とどうちがうかということも問題になりうるわけである。
 もしも自然というものが地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)を呈しているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、従って上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には自然の相貌が至るところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも実はあまりに漠然(ばくぜん)とし過ぎた言葉である。北海道や朝鮮(ちょうせん)台湾(たいわん)は除外するとしても、たとえば南海道九州の自然と東北地方の自然とを一つに見て論ずることは、問題の種類によっては決して妥当であろうとは思われない。
 こう考えて来ると、今度はまた「日本人」という言葉の内容がかなり空疎な散漫なものに思われて来る。九州人と東北人と比べると各個人の個性を超越するとしてもその上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。しかし、ここでは、それらの地方的特性を総括しまた要約した「一般的日本人」の「要約した日本」の自然観を考察せよというのが私に与えられた問題であろうと思われる。そうだとすると問題は決してそう容易でないことがわかるのである。
 われわれは通例便宜上自然と人間とを対立させ両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は実は合して一つの有機体を構成しているのであって究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。人類もあらゆる植物や動物と同様に長い長い歳月の間に自然のふところにはぐくまれてその環境に適応するように育て上げられて来たものであって、あらゆる環境の特異性はその中に育って来たものにたとえわずかでもなんらか固有の印銘を残しているであろうと思われる。
 日本人の先祖がどこに生まれどこから渡って来たかは別問題として、有史以来二千有余年この土地に土着してしまった日本人がたとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力しまた少なくも部分的にはそれに成効して来たものであることには疑いがないであろうと思われる。
 そういうわけであるから、もし日本人の自然観という問題を考えようとするならば、まず第一に日本の自然がいかなるものであって、いかなる特徴をもっているかということを考えてみるのが順序であろうと思われる。
 もっとも過去二千年の間に日本の自然が急激に異常な変化をしたのだとすると問題は複雑になるが、幸いにも地質時代の各期に起こったと考えられるような大きな地理的気候的変化が日本の有史以後には決して起こらなかったと断言してもほとんど間違いはないと思われるから、われわれは安心して現在の日本の天然の環境がそのままにわれわれ祖先の時代のそれを示していると仮定してもはなはだしい誤謬(ごびゅう)に陥る心配はないであろうと思われる。
 それで以下にまず日本の自然の特異性についてきわめて概略な諸相を列記してみようと思う。そうしてその次に日本人がそういう環境に応じていかなる生活様式を選んで来たかということを考えてみたら、それだけでも私に課せられた問題に対する私としての答解の大部分はもう尽くされるのではないかと思われる。日本人を生んだ自然とその中における生活とがあってしかる後に生まれ出た哲学宗教思想や文学芸術に関する詳細な深奥な考察については、私などよりは別にその人に乏しくないであろうと思われる。

     日本の自然

 日本における自然界の特異性の種々相の根底には地球上における日本国の独自な位置というものが基礎的原理となって存在しそれがすべてを支配しているように思われる。
 第一に気候である。現在の日本はカラフト国境から台湾(たいわん)まで連なる島環の上にあって亜熱帯から亜寒帯に近いあらゆる気候風土を包含している。しかしそれはごく近代のことであって、日清戦争(にっしんせんそう)以前の本来の日本人を生育して来た気候はだいたいにおいて温帯のそれであった。そうしていわゆる温帯の中での最も寒い地方から最も暖かい地方までのあらゆる段階を細かく具備し包含している。こういうふうに、互いに相容(あいい)れうる範囲内でのあらゆる段階に分化された諸相がこの狭小な国土の中に包括されているということはそれだけでもすでに意味の深いことである。たとえばあの厖大(ぼうだい)なアフリカ大陸のどの部分にこれだけの気候の多様な分化が認められるであろうかを想像してみるといいと思う。
 温帯の特徴は季節の年週期である。熱帯ではわれわれの考えるような季節という概念のほとんど成立しない土地が多い。南洋では年じゅう夏の島がある、インドなどの季節風交代による雨期乾期のごときものも温帯における春夏秋冬の循環とはかなりかけ離れたむしろ「規則正しい長期の天気変化」とでも名づけたいものである。しかし「天気」という言葉もやはり温帯だけで意味をもつ言葉である。いろいろと予測し難い変化をすればこそ「天気」であろう。寒帯でも同様である。そこでは「昼夜」はあるが季節も天気もない。
 温帯における季節の交代、天気の変化は人間の知恵を養成する。週期的あるいは非週期的に複雑な変化の相貌(そうぼう)を現わす環境に適応するためには人間は不断の注意と多様なくふうを要求されるからである。
 そうした温帯の中でも日本はまた他の国と比べていろいろな特異性をもっている。そのおもな原因は日本が大陸の周縁であると同時にまた環海の島嶼(とうしょ)であるという事実に帰することができるようである。もっともこの点では英国諸島はきわめて類似の位置にあるが、しかし大陸の西側と東側とでは大気ならびに海流の循環の影響でいろいろな相違のあることが気候学者によってとうに注意されている。どちらかと言えば日本のように大陸の東側、大洋の西側の国は気候的に不利な条件にある。このことは朝鮮(ちょうせん)満州(まんしゅう)をそれと同緯度の西欧諸国と比べてみればわかると思う。ただ日本はその国土と隣接大陸との間にちょっとした海を隔てているおかげでシベリアの奥にある大気活動中心の峻烈(しゅんれつ)な支配をいくらか緩和された形で受けているのである。
 比較的新しい地質時代まで日本が対馬(つしま)のへんを通して朝鮮と陸続きになっていたことは象や犀(さい)の化石などからも証明されるようであるが、それと連関して、もしも対馬朝鮮の海峡をふさいでしまって暖流が日本海に侵入するのを防いだら日本の気候に相当顕著な変化が起こるであろうということは多くの学者の認めるところである、この一事から考えても日本の気候は、日本のごとき位置、日本のごとき水陸分布によって始めて可能であること、従って日本の気候が地球上のあらゆるいわゆる温帯の中でも全く独自なものであることが了解できるであろうと思われる。
 このような理由から、日本の気候には大陸的な要素と海洋的な要素が複雑に交錯しており、また時間的にも、週期的季節的循環のほかに不規則で急激活発な交代が見られる。すなわち「天気」が多様でありその変化が頻繁(ひんぱん)である。
 雨のふり方だけでも実にいろいろさまざまの降り方があって、それを区別する名称がそれに応じて分化している点でも日本はおそらく世界じゅう随一ではないかと思う。試みに「春雨」「五月雨(さみだれ)」「しぐれ」の適切な訳語を外国語に求めるとしたら相応な困惑を経験するであろうと思われる。「花曇り」「かすみ」「稲妻」などでも、それと寸分違わぬ現象が日本以外のいずれの国に見られるかも疑問である。たとえばドイツの「ウェッターロイヒテン」は稲妻と物理的にはほとんど同じ現象であってもそれは決して稲田の闇(やみ)を走らない。あらゆる付帯的気象条件がちがい従って人間の感受性に対するその作用は全然別物ではないかと思われるのである。
 これに限らず、人間と自然を引っくるめた有機体における自然と人間の交渉はやはり有機的であるから、たとえ科学的気象学的に同一と見られるものでも、それに随伴する他要素の複合いかんによって全く別種の意義をもつのは言うまでもないことである。そういう意味で私は、「春雨」も「秋風」も西洋にはないと言うのである、そうして、こういう語彙(ごい)自身の中に日本人の自然観の諸断片が濃密に圧縮された形で包蔵されていると考えるのである。
 日本における特異の気象現象中でも最も著しいものは台風であろう。これも日本の特殊な地理的位置に付帯した現象である。「野分(のわき)」「二百十日」こういう言葉も外国人にとっては空虚なただの言葉として響くだけであろう。
 気候の次に重要なものは土地の起伏水陸の交錯による地形的地理的要素である。
 日本の島環の成因についてはいろいろの学説がある。しかし日本の土地が言わば大陸の辺縁のもみ砕かれた破片であることには疑いないようである。このことは日本の地質構造、従ってそれに支配され影響された地形的構造の複雑多様なこと、錯雑の規模の細かいことと密接に連関している。実際日本の地質図を開いてそのいろいろの色彩に染め分けられたモザイックを、多くの他の大陸的国土の同尺度のそれと見比べてみてもこの特徴は想像するに難くない。このような地質的多様性はそれを生じた地殻運動(ちかくうんどう)のためにも、また地質の相違による二次的原因からも、きわめて複雑な地形の分布、水陸の交錯を生み出した、その上にこうした土地に固有な火山現象の頻出(ひんしゅつ)がさらにいっそうその変化に特有な異彩を添えたようである。
 複雑な地形はまた居住者の集落の分布やその相互間の交通網の発達に特別な影響を及ぼさないではおかないのである。山脈や河流の交錯によって細かく区分された地形的単位ごとに小都市の萌芽(ほうが)が発達し、それが後日封建時代の割拠の基礎を作ったであろう。このような地形は漂泊的な民族的習性には適せず、むしろ民族を土着させる傾向をもつと思われる。そうして土着した住民は、その地形的特徴から生ずるあらゆる風土的特徴に適応しながら次第に分化しつつ各自の地方的特性を涵養(かんよう)して来たであろう。それと同時に各自の住み着いた土地への根強い愛着の念を培養して来たものであろう。かの茫漠(ぼうばく)たるステッペンやパンパスを漂浪する民族との比較を思い浮かべるときにこの日本の地形的特徴の精神的意義がいっそう明瞭(めいりょう)に納得されるであろうと思われる。
 この地質地形の複雑さの素因をなした過去の地質時代における地殻(ちかく)の活動は、現代においてもそのかすかな余響を伝えている。すなわち地震ならびに火山の現象である。
 わずかに地震計に感じるくらいの地震ならば日本のどこかに一つ二つ起こらない日はまれであり、顕著あるいはやや顕著と称する地震の一つ二つ起こらない月はない。破壊的で壊家を生じ死傷者を出すようなのでも三四年も待てばきっと帝国領土のどこかに突発するものと思って間違いはない。この現象はわが国建国以来おそらく現代とほぼ同様な頻度(ひんど)をもって繰り返されて来たものであろう。日本書紀第十六巻に記録された、太子が鮪(しび)という男に与えた歌にも「ない」が現われており、またその二十九巻には天武(てんむ)天皇のみ代における土佐国(とさのくに)大地震とそれに伴なう土地陥没の記録がある。
 地震によって惹起(じゃっき)される津波もまたしばしば、おそらく人間の一代に一つか二つぐらいずつは、大八州国(おおやしまのくに)のどこかの浦べを襲って少なからざる人畜家財を蕩尽(とうじん)したようである。
 動かぬもののたとえに引かれるわれわれの足もとの大地が時として大いに震え動く、そういう体験を持ち伝えて来た国民と、そうでない国民とが自然というものに対する観念においてかなりに大きな懸隔を示しても不思議はないわけであろう。このように恐ろしい地殻(ちかく)活動の現象はしかし過去において日本の複雑な景観の美を造り上げる原動力となった大規模の地変のかすかな余韻であることを考えると、われわれは現在の大地のおりおりの動揺を特別な目で見直すこともできはしないかと思われる。
 同じことは火山の爆発についても言われるであろう。そうして火山の存在が国民の精神生活に及ぼした影響も単に威圧的のものばかりではない。
 日本の山水美が火山に負うところが多いということは周知のことである。国立公園として推された風景のうちに火山に関係したもののはなはだ多いということもすでに多くの人の指摘したところである。火山はしばしば女神に見立てられる。実際美しい曲線美の変化を見せない火山はないようである。火山そのものの姿が美しいのみならず、それが常に山と山との間の盆地を求めて噴出するために四周の景観に複雑多様な特色を付与する効果をもっているのである。のみならずまた火山の噴出は植物界を脅かす土壌(どじょう)の老朽に対して回春の効果をもたらすものとも考えられるのである。
 このようにわれらの郷土日本においては脚下の大地は一方においては深き慈愛をもってわれわれを保育する「母なる土地」であると同時に、またしばしば刑罰の鞭(むち)をふるってわれわれのとかく遊惰に流れやすい心を引き緊(し)める「厳父」としての役割をも勤めるのである。厳父の厳と慈母の慈との配合よろしきを得た国がらにのみ人間の最高文化が発達する見込みがあるであろう。
 地殻的構造の複雑なことはまた地殻の包蔵する鉱産物の多様と豊富を意味するが、同時にまたある特殊な鉱産物に注目するときはその産出額の物足りなさを感じさせることにもなるのである。石炭でも石油でも鉄でも出るには相応に出ても世界で著名なこれらのものの産地の産額に匹敵するものはないであろう。日本が鎖国として自給自足に甘んじているうちはとにかく世界の強国として乗り出そうとする場合に、この事実が深刻な影響を国是の上に及ぼして来るのである。それはとにかくこのようにいろいろのものが少しずつ備わっているということがあらゆる点で日本の自然の特色をなしているとも言われなくはない。
 地震の現象でも大小の地震が不断になしくずしに起こっている代わりにたとえば中部アジアなどで起こるような非常に大規模な地震はむしろまれであるように思われる。この事はやはり前記の鉱産に関する所説と本質的に連関をもっているのである。すなわち、日本の地殻構造(ちかくこうぞう)が細かいモザイックから成っており、他の世界の種々の部分を狭い面積内に圧縮したミニアチュアとでもいったような形態になっているためであろうと思われるのである。
 地形の複雑なための二次的影響としては、距離から見ればいくらも離れていない各地方の間に微気候学的(ミクロクリマトロジカル)な差別の多様性が生じる。ちょっとした山つづきの裏表では日照雨量従ってあらゆる気候要素にかなり著しい相違のあるということはだれも知るとおりである。その影響の最も目に見えるのはそうした地域の植物景観の相違である。たとえば信州(しんしゅう)へんでもある東西に走る渓流(けいりゅう)の南岸の斜面には北海道へんで見られるような闊葉樹林(かつようじゅりん)がこんもり茂っているのに、対岸の日表の斜面には南国らしい針葉樹交じりの粗林が見られることもある。
 単に微気候学的差別のみならず、また地質の多様な変化による植物景観の多様性も日本の土地の相貌(そうぼう)を複雑にするのである。たとえば風化せる花崗岩(かこうがん)ばかりの山と、浸蝕(しんしょく)のまだ若い古生層の山とでは山の形態のちがう上にそれを飾る植物社会に著しい相違が目立つようである。火山のすそ野でも、土地が灰砂でおおわれているか、熔岩(ようがん)を露出しているかによってまた噴出年代の新旧によってもおのずからフロラの分化を見せているようである。
 近ごろ中井(なかい)博士の「東亜植物」を見ていろいろ興味を感じたことの中でも特におもしろいと思ったことは、日本各地の植物界に、東亜の北から南へかけてのいろいろな国土の植物がさまざまに入り込み入り乱れている状況である、これも日本という国の特殊な地理的位置によって説明され理解さるべき現象であろう。中にはまた簡単には説明されそうもない不思議な現象もある。たとえば信州(しんしゅう)の山地にある若干の植物は満州(まんしゅう)朝鮮(ちょうせん)と共通であって、しかも本州の他のいずれの地にも見られないといったような事実があるそうである。それからまた、日本では夢にも見つかろうとは思われなかった珍奇な植物「ヤッコソウ」のようなものが近ごろになって発見されたというような事実もある。これらの事実は植物に関することであるが、しかしまた、日本国民を組成しているいろいろな人種的民族的要素の出所とその渡来の経路を考察せんとする人々にとってはこの植物界の事実が非常に意味の深い暗示の光を投げかけるものと言わなければならない。
 天然の植物の多様性と相対して日本の農作物の多様性もまた少なくも自分の目で見た西欧諸国などとは比較にならないような気がするのである。もっともこれは人間の培養するものであるから、国民の常食が肉食と菜食のどちらに偏しているかということにもより、また土地に対する人口密度にも支配されることであるが、しかしいずれにしても、作ろうと思えば大概のものは日本のどこかに作り得られるという事実の根底には、やはり気候風土の多様性という必須条件(ひっすじょうけん)が具備していなければならない道理であろう。
 農作物の多様性はまた日本のモザイック的景観をいろいろに色どりくまどっている。地形の複雑さは大農法を拒絶させ田畑の輪郭を曲線化し、その高低の水準を細かな段階に刻んでいる。ソビエトロシアの映画監督が「日本」のフィルムを撮(と)って露都で公開したとき、猫(ねこ)の額のような稲田の小区画に割拠して働く農夫の仕事を見て観衆がふき出して笑ったという話である。それを気にして国辱と思っている人もあるようである。しかし「原大陸」の茫漠(ぼうばく)たる原野以外の地球の顔を見たことのないスラヴの民には「田ごとの月」の深甚(しんじん)な意義がわかろうはずはないのである。日本人をロシア人と同じ人間と考えようとする一部の思想家たちの非科学的な根本的錯誤の一つをここにも見ることができるであろう。
 稲田桑畑芋畑の連なる景色を見て日本国じゅう鋤鍬(すきくわ)の入らない所はないかと思っていると、そこからいくらも離れない所には下草の茂る雑木林があり河畔の荒蕪地(こうぶち)がある。汽車に乗ればやがて斧鉞(ふえつ)のあとなき原始林も見られ、また野草の花の微風にそよぐ牧場も見られる。雪渓(せっけい)に高山植物を摘み、火口原の砂漠(さばく)に矮草(わいそう)の標本を収めることも可能である。
 同種の植物の分化の著しいことも相当なものである。夏休みに信州(しんしゅう)の高原に来て試みに植物図鑑などと引き合わせながら素人流(しろうとりゅう)に草花の世界をのぞいて見ても、形態がほとんど同じであって、しかも少しずつ違った特徴をもった植物の大家族といったようなものが数々あり、しかも一つの家族から他の家族への連鎖となり橋梁(きょうりょう)となるかと思われるようなものにも乏しくない。つつじの種類だけでもその分化の多様なことは日本が随一で中でも信州が著しいという話である。
 話は植物の話である。しかしこのような植物の多様な分化を生ぜしめたその同じ気候風土の環境の多様性が日本人という人間の生理を通してその心理の上にまでも何かしら類似の多様性を分化させるような効果をもたないで済むものであろうか。これは少なくも慎重な吟味を加えた後でなければ軽率に否定し去ることのできない問題であろう。のみならず、その環境によって生まれた自然の多様性がさらにまた二次的影響として上記の一次的効果に参加することも忘れてはならないのである。
 植物界は動物界を支配する。不毛の地に最初の草の種が芽を出すと、それが昆虫(こんちゅう)を呼び、昆虫が鳥を呼び、その鳥の糞粒(ふんりゅう)が新しい植物の種子を輸入する、そこにいろいろの獣類が移住を始めて次第に一つの「社会」が現出する。日本における植物界の多様性はまたその包蔵する動物界の豊富の可能性を指示するかと思われる。
 試みに反対の極端の例をあげてみると、あの厖大(ぼうだい)な南極大陸の上にすむ「陸棲動物(りくせいどうぶつ)」の中で最大なるものは何か、という人困らせの疑問に対する正しい解答は「それは羽のない一種の蚊である」というのである。こんな国土もあることを考えると、われわれは蚊もいるが馬も牛もおり、しかも虎(とら)や獅子(しし)のいない日本に生まれたことの幸福を充分に自覚してもいいのである。
 今私は浅間山(あさまやま)のふもとの客舎で、この原稿を書きながらうぐいすやカッコウやホトトギスやいろいろのうたい鳥の声に親しんでいる。きじらしい声も聞いた。クイナらしい叩音(こうおん)もしばしば半夜の夢に入った。これらの鳥の鳴き声は季節の象徴として昔から和歌や俳句にも詠ぜられている。また、日本はその地理的の位置から自然にいろいろな渡り鳥の通路になっているので、これもこの国の季節的景観の多様性に寄与するところがはなはだ多い。雁(がん)やつばめの去来は昔の農夫には一種の暦の役目をもつとめたものであろう。
 野獣の種類はそれほど豊富ではないような気がする。これは日本が大陸と海で切り離されているせいではないかと思われる。地質時代に朝鮮(ちょうせん)と陸続きになっていたころに入り込んでいた象や犀(さい)などはたぶん気候の変化のために絶滅して今ではただ若干の化石を残している。
 朝鮮にいる虎(とら)が気候的にはそんなに違わない日本にいないのはどういうわけであるか、おそらく日本の地が大陸と分離した後になってこの動物が朝鮮半島に入り込んで来たのではないかと思われる。猫(ねこ)は平安朝に朝鮮から舶来したと伝えられている。北海道のひぐまも虎と同様で、東北日本の陸地の生まれたとき津軽海峡(つがるかいきょう)はおそらく陸でつながっていたのではないかと思われるが、それがその後の地変のために切断してそれが潮流のために広く深く掘りえぐられた、それから後にどこかからひぐまが蝦夷地(えぞち)に入り込んで来たのではないかと想像される。四国にはきつねがいないということがはたして事実ならばこれも同様な地史的意義をもつかもしれない。それはとにかく日本が大陸にきわめて接近していながら、しかも若干の海峡で大陸と切り離されているという特殊の地理的条件のために日本のファウナがどういう影響を受けているかということは上記の雑多な事実からも了解されるであろう。
 昔は鹿(しか)や猿(さる)がずいぶん多くて狩猟の獲物を豊富に供給したらしいことは、たとえば古事記の雄略(ゆうりゃく)天皇のみ代からも伝わっている。しかし人口の増殖とともに獲物が割合に乏しくなり、その事が農業の発達に反映したということも可能である。それが仏教の渡来ということもあいまってわが国におけるこれらのゲームの絶滅をかろうじて阻止することができたのかもしれない。
 水産生物の種類と数量の豊富なことはおそらく世界の他のいかなる部分にもたいしてひけを取らないであろうと思われる。これは一つには日本の海岸線が長くて、しかも広い緯度の範囲にわたっているためもあるが、さらにまたいろいろな方向からいろいろな温度塩分ガス成分を運搬して沿岸を環流しながら相錯雑する暖流寒流の賜物である。これらの海流はこのごとく海の幸(さち)をもたらすと同時にまたわが国の気候に第二次的影響を及ぼして陸の幸をも支配する因子となっているようである。
 先住民族は貝塚(かいづか)を残している。彼らの漁場はただ浜べ岸べに限られていたであろうが、船と漁具との発達は漁場を次第に沖のほうに押し広げ同時に漁獲物の種類を豊富にした。今では発動機船に冷蔵庫と無電装置を載せて陸岸から千海里近い沖までも海の幸の領域を拡張して行った。
 魚貝のみならずいろいろな海草が国民日常の食膳(しょくぜん)をにぎわす、これらは西洋人の夢想もしないようないろいろのビタミンを含有しているらしい。また海胆(うに)や塩辛(しおから)類の含有する回生の薬物についても科学はまだ何事をも知らないであろう。肝油その他の臓器製薬の効能が医者によって認められるより何百年も前から日本人は鰹(かつお)の肝を食い黒鯛(くろだい)の胆(きも)を飲んでいたのである。
 これを要するに日本の自然界は気候学的・地形学的・生物学的その他あらゆる方面から見ても時間的ならびに空間的にきわめて多様多彩な分化のあらゆる段階を具備し、そうした多彩の要素のスペクトラが、およそ考え得らるべき多種多様な結合をなしてわが邦土を色どっており、しかもその色彩は時々刻々に変化して自然の舞台を絶え間なく活動させているのである。
 このような自然の多様性と活動性とは、そうした環境の中に保育されて来た国民にいかなる影響を及ぼすであろうか、ということはあまり多言を費やさずとも明白なことであろう。複雑な環境の変化に適応せんとする不断の意識的ないし無意識的努力はその環境に対する観察の精微と敏捷(びんしょう)を招致し養成するわけである。同時にまた自然の驚異の奥行きと神秘の深さに対する感覚を助長する結果にもなるはずである。自然の神秘とその威力を知ることが深ければ深いほど人間は自然に対して従順になり、自然に逆らう代わりに自然を師として学び、自然自身の太古以来の経験をわが物として自然の環境に適応するように務めるであろう。前にも述べたとおり大自然は慈母であると同時に厳父である。厳父の厳訓に服することは慈母の慈愛に甘えるのと同等にわれわれの生活の安寧を保証するために必要なことである。
 人間の力で自然を克服せんとする努力が西洋における科学の発達を促した。何ゆえに東洋の文化国日本にどうしてそれと同じような科学が同じ歩調で進歩しなかったかという問題はなかなか複雑な問題であるが、その差別の原因をなす多様な因子の中の少なくも一つとしては、上記のごとき日本の自然の特異性が関与しているのではないかと想像される。すなわち日本ではまず第一に自然の慈母の慈愛が深くてその慈愛に対する欲求が満たされやすいために住民は安んじてそのふところに抱かれることができる、という一方ではまた、厳父の厳罰のきびしさ恐ろしさが身にしみて、その禁制にそむき逆らうことの不利をよく心得ている。その結果として、自然の充分な恩恵を甘受すると同時に自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的知識を集収し蓄積することをつとめて来た。この民族的な知恵もたしかに一種のワイスハイトであり学問である。しかし、分析的な科学とは類型を異にした学問である。
 たとえば、昔の日本人が集落を作り架構を施すにはまず地を相することを知っていた。西欧科学を輸入した現代日本人は西洋と日本とで自然の環境に著しい相違のあることを無視し、従って伝来の相地の学を蔑視(べっし)して建てるべからざる所に人工を建設した。そうして克服し得たつもりの自然の厳父のふるった鞭(むち)のひと打ちで、その建設物が実にいくじもなく壊滅する、それを眼前に見ながら自己の錯誤を悟らないでいる、といったような場合が近ごろ頻繁(ひんぱん)に起こるように思われる。昭和九年十年の風水害史だけでもこれを実証して余りがある。
 西欧諸国を歩いたときに自分の感じたことの一つは、これらの国で自然の慈母の慈愛が案外に欠乏していることであった。洪積期(こうせきき)の遺物と見られる泥炭地(でいたんち)や砂地や、さもなければはげた岩山の多いのに驚いたことであったが、また一方で自然の厳父の威厳の物足りなさも感ぜられた。地震も台風も知らない国がたくさんあった。自然を恐れることなしに自然を克服しようとする科学の発達には真に格好の地盤であろうと思われたのである。
 こうして発達した西欧科学の成果を、なんの骨折りもなくそっくり継承した日本人が、もしも日本の自然の特異性を深く認識し自覚した上でこの利器を適当に利用することを学び、そうしてたださえ豊富な天恵をいっそう有利に享有すると同時にわが国に特異な天変地異の災禍を軽減し回避するように努力すれば、おそらく世界じゅうでわが国ほど都合よくできている国はまれであろうと思われるのである。しかるに現代の日本ではただ天恵の享楽にのみ夢中になって天災の回避のほうを全然忘れているように見えるのはまことに惜しむべきことと思われる。
 以上きわめて概括的に日本の自然の特異性について考察したつもりである。それで次にかくのごとき自然にいだかれた日本人がその環境に応じていかなる生活様式をとって来たかということを考えてみたいと思う。

     日本人の日常生活

 まず衣食住の中でもいちばんだいじな食物のことから考えてみよう。
 太古の先住民族や渡来民族は多く魚貝や鳥獣の肉を常食としていたかもしれない。いつの時代にか南洋またはシナからいろいろな農法が伝わり、一方ではまた肉食を忌む仏教の伝播(でんぱ)とともに菜食が発達し、いつとなく米穀が主食物となったのではないかというのはだれにも想像されることである。しかしそうした農業がわが国の風土にそのまま適していたか、少なくも次第に順応しつつ発達しうるものであったということがさらに根本的な理由であることを忘れてはならない。
「さかな」の「な」は菜でもあり魚でもある。副食物は主として魚貝と野菜である。これはこの二つのものの種類と数量の豊富なことから来る自然の結果であろう。またそれらのものの比較的新鮮なものが手に入りやすいこと、あるいは手に入りやすいような所に主要な人口が分布されたこと、その事実の結果が食物の調理法に特殊な影響を及ぼしているかと思われる。よけいな調味で本来の味を掩蔽(えんぺい)するような無用の手数をかけないで、その新鮮な材料本来の美味を、それに含まれた貴重なビタミンとともに、そこなわれない自然のままで摂取するほうがいちばん快適有効であることを知っているのである。
 中央アジアの旅行中シナの大官からごちそうになったある西洋人の紀行中の記事に、数十種を算する献立のどれもこれもみんな一様な黴(かび)のにおいで統括されていた、といったようなことを書いている。
 もう一つ日本人の常食に現われた特性と思われるのは、食物の季節性という点に関してであろう。俳諧歳時記(はいかいさいじき)を繰ってみてもわかるように季節に応ずる食用の野菜魚貝の年週期的循環がそれだけでも日本人の日常生活を多彩にしている。年じゅう同じように貯蔵した馬鈴薯(ばれいしょ)や玉ねぎをかじり、干物塩物や、季節にかまわず豚や牛ばかり食っている西洋人やシナ人、あるいはほとんど年じゅう同じような果実を食っている熱帯の住民と、「はしり」を喜び「しゅん」を貴(たっと)ぶ日本人とはこうした点でもかなりちがった日常生活の内容をもっている。このちがいは決してそれだけでは済まない種類のちがいである。
 衣服についてもいろいろなことが考えられる。菜食が発達したとほぼ同様な理由から植物性の麻布綿布が主要な資料になり、毛皮や毛織りが輸入品になった。綿布麻布が日本の気候に適していることもやはり事実であろうと思われる。養蚕が輸入されそれがちょうどよく風土に適したために、後には絹布が輸出品になったのである。
 衣服の様式は少なからずシナの影響を受けながらもやはり固有の気候風土とそれに準ずる生活様式に支配されて固有の発達と分化を遂げて来た。近代では洋服が普及されたが、固有な和服が跡を絶つ日はちょっと考えられない。たとえば冬湿夏乾の西欧に発達した洋服が、反対に冬乾夏湿の日本の気候においても和服に比べて、その生理的効果がすぐれているかどうかは科学的研究を経た上でなければにわかに決定することができない。しかし、日本へ来ている西洋人が夏は好んで浴衣(ゆかた)を着たり、ワイシャツ一つで軽井沢(かるいざわ)の町を歩いたりすることだけを考えても、和服が決して不合理なものばかりでないということの証拠がほかにもいろいろ捜せば見つかりそうに思われる。しかしおかしい事には日本の学者でまだ日本服の気候学的物理的生理的の意義を充分詳細に研究し尽くした人のあることを聞かないようである。これは私の寡聞のせいばかりではないらしい。そういう事を研究することを喜ばないような日本現時の不思議な学風がそういう研究の出現を阻止しているのではないかと疑われる。
 余談ではあるが、先日田舎(いなか)で農夫の着ている簔(みの)を見て、その機構の巧妙と性能の優秀なことに今さらに感心した。これも元はシナあたりから伝来したものかもしれないが、日本の風土に適合したために土着したものであろう。空気の流通がよくてしかも雨やあらしの侵入を防ぐという点では、バーベリーのレーンコートよりもずっとすぐれているのではないかという気がする。あれも天然の設計に成る鳥獣の羽毛の機構を学んで得たインジェニュイティーであろうと想像される。それが今日ではほとんど博物館的存在になってしまった。
 日本の家屋が木造を主として発達した第一の理由はもちろん至るところに繁茂した良材の得やすいためであろう、そうして頻繁(ひんぱん)な地震や台風の襲来に耐えるために平家造りか、せいぜい二階建てが限度となったものであろう。五重の塔のごときは特例であるが、あれの建築に示された古人の工学的才能は現代学者の驚嘆するところである。
 床下の通風をよくして土台の腐朽を防ぐのは温湿の気候に絶対必要で、これを無視して造った文化住宅は数年で根太(ねだ)が腐るのに、田舎(いなか)の旧家には百年の家が平気で立っている。ひさしと縁側を設けて日射と雨雪を遠ざけたりしているのでも日本の気候に適応した巧妙な設計である。西洋人は東洋暖地へ来てやっとバンガローのベランダ造りを思いついたようである。
 障子というものがまた存外巧妙な発明である。光線に対しては乳色ガラスのランプシェードのように光を弱めずに拡散する効果があり、風に対してもその力を弱めてしかも適宜な空気の流通を調節する効果をもっている。
 日本の家は南洋風で夏向きにできているから日本人は南洋から来たのだという説を立てた西洋人がいた。原始的にはあるいは南洋に系統を引いていないとも限らないであろうが、しかしたとえそうであっても現時の日本家屋は日本の気候に適合するように進化し、また日本の各地方でそれぞれの気候的特徴に応じて多少ずつは分化した発達をも遂げて来ている。屋根の勾配(こうばい)やひさしの深さなどでも南国と北国とではいくらかそれぞれに固有な特徴が見られるように思われる。
 近来は鉄筋コンクリートの住宅も次第にふえるようである。これは地震や台風や火事に対しては申しぶんのない抵抗力をもっているのであるが、しかし一つ困ることはあの厚い壁が熱の伝導をおそくするためにだいたいにおいて夏の初半は屋内の湿度が高く冬の半分は乾燥がはげしいという結果になる。西欧諸国のように夏が乾期で冬が湿期に相当する地方だとちょうどいいわけであるが、日本はちょうど反対で夏はたださえ多い湿気が室内に入り込んで冷却し相対湿度を高めたがっているのであるから、屋内の壁の冷え方がひどければひどいほど飽和がひどくなってコンクリート壁は一種の蒸留器の役目をつとめるようなことになりやすい。冬はまさにその反対に屋内の湿気は外へ根こそぎ絞り取られる勘定である。
 日本では、土壁の外側に羽目板を張ったくらいが防寒防暑と湿度調節とを両立させるという点から見てもほぼ適度な妥協点をねらったものではないかという気がする。
 台湾(たいわん)のある地方では鉄筋コンクリート造りの鉄筋がすっかり腐蝕(ふしょく)して始末に困っているという話である。内地でもいつかはこの種の建築物の保存期限が切れるであろうが、そうした時の始末が取り越し苦労の種にはなりうるであろう。コンクリート造りといえども長い将来の間にまだ幾多の風土的な試練を経た上で、はじめてこの国土に根をおろすことになるであろう。試験はこれからである。
 住居に付属した庭園がまた日本に特有なものであって日本人の自然観の特徴を説明するに格好な事例としてしばしば引き合いに出るものである。西洋人は自然を勝手に手製の鋳型にはめて幾何学的な庭を造って喜んでいるのが多いのに、日本人はなるべく山水の自然をそこなうことなしに住居のそばに誘致し自分はその自然の中にいだかれ、その自然と同化した気持ちになることを楽しみとするのである。
 シナの庭園も本来は自然にかたどったものではあろうが、むやみに奇岩怪石を積み並べた貝細工の化け物のようなシナふうの庭は、多くの純日本趣味の日本人の目には自然に対する変態心理者の暴行としか見えないであろう。
 盆栽生け花のごときも、また日本人にとっては庭園の延長でありまたある意味で圧縮でもある。箱庭は言葉どおりに庭園のミニアチュアである。床の間に山水花鳥の掛け物をかけるのもまたそのバリアチオンと考えられなくもない。西洋でも花瓶(かびん)に花卉(かき)を盛りバルコンにゼラニウムを並べ食堂に常緑樹を置くが、しかし、それは主として色のマッスとしてであり、あるいは天然の香水びんとしてであるように見える。「枝ぶり」などという言葉もおそらく西洋の国語には訳せない言葉であろう。どんな裏店(うらだな)でも朝顔の鉢(はち)ぐらいは見られる。これが見られる間は、日本人は西洋人にはなりきれないし、西洋の思想やイズムはそのままの形では日本の土に根をおろしきれないであろうとは常々私の思うことである。
 日本人の遊楽の中でもいわゆる花見遊山はある意味では庭園の拡張である。自然を庭に取り入れる彼らはまた庭を山野に取り広げるのである。
 月見をする。星祭りをする。これも、少し無理な言い方をすれば庭園の自然を宇宙空際にまで拡張せんとするのであると言われないこともないであろう。
 日本人口の最大多数の生産的職業がまた植物の栽培に関しているという点で庭園的な要素をもっている。普通な農作のほかに製茶製糸養蚕のごときものも、鉱業や近代的製造工業のごときものに比較すればやはり庭園的である。風にそよぐ稲田、露に浴した芋畑を自然観賞の対象物の中に数えるのが日本人なのである。
 農業者はまたあらゆる職業者の中でも最も多く自然の季節的推移に関心をもち、自然の異常現象を恐れるものである。この事が彼らの不断の注意を自然の観察にふり向け、自然の命令に従順に服従することによってその厳罰を免れその恩恵を享有するように努力させる。
 反対の例を取ってみるほうがよくわかる。私の知人の実業家で年じゅう忙しい人がある。この人にある時私は眼前の若葉の美しさについての話をしたら、その人は、なるほど今は若葉時かと言ってはじめて気がついたように庭上を見渡した。忙しい忙しいで時候が今どんなだかそんなことを考えたりする余裕はないということであった。こういう人ばかりであったら農業は成立しない。
 津々浦々に海の幸(さち)をすなどる漁民や港から港を追う水夫船頭らもまた季節ことに日々の天候に対して敏感な観察者であり予報者でもある。彼らの中の古老は気象学者のまだ知らない空の色、風の息、雲のたたずまい、波のうねりの機微なる兆候に対して尖鋭(せんえい)な直観的洞察力(どうさつりょく)をもっている。長い間の命がけの勉強で得た超科学的の科学知識によるのである。それによって彼らは海の恩恵を受けつつ海の禍(わざわい)を避けることを学んでいるであろう。それで、生活に追われる漁民自身は自覚的には海の自然を解説することはしないとしても、彼らを通して海の自然が国民の大多数の自然観の中に浸潤しつつ日本人固有の海洋観を作り上げたものであろう。そうしてさらにまた山幸彦(やまさちひこ)・海幸彦(うみさちひこ)の神話で象徴されているような海陸生活の接触混合が大八州国(おおやしま)の住民の対自然観を多彩にし豊富にしたことは疑いもないことである。
 以上述べきたったような日本の自然の特異性またそれによって規約された日本人の日常生活の特異性はその必然の効果を彼らの精神生活に及ぼさなければならないはずである。この方面に関しては私ははなはだ不案内であるが上述の所説の行きがかり上少しばかり蛇足(だそく)を加えることを許されたい。

     日本人の精神生活

 単調で荒涼な砂漠(さばく)の国には一神教が生まれると言った人があった。日本のような多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で八百万(やおよろず)の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは当然のことであろう。山も川も木も一つ一つが神であり人でもあるのである。それをあがめそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は至るところの集落に鎮守の社を建てさせた。これも日本の特色である。
 仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し持続したのはやはりその教義の含有するいろいろの因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。鴨長明(かものちょうめい)の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁(ひんぱん)でしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑(ごぞうろっぷ)にしみ渡っているからである。
 日本において科学の発達がおくれた理由はいろいろあるであろうが、一つにはやはり日本人の以上述べきたったような自然観の特異性に連関しているのではないかと思われる。雨のない砂漠(さばく)の国では天文学は発達しやすいが多雨の国ではそれが妨げられたということも考えられる。前にも述べたように自然の恵みが乏しい代わりに自然の暴威のゆるやかな国では自然を制御しようとする欲望が起こりやすいということも考えられる。全く予測し難い地震台風に鞭打(むちう)たれつづけている日本人はそれら現象の原因を探究するよりも、それらの災害を軽減し回避する具体的方策の研究にその知恵を傾けたもののように思われる。おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりに多彩であまりに無常であったかもしれないのである。
 現在の意味での科学は存在しなかったとしても祖先から日本人の日常における自然との交渉は今の科学の目から見ても非常に合理的なものであるという事は、たとえば日本人の衣食住について前条で例示したようなものである。その合理性を「発見」し「証明」する役目が将来の科学者に残された仕事の分野ではないかという気もするのである。
 ともかくも日本で分析科学が発達しなかったのはやはり環境の支配によるものであって、日本人の頭脳の低級なためではないということはたしかであろうと思う。その証拠には日本古来の知恵を無視した科学が大恥をかいた例は数えれば数え切れないほどあるのである。
 日本人の精神生活の諸現象の中で、何よりも明瞭(めいりょう)に、日本の自然、日本人の自然観、あるいは日本の自然と人とを引きくるめた一つの全機的な有機体の諸現象を要約し、またそれを支配する諸方則を記録したと見られるものは日本の文学や諸芸術であろう。
 記紀を文学と言っては当たらないかもしれないが、たとえばその中に現われた神話中に暗示された地球物理的現象の特異性についてはかつて述べたことがあるから略する。
 おとぎ話や伝説口碑のようなものでも日本の自然とその対人交渉の特異性を暗示しないものはないようである。源氏物語や枕草子(まくらのそうし)などをひもといてみてもその中には「日本」のあらゆる相貌(そうぼう)を指摘する際に参考すべき一種の目録書きが包蔵されている事を認めることができるであろう。
 こういう点で何よりも最も代表的なものは短歌と俳句であろう。この二つの短詩形の中に盛られたものは、多くの場合において、日本の自然と日本人との包含によって生じた全機的有機体日本が最も雄弁にそれ自身を物語る声のレコードとして見ることのできるものである。これらの詩の中に現われた自然は科学者の取り扱うような、人間から切り離した自然とは全く趣を異にしたものである。また単に、普通にいわゆる背景として他所から借りて来て添加したものでもない。人は自然に同化し、自然は人間に消化され、人と自然が完全な全機的な有機体として生き動くときにおのずから発する楽音のようなものであると言ってもはなはだしい誇張ではあるまいと思われるのである。西洋人の詩にも漢詩にも、そうした傾向のものがいくらかはあるかもしれないが、浅学な私の知る範囲内では、外国の詩には自我と外界との対立がいつもあまりに明白に立っており、そこから理屈(フィロソフィー)が生まれたり教訓(モラール)が組み立てられたりする。万葉の短歌や蕉門(しょうもん)の俳句におけるがごとく人と自然との渾然(こんぜん)として融合したものを見いだすことは私にははなはだ困難なように思われるのである。
 短歌俳諧(はいかい)に現われる自然の風物とそれに付随する日本人の感覚との最も手近な目録索引としては俳諧歳時記(はいかいさいじき)がある。俳句の季題と称するものは俳諧の父なる連歌を通して歴史的にその来歴を追究して行くと枕草子や源氏物語から万葉の昔にまでもさかのぼることができるものが多数にあるようである。私のいわゆる全機的世界の諸断面の具象性を決定するに必要な座標としての時の指定と同時にまた空間の標示として役立つものがこのいわゆる季題であると思われる。もちろん短歌の中には無季題のものも決して少なくはないのであるが、一首一首として見ないで、一人の作者の制作全体を通じて一つの連作として見るときには、やはり日本人特有の季題感が至るところに横溢(おういつ)していることが認められるであろうと思われる。
 枕詞(まくらことば)と称する不思議な日本固有の存在についてはまだ徹底的な説明がついていないようである。この不思議を説明するかぎの一つが上述の所説からいくらか暗示されるような気がする。統計を取ってみたわけではないが、試みに枕詞の語彙(ごい)を点検してみると、それ自身が天然の景物を意味するような言葉が非常に多く、中にはいわゆる季題となるものも決して少なくない。それらが表面上は単なる音韻的な連鎖として用いられ、悪く言えば単なる言葉の遊戯であるかのごとき観を呈しているにかかわらず、実際の効果においては枕詞の役目が決して地口やパンのそれでないことは多くの日本人の疑わないところである。しかしそれが何ゆえにそうであるかの説明は容易でない。私のひそかに考えているところでは、枕詞がよび起こす連想の世界があらかじめ一つの舞台装置を展開してやがてその前に演出さるべき主観の活躍に適当な環境を組み立てるという役目をするのではないかと思われる。換言すればある特殊な雰囲気(ふんいき)をよび出すための呪文(じゅもん)のような効果を示すのではないかと思われる。しかし、この呪文は日本人のごとき特異な自然観の所有者に対してのみ有効な呪文である。自然を論理的科学的な立場から見ることのみを知ってそれ以外の見方をすることの可能性に心づかない民族にとっては、それは全くのナンセンスであり悪趣味でさえもありうるのである。
 こんなことを考えただけでも、和歌を外国語に翻訳しただけで外国人に味わわせようという試みがいかに望み少ないものであるかを了解することができるであろう。また季題なしの新俳句を製造しようとするような運動がいかに人工的なものであるかを悟ることができるであろうと思われる。
 日本人の特異な自然観の特異性をある一方面に分化させ、その方向に異常な発達を遂げさせたものは一般民衆の間における俳諧発句(はいかいほっく)の流行であったと思われる。かえってずっと古い昔には民衆的であったかと思われる短歌が中葉から次第に宮廷人の知的遊戯の具となりあるいは僧侶(そうりょ)の遁世哲学(とんせいてつがく)を諷詠(ふうえい)するに格好な詩形を提供していたりしたのが、後に連歌という形式から一転して次第にそうした階級的の束縛を脱しいわゆる俳諧から発句に進化したために著しくその活躍する世界を拡張して詩材の摂取範囲を豊富にした。それと同時にまた古来の詩人によって養われ造り上げられて来た日本固有の自然観を広く一般民衆の間に伝播(でんぱ)するという効果を生じたであろうと想像される。俳句を研究してある程度まで理解しているあるフランス人に言わせると日本人は一人残らずみんな詩人であるという。これは単に俳句の詩形が短くてだれでもまねやすいためであり、単にそれだけであると思ってはならない。そういう詩形を可能ならしめる重大な原理がまさに日本人の自然観の特異性の中に存し、その上に立脚しているという根本的な事実を見のがしてはならない。そういう特異な自然観が国民全体の間にしみ渡っているという必須条件(ひっすじょうけん)が立派に満足されているという事実を忘却してはならないのである。
 短歌や俳句が使い古したものであるからというだけの単純な理由からその詩形の破棄を企て、内容の根本的革新を夢みるのもあえてとがむべき事ではないとしても、その企図に着手する前に私がここでいわゆる全機的日本の解剖学と生理学を充分に追究し認識した上で仕事に取り掛からないと、せっかくな企図があるいはおそらく徒労に終わるのではないかと憂慮されるのである。
 美術工芸に反映した日本人の自然観の影響もまた随所に求めることができるであろう。
 日本の絵画には概括的に見て、仏教的漢詩的な輸入要素のほかに和歌的なものと俳句的なものとの三角形的な対立が認められ、その三角で与えられるような一種の三角座標をもってあらゆる画家の位置を決定することができそうに思われる。たとえば狩野(かのう)派・土佐(とさ)派・四条(しじょう)派をそれぞれこの三角の三つの頂点に近い所に配置して見ることもできはしないか。
 それはいずれにしてもこれらの諸派の絵を通じて言われることは、日本人が輸入しまた創造しつつ発達させた絵画は、その対象が人間であっても自然であっても、それは決して画家の主観と対立した客観のそれではなく両者の結合し交錯した全機的な世界自身の表現であるということである。西洋の画家が比較的近年になって、むしろこうした絵画に絵画本来の使命があるということを発見するようになったのは、従来の客観的分析的絵画が科学的複製技術の進歩に脅かされて窮地に立った際、偶然日本の浮世絵などから活路を暗示されたためだという説もあるようである。
 次に音楽はどうであるか。日本の民衆音楽中でも、歌詞を主としない、純粋な器楽に近いものとしての三曲のごときも、その表現せんとするものがしばしば自然界の音であり、また楽器の妙音を形容するために自然の物音がしばしば比較に用いられる。日本人は音を通じても自然と同化することを意図としているようにも思われる。

     結語

 以上の所説を要約すると、日本の自然界が空間的にも時間的にも複雑多様であり、それが住民に無限の恩恵を授けると同時にまた不可抗な威力をもって彼らを支配する、その結果として彼らはこの自然に服従することによってその恩恵を充分に享楽することを学んで来た、この特別な対自然の態度が日本人の物質的ならびに精神的生活の各方面に特殊な影響を及ぼした、というのである。
 この影響は長所をもつと同時にその短所をももっている。それは自然科学の発達に不利であった。また芸術の使命の幅員を制限したというとがめを受けなければならないかもしれない。しかし、それはやむを得ないことであった。ちょうど日本の風土と生物界とがわれわれの力で自由にならないと同様にどうにもならない自然の現象であったのである。
 地理的条件のために長い間鎖国状態を保って来た日本がようやく世界の他の部分と接触するようになったのは一つには科学の進歩によって交通機関が次第に発達したおかげであるとも見られる。実際交通機関の発達は地球の大いさを縮め、地理的関係に深甚(しんじん)な変化を与えた。ある遠い所がある近い所よりも交通的には近くなったりして、言わば空間がねじれゆがんで来た。距離の尺度と時間の尺度もいろいろに食いちがって来た。そうして人は千里眼順風耳を獲得し、かつて夢みていた鳥の翼を手に入れた。このように、自然も変わり人間も昔の人間とちがったものになったとすると、問題の日本人の自然観にもそれに相当してなんらかの変化をきたさなければならないように思われる。そうして、この新しい日本人が新しい自然に順応するまでにはこれから先相当に長い年月の修練を必要とするであろうと思われる。多くの失敗と過誤の苦(にが)い経験を重ねなければなるまいと思われる。現にそうした経験を今日われわれは至るところに味わいつつあるのである。
 そうはいうものの、日本人はやはり日本人であり日本の自然はほとんど昔のままの日本の自然である。科学の力をもってしても、日本人の人種的特質を改造し、日本全体の風土を自由に支配することは不可能である。それにもかかわらずこのきわめて見やすい道理がしばしば忘れられる。西洋人の衣食住を模し、西洋人の思想を継承しただけで、日本人の解剖学的特異性が一変し、日本の気候風土までも入れ代わりでもするように思うのは粗忽(そこつ)である。
 余談ではあるが、皮膚の色だけで、人種を区別するのもずいぶん無意味に近い分類である。人と自然とを合して一つの有機体とする見方からすればシナ人と日本人とは決してあまり近い人種ではないような気もする。また東洋人とひと口に言ってしまうのもずいぶん空虚な言葉である。東洋と称する広い地域の中で日本の風土とその国民とはやはり周囲と全くかけ離れた「島」を作っているのである。
 私は、日本のあらゆる特異性を認識してそれを生かしつつ周囲の環境に適応させることが日本人の使命であり存在理由でありまた世界人類の健全な進歩への寄与であろうと思うものである。世界から桜の花が消えてしまえば世界はやはりそれだけさびしくなるのである。

(追記) 以上執筆中雑誌「文学」の八月特集号「自然の文学」が刊行された。その中には、日本の文学と日本の自然との関係が各方面の諸家によって詳細に論述されている。読者はそれらの有益な所説を参照されたい。またその巻頭に掲載された和辻哲郎(わつじてつろう)氏の「風土の現象」と題する所説と、それを序編とする同氏の近刊著書「風土」における最も独創的な全機的自然観を参照されたい。自分の上述の所説の中には和辻氏の従来すでに発表された自然と人間との関係についての多くの所論に影響されたと思われる点が少なくない。また友人小宮豊隆(こみやとよたか)・安倍能成(あべよししげ)両氏の著書から暗示を受けた点も多いように思われるのである。
 なお拙著「蒸発皿(じょうはつざら)」に収められた俳諧(はいかい)や連句に関する所説や、「螢光板(けいこうばん)」の中の天災に関する諸編をも参照さるれば大幸である。
(昭和十年十月、東洋思潮)



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