右大臣実朝
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著者名:太宰治 

承元二年戊辰。二月小。三日、癸卯、晴、鶴岳宮の御神楽例の如し、将軍家御疱瘡に依りて御出無し、前大膳大夫広元朝臣御使として神拝す、又御台所御参宮。十日、庚戌、将軍家御疱瘡、頗る心神を悩ましめ給ふ、之に依つて近国の御家人等群参す。廿九日、己巳、雨降る、将軍家御平癒の間、御沐浴有り。(吾妻鏡。以下同断)
 おたづねの鎌倉右大臣さまに就いて、それでは私の見たところ聞いたところ、つとめて虚飾を避けてありのまま、あなたにお知らせ申し上げます。間違ひのないやう、出来るだけ気をつけてお話申し上げるつもりではございますが、それでも万一、年代の記憶ちがひ或いはお人のお名前など失念いたして居るやうな事があるかも知れませぬが、それは私の人並はづれて頭の悪いところと軽くお笑ひになつて、どうか、お見のがし下さいまし。
 早いもので、故右大臣さまがお亡くなりになられて、もうかれこれ二十年に相成ります。あのとき、御薨去の哀傷の余りに、御台所さまをはじめ、武蔵守親広さま、左衛門大夫時広さま、前駿河守季時さま、秋田城介景盛さま、隠岐守行村さま、大夫尉景廉さま以下の御家人が百余人も出家を遂げられ、やつと、はたちを越えたばかりの私のやうな小者まで、ただもう悲愁断腸、ものもわからず出家いたしましたが、それから、そろそろ二十年、憂き世を離れてこんな山の奥に隠れ住み、鎌倉も尼御台も北条も和田も三浦も、もう今の私には淡い影のやうに思はれ、念仏のさはりになるやうな事も無くなりました。けれども、ただお一人、さきの将軍家右大臣さまの事を思ふと、この胸がつぶれます。念仏どころでなくなります。花を見ても月を見ても、あのお方の事が、あざやかに色濃く思ひ出されて、たまらなくなります。ただ、なつかしいのです。人によつて、さまざまの見方もあるでせうが、私には、ただなつかしいお人でございます。暗い陰鬱な御性格であつたと言ふひともあるでせうし、また、底にやつぱり源家の強い気象を持つて居られたと言ふひともございませう。文弱と言つてなげいてゐたひともあつたやうでございますし、なんと優雅な、と言つて口を極めてほめたたへてゐたひともございました。けれども私には、そんな批評がましいこと一切が、いとはしく無礼なもののやうに思はれてなりませぬ。あのお方の御環境から推測して、厭世だの自暴自棄だの或いは深い諦観だのとしたり顔して囁いてゐたひともございましたが、私の眼には、あのお方はいつもゆつたりして居られて、のんきさうに見えました。大声あげてお笑ひになる事もございました。その環境から推して、さぞお苦しいだらうと同情しても、その御当人は案外あかるい気持で生きてゐるのを見て驚く事はこの世にままある例だと思ひます。だいいちあのお方の御日常だつて、私たちがお傍から見て決してそんな暗い、うつたうしいものではございませんでした。私が御ところへあがつたのは私の十二歳のお正月で、問註所の善信入道さまの名越のお家が焼けたのは正月の十六日、私はその三日あとに父に連れられ御ところへあがつて将軍家のお傍の御用を勤める事になつたのですが、あの時の火事で入道さまが将軍家よりおあづかりの貴い御文籍も何もかもすつかり灰にしてしまつたとかで、御ところへ参りましても、まるでもう呆けたやうにおなりになつて、ただ、だらだらと涙を流すばかりで、私はその様を見て、笑ひを制する事が出来ず、ついくすくすと笑つてしまつて、はつと気を取り直して御奥の将軍家のお顔を伺ひ見ましたら、あのお方も、私のはうをちらと御らんになつてにつこりお笑ひになりました。たいせつの御文籍をたくさん焼かれても、なんのくつたくも無げに、私と一緒に入道さまの御愁歎をむしろ興がつておいでのやうなその御様子が、私には神さまみたいに尊く有難く、ああもうこのお方のお傍から死んでも離れまいと思ひました。どうしたつて私たちとは天地の違ひがございます。全然、別種のお生れつきなのでございます。わが貧しい凡俗の胸を尺度にして、あのお方のお事をあれこれ推し測つてみたりするのは、とんでもない間違ひのもとでございます。人間はみな同じものだなんて、なんといふ浅はかなひとりよがりの考へ方か、本当に腹が立ちます。それは、あのお方が十七歳になられたばかりの頃の事だつたのでございますが、おからだも充分に大きく、少し伏目になつてゆつたりとお坐りになつて居られるお姿は、御ところのどんな御老人よりも、分別ありげに、おとなびて、たのもしく見えました。
老イヌレバ年ノ暮ユクタビゴトニ我身ヒトツト思ホユル哉
 その頃もう、こんな和歌さへおつくりになつて居られたくらゐで、お生れつきとは言へ、私たちには、ただ不思議と申し上げるより他に術がございませんでした。お歌の事に就いては、また後でいろいろとお知らせしなければならぬ事もございますが、十三、四歳の頃からもうあのお方は、新古今集などお読みになり、さうして御自身も少しづつ和歌をお作りになられて、その十七歳の頃には、もう御指南のお方たち以上の立派なお歌人におなりになつて居られたのでございます。ひどく無雑作にさらさらと書き流して、少し笑つて私たちに見せて下さるのですが、それがすべてびつくりする程のあざやかなお歌なので、私たちは、なんだか、からかはれてゐるやうな妙な気持になつたものでございます。まるでもう冗談みたいでございました。けれども和歌のお話は後程ゆつくり申し上げる事と致しまして、私が御ところへあがつて間もなく、あれは二月のはじめと覚えて居りますが、将軍家には突然発熱せられて、どうやら御疱瘡らしいといふ事になり、御ところの騒ぎは申すまでもなく、鎌倉の里人の間には将軍家御臨終といふ流言さへ行はれた様子で、伊豆、相模、武蔵など近国の御家人も続々と御ところに駈けつけ、私は御奉公にあがつたばかりの、しかもわづか十二歳の子供でございましたので、ただもうおそろしく、いまもなほ夢寐にも忘れ得ぬ歴々たる思ひ出として胸に灼きつけられてゐるのでございますが、その時の事をただいま少し申し上げませう。二月のはじめに御発熱があり、六日の夜から重態にならせられ、十日にはほとんど御危篤と拝せられましたが、その頃が峠で、それからは謂ばば薄紙をはがすやうにだんだんと御悩も軽くなつてまゐりました。忘れも致しませぬ、二十三日の午剋、尼御台さまは御台所さまをお連れになつて御寝所へお見舞ひにおいでになりました。私もその時、御寝所の片隅に小さく控へて居りましたが、尼御台さまは将軍家のお枕元にずつとゐざり寄られて、つくづくとあのお方のお顔を見つめて、もとのお顔を、もいちど見たいの、とまるでお天気の事でも言ふやうな平然たる御口調ではつきりおつしやいましたので私は子供心にも、どきんとしてゐたたまらない気持が致しました。御台所さまはそれを聞いて、え堪へず、泣き伏しておしまひになりましたが、尼御台さまは、なほも将軍家のお顔から眼をそらさず静かな御口調で、ご存じかの、とあのお方にお尋ねなさるのでございました。あのお方のお顔には疱瘡の跡が残つて、ひどい御面変りがしてゐたのでございます。お傍のお方たちは、みんなその事には気附かぬ振りをしてゐたのですが、尼御台さまは、そのとき平気で言ひ出されましたので、私たちは色を失ひ生きた心地も無かつたのでございます。その時あのお方は、幽かにうなづき、それから白いお歯をちらと覗かせて笑ひながら申されました。
スグ馴レルモノデス
 このお言葉の有難さ。やつぱりあのお方は、まるで、づば抜けて違つて居られる。それから三十年、私もすでに四十の声を聞くやうになりましたが、どうしてどうして、こんな澄んだ御心境は、三十になつても四十になつても、いやいやこれからさき何十年かかつたつて到底、得られさうもございませぬ。なんといふ秀でたお方でございませう。融通無碍とでもいふのでございませうか。お心に一点のわだかまりも無い。本当に、私たちも、はじめはひどく面変りをしたと思つてゐたのでございますが、馴れるとでも言ふのでせうか、あのお方がだいいち少しも御自身のお顔にこだはるやうな御様子をなさいませぬし、皆の者にもいつのまにやら以前のままの、にこやかな、なつかしいお顔のやうに見えてまゐりました。お心の優れたお方のお顔には、少しばかりの傷が出来ても、その為にかへつてお顔が美しくなる事こそあれ、醜くなるなどといふ事は絶対に無いものだと私は信じたいのでございますが、でも、夜のともしびに照らされたお顔には、さすがにお気の毒な陰影が多くて、それこそ尼御台さまのお言葉ではないけれども、もとのお顔をもいちど拝したい、といふ気持も起つて思はず溜息をもらした事も無いわけではございませんでした。けれども、そんな気持こそ、凡俗のとるにも足らぬ我執で、あさはかの無礼な歎息に違ひございませぬ。

同年。五月大。廿九日、丁卯、兵衛尉清綱、昨日京都より下著し、今日御所に参る、是随分の有職なり、仍つて将軍家御対面有り、清綱相伝の物と称して、古今和歌集一部を進ぜしむ、左金吾基俊書かしむるの由之を申す、先達の筆跡なり、已に末代の重宝と謂ひつ可し、殊に御感有り、又当時洛中の事を尋ね問はしめ給ふ。
 疱瘡が御平癒とは申しても、あれほどの御大病でございましたので、さすがに御余気が去らぬらしく時々わづかながらお熱も出ますので、そのとしは、鶴岳宮の一切経会、放生会、またその他のお祭りにも将軍家のおいでは無く、もつぱら御ところの御奥におひきこもりでございました。いや、そのとしばかりではなく、翌年、御余気が全く去つて、お熱が出なくなつてからでも鶴岳宮へのお参りはなさいませんでした。その翌々年も、代参ばかりで御自身のおいではございませんでした。三年目の、将軍家が二十歳におなりのとしの二月二十二日に、はじめてお参りなされたのでございますが、当時の人たちは、将軍家がそのお顔の御疱瘡のお跡をたれかれに見せたくなくて、お宮にも、おでましにならなかつたのだらう等と下品な臆測をしてゐたやうでございました。けれどもそれは違ひます。あのお方が永く御奥にひきこもつて居られたとは言へ、決してその間ぢゆう鬱々としてお暮しなさつてゐたわけではなく、お熱の無い時にはお傍の人たちとお歌を作り合つてたのしげにお笑ひになり、また広元入道さまや相州さまとは絶えずお逢ひなされて幕府のまつりごとを決裁なされ、以前となんの変つたところも無く、御自分のお顔の事を気になさる素振りなどはそれこそ露ほども塵ほども見受けられなかつたのでございます。本当に、下賤の当推量は、よしたはうがようございます。あれは、ただ、将軍家が鶴岳宮の御霊に御遠慮なさつただけの事だと私どもは考へて居ります。御父君右大将さまと御同様に、まことに敬神の念のお篤いお方でございましたから、御大患後の不浄の身を以て御参詣などは思ひもよらぬ事、身心の潔くなるのをお待ちになつてお参りしようと三年の間、御遠慮をしてゐただけの話で、まことに単純な、また、至極もつともの事ではございませぬか。かへすがへす、したり顔の御穿鑿はせぬことでございます。そのとしの五月二十九日、まだ将軍家の御大患の御余気も去らぬ頃の事でごさいましたが、久しく京都へおいでになつてゐた御台所のお侍の兵衛尉清綱さまが、京のお土産として、藤原の基俊さまの筆になる古今和歌集一巻を御ところへ御持参に相成り将軍家へ献上いたしましたところが、将軍家に於いては殊のほかお喜びなされて、
末代マデノ重宝デス
 とまでおつしやいました。のちに京極侍従三位さまから相伝の私本万葉集一巻を献上せられた時にも、ずいぶんお喜びなさいましたが、この日、古今和歌集をお手にせられて、その御機嫌のおよろしかつたこと、それは、あのやうに学問のお好きなお方でございましたから、その以前にも新古今和歌集はすでに十三、四歳の頃に通読せられてゐた御様子で、また古今和歌集にしても、或いは万葉集にしても、それぞれ写本の断片くらゐにはお目を通され、ちやんと内容の大体を御承知だつた事とも思はれますが、なにせそのとしのお正月に、問註所入道さまのお文庫におあづけになつて居られた御愛読の歌集をことごとく焼かれて、あの時こそあのやうに美しくお笑ひになつて何もおつしやいませんでしたが、さすがにその後お読みになる文籍にも事欠き御不自由御退屈の思ひをなさつて居られたらしく、さればこそ、その日、清綱さまの古今和歌集は、将軍家にとつてはまさに旱天の慈雨とでも申すべきものであつたのでございませう。清綱さまをお傍ちかく召され御頬を染めて、末代の重宝と仰せられ、また京の御様子など、それからそれとお尋ねなさるのでございました。将軍家のおたのしみは、お歌、蹴鞠、絵合せ、管絃、御酒宴など、いろいろございましたけれども、何にもまして京の噂を聞く事がおたのしみの御様子でございました。京都の風をなつかしみ、またかしこくも、御朝廷の尊い御方々に対し奉つては、ひたすら、嬰児の如くしんからお慕ひなさつて居られたらしく、お傍の人たちを実にしばしば京へのぼらせ、その人たちが帰つて来てからの土産話を待ちこがれていらつしやる御有様は、お傍の私たちまでひとしく待ち遠がつたほどでございました。その日も清綱さまから京の土産話をさまざま御聴取になつて一日打ち興じて居られましたが、都に於いて去る九日、新日吉小五月会、上皇御幸、その時の美々しくにぎやかな御有様など清綱さまは、ありありと眼前に浮ぶくらゐお上手にお話申し上げて、競馬、流鏑馬、的等の番組は記憶ちがひのないやうに、ちやんとこのやうに紙にしるしてまゐりましたと言つて懐中から巻紙を取り出し、御前にさらさらとひろげて、この時競馬の一番目の勝負は誰と誰、二番目は誰と誰、鼓の役は親定朝臣、鉦鼓は長季、いやもうさかんなものです、などと清綱さまもそれは心得たものでございました。またその折の流鏑馬に峰王といふ綺麗な童子も参加いたして、きりりと引きしぼつて、ひやうと射た矢が的をはづれて恥づかしのあまりただちにその場から逐電なし、たちまちもつて出家したとの事、これには御台所さまをはじめお傍の人たち一様に笑ひ崩れてしまひました。
都ハ、アカルクテヨイ。
 と将軍家も微笑んでおつしやいました。この清綱さまは、もともと御台所さまのお附きのお侍で、御台所さまはご存じのとほり前権大納言坊門信清さまの御女子、十三歳の御時に鎌倉へ御輿入に相成り、その時には将軍家も同じ十三歳、さぞかしお可愛らしい御夫婦でございましたでせう。前権大納言さまは、仙洞御所の御母后の御実弟で、京都に於いても指折りの御名門、ひとの話に依りますと、はじめ北条家の近親、足利義兼氏のお娘を御台所にと執権方からの推薦がございましたのださうで、けれども当時十三歳とは言へ、勘のするどいお方でございますから、
将軍家ノ御台所ハ京都ニヰマス
 ときつぱり御申渡しになつたのださうで、それで周囲のお方たちも余儀なく京都の公卿さまの御女子あれこれと詮議なされて、また京都に於いても斡旋の労をとつて下されたお方などもあり、やつと坊門清信さまの御女子ときまつたといふやうな経緯もあつた御様子で、この事に就いても、世上往々、将軍家はおませの浮いたお心から足利の田舎の骨太のお娘よりも都育ちの嬋娟たる手弱女を欲しかつたのだらう等と、けがらはしい、恥知らずの取沙汰をしてゐるのを耳に致した事もございますが、とんでもない事で、将軍家はただ、例のおほどかなお心から都のあかるさを、あづまへも取入れたいと、それだけのお気持から御台所は京都の人を、とお言ひ渡しなされたのではなからうかと私には思はれるのですが、しひてまた考へまするならば、これも将軍家の無邪気の霊感でございまして、無邪気の霊感といふものは、その時には、たわいなく見えながらも、あとあと、月日の経つにつれて、不思議に諸事にぴつたり的中いたしまして、万人の群議にはるかにまさる素直な適切の御処置であつたといふ事がわかつてまゐりますやうな工合ひのもので、もしも、その時に御台所さまを遠い京都より求めず、あづまの御家人のお娘の中から御選定なされたならば、この関東にまた一つ北条氏に比肩し得べき御やくかいの御外戚を作るやうな結果になり、同じ土地の御外戚のわづらはしさは、将軍家もお小さい頃から、例の北条氏と比企氏との対立などにつけても、よくご存じの筈で、そのやうな無益の騒擾を御見透しなさつた上の御処置かも知れぬ、とこれさへもまあ、下衆の言ふ、贔屓の引きたふしのやうなものでございまして、無理に意味をつけるとしても、本当に、それくらゐのところのものを或る人はまた仔細らしく、この時すでに将軍家に於いては朝幕合体、さらにすすんで大政奉還の深謀さへあつて御台所を院の御外戚より求められたのだといふひどく大袈裟な当推量をなさるお方もあつたやうでございました。それもまた思ひ過しの野暮な言ひ草で、私の親しく拝しました将軍家は、決してそんな深い秘密のたくらみなどなさるお方ではなく、まつりごとの決裁に於いても、お歌をさらさらお作りなさる時の御態度と同様に、その場の気配から察してとどこほる事なく右あるいは左とおきめになつて、まさにそれこそ霊感といふものでございませうか、みぢんも理窟らしいものが無く、本当に、よろづに、さらりとしたものでございました。ただ、あかるさをお求めになるお心だけは非常なもので、
平家ハ、アカルイ。
 ともおつしやつて、軍物語の「さる程に大波羅には、五条橋を毀ち寄せ、掻楯に掻いて待つ所に、源氏即ち押し寄せて、鬨を咄と作りければ、清盛、鯢波に驚いて物具せられけるが、冑(かぶと)を取つて逆様に著給へば、侍共『おん冑逆様に候ふ』と申せば、臆してや見ゆらんと思はれければ『主上渡らせ給へば、敵の方へ向はば、君をうしろになしまゐらせんが恐なる間、逆様には著るぞかし、心すべき事にこそ』と宣ふ」といふ所謂「忠義かぶり」の一節などは、お傍の人に繰返し繰返し音読せさせ、御自身はそれをお聞きになられてそれは楽しさうに微笑んで居られました。また平家琵琶をもお好みになられ、しばしば琵琶法師をお召しになり、壇浦合戦など最もお気にいりの御様子で、「新中納言知盛卿、小船に乗つて、急ぎ御所の御船へ参らせ給ひて『世の中は今はかくと覚え候ふ。見苦しき者どもをば皆海へ入れて、船の掃除召され候へ』とて、掃いたり、拭うたり、塵拾ひ、艫舳に走り廻つて手づから掃除し給ひけり。女房達『やや中納言殿、軍のさまは如何にや、如何に』と問ひ給へば『只今珍らしき吾妻男をこそ、御覧ぜられ候はんずらめ』とて、からからと笑はれければ」などといふところでも、やはり白いお歯をちらと覗かせてお笑ひになり、
アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。
 と誰にともなくひとりごとをおつしやつて居られた事もございました。同じ平家琵琶でも、源家の活躍のところはあまりお求めにならないやうでございました。いちど、那須与一の段をお聞きになり、「与一鏑を取つて番ひ、能つ引いてひやうと放つ。小兵といふ条、十二束三伏、弓はつよし、鏑は浦響くほどに長鳴して、過たず扇の要ぎは一寸ばかり置いて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海に入りければ、扇は空へぞあがりける。春風に一もみ二もみ揉まれて、海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の夕日の輝くに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬゆられけるを、沖には平家舷を叩きて感じたり。陸には源氏箙をたたいてどよめきけり」といふところ迄は、うつとりお耳を傾けて居られましたが、それに続けて、「あまりの面白さに、感に堪へずや思はれけん、平家のかの船の中より齢五十ばかりなる男の、黒革威の鎧著たるが、白柄の長刀杖につき、扇立たる所に立つて舞ひすましたり。伊勢三郎義盛、与一が後に歩ませ寄つて『御諚にてあるぞ。これをも亦仕れ』といひければ、与一今度は中差取つて番ひ、能つ引いてひやうと放つ。舞ひすましたる男の、真只中をひやうつと射て、舟底へ真逆様に射倒す。ああ射たりといふ者もあり、いやいや情なしといふ者も多かりけり。平家の方には、静まり返つて音もせず。源氏は又箙を叩いてどよめきけり」と法師の節おもしろく語るのを皆まで聞かず、ついとお座をお立ちになつてしまひました。いつたいにあのお方は、御叔父君の九郎判官さまを、あまりお好きでないらしく見受けられました。将軍家の、しんから尊敬して居られた方は、御先祖の八幡太郎義家公、それから御父君の右大将さま、そのお二方のやうに私には見受けられました。
 調子に乗つてとりとめの無い事ばかり申し上げて恐れいりましたが、とにかく、お若い頃の将軍家の御日常は決して暗いものではございませんでした。むしろ和気靄々、とでも言つていいくらゐのものでございまして、その頃お作りになつたお歌で、あまり人の評判にはならなかつたやうでありますが、綺麗なお歌がございます。
ハルサメノ露ノヤドリヲ吹ク風ニコボレテ匂フヤマブキノ花
 天真爛漫とでも申しませうか。心に少しでも屈託があつたなら、こんな和歌などはとても作れるものではございませぬ。

承元三年己巳。五月大。十二日、甲辰、和田左衛門尉義盛、上総の国司に挙任せらる可きの由、内々之を望み申す、将軍家、尼御台所の御方に申合せらるるの処、故将軍の御時、侍の受領に於ては、停止す可きの由、其沙汰訖んぬ、仍つて此の如き類、聴されざる例を始めらるるの条、女性の口入に足らざるの旨、御返事有るの間、左右する能はずと云々。
同年。十一月大。四日、甲午、小御所東面の小庭に於て、和田新左衛門尉常盛以下の壮士等切的を射る、是弓馬の事は、思食し棄てらる可からざるの由、相州諫め申すに依りて、興行せらるる所なり、故に勝負有る可しと云々。五日、乙未、相模国大庭御厨の内に、大日堂有り、本尊殊に霊仏なり、故将軍の御帰依等閑ならず、而るに近年破壊の由聞食し及ばるるに就いて、雑色を召し、修造を加ふ可きの旨、今日相州に仰せらると云々。七日、丁酉、去る四日の弓の勝負の事、負方の衆所課物を献ず、仍つて営中御酒宴乱舞に及び、公私逸興を催す、以其次、武芸を事と為し、朝廷を警衛せしめ給はば、関東長久の基たる可きの由、相州、大官令等諷詞を尽さると云々。十四日、甲辰、相州年来の郎従の中、有功の者を以て、侍に准ず可きの由、仰下さる可きの由、之を望み申さる、内々其沙汰有りて、御許容無し、其事を聴さるるに於ては、然る如きの輩、子孫に及ぶの時、定めて以往の由緒を忘れ、誤りて幕府に参昇を企てんか、後難を招く可きの因縁なり、永く御免有る可からざるの趣、厳密に仰出さると云々。
同年、同月。廿七日、丁巳、和田左衛門尉義盛、上総の国司所望の事、内々御計の事有り、暫く左右を待ち奉る可きの由仰を蒙り、殊に抃悦すと云々。
 下々の口さがない人たちは、やれ尼御台が専横の、執権相模守義時が陰険のと騒ぎ立ててゐた事もあつたやうでございますが、私たちの見たところでは、尼御台さまも相州さまも、それこそ竹を割つたやうなさつぱりした御気性のお方でした。づけづけ思ふとほりの事をおつしやつて、裏も表も何もなく、さうして後はからりとして、目下のものを叱りながらもめんだうを見て下さつてさうして恩に着せるやうな勿体を附ける事もなく、あれは北条家にお生れになつたお方たちの特徴かも知れませぬが、御性格にコツンと固い几帳面なところがございまして、むだな事は大のおきらひ、隅々までお目がとどいて、そんなところだけは、ふざけたい盛りの当時の私たちにとつて、ちよつとけむつたいところでございました。さうして、それから、どうもこれは申し上げにくい事でございますが、思ひ切つて申し上げるならば、下品でした。私どもには、このやうな事をかれこれ申し上げる資格も何も無いのはもちろんの事で、私だつて当時は、ひとかたならず尼御台さまや相州さまの御世話になり、甘えて育つて来たのでございますから、本当に、こんな事を申し上げては私の口が腐る思ひが致しますけれども、どうも、北条家のお方たちには、どこやら、ちらと、なんとも言へぬ下品な匂ひがございました。さうして、そのなんだかいやな悪臭が少しづつ陰気な影を生じて来て、後年のいろいろの悲惨の基になつたやうな気も致します。いいえ、決して悪いお方たちではございません。まじめな、いいお方たちばかりでございました。二心なく将軍家にお仕へ申して居られまして、将軍家との間も極めて御円満の御様子に見受けられました。あの、和田左衛門尉さまの上総の国司所望の事から、将軍家と尼御台さまが御争論をなされ、いよいよお二人の間が気まづくなつてしまつて、これがまた将軍家の孤独、厭世の思ひを深める原因となつた等と、もつともらしく取沙汰してみた人たちも少くなかつたやうで、もとより之は根も葉もない事ではなかつたのですが、でも、御争論などとは、とんでもない捏造で、あのやうな貴い御身分のお方たちが、それも実の御母子の間で、そんな軽々しい争論など、なさるわけのものではございません。おそらく一生、お二人の間にそんな争論などといふいやしい事はなかつたでございませう。あれは、五月のなかば、いいお天気の日でございましたが、尼御台さまは御奥へお越しなされて、将軍家と静かに御物語をなされ、私も謹んでお傍に控へて居りましたが、まことにのどかな、合掌したいくらゐの御立派な御賢母と御孝子、仕へるわが身のさいはひをしみじみ思ひ知りました。
和田ガ上総ノ国司ヲ望ンデヰマスガ
「いけませぬ。」
尼御台さまは軽く即座におつしやいました。けれどもそのお口元には、いかにも、お若い将軍家がお可愛くてならぬといふやうな優しい笑みをたたへていらつしやいました。
和田モ老イマシタカラ
 将軍家は老忠臣の和田左衛門尉さまを、それまでも何かとごひいきになさつて居られました。殊にも先年、やはり内々ごひいきだつた畠山の御一族を心ならずも失ひなされてからは、この唯一の生きのこりの大功臣をいよいよ大事においたはりなされ、このたびの上総の国司所望の事もなるべくは御許容なされたいやうな御様子が私たちにさへほの見えてゐたのでございます。その日、尼御台さまと、よもやまのお話のついでに、ふいとその事にお触れなさつたのでございますが、尼御台さまは、将軍家のそのやうなお心もちやんとお察しになつて居られたらしく、微笑んで、いいえ、やつぱりいけませぬ、故右大将の御時、すでに侍の受領は許さぬ方針に決して居りますから、と故右大将家の御先例をおだやかにお聞かせ申されたところが、将軍家には幾度もまじめに御首肯なされて、それから尼御台さまにあらたまつて御礼を申して居られました。
「いいえ、しかし、」尼御台さまには、そのやうに素直な将軍家を、おいとしくてならぬのでございませう、将軍家のお気をお引きたてなさるやうに殊更に高くお笑ひになつて、「御父君は御父君、和子には和子の流儀もあらうに、ま、それからさきは女子の差出口など無用になされ。」とおつしやいましたが、これがなんであの、御争論なものか、お二人お力を合せて故右大将家の御先例をさぐり、之に違ふこと無からんやうにお心を用ゐさせられ、ひたすら御善政にお努めになつて居られる証拠にこそはなれ、お仲がまづくなつてそのために将軍家の厭世のもとなど、なんといふたはけたせんさく、いや、つい興奮のあまり口汚くなりまして恥づかしうございますが、一事が万事、相州さまとのお仲も、俗世間の取沙汰のやうに、へんな重苦しい険悪なところなど少しも私には見受けられませんでした。貴い、謂はば霊感に満ちた将軍家と、あのさつぱりした御気性の上に思慮分別も充分の相州さまとの間に、まさか愚かな対立など起る道理はございませぬ。それはお二人の間に時々は御意見の相違が起ることも無いわけではございませんでしたが、いづれも、これから何百年経つてまたこの国にあらはれるかどうかと思はれるくらゐのづば抜けた御手腕の人物同志の事でございますから、俗にいふ呑み込みのお早いこと、颯つと御自分を豹変なされてあつさり笑つてうなづき合ふ御様子は、傍で拝見してゐて子供心にも爽快な感じが致しました。世間の愚かな男同志のいつまでも、くどくどと言ひ争つてはては殴るの切るのとあさましく騒ぎたてる有様と較べて、まるでそれこそ雲泥の差がございました。十一月の四日に、御ところのお庭に於いて弓の大試合がございましたけれど、これは相州さまがたつた一言、お歌も結構ですが、とおつしやつたところが将軍家はすぐに、弓の試合を仰出され、相州さまはかしこまつてそのお支度におとりかかりになつたといふだけの事でしたのに、これをまた例の如く悪推量する者があつて、将軍家が相州さまからきつく諫言されてしぶしぶ弓の試合を仰出されたといふ噂が一部に行はれたやうでございました。本当に、御当人同志はなんでもないのに、はたでわいわいあらぬことを騒ぎ立てるので、つい妙な結果になつてしまふ事がこの世にはままあるものでございます。弓の試合は将軍家も心から楽しさうに御覧になつて居られました。その翌る日、相州さまは御奥へおいでなされて、将軍家に昨日の御礼を申し上げ、いかがでございました、と少し笑ひながらお伺ひ申し上げたところが、
弓ノ勝負モ結構デスガ
 と将軍家もお笑ひになりながら昨日の相州さまの一言をそつくり真似ておつしやつて、それから、故右大将家の御帰依浅からざりし相模国の大日堂がひどく荒れはててゐるやうですから即刻修理させるやうお取計ひ下さい、とちよつと方面のちがつた事を優しい口調で仰出されました。武道も大事だが敬神崇仏の念もなほざりにせぬやうとの、いましめのお心からおつしやつたのかも知れません。相模守さまは、あはははと愉快さうにお笑ひになり、おそれいりました、と言つて退出なさいましたが、下々の言葉でいへば、あざやかに一本やられた、といふところでもございませうか。ご自身その国の国司たる相模国の事だけに、相州さまも、ひとしほ恐れいつたことでございませう。お二人の応酬は、いつもこのやうに軽く、水際立つて罪が無く、巷間に言ひ伝へられてゐるやうな陰鬱な反目など私たちにはさつぱり見受けられませんでした。翌々日の七日には、御ところに於いて御酒宴がございました。将軍家は、賑やかな事がお好きでございましたから、何かにつけて宴をおひらきなされて、皆の遊びたはむれる様をしんから楽しさうに、にこにこ笑つて眺めて居られます。その日は、四日の弓の試合で負けたはうの人たちが、勝つた人たちにごちそうするといふ事になつてゐて、将軍家もそれは面白からうと御自身も皆に御酒肴をたまはり宴をいよいよさかんになさいましたので、その夜の御宴は笑ふもの、舞ふもの、ののしるもの、或いはまた、わけもなく酔ひ泣きするもの、たはむれの格闘をするもの、いつものお歌や管絃の御宴とは違つて活気横溢して、将軍家には、このやうな狼藉の宴もまた珍らしく、風変りの興をお覚えになるらしく、常に無くお酒をすごされ、かたはらの相州さま広元入道さまを相手に軽い御冗談なども仰せられてたいへん御機嫌の御様子でございました。
「それにつけても、」とあまりお酒のお好きでない広元入道さまは、きよろりとあたりを見廻し、「弓の勝負のあとの御酒宴とはいへ、少し狼藉がすぎますな。」と品よく苦笑しながらおつしやいました。
「これくらゐでいいのです。」と相州さまは、大きくあぐらをかいて盃をふくみながら一座の喧騒のさまを心地よげに眺めて居られました。「これでいいのです。」
「どうも私は宴会は苦手で、」と入道さまはちらと将軍家のはうを見て、「武芸のあとの酒盛りならまあ意味もあつて、我慢も出来るといふものでございますが、なんともつかぬ奇妙な御酒宴もこのごろは、たくさんあつて。」と老いの愚痴みたいな調子で眉をひそめておつしやるのでした。けれども将軍家は、何もお気づかぬ御様子で、ただにこにこ笑つておいででした。
「しかし、」と相州さまはひとりごとのやうに、ぼんやりおつしやいました。「婦女子を相手の酒もまた、やめられぬものです。」
「さうでせうか、」と入道さまは頬にかすかな笑ひを浮べて一膝のり出しました。いつもそのお言葉に裏のある入道さまのことでございますから、その時にもいつたいどんな事をおつしやりたい御本心だつたのか、私には見当もつきませんでした。「あなたも、ひどく御風流になられましたな。酒は士気を旺盛にするためのものとばかり、私は聞いて居りましたが、いろいろとまたその他にも、酒の功徳があるものらしい。」
 その時、将軍家は静かに独り言のやうにおつしやいました。
酒ハ酔フタメノモノデス。ホカニ功徳ハアリマセヌ。
 さうして、よろよろとお立ちになつて奥へお引上げになられ、相州さまと入道さまとは、互ひにちらりと、けれども鋭く眼くばせをなさいました。それだけの事が、後になつてひどく大袈裟に喧伝されて、なんでも将軍家は相州さまと入道さまに、風流を捨て武芸にお心を用ゐられるやう、こんこんといさめられたさうだ等といふ噂のもとになつてしまつたのでございます。入道さまはともかく、相州さまは将軍家のすぐれたお生れつきを、誰よりもよくご存じの筈で、将軍家がわづか十二歳のお若さを以て関東の長者となられ征夷大将軍の宣旨を賜り、翌年すでに御みづから地頭職の訴へを聞き、それはもちろん相州さまや入道さまがお傍に仕へて御助言なさつたからでもございませうが、後年にいたつても、お心をまづもつて人民の訴訟に用ゐられ、奉行を督して裁判の留滞を避けしめ、また奉行たちをおのおのその領国に派遣して所在に人民の訴訟を聴き出訴の煩を無からしめようと計り、さらに将軍家への直訴をもこのお方の御時にはじめてお許しに相成り、いちいちその訴へをあざやかにお裁きになつたといふほどの天稟の御英才を相州さまともあらうお方がわからぬなどといふ事はございませぬ。こんこんと諫言、などといふ噂を当の相州さまがお耳にしたら、驚き苦笑ひなさる事でせう。将軍家の天衣無縫に近い御人柄に対しては、あれほどの相州さまも何とも申し上げる余地がなかつたのではなからうかと私には思はれるのでございます。こんこんと諷諫どころか、その大宴会から七日すぎて、十一月の十四日に、こんどはあべこべに相州さまが将軍家にそれこそ本当にこんこんと教へさとされたのでございますから、妙なものでございました。五十に近い分別盛りの相州さまが、まだ十八歳の将軍家に、おだやかにさとされて一言も無いといふ図はなんともうれしく有難く、いま思つてもこの胸がせいせい致します。それも決して将軍家が相州さまに対して御自身の怨をはらさうなどといふ浅墓なお心からではなく、ただ正しい道理を凜然と御申渡しになつただけの事で、その事に就いては、前にも幾度となく繰返して申し上げましたが、将軍家の御胸中はいつも初夏の青空の如く爽やかに晴れ渡り、人を憎むとか怨むとか、怒るとかいふ事はどんなものだか、全くご存じないやうな御様子で、右は右、左は左と、無理なくお裁きになり、なんのこだはる所もなく皆を愛しなされて、しかも深く執着するといふわけでもなく水の流れるやうにさらさらと自然に御挙止なさつて居られたのでございますから、その日、相州さまに仰せられたことも、ほかの意味など少しもなく、ただ、あの御霊感のままにきつぱりおつしやつただけのことと私は固く信じて居ります。
 相州さまがその年来の郎従の中で、特に功労のあつたものをこんど侍に取り立てたい、それに就いておゆるしを得たく参上いたしましたと気軽に将軍家へ申し上げたところが、将軍家はにつこりお笑ひになつて、
考ヘテミマシタカ
「え、何事でございませう。」と相州さまは、きよとんとして居られました。
ダメデス
「はあ?」と相州さまはただ目を丸くして居られました。なんでもないお願ひとばかりお思ひになつてゐたのでございませう。
子孫ガソノ上ノ慾ヲオコシマス
 凜乎たる御口調でございました。相州さまも思はずはつとお手をおつきになりました。将軍家はさらにお言葉を続けられ、郎従をその功に依り侍に取り立ててやるならば、その者一代のうちは主の恩に感奮しさらに忠勤をはげむといふ事にもなるでせうが、その子その孫の代にいたり、昔、郎従なりしを特に異常の恩典に依りどうやら侍に取り立てられたのだといふ大切の事情も忘れ、更にその上の御家人になり御ところへも上つてみたい、まつりごとにもあづかつてみたい等と、とんでもない慾を起すものですから、それは必ずそのやうな野心を起すやうになるものですから、幕政の混乱の基にもなりかねない事ですから、とそれこそ、こんこんと相州さまにおさとしなされたのでございます。
コレカラモアル事デス。永久ニ、コレハ、許サヌコトニイタシマス。
 お声もさはやかに御申渡しになり、少し間を置いて、お胸に何か浮んだらしく、うつむいてくすくすとお笑ひになり、
管絃ノハウガイイヤウデス
 とおつしやいました。相州さまもほつとしたやうに、あたりを見廻しながら声高くお笑ひになつて、
「弓馬の薦めがたたりましたかな。」とおつしやつたのに、間髪をいれず、
ソレモアリマス
 あざやかなものでございました。もちろんそれは冗談で、先日ちよつと相州さまや入道さまから遠まはしに何か言はれたからといつて、それを根にもつてこんな機会に強く返報なさるなどの下司らしい魂胆はみぢんも無く、また、無いからこそ、あんなに平然と、それもありますなどと笑つておつしやる事も出来るわけで、もしわづかでもお心にわだかまつてゐるものがあつたとしたら、とてもあんなにあつさりお答へ出来るものではございませぬ。相州さまも流石にそこは見抜いておいでの御様子で、将軍家のその御返事をうけたまはつてかへつて大いに御安心の面持ちになられ、お傍にはべつてゐる私たちに向つて、
「お互ひに仕合せなことです。」とまんざらお世辞でもないやうな、低いしんみりした口調でおつしやいました。
 そのやうな事がございましてから、将軍家はいよいよ御闊達に、謂はば御自身の霊感にしたがひ、のびのびと諸事を決裁なされ、相州さまにも広元さまにも、また尼御台さまにも、以前のやうに何かと御相談なさるといふ事も無くなり、いよいよ独自の御仁政をおはじめになつたやうに私たちには見受けられました。例の和田左衛門尉さまの国司所望の件も、その後、左衛門尉さまがこんどは堂々と陳情書を奉り、重ねて国司懇望の事、和田家の治承以来の数々の勲功をみづから列挙なされて、後生の念頭ただこの国司の一事のみ云々とその書面にしたためられてゐましたさうでございまして、将軍家はその綿々たる陳情書をつくづくと御覧になり、前にその事に就いては尼御台さまから故右大将家の御先例などを承つて居られたにもかかはらず、和田左衛門尉さまをお召しになり、
ヨロシクトリハカラヒマス。シバラク待ツガヨイ。
 と事も無げにおつしやいました。左衛門尉義盛さまは老いの眼に涙を浮べておよろこびになつて居られましたが、私はそのとしの五月なかば、あのお天気のよい日に、のどかに御物語をなされてゐた御母子の美しく尊い御有様を忘れてはゐませんでしたので、子供心にもちよつとはらはら致しました。けれども、そのやうな事こそ凡慮の及ぶところではないので、あのお方の天与の霊感によつて発する御言動すべて一つも間違ひ無しと、あのお方に比すれば盲亀にひとしい私たちは、ただただ深く信仰してゐるより他はございませんでした。

承元四年庚午。五月小。六日、癸巳、将軍家、広元朝臣の家に渡御、相州、武州等参らる、和歌以下の御興宴に及ぶと云々、亭主三代集を以て贈物と為すと云々。廿一日、戊申、将軍家、三浦三崎に渡御、船中に於て管絃等有り、毎事興を催す、又小笠懸を覧る、常盛、胤長、幸氏以下其射手たりと云々。廿五日、壬子、陸奥国平泉保の伽藍等興隆の事、故右幕下の御時、本願基衡等の例に任せて、沙汰致す可きの旨、御置文を残さるるの処、寺塔年を追ひて破壊し、供物燈明以下の事、已に断絶するの由、寺僧各愁へ申す、仍つて広元奉行として、故の如く懈緩の儀有る可からざるの趣、今日寺領の地頭の中に仰せらると云々。
同年。十月小。十五日、庚午、聖徳太子の十七箇条の憲法、並びに守屋逆臣の跡の収公の田の員数在所、及び天王寺法隆寺に納め置かるる所の重宝等の記、将軍家日来御尋ね有り、広元朝臣相触れて之を尋ね、今日進覧すと云々。
同年。十一月大。廿二日、丙午、御持仏堂に於て、聖徳太子の御影を供養せらる、真智房法橋隆宣導師たり、此事日来の御願と云々。
 あくる承元四年には、ただいま私の記憶に残つてゐる事もあまりございませんが、将軍家の御日常はいよいよのどかに、昨年より更におからだも御丈夫になられた御様子で、御多病のお方でございましたが、このとしには、いちどもおひき籠りになつた事が無かつたやうに覚えて居ります。例の和歌、管絃などの御宴会は、誰に遠慮もなさらずたびたび仰出されて、いまではもう将軍家も、すつかりおとなになつておしまひの事でございますから、入道さまも相州さまも、やや安心なさつた御様子でかれこれこまかい取越苦労の御助言をなさる事も少くなり、御自分たちのはうから将軍家をお遊びにお誘ひ申し上げる事さへあるやうになりました。まことに御高徳の感化の力は美事なものでございます。幕府は安泰、国は平和、時たま将軍家は、どこかの社寺が荒廃してゐるといふ訴へなどをお聞きになると、すぐさまその社寺に就いての故実をお調べになり興隆せしむべきすぢのものならば、相州さまを召して御ていねいなお言ひつけをなさつて、敬神崇仏の念のあまりお篤いお方とは申されませぬ相州さまがその度毎に閉口なさる御様子が御ところの軽い笑ひ話の種になるくらゐの、いかにも無事なその日その日が続いてゐました。この右大臣さまの御時は、源家存亡の重大時期で、はじめから終りまでただもう、反目嫉視陰謀の坩堝だつたなどと例の物知り顔が後にいたつて人に語つてゐたのを耳にした事もございますが、それは実際にその奥深く住んでみなければわからぬ事で、このとしなどは、お奥のお庭の八重桜まで例年になく重く美しく咲いて高く匂ひ、御ところにはなごやかな笑声が絶えま無く起り、御代万歳の仕合せにみんなうつとり浸つてゐました。このとしにはまた将軍家は、ずいぶんと御学問にいそしまれ、御政務のわづかな余暇にもあれこれと御書見なされて居られました。
厩戸ノ皇子ノコトヲモツト知リタイ
 と口癖のやうにおつしやつて、聖徳太子の御治蹟に就いて記されてある古文籍を、広元入道さまや、問註所の善信入道さまにもお手伝ひさせて、数知れずどつさりお集めになり、異常の御緊張を以てお調べなされて居られたのも、その頃のことでございました。
古今無双、マコトニ御神仏ノ御化身デス。
 と嗄れたやうなお声でおつしやつて深い溜息をお吐きになるばかりで全く御放心の御様子に見受けられた日もございました。
海ノカナタノ諸々ノ国ノ者ドモニモ知ラセテヤリタイ
 ともおつしやつて居られました。そのかみの、真に尊い厩戸の皇子さまの事など、その御名を称し奉るさへ私どもの全身がゆゑ知らず畏れをののく有様で、その御治蹟の高さのほどは推量も何も出来るものではございませぬが、たとへば、皇子さまの御慈悲の深さ、御霊感に満ちた御言動、ねんごろな崇仏の御心など、故右大臣さまにとつては、何かと有難い御教訓になつたところも多かつたのではなからうかと、わづかに、浅墓な凡慮をめぐらしてみるばかりの事でございます。厩戸の皇子さまは、まことに御神仏の御化身であらせられたさうでございますが、故右大臣さまにも、どこかこの世の人でないやうな不思議なところがたくさんございまして、その前年の七月にも将軍家は住吉神杜に二十首の御歌を奉納いたしましたが、それは或る夜のお夢のお告げに従つてさうなされたのださうで、また承元四年の十一月二十四日の事でございましたが、駿河国建福寺の鎮守馬鳴大明神の別当神主等から御注進がございまして、酉歳に合戦有るべし、といふ御神託が廿一日の卯の剋にあつたといふ事だつたので、相州さまも入道さまも捨て置けず、その神託に間違ひないかどうか、あらためて御占ひでも立てたら如何でせうと将軍家にお伺ひ申したところが、将軍家は淋しげにお笑ひになり、
廿一日ノアカツキ、同ジ夢ヲ見マシタ。アラタメテ占フニハ及ビマセン。
 と落ちついてお答へなさいましたので、皆も思はず顔を見合せました。果して、三年後の建保元年癸酉のとしに、例の和田合戦が鎌倉に起り御ところも炎上いたしましたが、このやうなお夢の不思議はその後もしばしばございまして、またお夢ばかりではなく、御酒宴最中にお傍の人の顔をごらんになつて不意にその人の運命を御予言なさる事もございました。さうしてそれが必ず美事に的中してゐるのでございますから、どうしてもあのお方は、私たちとはまるで根元から違ふお生れつきだつたのだと信じないわけには参りませぬ。人の話に依りますと、おそれおほくも厩戸の皇子さまは、神通自在にましまして、御身体より御光を発して居られましたさうで、私どもにはただ勿体なく目のつぶれる思ひでその尊さお偉さに就いてはまことに仰ぎ見る事も何も叶ひませぬが、右大臣さまほどのお人になると流石に何か一閃、おわかりになるところでもあるのでございませうか、お口を極めて皇子さまの御頭脳、御手腕、御徳の深さをほめたたへて居られました。皇子さまの御治蹟こそ日本国の政治の永久の模範、ともおつしやつて居られましたが、御自身の御政策とも思ひ合せ、将来に於いてさまざま期するところがございましたのでせうけれども、あのやうな不運な御最期、たつた二十八歳、これからといふお年でおなくなりになられたのでございますから、まことに、源家の損失と申すよりは日本国の大きな損失と申し上げて至当かとも存ぜられます。

承元五年辛未。正月大。廿七日、辛亥、霽、寅剋大地震、今朝日に光陰無し、其色赤黄なり。
同年。二月小。廿二日、乙巳、晴、将軍家鶴岳宮に御参、朝光御剣を役す、去る承元二年已来、御疱瘡の跡を憚らしめ給ふに依りて御出無し、今日始めて此儀有り。
同年。五月小。十五日、丙寅、未剋地震。十九日、庚午、小笠原御牧の牧士と、奉行人三浦平六兵衛尉義村の代官と喧嘩の事有り、今日沙汰を経らる、此の如き地下職人に対し、奉行と称して恣に張行せしむるの間、動もすれば、喧嘩に及ぶ、偏に公平を忘るるの致す所なり、早く義村の奉行を改む可きの由仰出され、佐原太郎兵衛尉に付せらると云々。
同年。六月小。二日、壬午、陰、申剋、将軍家俄かに御不例、頗る御火急の気有り、仍つて戌剋、御所の南庭に於て、属星祭を行はる。三日、癸未、晴、寅剋御不例御減、御夢想の告厳重と云々。七日、丁亥、越後国三味庄の領家雑掌、訴訟に依つて参向し、大倉辺の民屋に寄宿せしむるの処、今暁盗人の為に殺害せらる、曙の後、左衛門尉義盛之を尋ね沙汰し、敵人と称して、件の庄の地頭代を召し取る、仍つて其親類等、縁者の女房に属し、内々尼御台所の御方に訴申す、而るに義盛の沙汰相違せざるの由、之を仰出さる、申次駿河局突鼻に及ぶと云々。
同年。七月大。三日、壬子、晴、酉剋大地贋、牛馬騒ぎ驚く。
同年。八月大。十五日、甲午、晴、鶴岳宮放生会、将軍家聊か御不例に依りて御出無し。廿七日、丙午、晴、将軍家御不例の後、始めて鶴岳八幡宮に詣で給ふ。
同年。九月小。十五日、甲子、晴、金吾将軍の若君、定暁僧都の室に於て落餝し給ふ、法名公暁。廿二日、辛未、霽、禅師公登壇受戒の為に、定暁僧都を相伴ひて上洛せしめ給ふ、将軍家より、扈従の侍五人を差遣はさる、是御猶子たるに依りてなり。
 将軍家が二十歳におなりになつた承元五年は、三月九日から建暦元年と改元になりましたが、このとしは、しばしば大地震があつたり、ちかくに火事が起つたり、夏には永いこと雨が続いて洪水になつたり、また将軍家の御健康もすぐれ給はずとかくおひき籠りがちだつたものでございますから、それやこれやで、お奥におつとめの人たちも一様に浮かぬ顔をしてゐて笑声もあまり起らず、なんだか不吉な、いやな年でございました。
 もつとも、おひき籠りがちとは言つても、御気分のおよろしい時には、例の御酒宴に興じなされ、お歌のはうも相変らず、湧いて出る泉のやうに絶える事なくお美事にお出来になつて、また、あれは四月の末の事でございましたでせうか、皆をお連れになつて永福寺へおいでになり、お寺の林の中に永いこと童の如く無心に佇みなされて郭公の初声を今か今かとお待ちになつてゐたり等した事もございました。その時には、数剋もお待ちになつたのに、つひに郭公の一声も聞かれず、むなしくお帰りになられまして、まあその事くらゐが、わづかにお奥の笑ひ話の種になつたやうなもので、他にはこのとしには楽しい思ひ出もあんまりございませんでした。将軍家の御政務の御決裁も、このとしあたりから、いよいよ凜然と、いや、峻厳と申してもよろしいかと思はれるほど不思議に冴えてまゐりまして、それにつけても、その前年のやうな長閑な気色が次第に御ところから消えて行くやうな心もとなさを覚えるのでございました。五月なかばの事でございましたが、小笠原御牧の牧士と、奉行人三浦平六兵衛尉さまのお代官との私闘がございました時に、それはなんと言つても三浦さまはあのやうな御大身ではあり、そのお代官に対して、たかが牧士などの地下職人の分際で手向ひするとはもつての他、ばかな事をしたものだと誰もみな呆れて居りましたが、将軍家はそれに対してまことに霹靂の如き、意想外の御裁決を仰出されたのでございます。
三浦ガワルイ。牧士ナドニ反抗サレルヤウデハ奉行ノ威徳ガナイノデス。奉行ヲヤメサセナサイ。
 例の平然たる御態度で、さりげなくおつしやるのでした。その時は、末座に控へてゐる私まで、ひやりと致しました。真に思ひ切つたる豪胆無比の御裁決、三浦さまほどの御大身も何もかも、いつさい、御眼中に無く、謂はば天理の指示のままに、さらりと御申渡しなさる御有様は、毎度の事とは申しながら、ただもう瞠若、感嘆のほかございませんでした。なるほど、そのお代官が牧士などの地下職人を相手に喧嘩をはじめるとは奉行としても気のきかない話で、将軍家からさうおつしやられてみると、いかにも、もつとも、理の当然の御裁決には違ひございませぬが、でもまた、私たち凡俗のものにとつては、いやしくも三浦平六兵衛尉義村さまともあらうお人を、このやうに無造作に、しかもやや苛酷と思はれるほどに御処置なされては、あとでどんな事になるだらうかとそれが心がかりでないこともございませんでした。さらにまた、六月のはじめ、和田左衛門尉さまが三味庄の地頭代を捕縛なされ、それに就いて少しややこしい事が起りました。越後国三味庄の領家の雑掌が盗賊の為に殺害せられ、その盗賊は逐電して何者とも判明しなかつたので、左衛門尉さまは、とにかくその庄の地頭代を召取らせ詮議を加える事に相成つたところが、その地頭代の親戚の者たちが不服を称へ、内々手をまはして尼御台さまに訴へ申し上げたので妙に気まづい事になつてしまひました。その頃、将軍家は御病後の、まだお床につかれて居られましたが、たとひ御病床にあつても、まつりごとを怠るやうな事の決して無いお方でございましたので、その日もおやすみのままで相州さまから、諸国の訴訟の事など、さまざま御聴取になつて居られましたが、そのところへ、おつきの女房の駿河の局さまが口を引きしめてそろそろと進み出て、改めて一礼の後、
「申し上げます。罪無き者が召取られて居りまする。越後国は三味庄の、――」と言びかけたら、相州さまは、ちえと小さい舌打ちをなさつて、
「なんだ、それか。あれは、もう、すみました。左衛門尉どのの処置至当なりとの将軍家の仰せがございました。あなたはまた、なんだつて、あんな事件に。」とおつしやつて、少し不機嫌になられた御様子でお眉をひそめ、お口をちよつと尖らせました。
「尼御台さまのお口添もございまする。」と駿河の局さまは、負けずに声をふるはせて申し上げました。つねから、お気性の勝つたお局さまでございました。「いまいちどお取調のほど、ひとへにお願ひ申し上げまする。このたびの和田左衛門尉さまの御処置は、まつたくもつて道理にはづれ、無実の罪に泣く地頭代をはじめその親類縁者一同の身の上、見るに忍びざるものございまするに依つて、尼御台さまにもいたく御懸念の御様子にございまする。」
 尼御台さま、と聞いて相州さまは幽かにお笑ひになられました。さうして、ふいと何か考へ直したやうな御様子で、御病床の将軍家のお顔をちらりとお伺ひなさつた間一髪をいれず、
事ノ正邪デハナイ
 お眼を軽くつぶつたままで、お口早におつしやいました。
 さすがの相州さまも虚をつかれたやうに、ただお眼を丸くして将軍家のお顔を見つめて居られました。
和田ノ詮議モ終ラヌサキカラ、ソノヤウニ騒ギタテテハ、モノノ順序ガドウナリマス。ツマラヌ取次ハスルモノデナイ。
 駿河の局さまは、一瞬醜い泣顔になり、それから胸に片手をあて、突き刺された人のやうに悶えながら平伏いたしました。決してお怒りの御口調ではなかつたのですが、けれどもその澱みなくさらりとおつしやるお言葉の底には、御母君の尼御台さまをも恐れぬ、この世ならぬ冷厳な孤独の御決意が湛へられてゐるやうな気が致しまして、幼心の私まで等しく戦慄を覚えました。幼心とは言つても、もう私もその頃は十五歳になつてゐまして、あのお方のお歌のお相手くらゐは勤まるやうになつてゐましたが、それにしてもあのお方の、よろづに大人びたお心持に較べると、実にその間に天地の差がございまして、あのお方はこの建暦元年にはまだ二十歳におなりになつたばかりでございましたのに、このとしの七月、関東一帯大洪水の折、既にあの御立派な、
時ニヨリ過グレバ民ノ歎キナリ八大竜王雨止メ給ヘ
 といふ和歌などもお作りになられ、名実ともに関東の大長者たる堂々の御貫禄をお示しになつて居られたのでございます。まことに、お生れつきとは申しながら、何事によらず、どこまで高く美事にお出来になるお方であつたか、私たち凡俗の者には、まるで推量も及びませぬ。
 お歌の事などは、またのちほどお話申し上げることと致しまして、さて、もうそろそろ、あの、若い禅師さまに就いてお話する事にいたしませう。誰しもご存じの事に違ひございませぬが、故右大将さまには、お二人の男のお子さまがございまして、お兄君は頼家公すなはち後の二品禅室さま、お弟君は千幡君すなはち後の右大臣さま、この他にも御同胞がございましたやうですが、皆お早くおなくなりになられ、故右大将さまが正治元年正月十三日、御年五十三を以て御他界なされた後は、源家嫡々のお兄君、当時十八歳の頼家公が御父君の御遺跡をお襲ぎになられましたが、このお方に就いては私などは、殆ど何も存じませぬ。御病身で、癇癖がお強く、御鞠の御名人で、しかも世に例のなかつたほどの美貌でいらつしやつたとか、そんな事くらゐを人から聞かされてゐる程度でございますが、いづれは非凡の御手腕もおありになつたお方に違ひございません。けれどもその頃は御時勢が悪かつたとでも申しませうか、鎌倉にも、また地方にも反徒が続出して諸事このお方の意のままにならず、また、例の御癇癖から、いくぶん御思慮の浅い御行状にも及んだ御様子で、御身内からの非難もあり、天もこのお方をお見捨てになつたか、御病気も次第に重くおなりになつて、建仁三年の八月つひに御危篤に陥り、ここに二代将軍頼家公も御決意なされ、御家督をその御長子一幡さまと定め、これに総守護職及び関東二十八ヶ国の地頭職をお譲りになり、また頼家公のお弟君の千幡さまには関西三十八ヶ国の地頭職をお譲りになられたのですが、これが、ごたごたの原因になりまして、たちまち一幡さまの外祖にあたる比企氏と千幡さまの外祖の北条氏との間に争端が生じ、比企氏は全滅、そのとき一幡さまもわづか御六歳で殺されました。御病床の左金吾将軍頼家公はそれをお聞きになつてお怒りになり、ただちに北条氏の討伐を和田氏、仁田氏などに書面を以てお言ひつけなさつたけれども、それも北条氏の逸早く知るところとなり、かへつて頼家公の御身辺さへ危くなつてまゐりましたので御母君の尼御台さまは、頼家公の御身に危害の及ばぬやう無理矢理出家せしめ、一方お弟君の千幡さまの将軍職たるべき宣旨を乞ひ、頼家公はその御病状のやや快方に向はれしと同時に伊豆国修善寺に下向なされ、さしもの大騒動も尼御台さまのお働きにてまづは一段落となつたとか、人から聞いた事がございます。左金吾禅室さまは、修善寺に於いて鬱々の日々をお送りになり、つひに翌年の元久元年七月十八日に御年二十三歳でおなくなりになられました。おなくなりになつた事に就いて、これも北条氏の手に依つて殺害せられたのだといふ不気味な噂が立つたさうでございますが、それは私がやつと七つか八つになつたばかりの頃の事でございますし、またそのやうな事に就いての穿鑿は気の重いことで、まあ、そんな事はございますまいと私は打ち消したい気持でございます。さてその二代将軍頼家公すなはち後に出家して二品禅室さまには、一幡、善哉、千寿などのお子がございましたが、御長子の一幡さまは、例の比企氏の乱の折に比企氏の御一族と共に北条氏に殺され、御三男の千寿さまも、のちに信濃国の住人泉小次郎親平などの叛謀に巻き込まれ、まもなく出家し栄実と号して京都に居られましたが、またもや謀反の噂を立てられ、京の御宿舎に於いて自殺をなさいまして、御次男の善哉さまはそのやうな御難儀にも遭はず、すくすく御成長なさつてゐたといふわけになるのでございますが、この善哉さまは、元久二年十二月、六歳の暮に、御祖母の尼御台さまの御指図に依り鶴岳八幡宮寺別当尊暁さまの御門弟として僧院におはひりになり、翌る建永元年に、やはり尼御台さまのお計ひに依り、将軍家の御猶子にならせられたのださうでございます。さうして、この建暦元年には、やうやく十二歳になられ、その時の別当定暁僧都さまの御室に於いて落飾なされて、その法名を公暁と定められたのでございます。それは九月の十五日の事でございましたが、御落飾がおすみになつてから尼御台さまに連れられて将軍家へ御挨拶に見えられ、私はその時始めてこの若い禅師さまにお目にかかつたといふわけでございましたが、一口に申せば、たいへん愛嬌のいいお方でございました。幼い頃から世の辛酸を嘗めて来た人に特有の、磊落のやうに見えながらも、その笑顔には、どこか卑屈な気弱い影のある、あの、はにかむやうな笑顔でもつて、お傍の私たちにまでいちいち叮嚀にお辞儀をお返しなさるのでした。無理に明るく、無邪気に振舞はうと努めてゐるやうなところが、そのたつた十二歳のお子の御態度の中にちらりと見えて、私は、おいたはしく思ひ、また暗い気持にもなりました。けれども流石に源家の御直系たる優れたお血筋は争はれず、おからだも大きくたくましく、お顔は、将軍家の重厚なお顔だちに較べると少し華奢に過ぎてたよりない感じも致しましたが、やつぱり貴公子らしいなつかしい品位がございました。
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