写生紀行
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著者名:寺田寅彦 

 去年の春から油絵の稽古(けいこ)を始めた。冬初めごろまでに小さなスケッチ板へ二三十枚、六号ないし八号の画布へ数枚をかいた。寒い間は休んでことし若葉の出るころからこの秋までに十五六枚か、事によると二十枚ほどの画布を塗りつぶした。これらのものの大部分はみんなうちの庭や建物の一部を写生したものである。
 静物もかかないわけではなかった。しかし花を生けて写生しようと思うとすぐにしおれたり、またこれに反して勢いのいいのは日ごとの変化があまりにはげしくて未熟なものの手に合わなかった。壺(つぼ)やりんごもおもしろくない事はないが、せっかく「生きた自然」の草木が美しく、それに戸外が寒くなくていい時候に、室内の「死んだ自然(ナチュール・モルト)」と首っ引きをするのももったいないような気がした。静物ないし自画像などは寒い時のために保留するというような気もあって、暖かいうちはなるべく題材を戸外に求める事に自然となってしまった。もっとも戸外と言ってもただ庭をあちらから見たりこちらから見たり、あるいは二階か近所の屋根や木のこずえを見たところなど、もしこれがほんとうの画家ならば始めからてんで相手にしないようなものを、無理に拾い出し、切り取っては画布に塗り込むのであった。それだから、どの絵にもどの絵にも同じ四(よ)つ目垣(めがき)のどこかの部分が顔を出していたり、同し屋根がどこかに出っ張ったりしている事になるのは免れ難い。
 それでも私にとってはやはりおもしろくない事はなかった。たとえば四(よ)つ目垣(めがき)でも屋根でも芙蓉(ふよう)でも鶏頭(けいとう)でも、いまだかつてこれでやや満足だと思うようにかけた事は一度もないのだから、いくらかいてもそれはいつでも新しく、いつでもちがった垣根や草木である。おそらく一生かいていてもこれらの「物」に飽きるような事はあるまいと思う。かく事には時々飽きはしても。
 展覧会などで本職の画家のかいた絵を見ると、美しい草木や景色や建築物やが惜しげもなく材料に使われている。今の自分から見るとこれらの画家は実にうらやましい有福な身分だと思う。世の中に何がぜいたくだと言って、このような美しく貴重な自然を勝手自在にわが物同様に使用し時には濫費してもいいという、これほどのぜいたくは少ないと思う。これに匹敵するぜいたくはおそらくただ読書ぐらいのものかもしれない。
 そんな絵を見るたびに、きっと自分も門から外へ出てかいてみたくなるのである。一歩門を出さえすれば、ついそこの路地にでも川岸にでも電車停留場にでも、とにかくうちの庭とは比較にならないほどいい題材が、もったいないように無雑作に、顧みられずにころがっている。わざわざ旅費を出して幾日も汽車を乗り回す必要などはないように思われる。しかしどうもこの東京の街頭に画架をすえて、往来の人を無視してゆっくり落ち着いて、目を細くしたり首をひねったりする勇気は――やってみたら存外あるかもしれないが、考えてみただけではどうもなさそうに思われる。せめて郊外へでも行けばそういう点でいくらかぐあいのいい場所があるだろうと思ったが、しかし一方でまたあまり長く電車や汽車に乗り、また重いものをさげて長途を歩くのは今の病気にさわるという懸念があった。
 ことしの秋になって病気のぐあいがだいぶよくなったし、医者も許しまたすすめてくれたので、どこかへためしに行ってみようと思うと、あいにくなもので時候はずれの霖雨(りんう)がしばらくつづいて、なかなか適当な日は来なかった。やっと天気がよくなって小春の日光の誘惑を感ずるころには、子供が病気になっていてどうもそういう心持ちになれなかった。

 十月十五日。朝あまり天気が朗らかであったので急に思い立って出かける事にした。このあいだM君と会った時、いつかいっしょに大宮(おおみや)へでも行ってみようかという話をした事を思い出して、とにかく大宮まで行ってみる事にした。絵の具箱へスケッチ板を一枚入れて、それと座ぶとん代わりの古い布切れとを風呂敷(ふろしき)で包み隠したのをかかえて市内電車で巣鴨(すがも)まで行った。省線で田端(たばた)まで行く間にも、田端で大宮行きの汽車を待っている間にも、目に触れるすべてのものがきょうに限って異常な美しい色彩で輝いているのに驚かされた。停車場のくすぶった車庫や、ペンキのはげかかったタンクや転轍台(てんてつだい)のようなものまでも、小春の日光と空気の魔術にかかって名状のできない美しい色の配合を見せていた。それに比べて見ると、そこらに立っている婦人の衣服の人工的色彩は、なんとなくこせこせした不調和な継ぎ合わせもののように見えた。こんなものでも半年も戸外につるして雨ざらしにして自然の手にかけたら、少しは落ちついたいい色調になるかもしれないと思ったりした。実際洗いざらしの鉄道工夫の青服などは、適当な背景の前には絵になるものの一つである。ヴェニスの美しさも半分は自然のためによごれさらされているおかげである。
 乗り込んだ汽車はどこかの女学校の遠足で満員であった。汽車が動きだすと一団の生徒らは唱歌を歌いだした。それはなんの歌だかわからないが、二部の合唱で、静かな穏やかな清らかな感じのするものであった。汽車のゴーゴーという単調な重々しい基音の上に、清らかに澄みきった二つの音の流れがゆるやかな拍子で合ったり離れたり入り乱れて流れて行く。窓の外にはさらに清く澄みきった空の光の下に、武蔵野(むさしの)の秋の色の複雑な旋律とハーモニーが流れて行った。
 大宮駅でおりて公園までぶらぶら歩いた。駅前の町には「螢五家宝(ほたるごかぼう)」というお菓子を売る店が並んでいる。この「五家宝」という名前を見ると私の頭の中へは、いつでも埼玉県(さいたまけん)の地図が広げられる。そうしてあのねちねちした豆の香をかぐような思いがする。
 ある町の角(かど)をまがって左側に蝋細工(ろうざいく)の皮膚病の模型を並べた店が目についた。人間の作ったあらゆる美しくないものの中でもこれくらい美しくないものもまれである。きょうのような日に見るとその醜さがさらに強められる、こんなものや菊人形などというものに比べるとたとえば屠牛場(とぎゅうじょう)の内部の光景のほうがまだいくらか美しいくらいだと思う。牛や豚の残骸(ざんがい)はあれでも自然の断片である。
 悪い醜い病をなおす薬を売るために、病の醜さを世に宣伝する、このやり方が今の新聞や婦人雑誌のやり方によく似ている。その主旨ははなはだめでたい。しかしそういう方法ではたして世の中の醜い病が絶やされるものであろうか。薬はよく売れても、おそらく病のほうはかえってますます広がりはしないだろうか。もう少し積極的なあるものの力でそういう病にかからない根本的素質を養う事はできないものだろうか。
 公園の入り口まで行ってちょっと迷った。公園の中よりは反対の並み木道を行ったほうが私の好きな画題は多いらしく思われた。しかしせっかくここまで来て、名高いこの公園を一見しないのも、あまりに世間というものに申し訳がないと思って大きな鳥居をくぐってはいって行った。
 いつのまにか宮の裏へ抜けると、かなり広い草原に高くそびえた松林があって、そこにさっきの女学生が隊を立てて集まっていた。遠くで見ると草花が咲いているようで美しかった。
 腹がへったので旗亭(きてい)の一つにはいって昼飯を食った。時候はずれでそして休日でもないせいか他にお客は一人もなかった。わざわざ一人前の食膳(しょくぜん)をこしらえさせるのが気の毒なくらいであったが、しかし静かで落ち着いてたいへんに気持ちがよかった。小さな座敷の窓には柿(かき)の葉の黄ばんだのが蝋石(ろうせき)のような光沢を見せ、庭には赤いダーリアが燃えていた。一つとして絵にならないものはないように見えた。
 飯を食いながら女中の話を聞くと、せんだってなんとかいう博士がこの公園を見に来て、これはたいへんにいい所だからこの形勝を保存しなければいけないという事になり、さらに裏手の丘までも公園の地域を拡張する事になった。「そうなると私どもはここを立ちのかなければなりません」という。非常に結構な事だと思った。近年急に襲うて来た「改造」のあらしのために、わが国の人の心に自然なあらゆるものが根こぎにされて、そのかわりにペンキ塗りの思想や蝋細工(ろうざいく)のイズムが、新開地の雑貨店や小料理屋のように雑然と無格好(ぶかっこう)に打ち建てられている最中に、それほどとも思われぬ天然の風景がほうぼうで保存せられる事になるのは、せめてもの事である。なろう事なら精神的の方面でもどこかの山や森に若干の形勝を保存してもらいたい。こんな事を考えながら一わんの鯉(こい)こくをすすってしまった。
「絵をおかきになるなら、向こうの原っぱへおいでになるといい所がありますよ」と教えられたままにそのほうへ行ってみる。近ごろの新しい画学生の間に重宝がられるセザンヌ式の切り通し道の赤土の崖(がけ)もあれば、そのさきにはまた旧派向きの牛飼い小屋もあった。いわゆる原っぱへ出ると、南を向いた丘の斜面の草原には秋草もあれば桜の紅葉もあったが、どうもちょうどぐあいのいい所をここだと思い切りにくいので、とうとうその原っぱを通り越して往還路へおりてしまった。道ばたにはところどころに赤く立ち枯れになった黍(きび)の畑が、暗い森を背景にして、さまざまの手ごろな小品を見せていた。しかしもう少しいい所をと思って歩いているうちに、とうとうぐるりと一回りして元の公園の入り口へ出てしまった。
 入り口の向こう側に妙な細工もののような庭園があった。その中に建てた妙な屋台造りに生き人形が並べてあった。鞍馬山(くらまやま)で牛若丸(うしわかまる)が天狗(てんぐ)と剣術をやっているのがあった。その人形の色彩から何からがなんとも言えない陰惨なものである。この小屋の上にそびえた美しい老杉(ろうさん)までがそのために物すごく恐ろしく無気味なものに感ぜられた。なんのためにわざわざこんなものが作ってあるのか全くわからない。
 秋の日がだんだん低く落ちて行った。あまりゆるゆるしていては、せっかくここまで来たのに一枚もかかずに帰る事になりそうなので、行き当たり次第に並み木道を左へ切れていって、そこの甘藷畑(かんしょばたけ)の中の小高い所にともかくも腰をかけて絵の具箱をあけた。なんとなしに物新しい心のときめきといったようなものを感じた。それは子供の時分に何か長くほしがっていた新しいおもちゃを手に入れて始めてそれを試みようとする時、あるいは何かの研究に手をつけて、始めて新しい結果の曙光(しょこう)がおぼろに見え始めた時に感じるのと同じようなものであった。天地の間にあるものはただ向こうの森と家と芋畑とそして一枚のスケッチ板ばかりであった。
 向こうの小道をまれに百姓が通ったが、わざわざ自分の所までのぞきに来る人は一人もなかった。
 どれだけ時間が経過したかまるでわからなかった。ただ律儀(りちぎ)な太陽は私にかまわずだんだんに低くたれ下がって行って景色の変化があまりに急激になって来るので、いいかげんに切り上げてしまわなければならなかった。軽く興奮してほてる顔をさらに強い西日が照りつけて、ちょうど酒にでも微酔したような心持ちで、そしてからだが珍しく軽快で腹がいいぐあいにへっていた。
 停車場まで来ると汽車はいま出たばかりで、次の田端(たばた)止まりまでは一時間も待たなければならなかった。構外のWCへ行ってそこの低い柵越(さくご)しに見ると、ちょうどその向こう側に一台の荷物車があって人夫が二人その上にあがって材木などを積み込んでいた。右のほうのバックには構内の倉庫の屋根が黒くそびえて、近景に積んだ米俵には西日が黄金のように輝いており、左のほうの澄み通った秋空に赤や紫やいろいろの煙が渦巻(うずま)きのぼっているのがあまりに美しかったから、いきなり絵の具箱を柵(さく)の上に置いてWCの壁にもたせかけ大急ぎのスケッチをしようとした。板はただ一枚しかなかったから、さっきの絵の裏へきわめて大まかにかき始めた。
 場所が場所だけに見物がだんだん背後に集まって来た。車夫もくれば学生も来ているようであった。しかし大急ぎでこの瞬間の光彩をつかもうとしてもがいている私には、とてもそんな人たちにかまっているだけの余裕はなかった。それでも人々の言葉は時々耳にはいる。私が新しくブラシをおろすたびに、「煙だよ」とか「電柱だよ」とか一々説明してくれる人もあって、なんだか少し背中や首筋のへんがくすぐったいような気持ちもした。そういう人の同情に報いるためには私の絵がもう少し人の目にうまく見えなければ気の毒だと思うのであった。
 ほんのだいたいの色と調子の見当をつけたばかりで急いで絵の具箱を片付けてしまった。さてふり返って見るともうだれもいなかった。人々の好奇心の目的物はやっぱりこの私ではなくて「絵をかいてるどこかの人」であったのである。このぶんなら東京の町中でもどうやら写生ができそうな気もした。
 行きにいっしょであった女学校の一団と再び同じ汽車に乗り合わせたが、生徒たちは行きとはまるで別人のように活発になっていた。あの物静かな唱歌はもう聞かれなくなって、にぎやかなむしろ騒々しい談笑が客車の中に沸き上がった。小さなバスケットや信玄袋(しんげんぶくろ)の中から取り出した残りものの塩せんべいやサンドウイッチを片付けていた生徒たちの一人が、そういうものの包み紙を細かく引き裂いては窓から飛ばせ始めると、風下の窓から手を出してそれを取ろうとするものが幾人も出て来た。窓ぎわにすわっていた若い商人ふうの男もいっしょになってそのような遊戯を享楽していた。この暖かい小春の日光はやはり若い人たちの血のめぐりをよくしたのであろう。このような血のめぐりのいい時に、もしほんとうの教育、人の心を高い境地に引き上げるような積極的な教育が施されたら、どんなに有効な事であろう。
 元気のいい人たちの中には少数の沈んだ顔もあった。けんかでもしたのかハンケチを顔に押しあてて泣いているのもあった。これも小春の日光の効果の一面かもしれなかった。
 途中から乗った学生とも職工ともつかぬ男が、ベンチの肱掛(ひじか)けに腰をおろして周囲の女生徒にいろんな冗談を言って笑わしていた。「学校はどこ……小石川(こいしかわ)?、○○? △△?……」などと女学校の名前らしいものを列挙していたが生徒のほうではだれもはっきりした答えを与えないでただ笑っていた。どうして小石川という見当をつけたかが私には不思議に思われた。それぞれのエキスパートが品物の産地を言い当てるように、この男にはやはり特別な眼識が備わっているのかと思われた。そう言われるとなるほどなんとなく小石川らしくも思われない事はなかった。
 田端(たばた)へ着くともういよいよ日が入りかけた。夕日に染められた構内は朝見た時とはまるでちがったさらにさらに美しい別の絵になっていた。数多い展覧会の絵の中で一枚もこの美しい光景を描いたものを見ないのが不思議に思われた。しかしいくら日本の鉄道省でも画家の写生を禁じているとは考え得られなかった。

 十月十六日、日曜。きのうの漫歩がからだにも精神にも予想以上にいい効果があったように思われたので、きょうもつづけて出かけてみる事にした。きのう汽車の窓から見ておいた浦和(うらわ)付近の森と丘との間を歩いてみようと思ったのである。きのう出る時にはほとんどなんのあてもなしであったのが、ただ一度の往復で途中へ数えきれないほどの目当てができてしまった。自分らの研究の仕事でもよく似た事がある。ただ空で考えるだけでは題目(テーマ)はなかなか出て来ないが、何か一つつつき始めるとその途中に無数の目当てができすぎて困るくらいである。そういう事でも、興味があるからやるというよりは、やるから興味ができる場合がどうも多いようである。
 きょうは日曜で汽車は不合理な不正当な満員であった。ほとんど身動きもできないほどで、出る時に出られるかどうかと思うくらいであった。網棚(あみだな)に絵の具箱をのせる空所もなかったのでベンチにのせかけて持っているうちに、誤って取り落とすと隣に立っていた老人の足に当たった。老人はちょっとおこったような顔を見せたが、驚いてあやまったらすぐに心が解けたようである。私はこんな時にいつでも思う事がある。自分はなぜ平気ですましていて、もし面と向かっておこられたら、そんな所に足をもって来ているやつがあるか気をつけろとどなりつけるだけの勇気がないのだろう。この勇気がなくてはとても今の世間をのんびりした気持ちでは渡って行かれないらしい。昔は命を的にしなければ、うっかり誤ってでも人の足も踏めず、悪口も無論言われなかった。私の血縁の一人は夜道で誤って突き当たった人と切り合って相手を殺し自分は切腹した。それが今では法律に触れない限り、自分のめがねで見て気に入らない人間なら、足を踏みつけておいて、さかさまにののしるほうが男らしくていいのである。そういう事を道楽のようにして歩いている人格者もある。それで私は自分の子供らの行く末を思うなら、そういうふうに今から教育しなければさきで困るのではないかと思う事もしばしばある。
「赤羽(あかばね)で今電気をたくところをこさえているが、それができるとはや……」こんな事を話している男があった。電気をたくという言葉がおもしろかった。日本語もこういうぐあいに活用させる人ばかりだったら、字を見なければわからないあるいは字を見ても読めないような生硬な術語などをやめてしまって、もう少し親しみのあるものに代える事ができそうである。国語調査会とかいうものでこういういい言葉を調べ上げたらよさそうに思われた。
 浦和の停車場からすぐに町はずれへ出て甘藷(さつまいも)や里芋やいろいろの畑の中をぶらぶら歩いた。とある雑木林の出っ鼻の落ち葉の上に風呂敷(ふろしき)をしいてすわり込んで向かいの丘を写し始めた。平生はただ美しいとばかりで不注意に見過ごしている秋の森の複雑な色の諧調(かいちょう)は全く臆病(おくびょう)な素人(しろうと)絵かきを途方にくれさせる。まだ目の鋭くないわれわれ初学者にとってはおそらくこれほどいい材料はあるまい。しかし黒人(くろうと)になればたぶんただ一面のちゃぶ台、一握りの卓布の面の上にでもやはりこれだけの色彩の錯綜(さくそう)が認められるのであろう。それほどになるのも考えものであるとも思うが、しかしたとえ楽しみ事にしろやっぱりそこまで行かなければつまらないとも思う。
 畑に栽培されている植物の色が一切れごとにそれぞれ一つも同じものはない。打ち返されて露出している土でも乾燥の程度や遠近の差でみんなそれぞれに違った色のニュアンスがある。それらのかなりに不規則な平面的分布が、透視法(パースペクチーヴ)という原理に統一されて、そこに美しい幾何学的の整合を示している。これらの色を一つ取りかえても、線を一つ引き違えても、もうだめだという気がする。
 十歳ぐらいの男の子が二人来て後ろのほうで見ていた。「いいねえ」「いい色だねえ」などと言っているのがやはり子供らしい世辞のように聞こえた。遠慮深い小さな声で言っているのであったがさすがにきのうの大宮の車夫とはちがって、絵の中の物体を指摘したりしないで「色」を言ったりするところがそれだけ新しい時代の子供であるのかもしれない。
 ここはいいかげんに切り上げて丘の上の畑の中を歩いた。黍(きび)を主題にしたのが一枚かきたかったがどうもぐあいのいい背景が見つからなかった。同じ畑の中をなんべんも往復しているのを少し離れた畑で働いていた農夫が怪しんでいるようで少し気が引けた。自分が農夫になって見た時にこの絵の具箱をぶら下げて歩いている自分がいかにも東京ののらくら者に見えるので心細かった。とうとう鉄道線路のそばの崖(がけ)の上に腰かけて、一枚ざっとどうにか書き上げてしまった。

 十月十八日、火曜。午後に子供を一人つれて、日暮里(にっぽり)の新開町を通って町はずれに出た。戦争のためにできたらしい小工場が至るところに小規模な生産をやっている。ともかくも自分の子供の時にはみんな貴重な舶来物であった品物が、ちゃんとここらのこんな見すぼらしい工場でできてきれいなラベルなどをはられて市場に出てくるのであろう。それだけでも日本がえらくなったには相違ない。これでもし世界じゅうの他の国が昔のままに「足踏み」をして、日本の追いつくのを待っていてくれたらさぞいいだろう。
 町はずれに近く青いペンキ塗りの新築が目についた。それを主題にしたスケッチを一枚かこうと思って適当な場所を捜していると、ちゃんとした本物の画学生らしいのが二人、同じ「青い家」を取り入れて八号ぐらいの画布をかいているのに出会った。一人は近景に黍の行列を入れ一人は溝(みぞ)にかかった板橋を使っていた。一人のは赤黒く一人のは著しく黄色っぽい調子が目についた。
 私は少し行き過ぎて、深い掘割溝(ほりわりみぞ)の崖(がけ)の縁にすわって溝渠(こうきょ)と道路のパースペクチーヴをまん中に入れたのを描いた。近所の子供らが入り代わり何人となくのぞきに来た。このへんの子供にはだいぶ専門的の知識があって「チューブ」だの「パレット」だのという言葉を言っているのが聞こえた。そして浦和へんの子供とはすべての質が違っていた。
 帰りに、腰に敷いていた大きな布切れのちりを払おうとした拍子に取り落とした。それが溝の崖のずっと下のほうに引っかかって容易には取り上げる事ができないので、そのままにして帰った。この布切れが今でもやっぱり引っかかっているかもしれない。この日かいた絵を見ると、絵の下のほうにこの布切れがぶら下がっているような気がしてしかたがない。人殺しをした人間のある場合の心持ちはどこかこれと似たものがあるのかもしれない。(中略)

 十月二十九日、土曜。王子(おうじ)電車で小台(おだい)の渡しまで行った。名前だけで想像していたこの渡し場は武蔵野(むさしの)の尾花の末を流れる川の岸のさびしい物哀れな小駅であったが、来て見るとまず大きな料理屋兼旅館が並んでいる間にペンキ塗りの安西洋料理屋があったり、川の岸にはいろんな粗末な工場があったり、そして猪苗代湖(いなわしろこ)の水力で起こした電圧幾万幾千ボルトの三相交流が川の高い空をまたいでいるのに驚かされた。
 先月からの雨に荒川(あらかわ)があふれたと見えて、川沿いの草木はみんな泥水(どろみず)をかむったままに干上がって一様に情けない灰色をしていた。全色盲の見た自然はあるいはこんなものだろうかという気がして不愉快であった。
 高圧電線の支柱の所まで来ると、川から直角に掘り込んで来た小さな溝渠(こうきょ)があった。これに沿うて二条のトロのレールが敷いてあって、二三町隔てた電車通りの神社のわきに通じている。溝渠(こうきょ)の向こう側には小規模の鉄工場らしいものの廃墟(はいきょ)がある。長い間雨ざらしになっているらしい鉄の構造物はすっかり赤さびがして、それが青いトタン屋根と美しい配合を示している。煙突なども倒れかかったままになってなんとなく荒れ果てたながめである。この工場のために掘ったかと思われる裏のため池には掘割溝(ほりわりみぞ)から川の水を導き入れてあった。その水門がくずれたままになっているのも画趣があった。池の対岸の石垣(いしがき)の上には竹やぶがあって、その中から一本の大榎(おおえのき)がそびえているが、そのこずえの紅や黄を帯びた色彩がなんとも言われなく美しい。木の影には他の工場の倉庫らしい丹塗(にぬ)りの単純な建物が半面を日に照らされて輝いている。その前には廃工場のみぎわに茂った花すすきが銀のように光っている。
 溝のこっちに画架をすえて対岸の榎と赤い倉庫とすすきとの三角形を主題にしてかき始めた。
 かいているすぐそばには新しい木の香のする材木が積んであった。また少し離れた所には大きな土管がいくつも砂利(じゃり)の上にころがしてあった。私がそこへ来る前から、中学の一年か二年ぐらいと見える子供がただ一人材木の上に腰をかけていたが、私がかき始めるとそばへ来ておとなしく見ていた。そしていつまでもそこを離れないで見ているのであった。
 そのうちに土方のようなものが二三人すぐ背後のほうへ来て材木の上に腰かけて何かしきりに話し合っていた。だれかそこに来るはずの人――それはたぶん親方か何かがまだ来ていないのを待ち遠しがってうわさをしているらしかった。そばに「絵をかいている男」などはまるで問題にならないらしいほど熱心に話し合っていた。
 そのうちに荷馬車の音がしておおぜいの人夫がやって来て、材木をころがしては車に積み始めたので、私はしばらく画架を片よせて避けなければならなかった。そこで少し離れた土管に腰をかけて煙草(たばこ)を吸いながらかきかけの絵の穴を埋める事を考えていた。
 人夫の中には絵をのぞきに来るものもあった。そしていろいろ人を笑わせるつもりらしい粗暴なあるいは卑猥(ひわい)な言語を並べたりした。「あの曲がった煙突をかくといいんだがなあ」などという者もあった。「文展へ行って見ろ、島村観山とか寺岡広業とか、ああいうのはみんな大家だぜ、こんなのとはちがわあ」「あれでもどっかへ持って行きゃあ、三十円や五十円にゃあなるんだよ」などいうのも聞こえた。
 さっきの子供はいつまでもそこいらを離れずにぶらぶらしていた。遠足にしてはただ一人というのもおかしかった。よほど絵が好きなので、こうして油絵のできて行く道筋を飽きずにおしまいまで見届けようとしているのかと思ってもみた。
 一度去った荷車と人夫は再び帰って来た。彼らの仕事しながらの会話によって対岸の廃工場が某の鋳物工場であった事、それがようやく竣成(しゅんせい)していよいよ製造を始めようとするとたんに経済界の大変動が突発してそのまま廃墟(はいきょ)になってしまった事などを知った。
 絵の具箱を片付けるころには夕日が傾いて廃墟のみぎわの花すすきは黄金の色に染められた。そこに堆積(たいせき)した土塊のようなものはよく見るとみな石炭であった。ため池の岸には子供が二三人釣(つ)りをたれていた。熔炉(ようろ)の屋根には一羽のからすが首を傾けて何かしら考えていた。
 絵として見る時には美しくおもしろいこの廃墟の影に、多数の人の家の悲惨な運命が隠れているのを、この瞬間まで私は少しも考えないでいた。一度気がつくともう目の前の絵は消えてそこにはさまざまな悲劇の場面が現われた。
 利欲のほかに何物もない人たちが戦時の風雲に乗じていろいろなきわどい仕事に手を出し、それがほとんど予期されたはずの変動のために倒れたのはどうにもしかたがないとしても、そういう人の妻子の身の上は考えてみれば気の毒である。
 突然すぐ前の溝(みぞ)の中から呼びかけるものがある。見ると川のほうから一艘(そう)の荷船がいつのまにかはいって来ている。市中の堀(ほり)などでよく見かけるような、船を家として渡って行く家族の一つである。舳(へさき)に立っている五十近い男が今呼びかけたのは私ではなくて、さっきから私の絵を見ていた中学生であった。
 子供に関するすべての事が稲妻のひらめくように私の頭の中に照らし出された。きょうは土曜である。市の中学からおそらく一週間ぶりに帰った子供はこの一夜を父母と同じ苫(とま)の下で明かそうとするのであろう。それを迎えに来た親と、待ちくたびれた子供とが、船と岸とで黙って向かい合っているさびしい姿を見比べた時に、なんだか急に胸のへんがくすぐったくなって知らぬまに涙が出ていた。なんのための涙であったか自分でもわからない。
 絵の世界はこの上もなく美しい。しばらくこの美しい世界にのがれて病を養おうと思っても、絵の底に隠れた世の中が少しの心のすきまをうかがってすぐに目の前に迫ってくる。これは私の絵が弱いのか世の中が強いのか、どっちだかこれもよくわからない。
 一つの工場が倒れる一方に他の工場は新たに建てられている。さっきの材木もやはりどこかの工場のである事が人夫の話から判断された。工業が衰えたわけでもないらしい。個体が死んでも種(スペシース)が栄えれば国家は安泰である。個体の死に付随する感傷的な哀詩などは考えないほうが健全でいいかもしれない。
 工場のみならず至るところに安普請の家が建ちかかっているのがこのあいだじゅう目についていた。ひところ騒がしかった住宅難の解決がこんなふうにしてなしくずしについているかと思われた。まだ荒壁が塗りかけになって建て具も張ってない家に無理無体に家財を持ち込んで、座敷のまん中に築いた夜具や箪笥(たんす)の胸壁の中で飯を食っている若夫婦が目についたりした。
 新開地を追うて来て新たに店を構えた仕出し屋の主人が店先に頬杖(ほおづえ)を突いて行儀悪く寝ころんでいる目の前へ、膳椀(ぜんわん)の類を出し並べて売りつけようとしている行商人もあった。そこらの森陰のきたない藁屋(わらや)の障子の奥からは端唄(はうた)の三味線をさらっている音も聞こえた。こうしてわが大東京はだらしなく無設計に横に広がって、美しい武蔵野(むさしの)をどこまでもと蚕食して行くのである。こんなにしなくても市中の地の底へ何層楼のアパートメントでも建てたほうがよさそうに思われる。そうしないと、おしまいには米や大根を地下室の棚(たな)で作らなければならない事になるかもしれない。
 ベルリンの郊外でまだ家のちっとも建たない原野に、道路だけが立派にみがいたアスファルト張りにできあがって、美術的なランプ柱が行列しているのを、少しばかばかしいようにも感じたのであったが、やっぱりああしなければこうなるのは当たりまえだと思われた。
 思うに「場末の新開町」という言葉は今の東京市のほとんど全部に当てはまる言葉である。

 十一月二日、水曜。渋谷(しぶや)から玉川電車(たまがわでんしゃ)に乗った。東京の市街がどこまでもどこまでも続いているのにいつもながら驚かされた。
 世田(せた)が谷(や)という所がどこかしら東京付近にあるという事だけ知って、それがどの方面だかはきょうまでつい知らずにいたが、今ここを通って始めて知った。なるほど兵隊のいそうなという事が町に並んでいる店屋の種類からも想像されるのであった。
 駒沢村(こまざわむら)というのがやはりこの線路にある事も始めて知った。頭の中で離れ離れになってなんの連絡もなかったいろいろの場所がちょうど数珠(じゅず)の玉を糸に連ねるように、電車線路に貫ぬかれてつながり合って来るのがちょっとおもしろかった。
 学校で教わったり書物を読んだりして得た知識もやはり離れ離れになりがちなものである。ただ自分が何かの問題にまともにぶつかって、そのほうの必要からこれらの知識を通り抜ける時に、すべての空虚な知識が体験の糸に貫ぬかれて始めて生きて連結して来る。これと同じようなものだと思う。
 農科の実科の学生が二三人乗っていた。みんな大きな包みのようなものを携えている。休日でもないのにどこへ行くのだろうと思って気をつけていた。すると途中からもう一人同じ帽章をつけたのが乗り込んで、いきなり入り口に近く腰掛けていた一人の肩をたたき「オイ、どうした」と声をかけた。その言葉の響きのある機微な特徴で、私はこの学生が固有の日本人でない事を知った。気をつけてみると、つい私の隣にかけていた連れの一人の読んでいる新聞が漢字ばかりのものであった。容貌(ようぼう)から見るとどうもシナではなくて朝鮮から来た人たちらしく思われた。
 玉川(たまがわ)の川原では工兵が架橋演習をやっていた。あまりきらきらする河原には私の捜すような画題はなかったので、川とこれに並行した丘との間の畑地を当てもなく東へ歩いて行った。広い広い桃畑があるが、木はもうみんな葉をふるってしまって、果実を包んだ紙の取り残されたのが雨にたたけてくっついている。少しはなれて見ると密生したこずえの色が紫色にぼうとけむったように見える。畑の間を縫う小道のそばのところどころに黄ばんだ榛(はん)の木のこずえも美しい。
 丘の上へ登ってみようと思って道を捜していると池のようなもののそばに出た。さざ波一つ立たない池に映った丘の森の色もまたなく美しいものである。みぎわに茂る葭(あし)の断え間に釣(つ)りをしている人があった。私の近づく足音を聞くと振り返ってなんだかひどく落ち付かぬふうを見せた。もしこの池で釣魚(つり)をする事が禁ぜられてでもいるか、そうでないとすれば、この人はやはり自分のようなたちの、言わばすわりの悪い良心をもった人間だろうと思われた。そして悪い事をしていなくても、人から悪い事をしていると思われはしないかと思うと同時に、実際悪い事をしていると同じ心持ちになるというたちの男かもしれないと思った。そして同病相哀れむ心から私は急いでそこを通り過ぎねばならなかった。
 ようやく丘の下の往還に出ると、ちょうどそこから登る坂道があった。登りつめるときれいな芝を植えた斜面から玉川沿いの平野一面を見晴らす事ができた。しかしそれよりも私の目をひいたのは、丘の上の畑の向こう側に柿(かき)の大木が幾本となく並んでその葉が一面に紅葉しているのであった。その向こうは一段低くなっていると見えて柿のこずえの下にある家の藁葺屋根(わらぶきやね)だけが地面にのっかっているように見えていた。ここで画架を立てて二時間余りを無心に過ごした。
 崖(がけ)をおりて停車場のほうへ行く道ばたには清らかな小流れが音を立てて流れていた。小川の岸に茂るいろいろの灌木(かんぼく)はみんなさまざまの秋の色彩に染められていた。小川と丘との間の一帯の地に、別荘らしい家がところどころに建っている。後ろには森を背負い、門前の小川には小橋がかかっている、なんとなしに閑寂な趣のあるいい土地だと思う。しかしこの小川の流れが衛生のほうから少し気になる点もあると思った。
 電車は小学校の遠足のかえりでいっぱいであった。よんどころなく車掌台に立って外を見ていると、ある切り通しの崖(がけ)の上に建てた立派な家のひさしが無残に暴風にこわされてそのままになっているのが目についた。液体力学の教えるところではこういう崖の角(かど)は風力が無限大になって圧力のうんと下がろうとする所である。液体力学を持ち出すまでもなく、こういう所へ家を建てるのは考えものである。しかしあるいは家のほうが先に建っていたので切り通しのほうがあとにできたかもしれない。そうだとすると電車の会社はこの家の持ち主に明白な損害を直接に与えたものだという事が科学的に立証されるわけである。これによく似た場合は物質的のみならず精神的の各方面にも至るところにあるが損害をかけた人も受けた人も全然その場合の因果関係に心づかない事が多いように思われる。そのおかげでわれわれは枕(まくら)を高くして眠っていられる。そして言論や行動の自由が許されている。春秋(しゅんじゅう)の筆法が今は行なわれないのであろう。そうでなければこんな事もうっかりは言われない。
 世田が谷近くで将校が二人乗った。大尉のほうが少佐に対して無雑作な言語使いでしきりに話しかけていた。少佐は多く黙っていた。その少佐の胸のボタンが一つはとれて一つはとれかかっているのが始終私の気にかかった。
 同乗の小学生を注意して見ると、もちろんみんな違った顔であるが、それでいて妙にみんなよく似た共通の表情がある。軍人を見てもやっぱりそうであるらしい。これがどうしてそうなるかを突きとめる事はある人々にきわめて重大な問題であると思われる。われわれの見た蟻(あり)や蜜蜂(みつばち)のように個体の甲と乙との見分けがつかなくならなければその「集団」はまだ本物になっていないと思う。

 十一月十日、木曜。池袋(いけぶくろ)から乗り換えて東上線(とうじょうせん)の成増(なります)駅まで行った。途中の景色が私には非常に気にいった。見渡す限り平坦(へいたん)なようであるが、全体が海抜幾メートルかの高台になっている事は、ところどころにくぼんだ谷があるので始めてわかる。そういう谷の所にはきまって松や雑木の林がある。この谷の遠く開けて行くさきには大河のある事を思わせる。畑の中に点々と碁布した民家は、きまったように森を背負って西北の風を防いでいる。なるほど吹きさらしでは冬がしのがれまい。
 私の郷里のように、また日本の大部分のように、どちらを見てもすぐ鼻の先に山がそびえていて、わずかの低地にはうっとうしい水田ばかりしかない土地に育ったものには、このような景色は珍しくて、そしていかにも明るく平和にのびのびした感じがする。これと言って特にさすもののないために一見単調なように見えるが、その中にかなり複雑な、しかし柔らかな変化は含まれている。あまりに強い日常の刺激に疲れたものの目にはこのようなながめがまたなくありがたい。
 米を食って育っていながらこういう事をいうのはすまないが、水田というものの景色はなぜか私には陰気な不健康な感じを与える。またいくら広くてもその面積はわれわれの下駄(げた)ばきの足を容(い)れる事を許さないために、なんとなく行き詰まった窮屈な感じを与えるが、畑地ならば実際どこでも歩いて行けば行かれると思うだけでも自由なのびやかな気がする。
 ねぎや大根が至るところに青々として、麦はまだわずかに芽を出した所があるくらいであった。このあいだまで青かったはずの芋の葉は数日来の霜に凍(い)ててすっかりうだったようになったのが一つ一つ丁寧に結び束ねてあった。
 成増でおりて停車場の近くをあてもなく歩いた。とある谷を下った所で、曲がりくねった道路と、その道ばたに榛(はん)の木が三四本まっ黄に染まったのを主題にして、やや複雑な地形に起伏するいろいろの畑地を画布の中へ取り入れた。
 帰りに汽車の窓から見た景色は行きとは見違えるほどいっそう美しかった。すべてのものが夕日を浴びて輝いている中にも、分けて谷の西向きの斜面の土の色が名状のできない美しいものに見えた。線路に沿うたとある森影から青い洋服を着て、ミレーの種まく男の着ているような帽子をかぶった若者が、一匹の飴色(あめいろ)の小牛を追うて出て来た。牛の毛色が燃えるように光って見えた。それはどうしてもこの世のものではなくてだれかの名画の中の世界が眼前に生きて動いているとしか思われなかった。
 ほとんど感傷的になって見とれている景色の中には、こんなに日が暮れかかってもまだ休まず働いている農夫の家族が幾組となくいた。赤子をおぶって、それをゆさぶるような足取りをして、麦の芽をふんでいる母親たちの姿が哀れに見えた。こうして日の暮れるまで働いておいて朝はもう二時ごろから起きて大根の車のあと押しをして市場へ出るのであろう。
 市に近づくに従って空気の濁って来るのが目にも鼻にも感じられた。風のない市の上空には鉛色の煙が物すごくたなびいていた。
 もしも事情が許すなら、私はこの広い平坦(へいたん)な高台の森影の一つに小さな小家を建てて、一週のうちのある一日をそこに過ごしたいと思ったりした。これまでいろいろのいわゆる勝地に建っている別荘などを見ても、自分の気持ちにしっくりはまるようなものはこれと言って頭にとどまっていない。海岸は心騒がしく、山の中は物恐ろしい。立派な大廈高楼(たいかこうろう)はどうも気楽そうに思われない。頼まれてもそういう所に住む気にはなれそうもない。しかしこの平板な野の森陰の小屋に日当たりのいい縁側なりヴェランダがあってそこに一年のうちの選ばれた数日を過ごすのはそんなに悪くはなさそうに思われた。
 ついそんな田園詩の幻影に襲われたほどにきょうの夕日は美しいものであった。

 長い間宅(うち)にばかりくすぶっていて、たまたまこのよい時節に外の風に吹かれると気持ちはいいようなものの、あまりに美しい自然とそこにも付きまとう世の中の刺激が病余の神経には少しききすぎるようでもある。もうそろそろ寒くはなるし、写生行もしばらく中止していよいよ静物でもやり始めなければなるまいと思っている。
(大正十一年一月、中央公論)



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