あらくれ
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著者名:徳田秋声 

あらくれ徳田秋声        一 お島(しま)が養親(やしないおや)の口から、近いうちに自分に入婿(いりむこ)の来るよしをほのめかされた時に、彼女の頭脳(あたま)には、まだ何等の分明(はっきり)した考えも起って来なかった。 十八になったお島は、その頃その界隈(かいわい)で男嫌(おとこぎら)いという評判を立てられていた。そんなことをしずとも、町屋の娘と同じに、裁縫やお琴の稽古(けいこ)でもしていれば、立派に年頃の綺麗(きれい)な娘で通して行かれる養家の家柄ではあったが、手頭(てさき)などの器用に産れついていない彼女は、じっと部屋のなかに坐っているようなことは余り好まなかったので、稚(ちいさ)いおりから善く外へ出て田畑の土を弄(いじ)ったり、若い男たちと一緒に、田植に出たり、稲刈に働いたりした。そうしてそんな荒仕事がどうかすると寧(むし)ろ彼女に適しているようにすら思われた。養蚕の季節などにも彼女は家中(うちじゅう)の誰よりも善く働いてみせた。そうして養父や養母の気に入られるのが、何よりの楽しみであった。界隈の若い者や、傭(やと)い男などから、彼女は時々揶揄(からか)われたり、猥(みだ)らな真似(まね)をされたりする機会が多かった。お島はそうした男たちと一緒に働いたり、ふざけたりして燥(はしゃ)ぐことが好(すき)であったが、誰もまだ彼女の頬(ほお)や手に触れたという者はなかった。そう云う場合には、お島はいつも荒れ馬のように暴れて、小(こ)ッぴどく男の手顔を引かくか、さもなければ人前でそれを素破(すっぱ)ぬいて辱(はじ)をかかせるかして、自ら悦(よろこ)ばなければ止まなかった。 お島は今でもその頃のことを善く覚えているが、彼女がここへ貰(もら)われてきたのは、七つの年であった。お島は昔気質(むかしかたぎ)の律義(りちぎ)な父親に手をひかれて、或日の晩方、自分に深い憎しみを持っている母親の暴(あら)い怒と惨酷(ざんこく)な折檻(せっかん)から脱(のが)れるために、野原をそっち此方(こっち)彷徨(うろつ)いていた。時は秋の末であったらしく、近在の貧しい町の休茶屋や、飲食店などには赤い柿の実が、枝ごと吊(つる)されてあったりした。父親はそれらの休み茶屋へ入って、子供の疲れた足を劬(いた)わり休めさせ、自分も茶を呑んだり、莨(たばこ)をふかしたりしていたが、無智なお島は、茶屋の女が剥(む)いてくれる柿や塩煎餅(しおせんべい)などを食べて、臆病(おくびょう)らしい目でそこらを見まわしていた。今まで赤々していた夕陽(ゆうひ)がかげって、野面(のづら)からは寒い風が吹き、方々の木立や、木立の蔭の人家、黄色い懸稲(かけいね)、黝(くろ)い畑などが、一様に夕濛靄(ゆうもや)に裹(つつ)まれて、一日苦使(こきつか)われて疲れた体(からだ)を慵(ものう)げに、往来を通ってゆく駄馬の姿などが、物悲しげみえた。お島は大きな重い車をつけられて、従順に引張られてゆく動物のしょぼしょぼした目などを見ると、何となし涙ぐまれるようであった。気の荒い母親からのがれて、娘の遣場(やりば)に困っている自分の父親も可哀そうであった。 お島は爾時(そのとき)、ひろびろした水のほとりへ出て来たように覚えている。それは尾久(おく)の渡(わたし)あたりでもあったろうか、のんどりした暗碧(あんぺき)なその水の面(おも)にはまだ真珠色の空の光がほのかに差していて、静かに漕(こ)いでゆく淋(さび)しい舟の影が一つ二つみえた。岸には波がだぶだぶと浸(ひた)って、怪獣のような暗い木の影が、そこに揺(ゆら)めいていた。お島の幼い心も、この静かな景色を眺(なが)めているうちに、頭のうえから爪先まで、一種の畏怖(いふ)と安易とにうたれて、黙ってじっと父親の痩せた手に縋(すが)っているのであった。        二 その時お島の父親は、どういう心算(つもり)で水のほとりへなぞ彼女をつれて行ったのか、今考えてみても父親の心持は素(もと)より解らない。或(あるい)は渡しを向うへ渡って、そこで知合の家(うち)を尋ねてお島の体の始末をする目算であったであろうが、お島はその場合、水を見ている父親の暗い顔の底に、或可恐(おそろ)しい惨忍(ざんにん)な思着(おもいつき)が潜んでいるのではないかと、ふと幼心に感づいて、怯(おび)えた。父親の顔には悔恨と懊悩(おうのう)の色が現われていた。 赤児のおりから里にやられていたお島は、家へ引取られてからも、気強い母親に疎(うと)まれがちであった。始終めそめそしていたお島は、どうかすると母親から、小さい手に焼火箸(やけひばし)を押しつけられたりした。お島は涙の目で、その火箸を見詰めていながら、剛情にもその手を引込めようとはしなかった。それが一層母親の憎しみを募らせずにはおかなかった。「この業(ごう)つく張(ばり)め」彼女はじりじりして、そう言って罵(ののし)った。 昔は庄屋であったお島の家は、その頃も界隈の人達から尊敬されていた。祖父が将軍家の出遊(しゅつゆう)のおりの休憩所として、広々した庭を献納したことなどが、家の由緒に立派な光を添えていた。その地面は今でも市民の遊園地として遺(のこ)っている。庭作りとして、高貴の家へ出入していたお島の父親は、彼が一生の瑕(きず)としてお島たちの母親である彼が二度目の妻を、賤(いや)しいところから迎えた。それは彼が、時々酒を飲みに行く、近辺の或安料理屋にいる女の一人であった。彼女は家にいては能(よ)く働いたがその身状(みじょう)を誰も好く言うものはなかった。 お島が今の養家へ貰われて来たのは、渡場(わたしば)でその時行逢った父親の知合の男の口入(くちいれ)であった。紙漉場(かみすきば)などをもって、細々と暮していた養家では、その頃不思議な利得があって、遽(にわか)に身代が太り、地所などをどしどし買入れた。お島は養親(やしないおや)の口から、時々その折の不思議を洩(も)れ聞いた。それは全然(まるで)作物語(つくりものがたり)にでもありそうな事件であった。或冬の夕暮に、放浪(さすらい)の旅に疲れた一人の六部(ろくぶ)が、そこへ一夜の宿を乞求めた。夜があけてから、思いがけない或幸いが、この一家を見舞うであろう由を言告(いいつ)げて立去った。その旅客の迹(あと)に、貴い多くの小判が、外に積んだ楮(かぞ)のなかから、二三日たって発見せられた。養父は大分たってから、一つはその旅客の迹を追うべく、一つは諸方の神仏に、自分の幸(さち)を感謝すべく、同じ巡礼の旅に上ったが、終(つい)にそれらしい人の姿にも出逢わなかった。左(と)に右(かく)、養家はそれから好い事ばかりが続いた。ちょいちょい町の人達へ金を貸つけたりして、夫婦は財産の殖えるのを楽んだ。「その六部が何者であったかな」養父は稀(まれ)に門辺(かどべ)へ来る六部などへ、厚く報謝をするおりなどに、その頃のことを想出して、お島に語聞(かたりきか)せたが、お島はそんな事には格別の興味もなかった。 養家へ来てからのお島は、生(うみ)の親や兄弟たちと顔を合す機会は、滅多になかった。        三 然(しか)し時がたつに従って、その時の事実の真相が少しずつお島の心に沁込(しみこ)むようになって来た。養家の旧(もと)を聞知っている学校友達などから、ちょいちょい聞くともなし聞齧(ききかじ)ったところによると、六部はその晩急病のために其処(そこ)で落命したのであった。そして死んだ彼の懐(ふとこ)ろに、小判の入った重い財布があった。それをそっくり養父母は自分の有(もの)にして了(しま)ったと云うのであった。お島はその説の方に、より多く真実らしいところがあると考えたが、矢張(やっぱり)好い気持がしなかった。「言いたがるものには、何とでも言わしておくさ。お金ができると何とかかとか言いたがるものなのだよ」 お島がその事を、私(そっ)と養母に糺(ただ)したとき、彼女はそう言って苦笑していたが、養父母に対する彼女のこれまでの心持は、段々裏切られて来た。自分の幸福にさえ黒い汚点(しみ)が出来たように思われた。そしてそれからと云うもの、出来るだけ養父母の秘密と、心の傷を劬(いたわ)りかばうようにと力(つと)めたが、どうかすると親たちから疎(うと)まれ憚(はばか)られているような気がさしてならなかった。 六部の泊ったと云う、仏壇のある寂しい部屋を、お島は夜(よる)厠(かわや)への往来(ゆきき)に必ず通らなければならなかった。そこは畳の凸凹(でこぼこ)した、昼でも日の光の通わないような薄暗い八畳であった。夫婦はそこから一段高い次の部屋に寝ていたが、お島は大きくなってからは大抵(たいてい)勝手に近い六畳の納戸(なんど)に寝(ねか)されていた。お島はその八畳を通る度(たんび)に、そこに財布を懐ろにしたまま死んでいる六部の蒼白(あおじろ)い顔や姿が、まざまざ見えるような気がして、身うちが慄然(ぞっ)とするような事があった。夜はいつでも宵の口から臥床(ふしど)に入ることにしている父親の寝言などが、ふと寝覚(ねざめ)の耳へ入ったりすると、それが不幸な旅客の亡霊か何ぞに魘(うな)されている苦悶(くもん)の声ではないかと疑われた。 陽気のぽかぽかする春先などでも家(うち)のなかには始終湿っぽく、陰惨な空気が籠(こも)っているように思えた。そして終日庭むきの部屋で針をもっていると、頭脳(あたま)がのうのうして、寿命がちぢまるような鬱陶(うっとう)しさを感じた。お島は糸屑(いとくず)を払いおとして、裏の方にある紙漉場(かみすきば)の方へ急いで出ていった。 薮畳(やぶだたみ)を控えた広い平地にある紙漉場の葭簀(よしず)に、温かい日がさして、楮(かぞ)を浸すために盈々(なみなみ)と湛(たた)えられた水が生暖(なまあたた)かくぬるんでいた。そこらには桜がもう咲きかけていた。板に張られた紙が沢山日に干されてあった。この商売も、この三四年近辺に製紙工場が出来などしてからは、早晩罷(や)めてしまうつもりで、養父は余り身を入れぬようになった。今は職人の数も少かった。そして幾分不用になった空地(あきち)は庭に作られて、洒落(しゃれ)た枝折門(しおりもん)などが営(しつら)われ、石や庭木が多く植え込まれた。住居(すまい)の方もあちこち手入をされた。養父は二三年そんな事にかかっていたが、今は単にそればかりでなく、抵当流れになったような家屋敷も外(ほか)に二三箇所はあるらしかった。けれど養父母はお島に詳しいことを話さなかった。「貧乏くさい商売だね」お島は自分の稚(ちいさ)い時分から居ずわりになっている男に声かけた。その男は楮の煮らるる釜の下の火を見ながら、跪坐(しゃが)んで莨(たばこ)を喫(す)っていた。 顎髯(あごひげ)の伸びた蒼白い顔は、明い春先になると、一層貧相らしくみえた。「お前さんの紙漉も久しいもんだね」「駄目だよ。旦那(だんな)が気がないから」作(さく)と云うその男は俛(うつむ)いたまま答えた。「もう楮のなかから小判の出て来る気遣(きづかい)もないからね」「真実(ほんとう)だ」お島は鼻頭(はなのさき)で笑った。        四 お島は幼(ちいさ)い時分この作という男に、よく学校の送迎(おくりむかい)などをして貰ったものだが、養父の甥(おい)に当る彼は、長いあいだ製紙の職工として、多くの女工と共に働かされたのみならず、野良仕事や養蚕にも始終苦使(こきつか)われて来た。そうして気の強い主婦からはがみがみ言われ、お島からは豕(ぶた)か何ぞのように忌嫌(いみきら)われた。絶え間のない労働に堪えかねて、彼はどうかすると気分が悪いといって、少し遅くまで寝ているようなことがあると、主婦のおとらは直(じき)に気荒く罵った。「おいおい、この忙(せわ)しいのに寝ている奴があるかよ。旧(もと)を考えてみろ」 おとらは作の隠れて寝ている物置のような汚いその部屋を覗込(のぞきこ)みながら毎時(いつ)ものお定例(きまり)を言って呶鳴(どな)った。甲走(かんばし)ったその声が、彼の脳天までぴんと響いた、作は主人の兄にあたるやくざ[#「やくざ」に傍点]者と、どこのものともしれぬ旅芸人の女との間(なか)にできた子供であった。彼の父親は賭博(とばく)や女に身上(しんしょう)を入揚(いれあ)げて、その頃から弟の厄介ものであったが、或時身寄を頼って、上州の方へ稼(かせ)ぎに行っていたおりにその女に引かかって、それから乞食のように零落(おちぶ)れて、間もなくまた二人でこの町へ復(かえ)って来た。その時身重であったその女が、作を産(うみ)おとしてから程なく、子供を弟の家に置去(おきざり)に、どこともなく旅へ出て行った。男が病気で死んだと云う報知(しらせ)が、木更津(きさらず)の方から来たのは、それから二三年も経(た)ってからであった。 お島はおとらが、その頃のことを何かのおりには作に言聞かせているのを善く聞いた。おとらは兄夫婦が、汽車にも得乗(えの)らず、夏の暑い日と、野原の荒い風に焼けやつれた黝(くろ)い顔をして、疲れきった足を引きずりながら這込(はいこ)んで来た光景を、口癖のように作に語って聞かせた。少しでも怠けたり、ずるけたりするとそれを持出した。「あの衆(しゅ)と一緒だったら、お前だって今頃は乞食でもしていたろうよ。それでも生みの親が恋しいと思うなら、いつだって行くがいい」 作は親のことを言出されると、時々ぽろぽろ涙を流していたものだが、終(しまい)にはえへへと笑って聞いていた。 作はそんなに醜い男ではなかったが、いじけて育ったのと、発育盛(さかり)を劇(はげ)しい労働に苦使(こきつか)われて営養が不十分であったので、皮膚の色沢(いろつや)が悪く、青春期に達しても、ばさばさしたような目に潤いがなかった。主人に吩咐(いいつ)かって、雨降りに学校へ迎えに行ったり、宵に遊びほうけて、何時までも近所に姿のみえないおりなどは、遠くまで捜しにいったりして、負(おぶ)ったり抱いたりして来たお島の、手足や髪の見ちがえるほど美しく肉づき伸びて行くのが物希(ものめずら)しくふと彼の目に映った。たっぷりしたその髪を島田に結って、なまめかしい八つ口から、むっちりした肱(ひじ)を見せながら、襷(たすき)がけで働いているお島の姿が、長いあいだ彼の心を苦しめて来た、彼女に対する淡い嫉妬(しっと)をさえ、吸取るように拭(ぬぐ)ってしまった。それまで彼は歴々(れっき)とした生みの親のある、家の後取娘として、何かにつけておとらから衒(ひけ)らかす様に、隔てをおかれるお島を、詛(のろ)わしくも思っていた。        五 お島が作を一層嫌って、侮蔑(ぶべつ)するようになったのもその頃からであった。 蒸暑い夏の或真夜中に、お島はそこらを開放(あけはな)して、蚊帳(かや)のなかで寝苦しい体を持余(もてあま)していたことがあった。酸(す)っぱいような蚊の唸声(うなりごえ)が夢現(ゆめうつつ)のような彼女のいらいらしい心を責苛(せめさいな)むように耳についた。その時ふとお島の目を脅(おびや)かしたのは、蚊帳のそとから覗(のぞ)いている作の蒼白い顔であった。「莫迦(ばか)、阿母(おっか)さんに言告(いいつ)けてやるぞ」 お島は高い調子に叫んだ。それで作はのそのそと出ていったが、それまで何の気もなしに見ていたそれと同じような作の挙動が、その時お島の心に一々意味をもって来た。お島は劇しい侮蔑を感じた。或時は野良仕事をしている時につけ廻されたり、或時は湯殿にいる自分の体に見入っている彼の姿を見つけたりした。 お島はそれ以来、作の顔を見るのも胸が悪かった。そして養父から、善く働く作を自分の婿に択(えら)ぼうとしているらしい意嚮(いこう)を洩(もら)されたときに、彼女は体が竦(すく)むほど厭(いや)な気持がした。しかし養父のその考えが、段々分明(はっきり)して来たとき、お島の心は、自(おのずか)ら生みの親の家の方へ嚮(む)いていった。「何しろ作は己(おれ)の血筋のものだから、同じ継(つが)せるなら、あれに後を取らせた方が道だ」 養父は時おり妻のおとらと、その事を相談しているらしかったが、お島はふとそれを立聞したりなどすると、堪えがたい圧迫を感じた。我儘(わがまま)な反抗心が心に湧返(わきかえ)って来た。 作の自分を見る目が、段々親しみを加えて来た。彼は出来るだけ打釈(うちと)けた態度で、お島に近づこうとした。畑で桑など摘(つ)んでいると、彼はどんな遠いところで、忙(せわ)しい用事に働いている時でも、彼女を見廻ることを忘れなかった。彼はその頃から、働くことが面白そうであった。叔父夫婦にも従順であった。お島は一層それが不快であった。 おとらが内々(ないない)お島の婿にしようと企てているらしい或若い男の兄が、その頃おとらのところへ入浸(いりびた)っていた。青柳と云うその男は、その町の開業医として可也(かなり)に顔が売れていたが、或私立学校を卒業したというその弟をも、お島はちょいちょい見かけて知っていた。 気爽(きさく)で酒のお酌などの巧いおとらは、夫の留守などに訪ねてくる青柳を、よく奥へ通して銚子(ちょうし)のお燗(かん)をしたりしているのを、お島は時々見かけた。一日かかって四十把(ぱ)の楮(かぞ)を漉(す)くのは、普通一人前(いちにんまえ)の極度の仕事であったが、おとらは働くとなると、それを八十把も漉くほどの働きものであった。そして人のいい夫を其方退(そっちの)けにして、傭い人を見張ったり、金の貸出方(かしだしかた)や取立方(とりたてかた)に抜目のない頭脳(あたま)を働かしていたが、青柳の顔が見えると、どんな時でも彼女の様子がそわそわしずにはいなかった。 お島の目にも、愛相(あいそ)のいい青柳の人柄は好ましく思えた。彼は青柳から始終お島坊お島坊と呼びなずけられて来た。最近青柳がいつか養父から借りて、新座敷の造営に費(つか)った金高は、少い額ではなかった。        六 お島は作との縁談の、まだ持あがらぬずっと前から、よく養母のおとらに連れられて青柳と一緒に、大師さまやお稲荷(いなり)さまへ出かけたものであった。天性(うまれつき)目性の好くないお島は、いつの頃からこの医者に時々かかっていたか、分明(はっきり)覚えてもいないが、そこにいたお花と云う青柳の姪(めい)にあたる娘とも、遊び友達であった。 おとらは時には、青柳の家で、お島と対(つい)の着物をお花に拵(こしら)えるために、そこへ反物屋を呼んで、柄(がら)の品評(しなさだめ)をしたりしたが、仕立あがった着物を着せられた二人の娘は、近所の人の目には、双児(ふたご)としかみえなかった。おとらは青柳と大師まいりなどするおりには、初めはお島だけしか連れていかなかったものだが、偶(たま)にはお花をも誘い出した。 お花という連(つれ)のある時はそうでもなかったが、自分一人のおりには、お島は大人同志からは、全然(まるで)除(の)けものにされていなければならなかった。「じゃね、小父(おじ)さんと阿母(おっか)さんは、此処(ここ)で一服しているからね。お前は目がわるいんだから能(よ)くお詣(まい)りをしておいで。ゆっくりで可(い)いよ。阿母さんたちはどうせ遊びに来たんだからね。小父さんも折角来たもんだから、お酒の一口も飲まなければ満(つま)らないだろうし、阿母さんだって偶に出るんだからね」 おとらはそう言って、博多(はかた)と琥珀(こはく)の昼夜帯の間から紙入を取出すと、多分のお賽銭(さいせん)をお島の小さい蟇口(がまぐち)に入れてくれた。そこは大師から一里も手前にある、ある町の料理屋であった。二人はその奥の、母屋(おもや)から橋がかりになっている新築の座敷の方へ落着いてからお島を出してやった。 それは丁度初夏(はつなつ)頃の陽気で、肥ったお島は長い野道を歩いて、脊筋(せすじ)が汗ばんでいた。顔にも汗がにじんで、白粉(おしろい)の剥(は)げかかったのを、懐中から鏡を取出して、直したりした。山がかりになっている料理屋の庭には、躑躅(つつじ)が咲乱れて、泉水に大きな緋鯉が絵に描いたように浮いていた。始終働きづめでいるお島は、こんなところへ来て、偶に遊ぶのはそんなに悪い気持もしなかったが、落着のない青柳や養母の目色を候(うかが)うと、何となく気がつまって居辛(いづら)かった。そして小(ちいさ)いおりから母親に媚(こ)びることを学ばされて、そんな事にのみ敏(さと)い心から、自然(ひとりで)に故(ことさ)ら二人に甘えてみせたり、燥(はしゃ)いでみせたりした。「ええ、可(よ)ござんすとも」 お島は大きく頷(うなず)いて、威勢よくそこを出ると、急いで大師の方へと歩き出した。 町には同じような料理屋や、休み茶屋が外にも四五軒目に着いたが、人家を離れると直(すぐ)に田圃(たんぼ)道へ出た。野や森は一面に青々して、空が美しく澄んでいた。白い往来には、大師詣りの人達の姿が、ちらほら見えて、或雑木林の片陰などには、汚い天刑病(てんけいびょう)者が、そこにも此処にも頭を土に摺(すり)つけていた。それらの或者は、お島の迹(あと)から絡(まつ)わり着いて来そうな調子で恵みを強請(ねだ)った。お島はどうかすると、蟇口を開けて、銭を投げつつ急いで通過(とおりす)ぎた。        七 曲がりくねった野道を、人の影について辿(たど)って行くと、旋(やが)て大師道へ出て来た。お島はぞろぞろ往来(ゆきき)している人や俥(くるま)の群に交って歩いていったが、本所(ほんじょ)や浅草辺の場末から出て来たらしい男女のなかには、美しく装った令嬢や、意気な内儀(かみ)さんも偶(たま)には目についた。金縁(きんぶち)眼鏡をかけて、細巻(ほそまき)を用意した男もあった。独法師(ひとりぼっち)のお島は、草履や下駄にはねあがる砂埃(すなぼこり)のなかを、人なつかしいような可憐(いじら)しい心持で、ぱっぱと蓮葉(はすは)に足を運んでいた。ほてる脛(はぎ)に絡(まつ)わる長襦袢(ながじゅばん)の、ぽっとりした膚触(はだざわり)が、気持が好かった。今別れて来た養母や青柳のことは直(じき)に忘れていた。 大師前には、色々の店が軒を並べていた。張子の虎(とら)や起きあがり法師を売っていたり、おこしやぶっ切り[#「ぶっ」に傍点]飴(あめ)を鬻(ひさ)いでいたりした。蠑螺(さざえ)や蛤(はまぐり)なども目についた。山門の上には馬鹿囃(ばかばやし)の音が聞えて、境内にも雑多の店が居並んでいた。お島は久しく見たこともないような、かりん糖や太白飴(たいはくあめ)の店などを眺(なが)めながら本堂の方へあがって行ったが、何処(どこ)も彼処(かしこ)も在郷くさいものばかりなのを、心寂しく思った。お島は母に媚びるためにお守札や災難除のお札などを、こてこて受けることを怠らなかった。 そこを出てから、お島は野広い境内を、其方(そっち)こっち歩いてみたが、所々に海獣の見せものや、田舎(いなか)廻りの手品師などがいるばかりで、一緒に来た美しい人達の姿もみえなかった。お島は隙(ひま)を潰(つぶ)すために、若い桜の植えつけられた荒れた貧しい遊園地から、墓場までまわって見た。田舎爺(いなかじじい)の加持(かじ)のお水を頂いて飲んでいるところだの、蝋燭(ろうそく)のあがった多くの大師の像のある処の前に彳(たたず)んでみたりした。木立の中には、海軍服を着た痩猿(やせざる)の綱渡(つなわたり)などが、多くの人を集めていた。お島はそこにも暫(しばら)く立とうとしたが、焦立(いらだ)つような気分が、長く足を止(とど)めさせなかった。 休茶屋で、ラムネに渇(かわ)いた咽喉(のど)や熱(いき)る体を癒(いや)しつつ、帰路についたのは、日がもう大分かげりかけてからであった。田圃に薄寒い風が吹いて、野末のここ彼処に、千住あたりの工場の煙が重く棚引(たなび)いていた。疲れたお島の心は、取留(とりとめ)のない物足りなさに掻乱(かきみだ)されていた。 旧(もと)のお茶屋へ還って往くと、酒に酔(え)った青柳は、取ちらかった座敷の真中に、座蒲団(ざぶとん)を枕にして寝ていたが、おとらも赤い顔をして、小楊枝(こようじ)を使っていた。「まあ可(よ)かったね。お前お腹(なか)がすいて歩けなかったろう」おとらはお愛相(あいそ)を言った。「お前、お水を頂いて来たかい」「ええ、どっさり頂いて来ました」 お島はそうした嘘(うそ)を吐(つ)くことに何の悲しみも感じなかった。 おとらはお島に御飯を食べさせると、脱いで傍に畳んであった羽織を自分に着たり、青柳に着せたりして、やがて其処を引揚げたが、町へ帰り着く頃には、もうすっかり日がくれて蛙(かえる)の声が静(しずか)な野中に聞え、人家には灯(ひ)が点(とも)されていた。「みんな御苦労々々々」おとらは暗い入口から声かけながら入って行ったが、養父は裏で連(しきり)に何か取込んでいた。        八 お島は養父がいつまでも内に入って来ようともしず、入って来ても、飯がすむと直ぐ帳簿調に取かかったりして、無口でいるのを自分のことのように気味悪くも思った。お島はいつもするように、「肩をもみましょうか」と云って、養父の手のすいた時に、後へ廻って、養母に代って機嫌(きげん)を取るようにした。お島は九つ十の時分から、養父の肩を揉(も)ませられるのが習慣になっていた。 おとらは一ト休みしてから、晴れ着の始末などをすると、そっち此方(こっち)戸締をしたり、一日取ちらかった其処(そこ)らを疳性(かんしょう)らしく取片着けたりしていたが、そのうちに夫婦の間にぼつぼつ話がはじまって、今日行ったお茶屋の噂(うわさ)なども出た。そのお茶屋を養父も昔から知っていた。 此処から三四里もある或町の農家で同じ製紙業者の娘であったおとらは、その父親が若いおりに東京で懇意になった或女に産れた子供であったので、東京にも知合が多く、都会のことは能(よ)く知っているが、今の良人(おっと)が取引上のことで、ちょくちょく其処へ出入しているうちに、いつか親しい間(なか)になったのだと云うことは、お島もおとらから聞かされて知っていた。その頃痩世帯(やせじょたい)を張っていた養父は、それまで義理の母親に育てられて、不仕合せがちであったおとらと一緒になってから、二人で心を合せて一生懸命に稼いだ。その苦労をおとらは能くお島に言聞せたが、身上(しんしょう)ができてからのこの二三年のおとらの心持には、いくらか弛(たる)みができて来ていた。世間の快楽については、何もしらぬらしい養父から、少しずつ心が離れて、長いあいだの圧迫の反動が、彼女を動(と)もすると放肆(ほうし)な生活に誘出(おびきだ)そうとしていた。 お島は長いあいだ養父母の体を揉んでから、漸(やっ)と寝床につくことが出来たが、お茶屋の奥の間での、刺戟(しげき)の強い今日の男女(ふたり)の光景を思浮べつつ、直(じき)に健(すこ)やかな眠に陥ちて了った。蛙の声がうとうとと疲れた耳に聞えて、発育盛の手足が懈(だる)く熱(ほて)っていた。 翌朝(あした)も養父母は、何のこともなげな様子で働いていた。 お花を連出すときも、男女(ふたり)の遊び場所は矢張(やはり)同じお茶屋であったが、お島はお花と一緒に、浅草へ遊びにやって貰ったりした。お島はお花と俥(くるま)で上野の方から浅草へ出て往った。そして観音さまへお詣りをしたり、花屋敷へ入ったりして、※(とき)を消した。二人は手を引合って人込のなかを歩いていたが、矢張(やっぱり)心が落着かなかった。 おとらは時とすると、若い青柳の細君をつれだして、東京へ遊びに行くこともあったが、内気らしい細君は、誘わるるままに素直について往った。おとらは往返(いきかえ)りには青柳の家へ寄って、姉か何ぞのように挙動(ふるま)っていたが、細君は心の侮蔑を面(おもて)にも現わさず、物静かに待遇(あしら)っていた。        九 何時(いつ)の頃であったか、多分その翌年頃の夏であったろう、その年重(おも)にお島の手に委(まか)されてあった、僅(わずか)二枚ばかりの蚕が、上蔟(じょうぞく)するに間(ま)のない或日、養父とごたごたした物言(ものいい)の揚句(あげく)、養母は着物などを着替えて、ぶらりと何処かへ出ていって了(しま)った。 養母はその時、青柳にその時々に貸した金のことについて、養父から不足を言われたのが、気に障(さ)わったと云って、大声をたてて良人に喰(く)ってかかった。話の調子の低いのが天性(もちまえ)である養父は、嵩(かさ)にかかって言募って来るおとらの為めに遣込(やりこ)められて、終(しまい)には宥(なだ)めるように辞(ことば)を和げたが、矢張(やっぱり)いつまでもぐずぐず言っていた。「ちっと昔しを考えて見るが可(い)いんだ。お前さんだって好いことばかりもしていないだろう。旧(もと)を洗ってみた日には、余(あんま)り大きな顔をして表を歩けた義理でもないじゃないか」 養蚕室にあてた例の薄暗い八畳で、給桑(きゅうそう)に働いていたお島は、甲高(かんだか)なその声を洩聞くと、胸がどきりとするようであった。お島は直(じき)に六部のことを思出さずにいられなかった。ぶすぶす言っている哀れな養父(ちち)の声も途断れ途断れに聞えた。 青柳に貸した金の額は、お島にはよくは判らなかったが、家の普請に幾分用立てた金を初めとして、ちょいちょい持っていった金は少い額ではないらしかった。この一二年青柳の生活が、いくらか華美になって来たのが、お島にも目についた。養父の知らないような少額の金や品物が、始終養母の手から私(そっ)と供給されていた。 お島はその年の冬の頃、一度青柳と一緒に落会った養母のお伴をしたことがあったが、十七になるお島を連出すことはおとらにも漸(ようや)く憚(はばか)られて来た。場所も以前のお茶屋ではなかった。 その日も養父は、使い道の分明(はっきり)しないような金のことについて、昼頃からおとらとの間に紛紜(いざこざ)を惹起(ひきおこ)していた。長いあいだ不問に附して来た、青柳への貸のことが、ふとその時彼の口から言出された。そして日頃肚(はら)に保(も)っていた色々の場合のおとらの挙動(ふるまい)が、ねちねちした調子で詰(なじ)られるのであった。 結局おとらは、綺麗に財産を半分わけにして、別れようと言出した。そして良人の傍を離れると、奥の間へ入って、暫(しばら)く用箪笥(ようだんす)の抽斗(ひきだし)の音などをさせていたが、それきり出ていった。「まあ阿母(おっか)さん、そんなに御立腹なさらないで、後生ですから家にいて下さい。阿母さんが出ていっておしまいなすったら、私(わたし)なんざどうするんでしょう」 お島はその傍へいって、目に涙をためて哀願したが、おとらは振顧(ふりむ)きもしなかった。 夜になってから、お島は養父に吩咐(いいつ)かって、近所をそっち此方(こっち)尋ねてあるいた。青柳の家へもいって見たが、見つからなかった。 おとらの未(ま)だ帰って来ない、或日の午後、蚕に忙(せわ)しいお島の目に、ふと庭向の新建(しんだち)の座敷で、おとらを生家(さと)へ出してやった留守に、何時か為(し)たように、夥(おびただ)しい紙幣(さつ)を干している養父の姿を見た。八畳ばかりの風通しのいいその部屋には、紙幣の幾束が日当りへ取出されてあった。        十 お島は養父が、二三軒の知合の家へ葉書を出したことを知っていたが、おとらが帰ってから、漸(やっ)と届いたおとらの生家(さと)の外は、その返辞はどこからも来なかった。 養父はどうかすると、蚕室にいるお島の傍へ来て、もうひきるばかりになっている蚕を眺めなどしていた。蚕の或物はその蒼白(あおじろ)い透徹(すきとお)るような躯(からだ)を硬張(こわばら)せて、細い糸を吐きかけていた。「お前阿母(おっかあ)から口止されてることがあるだろうが」 養父はこの時に限らず、おとらのいない処で、どうかするとお島に訊(たず)ねた。「どうしてです。いいえ」お島は顔を赧(あから)めた。 しかし養父はそれ以上深入しようとはしなかった。お島にはおとらに対する養父の弱点が見えすいているようであった。 もう遊びあいて、家(うち)が気にかかりだしたと云う風で、おとらの帰って来たのは、その日の暮近くであった。養父はまだ帳場の方を離れずにいたが、おとらは亭主にも辞(ことば)もかけず、「はい只今」と、お島に声かけて、茶の間へ来て足を投げ出すと、せいせいするような目色(めつき)をして、庭先を眺めていた。濃い緑の草や木の色が、まだ油絵具のように生々(なまなま)してみえた。 お島は脱ぎすてた晴衣や、汗ばんだ襦袢(じゅばん)などを、風通しのいい座敷の方で、衣紋竹(えもんだけ)にかけたり、茶をいれたりした。「こんな時に顔を出しておきましょうと思って、方々歩きまわって来たよ」おとらは行水をつかいながら、背(せなか)を流しているお島に話しかけた。その行った先には、種違いのおとらの妹の片着先(かたづきさき)や、子供のおりの田舎の友達の縁づいている家などがあった。それらは皆(みん)な東京のごちゃごちゃした下町の方であった。そして誰も好い暮しをしている者はないらしかった。そして一日二日もいると、直(じき)に厭気(いやけ)がさして来た。おとら夫婦は、金ができるにつれて、それ等の人達との間に段々隔てができて、往来(ゆきき)も絶えがちになっていた。生家(さと)とも矢張(やっぱり)そうであった。 湯から上がって来ると、おとらは東京からこてこて持って来た海苔(のり)や塩煎餅(しおせんべい)のようなものを、明(あかり)の下で亭主に見せなどしていたが、飯がすむと蚊のうるさい茶の間を離れて、直(じき)に蚊帳(かや)のなかへ入ってしまった。 毎夜々々寝苦しいお島は、白い地面の瘟気(いきれ)の夜露に吸取られる頃まで、外へ持出した縁台に涼んでいたが、近所の娘達や若いものも、時々そこに落会った。町の若い男女の噂が賑(にぎわ)ったり、悪巫山戯(わるふざけ)で女を怒(おこ)らせたりした。 仕舞湯(しまいゆ)をつかった作が、浴衣(ゆかた)を引かけて出て来ると、うそうそ傍へ寄って来た。「この莫迦(ばか)また出て来た」お島は腹立しげについと其処を離れた。        十一 おとらと青柳との間に成立っていたお島と青柳の弟との縁談が、養父の不同意によって、立消えになった頃には、おとらも段々青柳から遠ざかっていた。一つはお島などの口から、自分と青柳との関係が、うすうす良人の耳に入ったことが、その様子で感づかれたのに厭気がさしたからであったが、一つは青柳夫婦がぐるになって、慾一方でかかっていることが余りに見えすいて来たからであった。 お島が十七の暮から春へかけて、作の相続問題が、また養父母のあいだに持あがって来た。お島はそのことで、養父母の機嫌をそこねてから、一度生みの親達の傍へ帰っていた。お島はその頃、誰が自分の婿であるかを明白(はっきり)知らずにいた。そして婚礼支度の自分の衣裳(いしょう)などを縫いながら、時々青柳の弟のことなどを、ぼんやり考えていた。東京の学校で、機械の方をやっていたその弟と、お島はついこれまで口を利(き)いたこともなかったし、自分をどう思っているかをも知らなかったが、深川の方に勤め口が見つかってから、毎朝はやく、詰襟(つめえり)の洋服を着て、鳥打をかぶって出て行く姿をちょいちょい見かけた。途中で逢うおりなどには、双方でお辞儀ぐらいはしたが、お島自身は彼について深く考えて見たこともなかった。そして青柳とおとらとの間に、その話の出るとき毎時(いつも)避けるようにしていた。 ある時そんな事については、から薄ぼんやりなお花の手を通して、綺麗(きれい)な横封に入った手紙を受取ったが、洋紙にペンで書いた細(こまか)い文字が、何を書いてあるのかお花にはよくも解らなかったが、双方の家庭に対する不満らしいことの意味が、お島にもぼんやり頭脳(あたま)に入った。お島のそんな家庭に縛られている不幸に同情しているような心持も、微(かすか)に受取れたが、お島は何だか厭味(いやみ)なような、擽(くすぐ)ったいような気がして、後で揉(もみ)くしゃにして棄(すて)てしまった。その事を、多少は誇りたい心で、おとらに話すと、おとらも笑っていた。「あれも妙な男さ。養子なんかに行くのは厭だといって置きながら、そんな物をくれるなんて、厭だね」 お島は養父母が、すっかり作に取決めていることを感づいてから、仕事も手につかないほど不快を感じて来た。おとらは不機嫌なお島の顔を見ると、お島が七つのとき初めて、人につれられて貰われて来た時の惨(みじめ)なさまを掘返して聞せた。「あの時お前のお父(とっ)さんは、お前の遣場(やりば)に困って、阿母(おっか)さんへの面(つら)あてに川へでも棄ててしまおうかと思ったくらいだったと云う話だよ。あの阿母さんの手にかかっていたら、お前は産れもつかぬ不具(かたわ)になっていたかも知れないよ」おとらはそう言って、生みの親の無情なことを語り聞かせた。        十二 近所でも知らないような、作とお島との婚礼談(こんれいばなし)が、遠方の取引先などで、意(おも)いがけなくお島の耳へ入ったりしてから、お島は一層分明(はっきり)自分の惨(みじめ)な今の身のうえを見せつけられるような気がして、腹立しかった。そしてその事を吹聴してあるくらしい、作の顔が一層間ぬけてみえ、厭らしく思えた。「まだ帰らねえかい」そう言って、小さい時分から学校へ迎えに来た作は、昔も今も同じような顔をしていた。「外に待っておいで」お島はよく叱(しか)りつけるように言って、入り口の外に待たしておいたものだが、今でも矢張(やっぱり)、下駄に手をふれられても身ぶるいがするほど厭であった。 婚礼談(ばなし)が出るようになってから、作は懲りずまに善くお島の傍へ寄って来た。余所行(よそゆき)の化粧をしているとき、彼は横へ来てにこにこしながら、横顔を眺めていた。「あっちへ行っておいで」お島はのしかかるような疳癪声(かんしゃくごえ)を出して逐退(おいしりぞ)けた。「そんなに嫌わんでも可(い)いよ」作はのそのそ出ていった。 作の来るのを防ぐために、お島は夜自分の部屋の襖(ふすま)に心張棒(しんばりぼう)を突支(つっか)えておいたりしなければならなかった。「厭だ厭だ、私死んでも作なんどと一緒になるのは厭です」お島は作のいる前ですら、始終母親にそう言って、剛情を張通して来た。「作さんが到頭お島さんのお婿さんに決ったそうじゃないか」 お島は仕切を取りに行く先々で、揶揄(からか)い面(づら)で訊(き)かれた。足まめで、口のてきぱきしたお島は、十五六のおりから、そうした得意先まわりをさせられていた。お島のきびきびした調子と、蓮葉(はすは)な取引とが、到るところで評判がよかった。物馴(ものな)れてくるに従って、お島の顔は一層広くなって行った。 それが小心な養父には、気に入らなかった。時々お島は養父から小言を言われた。「可(い)いじゃありませんか阿父(おとっ)さん、家の身上(しんしょう)をへらすような気遣(きづかい)はありませんよ」お島は煩(うる)さそうに言った。「阿父さんのように吝々(けちけち)していたんじゃ、手広い商売は出来やしませんよ」 ぱっぱっとするお島の遣口(やりくち)に、不安を懐(いだ)きながらも、気無性(きぶしょう)な養父は、お島の働きぶりを調法がらずにはいられなかった。「嘘ですよ」 お島は作と自分との結婚を否認した。「それでも作さんがそう言っていましたぜ」取引先の或人は、そう言って面白そうにお島の顔を瞶(みつ)めた。「あの莫迦の言うことが、信用できるもんですか」お島は鼻で笑っていた。 王子の方にある生家へ逃げて帰るまでに、お島の周囲には、その噂が到るところに拡がっていた。「それじゃお前は、どんな男が望みなのだえ」おとらは終(しまい)にお島に訊ねた。「そうですね」お島はいつもの調子で答えた。「私はあんな愚図々々した人は大嫌いです。些(ちっ)とは何か大きい仕事でもしそうな人が好きですの。そして、もっと綺麗に暮していけるような人でなければ、一生紙をすいたり、金の利息の勘定してるのはつくづく厭だと思いますわ」        十三 盆か正月でなければ、滅多に泊ったことのない生みの親達の家へ来て二三日たつと、直(じき)に養母が迎いに来た。 お島が盆暮に生家を訪ねる時には、砂糖袋か鮭(さけ)を提(たずさ)えて作が急度(きっと)お伴(とも)をするのであったが、この二三年商売の方を助(す)けなどするために、時には金の仕舞ってある押入や用箪笥(ようだんす)の鍵(かぎ)を委(まか)されるようになってからは、不断は仲のわるい姉や、母親の感化から、これも動(と)もすると自分に一種の軽侮(けいぶ)を持っている妹に、半衿(はんえり)や下駄や、色々の物を買って行って、お辞儀されるのを矜(ほこ)りとした。姉や妹に限らず、養家へ出入(ではいり)する人にも、お島はぱっぱと金や品物をくれてやるのが、気持が好かった。貧しい作男の哀願に、堅く財布の口を締めている養父も、傍へお島に来られて喙(くち)を容(い)れられると、因業(いんごう)を言張ってばかりもいられなかった。遊女屋から馬をひいて来る職工などに、お島は自分の考えで時々金を出してくれた。それらの人は、途(みち)でお島に逢うと、心から叮嚀(ていねい)にお辞儀をした。 大方の屋敷まわりを兄に委せかけてあった実家の父親は、兄が遊蕩(ゆうとう)を始めてから、また自分で稼業(かぎょう)に出ることにしていたので、お島はそうして帰って来ていても滅多に父親と顔を合さなかった。毎日々々箸(はし)の上下(あげおろ)しに出る母親の毒々しい当こすりが、お島の頭脳(あたま)をくさくささせた。「そう毎日々々働いてくれても、お前のものと云っては何(なん)にもありゃしないよ」 母親は、外へ出て広い庭の草を取ったり、父親が古くから持っていて手放すのを惜んでいる植木に水をくれたりして、まめに働いているお島の姿をみると、家のなかから言聞かせた。広い門のうちから、垣根に囲われた山がかりの庭には、松や梅の古木の植わった大きな鉢(はち)が、幾個(いくつ)となく置駢(おきなら)べられてあった。庭の外には、幾十株松を育(そだて)てある土地があったり、雑多の庭木を植つけてある場所があったりした。この界隈(かいわい)に散ばっているそれ等の地面が、近頃兄弟達の財産として、それぞれ分割されたと云うことはお島も聞いていた。 いつか父親が、自分の隠居所にするつもりで、安く手に入れた材木を使って建てさせた屋敷も、それ等の土地の一つのうちにあった。「ええ。些(ちっ)とばかりの地面や木なんぞ貰(もら)ったって、何になるもんですか。水島の物にだって目をくれてやしませんよ」お島は跣足(はだし)で、井戸から如露(じょろ)に水を汲込みながら言った。「好い気前だ。その根性骨だから人様に憎がられるのだよ」「憎むのは阿母さんばかりです。私はこれまで人に憎がられた覚(おぼえ)なんかありゃしませんよ」「そうかい、そう思っていれば間違はない。他人のなかに揉まれて、些(ちっ)とは直ったかと思っていれば、段々不可(いけな)くなるばかりだ」「余計なお世話です。自分が育てもしない癖に」お島は如露を提げて、さっさと奥の方へ入って行った。        十四 お島はもう大概水をくれて了ったのであったが、家へ入ってからの母親との紛紜(いさくさ)が気煩(きうるさ)さに、矢張(やっぱり)大きな如露をさげて、其方(そっち)こっち植木の根にそそいだり、可也(かなり)の距離から来る煤煙に汚れた常磐木(ときわぎ)の枝葉を払いなどしていたが、目が時々入染(にじ)んで来る涙に曇った。「お島さん、どうも済んませんね」などと、仕事から帰って来た若いものが声をかけたりした。「私はじっとしていられない性分だからね」とお島はくっきりと白い頬(ほお)のあたりへ垂れかかって来る髪を掻(かき)あげながら、繁(しげ)みの間から晴やかな笑声を洩していたが、預けられてあった里から帰って来て、今の養家へもらわれて行くまでの短い月日のあいだに、母親から受けた折檻(せっかん)の苦しみが、憶起(おもいおこ)された。四つか五つの時分に、焼火箸(やけひばし)を捺(おし)つけられた痕(あと)は、今でも丸々した手の甲の肉のうえに痣(あざ)のように残っている。父親に告口をしたのが憎らしいと云って、口を抓(つ)ねられたり、妹を窘(いじ)めたといっては、二三尺も積っている脊戸(せど)の雪のなかへ小突出(こづきだ)されて、息の窒(つま)るほどぎゅうぎゅう圧しつけられた。兄弟達に食物を頒(わ)けるとき、お島だけは傍に突立ったまま、物欲しそうに、黙ってみている様子が太々(ふてぶて)しいといって、何もくれなかったりした。土掻(つちかき)や、木鋏(きばさみ)や、鋤鍬(すきくわ)の仕舞われてある物置にお島はいつまでも、めそめそ泣いていて、日の暮にそのまま錠をおろされて、地鞴(じだんだ)ふんで泣立てたことも一度や二度ではなかったようである。 父親は、その度(たんび)に母親をなだめて、お島を赦(ゆる)してくれた。「多勢子供も有(も)ってみたが、こんな意地張(いじっぱり)は一人もありゃしない」母親はお島を捻(ひね)りもつぶしたいような調子で父親と争った。 お島は我子ばかりを劬(いた)わって、人の子を取って喰(く)ったという鬼子母神(きしぼじん)が、自分の母親のような人であったろうと思った。母親はお島一人を除いては、どの子供にも同じような愛執を持っていた。 日が暮れる頃に、お島は物置の始末をして、漸(やっ)と夕飯に入って来たが、父親は難(むずか)しい顔をして、いつか長火鉢の傍で膳(ぜん)に向って、お仕着せの晩酌をはじめているところであった。外はもう夜の色が這拡(はいひろ)がって、近所の牧場では牛の声などがしていた。往来の方で探偵ごっこをしていた子供達も、姿をかくして、空には柔かい星の影が春めいてみえた。「まあ一月でも二月でも家においてやるがいい。奉公に出したって、もう一人前の女だ」父親はそんなことを言って、何かぶつくさ言っている母親を和(なだ)めているらしかったが、お島は台所で、それを聞くともなしに、耳を立てながら、自分の食器などを取出していた。「今に見ろ、目の飛出るようなことをしてやるから」お島はむらむらした母への反抗心を抑えながら、平気らしい顔をしてそこへ出て行った。切(せ)めて自分を養家へ口入した、西田と云う爺(じい)さんの行(や)っているような仕事に活動してみたいとも思った。その爺さんは、近頃陸軍へ馬糧などを納めて、めきめき家を大きくしていた。実直に働いて来た若いものにくれてやった姉などを、さも幸福らしく言たてる母親を、お島は苦々しく思っていたが、それにつけても、一生作などと婚礼するためには、養家の閾(しきい)は跨(また)ぐまいと考えていた。食事をしている間(ま)も、昂奮(こうふん)した頭脳(あたま)が、時々ぐらぐらするようであった。        十五 或日の午後におとらが迎いに来たとき、父親も丁度家に居合せて、ここから二三町先にある持地(もちじ)で、三四人の若い者を指図(さしず)して、可也大きな赤松を一株(ひともと)、或得意先へ持運ぶべく根拵(ねごしら)えをしていた。 お島はおとらを客座敷の方へ案内すると、直(じき)に席をはずして了ったが、実母の吩咐(いいつけ)で父親を呼びに行った。お島はこうして邪慳(じゃけん)な実母の傍へ来ていると、小さい時分から自分を可愛(かわい)がって育ててくれた養母の方に、多くの可懐(なつか)しみのあることが分明(はっきり)感ぜられて来た。養家や長い馴染(なじみ)のその周囲も恋しかった。「島ちゃん、お前さんそう幾日も幾日もこちらの御厄介になっていても済まないじゃないか。今日は私がつれに来ましたよ」おとらにいきなりそう言って上り込んで来られた時、お島は反抗する張合がぬけたような気がして、何だか涙ぐましくなって来た。「手前の躾(しつけ)がわりいから、あんな我儘(わがまま)を言うんだ。この先もあることだから放抛(うっちゃ)っておけと、宅ではそう言って怒っているんですけれど、私もかかり子(ご)にしようと思えばこそ、今日まで面倒を見てきたあの子ですからね」 おとらのそう言っている挨拶(あいさつ)を茶の間で茶をいれながら、お島は聞いていたが、お島のことと云うと、誰に向ってもひり出すように言いたい実母も、ただ簡単な応答(うけごたえ)をしているだけであった。 こんな出入に口無調法な父親は、さも困ったような顔をしていたが、旋(やが)て井戸の方へまわって手顔を洗うと、内へ入って来た。お島は母親のいないところで、ついこの一両日前にも、父親が事によったら、母親に秘密で自分に頒(わ)けてもいいと言った地面の坪数や価格などについて、父親に色々聞されたこともあった。その坪は一千弱(たらず)で、安く見積っても木ぐるみ一万円が一円でも切れると云うことはなかろうと云うのであった。お島は心強いような気がしたが、母親の目の黒いうちは、滅多にその分前(わけまえ)に有附けそうにも思えなかった。「家の地面は、全部でどのくらいあるの」お島は爾時(そのとき)も父親に訊いてみた。「そうさな」と、父親は笑っていたが、それが大見(おおけん)一万近いものであることは、お島にも考えられた。中には野菜畠や田地も含まれていた。子供が多いのと、この二三年兄の浪費が多かったのとで、借金の方(かた)へ入っている場所も少くなかった。去年の秋から、家を離れて、田舎へ稼(かせ)ぎにいっている兄の傍には、暫く係合(かかりあ)っていた商売人(くろうと)あがりの女が未だに附絡(つきまと)っていたり、嫂(あによめ)が三つになる子供と一緒に、東京にあるその実家へ引取られていたりした。父親の助けになる男片(おとこきれ)と云っては、十六になるお島の弟が一人家にいるきりであった。 家が段々ばたばたになりかかっていると云うことが、そうして五日も六日も見ているお島の心に感ぜられて来た。母親のやきもきしている様子も、見えすいていた。        十六 お島は父親が内へ入ってからも、暫く裏の植木畑のあたりを逍遥(ぶらつ)いていた。どうせここにいても、母親と毎日々々啀(いが)みあっていなければならない。啀み合えば合うほど、自分の反抗心と、憎悪の念とが募って行くばかりである。長いあいだ忘れていた自分の子供の時分に受けた母親の仕打が、心に熟(う)み靡(ただ)れてゆくばかりである。一万二万と弟や妹の分前はあっても、自分には一握(ひとつかみ)の土さえないことを思うと頼りなかった。それかと言って、養家へ帰れば、寄って集(たか)って急度(きっと)作と結婚しろと責められるに決っていた。多くの取引先や出入(ではいり)の人達には、もうそれが単なる噂ではなくて、事実となって刻まれている。お島は作の顔を見るのも厭だと思った。あの禿(はげ)あがったような貧相らしい頸(えり)から、いつも耳までかかっている尨犬(むくいぬ)のような髪毛(かみのけ)や赤い目、鈍(のろ)くさい口の利方(ききかた)や、卑しげな奴隷根性などが、一緒に育って来た男であるだけに、一層醜くも蔑視(さげす)ましくも思えた。あんな男と一緒に一生暮せようとは、どうしても考えられなかった。実母がそれを生意気だといって罵(ののし)るのはまだしも、実父にまで、時々それを圧(おし)つけようとする口吻(こうふん)を洩されるのは、堪(た)えられないほど情なかった。 大分たってから皆(みんな)の前へ呼ばれていった時、お島は漸(やっ)と目に入染(にじ)んでいる涙を拭(ふ)いた。「私(わし)もこの四五日忙(せわ)しいんで、聞いてみる隙(ひま)もなかったが、全体お前の了簡(りょうけん)はどういうんだな」 お島が太(ふ)てたような顔をして、そこへ坐ったとき、父親が硬(かた)い手に煙管(きせる)を取あげながら訊ねた。お島は曇(うる)んだ目色(めつき)をして、黙っていた。「今日までの阿母さんの恩を考えたら、お前が作さんを嫌うの何のと、我儘を言えた義理じゃなかろうじゃねえか。ようく物を考えてみろよ」「私は厭です」お島は顔の筋肉を戦(わなな)かせながら言った。「他(ほか)の事なら、何でも為(し)て御恩返しをしますけれど、これだけは私厭です」 父親は黙って煙管を啣(くわ)えたまま俛(うつむ)いてしまったが、母親は憎さげにお島の顔を瞶(みつ)めていた。「島、お前よく考えてごらんよ。衆(みな)さんの前でそんな御挨拶をして、それで済むと思っているのかい。義理としても、そうは言わせておかないよ。真実(ほんと)に惘(あき)れたもんだね」「どうしてまたそう作太郎を嫌ったものだろうねえ」おとらは前屈(まえこご)みになって、華車(きゃしゃ)な銀煙管に煙草をつめながら一服喫(ふか)すと、「だからね、それはそれとして、左(と)に右(かく)私と一緒に一度還っておくれ。そんなに厭なものを、私だって無理にとは言いませんよ。出入の人達の口も煩(うるさ)いから、今日はまあ帰りましょう。ねえ。話は後でもできるから」と宥(なだ)めるように言って、そろそろ煙管を仕舞いはじめた。 お島を頷(うなず)かせるまでには、大分手間がとれたが、帰るとなると、お島は自分の関係が分明(はっきり)わかって来たようなこの家を出るのに、何の未練気もなかった。「どうも済みません。色々御心配をかけました」お島はそう言って挨拶をしながら、おとらについて出た。 そして何時にかわらぬ威勢のいい調子で、気爽(きさく)におとらと話を交えた。「男前が好くないからったって、そう嫌ったもんでもないんだがね」 おとらは途々(みちみち)お島に話しかけたが、左(と)に右(かく)作の事はこれきり一切口にしないという約束が取極(とりき)められた。        十七 おとらは途(みち)で知合の人に行逢うと、きっとお島が、生家の母親の病気を見舞いにいった体(てい)に吹聴していたが、お島にもその心算(つもり)でいるようにと言含めた。「作太郎にも余りつんけんしない方がいいよ。あれだってお前、為(す)ることは鈍間(のろま)でも、人間は好いものだよ。それにあの若さで、女買い一つするじゃなし、お前をお嫁にすることとばかり思って、ああやって働いているんだから。あれに働かしておいて、島ちゃんが商売をやるようにすれば、鬼に鉄棒(かなぼう)というものじゃないか。お前は今にきっとそう思うようになりますよ」おとらはそうも言って聞せた。 お島は何だか変だと思ったが、欺(だま)したり何かしたら承知しないと、独(ひとり)で決心していた。 家へ帰ると、気をきかして何処(どこ)かへ用達(ようた)しにやったとみえて、作の姿は何処にも見えなかったが、紙漉場(かみすきば)の方にいた養父は、おとらの声を聞つけると、直に裏口から上って来た。お島はおとらに途々言われたように、「御父さんどうも済みません」と、虫を殺してそれだけ言ってお叩頭(じぎ)をしたきりであったが、おとらが、さも自分が後悔してでもいるかのような取做方(とりなしかた)をするのを聞くと、急に厭気がさして、かっと目が晦(くら)むようであった。お島はこの家が遽(にわか)に居心がわるくなって来たように思えた。取返しのつかぬ破滅(はめ)に陥(お)ちて来たようにも考えられた。「あの時王子の御父(おとっ)さんは、家へ帰って来るとお島は隅田川(すみだがわ)へ流してしまったと云って御母(おっか)さんに話したと云うことは、お前も忘れちゃいない筈(はず)だ」養父はねちねちした調子で、そんな事まで言出した。 お島はつんと顔を外向(そむ)けたが、涙がほろほろと頬へ流れた。「旧(もと)を忘れるくらいな人間なら、駄目のこった」 お島がいらいらして、そこを立かけようとすると、養父はまた言足した。「それで王子の方では、皆さんどんな考だったか。よもやお前に理(り)があるとは言うまいよ」 お島は俛(うつむ)いたまま黙っていたが、気がじりじりして来て、じっとしていられなかった。 おとらが汐(しお)を見て、用事を吩咐(いいつ)けて、そこを起(たた)してくれたので、お島は漸(やっ)と父親の傍から離れることが出来た。そして八畳の納戸(なんど)で着物を畳みつけたり、散かったそこいらを取片着けて、埃(ごみ)を掃出しているうちに、自分がひどく脅(おどか)されていたような気がして来た。 夕方裏の畑へ出て、明朝(あした)のお汁(つゆ)の実にする菜葉(なっぱ)をつみこんで入って来ると、今し方帰ったばかりの作が、台所の次の間で、晩飯の膳に向おうとしていた。作は少し慍(おこ)ったような風で、お島の姿を見ても、声をかけようともしなかったが、大分たってから明朝(あした)の仕かけをしているお島の側へ、汚れた茶碗や小皿を持出して来た時には、矢張(やっぱり)いつものとおり、にやにやしていた。「汚(きたな)い、其地(そっち)へやっとおき」お島はそんな物に手も触れなかった。        十八 お島が作との婚礼の盃がすむか済まぬに、二度目にそこを飛出したのは、その年の秋の末であった。 残暑の頃から悩んでいた病気の予後を上州の方の温泉場で養生していた養父が、急にその事が気にかかり出したといって、予定よりもずっと早く、持っていった金も半分弱(たらず)も剰(あま)して、帰って来てから、この春の時に用意したお島の婚礼着の紋附や帯がまた箪笥(たんす)から取出されたり、足りない物が買足されたりした。 お島はこの夏は、いつもの養蚕時が来ても、毎年々々仕馴れた仕事が、不思議に興味がなかった。そして病床に寝ている養父が、時々じれじれするほど、総(すべ)てのことに以前のような注意と熱心とを欠いて来た。家におって、薬や食物(たべもの)の世話をしたり、汚れものを洗濯したりするよりも、市中や田舎の方の仕切先を廻って、うかうか時間を消すことが、多かった。七つのおりからの、色々の思出を辿(たど)ってみると、養父や養母に媚(こ)びるために、物の一時間もじっとしている時がないほど、粗雑(がさつ)ではあったが、きりきり働いて来たことが、今になってみると、自分に取って身にも皮にもなっていないような気がした。或時は、着物の出来るのが嬉しかったり、或時は財産を譲渡されると云う、遠い先のことに朧げな矜(ほこり)を感じていた。そして妹達に比べて、自分の方が、一層慈愛深い人の手に育てられている一人娘の幸福を悦(よろこ)んでいた。「お島さんお島さん」と云って、周囲の人が、挙(こぞ)って自分を崇(あが)めているようにも見えた。馬糧用達(ようたし)の西田の爺(じじ)いから、不断ここの世話になっている、小作人に至るまで、お島では随分助かっている連中も、お島が一切を取仕切る時の来るのを待設けているらしくも思われた。「くよくよしないことさ。今にみんな好くしてあげようよ。ここの身代一つ潰(つぶ)そうと思えば、何でもありゃしない」 お島は借金の言訳に、ぺこぺこしている男を見ると、そういって大束(おおたば)を極込(きめこ)んだ。 病気の間もそうであったが、養父が湯治に行ってからは、青柳がまたちょくちょく入込んでいた。
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