不尽の高根
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著者名:小島烏水 

    一 江戸と東京の富士

 帰朝したのは、本年三月であった。横浜の波止場で、家族と友人の出迎えを受け、久しぶりで逢いたい顔に逢ったが、ただ一つ逢えない顔があった。それから暫らくのこと、私の勤務先は、日本橋の三越デパートメントの裏で、日本銀行と向いあったところだが、その建物の中で私たちが占めている室(へや)からは、太田道灌以来の名城を、松の緑の間に、仰ぎ見られるので、はじめて松樹国の日本に落ちついた気がした。ある日「富士が見えますよ」と、隣の机から呼びかけられて、西日さす銀覆輪(ぎんぷくりん)の雲間から、この山を見た、それが今まで、雨や、どんよりした花曇りに妨げられて、逢いたくて逢えない顔であった。私は躍り上るように喜んだ、ほんとうに、久しく尋ねあぐんでいたのだ。雲隠れする最後の一角まで、追い詰めるように視線を投げた。
 ここで、私が思い浮べたのは、北米ポートランド市の、シチイ・パークから遠望した、フッド火山の、においこぼるる白無垢(しろむく)小袖(こそで)の、ろうたけた姿であった。十幾階の角形の建築物や、工場の煙突の上に、白蝶の翼をひろげたように、雪の粉(こ)を吹いて、遠くはこんもりと黒く茂った森、柔かい緑の絨氈(じゅうたん)を畝(う)ねらせる水成岩の丘陵、幾筋かの厚襟(あつえり)をかき合せたカスケード高原の上に、裳裾(もすそ)を引くこと長く、神々しくそそり立つ姿であった。そして直ぐ連想したことは、ポートランド市民の、フッド火山におけるよりも、または、タコマ市や、シャトル市[#「シャトル市」はママ]の人々が、日本人によってタコマ富士と呼ばれているところの、レイニーア大火山を崇拝しているよりも、この東京が、かつて江戸と呼ばれたころには富士山が「自分たちの山」として崇(あが)められていたことであった。少くとも、今のように忘れられていなかったことだ。太田道灌の「富士の高根を軒端にぞ見る」という歌は、余りに言い古されているとしても、江戸から富士を切り捨てた絵本や、錦絵(にしきえ)や、名所図会(ずえ)が、いまだかつて存在したであろうか。
 私のいる室は、一石(いっこく)橋を眼下に瞰下(みおろ)しているが、江戸時代に、その一石橋の上に立って見廻すと、南から北へ架け渡す長さ二十八間の、欄干(らんかん)擬宝珠(ぎぼうしゅ)の日本橋、本丸の大手から、本町への出口を控えた門があって、東詰(ひがしづめ)に高札を立ててあった常磐(ときわ)橋、河岸から大名屋敷へつづいて、火の見やぐらの高く建っていた呉服橋、そこから鍛冶(かじ)橋、江戸橋と見わたして、はては細川侯邸の通りから、常磐橋の方へと渡る道三(どうさん)橋、も一つ先の銭瓶(ぜにかめ)橋までも、一と目に綜合して見るところから、八つ見橋の名があったそうだが、その屈折した河岸景色を整調するように、遥か西に、目の覚めるような白玉の高御座(たかみくら)をすえたのが、富士山であったことは、初代一立斎広重(いちりゅうさいひろしげ)の『絵本江戸土産』初篇開巻に掲出せられて、大江戸の代表的風光として、知られていたのであった。私が二、三日前、ふと夜店で手に入れた天保七年の御江戸分間地図を見ると、道三橋から竜(たつ)の口(くち)、八代洲河岸にかけて、諸大名や、林大学頭(だいがくのかみ)の御上屋敷、定火消(じょうびけし)屋敷などが立並んでいる。そのころは既に広重の出世作、『東海道五十三次』(保永堂板)は完成され、葛飾北斎(かつしかほくさい)の『富嶽三十六景』が、絵草紙屋の店頭に人目を驚かしていたのであるが、その地図にある定火消屋敷で、広重が生れ、西の丸のお膝下(ひざもと)で、名城と名山の感化を受けていたのだと思うと、晩年に富士三十六景の集作があったのも、偶然でない。
 ついでに駿河町の越後屋(そのころの三井呉服店、今の三越)をいおう。大通りをはさんだ両側の屋根看板に、「呉服物類品々、現金掛値なし」と、筆太にしたためた下から、または井げたの中に、「三」と染め抜いた暖簾(のれん)の間から、出入絡繹(らくえき)する群集を見おろして、遥に高く雲の上に、睛を点じたものが富士山であったことは、喜多川歌麿の「霜月見世開(みせびらき)之図」や、長谷川雪旦の『江戸名所図会』一の巻、その他同様の構図の無数の錦絵におもかげを残している。殊に北斎の『富嶽百景』三巻、『富嶽三十六景』四十六枚が、いかに江戸と、その市民の生活と、富士山とを結びつけているか、いかに世界的版画の名作として、日本をフジヤマの国として、高名ならしめたかは今更説くまでもなかろう。
 市民の生活といっても、当時交通不便にして、富士登山が容易でなかったために、旧暦の六月朔日(ついたち)には、市中と郊外にある富士山の形に擬(なぞら)えた小富士や、富士権現を勧請(かんじょう)した小社に、市民が陸続参詣した。駒込の富士から神田明神、深川八幡の境内、鉄砲洲(てっぽうず)の稲荷、目黒行人坂(ぎょうにんざか)などが、その主なる場所であった、がそれも、今ではお伽噺(とぎばなし)になってしまった。碁盤の目ほどに窓の多いデパートメント、タンクを伏せたように重っ苦しい大屋根、長方形の箱を、手品師の手際で累積したようなアメリカ式鉄筋コンクリートの高層築造物は、垂直の圧力を通行人の頭上に加えて虚空の「通せん坊」をしあっている。人の眼も昇降機の如く、鋭角を追うて一気に上下すれば、建物と建物との間にはさまって、帯のように狭くなった天空は、ニューヨークの株屋が活動するウォール・ストリートあたりを見るような天空深淵を、下から上へとのぞかせている。建物が高くなるほど、富士が見えなくなり、交通が便利で、東京富士間の距離が短縮されるほど、市民の心から富士は切り取られて、さらしッ放しの無縁塔となってしまった。もはや都市経営論者からも、富士山の眺めを取り入れることによって、日本国の首府としての都会美を、高調する計画も聞かされなくなった。ゼネヴァには、アルプスの第一高峰、モン・ブランを遥望(ようぼう)するところから、モン・ブラン通りの町名ありと聞くものから、今日の東京では駒込の富士前町だの、麹町の富士見町だのという名を保存することによって、富士山が市民の胸に蘇生しては来ないようだ。
 さもあらばあれ、この山の強さは、依然我胸を圧す。この山の美しさは、恍焉(こうえん)として私を蠱惑(こわく)する。何世紀も前の過去から刻みつけられた印象は、都会という大なる集団の上にも、不可拭(ふかしょく)の焼印を押していなければならないはずだ。東京市の大きい美しさは、フッド火山を有するポートランド市の如く、レイニーア火山を高聳(こうしょう)させるシアトル市の如く、富士山を西の半空に、君臨させるところに存すると考えられる。帰朝以来の第一登山に、いずれの山谷を差しおいても、富士山へ順礼する心持になれたのも、「私たちの山」への親しみの伝統があったからである。

    二 裾野の水車

 本年の富士登山二回の中、第一回は大宮口から頂上をかけて、途中で泊らず、須走(すばしり)口に下山、第二回は吉田口から五合目まで馬で行き、そこの室(むろ)に一泊、御中道を北から南へと逆廻(ぎゃくまわ)りして、御殿場に下りた。大宮口の時は、友人画家茨木猪之吉君と、長男隼太郎を伴った。茨木君は途々(みちみち)腰に挟んだ矢立(やたて)から毛筆を取り出して、スケッチ画帖に水墨の写生をされた。隼太郎は、近く南アルプスに登る計画があるので、足慣らしに連れたのであった。吉田口の時は、私一人であった。馬上悠々(ゆうゆう)、大裾野を横切ったのは、前の大宮口が徒歩(但し長坂までは自動車を借りた)であったから、変化を欲するために外ならなかった。馬上を住家とした古人の旅を思いながらも、樹下石上に眠らずに、木口新しく、畳障子(たたみしょうじ)の備わった室(むろ)とはいえない屋根の下に、楽々と足を延ばし、椎の葉に盛った飯でなく、御膳つきで食事の出来る贅沢を、山中の気分にそぐわぬと思いながらも、その便利を享楽した。
 始めに大宮口を選んだのには、理由があった。大宮口は、富士登山諸道の中で、海岸に近いだけに最も低い。吉田口は大月駅から緩やかな上りで、金鳥居のところが海抜約八百メートル。御殿場町も高原の端にあって、四百五十メートルの高さになっている。須山は更に登って五百八十メートル。しかるに大宮口は、品川湾から東京の上町へでも、散歩するくらいの坂上りで、海抜僅かに百二十五メートルに過ぎない。試みに富士山の断面図を一見すると、頂上久須志(くすし)神社から、吉田へ引き落す北口の線は、最も急にして短く、同じ頂上の銀明水(ぎんめいすい)から、胸突(むなつき)八丁の嶮(けん)を辷(すべ)って、御殿場町へと垂るみながら斜行する東口の線は、いくらか長く、頂上奥社から海抜一万尺の等高線までは、かなりの急角度をしているとはいえ、そこから表口、大宮町までの間、無障碍(むしょうがい)の空をなだれ落ちる線のその悠揚さ、そのスケールの大きさ、その廷(の)んびりとした屈託のない長さは、海の水平線を除けば、およそ本邦において肉眼をもって見られ得べき限りの最大の線であろう。されば駿河湾の暖流駛(は)しるところに近い浅間神社のほとり、□(かしわ)や、榊(さかき)や、藪肉桂(やぶにっけい)などの常緑濶葉樹(かつようじゅ)が繁茂する暖地から、山頂近くチズゴケやハナゴケなど、寒帯の子供なる苔(こけ)類が、こびりつく地衣(ちい)帯に至るまでの間は、登山路として最も興味あるもので、手ッ取り早くいえば、一番低いところから、日本で一番高いところへ、道中する興味である。
 一行の汽車は、箱根火山彙(かざんい)を仰ぎ見て、酒匂(さかわ)川の上流に沿い、火山灰や、砂礫(されき)の堆積する駿河小山(おやま)から、御殿場を通り越したとき、富士は、どんより曇った、重苦しい水蒸気に呑まれて、物ありげな空虚を天の一方に残しているばかり。手近の愛鷹(あしたか)山さえ、北の最高峰越前岳から、南の位牌(いはい)岳を連ぬるところの、鋸(のこぎり)の歯を立てた鋸岳や、黒岳を引っ括(くる)めて、山一杯に緑の焔(ほのお)を吐く森林が、水中の藻の揺らめくように、濃淡の藍を低い雲に織り交ぜて、遠退(とおの)くが如く近寄るが如く、浮かんでいるばかりで、輪廓も正体も握(つか)みどころがないが、裾を捌(さば)いた富士の斜線の、大地に這(は)うところ、愛鷹の麓へ落ちた線の交叉するところ、それに正面して、箱根火山の外廓が、目(め)ま苦(ぐる)しいまでの内部の小刻みを大まかに包んで、八の字状に斉整した端線を投げ掛けたところは、正に、天下の三大描線で、広々とした裾合谷(すそあいだに)の大合奏である。それらの山の裾へひろがるところの、違い棚のように段を作っている水田からは、稲の青葉を振り分けて、田から田へと落ちる水が、折からの旱天(かんてん)にも滅(め)げず、満々たる豊かさをひびかせて、富士の裾野のいかにも水々しい若さを鮮やかに印象している。私の登った北米のフッド火山は、大なる氷河が幾筋となく山頂から流れているにもかかわらず、麓の高原は乾き切って、砂埃(すなぼこり)とゴロタ石の間に栽培した柑橘(かんきつ)類の樹木が、疎(まば)らに立っているばかり。それに比べると、夏の富士は、焙烙(ほうろく)色に赭(あか)ッちゃけた焼け爛(ただ)れを剥(む)き出しにした石山であるのに、この水々しさと若さは、どうしたものであろう。殊に私を驚喜させたのは、その水田に臼(うす)づくところの、藁屋(わらや)の蔭の水車であった。
『近世画家論』第四巻で、山岳を讃美したジョン・ラスキン先生は、一方において、セント・ジョルジ・ギルドの創立者であるが、すべての工業はその動力を風と水とに借るべきであると力説せられた。彼は水力電気を予想しなかった上に、最も蒸汽の力を借ることを憎んだ。彼に取って風景は、単に眼に訴える快感、その物のために価値があったのだ。沙漠の水は画的であると共に、富の源流でもあった。美と利とは一致さすべきものであった。しかし今はどうだ。正しく風に動力を借りるオランダ低地の風車は美でもあり、経済的でもあったろうが、レムブラントの名手に油絵、またはエッチングに取り入れられたあの風車の風景も、近来は電気工業に取って代られ、引き合わないために、風車はだんだん取り毀(こぼ)たれ、オランダ風物の代表は、全く失われんとしているとも聞いた。それだのに富士の裾野の水車は、水辺に夕暮の淡い色を滲(に)じみ出した紫陽花(あじさい)の一と群れに交わって、丸裸のまま、ギイギイ声を立て、田から田へ忙(せわ)しく水を配ばり、米を研(と)ぎ、材木を挽(ひ)いたりして、精を出して働いている。この辺の人が、セント・ジョルジ・ギルドの人たちのように、糸車を挽いて、木綿を手織(たお)って衣(き)ているかどうかを知らないが、風呂の水も、雑用の水も、熔岩の下から湧(わ)く渓河(たにがわ)から汲み上げて、富士の高根の雪解の水と雨水との恩恵の下に、等分に生きていることを思うと、富士の裾野の水々しさに、一倍の意義があると思われる。しかもその水車風景は、コンスターブルの油絵で見たものとは遠く、小林清親が水彩画から新工夫をして描き上げた、富士を背景とした静岡竜宝山の水車風景の版画(明治十三年版)の方が、ぴたりと胸に来た。
 車中の一行は、明朝の登山を控えて、「この雲では山は雨かな」と心配すれば、「なあに、雲は低いですよ、すっぽり抜けると、上はカラカラの上天気ですよ」などといい合った。汽車は電燈のちらつくころ、富士駅に着いた。朝日支局の大山為嗣さんに迎えられて、大宮まで自動車を走らせた。

    三 大宮と吉田

 東から南へと、富士を四分の一ばかりめぐっても、水々しい裾野はついて廻った。大宮町への道も、玉を転がす里の小川に沿うてゆく、耳から眼から、涼しい風が吹き抜ける。その水は、御手洗(みたらし)川であった。旅館梅月へ着く。割烹(かっぽう)を兼ねた宿屋で、三層の高楼は、林泉の上に聳(そび)え、御手洗川の源、湧玉池に枕(ちん)しているから、下の座敷からは、一投足の労で、口をそそぎ手が洗える。どこかの家から、絃歌(げんか)の声が水面を渡って、宇治川のお茶屋にでも、遊んでいるような気がする。恐らく富士山麓の宿屋としては、北の精進(しょうじ)ホテル以外において、もっとも景勝の地を占めたものであろう。池は浅間(せんげん)大社のうしろの熔岩塊、神立山の麓から噴き出る水がたたえたもので、社の神橋の下をすみ切って流れる水は、夜目にも冷徹して、水底の細石までが、うろこが生えて、魚に化けそうだ。金魚藻(きんぎょも)、梅鉢藻(うめばちも)だのという水草が、女の髪の毛のようになびいている中を、子供たちが泳いでいる。明朝の登山準備を頼んで、宿の浴衣(ゆかた)を引っかけたまま、細長い町を散歩する。女学生の登山隊が、百人ほど、町の宿屋にいるのだそうで、チンチクリンの男の浴衣を、間に合せに着て、歩いているのもある。宿屋の店頭(みせさき)には、かがり火をたき、白木の金剛杖をたばに組んで、縄でくくり、往来に突きだしてある。やはり「山」で生活している町の気分がする。
 それよりも、大宮町になくてかなわぬものは浅間神社である。流鏑馬(やぶさめ)を行ったというかなりに幅のある馬場の両側に、糸垂(しだれ)桜だそうなが、桜の老樹が立ち並び、蛍の青い光りが、すいすいとやみを縫って行く間を、朱塗りの楼門に入れば、五間四方あるという向入母屋造(むこういりもやづくり)の拝殿があり、その奥には浅間造なる建築上の一つの形を作ったところの、本殿の二重楼閣が、流るる如き優美なる曲線の屋根に反(そ)りを打たせ、一天の白露を受けて冴(さ)えかえり、大野原から来る秋の冷気は、身にしむばかり、朱欄丹階(しゅらんたんかい)は、よしあったところで、おぼろげな提燈(ちょうちん)の光りで、夜目にも見えないが、一千一百年以前からあったという古神社を継承した建築の、奥底に持つ深秘の力は、いかにも富士の本宮として、人類が額(ぬか)ずくべき御堂を保ち得たことを喜ぶばかり。神さびた境内にたたずんで、夜山をかけた参詣の道者が、神前に額ずいての拍手(かしわで)を聞きながら、「日本の山には、名工の建築があるからいいなあ」と思った。まして大宮浅間の噴泉の美は、何とであろう、磨きあげた大理石の楼閣台□(ろうかくだいしゃ)も、その庭苑(ていえん)に噴泉がなかったら、頓(とみ)に寂寞(せきばく)を感ずるであろう。富士の白雪のもたらす噴泉美は、シャスタ火山あたりにないでもないが、富士の水の滾々(こんこん)として、無尽蔵なるにおよばない。シエラ・ネヴァダの連峰が概して富士山を抜くこと、二千尺の高さがあっても、カスケード火山に、氷河脈が寒剣をきらめかせていても、小社一つ建たず、石塔一つないではないか。それに反して、日本の山々は、富士、白山、立山、三禅定(ぜんじょう)の神社はいうも更なり、日本北アルプスの槍ヶ岳や常念岳の連山にしてからが、石垣を積み、櫓(やぐら)をあげ、層々たる天主閣をそびやかした松本城を前景に加うることなしに、人間味と原始味の併行した美しさを高めることは出来ない。木曾川を下って、白帝城に擬せられた犬山城があるために、日本ラインの名を、(好むにせよ、好まざるにせよ)いかに適切にひびかせるであろう。
 その名工の建築を懐かしむ想いは、再度の富士旅行に、吉田の宿に足をとめた時に、更に新しくさせられた。私が吉田へ着いた時は午(ひる)を過ぎていた。どの宿という心当りもなかったが、無作法なる宿引きが、電車の中の客席へ割り込んで、あまりにツベコベと、一つの宿屋を吹聴するので、宿引の来ない宿屋にゆくに限ると決め、電車の窓から投げ込まれた引札の中から選り取って、大外河(おおとがわ)を姓とする芙蓉閣なる宿屋へ、昼飯を食べに入った。この宿の中には建久館と称する七百三十年も前の古家が、取(とり)いれられている趣であるが、玄関には登山用の糸立(いとだて)、菅笠(すげがさ)、金剛杖など散らばっている上に、一段高く奥まったところに甲冑(かっちゅう)が飾ってあり、曾我の討入にでも用いそうな芝居の小道具然たる刺叉(さすまた)、袖がらみ、錆槍(さびやり)、そのほか種ヶ島の鉄砲など、中世紀の武器遺物が飾ってあるのを尻目にかけて、二階に上り、雲に包まれた富士と向き合って、ボソボソした冷飯を、味のない刺身で二杯かッ込み、番頭に頼んで、二階下の建久館なるものを案内してもらったが、奥庭に面した普通の客座敷で、ただ戸棚や、天井板などに色の黒ッぽくくすんだ、時代の解らぬ古木が使ってあるのと、そのころは一切鉋(かんな)を用いず、チョウナを使って削ったのだという、荒削りのあとに、古い時代のおのずからなる持味(もちあじ)がうかがわれただけだ。引札の説明では、建久四年、頼朝富士裾野、牧狩の時の仮家(かりや)を、同家の先祖、大外河美濃守がもらい受けて住家として、旧吉田の郷(ごう)に置いたのを、元亀三年、上吉田の本町に移し、慶長十五年、更に現在のところに転じたのだそうで、吉田にたびたび火災はあっても、不思議に建久館だけは、焼け残ったという話であるが、その黒く光った板だけが、古代動物の肉の腐蝕し去った後の骨枠のように、残存しているだけで、果して建久の遺物であるか否を私には極めようもないが、室(へや)には文久元年、萩園主人千浪という人が、祝大外河美濃守という建物の由来を書いた扁額(へんがく)がかけてあった。それと隣って、一段高く梯子段(はしごだん)を上ったところに、浅間神社を勧請した離屋(はなれや)が、一屋建ててあり、紀伊殿御祈願所の木札や、文化年間にあげたという、太々神楽(だいだいかぐら)の額や、天保四年と記した中山道深谷宿、近江屋某の青銭をちりばめた奉納額などがあった。そこから廻り縁になって、別の一室にも、槍、薙刀(なぎなた)、鉄砲などが「なげし」にかけられて、山東京伝(さんとうきょうでん)的草艸紙(くさぞうし)興味を味わせるのに十分であった。
 室へ戻って、友人にハガキを書いていると、富士の雲が引いて取ったように幕を明け、銀磨きの万年雪が、巨獣の斑紋(はんもん)のように二筋三筋キラリと光って、夏の富士にして始めて見るところの、威嚇(いかく)的な紫色が、抜打(ぬきうち)に稲妻でもひらめかしそうに、うつぼつと眉に迫って来る。「夕立気味あり」と書いてハガキを伏せたが、ほんとうに後になって思い知った。
 頼んだ強力(ごうりき)のくるまで、欄干によって庭を見ている。枝振りのいい松に、頭を五分がりにした、丸々しいツツジや、梅などで囲んだ小池があって、筧(かけひ)からの水がいきおい込んで落ちている。ことしの春遊んだ吉野山中の宿坊に似た庭景色だと思うが、あの色つやのいい青苔と、座敷一杯に舞い込む霧のわびしさは、およぶべくもない。

    四 富士浅間神社

 浅間神社の後(うしろ)からならでは、出すまじき馬を、番頭が気を利(き)かして、宿まで馬士(まご)にひかせて来てくれたが、私はやはり、参詣を済ませてから乗りたいため、馬を社後まで戻させ、手軽なリュックサックを提(さ)げて町を歩きだした。さすがに上吉田は、明藤開山(めいとうかいざん)、藤原角行(かくぎょう)(天文十年―正保三年)が開拓して、食行身禄(じきぎょうみろく)(寛文十一年―享保十八年)が中興した登山口だけあって、旧御師(おし)町らしいと思わせる名が、筆太にしたためた二尺大の表札の上に読まれる、大文司(だいもんじ)、仙元房(せんげんぼう)、大注連(おおしめ)、小菊、中雁丸(なかがんまる)、元祖身禄宿坊(みろくしゅくぼう)、そういった名が、次ぎ次ぎに目をひく。宿坊の造りは一定していないが、往還から少し引ッ込んだ門構えに注連(しめ)を張り、あるいは幔幕(まんまく)をめぐらせ、奥まった玄関に式台作りで、どうかすると、門前に古い年号を刻み入れた頂上三十三度石などが立っている。芭蕉翁に、一夜の宿をまいらせたくもある。
 みやげ、印伝、水晶だの、百草(ひゃくそう)だのを売ってる町家に交って、朴(ぼく)にして勁(けい)なる富士道者の木彫人形を並べてあるのが目についた。近寄って見たら、小杉未醒原作、農民美術と立札してあった。小流れを門前に控えたどこかの家の周りには、ひまわりの花が黄色い焔(ほのお)を吐いている。この花の放つ香気には、何となしに日射病の悩みが思われる。
 町は、絶えず山から下りる人、登る人で賑わっている。さすがに、アルプス仕立の羽の帽子を冠(かぶ)ったり、ピッケルを担(かつ)いだりしたのは少ないが、錫杖(しゃくじょう)を打ち鳴らす修験者、継(つ)ぎはぎをした白衣の背におひずる[#「おひずる」はママ]を覆(かぶ)せ、御中道大行大願成就、大先達某勧之などとしたため、朱印をベタ押しにしたのを着込んで、その上に白たすきをあや取り、白の手甲に、渋塗(しぶぬ)りの素足を露(あら)わにだした山羊(やぎ)ひげの翁(おきな)など、日本アルプスや、米国あたりの山登りには見られない風俗である。大和大峰いりのほら貝は聞えないが、町から野、野から山へと、秋草をわたり、落葉松(からまつ)の枯木をからんで、涼しくなる鈴の音は、往(おう)さ来(きる)さの白衣の菅笠や金剛杖に伴って、いかに富士登山を、絵巻物に仕立てることであろうか。行者と修験者の山なる点において、富士と木曾御嶽は、日本の山岳のうちで、ユニークな位置を占めていると思う。その上、同じ登山口でも、御殿場は停車場町であって、宿場ではない。須走(すばしり)は鎌倉街道ではあるが、山の坊という感じで、浅間(あさま)山麓の沓掛(くつかけ)や追分(おいわけ)のような、街道筋の宿駅とは違ったところがある。吉田だけは、江戸時代から、郡内の甲斐絹(かいき)の本場を控えて、旅人の交通が繁かっただけあって、山の坊のさびしさが漂うと共に、宿場の賑わいをも兼ねて見られる。
 裾野の草が、人の軒下にはみ出るさびしい町外れとなって、板びさしの突き出た、まん幕の張りめぐらされた木造小舎(ごや)に、扶桑(ふそう)本社と標札がある。扶桑講を講中としているところの、富士崇拝教の本殿である。講中でこそないが、私も富士崇拝者の一人として、黙礼をして、浅間(せんげん)本社へと足を運んだ。
 一歩境内に踏みいると、乱雑なる町家から仕切られて、吉野山の杉林を見るような、幽邃(ゆうすい)なる杉並木が、富士の女神にさす背光を、支持する大柱であるかの如く、大鳥居まで直線の路をはさんで、森厳に行列している。その前列の石燈籠(いしどうろう)は、さまで古いものとは思われないが、六角形の笠石だけは、奈良の元興寺(がんごうじ)形に似たもので、掌(たなごころ)を半開にしたように、指が浅い巻き方をしている。瓦屋根の覆(おお)いを冠った朱塗の大鳥居には、良恕(りょうじょ)法親王の筆と知られた、名高い「三国第一山」の額が架かってある。鳥居は六十一年目に立て替える定めだそうで、今のは二十七回だと、立札がしてあるが、そんなことはどうでもいい。登山者の眼中には、金剛不壊(こんごうふえ)の山の本体の前に、永久性の大鳥居がただ一つあるばかりだ。神楽殿(かぐらでん)の傍(かたわら)には、周囲六丈四尺、根廻りは二丈八尺、と測られた神代杉がそそり立って、割合に背丈は高くないけれど、一つ一つの年輪に、山の歴史の秘密をこめて、年代の威厳が作り出す色づけと輪廓づけを、神さびた境内の空気に行(ゆき)わたらせている。
 この吉田口の大社は、大宮口の浅間本社と比較して建築学上、いずれが価値ある築造物であるかを、私は知らないが、大宮口は、山の社であると共に、町の神社で、町民の集団生活と接触するところに、その美しい調和力と親和力が見られるのに対して、吉田の浅間社は、礎石(いしずえ)をすえた位置が、町から幾分か離れて、大裾野のひろがり始めるところに存するだけ、構図の取り方が一層大きく、三里の草原を隔てて、富士につながる奔放さは、位置の取り方が一倍と広く、社殿そのものも、天空高く浄(きよ)められたる久遠(くおん)の像と、女神の端厳相(たんげんそう)を仮現(かげん)する山の美しさを、十分意図にいれ、裏門からの参詣道を、これに南面させて、人類の恭敬を表示したところの、信条的構造と見られる、建築の手法、細故(さいこ)のテクニックにわたっての是非は知らず、楼門廻廊の直線と曲線が、あるいは並び下り、あるいは起き伏すうねりにつれて、丹碧(たんぺき)剥落(はくらく)したりとはいえ、燦然(さんぜん)たり、赫焉(かくえん)たるに対面して、私はここでもくりかえしていう、「日本の山は、名工の建築があるからいいなあ」と。
 ところで一体、富士の神を浅間(せんげん)と呼ぶのは、どうしたわけであろうか。富士の権現は信濃の国浅間(あさま)大神と、一神両座の垂迹(すいじゃく)と信ぜられていたところから、浅間菩薩(せんげんぼさつ)ともいい、富士浅間(せんげん)菩薩とも呼んだりしたが、本元の浅間(あさま)山の方は、一の鳥居があるだけで、御神体は、山そのものに宿るとしてあるから、神社の鎮座がない。富士の登山諸道に、壮麗な神社があるのと対照して、これはこれ、あれはあれでいいと思う。

    五 旅人の「山」

 万坊ヶ原の一本松は、暁の暗(やみ)に隠れた、那須野ヶ原あたりの開墾地にありそうな、板葺小舎(いたぶきごや)から、かんがりと燈(ひ)がさす。月見草の花が白い、カケス畑を知らぬ間に過ぎて、自動車はスケッチ帳入りの小嚢(しょうのう)を手に下げた茨木君と私と長男隼太郎外、強力(ごうりき)一人を大野原に吐き出して、見送りのため同乗せられた大山さんと、梅月の主人をさらって、影を没してしまう。暁の空に大宮表口の裾野原は、うす紙をはがすように目がさめる。ホトトギスがしきりになく。富士のさばいた裳裾(もすそ)が、斜(ななめ)がちな大原に引く境い目に、光といわんには弱いほどの、一線の薄明りが横ざまにさす。正面を向いた富士は、平べッたくなって、塔形にすわりがいい。ただ剣ヶ峰の頂のみが、槍のように際立ってとがって見える。雲は野火の煙の低迷する如く、富士の胴中を幅びろに斜断して、残んの月の淡い空に竜巻している、うぐいすのなく音(ね)も交(まじ)る。武蔵野に見るような黒土を踏んで、うら若いひのきの植林が、一と塊まりに寄り添っている、私たちの足許には釣鐘(つりがね)草、萩、擬宝珠(ぎぼうしゅ)、木楡(われもこう)が咲く。瑠璃(るり)色の松虫草と、大原の水分を一杯に吸い込んで、ふくらんだような桔梗(ききょう)のつぼみからは、秋が立ち初(そ)めている。秋の野になくてかなわぬすすきと女郎花(おみなえし)は、うら盆(ぼん)のお精霊(しょうりょう)に捧げられるために生れて来たように、涙もろくひょろりと立っている。
 仰げば朝焼けで、一天が燃えている。夕焼のように混濁した朱でなくて、聖(きよ)くて朗らかな火である。富士の斜面のヒダは、均整せられて、端然たる中にも、その高いところは光を強く受けて、浮彫につまみ上り、低い裂け目には暗い影が漂っている。全体としては、素焼の陶器の雅味(がみ)である。富士が小さく見えるのもこれだ。表裏に廻り、左右から見直しても、「あなたこなたも同じ姿」の八字の輪廓と、円錐の形式とは、連嶺構造の山と、鋭利に切り込まれた深谷を見た目からは、浅いものに見せるかも知れぬ。だがそれは、大裾野を忘れているからだ。裾野は富士の物だ、富士のものを富士に返して、東海の浜にまで引き下(さが)り、さて仰いで見たまえ。それから数十里の裾野を、曲馬の馬が、同じ円周を駆けめぐるように、廻って見たまえ。それこそ富士という彫刻品の、線と面の回転だ、そこに驚くべき変化と偉大さを発見するだろう。
 あるいは一歩さかのぼって、裾野がいまだ生成しないうち、富士と、愛鷹と、箱根が、陥没地帯の大海原に、火山島のように煙を吐いて、浮かんでいたところを想像すれば、今日の豆南諸島の大島、利島、三宅島などが、鋪石(ほせき)のように大洋に置かれているのと似て、更に大規模なる山海の布置を構成するであろう。今のような裾野となって、富士の登山が一しお悦(よろこ)ばれるのは、絨氈を布(し)く緑青の草と、湿分を放散する豊富な濶葉(かつよう)樹林とにあろう。旅人がアンデスの登山を悦ぶのは、麓が永久の春であるからだそうだが、山の天国は、発達した裾野を有するところの、富士火山帯に多くあらねばならない。それから山の全裸体像として、線や、光や、影や、円味やを研究するのに、富士ぐらい秘密を許してくれる山はあるまい。縦横はもとより、富士ばかりは恐らく螺旋(らせん)状にでも上れよう。結局富士は、探検家の山でなくて、女でも、子供でも、老人でも、心易(やす)く登れる全人類の山だ。殊に旅人の山だ。私も旅人として富士を讃美する。

 アルプスの美を、知覚的に讃美したのは、スイスの農夫でなくて、旅人であった如くに、富土山もそうであった。「天地(あめつち)のわかれし時ゆ、神さびて」と歌った山辺赤人(やまべのあかひと)は旅人であった。太刀(たち)持つ童(わらべ)、馬の口取り、仕丁(しちょう)どもを召連れ、馬上袖(そで)をからんで「時知らぬ山は富士の根」と詠じた情熱の詩人在原業平(ありわらのなりひら)も、流竄(りゅうざん)の途中に富士を見たのであった。墨染(すみぞめ)の衣を着た坊さんが、網代笠(あじろがさ)を片手に杖ついて、富士に向って休息しているとすれば、問わずして富士見西行(さいぎょう)なることを知る。富士くらい大詩人を持った山が、地球上のどこに存在しているだろう。名もない一遊子ではあるけれど、私も幼い時から、富士の影を浴びて、武蔵相模で育った一児童として、永い間の外国生活から、故国へ放還された一旅人として、親友と、子供と、忠実なる案内者とに囲まれて、今富士の膝下(ひざもと)へ来て亡き母の顔に見(まみ)えまつるが如く、しみじみと見ているのだ。
 今にも大野原の上を、自由に飛翔しようとする大鳥が羽翼を収めて、暫く休息している姿勢を、富士は取っている。空気は頬一杯に吹かれてビードロのように、薄青い光を含んで流動している。そして野も、山も、森も、朝の光線にひたって、ああ光ほど不思議な現像液はあるまい。幻からはっきりと、物体のつかめる現実の世界となった。

    六 富士の古道

 この前に来たときは、裾野の路という路は、馬力のわだちのあとで、松葉つなぎにこんぐらがり、太く細く、土が掘れたり、盛り上ったりして、行人を迷わせたところに、裾野らしい特色があったが、今は本街道然たる、一筋路が、劃然(かくぜん)と引かれて、迷いようもなくなった。
 一合から一合五勺(しゃく)の休み茶屋、そこを出ると、雲の海は下になって、天子(てんし)ヶ岳の一脈、その次に早川連巓の一線、最後に赤石山系の大屏風(だいびょうぶ)が、立て列(つら)なっている。富士の噴出する前から、そこに居並んで、もっとも若い富士が、おどろくべく大きく生長して、頭抜(ずぬ)けてくるのを見つめていた山たちである。今後もそうやって見守っているであろう。富士山中で、大宮口の森林として、もっとも名高いモミ、ツガ、ナラ、モミジ、ブナなどの、夏なお寒い喬木(きょうぼく)帯を通過する。三合目の茗荷谷の小舎では、かけひの水が涼しかった、三合五勺では、名産万年雪を売っている。山の中で、雪を売るということが、一方の室(むろ)で、シトロンやミルクキャラメルを売っているのに対して、いかにも原始的で、室でやりそうな商いではないか。三合五勺を出外(ではず)れると、定規でも当てがってブチきったように、森林が脚下(あしもと)に落ち込んで、眼の前には黒砂の焼山が大斜行する。虎杖(いたどり)や去年の実を結んだままのハマナシ(コケモモ)が、砂の上にしがみついている。すんだ空は息吹がかかったように、サッと曇って、今までどこにいたろうと思われる霧がかかる。木山と石山の境は、やがて白明と暗霧の境界線であった。
 四合目となると、室も今までのように木造でなく、石を積み重ねた堡塁(ほうるい)式の石室となる。海抜二千四百五十米、寒暖計六十二度、ここで大宮口の旧道と、一つになるのだと強力(ごうりき)はいう。
 私は、前に大宮口はもっとも低いところから、日本で一番高いところに登る興味だと述べた。しかし、も一つある。それは大宮口こそ、富士のあらゆる登山道で、もっとも古くから開けた旧道むしろ古道であることだ。だが、それは今私たちの取った道ではない。大宮浅間神社の裏から粟倉、村山を経て、札打、天照教まで大裾野を通り、八幡堂近くから、深山景象の大森林帯を通過し、約二千メートルの一合目直下から灌木帯を過ぎて今の四合目まで出る道がそれだ、陰にして密なる喬木帯のモミやツガから、ぶら下る長いサルオガセ、濃い緑の蘚苔(せんたい)類と混生する大久保羊歯(しだ)の茂り具合などは、まだ目に残っている。そればかりではない、足利時代の『鷹筑波集』からも、猿楽(さるがく)狂言からも、また貞徳(ていとく)の「独吟百韻」からも、富士詣(もうで)の群衆のざわめきは、手に取るように聞えるが、それらの参詣者は、皆この村山口を取ったものであるらしい。今川家御朱印(天文二十四年)にも、村山室中で魚を商なってはならぬとか、不浄の者の出入を止めろとか禁制があって、それには、この村山なる事を明示している。富士の表口というのは、大宮口であるが、つまるところ村山口であったのだ。私がこの道を取って登山したのは約十七、八年前であったが、その当時、既に衰微して、荒村行を賦(ふ)するに恰好(かっこう)な題目であったが、まだしも白衣の道者も来れば、御師(おし)も数軒は残っていたが、今度来て聞くと哀(かな)しいかな、村山では御師の家も退転してしまい、古道は木こりや炭焼きが通うばかりで、道路も見分かぬまでに荒廃に任せているという。私が知ってからでも、その当時新道なるものが出来て、仏坂を経てカケス畑に出で、馬返しから四合半で古道に合したものだが、これも長くは続かず、私たちの今度取った路は最新のもので、二合目で前の新道なるものを併せ、四合目で村山からの古道を合せている。富士のようなむきだしの石山で、しかも懐(ふところ)の深くない山ですら、道路の変遷と盛衰はこのように烈しい。
 アルプスにも似た例がある。近代氷河学の祖なるルイ・アガシイ先生は、旧記を調査して、偶々(たまたま)第十六世紀の宗教戦時代に、スイスの Valais の村民が他宗派の圧迫を蒙(こうむ)り、子供たちを引き連れ、Aletsch 氷河の遠方まで、Viesch 谷に沿うて、アルプス山を横切ったとあるを見つけだし、今は到底ゆける路ではないと不審を起して、氷河を踏査せられたところ、Aletsch 大氷河が被覆(ひふく)している底に、立派に保存せられた旧道路を発見せられた旨を記述せられている(Geological Sketches 第二輯、一八七六年刊)。氷河のない富士山は破壊力においてすら微温的であるから、時に雪なだれで森林を決壊し、薙(な)ぎを作ることはあっても、現に今度の大宮口でも、三合目の茗荷岳を左に見て登るころ、森林のある丸山二座の間を中断して、「なだれ」の押しだした痕跡を、明白に認められることは出来ても、人間がこわす道路の変遷の甚だしいのにはおよばない。後の富士登山史を研究する者が、恐らく万葉以来、一般登山者の使用した最古道、村山口の所在地を、捜索に苦しむ時代が来ないとも限らないから、私は大宮口の人たちに、栄える新道はますます守り育てて盛んにすべきであるが、古道の村山を史蹟としても、天然記念物としても、純美なる森林風景としても、保存の方法を講ぜられんことを望む。
 我祖先が、始めて神秘な山へ印した足跡を、大切に保存しないということは、永久に続く登山者をも、やがて忘却してしまうことだ。それではあまりに冷たく、さびしくはないか。私はなお思う、古くして滅びゆくもの、皆美し。

    七 石楠花

 いつごろからのいいならわしか、富士の五合目を「天地の境」と称している。五合目では、実際人の気も変る、誰もわらじの緒を引き締める。私は吉田口の五合目に一泊したが、夜中絶えず、人声と鈴音がする。起きて見ると、眼の前の阪下から、ぬっと提燈(ちょうちん)が出る、すいと金剛杖が突き出る。それが引っ切りなしだから、町内の小火(ぼや)で提燈が露路(ろじ)に行列するようだ。大抵の登山者は、ここで一息いれる、水を飲む、床几(しょうぎ)にごろりと横になるのもある。五合目は山中の立場(たてば)である。
 私は、御中道をするために、荷担(にかつ)ぎ一人連れて、小御岳神社の方面へと横入りをした。「途(みち)が違うぞよ」「そっちへゆくでねえぞ」遠くから呼ばった人の親切は、心のうちで受けた。水蒸気があまりに濃(こま)やかであったため、待ち設けなかった御来光が、東の空にさした。しかし旭日章旗のような光線の放射でなく、大きな火の玉というよりも、全身爛焼(らんしょう)の火山その物のように、赤々と浮び上った。天上の雲が、いくらか火を含んで、青貝をすったようなつやが出る。それが猫眼石のように、慌(あわた)だしく変る。大裾野の草木が、めらめらと青く燃える。捨てられた鏡のような山中湖は、反射が強くて、ブリッキ色に固く光った。道志山脈、関東山脈の山々の衣紋(えもん)は、隆(りゅう)として折目を正した。思いがけなく、落葉松(からまつ)の森林から鐘が鳴った、小刻みな太鼓が木魂(こだま)のように、山から谷へと朝の空気を震撼(しんかん)した。神主の祝詞(のりと)が「聞こし召せと、かしこみ、かしこみ」と途切れ途切れに聞える時には、素朴な板葺(いたぶき)のかけ茶屋の前を通って、はや小御岳神社へと詣(もう)でるころであった。神社の庭には天狗がおもちゃにするというまさかり、かま、太刀などが、散乱している。室の人が、杖に「大願成就」という焼印を押してくれた上に、小御岳の朱印を押した紙に、水引を添えてくれた。これはしかし吉田口の五合目から、富士に向って、左に路を取り、宝永山の火口壁から、その火口底へ下り、大宮方面の大森林に入って、大沢の嶮を越え、小御岳へ出るのが順で、始めて「大願成就」になるのだが、私は故あって、逆に山に向って右廻りをした。そのため一歩踏み出したばかりで、御褒美(ごほうび)の水引きを先へ頂戴してしまった。これは逆廻りといって、道者は忌(い)むのだそうで、案内者をもって自任する荷担ぎの男は、私から右の水引と朱印を取りあげて、遂に返してもらえなかった。
 何故(なぜ)逆廻りをしたかといえば、御中道は、前にも廻っているんだが、小御岳から御庭を通じて、大宮道へ出遇うまでの、森林の石楠花(しゃくなげ)を見たかったのだ。それには毎日午後から雷雨と聞いているから、晴れた朝によく見て置きたいと思ったからだ。幸いにして、石楠花を見る目的は、十分に遂げられた。同時に不幸にして、雷雨の予覚は当り過ぎるほど当った。
 神社を出て、富士の胴中(どうなか)に、腹帯を巻いたような御中道へとかかる、この前後、落葉松が多く、幹を骸骨のように白くさらし、雪代水(ゆきしろみず)や風力のために、山下の方へと枝を振り分けて、うつむきに反(そ)っている、落葉松の蔭には、石楠花がちらほら見えて、深山の花の有する異香をくんじているが、路が御庭へ一里、大沢へ約二里と、森の中へ深いりすると、落葉松の間から、コメツガや、白ビソの蔭から、ひょろ長い丈の石楠花が、星のようにちらつく。それも、横に曲りくねった、普通平地で見るような石楠花でなく、白花石楠花である。高さは一丈以上に達したのも珍しくない。つばきの葉を見るような、厚い革質のくすんだ光沢(つや)があって、先端の丸い、細長い楕円形の葉を群がらしている。その裏返しになったところは、白蝋(はくろう)を塗ったようで、赤児の頬の柔か味がある。美しいのはその花弁だ。白花という名を冠(かむ)らせるくらいだから白くはあるが、花冠の脊には、岩魚(いわな)の皮膚のような、薄紅(うすべに)の曇りが潮(さ)し、花柱を取り巻いた五裂した花冠が、十個の雄蕊(ゆうずい)を抱き合うようにして漏斗(じょうご)の鉢のように開いている。しかもその花は、一つのこずえの尖端に、十数個から二十ぐらい、鈴生(すずな)りに群(むらが)って、波頭のせり上るように、噴水のたぎるように、おどっているところは、一個大湊合(だいそうごう)の自然の花束とも見られよう、その花盛りの中に、どうかすると、北向きに固く結んだつぼみが見える。つぼみと、それを包む薹(とう)とは、赤と白とを市松格子形(いちまつこうしがた)に互層(ごそう)にして、御供物(おくもつ)の菓子のように盛り上っている。花として美しく開くものは、つぼみとしてまず麗わしく装わねばならなかった。私は平原の草野において、山百合の花を愛し、深山の灌木において、もっとも白花石楠花を愛する。
 殊に白花石楠花は、日本の名ある火山に甚だ多く(もちろん火山以外にも、少ないとはいわぬ)、近いところでは、天城山、八ヶ岳にも繁茂しているし、加賀の白山にも多いところから、白山石楠花とも呼ばれているくらいであるが、高山植物の採集家として聞えた故城数馬氏は、日光の湯ノ湖を取り囲む自然生の石楠花の、いかに多く茂っていたかを、私に物語られ、今では蕩尽(とうじん)されて、僅に残株(ざんしゅ)を存するばかり、昔のおもかげは見る由もないと慨(なげ)かれたが、小御岳から、大沢をはさんで、大宮口に近い森林まで、純美なる白石楠花の茂っていることは、私を悦(よろこ)ばせる。安政六年版の玉蘭斎貞秀画、富士登山三枚続きの錦絵には、「小御岳、花ばたけ、しゃくなぎ多し」とあるから、昔から多かったものと見える。お花畑の名が、富士にあるのも珍らしい。
 黒砂の道は、去年ながらの落葉を埋(う)めこんで、足障(あしざわ)りが柔かく、陰森なる喬木林から隠顕する富士は赤ッちゃけた焼土で、釈迦(しゃか)の割石(わりいし)と富士山中の第二高点、見ようによっては、剣ヶ峰より高く見える白山ヶ岳の危岩が仰がれ、そのくぼみには、シャモニイの氷河の古典的なるが如くに、富士の万年雪を、古典的にしたところの残雪が、べっとりと塗りこめられて光っている。これも貞秀の錦絵に「牛が窪、四時雪あり」とあるから、昔ながらの雪と見えるが、今ではかえって、ここの万年雪を、人が言わないようだ。それと共に、もし富士山に北米レイニーア火山のような氷河が放射していたならば、今の白石楠花の茂りは押し流されて見るべくもないから、私は現在の万年雪で満足し、花と雪を併せ有することを悦びとしたい。
 それからまた、私はこのたびの登山が、七月から八月へかけてであったことを悦んでいる。十月では野にこの青味がない、五月では山にこの花がない。今は青い草と花があって、完全に山と裾野の美を示している。沈黙してたたずんでいると、鶯(うぐいす)鳴き、ホトトギス鳴き、カケスが鳴き、眼覚めた鳥が、一せいに声を合せて鳴き立てる。虫の声がその間に交る。ここ「天地の境」五、六合目の等高線、森林を境として、山を輪切りにしたところの御中道を彷徨(ほうこう)する私は、路の出入に随って、天に上り、地を下る、その間を、鳥と、虫と、石楠花が、永久安棲(あんせい)の楽土としている。
 ここに石楠花にとろけている生物が二個ある、一個は私である、一個は石楠花の花の中に没頭して、毛もくじゃらの黄色い毛だらけの尻を、倒(さか)しまに持ちあげ、蜜を吸い取っているアブである。私はアブに気がついたほど、まだ余裕があったが、アブの方では、人間などに傍目(わきめ)も触れず、無念無想に花の蜜の甘美に酔っている。だが遂にアブばかりでなかった、石楠花の甘ずっぱい香気は私を包み、アブを包み、森に漂って、樹々の心髄までしみ透るかのように、私までがアブの眷属(けんぞく)になったかのように。
 この石楠花に対して、武田久吉博士は、シロシャクナゲなる名を用いておられる、博士によれば、シロシャクナゲは、本州中部の高山から、北海道にまで分布し、多数の標本を集めて見ると、葉裏全く無毛のものと、淡褐色の微毛の密生するものとある、無毛のものは、花の色が、白から淡黄に至り、殆ど淡紅暈(うん)を帯びることがないが、有毛のものは、紅暈を帯びる、近来無毛のものを、ウスキシャクナゲと称し、有毛の方を、シロシャクナゲと呼んで、これを一変種と認めるが、総称する場合には、ハクサンシャクナゲと呼ぶのが、適当と考えられると(『高山植物写真図聚』解説参照)。

    八 室

 御中道歩きの特色は、山頂を見あげると共に、山麓を見下すのにある、それが、ブン廻しのように刻々変化してゆくのを、互い違いに併せ視(み)られるところにある。その山頂にしても、素焼の山の膚に、つや薬でも流したような、崩雪(なだれ)や岩崩れの跡が、切り刻みをつけている。小御岳から、大沢へゆく間にも、「小御岳流れ」「大流れ」「白草流れ」が押しだして、大森林の一部分をブッ欠き、日当りのいい窓を明けて、欠け間から裾野にかけて、山麓の斜面を見せる。それがまた驚くべく長大なる、最新の熔岩流をひろげて、下吉田の町まで肉薄する剣丸尾(けんまるび)、青木ヶ原の樹海から精進(しょうじ)村まで、末広がりに扉開きになる青木ヶ原丸尾を、眼下に展開する。殊に青木原一帯の丸尾(先人の説によれば「転(まろ)び」のなまりならんという)を超越して、多くの側火山(そくかざん)と噴気口を行列させている。だれでも目につく大室(おおむろ)山を先手にして、その後に寄り添って、長尾山、片蓋(かたふた)山、天神山、弓射塚、臼山など、富士山を御本丸として大手からめ手に、火山の出城を築きあげている。その凸点だけを残したほかは、全部樹海や、大裾野の緩斜地で、すりおろしのわさびの、水々しい緑にひたっている。
 石楠花(しゃくなげ)の群落が一時途絶えて、私の歩みは御庭へと移された。高峰の花のあるところに、お花畑の名はつき物だが、御庭はあまり聞かない名だ。小舎が近ごろ出来て保存の不完全な火山弾が、一つ二つ庭に転がっている。富士の植物はもとより、金峰山から移した高山植物などがその辺に試植されている。ここから精進口の登山新道、三合目へ下りることが出来て、途中に中庭、奥庭などを通過するそうだ。
 脚下には、富士五湖中で一番深いといわれている本栖(もとす)湖、それを囲んだ丘陵、遥に高く、天子山脈や、南アルプスの大屏風(だいびょうぶ)が立ちふさがっている。天子山脈の上に、湖水をたたえたような雲は、山の落ち口に添うてはい下る。甲府盆地の方向から、富士川下流の方へと両端を垂下して、陰鬱なる密集状態を作っているところは、まさに来らんとする雷雨を暗示している。山を石膏細工の人形とすれば、雲は衣裳で、あのようにまで、モデルの肢節にぴったり合って、屈伸するものとは思っていなかった。雲が延びると、裾野のぼやけた緑は、水底に揺らめく青草の波になった。さすがに樹海と草原だけは、劃然と境界されて、樹はかたまって藍をたたえ、草は群がって青をよどむ、樹海から立つ炭焼の煙が一筋ほうと中空に霞む。
 また森林に入ってからは、途(みち)は前ほどに均(な)らされておらず、木の根岩角は、旧道のおもかげを存して古のお中道が、断絶された凧(たこ)の糸のように、頭上に懸かっているのが指さされる。石楠花は依然多いが、それに次いでは、高根いばらが多く、丈高い茎に大形の紅色の花を着けたのが、消炭(けしずみ)の火のように、かえって暗い感じをさせる。車百合、稚子(ちご)百合、白花蛇イチゴ、コケモモ、ゴゼンタチバナ、ヤマオダマキなどが、陰森たる白ビソ、米ツガ、落葉松などの下蔭にうずくまっている。ここの落葉松は、小御岳では風雪と引っ組んで、屈曲匍匐(ほふく)しているに似ず、亭々として高く、すらりと延び上っている自然のままの、気高さに打たれる。路は次第に下って、多分三合目位だろうと思われる高度の、大沢の小舎に着く。御中道に昔は小舎がなくて、参詣の道者が難渋するため、そのうちの難所たる大沢に、お助け小舎を置いたそうだが、それは疾(と)くにつぶれて、今のは粗末ながら、普通の旅人宿めいた小舎である。しかし元来、御中道めぐりは、信神の道者を主とするので、近来盛んになった女人の登山も、ここへはほとんど影を見せず、森林と絶壁と深谷とで、四周を切り離されているから、山中の室(むろ)としてのさびが、心ゆくばかり味わわれる。主人は署名帳を出して、私に物書けというから、三、四行したためた。私は登山すべく、あまりに老いたとは思っていないが、まだ登るべき多くの山を控えているから、恐らく生涯に二度とここまで来なかろうと思う。芭蕪翁のわが詠み捨てた句は、一つとして辞世(じせい)ならざるはなしの徹底芸術精神は、学んで到り得るにあらねども、一順礼(じゅんれい)の最後の足跡までに、印(しるし)をつけておいた。
 ここに限らず、富士の室は風俗史的に見て、欧米諸国の山小舎に、ちょっと類例のないものがある。約(つづ)めていえば、永い年代の間、人間味のしみ込みの深さである。室ごとに請(こ)わるるままに、金剛杖に焼印を押すが、不二の象形の下に、合目や岳の名を書いたり、不二形の左右に雲をあしらい、御来光と大書して、下に海抜三千二百何メートルと註してあったり、富士とうずまく雲を下に寄せて、その上に万年雪の詠句を題したものなど、通俗的の意匠が施されている。飲食も、コーヒー、シトロン、紅茶などの近代的芳香の飲料と、阿倍川(あべかわ)もち、力もち、葛湯(くずゆ)、麦粉などの中世的粗野なる甘味が供給される。殊に私の目をひいたのは、登山者参詣人が、室の板壁、屋根裏や、柱に張り残してゆく名札で(それは室に取って迷惑なものかも知れないが)、木版刷、石版刷の千社札に類した人名や登山会の名を記したもので、寸法こそ必ずしも、天狗(てんぐ)孔平以来、江戸末期に行われた何丁がけの法式に則(のっと)らずとも、また平俗であっても、相応の意匠を凝らして作成したもので、アメリカの登山小舎に見る鉛筆の落書や、活字印刷の事務的名刺のはりつけなどよりも、登山そのものを幾分か芸術化させる。それから、江戸時代の神社仏閣の御手洗(みたらし)にかけてある奉納手ぬぐいを、至るところの休み茶屋や、室で見ることである。多くは講中の名を記したものだが、藍、黄、白、黒、柿色などで染抜いた手拭が、秋林の朽ち葉落葉の紛然雑然たるが如く、雲の飛ぶ大空の下、簡単にして大まかなる、富士の大斜線に、砂の如く点ずるところの、室の軒端(のきば)に飜(ひるがえ)っているのは、東海道五十三次の賑わいを、眼前に見る如く、江戸時代以来、伝統の敬神風俗を、この天涯の一角に保存する如く、浮世絵式風景を、日本の一特色として再現せられたる如くに、新帰朝者の眼に映じたのであった。その中で、小御岳の小舎で、亡友、曾我部一紅(そがべいっこう)追悼登山の納め手拭を見出した時、私の眼にうるみを覚えた。富士登山家として、富士に関する図画典籍の大蒐集家として、君は疑いもなく第一人者であった。私の米国寄寓(きぐう)中、故国に大震災があった。その時君は、貴重なる蒐集品を救いだすため、火宅へ取って返したまま、永久に不帰の人となったそうだ。君の肖像と事蹟とは、米国の親友お札博士の名で日本に知られているところの、スタア氏の著書『フジヤマ』(英文単行本)によって、同情ある筆で世界に伝えられたが、故国で、知音(ちいん)諸氏によって、君を追悼した登山会が催されたとすれば、君にはいい手向(たむ)けである。私も、桑港(サンフランシスコ)で発行される日本字新聞『日米』で、君とスタア博士と富士山との交渉を書いて、心ばかりの供養に代えたが、富士山の納め手拭から、この事を知ったのは、山中でひょっくり君に出逢ったようであった。
 雲ゆきが怪しいので、私は多少の気がかりで、大沢の小舎を立った、すぐ眼の前には、その大沢の難所なるものが控えている。

室と小舎とは、区別を要すべきであろうが、ここでは共通して、用いたところがある(筆者)。

    九 乱雑の美

 五、六合間の等高線をゆく、御中道の大沢近くくると、にわかに婉曲(えんきょく)してひた下りに下る。大沢は谷というには浅く、沢としては大きくて深い。頂上内院火口の西壁、剣ヶ峰の側からなぎ落されて、直線に突き切ること三里、力任せにたち割った絶壁の斜面に、墜石崩石は、ざっくばらんにほうりだされている。絶壁の縦断面には、灰青色の熔岩を見ないでもないが、上を被覆(ひふく)するゴロタ石のために、底の岩石を知ることが出来ない。木の葉一枚動かない沈鬱なる空の下に、案じたほどのこともなく向う岸へ渡り、崖の上へ立って振り返ってみると、白衣の道者の一連が来て、大沢の手前でうずくまり、先達(せんだつ)がお祈りを上げている。さながら葛飾北斎の富嶽三十六景中の題目であって、小泉八雲に驚異の目を見張らせた光景である。なお見ていると、小さな石一つ、沢の上から落ちて、豆太鼓(まめだいこ)でも鳴らすような、カラカラ音をさせると見ると、砂煙がぱッと立って、二、三丈ばかりの砂夕立が降る。「さあ、これから、さす(登ること)で」と荷担(にかつ)ぎがいう通り、今度はひた登りに登る。国境に甲斐をまたいで、駿河の領内に入る。ここにも石楠花が枝越しに上からのぞき込む。その天空に浮遊するかの如き、嶮(けん)にして美なる林道を「天の浮橋」と呼ぶそうであるが、何よりも喬木林の陰森さにおどろかされる。木曾の森林にでも迷いいったようで、焼砂の富士、「ほうろく」を伏せた形の石山とは思われない。また白衣の道者の一群に、森の出口でゆき遇(あ)う。彼らは私たちの「逆廻り」を、うさんくさそうな傍目(わきめ)を使って、あわれむが如き素振(そぶ)りでゆき過ぎた。サッとかき曇った空模様は、何かのたたりを暗示するように思わせた。
 桜沢、鬼ヶ沢を越える。富士はもう森林や砂礫(されき)をかなぐり捨てて熔岩の滑らかな岩盤をむきだしにしている。どす黒い霧で、ゆく先も脚の下もよく解らない。西風に吹きつけられた水蒸気が、山の胴体を幾重にも巻いて、凝結しているのだと思う。次いで頭にひらめくものは、放電であった。鼻の先にぴかりと光ったのが早いか、鳴りはためいた。足許に白蟻ほどの小粒なのが、空から投げだされて、算(さん)を乱(みだ)して転がっている。よく見ると雹(ひょう)だ。南は斜(ななめ)に菅笠冠(すげがさかぶ)りの横顔をひんなぐる。あわてて、糸立(いとだて)を肩にひろげたが、透(とお)るようなビショぬれで、ポッケットにはさんだ紫鉛筆の色が、上衣の乳の下あたりまでにじみだした。熔岩の岩盤からは、白糸のようにさばかれた千筋のたき津瀬がたぎり落ちて、どれが道やら、わらじやら、ミヤマハンノキやら、無分別になった。幾たびとなく足をすくわれ、のめり、手を突きながらも、温度は手が凍(こご)えるまで下らなかったので、金剛杖や糸立を強くつかんで、大宮口の五合目へ、ほうほうの態(てい)でたどりつき、たき火でぬれた上衣を、かわかすのに暇取った。
 ここから宝永山の噴火口へは、三丁位であろう。雨あがりのすんだ空に、第一噴火口と、第二噴火口の馬の脊道(せみち)に立って見あげる。火口壁は四十度以上の急角度で、胸突(むなつき)八丁よりも峻嶮(しゅんけん)に、火口底までは直径約一千尺の深さで、頂上内院大火口よりも深いものである。灰青色した緻密の熔岩と砂礫と互層をしているところを、筋違(すじか)いに岩脈がほとばしって、白衣の道者たちが大沢で祈ったのと同じように、この岩脈を十二薬師の体現と信じて、崇拝するという話である。ともかくも、赤く焼けてくすぶった熔岩や、白ッちゃけた岩脈のくずや、黒い小粒の砂礫が、無秩序に積み累(かさ)ねられたところは、九千尺に近い山中というよりも、かきや蛤(はまぐり)の殻を積み上げた海辺にでも、たたずんでいるようであった。
 お中道めぐりの時は、ここから御殿場の三合目の小舎に出て下山したが、これより先、大宮口から茨木君と長男を連れて来たときは、この大宮口の五合目の室から六合七合と登った。そして七合五勺の室へ来て、海抜三千二百米と、棒杭(ぼうくい)に註されたのを見たとき、私は身の丈が急に高くなったような気がした。何故ならば、日本のあらゆる高山の絶頂を私たちは、もうここで超越しているからだ。南アルプスの白峰(しらね)、北岳、間(あい)の岳(たけ)にしても、北アルプスの槍ヶ岳、穂高岳にしても、三千二百米の高さには達していない。七合五勺で、日本アルプスの最高点以上の空に浮かび上っているのだ。「高いなあ富士は」と叫んだ、「そして大きい」とつけ足した。
 八合目の少し下に鳥居があって、八合目からは浅間神社奥宮の管理に移っているのだそうだ。
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