小泉八雲秘稿画本「妖魔詩話」
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著者名:寺田寅彦 

 十余年前に小泉八雲(こいずみやくも)の小品集「心」を読んだことがある。その中で今日までいちばん深い印象の残っているのはこの書の付録として巻末に加えられた「三つの民謡」のうちの「小栗判官(おぐりはんがん)のバラード」であった。日本人の中の特殊な一群の民族によっていつからとも知れず謡(うた)い伝えられたこの物語には、それ自身にすでにどことなくエキゾティックな雰囲気がつきまとっているのであるが、それがこの一風変わった西欧詩人の筆に写し出されたのを読んでみると実に不思議な夢の国の幻像を呼び出す呪文(インカンテーション)ででもあるように思われて来る。物語の背景は現にわれわれの住むこの日本のようであるが、またどこかしら日本を遠く離れた、しかし日本とは切っても切れない深い因縁でつながれた未知の国土であるような気もする。そうかと思うとどこかまたイギリスのノーザンバーランドへんの偏僻(へんぺき)な片田舎(かたいなか)の森や沼の間に生まれた夢物語であるような気もするのである。
 それからずっと後に同じ著者の「怪談」を読んだときもこれと全く同じような印象を受けたのであった。
 今度小山(おやま)書店から出版された「妖魔詩話(ようましわ)」の紹介を頼まれて、さて何か書こうとするときに、第一に思い出すのはこの前述の不思議な印象である。従って眼前の「妖魔詩話」が私に呼びかける呼び声もまたやはりこの漠然(ばくぜん)とした不思議な印象の霧の中から響いてくるのは自然の宿命である。
 八雲氏の夫人が古本屋から掘り出して来たという「狂歌百物語」の中から気に入った四十八首を英訳したのが「ゴブリン・ポエトリー」という題で既刊の著書中に採録されている。それの草稿が遺族の手もとにそのままに保存されていたのを同氏没後満三十年の今日記念のためにという心持ちでそっくりそれを複製して、これに原文のテキストと並行した小泉一雄(こいずみかずお)氏の邦文解説を加えさらに装幀(そうてい)の意匠を凝らしてきわめて異彩ある限定版として刊行したものだそうである。
 なんといってもこの本でいちばんおもしろいものはやはりこの原稿の複製写真である。オリジナルは児童用の粗末な藁紙(わらがみ)ノートブックに当時丸善(まるぜん)で売っていた舶来の青黒インキで書いたものだそうであるが、それが変色してセピアがかった墨色になっている。その原稿と色や感じのよく似た雁皮(がんぴ)鳥の子紙に印刷したものを一枚一枚左側ページに貼付(てんぷ)してその下に邦文解説があり、反対の右側ページには英文テキストが印刷してある。
 書物の大きさは三二×四三・五センチメートルで、用紙は一枚漉(いちまいず)きの純白の鳥の子らしい。表紙は八雲氏が愛用していた蒲団地(ふとんじ)から取ったものだそうで、紺地に白く石燈籠(いしどうろう)と萩(はぎ)と飛雁(ひがん)の絵を飛白染(かすりぞ)めで散らした中に、大形の井の字がすりが白くきわ立って織り出されている。
 これもいかにも八雲氏の熱愛した固有日本の夢を象徴するもののように見えておもしろい。このような蒲団地は、今日ではもうたぶんデパートはもちろんどこの呉服屋にも見つからないであろう。それをわざわざ調製したのだそうである。小山書店主人のなみなみならぬ熱心な努力が、これらの装幀にも現われているようである。この異彩ある珍書は著者、解説者、装幀意匠者、製紙工、染織工、印刷工、製本工の共同制作によってできあがった一つの総合芸術品としても愛書家の秘蔵に値するものであろう。ただ英文活字に若干遺憾の点があるが、これもある意味ではこうした限定版の歴史的な目印になってかえっておもしろいかもしれないのである。
 複製原稿で最もおもしろいと思うのは、詩稿のわきに描き添えられたいろいろの化け物のスケッチであろう。それが実にうまい絵である。そうして、それはやはり日本の化け物のようでもあるが、その中のあるものたとえば「古椿(ふるつばき)」や「雪女」や「離魂病」の絵にはどこかに西欧の妖精(ようせい)らしい面影が髣髴(ほうふつ)と浮かんでいる。著者の小品集「怪談」の中にも出て来る「轆轤首(ろくろくび)」というものはよほど特別に八雲氏の幻想に訴えるものが多かったと見えて、この集中にも、それの素描の三つのヴェリエーションが載せられている。その一つは夫人、もう一つは当時の下婢(かひ)の顔を写したものだそうである。前者の口からかたかなで「ケタケタ」という妖魔(ようま)の笑い声が飛び出した形に書き添えてあるのが特別の興味を引く。
 その他にもたとえば「雪女郎」の絵のあるページの片すみに「マツオオリヒシグ」としるしたり、また「平家蟹(へいけがに)」の絵の横に「カゲノゴトクツキマタウ」と書いて、あとで「マタウ」のタを消してトに訂正してあったりするのをしみじみ見ていると、当時における八雲氏の家庭生活とか日常の心境とかいうものの一面がありありと想像されるような気がしてくるのである。おそらく夕飯後の静かな時間などに夫人を相手にいろいろのことを質問したりして、その覚え書きのようなつもりで紙片の端に書きとめたのではないかという想像が起こってくる。
「船幽霊」の歌の上に黒猫(くろねこ)が描いてあったり、「離魂病」のところに奇妙な蛾(が)の絵が添えてあったりするのもこの詩人の西欧的な空想と連想の動きの幅員をうかがわせるもののようである。
 一雄(かずお)氏の解説も職業文人くさくない一種の自由さがあってなかなかおもしろく読まれる。八雲氏令孫の筆を染めたという書名題字もきわめて有効に本書の異彩を添えるものである。
 小泉八雲というきわめて独自な詩人と彼の愛したわが日本の国土とを結びつけた不可思議な連鎖のうちには、おそらくわれわれ日本人には容易に理解しにくいような、あるいは到底思いもつかないような、しかしこの人にとってはきわめて必然であったような特殊な観点から来る深い認識があったのではないかと想像される。それを追跡し分析し研究することはわれわれならびに未来の日本人にとってきわめて興味あり有意義であるのはもちろんであるが、そのような研究に意外な光明を投げるような発見の糸口があるいはかえってこうした草稿の断片の中に見いだされないとも限らないであろう。
 たとえば「怪談」の中にも現われまたこの百物語の数々の化け物の中から特に選び出される光栄をもったような化け物どもが、どういう種類の化け物であって、そのいかなる点がこの人にアッピールしたか、またそれがどういう点で過去数千年の日本民族の精神生活と密接につながっているか。こんな事を考えてみるだけでもそこにいろいろなまじめな興味ある問題を示唆されるのであるが、その示唆の呪法(じゅほう)の霊験がこの肉筆の草稿からわれわれの受けるなまなましい実感によっていっそう著しく強められるであろうと思われるのである。
(昭和九年十月、帝国大学新聞)



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