縮図
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著者名:徳田秋声 

縮図徳田秋声    日蔭(ひかげ)に居(お)りて      一 晩飯時間の銀座の資生堂は、いつに変わらず上も下も一杯であった。 銀子と均平とは、しばらく二階の片隅(かたすみ)の長椅子(ソファ)で席の空(あ)くのを待った後、やがてずっと奥の方の右側の窓際(まどぎわ)のところへ座席をとることができ、銀子の好みでこの食堂での少し上等の方の定食を註文(ちゅうもん)した。均平が大衆的な浅草あたりの食堂へ入ることを覚えたのは、銀子と附き合いたての、もう大分古いことであったが、それ以前にも彼がぐれ出した時分の、舞踏仲間につれられて、下町の盛り場にある横丁のおでん屋やとんかつ屋、小料理屋へ入って、夜更(よふ)けまで飲み食いをした時代もあり、映画の帰りに銀子に誘われて入口に見本の出ているような食堂へ入るのを、そう不愉快にも感じなくなっていた。かえって大衆の匂いをかぐことに興味をすら覚えるのであった。それは一つは養家へ対する反感から来ているのでもあり、自身の生活の破綻(はたん)を諦(あきら)め忘れようとする意気地(いくじ)なさの意地とでも言うべきものであった。 しかし今は長いあいだ恵まれなかった銀子の生活にも少しは余裕が出来、いくらかほっとするような日々を送ることができるので、いつとはなし均平を誘っての映画館の帰りにも、いくらかの贅沢(ぜいたく)が許されるようになり、喰(く)いしん坊の彼の時々の食慾を充(み)たすことくらいはできるのであった。もちろん食通というほど料理の趣味に耽(ふけ)るような柄でもなかったが、均平自身は経済的にもなるべく合理的な選択はする方であった。戦争も足かけ五年つづき物資も無くなっているには違いないが、生活のどの部面でも公定価格にまですべての粗悪な品物が吊りあげられ、商品に信用のおけない時代であり、景気のいいに委(まか)せて、無責任をする店も少なくないように思われたが、一方購買力の旺盛(おうせい)なことは疑う余地もなかった。 パンやスープが運ばれたところで、今まで煙草(たばこ)をふかしながら、外ばかり見ていた均平は、吸差しを灰皿の縁におき、バタを取り分けた。五月の末だったが、その日はひどく冷気で、空気がじとじとしており、鼻や気管の悪い彼はいつもの癖でつい嚔(くさめ)をしたり、ナプキンの紙で水洟(みずばな)をふいたりしながら、パンを※(むし)っていた。「ひょっとすると今年は凶作でなければいいがね。」 素朴(そぼく)で単純な性格を、今もって失わない銀子は、取越し苦労などしたことは、かつてないように見えた。幼少の時分から、相当生活に虐(しいた)げられて来た不幸な女性の一人でありながら、どうかするとお天気がにわかにわるくなり気分がひどく険しくなることはあっても、陰気になったり鬱(ふさ)ぎ込んだりするようなことは、絶対になかった。苦労性の均平は、どんな気分のくさくさする時でも、そこに明るい気持の持ち方を発見するのであった。彼女にも暗い部分が全然ないとは言えなかったが、過去を後悔したり現在を嘆いたりはしなかった。毎日の新聞はよく読むが、均平が事件の成行きを案じ、一応現実を否定しないではいられないのに反し、ともすると統制で蒙(こうむ)りがちな商売のやりにくさを、こぼすようなこともなかった。「幕末には二年も続いてひどい飢饉(ききん)があったんだぜ。六月に袷(あわせ)を着るという冷気でね。」 返辞のしようもないので、銀子は黙ってパンを食べていた。 次の皿の来る間、窓の下を眺めていた均平は、ふと三台の人力車が、一台の自動車と並んで、今人足のめまぐるしい銀座の大通りを突っ切ろうとして、しばしこの通りの出端(ではな)に立往生しているのが目についた。そしてそれが行きすぎる間もなく、また他の一台が威勢よくやって来て、大通りを突っ切って行った。      二 もちろん車は二台や三台に止(とど)まらなかった。レストウランの食事時間と同じに、ちょうど五時が商売の許された時間なので、六時に近い今があだかも潮時でもあるらしく、ちょっと間をおいては三台五台と駈(か)け出して来る車は、みるみる何十台とも知れぬ数に上り、ともすると先が閊(つか)えるほど後から後から押し寄せて来るのであった。それはことに今日初めて見る風景でもなかったが、食事前後にわたってかなり長い時間のことなので、ナイフを使いながら窓から見下ろしている均平の目に、時節柄異様の感じを与えたのも無理はなかった。 ここはおそらく明治時代における文明開化の発祥地で、またその中心地帯であったらしく、均平の少年期には、すでに道路に煉瓦(れんが)の鋪装が出来ており、馬車がレールの上を走っていた。ほとんどすべての新聞社はこの界隈(かいわい)に陣取って自由民権の論陣を張り、洋品店洋服屋洋食屋洋菓子屋というようなものもここが先駆であったらしく、この食堂も化粧品が本業で、わずかに店の余地で縞(しま)の綿服に襷(たすき)がけのボオイが曹達水(ソーダすい)の給仕をしており、手狭な風月の二階では、同じ打※(いでたち)の男給仕が、フランス風の料理を食いに来る会社員たちにサアビスしていた。尾張町(おわりちょう)の角に、ライオンというカフエが出来、七人組の美人を給仕女に傭(やと)って、慶応ボオイの金持の子息(むすこ)や華族の若様などを相手にしていたのもそう遠いことではなかった。そのころになると、電車も敷けて各区からの距離も短縮され、草蓬々(ぼうぼう)たる丸の内の原っぱが、たちどころに煉瓦(れんが)造りのビル街と変わり、日露戦争後の急速な資本主義の発展とともに、欧風文明もようやくこの都会の面貌(めんぼう)を一新しようとしていた。銀座にはうまい珈琲(コオヒー)や菓子を食べさす家(うち)が出来、勧工場(かんこうば)の階上に尖端的(せんたんてき)なキャヴァレイが出現したりした。やがてデパートメントストアが各区域の商店街を寂れさせ、享楽機関が次第に膨脹するこの大都会の大衆を吸引することになるであろう。 この裏通りに巣喰(すく)っている花柳界も、時に時代の波を被(かぶ)って、ある時は彼らの洗錬された風俗や日本髪が、世界戦以後のモダアニズムの横溢(おういつ)につれて圧倒的に流行しはじめた洋装やパーマネントに押されて、昼間の銀座では、時代錯誤(アナクロニズム)の可笑(おか)しさ身すぼらしさをさえ感じさせたこともあったが、明治時代の政権と金権とに、楽々と育(はぐく)まれて来たさすが時代の寵児(ちょうじ)であっただけに、その存在は根強いものであり、ある時は富士や桜や歌舞伎(かぶき)などとともに日本の矜(ほこ)りとして、異国人にまで讃美されたほどなので、今日本趣味の勃興(ぼっこう)の蔭(かげ)、時局的な統制の下に、軍需景気の煽(あお)りを受けつつ、上層階級の宴席に持て囃(はや)され、たとい一時的にもあれ、かつての勢いを盛り返して来たのも、この国情と社会組織と何か抜き差しならぬ因縁関係があるからだとも思えるのであった。「今夜はとんぼ[#「とんぼ」に傍点]あたりで、大宴会があるらしいね。」 均平は珈琲を掻(か)きまわしながら私語(ささや)いた。 生来ぶっ切ら棒の銀子は、別に返辞もしなかったが、彼女は彼女でそんなことよりも、もっと細かいところへ目を注いでいて、車のなかに反(そ)りかえっている女たちの服装について、その地や色彩や柄のことばかり気にしていた。それというのも彼女もまた場末とはいいながら、ひとかどの芸者の抱え主として、自身はお化粧嫌(ぎら)いの、身装(みなり)などに一向頓着(とんじゃく)しないながらに、抱えのお座敷着には、相当金をかける方だからであった。それも安くて割のいいものを捜すとか、古いものを押っくり返し染め返したり、仕立て直したり、手数をかけるだけの細かい頭脳(あたま)を働かすことはしないで、すべて大雑把(おおざっぱ)にてきぱき捌(さば)いて行く方で、大抵は呉服屋まかせであったが、商売人の服装には注意を怠らなかった。「この花柳界は出先が遠くて、地理的に不利益だね。」 均平は呟(つぶや)きながら、いつか黄昏(たそがれ)の色の迫って来る街(まち)をぼんやり見ていた。      三 均平は、こんな知明の華(はな)やかな食堂へなぞ入るたびに、今ではちょっと照れ気味であった。今から十年余も前の四十前後には、一時ぐれていた時代もあって、ネオンの光を求めて、そのころ全盛をきわめていたカフエへ入り浸ったこともあり、本来そう好きでもない酒を呷(あお)って、連中と一緒に京浜国道をドライブして本牧(ほんもく)あたりまで踊りに行ったこともあったが、そのころには船会社で資産を作った養家から貰(もら)った株券なども多少残っていて、かなり派手に札びらを切ることもできたのだが、今はすっかり境遇がかわっていた。今から回想してみるとそのころの世界はまるで夢のようであった。これという生産力もなくて、自暴(やけ)気味でぐれ出したのがだんだん嵩(こう)じて、本来の自己を見失ってしまい、一度軌道をはずれると、抑制機(ブレーキ)も利かなくなって、夢中で遊びに耽(ふけ)っていたので、酒の醒(さ)めぎわなどには、何か冷たいものがひやりと背筋を走り、昔しの同窓の噂(うわさ)などを耳にすると、体が疼(うず)くような感じで飲んで遊んだりすることが真実(ほんとう)は別に面白いわけではなかった。ことに雨のふる夜更(よふ)けなどに養家において来た二人の子供のことを憶(おも)い出すと、荊(いばら)で鞭打(むちう)たるるように心が痛み、気弱くも枕(まくら)に涙することもしばしばであった。しかしほとんど酷薄ともいえる養家の仕打ちに対する激情が彼の温和な性質を、そこへ駆り立てた。 今はすでにその悪夢からもさめていたが、醒めたころには金も余すところ幾許(いくばく)もなかった。それでも気紛(きまぐ)れな株さえやらなかったら、新婚当時養家で建ててくれた邸宅まで人手に渡るようなことにもならなかったかも知れなかった。 そのころには世の中もかわっていた。放漫な財政の破綻(はたん)もあって、財界に恐慌が襲い来たり、時の政治家によって財政緊縮が叫ばれ、国防費がひどく切り詰められた。均平も学校を卒業するとすぐ、地方庁に官職をもったこともあるので、政治には人並みに興味があり、議会や言論界の動静に、それとなく注意を払ったものだったが、彼自身の生活がそれどころではなかった。それに官界への振出しに、地方庁で政党色の濃厚な上官と、選挙取締りのことなどで衝突して、即日辞表を叩(たた)きつけてからは、官吏がふつふついやになり、一時新聞の政治部に入ってみたこともあったが、それも客気の多い彼には、人事の交渉が煩わしく、じきに罷(や)めてしまい、先輩の勧めと斡旋(あっせん)で、三村の妹の婿(むこ)が取締をしている紙の会社へ勤めた。そこがしっくり箝(は)まっているとも思えないのであったが、田舎(いなか)に残っている老母が、どこでも尻(しり)のおちつかない、物に飽きやすい彼の性質を苦にして漢学者の父の詩文のお弟子であったその先輩に頼んで、それとなし彼を戒めたので、均平も少し恥ずかしくなり、意地にもそこで辛抱しようと決心したのであった。そしてそれが三村家の三女と結婚する因縁ともなり、三村家の別家の養子となる機縁ともなったのであった。 しかし均平にとって、三村家のそうした複雑な環境に身をおくことは、決して心から楽しいことでも、ありがたいことでもなかった。祖父以来儒者の家であった彼の家庭には、何か時代とそぐわぬ因習に囚(とら)われがちな気分もあると同時に、儒教が孤独的な道徳教の多いところから、保身的な独善主義に陥りやすく、そういうところから醸(かも)された雰囲気(ふんいき)は、均平にはやりきれないものであった。それが少年期から壮年期へかけての、明治中葉期の進歩的な時代の風潮に目ざめた均平に、何かしら叛逆的(はんぎゃくてき)な傾向をその性格に植えつけ、育った環境と運命から脱(ぬ)け出ようとする反撥心(はんぱつしん)を唆(そそ)らずにはおかなかった。それゆえ学窓を出て官界に入り、身辺の世のなかの現実に触れた時、勝手がまるで違ったように、上官や同僚がすべて虚偽と諂諛(てんゆ)の便宜主義者のように見えて仕方がなかった。しかしそっちこっち転々してみて、前後左右を見廻した果てに、いくらか人生がわかって来たし、人間の社会的に生きて行くべき方法も頷(うなず)けるような気がして、持前の圭角(けいかく)が除(と)れ、にわかに足元に気を配るようになり、養子という条件で三村の令嬢と結婚もしたのであったが、内面的な悲劇もまたそこから発生しずにはいなかった。      四 ここでは酒が飲めないので、均平は何か間のぬけた感じだったが、近頃はそう物にこだわらず、すべてを貴方(あなた)まかせというふうにしていればいられないこともないので、酒の払底な今の時代でも、格別不自由も感じなかった。もちろん心臓も少し悪くしていた。こうした日蔭者(ひかげもの)の気楽さに馴(な)れてしまうと、今更何をしようという野心もなく、それかと言って自分の愚かさを自嘲(じちょう)するほどの感情の熾烈(しれつ)さもなく、女子供を相手にして一日一日と生命を刻んでいるのであった。時にははっとするほど自分を腑効(ふがい)なく感じ、いっそ満洲(まんしゅう)へでも飛び出してみようかと考えることもあったが、あの辺にも同窓の偉いのが重要ポストに納まっていたりして、何をするにも方嚮(ほうこう)が解(わか)らず、自信を持てず、いざとなると才能の乏しさに怯(おじ)けるのであった。四十過ぎての蹉跌(さてつ)を挽回(ばんかい)することは、事実そうたやすいことでもなかったし、双鬢(そうびん)に白いものがちかちかするこの年になっては、どこへ行っても使ってくれ手はなかった。 二人が席を立つと、後連(あと)がもうやって来て、傍(そば)へ寄って来たが、それは中産階級らしい一組の母と娘で、健康そのもののような逞(たくま)しい肉体をもった十六七の娘は、無造作な洋装で、買物のボール箱をもっていた。均平は弾(はじ)けるような若さに目を見張り、笑顔(えがお)で椅子(いす)を譲ったが、今夜に限らず銀座辺を歩いている若い娘を見ると、加世子(かよこ)のことが思い出されて、暗い気持になるのだったが、同窓会の帰りらしい娘たちが、嬉(うれ)しそうに派手な着物を着て、横町のしる粉屋などへぞろぞろ入って行くのを見たりすると、その中に加世子がいるような気がして、わざと顔を背向(そむ)けたりするのだった。加世子が純白な乙女(おとめ)心に父を憎んでいるということも解っていた。そしてそれがまた一方銀子にとって、何となし好い気持がしないので、彼女の前では加世子の話はしないことにしていた。そのくせ銀子は内心加世子を見たがってはいた。「いいじゃないの。加世子さん何不足なく暮らしているんだから。」 加世子の話をすると、均平はいつも凹(へこ)まされるのだったが、それは均平の心を安めるためのようでもあり、恵まれない娘時代を過ごした彼女の当然の僻(ひが)みのようでもあった。 階段をおりると、明るい広間の人たちの楽しそうな顔が見え、均平は無意識にその中から知った顔を物色するように、瞬間視線を配ったが、ここも客種がかわっていて、何かしら屈托(くったく)のなさそうな時代の溌剌(はつらつ)さがあった。「いかがです、前線座見ませんか。」 映画狂の銀子が追い縋(すが)るようにして言った。彼女は大抵朝の九時ごろから、夜の十一時まで下の玄関わきの三畳に頑張(がんば)っていて、時には「風と共に去りぬ」とか、「大地」、「キュリー夫人」といった小説に読み耽(ふけ)るのだったが、デパート歩きも好きではなかったし、芝居も高いばがりで、相もかわらぬ俳優の顔触れや出しもので、テンポの鈍いのに肩が凝るくらいが落ちであり、乗りものも不便になって帰りが億劫(おっくう)であった。下町にいた十五六時代から、映画だけが一つの道楽で、着物や持物にも大した趣味がなかった。均平も退屈凌(しの)ぎに一緒に日比谷(ひびや)や邦楽座、また大勝館あたりで封切りを見るのが、月々の行事になってしまったが、見る後から後から筋や俳優を忘れてしまうのであった。物によると見ていて筋のてんで解らないものもあって、彼女の解説が必要であった。「さあ、もう遅いだろ。」「そうね、じゃ早く帰って風呂(ふろ)へ入りましょう。」 銀子はでっくりした小躯(こがら)だが、この二三年めきめき肥(ふと)って、十五貫もあるので、ぶらぶら歩くのは好きでなかった。いつか奈良(なら)へ旅した時、歩きくたぶれて、道傍(みちばた)の青草原に、べったり坐ってしまったくらいだった。 銀子は途々(みちみち)車を掛け合っていたが、やがて諦(あきら)めて電車に乗ることにした。この系統の電車は均平にもすでに久しくお馴染(なじみ)になっており、飽き飽きしていた。      五 銀子の家(うち)は電車通りから三四町も入った処(ところ)の片側町にあったが、今では二人でちょいちょい出歩く均平の顔は、この辺でも相当見知られ、狭いこの世界の女たちが、行きずりに挨拶(あいさつ)したりすることも珍しくなかったが、均平には大抵覚えがなく、当惑することもあったが、初めほどいやではなくなった。それでも何か居候(いそうろう)のような気がして、これが自分の家という感じがしなかった。銀子も商売を始めない以前の一年ばかり、ここからずっと奥の方にあった均平の家へ入りこんでいたこともあって、子供もいただけに、もっといやな思いをしたのであったが、均平も持ちきれない感じで、「私はどうすればいいかしら」と苦しんでいるのを見ながら、どうすることもできなかった。そういう時に、自力で起(た)ちあがる腹を決めるのが、夙(はや)くから世間へ放(ほう)り出されて、苦しんで来た彼女の強味で、諦めもよかったが、転身にも敏捷(びんしょう)であった。今まではこの世界から足を洗いたいのが念願で、ましてこの商売の裏表をよく知っているだけに、二度と後を振り返らないつもりであったが、一度この世界の雰囲気(ふんいき)に浸った以上、そこで這(は)いあがるよりほかなかった。「そう気を腐らしてばかりいても仕方がないから、ここで一つ思い切って置き家を一軒出してみたらどうかね。」 母が言うので銀子もその気になり、いくらかの手持と母の臍繰(へそく)りとを纏(まと)めて株を買い、思ってもみなかったこの商売に取りついたのだった。銀子の気象と働きぶりを知っているものは、少し頭を下げて行きさえすれば、金はいくらでも融通してくれる人もあり、その中には出先の女中で、小金を溜(た)めているものもあり、このなかで金を廻して、安くない利子で腹を肥やしているものもあったが、ともすると弱いものいじめもしかねないことも知っているので、たといどんな屋台骨でも、人に縋(すが)りたくはなかった。ともかく当分自前で稼(かせ)ぐことにして路次に一軒を借り、お袋や妹に手伝ってもらって、披露目(ひろめ)をした。案じるほどのこともなく、みんなが声援してくれた。「ああ、その方がいいよ。」 見番の役員もそう言って悦(よろこ)んでくれ、銀子も気乗りがした。「大体あんたは安本(やすもと)を出て、家をもった時に始めるべきだった。多分始める下工作だろうと思っていたら、いつの間にかあすこを引き払ってアパートへ移ったというから、つまらないことをしたものだと思っていたよ。」 その役員がいうと、また一人が、「それもいいが、子供のある処へ入って行くなんて手はないよ。第一三村さんは屋敷まで担保に入っているていうじゃないか。」 銀子は好い気持もしなかったが、息詰まるような一年を振りかえると、悪い夢に襲われていたとしか思えず、二三年前に崩壊した四年間の無駄な結婚生活の失敗にも懲りず、とかく結婚が常住不断の夢であったために、同じことを繰り返した自分が、よほど莫迦(ばか)なのかしら、と思った。「子供さんならいいと思っていたんだけれど、やはりむずかしいものなのね。」 別にそう商売人じみたところもないので、銀子は加世子には懐(なつ)かれもしたが、それがかえって傍(はた)の目に若い娘を冒涜(ぼうとく)するように見えるらしかった。均平の亡くなった妻の姉が、誰よりも銀子に苦手であり、それが様子見に来ると、女中の態度まてががらり変わるのもやりきれないことであった。 しかし均平との関係はそれきりにはならず、商売を始めてから、その報告の気持もあって、ある日忘れて来た袱紗(ふくさ)だとか、晴雨兼用の傘(かさ)などを取りに行くと、均平はちょうど、風邪(かぜ)の気味で臥(ふ)せっていたが、身辺が何だか寂しそうで、顎髭(あごひげ)がのび目も落ち窪(くぼ)んで、哀れに見えた。均平から見ると、宿酔(ふつかよ)いでもあるか、銀子の顔色もよくなかった。「それはよかった。何かいい相手が見つかるだろう。」 厭味(いやみ)のつもりでもなく均平は言っていた。      六 この辺は厳(きび)しいこのごろの統制で、普通の商店街よりも暗く、箱下げの十時過ぎともなると、たまには聞こえる三味線(しゃみせん)や歌もばったりやんで、前に出ている薄暗い春日燈籠(かすがどうろう)や門燈もスウィッチを切られ、町は防空演習の晩さながらの暗さとなり、十一時になるとその間際(まぎわ)の一ト時のあわただしさに引き換え、アスファルトの上にぱったり人足も絶えて、たまに酔っぱらいの紳士があっちへよろよろこっちへよろよろ歩いて行くくらいのもので、艶(なまめ)かしい花柳情緒(じょうしょ)などは薬にしたくもない。 広い道路の前は、二千坪ばかりの空地(あきち)で、見番がそれを買い取るまでは、この花柳界が許可されるずっと前からの、かなり大規模の印刷工場があり、教科書が刷られていた。がったんがったんと単調で鈍重な機械の音が、朝から晩まで続き、夜の稼業(かぎょう)に疲れて少時間の眠りを取ろうとする女たちを困らせていたのはもちろん、起きているものの神経をも苛立(いらだ)たせ、頭脳(あたま)を痺(しび)らせてしまうのであった。しかし工場の在(あ)る処(ところ)へ、ほとんど埋立地に等しい少しばかりの土地を、数年かかってそこを地盤としている有名な代議士の尽力で許可してもらい、かさかさした間に合わせの普請(ふしん)で、とにかく三業地の草分が出来たのであった。まだ形態が整わず、組織も出来ずに、日露戦争で飛躍した経済界の発展や、都市の膨脹につれて、浮き揚がって来たものだが、自身で箱をもって出先をまわったような元老もまだ残存しているくらいで、下宿住いの均平がぶらぶら散歩の往(ゆ)き返りなどに、そこを通り抜けたこともあり、田舎(いなか)育ちの青年の心に、御待合というのが何のことか腑(ふ)におちないながらに、何か苦々しい感じであった。その以前はそこは馬場で、菖蒲(しょうぶ)など咲いていたほど水づいていた。この付近に銘酒屋や矢場のあったことは、均平もそのころ薄々思い出せたのだが、彼も読んだことのある一葉という小説家が晩年をそこに過ごし、銘酒屋を題材にして『濁り江』という抒情的(じょじょうてき)な傑作を書いたのも、それから十年も前の日清(にっしん)戦争の少し後のことであった。そんな銘酒屋のなかには、この創始時代の三業に加入したものもあり、空地のほとりにあった荷馬車屋の娘が俄作(にわかづく)りの芸者になったりした。 この空地にあった工場が、印刷術と機械の進歩につれて、新たに外国から買い入れた機械を据(す)えつけるのに、この町中では、すでに工場法が許さなくなったので、新たに新市街に模範的な設備を用意して移転を開始し、土地を開放したところで、永い間の悩みも解消され、半分は分譲し、半分は遊園地の設計をすることにして、あまり安くない値で買い取ったのであった。日々に地が均(なら)され、瓦礫(がれき)が掘り出され、隅(すみ)の方に国旗の棹(さお)が建てられ、樹木の蔭(かげ)も深くなって来た。ここで幾度か出征兵士の壮行会が催され、英魂が迎えられ、焼夷弾(しょういだん)の処置が練習され、防火の訓練が行なわれた。 夜そこに入って、樹立(こだち)の間から前面の屋並みを見ると、電燈の明るい二階座敷や、障子の陰に見える客や芸者の影、箱をかついで通る箱丁(はこや)、小刻みに歩いて行く女たちの姿などが、芝居の舞台や書割のようでもあれば、花道のようでもあった。 狭苦しい銀子の家(うち)も、二階の見晴らしがよくなり、雨のふる春の日などは緑の髪に似た柳が煙(けぶ)り、残りの浅黄桜が、行く春の哀愁を唆(そそ)るのであった。この家も土地建ち初まりからのもので、坪数にしたら十三四坪のもので、古くなるにつれていろいろの荷物が殖(ふ)え、押入れも天井の棚(たな)も、ぎっしり詰まっていた。均平の机も箪笥(たんす)とけんどん[#「けんどん」に傍点]の間へ押しこまれ、本箱も縁側で着物の入っている幾つかの茶箱や、行李(こうり)のなかに押しこまれ、鼓や太鼓がその上に置かれたりした。もちろん彼は大分前から机の必要がなくなっていた。古い友人に頼まれて、一ト夏漢文の校正をした時以来、ペンを手にすることもまれであった。 銀子は家の前へ来ると、ちょっと立ち停(ど)まってしばらく内の様子を窺(うかが)っていた。留守に子供たちが騒ぎ、喧嘩(けんか)もするので、わざとそうしてみるのであった。      七 ちょうど最近披露目(ひろめ)をした小躯(こがら)の子が一人、それよりも真実(ほんとう)の年は二つも上だが、戸籍がずっと後(おく)れているので、台所を働いている大躯(おおがら)の子に、お座敷の仕度(したく)をしてもらっているところだったが、それが切火に送られて出て行く段になって、子供たちはやっとお母さんが帰って来たことに気がついた。養女格の晴弥(はるや)と、出てからもう五年にもなる君丸というのが二人出ているだけで、後はみんな残っており、狭い六畳に白い首を揃(そろ)えていた。さっそく銀子たちの下駄(げた)を仕舞ったり、今送り出した子の不断着を畳んだりするのは、今年十三になった仕込みで、子柄が好い方なので銀子も末を楽しみにしていた。 銀子はこの商売に取り着きたての四五年というもの、いつもけい[#「けい」に傍点]庵(あん)に箝(は)め玉(ぎょく)ばかりされていた。少し柄がいいので、手元の苦しいところを思い切って契約してみると、二月三月も稼(かせ)いでいるうちに、風邪(かぜ)が因(もと)で怪しい咳(せき)をするようになり、寝汗をかいたりした。逞(たくま)しい体格で、肉も豊かであり、皮層は白い乳色をしていた。髪の毛が赭(あか)く瞳(ひとみ)は白皙人(はくせきじん)のように鳶色(とびいろ)で、鼻も口元も彫刻のようにくっきりした深い線に刻まれていたが、大分浸潤があるので、医者の勧めで親元へ還(かえ)したこともあり、銀子自身があまり商売に馴(な)れてもいないので、子供の見張りや、芸事を仕込んでもらうつもりで、烏森(からすもり)を初め二三カ所渡りあるいたという、二つ年上の女を、田村町から出稽古(でげいこ)に来る、常磐津(ときわず)の師匠の口利きで抱えてみると、見てくれのよさとは反対に、頭がひどい左巻きであったりした。一年間も方々の病院をつれ歩いてみても、睫毛(まつげ)や眉毛(まゆげ)を蝕(むしば)んで行く皮膚病に悩まされたこともあり、子柄がわるい代りに病気がないのが取柄だと思うと、親がバタヤで質(たち)が悪く、絶えず金の無心で坐りこまれたりした。銀子もいろいろの世間を見て来て、時には暴力団や与太ものの座敷へも呼ばれ、娘や女を喰(く)いものにしている吸血児をも知っていたが、女ではやっぱり甘く見られがちで、つい二階にいる均平に降りてもらうことになるのだったが、均平も先の出方では、ややもするとしてやられがちであった。「いやな商売だな。」 均平がいうと銀子も、「そうね、止(よ)しましょうか。」「いやいや、君はやっぱりこの商売に取りついて行くんだ。泥沼(どろぬま)のなかに育って来た人間は、泥沼のなかで生きて行くよりほかないんだ。現に商売が成り立ってる人もあるじゃないか。」「それはそうなのよ。世話のやける抱えなんかおくより自分の体で働いた方がよほど気楽だというんで、いい姐(ねえ)さんが抱えをおかないでやってる人もあるし、桂庵(けいあん)に喰われて一二年で見切りをつけてしまう人もあるわ。かと思うと抱えに当たって、のっけ[#「のっけ」に傍点]からとんとん拍子で行く人もたまにはあるわ。」 つまり好いパトロンがついていない限り、商売は小体(こてい)に基礎工事から始めるよりほかなかった。何の商売もそうであるように、金のあるものは金を摺(す)ってしまってからやっと商売が身につくのであった。 とにかく銀子は、いろいろの人のやり口と、自身の苦い経験から割り出して抱えはすべて仕込みから仕上げることに方針を決めてしまい、それが一人二人順潮に行ったところから、親父(おやじ)の顔のひろい下町の場末へ手をまわして、見つかり次第、健康さえ取れれば、顔はそんなによくなくても取ることにした。「あんなのどうするんだい。」 粒をそろえたいと思っている均平が言うと、銀子は、「あれでも結構物になりますよ。」 と言って、こんな子がと思うようなのが、すばらしく当たった例を二つ三つ挙げてみせた。「だからこれだけは水ものなのよ。一年も出してみて、よんど駄目なら台所働きにつかってもいいし、芸者がなくなれば、あんなのでも結構時間過ぎくらいには出るのよ。」 もちろん見てくれがいいから出るとも限っていなかった。いくら色や愛嬌(あいきょう)を売る稼業(かぎょう)でも、頭脳(あたま)と意地のないのは、何年たっても浮かぶ瀬がなかった。      八 銀子は誰が何時に出て、誰がどこへ行っているかを、黒板を見たり子供に聞いたりしていたが、するうちお酌(しゃく)がまた一人かかって来て、ちょっと顔や頭髪(あたま)を直してから、支度(したく)に取りかかった。そしてそれが出て行くとそこらを片着け多勢の手で夕飯の餉台(ちゃぶだい)とともにお櫃(はち)や皿小鉢(さらこばち)がこてこて並べられ、ベちゃくちゃ囀(さえず)りながら食事が始まった。 この食事も、彼女たちのある者にとっては贅沢(ぜいたく)な饗宴(きょうえん)であった。それというのも、銀子自身が人の家に奉公して、餒(ひも)じい思いをさせられたことが身にしみているので、たとい貧しいものでも、腹一杯食べさせることにしていたからで、出先の料亭(りょうてい)から上の抱えが、姐(ねえ)さんへといって届けさせてくれる料理まで子供たちの口には、少しどうかと思われるようなものでも、彼女は惜しげもなく「これみんなで頒(わ)けておあがり」と、真中へ押しやるくらいにしているので、来たての一ト月くらいは、顔が蒼(あお)くなるくらい、餓鬼のように貪(むさぼ)り食べる子も、そうがつがつしなくなるのであった。子供によっては親元にいた時は、欠食児童であり、それが小松川とか四ツ木、砂村あたりの場末だと、弁当のない子には、学校で麺麦(パン)にバタもつけて当てがってくれるのであったが、この界隈(かいわい)の町中の学校ではそういう配慮もなされていないとみえて、最近出たばかりのお酌の一人なぞは、お昼になると家へ食べに行くふりをして、空腹(すきばら)をかかえてその辺をぶらついていたこともたびたびであり、また一人は幾日目かに温かい飯に有りついて、その匂いをかいだ時、さながら天国へ昇ったような思いをするのであった。この子は二人の小さい仕込みと同じ市川に家があるので、大抵兵営の残飯で間に合わすことにしていたが、多勢の兄弟があり、お櫃の底を叩(たた)いて幼い妹に食べさせ、自身はほんの軽く一杯くらいで我慢しなければならないことも、いつもの例で、みんなで彼女たちは彼女たちなりの身のうえ話をしているとき、ふとそれを言い出して互いに共鳴し、目に涙をためながら、笑い崩れるのであった。もちろん銀子にだって、それに類した経験がないことはなかった。彼女は食いしん棒の均平と、大抵一つ食卓で、食事をするのだったが、時には子供たちと一緒に、塗りの剥(は)げた食卓の端に坐って、茄子(なす)の与市漬(よいちづけ)などで、軽くお茶漬ですますことも多かった。そしてその食べ方は、人の家の飯を食べていた時のように、黙祷(もくとう)や合掌こそしないが、どうみても抱えであった時分からの気習が失(う)せず、子供たちの騒々しさや晴れやかさの中で、どこかちんまりした物静かさで、おしゃべりをしたり傍見(わきみ)をしたりするようなこともなかった。 非常時も、このごろのように諸般の社会相が、統制の厳(きび)しさ細かさを生活の末梢(まっしょう)にまで反映して、芸者屋も今までの暢気(のんき)さではいられなかった。人員の統制が、頭脳(あたま)のぼやけたものにはちょっと理解ができないくらいだが、簿記台のなかには帳面の数も殖(ふ)えていた。銀子の今までの、抱え一人々々の毎日々々の出先や玉数(ぎょくかず)を記した幾冊かの帳面のほかに、時々警察の調査があり、抱えの分をよくするような建前から、規定の稼(かせ)ぎ高の一割五分か二割を渡すほかは、あまり親の要求に応じて、子供の負担になるような借金をさせないことなどの配慮もあって、子供自身と抱え主とで、おのおのの欄に毎日の稼(かせ)ぎ高を記入するなどの、係官の前へ出して見せるための、めいめいの帳簿も幾冊かあって、銀子はそれを煩(うる)さがる均平に一々頼むわけにも行かず、抱え主の分を自身で明細に書き入れるのであった。勘定のだらしのないのは、大抵のこの稼業(かぎょう)の女の金銭問題にふれたり、手紙を書いたりするのを、ひどく億劫(おっくうう)がる習性から来ているのであったが、わざと恍(とぼ)けてずる[#「ずる」に傍点]をきめこんでいるのも多かった。 食事中、子供は留守中に起こったことを、一つ一つ思い出しては銀子に告げていたが、「それからお母さん、砂糖壺(つぼ)を壊しました。すみません。」 台所働きの子が好い機会(きっかけ)を見つけて言った。「それから三村さんところへお手紙が……。」 均平はここでの習慣になっている「お父さん」をいやがるので、皆は苗字(みょうじ)を呼ぶことにしていた。    山 荘      一 簿記台のなかから、手紙を取り出してみると、それは加世子から均平に宛(あ)てたもので、富士見の青嵐荘(せいらんそう)にてとしてあった。涼しそうな文字で、しばらく山など見たことのない均平の頭脳(あたま)にすぐあの辺の山の姿が浮かんで来た。しかし開かない前にすぐ胸が重苦しくなって、いやな顔をしてちょっとそのまま茶盆の隅(すみ)においてみたりした。いつも加世子のことが気になっているだけに、どうしてあの高原地へなぞ行っているのかと、不安な衝動を感じた。 しばらくすると彼は袂(たもと)から眼鏡を出して、披(ひら)いてみた。そして読んでみると、帰還以来陸軍病院にずっといた長男の均一が、大分落ち着いて来たところからついこのごろ家(うち)に還(かえ)され、最近さらにここの療養所に来ているということが解(わか)ったが、父親に逢(あ)いたがっているから、来られたら来てくれないかと、簡単に用事だけ書いてあった。 均一と均平の親子感情は、決して好い方とは言えなかった。それはあまりしっくりも行っていなかった。家付き娘以上の妻の郁子(いくこ)との夫婦感情を、そのまま移したようなものだったが、郁子が同じ病気で死んで行ってから主柱が倒れたように家庭がごたつきはじめた時、均平の三村本家に対する影が薄くなり、存在が危くなるとともに、彼も素直な感情で子供に対することができなくなり、子供たちも心の寄り場を失って、感傷的になりがちであった。均一は学課も手につかず喫茶店やカフエで夜を更(ふ)かし煙草(たばこ)や酒も飲むようになった。 泰一という郁子の兄で、三村家の相続者である均一の伯父(おじ)が、彼を監視することになり、その家へ預けられたが、泰一自身均平とは反(そ)りが合わなかったので、均一の父への感情が和(なご)むはずもなかった。それゆえ出征した時も、入院中も均平はちょっと顔を合わしただけで、お互いに胸を披(ひら)くようなことはなかった。均一は工科を卒業するとすぐ市の都市課に入り、三月も出勤しないうちに、第一乙で徴召され、兵営生活一年ばかりで、出征したのだったが、中学時代にも肋膜(ろくまく)で、一年ばかり本家の別荘で静養したこともあった。 手紙を読んだ均平の頭脳(あたま)に、いろいろの取留めない感情が往来した。早産後妻が病院で死んだこと、そのころから三村本家の人たちの感情がにわかに冷たくなり、自分の気持に僻(ひが)みというものを初めて経験したこと、郁子の印鑑はもちろん、名義になっている公債や、身につけていた金目の装身具など、誰かいつの間にもって行ったのか、あらかたなくなっていたことも不愉快であった。均平はそれを口にも出さなかったが、物質に生きる人の心のさもしさが哀れまれたり、先輩の斡旋(あっせん)でうっかりそんな家庭に入って来た自身が、厭(いと)わしく思えたりした。世話した先輩にも、どうしてみようもなかったが、均平も醜い争いはしたくなかった。「どうしたんです。」 均平が黙って俛(うつむ)いているので、銀子はきいた。「いや、均一が富士見へ行ってるそうで、己(おれ)に逢いたいそうだ。」「よほど悪いのかしら。」「さあ。」「いずれにしても、加世子さんからそう言って来たのなら、行ってあげなきゃ……何なら私も行くわ。中央線は往(い)ったことがないから、往ってみたいわ。」「それでもいいね。」「貴方(あなた)がいやなら諏訪(すわ)あたりで待っててもいいわ。」「それでもいいし、君も商売があるから、一人で行ってもいい。」「そう。」 銀子にはこの親子の感情は不可解に思えた。三村家で二人を引き取り、不安なく暮らしている以上、その上の複雑な愛情とが憎悪とかいうようなむずかしい人情は、無駄だとさえ思えた。彼女はまだ若かった父や母に猫(ねこ)の子のように育てられて来た。銀子の素直で素朴(そぼく)な親への愛情は、均平にも羨(うらや)ましいほどだった。      二 汽車が新緑の憂鬱(ゆううつ)な武蔵野(むさしの)を離れて、ようやく明るい山岳地帯へ差しかかって来るにつれて、頭脳(あたま)が爽(さわ)やかになり、自然に渇(かつ)えていた均平の目を愉(たの)しましめたが、銀子も煩わしい商売をしばし離れて、幾月ぶりかで自分に還(かえ)った感じであった。少女たちの特殊な道場にも似た、あの狭いところにうようよしている子供たちの一人々々の特徴を呑(の)み込み、万事要領よくやって行くのも並大抵世話の焼けることではなかった。 均平もあの環境が自分に適したところとは思えず、この商売にも好感はもてなかったが、ひところの家庭の紛紜(いざこざ)で心の痛手を負った時、彼女のところへやって来ると、別に甘い言葉で慰めることはしなくても、普通商売人の習性である、懐(ふところ)のなかを探るようなこともなく、腹の底に滓(おり)がないだけでも、爽(さわ)やかな風に吹かれているような感じであった。それにもっと進歩した新しい売淫(ばいいん)制度でも案出されるならいざ知らずとにかく一目で看通(みとお)しがつき、統制の取れるような組織になっているこの許可制度は、無下に指弾すべきでもなかった。雇傭(こよう)関係は自発的にも法的にも次第に合理化されつつあり、末梢的(まっしょうてき)には割り切れないものが残っていながら、幾分光りが差して来た。進歩的な両性の社交場がほかに一つもないとすれば、低調ながらも大衆的にはこんなところも、人間的な一つの訓練所ともならないこともなかった。 もちろん抱え主の側(がわ)から見た均平の目にも、物質以外のことで、非人道的だと思えることも一つ二つないわけではなく、それが男性の暴虐な好奇心から来ている点で、許せない感じもするのであった。それも銀子に話すと、「果物(くだもの)は誰方(どなた)も青いうち食べるのが、お好きとみえますね。」 銀子は笑っていたが、その経験がないとは言えず、厠(かわや)へ入って、独りでそっと憤激の熱い涙を搾(しぼ)り搾りしたものだったが、それには何か自身の心に合点(がてん)の行く理由がなくてはならぬと考え、すべてを親のためというところへ持って行くよりほかなかった。 しかし銀子の抱えのうちには、それで反抗的になる子もあったが、傍(はた)の目で痛ましく思うほどではなく、それをいやがらない子もあり、まだ仇気(あどけ)ないお酌(しゃく)の時分から、抱え主や出先の姐(ねえ)さんたちに世話も焼かさず、自身で手際(てぎわ)よく問題を処理したお早熟(ませ)もあった。 猿橋(えんきょう)あたりへ来ると、窓から見える山は雨が降っているらしく、模糊(もこ)として煙霧に裹(つつ)まれていたが、次第にそれが深くなって冷気が肌に迫って来た。その辺でもどうかすると、ひどく戦塵(せんじん)に汚(よご)れ窶(やつ)れた傷病兵の出迎えがあり、乗客の目を傷(いた)ましめたが、均平もこの民族の発展的な戦争を考えるごとに、まず兵士の身のうえを考える方なので、それらの人たちを見ると、つい感傷的にならないわけに行かず、おのずと頭が下がるのであった。彼は時折出征中の均一のことを憶(おも)い出し、何か祈りたいような気持になり、やりきれない感じだったが、今療養所を訪れる気持には、いくらかの気休めもあった。 富士見へおりたのは四時ごろであった。小雨がふっていたが、駅で少し待っていると、誰かを送って来た自動車が還(かえ)って来て、それに乗ることができた。銀子はここを通過して、上諏訪(かみすわ)で宿を取ることにしてあったので、均平は独りで青嵐荘へと車を命じた。ここには名士の別荘もあり、汽車も隧道(トンネル)はすでに電化されており、時間も短いので、相当開けていることと思っていたが、降りて見て均平は失望した。もちろん途中見て来たところでは、稲の植えつけもまだ済まず、避暑客の来るには大分間があったが、それにしても、この町全体が何か寒々していた。 青嵐荘は町筋を少し離れた処(ところ)にあった。石の門柱が立っており、足場のわるいだらだらした坂を登ると、ちょうど東京の場末の下宿屋のような、木造の一棟(ひとむね)があり、周囲(まわり)に若い檜(ひのき)や楓(かえで)や桜が、枝葉を繁(しげ)らせ、憂鬱(ゆううつ)そうな硝子窓(ガラスまど)を掠(かす)めていた。      三 玄関から声かけると、主婦らしい小肥(こぶと)りの女が出て来て、三村加世子がいるかと訊(き)くと、まだ冬籠(ふゆごも)り気分の、厚い袖(そで)無しに着脹(きぶく)れた彼女は、「三村さんですか。お嬢さまは療養所へ行ってお出(い)でなさいますがね、もうお帰りなさる時分ですよ。どうぞお上がりなすって……。」 だだっ広い玄関の座敷にちょっとした椅子場(いすば)があり、均平をそこでしばらく待たせることにして、鄙(ひな)びた菓子とお茶を持って来た。風情(ふぜい)もない崖裾(がけすそ)の裏庭が、そこから見通され、石楠(しゃくなげ)や松の盆栽を並べた植木棚(だな)が見え、茄子(なす)や胡瓜(きゅうり)、葱(ねぎ)のような野菜が作ってあった。「療養所はこの町なかですか。」「いいえ、ちょっと離れとりますが、歩いてもわけないですよ。何なら子供に御案内させますですが。」 均平はそれを辞し、病院は明朝(あした)にすることにした。主婦の話では、このサナトリウムはいつも満員で、この山荘にいる人で、部屋の都合のつくのを待っているのもあり、近頃病院の評判が非常にいいから、均一もきっと丈夫になるに違いないが、少し時日がかかるような話だというのであった。「そうですか。今年一杯もかかるような話ですか。」「何でも本当に丈夫になるには、来年の春まで病院にいなければならないそうですよ。」 病気がそう軽くないということが、正直そうな主婦の口吻(くちぶり)で頷(うなず)けた。 それからこの辺のこのごろの生活に触れ、昔は米などは残らず上納し、百姓は蜀麦(とうもころし)や稷(きび)のようなものが常食であり、柿(かき)の皮の干したのなぞがせいぜい子供の悦(よろこ)ぶ菓子で、今はそんな時勢から見ると、これでもよほど有難い方だと、老人たちが言っているというのであった。 均平は少し退屈を感じ、玄関をおりて外へ出てみた。駄荷馬などの砂煙をあげて行く道路を隔てて谷の向うに青い山がそそり立ち、うねった道路の果てにも、どっしりした山が威圧するように重なり合って見え、童蒙(どうもう)な表情をしていた。均平は町の様子でも見ようと思い、さっき通って来た方へ歩いて行ったが、寂しいこの町も見慣れるにつれて、人の姿も目について来て、大通りらしい処(ところ)へ出ると、かなりの薬局や太物屋、文房具屋などが、軒を並べていた。 ある八百屋(やおや)の店で、干からびたような水菓子を買っている加世子と女中の姿が、ふと目につき、均平は思わず立ち停(ど)まった。加世子は水色のスウツを着て、赤い雨外套(あまがいとう)を和服の女中の腕に預け、手提(てさげ)だけ腕にかけていたが、この方はしばらく見ないうちに、すっかり背丈(せたけ)が伸び、ぽちゃっとしたところが、均平の体質に似ていた。土間に里芋が畑の黒土ごと投(ほう)り出されてあった。 均平が寄って行くと、加世子がすぐ気づいた。頬(ほお)を心持赤くしていた。「あら。」「今帰って来たのか。」「え、ちょっと療養所へ行って来ましたの。」「どんな様子かしら。」 加世子はそれについて、いずれ後でというふうで、何とも言わなかった。「お手紙ありがとう。」「いいえ。」 紙にくるんだ夏蜜柑(なつみかん)にバナナを、女中が受け取ると、やがて三人で山荘の方へ歩き出した。「お兄さまそう心配じゃないんですけど……多分この一ト冬我慢すればいいんでしょうと思います。」「そうですか。すぐ行ってみようかと、実は思ったけれど、興奮するといけないと思って。」「何ですか来てほしいようなことを言うんですの。それでお手紙差し上げましたの。」 聞いてみると、故郁子の姉の子加世子には従兄(いとこ)の画家隆(たかし)も来ているらしかった。      四 雨がぽつりぽつり落ちて来たので、三人は石高な道を急いで宿へ帰って来た。 ちょうど入笠山(にゅうがさやま)あたりのハイキングから帰って来たらしい、加世子の従兄と登山仲間の友人とが、裏の井戸端(いどばた)で体をふいているところだったが、加世子が見つけて、縁端(えんばな)へ出て言葉を交している工合(ぐあい)が、どうもそうらしいので、均平も何か照れくさい感じでそのまま女中の案内で二階の加世子の部屋へ通った。 部屋はたっぷりした八畳で、建具ががたがたで畳も汚かったが、見晴らしのいいので助かっていた。床脇(とこわき)の棚(たな)のところに、加世子のスウツケースや風呂敷包(ふろしきづつみ)があり、不断着が衣紋竹(えもんだけ)にかかっており、荒く絵具をなすりつけた小さい絵も床脇の壁に立てかけてあった。 女中が座布団(ざぶとん)を床の間の方におき、あらためて挨拶(あいさつ)してから部屋を出て行ったが、入れ替わりに加世子が入って来て、これもあらためて挨拶をした。「大きくなったね、外であってもちょっと解(わか)らないくらいだ。」 均平は欅(けやき)の食卓の端の方に坐り、煙草(たばこ)をふかしていた。「そうですか。」加世子はにやりとして、「お父さまも頭髪(おつむ)が大分白くなりましたわ。」「己(おれ)もめっきり年を取ったよ。皆さんお変りもないか。老人はどうだ。」「お祖父(じい)さまですか。このごろ少し気が弱くなったようだけれど、でも大丈夫よ。」「貴女(あなた)も丈夫らしいが、結婚前の体だ、用心した方がいいね。」「ええ。私は大丈夫ですけれど、かかったっていいわ。」「今どんなふうに暮らしているのかしら。」「どんなふうって別に……北沢の叔母(おば)さまの近くに、小さい家(うち)を借りているんですわ。」「借家に?」「そうです。おばさまの監督の下に。なるべく均一お兄様の月給でやって行くようにというんでしょう。」「均一の月給でね。それじゃ均一もなかなかだね。」「ええ。今度の入院費なんかは別ですけど。」「あんたはずっといるつもりか。」「さあどうしようかと思ってますよ。看護婦もついていますし、療養所は若い人ばかりで賑(にぎ)やかだから、ちっとも寂しいと思わないと言うし、一週間もしたら帰ろうかと思っていますよ。だってこんなつまらない処ってありませんわ。」 久しぶりで親子水入らずで、お茶を呑(の)みバナナを食べながら、そんな話をしているうちに風呂(ふろ)の支度(したく)が出来、均平は裏梯子(うらばしご)をおりて風呂場へ行った。風呂に浸(つか)っていると、ちょうど窓から雨にぬれた山の翠(みどり)が眉(まゆ)に迫って来て、父子(おやこ)の人情でちょっと滅入(めい)り気味になっていた頭脳(あたま)が軽くなった。 北の国で育った均平は、自分の賦質に何か一脈の冷めたいものが流れているような気がしてならなかった。老年期の父の血を受けたせいか、とかく感激性に乏しく、情熱にも欠けており、骨肉の愛なぞにも疎(うと)いのだと思われてならなかった。加世子たちに対する気持も、ほんの凡夫の女々(めめ)しい愛情で、自分で考えているほど痛切な悩みがあるとも思えなかった。しかし加世子や均一の前途がやッぱり不安で、加世子のためには均一の生命が、均一のためには加世子の存在が必要であった。「そう心配したものでもないのよ。結婚してしまえば、旦那(だんな)さまや奥さまに愛せられて、自分々々の生活に立て籠(こ)もるのよ。」 銀子に言われると、それもそうかと思うのであった。 玄関の喫煙場で、隆と友人とが山の話をしていたが、ここにも病人があるらしく、若い女が流しの方で、しきりに氷をかいていた。二人の青年をも加えて、ビールをぬき晩餐(ばんさん)の食卓についたのは、もう夜で、食事がすんでから間もなく隆たちは東京へ立っていった。      五 加世子が隆たちを駅へ送って帰って来ると、もう八時半で、階下(した)からラジオ・ドラマの放送があり、都会で型にはめて作った例の田舎(いなか)言葉でお喋(しゃべ)りをしているのが、こんな山の中で聞いていると、一層故意(わざ)とらしく、いつも同じような型の会話だけの芝居が、かつての動作だけの無声映画と同じく、ひどく厭味(いやみ)なものに聞こえた。 加世子も毎晩このラジオには悩まされるらしく、「今夜はまた声が高いわね。氷で冷やしている病人があるのに、もっと低くしないかな。」 均平は加世子と女中が寝床を延べている間、階下(した)へおりて、玄関の突当りにある電話室へ入って、上諏訪のホテルへ電話をかけ、銀子を呼び出した。「何だか雨がふって退屈で仕様がないから、今下へおりてラジオを聞いているところなの。」 銀子の声が環境が環境だけに一層晴れやかに聞こえた。「均一さんどんなでした。」 均平は今夜はここに一泊して、明日病院へ行くつもりだということだけ知らせ、受話機をおいた。そして廊下の壁に貼(は)り出してある、汽車の時間表など見てから、二階へあがった。まだ寝るには少し早く、読むものも持って来たけれど、読む気にもなれず、加世子と何か話そうとしても、久しぶりで逢(あ)っただけに話の種もなく、三村家一族のことに触れるのも何となしいやであった。三村は千万長者といわれ、三十七八年の戦争の時、ぼろ船を買い占めて儲(もう)けたのは異数で、大抵各方面への投資と土地で築きあげた身上(しんしょう)であり、自身に経営している産業会社というようなものはなく、起業家というより金貸しと言った方が適当であった。論語くらいは読み、お茶の道楽もあり、明治から大正へかけての成功者として、黄金万能の処世哲学には均平もしばしば中(あ)てられたものだが、それはそれとして俗物としては偉大な俗物だと感心しないわけにいかなかった。こんな時勢を彼はどんなふうに考えているであろうか。多分戦争でもすめば、日本の財界はすばらしい景気になり、自分のもっている不動産も桁(けた)はずれに値があがり、世界戦以上の黄金時代が来るものと楽観しているであろうか。 均平は加世子と枕(まくら)を並べて寝ながら、そんなことを考えていたが、加世子は少し離れて入口の方に寝ている女中と、お付きの女が氷をかいている患者のことや、療養所の看護婦や、均一と同室のいつもヴァイオリンをひいている患者の噂(うわさ)などで、しばらくぼそぼそと話をしていた。 均平はもしかしたら、銀子を一足先へ帰して、二三日この山荘に逗留(とうりゅう)し、山登りでもしてみたいような気もしたが、どうせ同棲(どうせい)というわけにもいかない運命だと思うと、愛着を深くしない方が、かえって双方の幸福だという気もして口へは出さなかった。 ラジオは戦争のニュースであった。「まだやってるわ。寝られないわ。」 加世子が寝返りした。「それに雨がふるんですもの。」 女中が答えた。「明日晴れるかしら。ここはお天気のいい日はとてもいいんですわ。お父さんしばらくいらしてもいいんでしょう。」「さあ、それでもいいんだが、誰か東京から来やしないか。それに己(おれ)もここは一日のつもりで来たんだから。」 加世子は黙って天井を見詰め、むっちりした白い手を出して、指先で頭をかいていたが、またごそごそ身動きをしたと思うと、今度は後ろ向きになって眠った。均平はふと妻の死の前後のことが憶(おも)い出され、小学校へ上がったばかりの加世子が、帰って来ると時々それとなし母を捜して歩き、来る女ごとに手を伸ばし、抱きつきたがる可憐(いじら)しい姿が浮かんで来て、思わず目が熱くなって来た。      六 翌朝は晴天であった。 均平はラジオ体操で目がさめ、階下(した)へおりて指先の凍るような井戸の水で顔を洗い、上半身をも拭(ふ)いて崖(がけ)はずれの処(ところ)に開けた畑の小逕(こみち)や建物のまわりを歩いていた。軽い朝風の膚(はだ)ざわりは爽快(そうかい)だったが、太陽の光熱は強く、高原の夏らしい感じだった。そうしているうちに加世子も女中と一緒に、タオルや石鹸(シャボン)をもって降りて来た。 二階へ上がると部屋もざっと掃除がすんでおり、均平は縁側のぼろ椅子(いす)に腰かけて、目睫(もくしょう)の間に迫る雨後の山の翠微(すいび)を眺めていた。寝しなに胸を圧していたあの感傷も迹(あと)なく消えた。 不思議なことに今朝(けさ)になってみると、田舎(いなか)の兄のやっている陶器会社が破産状態に陥った時、相談を持ちかけられ、郁子を説得したうえ、万に近い金をようやく融通して急場を救ったことがあり、後に紛紜(いざこざ)が起きて困ったことがあったが、結局解決がつかずじまいであったことが、今朝の清澄な心にふと思い出された。それで三村が均平を警戒しはじめ、郁子も間へ挾(はさ)まって困っていた事情や径路が、古い滓(おり)が水面へ浮かんで来たように思い出されて来た。しかし思い出してみても今更どうにもならないし、どうかする必要もなかった。「俺(おれ)もよほど弱気になった。」 均平は嘆息した。ひところ金を浪費して、荒れまわった時のことを考えると、とにかく勇気があった。 内へ入って茶をいれているところへ、加世子が帰って来た。「今この人と決めたんですけれど、今日は午前中病院へ行って、お昼から上諏訪へ遊びに行こうと思いますの。幾日もこんなところにいて鬱々(くさくさ)して来たから。それに少し買いたいものもありますの。」 加世子は鏡の前で顔にクリームを塗りながら、言っていた。「上諏訪! ああそう。」 均平も頷(うなず)いた。「お父さまもいらっしゃるでしょう。私たちお接待のつもりで……。」 加世子はふ、ふと笑っていた。「それあありがとう。俺も光栄だよ。」「光栄だなんて……。上諏訪へいらしたことがおありになって?」「いや、こっち方面はどこも知らない。旅行はあまり好きじゃなかったし、隙(ひま)もなかった。しかし、上諏訪へ行くんだったら、ちょっと訪ねたい処(ところ)もある。」 均平は匂わした。「どこですの。」「ホテルだ。」「ホテルに誰方(どなた)か……。」 加世子は小声で言ったが、気がついたらしく口をとじた。「何なら紹介しよう。」「ええ。」 食事がすんで療養所へ行ったのはもう九時であった。療養所はこの狭い高原地の、もっとも高燥な場所を占めていたが、考えていたよりも建築も儼(げん)としており、明るい環境も荒い感じのうちに、厳粛の気を湛(たた)えており、気分のよさに、均平もしばらく立ち止まって四辺(あたり)を見廻していた。 均一は鈴蘭病棟(すずらんびょうとう)の一室にいたが、熱も大して無いと見えて、仰臥(ぎょうが)したまま文庫本を見ていた。木造だけに部屋の感じもよく、今一人の同じ年頃の患者とベッドを並べているので、寂しそうにもなかった。「お父さま来て下さったの。」 加世子が傍(そば)へ寄って胸を圧(お)されるように言うと、均一は少し狼狽(ろうばい)したように、本を枕頭(まくらもと)におき、入口にいる均平を見た。「どうだね、こちらへ来て。」 均平は目を潤(うる)ませたが、均一も目に涙をためていた。「今のところ別に……。」      七「何しろこの病院は素晴らしいね。ここにいれば大抵の患者は健康になるに決まっているよ。」「ここまで持って来れる患者でしたら、大抵肥(ふと)って帰るそうです。」「とにかくじっと辛抱していることです。一年と思ったら二年もいる気でね。……戦争はどうだった?」「戦争ですか。何しろ行くと間もなく後送ですから、あまり口幅ったいことは言えませんが、何か気残りがしてなりません。病気でもかまわず戦線へ立つ勇気があるかといえば、それはできないけれど……。死の問題なぞ考えるようになったのは、かえってここへ来てからです。」 均平は今いる世界の周囲にも、事変当初から、あの空地(あきち)で歓送されて行った青年の幾人かを知っていた。役員や待合の若い子息(むすこ)に、耳鼻咽喉(いんこう)の医師、煙草屋(たばこや)の二男に酒屋の主人など、予備の中年者も多かった。地廻りの不良も召集され、運転士も幾人か出て行った。その中で骨になったり、不具者になって帰って来たのはせいぜい一人か二人で、大抵は無事で帰って来た。ある待合の子息は、出征直前に愛人の芸者が関西へ住替えしたのを、飛行機で追いかけ、綺麗(きれい)に借金を払って足を洗わせておいてから、出征したものだったが、杭州湾(こうしゅうわん)の敵前上陸後、クリークのなかで待機しているうち、窮屈な地下生活に我慢ができず、いきなり飛び出した途端に砲丸にやられ、五体は粉微塵(こなみじん)に飛び、やっと軍帽だけが送り還(かえ)された。またこの町内のある地主の子息は、工科出の地質学者であったが、召集されるとすぐ、深くも思い決した体で、心を後に残さないように、日頃愛用していたライカアやレコオドを残らず叩(たた)き壊(こわ)し、潔(いさぎよ)く征途に上ったものだったが、一ト月の後にはノモンハンで挺身(ていしん)奮闘して斃(たお)れてしまった。
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