中毒
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著者名:織田作之助 

       一

 スタンダールは彼の墓銘として「生きた、書いた、恋した」
 という言葉を選んだということである。
 スタンダールについて語る人は、殆んど例外なしに、この言葉を引用している。まことにスタンダールらしい言葉、スタンダールの生涯を最もよく象徴した言葉だと、人は言う。たしかにその通りであろう。その点に関しては、私にはいささかの異議はない。
 しかし、私はスタンダールはこんな墓銘を作らなかった方がよかったのではないかと思う。引用するのは後世の勝手だが、しかし、スタンダールを語るのに非常に便利な言葉、手掛りになるような言葉として引用されるようなものを、下手に残して置かない方が、スタンダールらしかったのではないかと、私は考えるのだ。
 ことにそれが墓銘ときては、何か気障っぽい。余りにも感傷的なスタンダールが感じられて、いやなのだ。スタンダールとしても、後世引用されると思えば恐らくそんな墓銘を選ぶのを避けたに違いない。
 墓銘とか辞世とか遺書とかいうものを、読むのを私は好まない。死ということは甚だ重要だから、何か書いて残したい気持はよく判るし、せめてそれによってやがて迫る鉛のような死の沈黙の底を覗く寂しさを、まぎらわしたいという気持も判るのだが、しかし、私は「重要なことは最も簡潔に描くべし」という一種の技巧論を信じているから、例えば映画でも、息も絶え絶えの状態にしては余りに声も大きく、言葉も明瞭に、断末魔の科白をいやという程喋ったあげく、大写しの中で死んで行く主演俳優の死の姿よりも、大部屋連中が扮した、まるで大根でも斬るように斬られて、ころりと転がってしまう目明しの黙々とした死の姿の方にむしろ死のリアリティを感ずるのである。山下奉文の死は、新聞で見ると何だかあっけなく、それ故にこそ一層死んだという感じがしたのだが、最近その余り上手でもない辞世が新聞に出ているのを読んだ時、私は幻滅した。私は座談会に出席して一言も喋らないような人を畏敬しているのである。女を口説くにも「唖の一手」の方が成功率が多い。議論する時は、声の大きい方が勝ちだというのは一応の真理だが、私は一言も喋らずに黙っている方が勝つということを最近発見した。口は喋るためのみについているのではあるまい。議論している間、欠伸ばかししているか、煙草ばかしふかしておれば、相手は兜を脱ぐにきまっている。
 墓銘など、だから私はまかり間違っても作らないつもりである。よしんば作っても、スタンダールのように、
「生きた、書いた、恋した」
 というような言葉を選べるほど、私は充実した人生を送って来なかった。まかりまちがって墓銘を作るとすれば、せいぜい、
「私は煙草を吸った」
 と、いう文句ぐらいしか出て来ないであろう。これで十分である。私は煙草を吸って来たのだ。
 もっとも、そのような文句では余りに芸がないというなら、
「煙草について、私の唯一の制限は、一回に一本より余計の煙草を吸わないことであった。私はけっして眠っている間は吸わなかった。そして、眼ざめている間は、けっしてそれを捨てなかった」
 とでもすれば、気が利いているだろうか。しかし、之はマーク・トゥエーンの言葉である。
 マーク・トゥエーンという作家は私の読んだ限りでは大した作家ではない。まだしもオー・ヘンリーやカミの方が才能があるが、しかし、オー・ヘンリーやカミといえども二流、三流である。私はうぬぼれかも知れないが、オー・ヘンリーやカミやマーク・トゥエーンよりはましな小説が書けると思っている。
 私がマーク・トゥエーンに注目しているのは、だから彼の小説に関してではない。マーク・トゥエーンは一日に四十本の葉巻を吸った。そのことに注目しているのである。が、これとても大したことはない。私は一日に百本の煙草を吸っている。多い日は百三十本吸ったこともある。その点では、マーク・トゥエーンには負けないつもりである。しかし、
「煙草について、私の唯一の制限は……」
 云々という彼の名文句には、さすがの私も参った。
 私は一日に六十本よりすくない煙草を吸ったことは殆んど稀である。余程の事情のない限り、毎日百本の煙草を吸っている。しかも、私は煙草についてマーク・トゥエーンのような名文句を書いたことはない。
 思うに、マーク・トゥエーンは煙草の豊富な、安く、容易な入手できる時代に生れて、そして死ぬまでその状態がかわらなかった。これに反して、ここ二三年の私の生活は、いかにして一日一日の煙草を入手するかという努力に終始していた。煙草について気の利いた名文句を考えている余裕などなかった。だから、マーク・トゥエーンには名文句が出来て、私には出来なかった――という風には私は考えたくない。が、とにかく煙草では苦労した。今も苦労している。
 去年の暮、私は「髪」という小説で、私が自分の長髪のためにどれだけ苦労したかという話を書いたが、しかし、私が本当に長髪で苦労したのは、三度に及んだ点呼の時ぐらいなもので、それにくらべると、煙草の苦労は私の生活を殆んど破壊せんばかりであった。

       二

 私の父は酒毒で死んだ。
 彼は死ぬ一週間前まで、毎日一升の酒を飲んだ。
「おれの身の中には、何万円という酒がはいっている」
 莫大な借金を残して死ぬいいわけに、彼はそう言っていた。
 しかし、彼が借金を残したのは、酒を買う金のためではなかった。当時、一升の酒代ぐらい知れたものであった。灘の菊正で一升二円もしなかった。
 彼が借金を残したのは、阿呆なぐらいお人善しで、ひとに欺されつづけていたそのためであった。しかし、私は父の口から、
「おれはお人善しだ」
 という言葉をきいたことは一度もなかった。
 他人の世話をするのが好きで、頼まれればいやといえぬ程気が弱く、おまけに欺かれてもそれと気がつかぬお人善しの性格のため、身を亡ぼしたのだとは、考えたくなかったらしい。
「おれは酒で身を亡ぼしたのだ」
 と、虚勢を張っていた。
 貧乏でも、何万円という酒がしみこんでいる身体のまま死ぬのが、せめてもの自慢らしかった。
 借金を残して死ぬ死に方は、いさぎよいというものの、男としては情けない死に方であろう。が、世間の人は、酒が飲めるということを、しあわせの規準にしているのか、
「好きなものを、いやという程飲んだから、思い残しはないだろう」
 と、いうような慰め方をしていた。
 棺桶の中にも酒をつめた瓢箪が入れられた。
「この酒も入れてあげて下さい」
 と言って香奠がわりに持って来る人もあった。それくらい酒好きで通っていたのだ。
 そして、それほど好きな酒を、いやというほど飲んだのだから、結局はしあわせな人ということになったらしい。
 世間には好きな酒を飲めない人が沢山いるから、借金は残しても、飲めた父はやはりしあわせかも知れないが、しかし、とにかく父は身を亡ぼしたのだ。しかも、それは酒のためではなかった。
 私の家は父の代に没落したが、息子の私にはそれを盛りかえすだけの力もない。今のところ、せっせと書けば、食うに困るというほどでもないが、没落した家を再興し、産を成すようなタイプとは、私は正反対の人間だ。今は食うに困らなくても、やがて私もまた父と同じように身を亡ぼしてしまうかも知れない。そして、それは酒のためではないことだけは父と同じだ。
 しかし、私が身を亡ぼせばその原因は煙草かも知れない。
 世間には酒と女と博奕で身を亡ぼす人は多い。私は競馬は好きだが、人が思うほど熱中しているわけではないから、それで身を亡ぼすことはあるまい。女――身を亡ぼしそうになったこともあり、げんに女のことで苦しめられているから、今後も保証できないが、しかしもう女のことではこりている。酒は大丈夫だ。泥酔した経験はないし、酔いたいと思ったこともない。酔うほどには飲めないのだ。
 してみれば、私が身を亡ぼすのは、酒や女や博奕ではなく、やはり煙草かも知れない。
 父は酒を飲んだが、煙草を吸わなかった。私は酒は飲まないが、煙草を吸う。父が飲んでいた酒は、一番たかい時で、一升二円だったが、私が今吸っている煙草は一本二円、ときに二円五十銭もする。
 もっとも、私が煙草を吸いはじめた頃は安かった。私は京都の高等学校へはいってから吸った。中学校時代は吸わなかった。真面目だったから吸わなかったのではない。私は模範生徒ではなかった。ことごとに学校と教師に反抗していたので、私の操行点は丁であった。自然、不良性を帯びた生徒たちのグループに近づいたが、彼等は一人残らず煙草を吸うことで、虚栄を張っていた。私はこのこそこそした虚栄をけちくさいと思った。だから、おれだけはお前らと違うぞというつもりで、卒業するまで煙草は吸わなかった。いいかえれば、私の仲間は猫も杓子も煙草を吸っていたので、私はただ猫でも杓子でもないことを示したかっただけだ。因みに、私が当時ひそかに胸を焦がしていた少女に、彼等煙草生徒も眼をつけていたのだ。
 高等学校へはいっても、暫らくは吸わなかったが、一年生の終り頃、私はある女の口の煙草のにおいに魅力を感じた。私はその女と会わないでいる時はせめて煙草のにおいをなつかしもうと思った。バットやチェリーやエアシップは月並みだと思ったが、しかし、ゲルベゾルテやキャメルやコスモスは高すぎた。私はキングという煙草を買って練習した。一箱十銭だった。
 口に煙草のにおいのある女とは、間もなく別れた。その当座、私は一日二箱のキングを吸って、ゲエゲエと吐気がした。私は煙草をよそうと思った。新しい女が私の前に現われたのだ。
 彼女はいつも仁丹を口にしていた。一日三円ぐらい仁丹をたべると言っていた。仁丹という看板を見たり、仁丹という言葉をきいたり、広告を見たり、箱を見たりすると、もう口にしないではおられぬらしい。一度に百粒も口に入れた。私はその女のそんなマニヤを哀れんだ。一日に二円も収入のない安酒場の女だった。器量はよかったが、衣裳がないので、そんな所で働いているのだった。銭湯代がないから、五十銭貸してくれと、私に無心したことがある。貸してやると、その金で仁丹の五十銭袋を買うたらしい。一日二円たらずの収入で、毎日三円の仁丹では、暮らして行けぬのか、到頭パトロンを作った。ある日、私に葉巻をくれた。そのパトロンに貰ったのだろう。ロンドという一本十銭の葉巻だった。吸ってみると、白粉の匂いがした。化粧品と一緒にハンドバッグに入っていたためだろう。
 私は彼女のパトロンは葉巻を吸うような男だから、恐らく彼女をホテルへ連れて行くだろうと思った。彼女は化粧栄えのする顔立ちで、ホテルの食堂へはいっても人目を惹くだろうが、それにしては身につけているものがお粗末すぎる。パトロンは早々と部屋へ連れて上って、みすぼらしい着物を寝巻に着更えさせるだろう。彼女は化粧を直すため、鏡台の前で、ハンドバッグをあけるだろう。その中には仁丹の袋がはいっている。仁丹を口に入れて、ポリポリ噛みながら、化粧して、それから、ベッドへ行くだろう。パトロンの舌には半分融けかかった仁丹がいくつもくっつく……。しかしパトロンは気づかない。
 私は想像して、たまらなかった。半分融けかかった仁丹が、劇薬だったらと思ってみたりした。私は彼女と会うことをよそうと思った。べつに惚れているわけでも深い関係があるわけでもなかった。パトロンのある女なんか……と、軽蔑してしまえばよかったのだ。ところが、ますます会いたくなった。私は約束の時間より早い目に行き、いつも待たされる男だった。待っても来ない時があった。パトロンと会うてるのだろうか。そう思いながら、待っている間、私は煙草ばかり吸っていた。その酒場へ行っても、彼女がほかのボックスへ行っている間は、いらいらと煙草を吸っていた。夜、彼女がパトロンと一緒にいる光景がちらついて、眠れず、机の上に腹ばいになって、煙草ばかし吸った。私の喫煙量は急に増えて行った。
 そして、私は放蕩した。宮川町。悔恨と焦燥の響きのような鴨川のせせらぎの音を聴きながら、未知の妓の来るのを待っている娼家の狭い部屋は、私の吸う煙草のけむりで濛々としていた。三条京阪から出る大阪行きの電車が窓の外を走ると、ヘッドライトの灯が暗い部屋の中を一瞬はっとよぎって、濛々とした煙草のけむりが照らされ、私は自分の堕落が覗かれた想いにうろたえて、重く沈んでいると、
「うわッ! えらい煙どんなア」
 はいって来た妓の声がちくりと胸を刺し、その妓の顔は、彼女とはくらべものにならぬくらい醜く、下卑ていた。
 仁丹を買うためにパトロンを作った彼女は、煙草も酒も飲まず、酒場のボックスでは果物一つ口にしない行儀のよさが、吉田の学生街のへんに気取ったけちくさいアカデミックな雰囲気に似合っており、容姿にも何かあえかなノスタルジアがあった。
 そんな彼女が葉巻のにおいにむせている顔を想像しながら、私はなるべく妓の体と隙間を作って横になり、やけに煙草をふかしていた。妓は煙をいやがって、しまいには背中を向けたが、
「君!」と、振り向かせるには、余りにぶくぶく肥えて、その肉のかたまりを包んだ長襦袢の襟は手をふれるのもためらわれるくらい、垢じみていた。しかし……。
 朝、娼家を出た私は、円山公園の芝生に寝転んで、煙草を吸った。背を焼かれるような悔恨と、捨てられた古雑巾のような疲労! 公園のラジオ塔から流れて来るラジオ体操の単調な掛声は、思いがけず焦燥の響きだったが、私は何もしたくなかった。学校へも行きたくなかった。音楽も聴きたくなかった。映画も芝居も本も、面倒くさかった。歩くのも食うのも億劫だった。私には何一つすることがなかった。ただ煙草を吸うことが、わずかに残されていたのである。
 そして、それから大分たって、彼女が、
「もう会うのはよしましょう。あなたを苦しめるだけだから」
 と、月並みだが、私にとっては切実な言葉を言いに、私の下宿へやって来た時も、私はまず煙草を吸った。それからオイオイ泣き出して、そして、また煙草を吸うために泣きやんだ。
 私は彼女とは立ち入った関係はなかったが、会えば唇にだけはふれていた。私は彼女の仁丹のにおいのする口臭を、永久に忘れがたいだろうと思った。未練たらしい私は、彼女が化粧を直して私の部屋を出て行く時、せめて最後の口づけだけでもしたいと思った。が、その時たまたま……というより、その時もまた私は煙草をくわえていた。おかげで、私は気障な真似をせずに、彼女と別れることが出来たわけである。
 今はもうその時の実感を呼び起すだけのナイーヴな神経を失っているし、音楽でも聴かぬ限り、めったと想いだすこともないが、つまらない女から別れ話を持ち出されて、オイオイ泣きだしたのは、あとにもさきにもこの一度きりで、親が死んだ時もこんなにも取り乱さなかった。私はしょっちゅう尻尾を出している人間で、これから先もどんな醜態を演じて、世間の物わらいの種になるか、知れたものではないが、しかし、すくなくとも女から別れ話を持ち出されて泣きだすような醜態だけは、もはや見せることもあるまいと思われる。
 それに私たち三十代の半ばに達していない年頃の人間は、感激とか涙とか昂奮とか絶叫とかいうことを知らない世代ではないかと思われるくらい、泣きたがらない傾向がある。今年の五月のことだ。京都のある雑誌でH・Kという東京の評論家を京都に呼んで、H・Kを囲む座談会をやった。司会をした仏蘭西文学研究会のT・IはH・Kの旧友だった。二人ともよく飲んだ。話がたまたま昔話に移った。「あの時は君は……」H・KはいきなりT・Iにだきついて、泣きだした。T・Iも「K君、よく来てくれた。おれは会いたかったよ」と泣いた。速記者があっけに取られていると、二人は起ち上って、ダンスをはじめた。ダンスがすむと、また文学論に移ったということである。十日ほどして同じ雑誌でT・Mという福井に疎開している詩人をよんで、また座談会をした。T・Iが司会、酒……。やはりT・MはH・Kがしたように、T・Iと抱き合って、泣きだしたという。H・KもT・MもT・Iも同じ四十代である。私はこの話をきいた時、「四十代と三十代とは違う」と思った。私たちは旧友に会うても、昔話をしても、酒を飲んでも、泣くようなことはない。
 H・KもT・MもT・Iもそれぞれの専門では一流の学者である。しかし、私たち「泣かない」三十代の文学者にはこれといった仕事をする人間がいない。文学者としての宿命を感じさせるような者もいないし魅力も乏しい。文学者として世に立っても、型が小さすぎる。やはり泣かない世代はだめなのだろうか。泣かない世代には泣かない悲しみの文学がありそうなものだが、しかし少数の泣かない文学も目下のところ泣く文学には勝てない。泣かない世代、泣けない私たちはもしかしたら、泣く時代、泣ける彼等より不幸なのかも知れない。
 してみれば、よしんば二十歳そこそこだったとはいえ、女との別れ話に泣きだした時の私は案外幸福だったのかも知れない。取り乱すほど悲しめたのは、今にして想えば、なつかしい想い出である。もっとも、取り乱したのは、一種のジェスチヤだったのかも知れない。おれは別れることにこんなに悲しんでいるのだという姿を、女にも自分にも見せて、自虐的な涙の快感に浸っていたのだろう。泣いている者が一番悲しんでいるわけではないのだ。
 しかし泣けない私たちが憧れるのは、とにもかくにも泣けた青春時代であろう。私の一生には私を泣かせるような素晴らしい女はもはや現われないだろうが、しかしよしんばつまらない女とでも泣けた時代が羨ましいのである。ひとの羨むような美女でも、もし彼女がウェーブかセットを掛けた直後、なまなましい色気が端正な髪や生え際から漂っている時は、私はよしんば少しくらい惚れていても、顔を見るのもいやな気がする。私は今では十五分も女が待てない。女とそれきり会えないと判っても、悲しい顔もせず、その女が小説に書けるかどうか一寸考えるだけである。書けそうでも書いたためしはない。書くほどの熱も起らないし、まして最後の一夜を共にしようという気も起らない。そんな宿屋を探すくらいなら、闇市の煙草を探したいのだ。再び会えない女とよりも、百本の煙草と共に夜を過したいのである。別れぎわの女は暗がりを歩きたがる。そして急に立ち停る。女が何を要求しているか私には判るのだが、しかし私は肩にすら触れない。
 思えば、最初に女と別れた時の取り乱し方と、何という違いだろう。しかし取り乱しても、さすがに私は煙草だけは吸うことを忘れなかったのだ。どんな悲哀も倦怠も私から煙草を奪い上げることは出来なかったのだ。いや、どんなに救われない状態でも、煙草だけが私を慰めたのだ。

 一日四十本以上吸うのは、絶対のニコチン中毒だということだが、私の喫煙量は高等学校時代に、既にその限界を超えてしまったのだ。
 私は一本のマッチがあれば、つねに五本の煙草を吸うことが出来た。もう、こうなれば眼がさめた時がうまいとか、食事のあとがどうとかいうようなことを考えている余裕はない。
 私はかつて薬の効能書に「食間服用」とあるのを、食事の最中に服用するものだと早合点して、食事中に薬を飲んで笑われたことがあるが、しかしこの煙草に関しては私はつねに「食間喫煙」であった。食事中に箸を置いて、おもむろに煙草を吸うというのは、まだ生易しい方で、カレーライスなどの場合、右手にスプーン、左手に煙草、右手と左手をかわるがわる口へ持って行った。食前、食間は勿論である。入浴する時は、まず新しい煙草に火をつけるほか、耳にも新しい煙草をはさんで置き、その二本を吸い終るまでは左手を濡らさなかった。
 いわば、私は一刻も煙草を手から離さなかった。――というのがもし誇張なら、一刻も煙草を手から離したくなかった――といいかえても良い。教室では教師がはいって来ると、もみ消さねばならなかったが、授業中吸えないというのが情けなくて、教師と入れちがいに教室をぬけ出すことがしばしばであった。遅刻した時も教室の廊下で一本吸ってからはいった。試験の時は、早く外へ出て吸いたい気持にかられて、いい加減に答案を書いて出してしまった。試験の成績など煙草の魅力にくらべると、ものの数ではなかった。いつか私は「朝、眼をさましてから、床の中でぐずついているような男は、配偶者としては、だめである」
 という意味の横光さんの言葉を読んで、どきんとしたことがあるが、実は私は横光さんのいわゆるだめな男なのである。私はどんなに寝足りた時でも、眼をさましてから半時間、時に一時間も二時間も、寝床の中でぐずついている癖がなおらない。煙草を吸っているのである。四五本、多くて一箱、朝の床で立てつづけに吸わぬうちは、どんなに急ぎの用事があっても、時間が迫って来ても、私は起きる気にならない。
 私は昔も今も夢のない人間だ。「生きた、恋した、書いた」というスタンダールの生き方にあこがれながら、青春を喪失した私は、「われわれは軽佻か倦怠かのどちらか一方に陥ることなくして、その一方を免れることは出来ない」
 というジンメルの言葉に、ついぞ覚えぬ強い共感を抱きながら、軽佻な表情のまま倦怠しているのである。前途に横たわる夢や理想の実現のために、寝床を這い出して行く代りに、寝床の中で煙草をくゆらしながら、不景気な顔をして、無味乾燥な、発展性のない自分の人生について、とりとめのない考えに耽っているのである。
 そして、それが私にとって楽しいわけでもなんでもないのだ。そんなに煙草がうまいわけでもない。しかし、私はいつまでも寝床の中で吸っている。中毒といってしまえば、一番わかりやすいが一つにはもし、私にも生きるべき倦怠の人生があるとすれば、私は煙草を吸うことによってのみ、その倦怠の人生を生きているのかも知れない。私が煙草を吸わなくなれば、もう私には生きるべき人生もない。煙草を吸わなくなれば! というのは私にとっては絶対に禁煙を意味しない。私は一生禁煙しようと思わぬし、思っても実行出来る私ではない。煙草が吸えなくなれば、私は何をしていいのだろうか。恐らく気が狂うか全くの虚脱状態になってしまうだろう。
 起きなければ、起きなければと思いながらも一本と吸っている時の私は、自分の人生を無駄に浪費しているわけだが、しかしそのような浪費のずるずるべったりの習慣の怖しさをふと意識した瞬間ほど、私は自分のデカダンの自虐的な快感を味わう時はないのだ。その一本の為に、私は試験に遅刻した。遅刻するとわかりながら、吸っていた。かけつけた時は、もう試験は終っていた。私は落第し、それがたび重なって、到頭学校を棒に振ってしまった。
 してみれば、私は煙草のために学校を棒に振ったということになる。しかし「髪」という小説では、私は自分の長髪のために学校を棒に振ったと書いた。「私の髪の毛も長かったが、学校生活も長かった。私は余りの長さにいや気がさして、到頭学校をよしてしまった」と書いた。洒落である。学校生活を棒にしてしまったというのも、洒落だ。つまり落ちである。
「煙草が自分の身を亡ぼした」
 という一行の落ちで、自分の生涯を片づけてしまおうというこの試みは、一葉落ちて天下の秋を知るようなもので、一応気が利いていようが、趣向だけ目立って、真実性に乏しい。自分というものに対して、逃げを打っているのかもしれない。
 けれど、逃げずに、自分の生涯にまともに向い、これを克明に描写してみたところで、何になろう。私は平凡な人間である。平凡な人生を平凡な筆で正直にありのままに書くことが、作家として純粋だという考え方は、まるで文学のノスタルジアのように思われているが、自伝というものは、非凡な人間が語ってこそ興味があるので、われわれ凡人がポソポソと語って、何が面白かろう。しかし、われわれは結局自分のことを語りたいのである。してみれば、せめて聴き手のために、応接間に煙草の用意ぐらいはして置きたいものである。(未完)



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