馬地獄
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著者名:織田作之助 

 東より順に大江橋(おおえばし)、渡辺橋(わたなべばし)、田簑橋(たみのばし)、そして船玉江橋まで来ると、橋の感じがにわかに見すぼらしい。橋のたもとに、ずり落ちたような感じに薄汚(うすぎたな)い大衆喫茶店(きっさてん)兼飯屋(めしや)がある。その地下室はもとどこかの事務所らしかったが、久しく人の姿を見うけない。それが妙(みょう)に陰気(いんき)くさいのだ。また、大学病院の建物も橋のたもとの附属(ふぞく)建築物だけは、置き忘れられたようにうら淋(さび)しい。薄汚(うすよご)れている。入口の階段に患者(かんじゃ)が灰色にうずくまったりしている。そんなことが一層この橋の感じをしょんぼりさせているのだろう。川口界隈(かわぐちかいわい)の煤煙(ばいえん)にくすんだ空の色が、重くこの橋の上に垂れている。川の水も濁(にご)っている。
 ともかく、陰気だ。ひとつには、この橋を年中日に何度となく渡らねばならぬことが、さように感じさせるのだろう。橋の近くにある倉庫会社に勤めていて、朝夕の出退時間はむろん、仕事が外交ゆえ、何度も会社と訪問先の間を往復する。その都度せかせかとこの橋を渡らねばならなかった。近頃(ちかごろ)は、弓形になった橋の傾斜(けいしゃ)が苦痛でならない。疲(つか)れているのだ。一つ会社に十何年間かこつこつと勤め、しかも地位があがらず、依然(いぜん)として平社員のままでいる人にあり勝ちな疲労(ひろう)がしばしばだった。橋の上を通る男女や荷馬車を、浮(う)かぬ顔して見ているのだ。
 近くに倉庫の多いせいか、実によく荷馬車が通る。たいていは馬の肢(あし)が折れるかと思うくらい、重い荷を積んでいるのだが、傾斜があるゆえ、馬にはこの橋が鬼門(きもん)なのだ。鞭(むち)でたたかれながら弾(はず)みをつけて渡り切ろうとしても、中程に来ると、轍(わだち)が空まわりする。馬はずるずる後退しそうになる。石畳(いしだたみ)の上に爪立(つまだ)てた蹄(ひづめ)のうらがきらりと光って、口の泡(あわ)が白い。痩(や)せた肩(かた)に湯気(ゆげ)が立つ。ピシ、ピシと敲(たた)かれ、悲鳴をあげ、空を噛(か)みながら、やっと渡ることができる。それまでの苦労は実に大変だ。彼(かれ)は見ていて胸が痛む。轍の音がしばらく耳を離(はな)れないのだ。
 雨降りや雨上りの時は、蹄がすべる。いきなり、四つ肢をばたばたさせる。おむつをきらう赤(あか)ん坊(ぼう)のようだ。仲仕が鞭でしばく。起きあがろうとする馬のもがきはいたましい。毛並(けなみ)に疲労の色が濃(こ)い。そんな光景を立ち去らずにあくまで見て胸を痛めているのは、彼には近頃自虐(じぎゃく)めいた習慣になっていた。惻隠(そくいん)の情もじかに胸に落ちこむのだ。以前はちらと見て、通り過ぎていた。
 ある日、そんな風にやっとの努力で渡って行った轍の音をききながら、ほっとして欄干(らんかん)をはなれようとすると、一人(ひとり)の男が寄ってきた。貧乏(びんぼう)たらしく薄汚い。哀(あわ)れな声で、針中野(はりなかの)まで行くにはどう行けばよいのかと、紀州訛(きしゅうなまり)できいた。渡辺橋から市電で阿倍野(あべの)まで行き、そこから大鉄電車で――と説明しかけると、いや、歩いて行くつもりだと言う。そら、君、無茶だよ。だって、ここから針中野まで何里……あるかもわからぬ遠さにあきれていると、実は、私は和歌山の者ですが、知人を頼(たよ)って西宮まで訪ねて行きましたところ、針中野というところへ移転したとかで、西宮までの電車賃はありましたが、あと一文もなく、朝から何も食べず、空腹をかかえて西宮からやっとここまで歩いてやって来ました、あと何里ぐらいありますか。半分泣き声だった。
 思わず、君、失礼だけれどこれを電車賃にしたまえと、よれよれの五十銭銭(ぜに)を男の手に握(にぎ)らせた。けっしてそれはあり余る金ではなかったが、惻隠の情はまだ温く尾(お)をひいていたのだ。男はぺこぺこ頭を下げ、立ち去った。すりきれた草履(ぞうり)の足音もない哀れな後姿だった。
 それから三日経(た)った夕方、れいのように欄干に凭(もた)れて、汚い川水をながめていると、うしろから声をかけられた。もし、もし、ちょっとお伺(うかが)いしますがのし、針中野ちうたらここから……振(ふ)り向いて、あっ、君はこの間の――男は足音高く逃(に)げて行った。その方向から荷馬車が来た。馬がいなないた。彼はもうその男のことを忘れ、びっくりしたような苦痛の表情を馬の顔に見ていた。
(昭和十六年十二月)



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