霧の不二、月の不二
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著者名:小島烏水 

 不二より瞰(み)るに、眼下に飜展(ほんてん)せられたる凸版地図(レリイヴオ・マツプ)の如き平原の中(うち)白面の甲府を匝(め)ぐりて、毛ばだちたる皺(しわ)の波を畳(たゝ)み、その波頭に鋭峻(えいしゆん)の尖(とが)りを起(た)てたるは、是(こ)れ言ふまでもなく金峰山、駒ヶ嶽、八ヶ嶽等の大嶽にして、高度いづれも一万尺に迫り、必ずしも我不二に下らざるが如し、不二は自らその高さを意識せざる謙徳の大君なり、裾野より近く不二を仰ぐに愈(いよい)よ低し、偉人と共に家庭居(まとゐ)するものは、その那辺(なへん)が大なるかを解する能(あた)はざるが如し。この夏我金峰山に登り、八ヶ嶽に登り、駒ヶ嶽に登る、瑠璃(るり)色なる不二の翅脈(しみやく)なだらかに、絮(じよ)の如き積雪を膚(はだへ)の衣に著(つ)けて、悠々(いう/\)と天空に伸(の)ぶるを仰ぐに、絶高にして一朶(いちだ)の芙蓉(ふよう)、人間の光学的分析を許さゞる天色を佩(お)ぶ、我等が立てる甲斐の山の峻峭(しゆんせう)を以てするも、近づいて之(これ)に狎(な)るゝ能はず、虔(つゝ)しんでその神威を敬す、我が生国の大儒、柴野栗山先生讚嘆(さんたん)して曰(いは)く「独立原無競、自為衆壑宗(しゆうかくのそう)」まとことに不二なくんば人に祖先なく、山に中心なけむ、甲斐の諸山水を跋渉(ばつせふ)しての帰るさ、東海道を汽車にして、御殿場に下り、登嶽の客となりぬ。
 旅館の主人、馬を勧め、剛力(がうりき)を勧め、蓆(ござ)を勧め、編笠(あみがさ)を勤む[#「勤む」はママ]、皆之を卻(しりぞ)く、この極楽の山、只(たゞ)一本の金剛杖(こんがうづゑ)にて足れりと広舌(くわうぜつ)して、朝まだき裾野を往(ゆ)く。
 市街を離れて里許(りきよ)、不二の裾野は、虫声にも色あり、そよ吹く風にも色あり、色の主(あるじ)を花といふ、金色星の、夕(ゆふべ)下界に下りて、茎頭(けいとう)に宿りたる如き女郎花(をみなへし)、一輪深き淵(ふち)の色とうたはれけむ朝顔の、闌秋(らんしう)に化性(けしやう)したる如き桔梗(ききやう)、蜻蛉(とんぼ)の眼球の如き野葡萄(のぶだう)の実、これらを束ねて地に引き据(す)ゑたる間より、樅(もみ)の木のひよろりと一際(ひときは)高く、色波の旋律を指揮する童子の如くに立てるが、その枝は不二と愛鷹(あしたか)とを振り分けて、殊(こと)に愛鷹の両尖点(りやうせんてん)(右なるは主峰越前嶽にして位牌(ゐはい)ヶ嶽は左の瘤(こぶ)ならむ)は、躍(をど)つて梢に兎耳(とじ)を立てたり、与平治(よへいじ)茶屋附近虫取撫子(なでしこ)の盛りを過ぎて開花するところより、一里茶屋に至るまで、焦砂(せうさ)を匂(にほ)はすに花を以てし、夜来の宿熱を冷(ひ)やすに刀の如き薄(すゝき)を以てす、雀(すゞめ)おどろく茱萸(ぐみ)に、刎(は)ね飛ばされて不二は一たび揺曳(えうえい)し、二たびは青木の林に落ちて、影に吸収せられ、地に消化せられ、忽焉(こつえん)として見えずなりぬ、満野(まんや)粛(しゆく)として秋の気を罩(こ)め、騎客(きかく)草間に出没すれども、惨(さん)として馬嘶(いなゝ)かず、この間の花は、磧撫子(かはらなでしこ)、蛍袋(ほたるぶくろ)、擬宝珠(ぎぼうし)、姫百合、□苳(ふき)、唐松草等にして、木は百中の九十まで松属(まつぞく)の物たり。
 一里松附近より、角度少しく急にして、大木を見ず、密々たる灌木(くわんぼく)、疎々(そゝ)たる喬木(けうぼく)の混合林となりて、前者を代表するに萩(はぎ)あり、後者には栗多く、それも大方は短木、この辺より不二は奈良の東大寺山門より大仏を仰ぐより近く聳(そび)え、半(なかば)より以上、黄袗(くわうしん)は古びて赭(あか)く、四合目辺にたなびく一朶(いちだ)の雲は、垂氷(たるひ)の如く倒懸(たうけん)して満山を冷(ひ)やす、別に風より迅(はや)き雲あり、大虚を亘(わた)りて、不二より高きこと百尺許(ばかり)なるところより、之(これ)を翳(かざ)し、山膚に皹(ひゞ)を入る。雲消えて皹も亦(また)拭(ぬぐ)ひ去らる、山色何の瑠璃(るり)ぞ、只(た)だ赭丹(しやたん)赭黄なる熔岩(ようがん)の、奇醜(きしう)大塊を、至つて無器用に束ねて嶄立(ざんりつ)せるのみ、その肩を怒らし胸を張れるを見て、淑美(しゆくび)なる女性的崇高を知らず。
 馬返しより太郎坊まで、羊歯(しだ)の小自由国や、蘚苔(せんたい)の小王国を保護して、樅落葉松の純林、戟(ほこ)を揃(そろ)へて隣々相立てるあり、これありて裾野の柔美式なる色相図(しきさうづ)に、剛健なる鉄銹色(てつしうしよく)を点(とも)し、無敵の冬をも呵(か)して、一路空山料峭(れうせう)の天に向ひて立つものあるなり。
 太郎坊を出づるや一変して喬木を見ず、灌木はミヤマ榛(はん)の木の痩(や)せさらばひたるが僅(わづか)に数株あるのみ、初めは草一面、後は焦沙(せうさ)磊々(らい/\)たる中に、虎杖(いたどり)、鬼薊(おにあざみ)及び他の莎草(しやさう)禾本(くわほん)を禿頭(とくとう)に残れる二毛の如くに見るも、それさへ失(う)せて、霧沸々(ふつ/\)として到るに遇(あ)ふ、天そゝり立つ大嶽とは是(こ)れか、眼前三四尺のところより胴切に遇ひて、殆(ほと)んど山の全体なるかを想はしむ、下界屡(しばし)ば見るところの井桁(ゐげた)ほどなる雲の穴より或(あるい)は皺(しわ)を延ばし、或は畳(たゝ)めるは、応(まさ)にこの時なるなからむや、今は山と、人と、石室と、地衣植物と、尽(じん)天地を霧の小壺(せうこ)に蔵せられて、混茫(こんばう)一切を弁(べん)ぜず、登山の騎客は悉(こと/″\)く二合二勺にて馬を下る。
 二勺より路は黒鉄(くろがね)を鍛へたる如く、天の一方より急斜して、爛沙(らんさ)、焦石(せうせき)、截々(せつ/\)、風の噪(さわ)ぐ音して人と伴ひ落下す、偶(たまた)ま雲を破りて額上微(かす)かに見るところの宝永山の赭土(あかつち)より、冷乳の缸(かめ)を傾けたる如く、大霧を揺(ゆ)るよと見る間に、急瀬(きふらい)上下に乱流する如くなりて、中霄(ちゆうせう)に溢(あふ)れ、片々団々(だん/\)、□(さか)れて飛んで細かく分裂するや、シヤボン球の如き小薄膜となり、球々相摩擦(まさつ)して、争ひて下界に下る、三合四合、皆天には霧の球、地には火山の弾子(だんし)、五合目にして一天の霧漸(やうや)く霽(は)れ、下に屯(よど)めるもの、風なきに逆(さか)しまに□(あ)がり、故郷を望んで帰り去(い)なむを私語(さゞめ)く。この登山に唯一のおそろしきものゝやうに言ひ做(な)す、胸突(むなつき)八丁にかゝり、暫く足を休めて後を顧(かへりみ)る、天は藍色に澄み、霧は紫微(しび)に収まり、領巾(ひれ)の如き一片の雲を東空に片寄せて、透(す)きわたりたる宇宙は、水を打つたるより静かなり、東に伊豆の大島、箱根の外輪山、仙窟(せんくつ)に醸(かも)されたる冷氷の如き蘆(あし)の湖、氷上を跣(す)べりて僵(たふ)れむとする駒ヶ嶽、神山、冠ヶ嶽、南に富士川は茫々(ばう/\)たる乾面上に、錐(きり)にて刻まれたる溝(みぞ)となり、一線の針を閃(ひらめ)かして落つるところは駿河の海、銀(しろがね)の砥(と)平らかに、浩蕩(かうたう)として天と一(いつ)に融(と)く。
 銀明水に達したるは午後七時に垂(なんな)んとす、浅間社前の大石室に泊す、客は余を併せて四組七人、乾魚(ほしうを)一枚、麩(ふ)の味噌汁一杯、天保銭大の沢庵(たくあん)二切、晩餐(ばんさん)の総(す)べては是(かく)の如きのみ、葉マキ虫の葉を綴(つゞ)りて寝(い)ぬる如く、一同皆蒲団(ふとん)に包(くる)まりて一睡す。
 夜九時、大風室(むろ)を四匝(しさふ)せる石壁を透徹して雷吼(らいこう)す、駭魄(がいはく)して耳目きはめて鋭敏となり、昨夜御殿場旅館階上の月を憶(おも)ひ起し、一人窃(ひそか)に戸を排して出で、火孔に吹き飛ばされぬ用心して、這(は)ふが如く剣ヶ峰に到り、その一角にしがみ附きて観る。
 霧収まりて天低う垂れ、銀錫(ぎんしやく)円盤大の白月、額に当つて空水流るゝこと一万里、截鉄(せつてつ)の如き玄沙(げんさ)□忽(しゆくこつ)として黒玻璃(はり)と化す。雲の峰一道二道と山の腋(わき)より立ち昇りて、神女白銀の御衣(みけし)を曳(ひ)いて長し、我にいま少し仙骨を有するの自信あらば、駕(が)して天際に達する易行道(いぎやうだう)となしたりしならむ、下は即(すなは)ち荒□(くわうばく)として、裾野も、森林も、一面に大瀛(たいえい)の如く、茫焉(ばうえん)として始処を知らず、終所を弁ぜず、長流(ながる)言はずや、不二の根に登りてみれば天地(あめつち)は、未(ま)だいくほども別れざりけりと、まことや今日本八十州、残る隈(くま)なく雲の波に浸(ひた)されて、四面圜海(くわんかい)の中、兀立(こつりつ)するは我微躯(びく)を載せたる方(はう)幾十尺の不二頂上の一撮土(さつど)のみ、このとき白星を啣(ふく)める波頭に、漂ふ不二は、一片石よりも軽且(かつ)小なり、仰げば無量無数の惑星恒星、爛(らん)として、吁嗟(ああ)億兆何の悠遠(いうえん)ぞ、月は夜行性の蛾(が)の如く、闌(た)けて愈(いよい)よ白く、こゝに芙蓉(ふよう)の蜜腺なる雲の糸をたぐりて、天香を吸収す、脚下紋銀白色をなせる雲を透かして、僅(わづか)に瞰(うかゞ)ひ得たり、この芙蓉の根部より匐枝(ふくし)を出だしたる如き、宝永山の、鮮やかに黒紫色に凝固せるを、西へと落ちたる冷魂の、銹(さび)におぼろなる弧線を引いて、雲と有耶無耶(うやむや)の境地に澄みかへれるは本栖湖にやあらむずらむ。雲は寄る寄る崖(がけ)を噛(か)んで、刎(は)ね返されたる倒波(ローラア)の如きあり、その下層地平線に触(ふ)れて、波長を減じたるため、上層と擦(さつ)して白波(サアフ)の泡(あは)立つごときあり、之(これ)を照らすにかの晃々(くわう/\)たる大月あり、その光被するところ、総(す)べてを化石となす、試(こゝろみ)に我が手を挙(あ)ぐるに、晶(あきらけ)きこと寒水石を彫(ゑ)り成したる如し、我が立てる劒ヶ峰より一歩の下、窈然(えうぜん)として内院の大窖(たいかう)あり、むかし火を噴(ふ)きたるところ、今神仙の噫気(あいき)を秘蔵するか、かゝる明夜に、靉靆(あいたい)として立ち昇る白気こそあれ、何物たるかを端知せむと欲して、袖庇(しうひ)に耐風マッチを擦(さつ)するも、全く用を成さず、試に拳石を転ずるに、鳴鏑(めいてき)の如く尖(とが)りたる声ありて、奈落(ならく)に通ず、立つこと久しうして、我が五躰(ごたい)は、悉(こと/″\)く銀の鍼線(しんせん)を浴び、自ら駭(おどろ)くらく、水精姑(しばら)く人と仮幻(かげん)したるにあらざるかと、げに呼吸器の外に人間の物、我にあらざるなり、おもひみる天風北溟(ほくめい)の荒濤(くわうたう)を蹴り、加賀の白山を拍(う)ちて旋(か)へらず、雪の蹄(ひづめ)の黒駒や、乗鞍ヶ嶽駒ヶ嶽を掠(かす)めて、山霊(やまたま)木魂(こだま)吶喊(とき)を作り、この方寸曠古(くわうこ)の天地に吹きすさぶを、永冷(ひようれい)[#「永冷」はママ]歯に徹し、骨に徹し、褞袍(どてら)二枚に夜具をまで借着したる我をして、腮(あご)を以て歯を打たしむ、竟(つひ)に走つて室に入り、夜具引き被(かづ)きて、夜もすがら物の怪(け)に遇ひたる如くに顫(おのゝ)きぬ。
 翌朝四時十五分といふに、床を蹴る、未だ日の出を見ずして、大島、利島、御蔵島の、糢糊(もこ)の間に活(い)きて游ぶにあらざるかを疑ふ、三浦半島と房総と、長虫の如く蜿(う)ねりて出没す、武甲の山は純紫にして、蒸々たる紅玉の日、雲の三段流れに沁(し)み入りて、眩光(げんくわう)を斜に振り飛ばすや、劒ヶ峰の一角先づ燧(ひうち)を発する如く反照し、峰に倚(よ)れる我が髭(ひげ)燃えむとす、光の先づ宿るところは、棟(むね)高き真理の精舎(しやうじや)にあるを念(おも)ふ、太陽なる哉(かな)、我は現世に在りて只(たゞ)太陽を讚(さん)するのみ、顧れば甲武の山の若紫を焼いて、山肩茜色(せんしよく)の暗潮一味を刷(は)く。
 下りて七合目に至る、霜髪の翁(おきな)、剛力の肩をも借らず、杖つきて下山するに追ひつく、郷貫(きやうくわん)を質(たゞ)せば関西の人なりといふ、年歯(ねんし)を問へば、即(すなは)ち対(こた)へて曰(いは)く、当年八十四歳になります!




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