海水浴
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著者名:寺田寅彦 

 明治十四年の夏、当時名古屋鎮台につとめていた父に連れられて知多(ちた)郡の海岸の大野とかいうところへ「塩湯治(しおとうじ)」に行った。そのとき数え年の四歳であったはずだから、ほとんど何事も記憶らしい記憶は残っていないのであるが、しかし自分の幼時の体験のうちで不思議にも今日まで鮮明な印象として残っているごく少数の画像の断片のようなものを一枚一枚めくって行くと、その中に、多分この塩湯治の時のものだろうと思う夢のような一場面のスティルに出くわす。
 海岸に石垣のようなものがどこまでも一直線に連なっていて、その前に黄色く濁った海が拡がっている。数え切れないほど大勢の男がみんな丸裸で海水の中に立ち並んでいる。去来する浪に人の胸や腹が浸ったり現われたりしている。自分も丸裸でやはり丸裸の父に抱かれしがみついて大勢の人の中に交じっている。
 ただそれだけである。一体そんな石垣の海岸に連なっているところが知多郡の海岸に実在していたのかどうか確かめたこともない。あるいは全部が夢であったかもしれない、しかしその光景が実に鮮明にありありと、頭の中に焼付いたかのように記憶に残っているのは事実である。ずっと大きくなってからよく両親から聞かされたところによると、その頃とかく虚弱であった自分を医師の勧めによって「塩湯治」に連れて行ったのだが、いよいよ海水浴をさせようとするとひどく怖がって泣き叫んでどうしても手に合わないので、仕方なく宿屋で海水を沸かした風呂を立ててもらってそれで毎日何度も温浴をさせた。とにかくその一と夏の湯治で目立って身体が丈夫になったので両親はひどく喜んだそうである。
 自分にはそんなに海を怖がったというような記憶は少しも残っていない。しかし実際非常に怖い思いをしたので、そのときに眼底に宿った海岸と海水浴場の光景がそのままに記憶の乾板(かんぱん)に焼付けられたようになって今日まで残っているものと思われる。
 それはとにかく、明治十四年頃にたとえ名前は「塩湯治」でも既に事実上の海水浴が保健の一法として広く民間に行われていたことがこれで分るのである。
 明治二十六、七年頃自分の中学時代にはそろそろ「海水浴」というものが郷里の田舎でも流行(はや)り出していたように思われる。いちばん最初のいわゆる「海水浴」にはやはり父に連れられて高知浦戸湾(うらどわん)の入口に臨む種崎(たねざき)の浜に間借りをして出かけた。以前に宅(うち)に奉公していた女中の家だったか、あるいはその親類の家だったような気がする。夕方この地方には名物の夕凪(ゆうなぎ)の時刻に門内の広い空地の真中へ縁台のようなものを据えてそこで夕飯を食った。その時宅から持って行った葡萄酒やベルモットを試みに女中の親父に飲ませたら、こんな珍しい酒は生れて始めてだと云ってたいそう喜んだが、しかしよほど変な味がするらしく小首を傾けながら怪訝(けげん)な顔をして飲んでいた。そうして、そのあとでやっぱり日本酒の方がいいと云って本音(ほんね)をはいたので大笑いになったことを覚えている。
 自分もその海水浴のときに「玉ラムネ」という生れて始めてのものを飲んで新しい感覚の世界を経験したのはよかったが、井戸端の水甕(みずがめ)に冷やしてあるラムネを取りに行って宵闇の板流しに足をすべらし泥溝(どぶ)に片脚を踏込んだという恥曝(はじさら)しの記憶がある。
 その翌年は友人のKと甥のRと三人で同じ種崎のTという未亡人の家の離れの二階を借りて一と夏を過ごした。
 この主婦の亡夫は南洋通いの帆船の船員であったそうで、アイボリー・ナッツと称する珍しい南洋産の木の実が天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)の掛物のかかった床の間の置物に飾ってあった。この土地の船乗りの中には二、三百トンくらいの帆船に雑貨を積んで南洋へ貿易に出掛けるのが沢山いるという話であった。浜辺へ出て遠い沖の彼方に土堤(どて)のように連なる積雲を眺めながら、あの雲の下をどこまでも南へ南へ乗出して行くといつかはニューギニアか濠洲へ着くのかしらと思ってお伽噺的な空想に耽ったりしたものである。宿の主婦の育てていた貰い子で十歳くらいの男の子があったが、この子の父親は漁師である日鮪漁(まぐろりょう)に出たきり帰って来なかったという話であった。発動機船もなく天気予報の無線電信などもなかった時代に百マイルも沖へ出ての鮪漁は全くの命懸けの仕事であったに相違ない。それはとにかく、この男の子が鳥目で夜になると視力が無くなるというので、「黒チヌ」という魚の生(い)き胆(ぎも)を主婦が方々から貰って来ては飲ませていた。一種のビタミン療法であろうと思われる。見たところ元気のいい子で、顔も背中も渋紙のような色をして、そして当時流行(はや)っていた卑猥な流行唄(はやりうた)を歌いながら丸裸の跣足(はだし)で浜を走り廻っていた。
 同じ宿に三十歳くらいで赤ん坊を一人つれた大阪弁のちょっと小意気な容貌の女がいた。どういう人だかわれわれには分らなかった。ある日高知から郵便でわれわれ三人で撮った写真がとどいてみんなで見ているところへその女もやって来てそれを手にとって眺めながら「キレーな人は写真でもやっぱりキレーや」というようなことを云った。Rは当時有名な美少年であったがKも相当な好男子であった。その時KがRに「オイ、R、ふるえちゃいかんよ」と云ってからかった。その言葉の中に複雑なKの心理の動きが感ぜられておかしかった。もっともそんなつまらないことを覚えているのは、当時の自分の子供心に軽い嫉妬のようなものを感じたためかもしれないと思われる。
 もう一人の同宿者があった。どこかの小学校の先生であったと思う。自分で魚市場から買って来た魚をそのまま鱗(うろこ)も落さずわたも抜かずに鉄網で焼いてがむしゃらに貪(むさぼ)り食っていた。その豪傑振りをニヤニヤ笑っていたのは当時張良(ちょうりょう)をもって自ら任じていたKであった。自分の眼にもこの人の無頓着ぶりが何となく本物でないように思われた。
 夕方内海に面した浜辺に出て、静かな江の水に映じた夕陽の名残の消えるともなく消えてゆくのを眺めていると急に家が恋しくなって困ることがあった。たった三里くらいの彼方のわが家も、こうした入江で距(へだ)てられていると、ひどく遠いところのように思われたのであった。その後故郷を離れて熊本に住み、東京に移り、また二年半も欧米の地を遍歴したときでも、この中学時代の海水浴の折に感じたような郷愁を感じたことはなかったようである。一つにはまだ年が行かない一人子の初旅であったせいもあろうが、また一つには、わが家があまりに近くてどうでも帰ろうと思えばいつでも帰られるという可能性があるのに、そうかと云って予定の期日以前に帰るのはきまりが悪いという「煩悶」があったためらしい。その頃高知から種崎まで行くのには乗合の屋形船で潮時でも悪いと三、四時間もかかったような気がする。現在の東京の子供なら静岡か浜松か軽井沢へでも行っていたのと相当する訳である。交通速度の標準が変ると距離の尺度と時間の尺度とがまるきり喰いちがってしまうのである。
 その頃にもよく浜で溺死者があった。当時の政客で○○○議長もしたことのあるK氏の夫人とその同伴者が波打際に坐り込んで砂浜を這上(はいあ)がる波頭に浴しているうちに大きな浪が来て、その引返す強い流れに引きずり落され急斜面の深みに陥って溺死した。名士の家族であっただけにそのニュースは郷里の狭い世界の耳目(じもく)を聳動(しょうどう)した。現代の海水浴場のように浜辺の人目が多かったら、こんな間違いはめったに起らなかったであろうと思われる。
 溺死者の屍体が二、三日もたって上がると、からだ中に黄螺(ばい)が附いて喰い散らしていて眼もあてられないという話を聞いて怖気(おじけ)をふるったことであった。
 海水着などというものはもちろんなかった。男子はアダム以前の丸裸、婦人は浴衣(ゆかた)の紐帯(ひもおび)であったと思う。海岸に売店一つなく、太平洋の真中から吹いて来る無垢(むく)の潮風がいきなり松林に吹き込んでこぼれ落ちる針葉の雨に山蟻(やまあり)を驚かせていた。
 明治三十五年の夏の末頃逗子(ずし)鎌倉へ遊びに行ったときのスケッチブックが今手許(てもと)に残っている。いろいろないたずら書きの中に『明星』ばりの幼稚な感傷的な歌がいくつか並んでいる。こういう歌はもう二度と作れそうもない。当時二十五歳大学の三年生になったばかりの自分であったのである。
 たしかその時のことである。江の島の金亀楼で一晩泊った。島中を歩き廻って宿へ帰ったら番頭がやって来て何か事々しく言訳をする。よく聞いてみると、当時高名であった強盗犯人山辺音槌とかいう男が江の島へ来ているという情報があったので警官がやって来て宿泊人を一々見て歩き留守中の客の荷物を調べたりしたというのである。強盗犯人の嫌疑候補者の仲間入りをしたのは前後にこの一度限りであった。
「藤沢江の島間電車九月一日開通、衝突脱線等あり、負傷者数名を出す」という文句の脇に「藤沢停車場前角若松の二階より」とした実に下手な鉛筆のスケッチがある。
 逗子養神亭から見た向う岸の低い木柵に凭(もた)れている若い女の後姿のスケッチがある。鍔広(つばびろ)の藁帽を阿弥陀に冠(かぶ)ってあちら向いて左の手で欄(てすり)の横木を押さえている。矢絣(やがすり)らしい着物に扱帯(しごきおび)を巻いた端を後ろに垂らしている、その帯だけを赤鉛筆で塗ってある。そうした、今から見れば古典的な姿が当時の大学生には世にもモダーンなシックなものに見えたのであろう、小杉天外の『魔風恋風』が若い人々の世界を風靡(ふうび)していた時代のことである。
 大正の初年頃外房州(そとぼうしゅう)の海岸へ家族づれで海水浴に出かけたら七月中雨ばかり降って海にはいるような日がほとんどなく、子供の一人が腸を悪くして熱を出したりした。宿の主人は潜水業者であったが、ある日潜水から上がると身体中が痺(しび)れて動けなくなったので、それを治すためにもう一遍潜水服を着せて海へ沈めたりしたが、とうとうそれっきりになってしまった。自分等は離屋(はなれ)にいたのでその騒ぎを翌日まで知らなかった。その二、三日前の夜にその主人が話しに来たとき自分も二十余年前の父の真似をして有り合せのベルモットか何かを飲ませたら、この男もやはりこんな酒は始めてだと云って喜んで飲んだ。多分たった一杯飲んだだけであったが、しかしその馴れない酒を飲んだという事と、間もなく潜水者病に罹ったこととの間に何かしら科学的に説明出来るような関係があったのではないかというような気がして、妙に不安な暗い影のようなものが頭につきまとって困った。何かの因縁が二十年前とつながっているような気もした。それがちょうど中元の頃で、この土地の人々は昔からの風習に従って家々で草を束ねた馬の形をこしらえ、それを水辺に持出しておいてから、そこいらの草を刈ってそれをその馬に喰わせる真似をしたりしていた。この草で作った馬の印象が妙になまなましく自分のこの悪夢のような不安と結びついて記憶に残っているのである。それから間もなく東京に残っていた母が病気になったので皆で引上げて帰って来る、その汽車の途中から天気が珍しく憎らしく快晴になって、それからはもうずっと美しい海水浴日和がつづいたのであった。この一と夏の海水浴の不首尾は実に人生そのものの不首尾不如意の縮図のごときものであった。
 それから後にも家族連れの海水浴にはとかく色々の災難が附纏(つきまと)ったような気がする。そのうちにまた自分が病気をしてうっかり海水浴の出来ないようなからだになったので、自然に夏の海とは縁が遠くなってしまった。
 四歳のときにひどく海を嫌ったのがその讖(しるし)をなしたとでも云うのかもしれない。
 この頃では夏が来るとしきりに信州の高原が恋しくなる。郭公(かっこう)や時鳥(ほととぎす)が自分を呼んでいるような気がする。今年も植物図鑑を携えて野の草に親しみたいと思っている。
(昭和十年八月『文芸春秋』)



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