科学者と芸術家
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著者名:寺田寅彦 

 芸術家にして科学を理解し愛好する人も無いではない。また科学者で芸術を鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかし芸術家の中には科学に対して無頓着(むとんちゃく)であるか、あるいは場合によっては一種の反感をいだくものさえあるように見える。また多くの科学者の中には芸術に対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌忌(けんき)の念をいだいているかのように見える人もある。場合によっては芸術を愛する事が科学者としての堕落であり、また恥辱であるように考えている人もあり、あるいは文芸という言葉からすぐに不道徳を連想する潔癖家さえまれにはあるように思われる。
 科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか、これは自分の年来の疑問である。
 夏目漱石先生がかつて科学者と芸術家とは、その職業と嗜好(しこう)を完全に一致させうるという点において共通なものであるという意味の講演をされた事があると記憶している。もちろん芸術家も時として衣食のために働かなければならぬと同様に、科学者もまた時として同様な目的のために自分の嗜好に反した仕事に骨を折らなければならぬ事がある。しかしそのような場合にでも、その仕事の中に自分の天与の嗜好(しこう)に逢着(ほうちゃく)して、いつのまにかそれが仕事であるという事を忘れ、無我の境に入りうる機会も少なくないようである。いわんや衣食に窮せず、仕事に追われぬ芸術家と科学者が、それぞれの製作と研究とに没頭している時の特殊な心的状態は、その間になんらの区別をも見いだしがたいように思われる。しかしそれだけのことならば、あるいは芸術家と科学者のみに限らぬかもしれない。天性の猟師が獲物をねらっている瞬間に経験する機微な享楽も、樵夫(しょうふ)が大木を倒す時に味わう一種の本能満足も、これと類似の点がないとはいわれない。
 しかし科学者と芸術家の生命とするところは創作である。他人の芸術の模倣は自分の芸術でないと同様に、他人の研究を繰り返すのみでは科学者の研究ではない。もちろん両者の取り扱う対象の内容には、それは比較にならぬほどの差別はあるが、そこにまたかなり共有な点がないでもない。科学者の研究の目的物は自然現象であってその中になんらかの未知の事実を発見し、未発の新見解を見いだそうとするのである。芸術家の使命は多様であろうが、その中には広い意味における天然の事象に対する見方とその表現の方法において、なんらかの新しいものを求めようとするのは疑いもない事である。また科学者がこのような新しい事実に逢着(ほうちゃく)した場合に、その事実の実用的価値には全然無頓着(むとんちゃく)に、その事実の奥底に徹底するまでこれを突き止めようとすると同様に、少なくも純真なる芸術が一つの新しい観察創見に出会うた場合には、その実用的の価値などには顧慮する事なしに、その深刻なる描写表現を試みるであろう。古来多くの科学者がこのために迫害や愚弄(ぐろう)の焦点となったと同様に、芸術家がそのために悲惨な境界に沈淪(ちんりん)せぬまでも、世間の反感を買うた例は少なくあるまい。このような科学者と芸術家とが相会うて肝胆相照らすべき機会があったら、二人はおそらく会心の握手をかわすに躊躇(ちゅうちょ)しないであろう。二人の目ざすところは同一な真の半面である。

 世間には科学者に一種の美的享楽がある事を知らぬ人が多いようである。しかし科学者には科学者以外の味わう事のできぬような美的生活がある事は事実である。たとえば古来の数学者が建設した幾多の数理的の系統はその整合の美においておそらくあらゆる人間の製作物中の最も壮麗なものであろう。物理化学の諸般の方則はもちろん、生物現象中に発見される調和的普遍的の事実にも、単に理性の満足以外に吾人の美感を刺激する事は少なくない。ニュートンが一見捕捉しがたいような天体の運動も簡単な重力の方則によって整然たる系統の下に一括される事を知った時には、実際ヴォルテーアの謳(うた)ったように、神の声と共に渾沌(こんとん)は消え、闇(やみ)の中に隠れた自然の奥底はその帷帳(とばり)を開かれて、玲瓏(れいろう)たる天界が目前に現われたようなものであったろう。フォークトはその結晶物理学の冒頭において結晶の整調の美を管弦楽にたとえているが、また最近にラウエやブラグの研究によって始めて明らかになった結晶体分子構造のごときものに対しても、多くの人は一種の「美」に酔わされぬわけに行かぬ事と思う。この種の美感は、たとえば壮麗な建築や崇重な音楽から生ずるものと根本的にかなり似通ったところがあるように思われる。

 また一方において芸術家は、科学者に必要なと同程度、もしくはそれ以上の観察力や分析的の頭脳をもっていなければなるまいと思う。この事はあるいは多くの芸術家自身には自覚していない事かもしれないが、事実はそうでなければなるまい。いかなる空想的夢幻的の製作でも、その基底は鋭利な観察によって複雑な事象をその要素に分析する心の作用がなければなるまい。もしそうでなければ一木一草を描き、一事一物を記述するという事は不可能な事である。そしてその観察と分析とその結果の表現のしかたによってその作品の芸術としての価値が定まるのではあるまいか。
 ある人は科学をもって現実に即したものと考え、芸術の大部分は想像あるいは理想に関したものと考えるかもしれないが、この区別はあまり明白なものではない。広い意味における仮説なしには科学は成立し得ないと同様に、厳密な意味で現実を離れた想像は不可能であろう。科学者の組み立てた科学的系統は畢竟(ひっきょう)するに人間の頭脳の中に築き上げ造り出した建築物製作品であって、現実その物でない事は哲学者をまたずとも明白な事である。また一方において芸術家の製作物はいかに空想的のものでもある意味において皆現実の表現であって天然の方則の記述でなければならぬ。俗に絵そら事という言葉があるが、立派な科学の中にも厳密に詮索(せんさく)すれば絵そら事は数えきれぬほどある。科学の理論に用いらるる方便仮説が現実と精密に一致しなくてもさしつかえがないならば、いわゆる絵そら事も少しも虚偽ではない。分子の集団から成る物体を連続体と考えてこれに微分方程式を応用するのが不思議でなければ、色の斑点(はんてん)を羅列(られつ)して物象を表わす事も少しも不都合ではない。

 もう少し進んで科学は客観的、芸術は主観的のものであると言う人もあろう。しかしこれもそう簡単な言葉で区別のできるわけではない。万人に普遍であるという意味での客観性という事は必ずしも科学の全部には通用しない。科学が進歩するにつれてその取り扱う各種の概念はだんだんに吾人(ごじん)の五官と遠ざかって来る。従って普通人間の客観とは次第に縁の遠いものになり、言わば科学者という特殊な人間の主観になって来るような傾向がある。近代理論物理学の傾向がプランクなどの言うごとく次第に「人間本位(アントロポモルフェン)の要素(エレメンテ)」の除去にあるとすればその結果は一面において大いに客観的であると同時にまた一面においては大いに主観的なものとも言えない事はない。芸術界におけるキュービズムやフツリズムが直接五官の印象を離れた概念の表現を試みているのとかなり類したところがないでもない。

 次に、自然科学においてはその対象とする事物の「価値」は問題とならぬが、その研究の結果や方法の学術的価値にはおのずから他に標準がある。芸術のための芸術ではその取り扱う物の価値よりその作物の芸術的価値が問題になる。そうして後者の価値という事がむつかしい問題であると同様に前者の価値という事も厳密には定め難いものである。

 科学の方則や事実の表現はこれを言い表わす国語や方程式の形のいかんを問わぬ。しかし芸術は事物その物よりはこれを表現する方法にあるとも言わば言われぬ事はあるまい。しかしこれもそう簡単ではない。なるほど科学の方則を日本語で訳しても英語で現わしても、それは問題にならぬが、しかし方則自身が自然現象の一種の言い表わし方であって事実その物ではない。ただ言い表わすべき事がらが比較的簡単であるために、表わし方が多様でないばかりで必ずしもただ一つではない。芸術の表現しようとするは、写してある事物自身ではなくてそれによって表わさるべき「ある物」であろう、ただそのある物を表わすべき手段が一様でない、国語が一定しない。しかししいて言えば、一つの芸術品はある言葉で表わした一つの「事実」の表現であるとも言われぬ事はない。
 しからば植物学者の描いた草木の写生図や、地理学者の描いた風景のスケッチは芸術品と言われうるかというに、それはもちろん違ったものである。なぜとならば事実の表現は必ずしも芸術ではない。絵を描く人の表わそうとする対象が違うからである。科学者の描写は草木山河に関したある事実の一部分であるが、芸術家の描こうとするものはもっと複雑な「ある物」の一面であって草木山河はこれを表わす言葉である。しかしそのある物は作家だけの主観に存するものでなくてある程度までは他人にも普遍的に存する物でなければ、鑑賞の目的物としてのいわゆる芸術は成立せず、従ってこれの批評などという事も無意味なものとなるに相違ない。このある物をしいて言語や文学で表わそうとしても無理な事であろうと思うが、自分はただひそかにこの「ある物」が科学者のいわゆる「事実」と称し「方則」と称するものと相去る事遠からぬものであろうと信じている。

 しかしこのような問題に深入りするのはこの編の目的ではない。ただもう少し科学者と芸術家のコンジェニアルな方面を列挙してみたいと思う。

 観察力が科学者芸術家に必要な事はもちろんであるが、これと同じように想像力も両者に必要なものである。世には往々科学を誤解してただ論理と解析とで固め上げたもののように考えている人もあるがこれは決してそうではない。論理と解析ではその前提においてすでに包含されている以外の何物をも得られない事は明らかである。総合という事がなければ多くの科学はおそらく一歩も進む事は困難であろう。一見なんらの関係もないような事象の間に密接な連絡を見いだし、個々別々の事実を一つの系にまとめるような仕事には想像の力に待つ事ははなはだ多い。また科学者には直感が必要である。古来第一流の科学者が大きな発見をし、すぐれた理論を立てているのは、多くは最初直感的にその結果を見透した後に、それに達する論理的の径路を組み立てたものである。純粋に解析的と考えられる数学の部門においてすら、実際の発展は偉大な数学者の直感に基づく事が多いと言われている。この直感は芸術家のいわゆるインスピレーションと類似のものであって、これに関する科学者の逸話なども少なくない。長い間考えていてどうしても解釈のつかなかった問題が、偶然の機会にほとんど電光のように一時にくまなくその究極を示顕する。その光で一度目標を認めた後には、ただそれがだれにでも認め得られるような論理的あるいは実験的の径路を開墾するまでである。もっとも中には直感的に認めた結果が誤謬(ごびゅう)である場合もしばしばあるが、とにかくこれらの場合における科学者の心の作用は芸術家が神来の感興を得た時のと共通な点が少なくないであろう。ある科学者はかくのごとき場合にあまりはなはだしく興奮してしばらく心の沈静するまでは筆を取る事さえできなかったという話である。アルキメーデスが裸体で風呂桶(ふろおけ)から飛び出したのも有名な話である。
 それで芸術家が神来的に得た感想を表わすために使用する色彩や筆触や和声や旋律や脚色や事件は言わば芸術家の論理解析のようなものであって、科学者の直感的に得た黙示を確立するための論理的解析はある意味において科学者の技巧(テクニック)とも見らるべきものであろう。
 もっともこのような直感的の傑作は科学者にとっては容易に期してできるものではない。それを得るまでは不断の忠実な努力が必要である。つとめて自然に接触して事実の細査に執着しなければならない。常人が見のがすような機微の現象に注意してまずその正しいスケッチを取るのが大切である。このようにして一見はなはだつまらぬような事象に没頭している間に突然大きな考えがひらめいて来る事もあるであろう。
 科学者の中にはただ忠実な個々のスケッチを作るのみをもって科学者本来の務めと考え、すべての総合的思索を一概に投機的とし排斥する人もあるかもしれない。また反対に零細のスケッチを無価値として軽侮する人もあるかもしれないが、科学というものの本来の目的が知識の系統化あるいは思考の節約にあるとすれば、まずこれらのスケッチを集めこれを基として大きな製作をまとめ渾然(こんぜん)たる系統を立てるのが理想であろう。これと全く同じ事が芸術についても言われるであろうと信ずる。
 ある哲学者の著書の中に、小説戯曲は倫理的の実験(エキスペリメント)のようなものだという意味の事があった。実際たとえば理論物理学で常に使用さるるいわゆる思考実験(ゲダンケンエキスペリメント)と称するものはある意味において全く物理学的の小説である。かつて何人も実験せずまた将来も実現する事のありそうもない抽象的な条件の下に行なわるべき現象の推移を、既知の方則から推定し、それからさらに他の方則に到達するような筋道は、あるいは小説以上に架空的なものとも言われぬ事はない。ただ小説の場合には方則があまりに複雑であって演繹(えんえき)の結果が単義的(ユニーク)でなく、答解が幾通りでもあるに反して、理学の場合にはそれがただ一つだという点に著しい区別がある。それはとにかくとして小説家が架空の人物を描き出してそれら相互の間に起こる事件の発展推移を脚色している時の心の作用と、科学者が物質とエネルギーを抽象して来てその間に起こるべき現象の径路を演繹している時のそれとはよほど似たものであるように思われる。少なくもこの種の科学者は小説家を捕えて虚言者とののしる権利はあるまい。小説戯曲によっては現実に遠い神秘的あるいは夢幻的なものもあるが、しかしこれが文学的作品として成立するためにはやはり読者の胸裏におのずから存在する一種の方則を無視しないものでなければならない。これを無視したものがあればそれはつまり瘋癲病院(ふうてんびょういん)の文学であろう。

 芸術家科学者はその芸術科学に対する愛着のあまりに深い結果としてしばしば互いに共有な弱点を持っている。その一つはすなわち偏狭という事である。もちろんまれには卑しい物質的の利害から起こる事もないではあるまいが、それらは別問題として、科学者芸術家に多い病は、他を容(い)れる度量に乏しくて互いに苦々しく相排することである。これも両者の心理に共通なもののある事を示す一例と見なされる。畢竟(ひっきょう)偏狭□嫉(ぼうしつ)は執着の半面であるとすれば、これは芸術と科学の愛がいかに人の心の奥底に深く食い入る性質のものであるかを示すかもしれない。ちょっと考えると、少なくも科学者のほうは、学問の性質上きわめて博愛的で公平なものでありそうなのに事実は必ずしもそうでないのは謎理的(パラドクシカル)のようである。しかしよく考えてみると、科学者芸術家共に他の一面において本来一種の自己主義者たるべき素質を備えているべきもののようにも思われる。これは惜しむべきことであるかもしれないが、あるいはやみがたい自然の現象であるかもしれない。一面から見れば両者が往々この弱点を暴露してそれがために生ずる結果の利害を顧慮するいとまがないという事が少なくとも両者に共通な真剣な熱情を表明するのであるかもしれない。

 科学者と芸術家が別々の世界に働いていて、互いに無頓着(むとんちゃく)であろうが、あるいは互いに相反目したとしたところが、それは別にたいした事でもないかもしれない。科学と芸術それぞれの発展に積極的な障害はあるまい。しかしこの二つの世界を離れた第三者の立場から見れば、この二つの階級は存外に近い肉親の間がらであるように思われて来るのである。
(大正五年一月、科学と文芸)



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