四月馬鹿
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著者名:織田作之助 

     はしがき

 武田さんのことを書く。
 ――というこの書出しは、実は武田さんの真似である。
 武田さんは外地より帰って間もなく「弥生さん」という題の小説を書いた。その小説の書出しの一行を読んだ時私はどきんとした。
「弥生さんのことを書く」
 という書出しであった。
 その小説は、外地へ送られる船の中で知り合った人の奥さん(弥生さん)を、作者の武田さんが東京へ帰ってから訪ねて行くという話で、淡々とした筆致の中に弥生さんというひとの姿を鮮かに泛(うか)び上らせていた。話そのものは味が淡く、一見私小説風のものだが、私はふとこれは架空の話ではないかと思った。
 武田さんが死んでしまった今日、もうその真偽をただすすべもないが、しかし、武田さんともあろう人が本当にあった話をそのまま淡い味の私小説にする筈がないと思った。「私」が出て来るけれど、作者自身の体験談ではあるまい。「雪の話」以後の武田さんの小説には、架空の話を扱って「私」が顔を出す、いわゆる私小説でない「私」小説が多かったのではあるまいか。武田さん自身言っていたように「リアリズムの果ての象徴の門に辿りついた」のが、これらの一見私小説風の淡い味の短篇ではなかったか。淡い味にひめた象徴の世界を覗(うかが)っていたのであろう。泉鏡花の作品のようにお化けが出ていたりしていた。もっとも鏡花のお化けは本物のお化けであったが、武田さんのお化けは人工のお化けであった。だから、つまらないと言う人もあったが、しかし、現実と格闘したあげく苦しまぎれのお化けを出さねばならなかったところに、永年築き上げて来たリアリズムから脱け出そうとするこの作家の苦心が認められた。
「弥生さん」という小説はしかし、お化けの出し方が巧く行ってなかった。そういう意味では失敗作だったが、逞しい描写力と奔放なリアリズムの武器を持っている武田さんが、いわゆる戦記小説や外地の体験記のかわりに、淡い味の短篇を書いたことを私は面白いと思った。嘘の話だからますます面白いと思った。しかも強いられた嘘ではない。それに、外地から帰った作家は、「弥生さんのことを書く」というような書き出しの文章で、小説をはじめたりしない。「日本三文オペラ」や「市井事」や「銀座八丁」の逞しい描写を喜ぶ読者は、「弥生さん」には失望したであろう。私もそのような意味では失望した。しかし、読者の度胆を抜くような、そして抜く手も見せぬような巧みに凝られた書出しよりも、何の変哲もない、一見スラスラと書かれたような「弥生さんのことを書く」という淡々とした書出しの方がむずかしいのだ。
 私は武田さんの小説家としての円熟を感じた。武田さんもこのような書出しを使うようになったかと、思った。しかし、私は武田さんを模倣したい気はなかった。だから、今、武田さんの真似をした書出しを使うのは、私の本意ではない。しかも敢て真似をするのは、武田さんをしのぶためである。武田さんが死んだからである。してみれば、武田さんが死ななければこんな書出しを使わなかった筈だ。ますます私の本意ではない。

     一

 武田さんのことを書く。
 ――戎橋(えびすばし)を一人の汚ない男がせかせかと渡って行った。
 その男は誇張していえば「大阪で一番汚ない男」といえるかも知れない。髪の毛はむろん油気がなく、櫛を入れた形跡もない。乱れ放題、汚れ放題、伸び放題に任せているらしく、耳がかくれるくらいぼうぼうとしている。よれよれの着物の襟を胸まではだけているので、蘚苔(こけ)のようにべったりと溜った垢がまる見えである。不精者らしいことは、その大きく突き出た顎のじじむさいひげが物語っている。小柄だが、角力取りのようにでっぷり肥っているので、その汚なさが一層目立つ。濡雑巾が戎橋の上を歩いている感じだ。
 しかし、うらぶれた感じはない。少し斜視がかった眼はぎょろりとして、すれちがう人をちらと見る視線は鋭い。朝っぱらから酒がはいっているらしく、顔じゅうあぶらが浮いていて、雨でもないのにまくり上げた着物の裾からにゅっと見えている毛もじゃらの足は太短かく、その足でドスンドスンと歩いて行く。歩きながら、何を思いだすのか、一人でにやっと不気味な笑いを笑っている。笑うと、前歯が二本欠けているのが見える。若い身空でありながらわざと入れようとしないのは、むろん不精からだろうが、それがかえって油断のならない感じかも知れない。精悍な面魂(つらだましい)に欠けた前歯――これがふと曲物(くせもの)のようなのだ。いずれにしても一風変っている。
 変っているといえば、彼は兵古帯を前で結んで、結び目の尻尾を腹の下に垂れている。結び目をぐるりとうしろへ廻すのを忘れたのか、それとも不精で廻さないのか、いや、当人に言わせると、前に結ぶ方がイキだというのである。バンドは前に飾りがついているし、女は帯の上に帯紐をするし、おまけにその紐は前で結んでいるではないか、男の帯だって袴の紐のように前で結ぶべきものだというのである。
 しかし、いくら彼がイキだと洒落ているつもりでも人はそうは受け取ってくれない。折角前で結んだ帯も彼の汚なさの一つに数えてしまうのである。
 なぜそんなに汚ないのか。いうならば、貧乏なのである。彼は帝大の学生だった頃、制服というものを持たなかった。中学生の時分より着ているよれよれの絣の着物で通学した。袴をはくのがきらいだったので、下宿を出る時、懐へ袴をつっ込んで行き、校門の前で出してはいたという。制帽も持たなかった。だから、誰も彼を学生だと思うものはなかった。労働者か地廻りのように思っていた。貧しく育った彼は貧乏人の味方であり、社会改造の熱情に燃えていたが、学校の前でその運動のビラを配る時、彼のそんな服装が非常に役に立ったというくらい、汚ない恰好をしていたのである。
 もっとも、貧乏だけで人はそんなに汚なくなるものではなかろう。わざと汚なくしていたのは、お上品なプチブル趣味への反逆でもあった。彼は小説家だが、彼の書く小説にはつねに庶民が出て来た。彼自身市井の塵埃や泥の中に身を横たえて書いたと思われるような小説が多かった。たまたまブルジョワが出て来てもしかしそれはブルジョワを攻撃するためであった。乗物は二等より三等を愛し、活動写真は割引時間になってから見た。料亭よりも小料理屋やおでん屋が好きで、労働者と一緒に一膳めし屋で酒を飲んだりした。木賃宿へも平気で泊った。どんなに汚ないお女郎屋へも泊った。いや、わざと汚ない楼をえらんで、登楼した。そして、自分を汚なくしながら、自虐的な快感を味わっているようだった。
 しかし、彼とても人並みに清潔に憧れないわけではない。たとえば、銭湯が好きだった。町を歩いていて銭湯がみつかると、行き当りばったりに飛び込んで、貸手拭で汗やあぶらや垢を流してさっぱりするのが好きだった。だから一日に二度も三度も銭湯へ飛び込んだりする。そういう点では綺麗好きだった。もっとも、潔癖症やプチブル趣味の人たちは銭湯は不潔だというだろう。綺麗好きが銭湯好きにはならないと笑うだろう。つまり彼の銭湯好きは銭湯が庶民的だからだと、言い直した方がよさそうだ。浮世風呂としての銭湯を愛しているのかも知れない。ところが、それほど銭湯好きの彼が何かの拍子に、ふと物臭さの惰性にとりつかれると、もう十日も二十日も入浴しなくなる。からだを動かすとプンといやな臭いがするくらい、異様に垢じみて来るのだが、存外苦にしない。これがおれの生活の臭いだと一寸惹かれてみたら、どうだい、この汚れ方は、これがおれの精神の垢だよ、ケッケッケッと自虐的におもしろがったりしている。大阪で一番汚ない男だと、妙に反りかえったりしている。
 つまりは、その風体の汚なさと、彼という人間との間に、大したギャップがないのだ。いわば板についた汚なさだ。公園のベンチの上で浮浪者にまじって野宿していても案外似合うのだ。
 そんな彼が戎橋を渡って、心斎橋筋を真直ぐ北へ、三ツ寺筋の角まで来ると、そわそわと西へ折れて、すぐ掛りにある「カスタニエン」という喫茶店へはいって行ったから、驚かざるを得ない。「カスタニエン」は名前からしてハイカラだが、店そのものもエキゾチックな建築で、装飾もへんにモダーンだから、まるで彼に相応わしくない。赤暖簾のかかった五銭喫茶店へはいればしっくりと似合う彼が、そんな店へ行くのにはむろん理由がなくてはかなわぬ。女だ。「カスタニエン」の女給の幾子に、彼の表現に従えば「肩入れ」しているのである。
 もう十日も通っているのだ。いや、通うというより入りびたっているといった方が適当だろう。店があくのは朝の十一時だが、十時半からもうボックスに収まって、午前一時カンバンになるまでねばっている。ざっと十三時間以上だ。その間一歩も外へ出ない。いわば一日中「カスタニエン」で暮しているのだ。梃(てこ)でも動かぬといった感じで、ボックスでとぐろを巻いているのだ。しかし、十三時間の間、幾子と口を利くのはほんの二言か三言だ。あとは幾子の顔を見ながら、小説のことを考えたり、雑誌を読んだり、客と雑談したりしているのだ。客のなかには文学青年の入山もいる。なかなかの美青年で、やはり幾子に通っているらしい。いわば二人は心ひそかに張り合っているのだ。そしてお互い自分の方に分があると思っているのだ。
 幾子は誰からも眼をつけられていた。そしてそんな女らしく、とくに誰か一人と親しく口を利くようなことはせず、通って来る客の誰ともまんべんなく口を利いていた。ところが、そんな幾子がどうした風の吹き廻しであろうか、その日は彼にばかし話しかけて来た。彼はすっかり悦に入ってしまった。
 夜になると、幾子はますます彼に話しかけて来て、人目に立つくらいだった。入山は憤慨して帰ってしまった。
 入山が帰って間もなく、幾子は、
「あたし、あなたに折入って話したいことがあるんだけど……。その辺一緒に歩いて下さらない」
 耳の附根まで赧(あか)くなった。彼は入山のいないことが残念だった。二人で「カスタニエン」を出て行くところを、入山に見せてやりたかった。
 彼は胸をわくわくさせ乍ら、幾子のあとに随(つ)いて出た。「カスタニエン」の主人には十分もすれば帰ると言って出たが、もしかしたら、永久に帰って来ないかも知れない。
 並んで心斎橋筋を北へ歩いて行った。
「話て、どんな話や」
「…………」
 幾子は黙っていた。彼も黙々としてあるいた。もう恋人同志の気分になっていた。だから、黙々としている方がふさわしい。
 異様に汚ない彼が美しい幾子を連れて歩いているのは、随分人目を惹いた。が、彼は人々が振りかえってみるたびに、得意になっていた。
 心斎橋の橋のたもとまで来ると、幾子は黙って引きかえした。彼も黙って引きかえした。が、大丸の前まで来た時、彼は何か言うべきであると思った。幾子は恥かしくて言えないのだから、自分が言えばそれで話は成立するわけだと思った。で、口をひらこうとした途端、いきなり幾子が、
「話っていうのはね。……あなた、入山さんとお友達でしょう?」
「うん。友達や」
 彼の顔はふと毛虫を噛んだようになった。
「あたし恥かしくて入山さんに直接言えないの。あなたから入山さんに言って下さらない?」
「何をや!」
「あたしのこと」
 幾子は美しい横顔にぱっと花火を揚げた。
「じゃ、君は入山が……」
 好きなのかと皆まできかず、幾子はうなずいた。
 彼は「カスタニエン」に戻ると、牛のように飲み出した。飲み出すと執拗だ。殆ど前後不覚に酔っぱらってしまった。
 カンバンになって「カスタニエン」を追い出されてからも、どこをどう飲み歩いたか、難波までフラフラと来た時は、もう夜中の三時頃だった。頭も朦朧としていたが、寄って来る円タクも朦朧だった。
「天下茶屋まで五円で行け!」
「十円やって下さいよ」
「五円だと言ったら、五円だ!」
「じゃ、八円にしときましょう」
「五円!」
「じゃ、七円!」
「行けと言ったら行け! 五円だ!」
「五円じゃ行けませんよ!」
「何ッ? 行かん? なぜ行かん?」
「行かんと言ったら行かん!」
「行けと言ったら行け!」
 そんな問答をくりかえしたあげく、掴み合いの喧嘩になった。運転手は車の修繕道具で彼の頭を撲った。割れて血が出た。彼は卒倒した。
 運転手は驚いて、彼の重いからだを車の中へかかえ入れた。
 そして天下茶屋のアパートの前へ車をつけると、シートの上へ倒れていた彼はむっくり起き上って、袂の中から五円紙幣を掴み出すと、それをピリッと二つに千切って、その半分を運転手に渡した。そして、何ごともなかったように、アパートの中へはいって行った。

     二

 この話を、私は武田さん自身の口からきいた。むろん武田さんの体験談である。武田さんが新進作家時代、大阪を放浪していた頃の話だという。
 昭和十五年の五月、私が麹町の武田さんの家をはじめて訪問した時、二階の八畳の部屋の片隅に蒲団を引きっぱなして、枕の上に大きな顎をのせて腹ばいのまま仕事していた武田さんはむっくり起き上って、机のうしろに坐ると、
「いつ大阪から来たの? 藤沢元気……? 大阪はどう? 『カスタニエン』という店知ってる?」
 などときいたあと、いきなり、
「――僕が大阪にごろごろしてた時の話だが……」
 と、この話をしたのである。
 そして、自分からおかしそうに噴きだしてのけ反らんばかりにからだごと顔ごとの笑いを笑ったが、たった一つ眼だけ笑っていなかった。そこだけが鋭く冷たく光っていた。
 私もゲラゲラと笑ったが、笑いながら武田さんの眼を見て、これは容易ならん眼だと思った。その眼は稍(やや)眇眼(すがめ)であった。斜視がかっていた。だから、じっとこちらを見ているようで、ふとあらぬ方向を凝視している感じであった。こんな眼が現実の底の底まで見透す眼であろうと、私は思った。作家の眼を感じたのだ。
 ちょっと受ける感じは、野放図で、ぐうたらみたいだが、繊細な神経が隅々まで行きわたっている。からだで掴んでしまった現実を素早く計算する神経の細かさ――それが眼にあらわれていると思った。
 その部屋には、はじめは武田さんと私の二人切りだったが、暫くすると雑誌や新聞の記者がぞくぞくと詰めかけて来て、八畳の部屋が坐る場所もないくらいになった。彼等は居心地が良いのか、あるいは居坐りで原稿を取るつもりか、それとも武田さんの傍で時間をつぶすのがうれしいのか、なかなか帰ろうとせず、しまいには記者同志片隅に集って将棋をしたり、昼寝をしたりしていた。
 武田さんはそれらの客にいちいち相手になったり、将棋盤を覗き込んだり、冗談を言ったり、自分からガヤガヤと賑かな雰囲気を作ってはしゃぎながら、新聞小説を書いていたが、原稿用紙の上へ戻るときの眼は、ぞっとするくらい鋭かった。
 書き終って、新聞社の使いの者に渡してしまうと武田さんはほっとしたように机の上の時計を弄んでいた。机の上には五六個の時計があった。一つずつ手に取って黙々とネジを巻いているその手つきを見ていると、ふと孤独が感じられた。
 一つ風変りな時計があった。側は西洋銀らしく大したものではなかったが、文字盤が青色で白字を浮かしてあり、鹿鳴館時代をふと思わせるような古風な面白さがあった。
「いい時計ですね。拝見」
 と、手を伸ばすと、武田さんは、
「おっとおっと……」
 これ取られてなるものかと、頓狂な声を出して、その時計を胸に抱くようにした。
「――どうもお眼も早いが、手も早い。千円でも譲らんよ。エヘヘ……」
 胸に当てて離さなかった。浴衣の襟がはだけていて、乳房が見えた。いや、たしかに乳房といってもいいくらい、武田さんの胸は肉が盛り上っていた。
 そこへ、都新聞の記者が来て、
「満州へ行かれるんですか。旅行日記はぜひ頼みますよ」
「うえへッ!」
 武田さんは飛び上った。
「まず、満州へ行く感想といった題で一文いただけませんか」
「誰が満州へ行くんだい?」
「あなたが――。今日のうちの消息欄に出てましたよ」
「どれどれ……」
 と、記者の出した新聞を見て、
「――なるほど、出てるね。エヘヘ……。君、こりゃデマだよ」
「えッ? デマですか。誰が飛ばしたんです」
「俺だよ、俺がこの部屋で飛ばしてやったんだよ。この部屋はデマのオンドコだからね。エヘヘ……」
「オンドコ……?」
「温床だよ」
 そう言ってキャッキャッと笑っていた。間もなく私は武田さんの書斎を辞した。
 そして、四五日たったある夜、私は大阪の難波の近くの夜店で、武田さんの机の上にあった時計とそっくりの時計を見つけた。千円でも譲らないと言ったあの時計だ。
「これはいくらだ?」
 買う気もなくきくと、
「二円五十銭にしときましょう」
「たったの……?」
 私は立ったまま尻餅ついていた。
 早速買った。いそいそとして買ったのである。そして、その時計を小包にして武田さんに送るという思いつきにソワソワしながら、おそくまで夜店をぶらついていた。私は二円五十銭で買ったが、武田さんのことだから二円ぐらいで神田の夜店あたりで買ったのではないかと思うとキャッキャッとうれしかった。五円札を二つに千切って運転手に渡したという話も、もしかしたら武田さんの飛ばそうとしているデマではないかと思うと、一層ゆかいだった。
 帰ってまず手紙を書こうと思った。男同志の恋文――言葉はおかしいが、手紙の中で一番たのしいのは、これだ。だから書いていると、つい長くなる。あまり長くなりそうだから、手紙はよして、小包だけにすることにしたがしかし、時計を送る小包というのはどうも作り方がむずかしい。それに、ふと手離すのが惜しくなって、――というのは、私もまた武田さんの驥尾(きび)に附してその時計を机の上にのせて置きたくて、到頭送らずじまいになってしまった。
 九月の十日過ぎに私はまた上京した。武田さんを訪問すると、留守だった。行方不明だという。上京の目的の半分は武田さんに会うことだった。
 雑誌社へきけば判るだろうと思い、文芸春秋社へ行き、オール読物の編輯をしているSという友人を訪ねると、Sはちょうど電話を掛けているところだった。
「もしもし、こちらは文芸春秋のSですが、武田さん……そう、武麟さんの居所知りませんか。え、なに? あなたも探しておられるんですか。困りましたなア」
 終りの方は半泣きの声だった。――私は改造社へ行った。改造の編輯者は大日本印刷へ出張校正に行ってみんな留守だった。
 改造社を出ると空車が通りかかったので、それに乗って大日本印刷へ行った。四階でエレヴェーターを降りると、エレヴェーターのすぐ前が改造の校正室だった。
 はいって行くと、きかぬ先に、
「武田さん来てますよ」
 と、Aさんが言った。
「えッ? どこに……」
「向うの部屋に罐詰中です」
 教えられた部屋は硝子張りで、校正室から監視の眼が届くようになっていた。
 武田さんは鉛の置物のように、どすんと置かれていた。
 ドアを押すと、背中で、
「大丈夫だ。逃げやせんよ。書きゃいいんだろう」
 しかし振り向いて、私だと判ると、
「――なんだ、君か。いつ来たの?」
「罐詰ですか」
「到頭ひっくくって連れて来やがった。逃げるに逃げられんよ。何しろエレヴェーターがきゃつらの前だからね。――ああ眠い」
 欠伸をして、つるりと顔を撫ぜた。昨夜から徹夜をしているらしいことは、皮膚の色で判った。
 橙色の罫(けい)のはいった半ぺらの原稿用紙には「時代の小説家」という題と名前が書かれているだけで、あとは空白だった。私はその題を見ただけで、反動的ファッショ政治の嵐の中に毅然として立っている小説家の覚悟を書こうとしている評論だなと思った。このような原稿を伏字なしに書くには字句一つの使い方にも細かい神経を要する。武田さんが書き悩んでいるわけもうなずけるのだった。
「僕がおっては邪魔でしょう」
 と、出ようとすると、
「いや、居ってくれんと淋しくて困るんだ。なアに書きゃいいんだ」
 と、引きとめた。しかし、話はしようとせず、とろんと疲れた眼を放心したように硝子扉の方へ向けていたが、やがて想いがまとまったのか、書きはじめたが、二行ばかり書くと、すぐ消して、紙をまるめてしまった。
 そして、新しい紙にへのへのもへのを書きながら、
「書きゃいいんだろう。書きゃ……」
 と、ひとり言を言っていた。書き悩んでいるというより、どうしても書きたくないと、駄々をこねているみたいだった。
 Aさんがはいって来た。
「どうです。書けましたか」
「書けるもんか。ビールがあれば書けるがね。――たのむ、一本だけ!」
 指を一本出して、
「――この通りだ」
 手を合わせた。
「だめ、だめ! 一滴でもアルコールがはいったら最後、あなたはへべれけになるまで承知しないんだから折角ひっくくって来たんだから、こっちはあくまで強気で行くよ。その代り、原稿が出来たら、生ビールでござれ、菊正でござれ、御意のままだ。さア、書いた、書いた」
「一本だけ! 絶対に二本とは言わん。咽が乾いて困るんだ。脳味噌まで乾いてやがるんだ。恩に着るよ。たのむ! よし来たッといわんかね」
「だめ!」
「じゃ、十分だけ出してくれ、一寸外の空気を吸って来ると、書けるんだ。ものは相談だが、どうだ。十分! たった十分!」
「だめ! 出したら最後、東西南北行方知れずだからね、あんたは」
「あかんか」
 大阪弁になっていた。
「あかん。今夜中に書いて貰わんと、雑誌が出んですからね。あんたの原稿だけなんだ」
「火野はまだだろう?」
「いや、今着きましたよ」
「丹羽君は……?」
「K君がとって来た。百枚ですよ」
「じゃ、僕のは無くてもいけるだろう。来月にのばしちゃえよ」
「だめ! あんたが書くまで、僕は帰らんからね」
「泊り込みか。ざまア見ろ」
 Aさんは笑いながら出て行った。
「書きゃいいんだろう、書きゃア」
 武田さんはAさんの背中へ毒づいていたが、やがて机の上にうつ伏したかと思うと、鼾をかき出した。
 死んだような寝顔だったが、獣のような鼾だった。
 ところが、半時間ばかりたつと、武田さんははっと眼を覚して、きょとんとしていたが、やがて何思ったのか、白紙のままの原稿用紙を二十枚ばかり封筒に入れると、
「さア、行こう」
 と、起ち上って出て行った。随いて行くと、校正室へはいるなり、
「出来た!」
 と、封筒をAさんに突き出して、
「――出来たらいいんだろう。あとは知らねえよ。エヘヘ……」
 不気味に笑っていた。
「どうもお骨折りでした」
 Aさんはにこにこして、封筒の中から原稿を取り出そうとした。
 途端に武田さんは私の手を引っ張って、エレヴェーターに乗った。
 白紙の原稿を見たAさんがあっと驚いた時は、エレヴェーターは動いていた。
「あれ、あれッ!」
 Aさんの声はすぐ聴えなくなった。
 エレヴェーターを降りると、武田さんはさア逃げようと尻をまくって、はしった。そして、どこをどうはしったか、やっとおでん屋を見つけて、暖簾をくぐると、
「ビール! ビール!」
 腰を掛ける前から呶鳴(どな)っていた。
 一本のビールは瞬く間だった。
「うめえ、うめえ、これに限る」
 二本目のビールを飲み出した途端、Aさんがのそっとはいって来て、ものも言わず武田さんの傍に坐った。
 武田さんはぎょっとしたらしかったが、急にあきらめたように起ち上り、
「勘定!」
 袂へ手を突っ込んだが、財布が見つからぬらしい。
「――おかしいね。落したのかな」
 そう言いながら、だんだん入口の方へ寄って行ったかと思うと、いきなり逃げ出した。
「あッ! こらッ武麟」
 Aさんはあわててあとを追った。
 私はぽかんとして、二人のあとを見送っていた。暫く待っていたが、二人は帰って来なかった。
 それから二週間ばかりして、改造の十月号を見ると「時代の小説家」という武田さんの文章がちゃんと載っていた。

     三

 一年たつと、武田さんは南方へ行った。そして間もなく、武田さんがジャワで鰐に食われて死んだという噂をきいた。
 まさかと私は思った。武田麟太郎が鰐を食ったという噂なら信じられるが、鰐に食われたとは到底考えられないと思った。
「こりゃもしかしたら、武麟さんが自分で飛ばしたデマじゃないかな」
 そう私は友人に言った。
「武麟さんがジャワで飛ばした『武田麟太郎鰐に食われて急逝す』というデマが、大阪まで伝わって来たというのは痛快だね」
 雀百までおどりを忘れずだと私は笑った。
 とにかく死ぬものかと思った。不死身の武麟さんではないか。
 果して、武田さんは元気で帰って来た。マラリヤにも罹(かか)らなかったということだった。さもありなんと私は思った。
 武田さんのいない文壇は、そこだけがポツンと穴のあいた感じであったが、その穴がやっと埋まったわけだと、私は少しも変らない武田さんを見て喜んだ。四年も外地にいたが、武田さんは少しも報道班員の臭みを身につけていなかった。帰途大阪へ立ち寄って、盛んに冗談口を利いてキャッキャッ笑っている武田さんは、戦争前の武田さんそのままであった。悪童帰省すという感じであった。何か珍妙なデマを飛ばしたくてうずうずしているようだった。
 案の定東京へ帰って間もなく、武田麟太郎失明せりという噂が大阪まで伝わって来た。これもデマだろうと、私はおもって、東京から来た人をつかまえてきくと、失明は嘘だが大分眼をやられているという。
「メチルでしょう?」
 と、きくと、そうだとその人は笑って、
「相変らず安ウイスキーを飲み廻ってるんですね。眼からヤニが流れ出して来ても、平気でヤニをこすりこすり、飲んでるんですね。あの人だから、もってるんですよ。無茶ですね」
 無茶だとは、武田さんも気づいているのであろう。しかし、やめられない。だから「武田麟太郎失明せり」と自虐的なデマを飛ばして、わざとキャッキャッはしゃいでいるのだろうと思った。
「あの人は大丈夫ですよ。メチルでやられるからだじゃない。不死身だ。不死身の麟太郎だ」
 私はそう言った。
 武田さんはやがて罹災した。避難先は新聞社にきいてもわからなかった。例によって行方をくらましたなという感じだった。
「あの人は大丈夫だ。罹災でへこたれるような人じゃない。不死身だ」
 私は再びそう言った。
 四月一日の朝刊を見ると、「武田麟太郎氏急逝す」という記事が出ていた。
 私はどきんとした。狐につままれた気持だった。真っ暗になった気持の中で、たった一筋、
「あッ、凄いデマを飛ばしたな」
 という想いが私を救った。
「――今日は四月馬鹿(エープリルフール)じゃないか」
 そうだ、四月馬鹿だ、こりゃ武田さんの一生一代の大デマだと呟きながら、私はポタポタと涙を流した。
 そして、あんなにデマを飛ばしていたこの人は寂しい人だったんだ、寂しがり屋だったんだと、ポソポソ不景気な声で呟いていた。
 新聞に出ている武田さんの写真は、しかしきっとして天の一角を睨んでいた。
(「光」昭和二一年五・六月合併号)



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