武田麟太郎追悼
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著者名:織田作之助 

 武田さんは大阪の出身という点で、私の先輩であるが、更に京都の第三高等学校出身という点でもまた私の先輩である。しかも、武田さんは庶民作家として市井事物一点張りに書いて来た。その点でも私は血縁を感じている。してみれば、文壇でもっとも私に近しい人といえば、武田さんを措いて外にない。いわば私の兄貴分の作家である。そしてまた、武田さんは私の「夫婦善哉」という小説を、文芸推薦の選衡委員会で極力推薦してくれたことは、速記に明らかである。当時東京朝日新聞でも「唯一の大正生れの作家が現れた」という風に私のことを書いてくれた。「夫婦善哉」を小山書店から出さないかというような手紙もくれた。思えば、私の恩人である。
 私にもっとも近しい、そして恩人である作家を、突如として失ってしまった、私はもう言うべきことを知らない。私としても非常に残念で痛惜やる方ないが、文壇としても残念であろう。しかし最も残念なのは、武田さんの無二の親友である藤沢さんであろう。新聞で武田さんの死を知った時、私は一番先きに想い出したのは藤沢さんのことであった。私は藤沢さんを訪ねるとか、手紙を出すかして、共に悲哀を分とうと思ったが、仕事にさまたげられたのと、極度の疲労状態のため、果せなかった。莫迦みたいに一人蒲団にもぐり込んで、ぼんやり武田さんのことを考えていた。特徴のある武田さんの笑い声を耳の奥で聴いていた、少し斜視がかったぎょろりとした武田さんの眼を、胸に泛べていた。
 最も残念だったのは藤沢さんであろうと、書いたが、しかし、それよりも残念だったのは当の武田さん自身であったろう。死に切れなかったろうと思う。不死身の麟太郎といわれていた。武田さんもそれを自信していた。まさか死ぬとは思わなかったであろう。死の直前、あッしまった、こんな筈ではなかったと、われながら不思議であったろう。わけがわからなかったであろう。観念の眼を閉じて、安らかに大往生を遂げたとは思えない。思いたくない。あの面魂だ。剥いでも剥いでも、たやすく芯を見せない玉葱のような強靱さを持っていた人だ。ころっと死んだのだ。嘘のように死んだのだ。武田さんはよくデマを飛ばして喜んでいた。南方に行った頃、武田麟太郎が鰐に食われて死んだという噂がひろがった。私は本当にしなかった。武田麟太郎が鰐を食ったのなら判るが、鰐に食われるようなそんな武麟さんかねと笑った。たぶん武田さんが自分でそんなデマを飛ばし、それが大阪まで伝わって来たのではないかと思った。だからこんどの急死も武田さんが飛ばしたデマじゃないかと、ふと思ってみたりする。
 死因は黄疸だったときく。黄疸は戦争病の一つだということだ。新大阪新聞に連載されていた「ひとで」は武田さんの絶筆になってしまったが、この小説をよむと、麹町の家を焼いてからの武田さんの苦労が痛々しく判るのだ。不逞不逞しいが、泣き味噌の武田さんのすすり泣きがどこかに聴えるような小説であった。「田舎者東京を歩く」というような文章を書いていた。芯からの都会人であった武田さんが、自分で田舎者と言わねばならぬような一年の生活が、武田さんを殺してしまったのだ。戦争が武田さんを殺したのだ。
 絶筆の「ひとで」を私はその新聞の文化欄でほめて置いた。武田さんでなければ書けない新聞小説だと思ったのだ。新聞小説としては面白い作品とは言えなかったであろう。しかし、激しい世相の中に身を置いた武田さんの正直さがそのままにじみ出ているような作品であった。その正直さはふと律儀めいていた。一見武田さんに似合わぬ律儀さであった。が、これが今日の武田さんの姿としてそのまま受け取って、何の不思議もないと私は見ていた。不死身の麟太郎だが、しかしあくまで都会人で、寂しがりやで、感傷的なまでに正義家で、リアリストのくせに理想家で――やっぱりそんな武田麟太郎が「ひとで」の中に現れていた。悲しい姿であった。日本が悲しくなってしまったように、武田さんも悲しくなってしまっていた。その悲しさを、いつもの武田さんは自分で殺していた。人には見せなかった。ところが、ふとそれが現れてしまったのだ。通り魔のように現れたのだ。そして通り魔のうしろには死神がついていた。うしろには鬼がいるにきまっているとは、横光さんの言葉で、武田さんもよくこの言葉を引用していた。
 しかし、そんな悲しい武田さんを想像することは今は辛い。やはり、武田麟太郎失明せりというデマを自分で飛ばしていた武田さんのことを、その死をふと忘れた微笑を以て想いだしたい。失明したというのは、実はメチルアルコールを飲み過ぎたのだ。やにが出て、眼がかすんだ。が、そのやにを拭きながら、やはり好きなアルコールをやめなかった。自分でも悪いと思っていたのだろう。だから自虐的に、武田麟太郎失明せりなどというデマを飛ばして、腹の中でケッケッと笑っていた。そんな武田さんが私は何ともいえず好きだった。ピンからキリまでの都会人であった。
 去年の三月、宇野さんが大阪へ来られた時、ある雑誌で「大阪と文学を語る座談会」をやった。その時、武田さんの「銀座八丁」の話が出た。宇野さんは武田さんのものでは「銀座八丁」よりも「日本三文オペラ」や「市井事」などがいいと言っておられたように記憶している。これらの作品は武田さんの二十代か三十二三の頃のものであった。近頃の三十歳前後の作家は何をボヤボヤしているかと言いたいくらい、これらの作品は優れている。が、武田さんは「日本三文オペラ」から「銀座八丁」のリアリズムを通って、遂に「雪の話」一巻の象徴の門に辿りついた。「雪の話」は小説の中の小説であった。宇野浩二――川端康成――武田麟太郎、この大阪の系統を辿って行くと、名人芸という言葉が泛ぶ。たしかに、宇野、川端以後の小説上手は武田麟太郎であった。この大阪の系統が文壇に君臨している光景は、私たち大阪の末輩にとってはありがたいことであった。宇野、川端以後の武田麟太郎――といえるのは、しかし「雪の話」一巻が出てからではなかったか。巧い、巧い、巧すぎるほどの「雪の話」であった。
「雪の話」以後、武田さんは南方へ行き、沈黙した。報導班員として武田さんほど何も書かなかった作家は稀有である。奥床しい態度であった。帰還後一、二作発表したが、武田さんの野心はまだうかがえなかった。象徴の門の入口まで行って、まだ途まどいしていた。終戦になった。私は武田さんは何を書くだろうかと、眼を皿にしていた。そして眼に触れたのが「新大阪新聞」の「ひとで」であった。立派なものであったが、武田さんの新しいスタイルはまだ出ていなかった。しかし、私は新しいスタイルの出現を信じていた。今日の世相が書ける唯一の作家としての、武田さんの新しいスタイル――混乱期の作品らしいスタイル――「雪の話」の名人芸を打ち破って溢れ出るスタイルを待望していた。そんな作品がどこかの雑誌に載りはしないだろうかと待っていた。「人間」や「改造」や「新生」や「展望」がどうして武田さんの新しい小説を取らないのかと、口惜しがっていた。私は誇張して言えば、毎日の新聞の雑誌広告の中に武田さんの名を見つけようとして、眼を皿にしていた。(これは私一人ではあるまい)そして、見つけたのは「武田麟太郎三月卅一日朝急逝す」
 死んでもいい人間が佃煮にするくらいいるのに、こんな人が死んでしまうなんて、一体どうしたことであろうか。東条英機のような人間が天皇を脅迫するくらいの権力を持ったり、人民を苦しめるだけの効果しかない下手糞な金融非常処置をするような政府が未だに存在していたり、近年はかえすがえすも取り返しのつかぬような痛憤やる方ないことのみが多いが武田さんの死もまた取りかえしのつかぬ想いに私をうろたえさせる許りで、私は暫らく蒲団をかぶって「方丈記」でも読んでいたい。「方丈記」を読みながら、武田さんと一緒に明かした吉原の夜のことでも想いだしていたい。あんな時もあったのだ。(四月五日)




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