自由画稿
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著者名:寺田寅彦 

     はしがき

 これからしばらく続けて筆を執ろうとする随筆断片の一集団に前もって総括的な題をつけようとすると存外むつかしい。書いてゆくうちに何を書くことになるかもわからないのに、もし初めに下手(へた)な題をつけておくとあとになってその題に気兼ねして書きたいことが自在に書けなくなるという恐れがある。それだから、いつもは、題などはつけないで書きたいことをおしまいまで書いてしまって、なんべんも読み返して手を入れた上で、いよいよ最後に題をきめて冒頭に書き入れることにしているのである。しかし今度は同じ題で数か月続けようとするのだから事情が少しちがって来る。もっとも、有りふれた「無題」とか「断片」とかいう種類のものにすればいちばん無難ではあるが、それもなんだかあまり卑怯(ひきょう)なような気がする。いろいろ考えているとき座右の楽譜の巻頭にあるサン・サーンの Rondo Capriccioso という文字が目についた。こういう題もいいかと思う。しかし、ずっと前に同じような断片群にターナーの画帖(がじょう)から借用した Liber Studiorum という名前をつけたことがあったが、それを文壇の某大家が日刊新聞の文芸時評で紹介してくれたついでに「こんなラテン語の名前などつけるものの気が知れない」と言って非難されたことがあるので、今度もこうした名前は慎むほうがよいであろうと思う。いろいろ考えた末に結局平凡な、表題のとおりの名前を選むことになってしまったわけである。全くむつかしいものである。
 この集の内容は例によって主として身辺瑣事(さじ)の記録や追憶やそれに関する瑣末(さまつ)の感想である。こういうものを書く場合に何かひと言ぐらい言い訳のようなことをかく人も多いようである。考え方によればそれも必要かもしれない。しかし、いかなる個人でもその身辺にはいやでも時代の背景が控えている。それで一個人の身辺瑣事の記録には筆者の意識いかんにかかわらず必ず時代世相の反映がなければならない。また筆者の愚痴な感想の中にも不可避的にその時代の流行思想のにおいがただよっていなければならない。そういうわけであるから現代の読者にはあまりに平凡な尋常茶飯事(じんじょうさはんじ)でも、半世紀後の好事家(こうずか)には意外な掘り出し物の種を蔵しているかもしれない。明治時代の「風俗画報」がわれわれに無限の資料を与え感興をそそるのもそのためであろう。ただし、そういう役に立つためには記録の忠実さと感想の誠実さがなければならないであろう。
 これが私の平生こうした断片的随筆を書く場合のおもなる動機であり申し訳である。人にものを教えたり強(し)いたりする気ははじめからないつもりである。
 集中には科学知識を取り扱ったものも自然にしばしば出て来るかもしれない。しかしそれも決して科学知識の普及などということを目的として書くのではない。ただ自分でほんとうにおもしろいと感じたことの覚え書きか、さもなければ譬喩(ひゆ)か説明のために便利な道具として使うための借りものに過ぎない。しかし、そうかと言ってその結果がいくぶんか科学知識普及に役立つことになってもそれはさしつかえはないであろうと思っている。
 ついでながら、断片的な通俗科学的読み物は排斥すべきものだというような事を新聞紙上で論じた人が近ごろあったようであるが、あれは少し偏頗(へんぱ)な僻論(へきろん)であると私には思われた。どんな瑣末(さまつ)な科学的知識でも、その背後には必ずいろいろな既知の方則が普遍的な背景として控えており、またその上に数限りもない未知の問題の胚芽(はいが)が必ず含まれているのである。それで一見いわゆるはなはだしく末梢的(まっしょうてき)な知識の煩瑣(はんさ)な解説でも、その書き方とまたそれを読む人の読み方によっては、その末梢的問題を包含する科学の大部門の概観が読者の眼界の地平線上におぼろげにでもわき上がることは可能でありまたしばしば実現する事実である。読者の頭脳次第では、かなりつまらぬ科学記事からでもいろいろな重大問題の暗示を感知し発見し摂取し発展させることもしばしばあるのである。一方ではまた浅薄な概括的論述を羅列(られつ)した通俗科学的読み物がはなはだしく読者をあやまるという場合もしばしばあるであろう。それで、ただ一概に断片的な通俗科学はいかなる場合でも排斥すべきものであるかのような感を読者にいだかせるような所説に対しては、少なくも若干の付加修正を必要とするであろうと思われた。この機会についでながら付記しておく次第である。

     一 腹の立つ元旦

 正月元旦(がんたん)というときっときげんが悪くなって苦(にが)い顔をして家族一同にも暗い思いをさせる老人があった。それは温厚篤実をもって聞こえた人で世間ではだれ一人非難するもののないほどまじめな親切な老人であって、そうして朝晩に一度ずつ神棚(かみだな)の前に礼拝し、はるかに皇城の空を伏しおがまないと気の済まない人であった。それが年の始めのいちばんだいじな元旦の朝となると、きまってきげんが悪くなって、どうかすると煙草盆(たばこぼん)の灰吹きを煙管(きせる)の雁首(がんくび)で、いつもよりは耳だって強くたたくこともしばしばあった。
 その老人のむすこにはその理由がどうしてもわからなかったのであったが、それから二三十年たってその老人もなくなって後に、そのむすこが自分の家庭をもつようになって、そうして生活もやや安定して来たころのある年の正月元旦(がんたん)の朝清らかな心持ちで起床した瞬間からなんとなく腹の立つような事がいろいろ目についた。きれいに片付いているべき床の間が取り散らされていたり、玄関の障子が破けていたり、女中が台所で何か陶器を取り落としたような音を立てたり、平生なら別になんでもないことが、その元旦に限ってひどく気になり、不愉快になり、やがて腹立たしく思われて来るのであった。その一方ではまた、きょうは元旦だから腹を立てたりしてはいけないという抑制的心理が働いて来る、そうするとかえってそれを押し倒すような勢いで腹立たしさが腹の底から持ち上がって来るのであった。その瞬間にこの男は突然に、実に突然になくなった父のことを思い出してびっくりした。そうして、その瞬間にはじめて今までどうしてもわからなかった、昔の父の元旦の心持ちを理解することができたのである。
 それからまた数年たって後のことである。このむすこのむすこがある年の正月に何かちょっとしたことがなるべきようになっていなかったと言ってひどくその母や女中に対しておこっているのをその父親が発見してひどくびっくりし、そうしてまた非常に恐ろしくなったのだそうである。
 こういう話を聞いてひどく感心したことがある。つまらない笑い話のようで実はかなり深刻な人間心理の一面を暴露していると思う。こんなのも何かの小説の種にはならないものかと思う。
 それはとにかく、正月をめでたいという意味が子供の時分から私にはよくわからなかったが、年を取ってもやはりまだ充分にはわからない。少なくも自分の場合では正月というととかくめでたからぬことが重畳して発生するように思われるのである。のみならず平日ならそれほどにも感じないような些細(ささい)なめでたからぬことが、正月であるがために特にふめでたに感ぜられる。これはおそらくだれでも同様に感じることであろう。たとえば小さい子供がおおぜいあるような家ではちょうど大晦日(おおみそか)や元日などによくだれかが風邪(かぜ)をひいて熱を出したりする。元旦(がんたん)だからというのでつい医者を呼ばなかったばかりに病気が悪化するといったような場合もありうるであろう。
 高等学校時代のある年の元旦に二三の同窓といっしょに諸先生の家へ年始回りをしていたとき、ある先生の門前まで来ると連れの一人が立ち止まって妙な顔をすると思ったら突然仰向けにそりかえって門松に倒れかかった。そうしてそれなりに地面に寝てしまって口から泡(あわ)を吹き出した。驚いて先生を呼び出して病人をかつぎ込んでから顔へ水をぶっかけたり大騒ぎをした。幸いにまもなく正気づきはしたが、とにかくこれがちょうど元旦であったために特に大きな不祥事になってしまったのである。
 正月元旦は年に一度だから幸いである。もしこれが一年に三度も四度もあったらたいへんであろうと思われるが、しかしいっそのことこれが一年に十二回とか五十回とかあるようになればまたかえって楽になるかもしれない。そう思ってみると、一年に一回ずつ特別な日を設けて、それを理由などかまわずとにもかくにもめでたい日ときめてしまって強(し)いてめでたがり、そうしてそのたびに発生するいろいろな迷惑をいっそう痛切に受難することにもなかなか深い意義があるような気がしてくる。
 正月をめでたいとして祝うことを始めて発明した人があったとしたら、その人はやはりなかなかえらい人であったろうと思われるのである。

     二 こじきの体験

 子供の時分、たぶん七八歳ぐらいのころかと思うがとにかくあまり自慢にならぬこじきの体験をしたことがある。
 そのころ郷里高知(こうち)では正月の十四日の晩に子供らが「粥釣(かゆつ)り」と称して近所の家を回って米やあずきや切り餅(もち)をもらって歩いて、それで翌朝十五日の福の粥を作るという古い習慣が行なわれていた。素面ではさすがにぐあいが悪いと見えてみんな道化た仮面をかぶって行くことになっていたので、その時期が来ると市中の荒物屋やおもちゃ屋にはおかめ、ひょっとこ、桃太郎、さる、きつねといったようないろいろの仮面を売っていた。泥色(どろいろ)をした浅草紙を型にたたきつけ布海苔(ふのり)で堅めた表面へ胡粉(ごふん)を塗り絵の具をつけた至って粗末な仮面である。それを買って来て焼け火箸(ひばし)で両方の目玉のまん中に穴を明ける。その時に妙な焦げ臭いにおいがする。それから面の両側の穴に元結いの切れを通して面ひもにするのである。面をかぶるとこの焦げ臭いにおいがいっそうひどい、そうして自分のはき出す呼気で面の内側が湿って来ると魚膠(うおにかわ)のにおいやら浅草紙のにおいやらといっしょになって実に胸の悪い臭気をかもし出すのであった。五十年後の今日でもありありこの臭気を思い出すことができるのである。
 四五人、五六人という群れになって北山おろしの木枯らしに吹かれながら軒並みをたずねて玄関をおとずれ、口々にわざと妙な作り声をして「カイツットーセ」という言葉を繰り返す。「粥釣りをさせてください」という意味の方言なのである。すると家々ではかねて玄関かその次の間に用意してある糯米(もちごめ)やうるちやあずきや切り餅を少量ずつめいめいの持っている袋に入れてやる。みんなありがとうともなんとも言わずにそれをもらって次の家へと回って行くのである。
 平生は行ったこともない敷居の高い家の玄関をでもかまわず正面からおとずれて、それとなく家居のさまを見るという一種の好奇心のようなものがこれらの小さいこじきたちの興味の中心であったように見える。大概の家では女中らはもちろん奥さんや娘さんまでのぞきに出て来て、道化た面をかぶった異風な小こじきの狂態に笑いこける。そこには一種のなんとなく窈窕(ようちょう)たる雰囲気(ふんいき)があったことを当時は自覚しなかったに相違ないが、かなりに鮮明なその記憶を今日分析してみてはじめて発見するのである。粥釣(かゆつ)りが子供ばかりでなくむしろおとなによって行なわれたかと思わるる昔ではこうした雰囲気があるいはかなりに重要な意義をもっていたのではないかとも想像されるのである。
 自分の宅(うち)へ来る粥釣りを内側から見物した場合のほうが多かったように思う。粥釣りに来るおおぜいの中でも勇敢なのは堂々と先頭に立ってやって来るが、気の弱いのは先頭の背後に隠れるようにして袋をさし出すのもある。しかしなにしろおもに近所の人たちであるから、たとえ女の着物を着たり、羽織をさかさまに着たりしていてもおおよその見当がつく場合が多い。粥釣りを迎える家に勇猛な女中でもいると少し怪しいと思われるようなのをいきなりつかまえて面を引きはごうとして大騒ぎになるようなこともあったような気がする。
 こじきを三日すると忘れられないというが、自分にもこのこじきの体験は忘れられないものである。このこじき根性が抜けないおかげで今日をどうやらこうやら飢えず凍えず暮らして行かれるのかもしれないのである。
 こんな年中行事は郷里でも、もうとうの昔に無くなってしまって、若い人たちにはそんな事があったということさえ知られていないかもしれない。

     三 冬夜の田園詩

 これも子供の時分の話である。冬になるとよく北の山に山火事があって、夜になるとそれが美しくまた物恐ろしい童話詩的な雰囲気(ふんいき)を田園のやみにみなぎらせるのであった。
 友だちと連れ立って夜ふけた田んぼ道でも歩いているときだれの口からともなく「キーターヤーマー、ヤーケール、シシーガデゥヨ」と歌うと他のものがこれに和する。終わりの「出ぅよ」を早口に歌ってしまうと何かに追われでもしたようにみんないっせいに駆け出すのであった。そういうときの不思議な気持ちを今でもありありと思い出すことができる。
 自分が物心づくころからすでにもうかなりのおばあさんであって、そうして自分の青年時代に八十余歳でなくなるまでやはり同じようなおばあさんのままで矍鑠(かくしゃく)としていたB家の伯母(おば)は、冬の夜長に孫たちの集まっている燈下で大きなめがねをかけて夜なべ仕事をしながらいろいろの話をして聞かせた。その中でも実に不思議な詩趣を子供心に印銘させた話は次のようなものであった。
 冬のやみ夜に山中のたぬきどもが集まって舞踊会のようなことをやる。そのときに足踏みならしてたぬきの歌う歌の文句が、「こいさ(今宵(こよい)の方言)お月夜で、お山踏み(たぶん山見分(やまけんぶん)の役人のことらしい)も来まいぞ」というので、そのあとに、なんとかなんとかで「ドンドコショ」というはやしがつくのである。それを伯母が節おもしろく「コーイーサー、(休止)、オーツキヨーデー、(休止)、オーヤマ、フーミモ、コーマイゾー」というふうに歌って聞かせた。それを聞いていると子供の自分の眼前には山ふところに落ち葉の散り敷いた冬木立ちのあき地に踊りの輪を描いて踊っているたぬきどもの姿がありあり見えるような気がして、滑稽(こっけい)なようで物すごいような、なんとも形容のできない夢幻的な気持ちでいっぱいになるのであった。
 後年夏目先生の千駄木(せんだぎ)時代に自筆絵はがきのやりとりをしていたころ、ふと、この伯母(おば)のたぬきの踊りの話を思い出して、それをもじった絵はがきを先生に送った。ちょうど先生が「吾輩(わがはい)は猫(ねこ)である」を書いていた時だから、さっそくそれを利用されて作中の人物のいたずら書きと結びつけたのであった。
 それはとにかく、この「山火事と野猪(やちょ)」の詩や、「たぬきの舞踊」の詩には現代の若い都人士などには想像することさえ困難であろうと思われるような古い古い「民族的記憶」といったようなものが含まれているような気がする。それは万葉集などよりはもっと古い昔の詩人の夢をおとずれた東方原始民の詩であり歌であったのではないかと思われるのである。そうした詩が数千年そのままに伝わって来ていたのがわずかにこの数十年の間に跡形もなく消えてしまうのではないかと疑われる。
 グリムやアンデルセンは北欧民族の「民族的記憶」のなごりを惜しんで、それを消えない前によび返してそれに新しい生命を吹き込んだ人ではないかと想像される。
 近ごろわが国でも土俗学的の研究趣味が勃興(ぼっこう)したようで誠に喜ばしいことと思われるが、一方ではまたここに例示したような不思議な田園詩も今のうちにできるだけ収集し保存しまたそれを現在の詩の言葉に翻訳しておくことも望ましいような気がするのである。

     四 食堂骨相学

 ある大衆的な食堂で見知らぬ人たちと居並んで食事をしていた。自分は耳がよくないせいか、それとも頭がぼんやりしているせいか、平生はこうした場所で隣席の人たちの話している声はよく聞こえても、話している事がらの内容はちっともわからないのであるが、その日隣席で話している中老人二人の話し声の中でただ一語「イゴッソー」という言葉が実にはっきり聞きとれたのでびっくりした。もやもやした霧の中から突然日輪でも出現したようにあまりにくっきりとそれだけが聞こえて、あとはまた元どおりぼやけてしまった。
「イゴッソー」というのは郷里の方言で「狷介(けんかい)」とか「強情」とかを意味し、またそういう性情をもつ人をさしていう言葉である。この二老人はたぶん自分の郷里の人でだれか同郷の第三者のうわさ話をしながら、そういう適切な方言を使ったことと想像される。
 それはなんでもないことであるが、私がこの方言を聞いてびっくりして二人の顔を見たときに二人の顔が急に自分に親しいもののように思われて来て、なんだかずっと昔郷里のどこかで見たことがあるか、あるいは自分のよく知っているだれかによく似ているかどちらかであるような気がして来たのであった。
 これは単に久しぶりに耳にした方言のよび起こした錯覚であったかもしれない。しかしまた郷里のような地理的に歴史的に孤立した状態で長い年月を閲(けみ)して来た国の民族の骨相には、やはりその方言といっしょにこびりついた共通な特徴があるのではないかという疑いも起こるのであった。
 また別なとき同じ食堂でこのかいわいの銀行員らしい中年紳士が二人かなり高声に私にでも聞き取れるような高調子で話しているのを聞くともなく聞いていると、当時の内閣諸大臣の骨相を品評しているらしい。詳細は忘れたが結局大臣には人相が最も大切な資格の一つであって、この資格の欠けている大臣は決して長続きしないといったようなことを一人が実例をあげて主張していた。相手は「まあ卜筮(ぼくぜい)よりは骨相のほうがましだろう」と言っているようであった。この二人の話を聞いてからなるほどそんな事もあろうかと思って試みに当代ならびにその以前の廟堂(びょうどう)諸侯の骨相を頭の中でレビューしながら「大臣顔」なるものの要素を分析しようと試みたのであった。
 ついせんだってのあのベーブ・ルースの異常な人気でも、ことによると彼の特異な人相に負うところが大きいのかもしれない。
 こうした大食堂の給仕人はたいていそろそろ年ごろになろうという女の子であって、とにかくあまり醜くないような子をそろえている。それらのだいたい同じくらいの年ごろの女の子が皆同じ制服を着ているからちょっと見ると身長の差別と肉づきの相違ぐらいしか目につかないようである。
 制服というものはある意味では人間の個性を掩蔽(えんぺい)するものである。少し離れて見れば一隊の兵士は同じ鋳型でこしらえた鉛の兵隊のように見える。しかし食堂女給のような場合にもまた逆に服装が同一であるために個人の個性がかえって最も顕著に示揚されるようにも見える。清長(きよなが)型、国貞(くにさだ)型、ガルボ型、ディートリヒ型、入江(いりえ)型、夏川(なつかわ)型等いろいろさまざまな日本婦人に可能な容貌(ようぼう)の類型の標本を見学するには、こうした一様なユニフォームを着けた、そうしてまだ粉飾や媚態(びたい)によって自然を隠蔽(いんぺい)しない生地(きじ)の相貌(そうぼう)の収集され展観されている場所にしくものはないようである。
 容貌(ようぼう)のタイプということと美醜とは必ずしも一致しないようである。たとえばキャサリン・ヘプバーン型の美人と醜婦を一人ずつ捜し出すのなどははなはだ容易であろう。
 食堂の女給の制服は腕を露出したのが多い。必然の結果として食物を食卓に並べるとき露出された腕がわれわれの面前にさし出される。日本で女の子の腕を研究するのにこれほど適当な機会はまたとないであろうと思われる。
 美しい腕をもった子は存外少ないようである。応募者の試験委員たちの採点表中に容貌の条項はあっても腕の条項がないかもしれないが、少なくも食堂の場合には、これも一つのかなりの程度まで考慮さるべきアイテムとなるべきものかもしれない。
 器量のよくないので美しい腕の持ち主もある一方ではまた美しい顔とむしろ醜い腕との結合もあるようである。神の制作したものには浅はかな人間の概念的な一般化を許さないものがあるのである。
 食堂やあるいは電車の中などで、隣席の人のもっているステッキの種類特にその頭部の装飾を見ると、それに現われたその持ち主の趣味がたいていネクタイとか腕時計とか他の持ち物に反映しているように思われる。しかし神の取り合わせた顔と腕にはそうした簡単な相関はどうもないように見える。
 食堂の入り口をながめているとさまざまの人の群れが入り込んで来る中に、よくおかあさんとお嬢さんとの一対が見られる。そうして多くの場合おかあさんよりもお嬢さんのほうが背が高く、そうしていばっているような気がする。おかあさんのほうが下手に出て何か相談しかけるとお嬢さんのほうはふんふんと鼻であしらって高圧的に出る、そういったのがよく目につく。もし代々娘のほうが母親よりも身長が一割高くなると仮定すると七八代で二倍になる勘定である、そうなったらたいへんであるがしかしこれは現代の過渡期に特有な現象であろうかと思われる。

     五 百貨店の先祖

 百貨店の前身は勧工場(かんこうば)である。新橋(しんばし)や上野(うえの)や芝(しば)の勧工場より以前には竜(たつ)の口(くち)の勧工場というのがあって一度ぐらい両親につれられて行ったような茫(ぼう)とした記憶があるが、夢であったかもしれない。それはとにかく、その勧工場のもう一つ前の前身としては浅草(あさくさ)の仲見世(なかみせ)や奥山(おくやま)のようなものがあり、両国(りょうごく)の橋のたもとがあり、そうして所々の縁日の露店があったのだという気がする。田舎(いなか)では鎮守の祭りや市日の売店があった。西洋でもおそらく同様であったろうと想像される。ドイツやフランスの田舎の町の「市」の光景は実によく自分の子供のころの田舎の市のそれと似かよったものをもっていたようである。
 子供の時分にそうした市の露店で買ってもらった品々の中には少なくも今のわれわれの子供らの全く知らないようなものがいろいろあった。
 肉桂(にっけい)の根を束ねて赤い紙のバンドで巻いたものがあった。それを買ってもらってしゃぶったものである。チューインガムよりは刺激のある辛くて甘い特別な香味をもったものである。それから肉桂酒と称するが実は酒でもなんでもない肉桂汁(にっけいじゅう)に紅で色をつけたのを小さなひょうたん形のガラスびんに入れたものも当時のわれわれのためには天成の甘露であった。
 甘蔗(さとうきび)のひと節を短刀のごとく握り持ってその切っ先からかじりついてかみしめると少し青臭い甘い汁(しる)が舌にあふれた。竹羊羹(たけようかん)というのは青竹のひと節に黒砂糖入り水羊羹をつめて凝固させたものである。底に当たる節の隔壁に錐(きり)で小さな穴を明けておいて開いた口を吸うと羊羹の棒がなめらかに抜け出して来る、それを短く歯でかみ切って食う、残りの円筒形の羊羹はちょっと吹くとまた竹筒の底に落ち着くのである。また吸い出しては食い切る。きたないと言えばきたないが、しかしそこには一種の俳諧(はいかい)があった。つい近ごろどこかのデパートでこれと同じものを見つけたが食ってはみなかった。おそらく四十年前の味は求められないであろう。
 おもちゃではポペンというものが一時流行した。首の長いガラスのフラスコの底板を思い切り薄くして少しの曲率をもたせて彎曲(わんきょく)させたものである。その首を口にふくんで適当な圧力で吹くと底のガラスの薄板がポンという音を立ててその曲率を反転する。逆に吸い込むとペンと言ってもとの向きに彎曲する。吹くのと吸うのを交互に繰り返すと、ポペン/\/\というふうな音を出す。吹き方吸い方が少し強すぎるとすぐに底が割れてしまう。いわゆるその「呼吸」がちょっとむつかしい。これを売っている露店商は特製特大の赤ん坊の頭ぐらいのを空に向けてジャンボンジャンボンと盛んに不思議な騒音を空中に飛散させて顧客を呼んだものである。実に無意味なおもちゃであるがしかしハーモニカやピッコロにはない俳味といったようなものがあり、それでいて南蛮的な異国趣味の多分にあるものであった。
 むきになって理屈を言ってる鼻の先へもって来てポペンポペンとやられると、あらゆる論理や哲学などが一ぺんに吹き散らされるところに妙味があったようにも思われる。
(昭和十年一月、中央公論)
     六 干支の効用

 去年が「甲戌(きのえいぬ)」すなわち「木(き)の兄(え)の犬(いぬ)の年」であったからことしは「乙亥(きのとい)」で「木(き)の弟(と)の猪(い)の年」になる勘定である。こういう昔ふうな年の数え方は今ではてんで相手にしない人が多い。モダーンな日記帳にはその年の干支(かんし)など省略してあるのもあるくらいである。実際丙午(ひのえうま)の女に関する迷信などは全くいわれのないことと思われるし、辰年(たつどし)には火事や暴風が多いというようなこともなんら科学的の根拠のないことであると思われるが、しかしこれらは干支の算年法に付帯して生じた迷信であって、そういう第二義的な弊が伴なうからと言って干支の使用が第一義的に不合理だという証拠にはならない。昔から長い間これが使われて来たのはやはりそれだけの便利があったからである。
 十と十二の最小公倍数は六十であるから十干十二支の組み合わせは六十年で一週期となる。この数は二、三、四、五、六のどれでも割り切れるから、一年おきの行事でも、三年に一度の万国会議でも、四年に一度のオリンピアードでも、五年六年に一度の祭礼でも六十年たてばみんな最初の歩調をとり返すのである。その六十年はまたほぼ人間の一週期になるのである。
 人間の生涯(しょうがい)でも六十年前の自分と六十年後の自分とはまず別人であり、世間の状態でも六十年たてばもう別の世界である。この前の乙亥は明治八年であるが、もしどこかに、乙亥の年に西郷隆盛(さいごうたかもり)が何かしたという史実の記録があれば、それは確実に明治八年の出来事であって、昭和十年でもなくまた文化十二年でもないことが明白である。
 明治八年とだけでは場合によってはずいぶん心細いことがある。活字本だと、もしか九年の誤植であるかもしれない。隆盛(たかもり)はとにかく、事がらによっては十八年の十が脱落したという可能性もある。しかし明治八乙亥(きのとい)とあればまず八年に間違いはないのである。年数と干支(かんし)が全部合理的につじつまを合わせて、念入りに誤植されるという偶然の確率はまず事実上零に近いからである。
 それだから年号と年数と干支とを併記して或(あ)る特定の年を確実不動に指定するという手堅い方法にはやはりそれだけの長所があるのである。為替(かわせ)や手形にデュープリケートの写しを添えるよりもいっそう手堅いやり方なのである。
 年の干支と同様に日の干支でもこれを添えることによって日のアイデンティフィケーションがほとんど無限大の確実さを加える。これに七曜日を添えればなおさらである。たとえば甲子(きのえね)の日曜日は一年に一つあることとないこととあるのである。
 干支を廃し、おまけに七曜も廃するか、あるいはある人たちの主張するように毎年の同月日を同じ日曜にしてしまうというしかたは、一見合理的なようで実は存外そうでないかもしれない。
 机や椅子(いす)の足は何も四本でなくても三本でちゃんと役に立つ、のみならず四本にするとどれか一本は遊んでいて安定位置が不確定になる恐れがあるというのは物理学初歩で教わることである。しかしその合理的な三本足よりも不合理な四本足が最も普通に行なわれているのは何ゆえであろうか。この問題はあまり簡単ではないが、ともかくも四本の一本がまさかのときの用心棒として平時には無用の長物という不名誉の役目を引き受けているのであろう。
 数の勘定には十進法の数字だけあればそれでよいというのは、言わば机の三本足を使う流儀であって、これに一見無用な干支を添えるのは用心棒を一本足した四本足を採用する筆法である。むだはむだでも有用なむだであるとも言われる。
 十進法というのは言わば単式の数え方であって十干だけを用いると同等である。甲を一、乙を二、丙を三と順々に置き換えてしまえば、たとえば二十三と言う代わりに乙丙と言っても文字がめんどうなだけで理屈は同じである。これに反して干支(かんし)法は言わば複式の数え方で、十進法と十二進法との特殊な結合である。甲子(きのえね)を一とし乙丑(きのとうし)を二とすれば甲戌(きのえいぬ)は十一であり丙子(ひのえね)は十三になる、少しめんどうなだけに、それだけの長所はあるのである。
 おもしろいことには、偶然ではあろうが、太陽黒点の週期が約十一年であって、これが十干の十年と十二支の十二年との中間に当たっている。それで、太陽黒点と関係のあるらしい週期的な気象学的あるいは気候学的現象の異同が自然に干支と同じような週期性を示すことがしばしば起こりうるわけである。たとえばある特定の地方である「水の兄(え)」の年に偶然水害があった場合に、それから十一年後の「水の弟(と)」の年に同じような水害の起こる確率が相当多いという事もあるかもしれない。ある辰年(たつどし)の冬ある地方がひどく乾燥でそのために大火が多かったとして、次の辰年にも同様な乾燥期が来るということには、単なる偶然以外に若干の気候週期的な蓋然率(がいぜんりつ)が期待されないこともない。
 気候の変化が人間の生理にも若干の影響があるかもしれないとすると、それが胎児の特異性に多少の効果を印銘することが全然ないとも限らないし、そうなると生まれ年の干支とその人の特性とが、少なくもある期間については多少の相関を示す場合がないとも言われないような気がして来るのである。もちろんこれは大風が吹いて桶屋(おけや)が喜ぶというのと同じ論法ではあるが、そうかと言ってそういうことが全然ないということの証明もまたはなはだ困難であることだけは確かである。証明のできない言明を妄信(もうしん)するのも実はやはり一種の迷信であるとすれば、干支に関するいろいろな古来の口碑もいつかはまじめに吟味し直してみなければならないと思われるのである。

     七 灸治

 子供の時分によくお灸(きゅう)をすえると言っておどされたことがある。今のわれわれの子供にはもうお灸が何だか知らないのが多いようである。もぐさを見たことのない子供も少なくないであろう。お灸がいかなるものであるかを説明してやると驚いているようである。
 小さい時分にはおどされるだけでほんとうにすえられたことはなかったようである。水泳などに行って友だちや先輩の背中に妙な斑紋(はんもん)が規則正しく並んでいて、どうかするとその内の一つ二つの瘡蓋(かさぶた)がはがれて大きな穴が明き、中から血膿(ちうみ)が顔を出しているのを見て気味の悪い思いをした記憶がある。見るだけで自分の背中がむずむずするようであった。なんのためにわざわざこんないやなことをするのか了解できなかった。十二三歳のころ病身であったために、とうとう「ちりけ」のほかに五つ六つ肩のうしろの背骨の両側にやけどの跡をつけられてしまった。なんでもいろいろのごほうびの交換条件で納得させられたものらしい。
 大学の二年の終わりに病気をして一年休学していた間に「片はしご」というのをおろしてくれたのが近所の国語の先生の奥さんであった。家伝の名灸でその秘密をこの年取った奥さんが伝えていたのである。なんでも紙撚(こより)だったか藁(わら)きれだったか忘れたが、それでからだのほうぼうの寸法を計って、それから割り出して灸穴(きゅうけつ)をきめるのであるが、とにかく脊柱(せきちゅう)のたぶん右側に上から下まで、首筋から尾□骨(びていこつ)までたしか十五六ほどの灸穴を決定する。それに、はじめは一度に三つずつ一週間後から五つずつというふうにだんだんすえる数を増して行って、おしまいには二十ぐらいずつすえるのである。なかなかここいらは合理的である。
 上から下へだんだんにすえて行くと痛さの種類がだんだんに少しずつ変わって行くのが妙である。上のほうのは言わば乾性、あるいは男性的の痛さで少し肩に力を入れて力んでいればなんでもないが腰のほうへ下がって行くと痛さが湿性あるいは女性的になって、かゆいようなくすぐったいような泣きたいような痛さになる。動かすまいと思っても腰をひねらないではいられないような気持ちがする。同じ刺激に対する感覚が皮膚の部分によって違うのはこれに限らない事ではあるが、このはしご灸(きゅう)などは一つのおもしろい実験である。ただその感覚の段階的変化を表示する尺度がまだ発見されていないのは残念である。
 そのころの郷里には「切りもぐさ」などはなかったらしく、紙袋に入れたもぐさの塊(かたまり)から一ひねりずつひねり取っては付けるから下手(へた)をやると大小ならびにひねり方の剛柔の異同がはなはだしく、すえられるほうは見当がつかなくて迷惑である。母は非常にこれが上手(じょうず)で粒のよくそろったのをすえてくれた。一つは母の慈愛がそうさせたであろう。女中などが代わると、どうかするとばかに大きいのや堅びねりのが交じったり、線香の先で火のついたのを引き落として背中をころがり落とさせたりして、そうしてこっちが驚いておこるとよけいにおもしろがってそうするのではないかという嫌疑(けんぎ)さえ起こさせるのであった。
 南国の真夏の暑い真盛りに庭に面した風通しのいい座敷で背中の風をよけて母にすえてもらった日の記憶がある。庭では一面に蝉(せみ)が鳴き立てている。その蝉の声と背中の熱い痛さとが何かしら相関関係のある現象であったかのような幻覚が残っている。同時にまた灸の刺激が一種の涼風のごときかすかな快感を伴なっていたかのごとき漠然(ばくぜん)たる印象が残っているのである。
 背中の灸(きゅう)の跡を夜寝床ですりむいたりする。そのあとが少し化膿(かのう)して痛がゆかったり、それが帷子(かたびら)でこすれでもすると背中一面が強い意識の対象になったり、そうした記憶がかなり鮮明に長い年月を生き残っている。そういうできそこねた灸穴(きゅうけつ)へ火を点ずる時の感覚もちょっと別種のものであった。
 一日分の灸治を終わって、さて平手でぱたぱたと背中をたたいたあとで、灸穴へ一つ一つ墨を塗る。ほてった皮膚に冷たい筆の先が点々と一抹(いちまつ)の涼味を落として行くような気がする。これは化膿しないためだと言うが、墨汁の膠質粒子(こうしつりゅうし)は外からはいる黴菌(ばいきん)を食い止め、またすでに付着したのを吸い取る効能があるかもしれない。
 寒中には着物を後ろ前に着て背筋に狭い窓をあけ、そうして火燵(こたつ)にかじりついてすえてもらった。神経衰弱か何かの療法に脊柱(せきちゅう)に沿うて冷水を注ぐのがあったようであるが、自分の場合は背筋のまん中に沿うて四五寸の幅の帯状区域を寒気にさらして、その中に点々と週期的な暑さの集注点をこしらえるという複雑な方法を取ったわけである。そういう、西洋のえらい医学の大家の夢にも知らない療養法を須崎港(すさきこう)の宿屋で長い間続けた。その手術を引き受けていたのは幡多(はた)生まれで幡多なまりの鮮明なお竹(たけ)という女中であった。三十年前の善良にして忠実なるお竹の顔をありあり思い出すのであるが、その後の消息を明らかにしない。無事でいればもうずいぶんおばあさんになっていることであろう。
 灸などきくものかと一概にけなす人もある。もしなんの効能もないとすると、祖先の日本人は仏法伝来と同時に輸入されたというこの唐人のぺてんに二千年越しだまされつづけて無用なやけどをこしらえて喜んでいたわけである。
 二千年来信ぜられて来たという事実はそれが真であるという証拠には少しもならない。しかし灸(きゅう)の場合には事がらが精神的ばかりでなくともかくも生理的な生き身の一部に明白な物理的化学的な刺激を直接密接に与えるのであるから、きくきかぬが生理的に実証の審判にかけられうるわけだと思われる。
 生理学の初歩の書物を読んでみると、皮膚の一部をつねったりひねったりするだけで、腹部の内臓血管ことにその細動脈が収縮し、同時に筋や中枢神経系に属する血管は開張すると書いてある。灸をすえるのでも似かよった影響がありそうである。のみならず、焼かれた皮膚の局部では蛋白質(たんぱくしつ)が分解して血液の水素イオン濃度が変わったり、周囲に対する電位が変わったり、ともかくもその付近の細胞にとっては重大な事件が起こる。それが一つの有機体であるところの身体の全部にたとえ微少でもなんらかの影響のないはずはなさそうである。
 それがある病気にどれだけきくかはまた別問題であるがそれは立派に一つの研究問題になる事であり、そうしてまさに日本の医者生理学者の研究すべき問題である。それだのに不思議なことには従来灸治の科学的研究をして学位でも取ったという人は、あるかもしれないがあまりよく知られていないようである。今にドイツとか米国とかでだれかが歌麿(うたまろ)や北斎(ほくさい)を発見したように灸治法の発見をして大論文でも書くようになれば日本でも灸治研究が流行をきたすかもしれないと思われる。

(「螢光板」への追記) 前項「灸治」について高松(たかまつ)高等商業学校の大泉行雄(おおいずみゆきお)氏から書信で、九州福岡(ふくおか)の原志兔太郎(はらしずたろう)氏が灸の研究により学位を得られたと思うという知らせを受けた。右の原氏著「お灸(きゅう)療治」という小冊子に灸治の学理が通俗的に説明されているそうである。一見したいと思っているがまだその機会を得ない。その後にまた麻布(あざぶ)の伊藤泰丸(いとうやすまる)氏から手紙をよこされて、前記原氏のほかに後藤道雄(ごとうみちお)、青地正皓(あおじまさひろ)、相原千里(あいはらせんり)等の各医学博士の鍼灸(しんきゅう)に関する研究のある事を示教され、なお中川清三(なかがわせいぞう)著「お灸の常識」という書物を寄贈された、ここに追記して大泉氏ならびに伊藤氏に感謝の意を表したいと思う。

     八 黒焼き

 学生時代に東京へ出て来て物珍しい気持ちで町を歩いているうちに偶然出くわして特別な興味を感じたものの一つは眼鏡橋(めがねばし)すなわち今の万世橋(まんせいばし)から上野(うえの)のほうへ向かって行く途中の左側に二軒、辻(つじ)を隔てて相対している黒焼き屋であった。これは江戸名所図会にも載っている、あれの直接の後裔(こうえい)であるかどうかは知らないがともかくも昔の江戸の姿をしのばせる格好の目標であった。
 なんでも片方が「本家」で片方が「元祖」だとか言って長い年月を鬩(せめ)ぎ合った歴史もあったという話を聞いたことがある。関東大震災にはたぶんあのへんも焼けたであろうが、つい先日電車であのへんを通るときに気をつけて見ると昔と同じ場所と思わるる所に二軒の黒焼き屋が依然として存在している。一軒は昔ふうの建築であり他の一軒は近代的洋風の店構えになっているのであるが、ともかくも付近に対して著しく異彩を放つ黒焼き屋であることには昔も変わりはないようである。
 いったい黒焼きがほんとうに病気にきくだろうかという疑問が科学の学徒の間で問題に上ることがある。そういう場合に、科学者にいろいろの種類があることがよくわかる。
 甲種の科学者は頭から黒焼きなんかきくものかと否定してかかる。蛇(へび)でもいもりでも焼いてしまえば結局炭と若干の灰分とになってしまうのだから、黒焼きがきくものなら消し炭を食ってもきくわけだ、とざっとこういうふうに簡単に結論を下してしまう。
 乙種の科学者は、そう簡単にも片付けてしまわない。しかし、問題がまだアカデミックな研究にかけるにはあまりになまなましくて、ちょっと手がつけられそうもないから、そういう問題はまずまず敬遠しておくほうがいいという用心深い態度を守って、格別の興味を示さない。
 丙種の科学者になると、かえってこうした毛色の変わった問題に好奇的興味を感じ、そうして、人のまだ手を着けない題材の中に何かしら新しい大きな発見の可能性を予想していろいろ想像をめぐらし、何かしら独創的な研究の端緒をその中に物色しようとする。
 この甲乙丙三種の定型はそれぞれに長所と短所をもっている。甲はうっかりにせ物に引っかかるような心配はほとんどない代わりに、どうかするとほんとうに価値のある新しいいいものを見のがす恐れがある。既知の真実を固守するにのみ忠実で未知の真実の可能性に盲目である。乙はアカデミックな科学の殿堂の細部の建設に貢献するには適しているが新しい科学の領土の開拓には適しない。丙は時として荊棘(けいきょく)の小道のかなたに広大な沃野(よくや)を発見する見込みがあるが、そのかわり不幸にして底なしの泥沼(どろぬま)に足を踏み込んだり、思わぬ陥穽(かんせい)にはまって憂(う)き目を見ることもある。三種の型のどれがいけないと言うわけではない。それぞれの型の学者が、それぞれの型に応じてその正当の使命を果たすことによって科学は進むのであろう。
 それはとにかく、この三型を識別するための簡単で手近なメンタルテストの問題として「黒焼き」の問題が役立つのはおもしろい。
 炭は炭でもそのコロイド的内部構造の相違によって物理的化学的作用には著しい差がある場合もあるから、蛇(へび)の黒焼きとたぬきの黒焼きで人体に対する効果がなにがしか違わないとは限らない。またわずかな含有灰分の相違が炭の効果に著しい差を生ずることも可能なのは他の膠質現象(こうしつげんしょう)から推して想像されなくはない。
 臓器から製した薬剤の効果がその中に含有するきわめて微量な金属のためであって、その効果はその薬を焼いて食わせても変わらないらしいという説がある。しかし、それかと言ってその金属の粉をなめたのでは何もならない。ここに未知の大きな世界の暗示がある。
 こうした不思議は畢竟(ひっきょう)コロイドというものの研究がまだ幼稚なために不思議と思われるのであって、今にこの方面の知識が進めば、これが不思議でもなんでもなくなるかもしれないのである。そういう日になってはじめて「黒焼き」の意義がその本体を現わすのではないかと想像される。
 こんなことを長年考えていたのであるが、近ごろ大阪(おおさか)医科大学病理学教室の淡河(おうご)博士が「黒焼き」の効能に関する本格的な研究に着手し、ある黒焼きを家兎(いえうさぎ)に与えると血液の塩基度が増し諸機能が活発になるが、西洋流のいわゆる薬用炭にはそうした効果がないという結果を得たということが新聞で報ぜられた。自分の夢の実現される日が近づいたような喜びを感じないわけには行かない。
 それにしてもいもりの黒焼きの効果だけは当分のところ、物理学化学生理学の領域を超越した幽遠の外野に属する研究題目であろうと思われる。もっとも蝶(ちょう)のある種類たとえば Amauris psyttalea の雄などはその尾部に備えた小さな袋から一種特別な細かい粉を振り落としながら雌(めす)の頭上を飛び回って、その粉の魅力によって雌(めす)の興奮を誘発するそうである。
 百年の後を恐れる人には「いもりの黒焼き」でもうっかりは笑えないかもしれない。
(昭和十年二月、中央公論)
     九 歯

 父は四十余歳ですでに総入れ歯をしたそうである。総入れ歯の準備として、生き残った若干の歯を一度に抜いてしまったそのあとで顔じゅうふくれ上がって幾日も呻吟(しんぎん)をつづけたのだそうである。歯科医術のまだ幼稚な明治十年代のことであるからずいぶん乱暴な荒療治であったことと想像される。
 自分も、親譲りというのか、子供の時分から歯性が悪くてむし歯の痛みに苦しめられつづけて来た。十歳ぐらいのころ初めて歯医者の手術椅子(しゅじゅついす)一名拷問椅子(torture-chair)にのせられたとき、痛くないという約束のが飛び上がるほど痛くて、おまけにそのあとの痛みが手術前の痛みに数倍して持続したので、子供心にひどく腹が立って母にくってかかり、そうしてその歯医者の漆黒な頬髯(ほおひげ)に限りなき憎悪(ぞうお)を投げつけたことを記憶している。コカイン注射などは知られない時代であったのである。おかしいことには、その時の手術室の壁間に掲げてあった油絵の額が実にはっきり印象に残っている。当時には珍しいボールドなタッチでかいた絵で、子供をおぶった婦人が田んぼ道を歩いている図であった。激烈な苦痛がその苦痛とはなんの関係もない同時的印象を記憶の乾板に焼き付ける放射線のように作用する、という奇妙な現象の一例かもしれない。
 徴兵検査のときに係りの軍医が数えて帳面に記入したむし歯の数が自分のあらかじめ数えて行った数よりずっと多かったのでびっくりした。それが徴兵検査であっただけにそのびっくりはかなり複雑な感情の笹縁(ささべり)をつけたびっくりであったのである。
 とうとう前歯までがむしばまれ始めた。上のまん中の二枚の歯の接触点から始まった腐蝕(ふしょく)がだんだんに両方に広がって行って歯の根もとと先端との間の機械的結合を弱めた。そうして、いつかどこかでごちそうになったときに出された吸い物の椎茸(しいたけ)をかみ切った拍子にその前歯の一本が椎茸の茎の抵抗に負けてまん中からぽっきり折れてしまった。夏目漱石先生にその話をしたらひどく喜ばれてその事件を「吾輩(わがはい)は猫(ねこ)である」の中の材料に使われた。この小説では前歯の欠けた跡に空也餅(くうやもち)が引っかかっていたことになっているが、そのころ先生のお宅の菓子鉢(かしばち)の中にしばしばこの餅が収まっていたものらしい。とにかく、この記事のおかげで自分の前歯の折れたのが二十八歳ごろであったことが立派に考証されるのである。立派なものがつまらぬ事の役に立つ一例である。
 それほどになる以前にも、またその後にも、ほとんど不断に歯痛に悩まされていたことはもちろんである。早く歯医者にかかって根本的治療をすればよかったわけであるが、子供の時に味わった歯医者への恐怖がいつまでも頭に巣食っていたのと、もう一つには自分がその後に東京で出会った歯医者があまりぐあいのよくなかったのと両方のせいであったか、歯医者の手術台に乗っかっていじめられるよりはひとりで痛みを我慢しているほうがまだましだという気がしていたものらしい。上京後にかかったY町のXという歯医者は朝九時に来いというので正直に九時に行って待っていてもなかなか二階の手術室へ姿を見せないで一時間は大丈夫待たせる。しかし階下ではちゃんと先生の声がしていて、それがたいていいつも細君だか女中だかにはげしい小言を浴びせかける声であった。やっとの思いで待ちおおせて手術を受ける時間は五分か十分である。そうして短くても一週間は通(かよ)って毎日このとおりのことを繰り返さなければならないのであった。手術料は毎回払いであったが、いつも先生自身で小さな手さげ金庫の文字錠をひねっておつりを出してくれたのが印象に残っている。
 西洋へ行く前にどうしても徹底的にわるい歯の清算をしておく必要があるのでおおよそ半月ほど毎日○○病院に通(かよ)った。継ぎ歯、金冠、ブリッジなどといったような数々の工事にはずいぶんめんどうな手数がかかった。抜歯も何本か必要であったが、昔とちがってコカインのおかげでたいした痛みはなかった。ただし、左の下あごの犬歯の根だけ残っていたのが容易に抜けないので、がんじょうな器械を押し当ててぐいぐいねじられたときは顎骨(がくこつ)がぎしぎし鳴って今にも割れるかと思うようで気持ちが悪かった。手術がすんだら看護婦が葡萄酒(ぶどうしゅ)を一杯もって来て飲まされ、二三十分椅子(いす)にもたれたまま休息することを命ぜられた。自分はそれほどに思わなかったが脳貧血の兆候が顔に現われたものと見える。この時に全部の手術を受け持ってくれたF学士に抜歯術に関する力学的解説を求められたので、大判洋紙五六枚に自分の想像説を書きつけてさし出したのであった。それはいいかげんなものであったろうが、しかしこうした方面にも力学の応用の分野があることを知って愉快に思った。
 いよいよ西洋へ出発となって神戸(こうべ)まで行ったらあす船に乗るという日に、もう前歯の前面に取り付けた陶器の歯が後面の金板から脱落した。あわてて神戸の町を歩いて歯医者を捜してやっと応急取り付け法を講じてもらったが、ベルリンへ着いてまもなくまたいけなくなった。その時かかったドイツの医者は、細工はなんとなく不器用であったが、しかしその修理法がいかにも合理的で、一時の間に合わせでなくて長持ちのするような徹底的のものであるのに感心した。その歯医者が、治療した歯の隣の歯を軽くつついてそれがゆらゆら動くのを見つけて驚いたような顔をした。そうしてうやうやしく直立不動の姿勢を取り、それから両肩をすぼめておいて両方の手のひらをぱっと開いて前方に向け、首を傾けてじっと自分の顔を見つめるという表情法の実演をして見せてくれた。物を言わないで物を言うよりも多くを相手に伝えるこの西洋流のしぐさは、なんでもこくめいに言葉で言い現わしたがるドイツ人には珍しいと思われた。
 西洋から帰ってY町に住まってからも歯はだんだん悪くなるばかりであった。ある年の暮れから正月へかけてひどく歯が痛むのを我慢して火燵(こたつ)にあたりながらベルグソンを読んだことがある。その因縁でベルグソンと歯痛とが連想で結びつけられてしまった。彼の「笑い」までが歯痛の連想に浸潤されてしまったのである。
 その後偶然にたいへんに親切で上手(じょうず)でぐあいのいい歯医者が見つかってそれからはずっとその人にやっかいになって来たが、先天的の悪い素質と後天的不養生との総決算で次第にかんで食えるものの範囲が狭くなって来た。柔らかい牛肉も魚のさし身もろくにかめなくなり、おしまいには米の飯さえ満足に咀嚼(そしゃく)することが困難になったので、とうとう思い切って根本的に大清算を決行して上下の入れ歯をこしらえたのが四十余歳のころであった。上あごの硬口蓋(こうこうがい)前半をぴったりふたをしてしまった心持ちはなんとも言えない不愉快なものである。しかし入れ歯のできあがった日に、試みに某レストランの食卓についてまず卓上の銀皿(ぎんざら)に盛られたナンキン豆をつまんでばりばりと音を立ててかみ砕いた瞬間に不思議な喜びが自分の顔じゅうに浮かび上がって来るのを押えることができなかった。義歯もたしかに若返り法の一つである。
 入れ歯と言ってもはじめは下の前歯と右の犬歯だけはまだ残っていたのが長い間にはだんだんにそれもいけなくなり最後には犬歯一本を残した総入れ歯になってしまった。その最後の木守りの犬歯がとうとうひとりでふらふらと抜け出したときはさすがにさびしかった。その抜けた跡だけ穴のあいた入れ歯をはめたままで今日に至っている。
 父はきげんのよくない時総入れ歯を舌ではずしてくちびるの間に突き出したり引っ込ませたりする癖があった。自分も総入れ歯をしてみてはじめて父のこの癖の意味がわかったような気がする。実際気持ちの不愉快なときは、平生でもとかく気になる入れ歯がよけいに気になりだす。歯ぐきや硬口蓋(こうこうがい)への圧迫から来る不快の感覚が精神的不快の背景の前に異常に強調されて来るらしい。覚えず舌で入れ歯を押しはずして押し出そうとする。これは不愉快なときにつばを吐きたくなるのと同じような生理的心理的現象かもしれない。しかし入れ歯は吐き出して捨てるわけに行かないから引っ込ませてはめ込む。どうも不愉快だからまた吐き出す。
 入れ歯を作ってもらってから長くなると歯ぐきが次第に退化して来るためか、どうも接触が密でなくなる。その結果は上あごの入れ歯がややもすると脱落しやすくなる。自分の場合には、妙なことには何か少し改まって物を言おうとすると自然にそれがたれ落ちそうになる。たとえば講演でもしようとして最初の言葉を言おうとするときにきっと上の入れ歯が自然にぽたりと落下して口をふさごうとするのである。緊張のために口の中のどこかがどうにか変形するためらしい。いやな気持ちがあごをゆがめるのかもしれない。
 入れ歯と歯ぐきとの接触の密なことは紙一重のすきまも許さないくらいのものらしい。どこかが少しきつく当たって痛むような場合に、その場所を捜し見つけ出してそこを木賊(とくさ)でちょっとこするとそれだけでもう痛みを感じなくなる。それについて思い出すのは次の実話である。スクラインの「シナ領中央アジア」という本の中にある。
 東トルキスタンのヤルカンドにミッション付きの歯医者がいた。この人の所へある日遠方の富裕な地主イブラヒム・ベグ・ハジからの手紙をもった使いが来て、「入れ歯を一そろい作ってこの使いの者に渡してくれ」とのことであった。そこで歯医者は返事をかいて、「口中をよく拝見した上でないと入れ歯はできないから御足労ながら当地までおいで願いたい」と言ってやった。するとまた使いに手紙を持たせて、「御案内誠にかたじけない。お言葉に甘えて老僕イシャク・バイをつかわす。この男の口中の格好はだいたい自分のと同様である。もっともこの男には歯が一本もないが自分には上の左の犬歯が一本残っている。それでこの男の口に合うようにして、ただし犬歯の所だけ明けておいてくれ」と言って来た。医者のほうでは「それはどうもできかねる」ということになって、それでこの珍奇な交渉は絶えてしまった。その後この歯医者がカシュガルに器械持参で出かけるついでの道すがらわざわざこのイブラヒム老人のためにその居村に立ち寄って、かねての話の入れ歯を作ってやろうと思った。老人を手術台にのせて口中を検査してみると、残った一本の歯というのがもうすっかりむしばんでぶらぶらになっていた。そこでそれを抜こうとしたが老人頑(がん)としてどうしても承知しない。結局「アルラフの神のおぼしめしじゃ、わしは御免こうむる。さようなら」と言って、それっきりで事件が終結した。ほんとうのおはなしである。
 それはとにかく、自分たち平生科学の研究に従事しているものが全然専門の知識に不案内な素人(しろうと)からいろいろの問題について質問を受けて答弁を求められる場合に、どうかすると時々ちょうどこのヤルカンドの歯医者の体験したのとよく似た困難を体験することがある。
 それからまた○○などで全国の科学研究機関にサーキュラーを発して、数々のかなり漠然(ばくぜん)たる研究題目とそれに対して支給すべき零細の金額とを列挙してそれらの問題の研究引受人を募ることがあるようであるが、あれなどもやはりこのイブラヒム老人の入れ歯の注文とどこか一脈相通ずるところがあるような気がするのである。実際具体的な目的の詳細にわからない注文にぴったりはまるような品物を向けることは不可能である。
 もっともそう言えば結婚でも就職でも、よく考えてみればみんなイシャクの入れ歯をイブラヒムの口にはめて、そうして歯ぐきがそれにうまく合うように変形するまで我慢できるかできないかを試験するようなものかもそれはわからないのである。
 話は変わるが、歯は「よわい」と読んで年齢を意味する。アラビア語でも sinn というのは歯を意味しまた年齢をも意味する。「シ」と「シン」と音の似ているのも妙である。とにかく歯は各個人にとってはそれぞれ年齢をはかる一つの尺度にはなるが、この尺度は同じく年を計る他の尺度と恐ろしくちぐはぐである。自分の知っている老人で七十余歳になってもほとんど完全に自分の歯を保有している人があるかと思うと四十歳で思い切りよく口腔(こうこう)の中を丸裸にしている人もある。頭を使う人は歯が悪くなると言って弁解するのは後者であり、意志の強さが歯に現われるというのは前者である。
 同じ歯の字が動詞になると「天下恥与之歯(てんかこれとともによわいするをはず)」におけるがごとく「肩をならべて仲間になる」という意味になる。歯がずらりと並んでいるようにならぶという譬喩(ひゆ)かと思われる。並んだ歯の一本がむしばみ腐蝕(ふしょく)しはじめるとだんだんに隣の歯へ腐蝕が伝播(でんぱ)して行くのを恐れるのであろう。しかし天下の歯がみんなむし歯になったらこんな言葉はもういらなくなる勘定であろう。
 歯の役目は食物を咀嚼(そしゃく)し、敵にかみつき、パイプをくわえ、ラッパの口金をくちびるに押しつけるときの下敷きになる等のほかにもっともっと重大な仕事に関係している。それはわれわれの言語を組み立てている因子の中でも最も重要な子音のあるものの発音に必須(ひっす)な器械の一つとして役立つからである。これがないとあらゆる歯音(デンタル)が消滅して言語の成分はそれだけ貧弱になってしまうであろう。このように物を食うための器械としての歯や舌が同時に言語の器械として二重の役目をつとめているのは造化の妙用と言うか天然の経済というか考えてみると不思議なことである。動物の中でもたとえばこおろぎや蝉(せみ)などでは発声器は栄養器官の入り口とは全然独立して別の体部に取り付けられてあるのである。だから人間でも脇腹(わきばら)か臍(へそ)のへんに特別な発声器があってもいけない理由はないのであるが、実際はそんなむだをしないで酸素の取り入れ口、炭酸の吐き出し口としての気管の戸口へ簧(した)を取り付け、それを食道と並べて口腔(こうこう)に導き、そうして舌や歯に二役(ふたやく)掛け持ちをさせているのである。そうして口の上に陣取って食物の検査役をつとめる鼻までも徴発して言語係を兼務させいわゆる鼻音(ネーザル)の役を受け持たせているのである。造化の設計の巧妙さはこんなところにも歴然とうかがわれておもしろい。
 こおろぎやおけらのような虫の食道には横道に□嚢(そのう)のようなものが付属しているが、食道直下には「咀嚼胃(カウマーゲン)」と名づける袋があってその内側にキチン質でできた歯のようなものが数列縦に並んでいる。この「歯」で食物をつッつきまぜ返して消化液をほどよく混淆(こんこう)させるのだそうである。ここにも造化の妙機がある。
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