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著者名:島木健作 

     1

 新しく連れて来られたこの町の丘の上の刑務所に、太田は服役後はじめての真夏を迎えたのであった。暑さ寒さも肌(はだ)に穏やかで町全体がどこか眠ってでもいるかのような、瀬戸内海に面したある小都市の刑務所から、何か役所の都合ででもあったのであろう、慌(あわ)ただしくただひとりこちらへ送られて来たのは七月にはいると間もなくのことであった。太田は柿色(かきいろ)の囚衣を青い囚衣に着替えると、小さな連絡船に乗って、翠巒(すいらん)のおのずから溶けて流れ出たかと思われるような夏の朝の瀬戸内海を渡り、それから汽車で半日も揺られて東海道を走った。そうして、大都市に近いこの町の、高い丘の上にある、新築後間もない刑務所に着いたのはもうその日の夕方近くであった。広大な建物の中をぐるぐると引きまわされ、やがて与えられた独房のなかに落ち着いた時には、しばらくはぐったりとして身動きもできないほどであった。久しぶりに接した外界の激しい刺戟(しげき)と、慣れない汽車の旅に心身ともに疲れはてていたのである。それから三日間ばかりというもの続けて彼は不眠のために苦しんだ。一つは居所の変ったせいもあったであろう。しかし、昼も夜も自分の坐(すわ)っている監房がまだ汽車の中ででもあるかのように、ぐるぐるとまわって感ぜられ、思いがけなく見ることの出来た東海道の風物や、汽車の中で見た社会の人間のとりどりの姿態などが目先にちらついて離れがたいのであった。ほとんど何年ぶりかで食った汽車弁当の味も、今もなお舌なめずりせずにはいられない旨(うま)さで思い出された。彼はそれをS市をすぎて間もなくある小駅に汽車が着いた時に与えられ、汽車中の衆人の環視のなかでがつがつとした思いで貪(むさぼ)り食ったのである。――しかし、一週間を過ぎたころにはこれらのすべての記憶もやがて意識の底ふかく沈んで行き、灰いろの単調な生活が再び現実のものとして帰って来、それとともに新しく連れて来られた自分の周囲をしみじみと眺(なが)めまわして見る心の落着きをも彼は取り戻(もど)したのであった。
 独房の窓は西に向って展(ひら)いていた。
 昼飯を終えるころから、日は高い鉄格子(てつごうし)の窓を通して流れ込み、コンクリートの壁をじりじりと灼(や)いた。午後の二時三時ごろには、日はちょうど室内の中央に坐っている人間の身体(からだ)にまともにあたり、ゆるやかな弧をえがきながら次第に静かに移って、西空が赤く焼くるころおいにようやく弱々しい光りを他の側の壁に投げかけるのであった。ここの建物は総体が赤煉瓦(あかれんが)とコンクリートとだけで組み立てられていたから、夜は夜で、昼のうち太陽の光りに灼けきった石の熱が室内にこもり、夜じゅうその熱は発散しきることなく、暁方(あけがた)わずかに心持ち冷えるかと思われるだけであった。反対の側の壁には通風口がないので少しの風も鉄格子の窓からははいらないのである。太田は夜なかに何度となく眼をさました。そして起き上ると薬鑵(やかん)の口から生ぬるい水をごくごくと音をさせて呑(の)んだ。その水も洗面用の給水を昼の間に節約(しまつ)しておかねばならないのであった。呑んだ水はすぐにねっとりとした脂汗(あぶらあせ)になって皮膚面に滲(にじ)み出た。暁方の少し冷えを感ずるころ、手を肌にあててみると塩分でざらざらしていた。――冬じゅうカサカサにひからび、凍傷のために紫いろに腫(は)れて肉さえ裂けて見えた手足が、黒いしみを残したままもとどおりになって、脂肪がうっすらと皮膚にのって、若々しい色艶(いろつや)を見せたかと思われたのもほんの束(つか)の間のことであった。今ははげしい汗疣(あせも)が、背から胸、胸から太股(ふともも)と全身にかけて皮膚を犯していた。汗をぬぐうために絶えず堅い綿布でごしごし肌をこするので強靱(きょうじん)さを失った太田の皮膚はすぐに赤くただれ、膿(うみ)を持ち、悪性の皮膚病のような外観をさえ示しはじめたのである。――監房内の温度はおそらく百度を越え、それと同時に房内の一隅(いちぐう)の排泄物(はいせつぶつ)が醗酵(はっこう)しきって、饐(す)えたような汗の臭(にお)いにまじり合ってムッとした悪臭を放つ時など、太田は時折封筒を張る作業の手をとどめ、一体この広大な建物の中には自分と同じようなどれほど多くの血気壮(さか)んな男たちが、この悪臭と熱気のなかに生きたその肉体を腐らせつつあるのだろうか、などと考えながら思わず胸をついて出る吐息とともに空を眺めやると、小さな鉄格子の窓に限られたはるかな空は依然白い焔(ほのお)のような日光に汎濫(はんらん)して、視力の弱った眼には堪えがたいまでにきらめいているのであった。

 ほぼ一と月もするうちに、単調なこの世界の生活の中にあって、太田は、いつしか音の世界を楽しむことを知るようになった。
 彼の住む二階の六十五房は長い廊下のほぼ中央にあたっていた。この建物の全体の構造から来るのであろうか、この建物の一廓(いっかく)に起るすべての物音は自然に中央に向って集まるように感ぜられるのであった。その内部がいくつにも仕切られた、巨大な一つの箱のような感じのするこの建物の一隅に物音が起ると、それは四辺の壁にあたって無気味にも思われる反響をおこし、建物の中央部にその音は流れて、やがて消えて行くのである。――廊下を通る男たちの草履(ぞうり)のすれる音、二、三人ひそひそと人目をぬすんで話しつつ行く気はい、運搬車の車のきしむ響き、三度三度の飯時に食器を投げる音、しのびやかに歩く見まわり役人の靴音(くつおと)と佩剣(はいけん)の音。――すべてそれらの物音を、太田は飽くことなく楽しんだ。雑然たるそれらの物音もここではある一つの諧調(かいちょう)をなして流れて来るのである。人間同士、話をするということが、堅く禁ぜられている世界であった。灰色の壁と鉄格子の窓を通して見る空の色と、朝晩目にうつるものとてはただそれだけであった。だがそのなかにあって、なお自然にかもし出される音の世界はそれでもいくらか複雑な音いろを持っていたといいうるであろう。それも一つには、あたりが極端な静けさを保っているために、ほんのわずかな物音も物珍らしいリズムをさえ伴って聞かれるのである。――この建物の軒や横にわたした樋(とい)の隅(すみ)などにはたくさんの雀(すずめ)が巣くっていた。春先、多くの卵がかえり、ようやく飛べるようになり、夏の盛りにはそれはおびただしい数にふえていた。暁方空の白むころおいと、夕方夕焼けが真赤に燃えるころおいには、それらのおびただしい雀の群れが鉄格子の窓とその窓にまでとどく桐(きり)の葉蔭(はかげ)に群れて一せいに鳴きはやすのである。その奥底に赤々と燃えている(原文五字欠)を包んで笑うこともない、きびしい冷酷さをもって固(かた)くとざされた心にも、この愛すべき小鳥の声は、時としては何かほのぼのとした温(あたた)かいものを感じさせるのであった。それは多くは幼時の遠い記憶に結びついているようである。――時々まだ飛べない雀の子が巣から足をすべらして樋の下に落ちこむことがあった。親雀が狂気のようにその近くを飛びまわっている時、青い囚衣を着て腕に白布をまいた雑役夫たちが、樋の中に竹の棒をつっ込みながら何か大声に叫び立てている。それは高い窓からも折々うかがわれる風景であったが、ほんの一瞬間ではあるが、それは自分の現在の境遇を忘れさせてくれるに足るものであった。――五年という月日は長いが、すべてこれらの音の世界が残されている限りは、俺(おれ)も発狂することもないだろう、などと太田は時折思ってみるのであった。
 だが、何にも増して彼が心をひかれ、そしてそれのみが唯一の力とも慰めともなったところのものは、やはり人間の声であり、同志たちの声であった。
 その声はどんな雨の日にも風の日にも、これだけは欠くることなく正確に一日に朝晩の二回は聞くことができた。朝、起床の笛が鳴りわたる。起きて顔を洗い終ると、すぐに点検の声がかかる。戸に向って瘠(や)せて骨ばった膝(ひざ)を揃(そろ)えて正坐する時には、忘れてはならぬ屈辱の思いが今さらのようにひしひしと身うちに徹して感ぜられ、点検に答えて自分の身に貼(は)りつけられた番号を声高く呼びあげるのであった。欝結(うっけつ)し、欝結して今は堪えがたくなったものが、一つのはけ口を見出して迸(ほとば)しり出(い)ずるそれは声なのである。人々はこの声々に潜むすべての感情を、よく汲(く)みつくし得るであろうか。――太田はいつしかその声々の持つ個性をひとつひとつ聞きわけることができるようになった。――一九三×年、この東洋第一の大工業都市にほど近い牢獄(ろうごく)の独房は、太田と同じような罪名の下に収容されている人間によって満たされていたのだ。太田は鍛え上げられた敏感さをもって、共犯の名をもって呼ばれる同志たちがここでも大抵一つおきの監房にいることをすぐに悟ることができた。その声のあるものは若々しい張りを持ち、あるものは太く沈欝であった。その声を通してその声の主がどこにどうしているかをも知ることが出来るのであった。時々かねて聞きおぼえのある声が消えてなくなることがある。二、三日してその声がまた、少しも変らない若々しさをもって思わざる三階の隅の方からなど聞えてくる時には、ひとりでに湧(わ)き上ってくる微笑をどうすることもできないのであった。だが、一とたび消えてついに二度とは聞かれない声もあった。その声は何処に拉(らつ)し去られたのであろうか。――朝夕の二度はこうして脈々たる感情がこの箱のような建物のあらゆる隅々に波うち、それが一つになってふくれ上った。

     2

 間もなく日が黄いろ味を帯びるようになり戸まどいした赤とんぼがよく監房内に入って来ることなどがあって、ようやく秋の近さが感ぜられるようになった。そういうある日の午後少し廻(まわ)ったころ、太田は張り終えた封筒を百枚ずつせっせと束にこしらえていた。
 彼の一日の仕上げ高、はぼ三千枚見当にはまだだいぶ開きがあった。残暑の激しい日光を全身に受けてせっせと手を運ばせていると、彼はにわかに右の胸部がこそばゆくなり、同時に何か一つのかたまりが胸先にこみあげてくるのを感じたのである。何気なく上体をおこすとたんに、そのかたまりはくるくると胸先をかけ巡り、次の瞬間には非常な勢いで口の中に迸り出て、満ち溢(あふ)れた余勢で積み重ねた封筒の上に吐き出されたのであった。
 血だ。
 ぼったりと大きな血塊が封筒のまん中に落ち、飛沫(ひまつ)がその周囲に霧のように飛んだ。それはほとんど咳入(せきい)ることもなく、満ち溢れたものが一つのはけ口を見出して流れ出たようにきわめて自然に吐き出された。だが次の瞬間には恐ろしい咳込みがつづけさまに来た。太田は夢中で側の洗面器に手をやりその中に面(かお)をつっこんだ。咳はとめどもなく続いた。そのたびごとに血は口に溢れ、洗面器に吐き出された。血は両方の鼻孔からもこんこんとして溢れ、そのために呼吸が妨げられるとそれが刺戟となってさらに激しく咳入るのであった。
 洗面器から顔をあげて喪心したようにその中をじっとのぞき込んだ時には、血はべっとりとその底を一面にうずめていた。溜(たま)った血の表面には小さな泡(あわ)がブツブツとできたりこわれたりしていた。一瞬間前までは、自分の生きた肉体を温かに流れていたこの液体を、太田は何か不思議な思いでしばらく見つめていた。彼は自分自身が割合に落ち着いていることを感じた。胸はしかし割れるかと思われるほどに動悸(どうき)を打っていた。顔色はおそらく白っぽく乾(かわ)いていたことであろう。静かに立ち上ると報知機をおとし、それからぐったりと彼は仰向けに寝ころんだ。
 靴音がきこえ、やがて彼の監房の前で立ち止まり、落ちていた報知器をあげる音がきこえ、次に二つの眼が小さな覗(のぞ)き窓の向うに光った。
「何だ?」
 太田は答えないで寝たままであった。
「おい、何の用だ?」光線の関係で内部がよくは見えなかったのであろう、コトコトとノックする音が聞えたが、やがて焦立(いらだ)たしげにののしる声がきこえ、次に鍵(かぎ)がガチャリと鳴り、戸が開いた。
「何だ! 寝そべっている奴(やつ)があるか、どうしたんだ?」
 太田がだまって枕(まくら)もとの洗面器を指さすと、彼は愕然(がくぜん)とした面持でじっとそれに見入っていたが、やがてあわててポケットから半巾(ハンケチ)を出して口をおおい、無言のまま戸を閉じ急ぎ足に立ち去った。
 やがて医者が来て簡単な診察をすまし、歩けるか、と問うのであった。太田がうなずいて見せると彼は先に立って歩き出した。監房を出る時ふと眼をやると、洗面器の血潮はすでに夏の日の白い光線のなかに黒々と固まりかけていて、古血の臭いが鼻先に感ぜられた。
 日のなかに出ると眼がくらくらとして倒れそうであった。赤土は熱気に燃えてその熱はうすい草履をとおしてじかに足に来た。病舎までは長い道のりであった。どれもこれも同じようないくつかの建物の間を通り、広い庭を横ぎり、また暗い建物の中に入りそれを突き抜けた。病舎に着くとすぐに病室に入れられ、氷を胸の上にのせて、太田は絶対仰臥(ぎょうが)の姿勢を取ることになったのである。
 七日の間、彼は夜も昼もただうつらうつらと眠りつづけた。その間にも、凝結した古血のかたまりを絶えず吐き続けた。彼は自分の突然落ちこんだ不幸な運命について深く考えてみようともしなかった。いや、彼のぶつかった不幸がまだあまりに真近くて彼自身がその中において昏迷(こんめい)し、その不幸について考えてみる心の余裕を取り戻していなかったのであろう。やがて落着きを充分に取り戻すと同時に、どんなみじめな思いに心が打ち摧(くだ)かれるであろうか、ということが意識の奥ふかくかすかに予想はされるのではあったが。重湯と梅ぼしばかりで生きた七日ののち、彼はようやく静かに半身を起して身体のあちらこちらをさすってみて、この七日の間に一年も寝ついた病人の肉体を感じたのである。まばらひげの伸びた顎(あご)を撫(な)でながら、彼はしみじみと自分の顔が見たいと思った。ガラス戸に這(は)い寄って映して見たが光るばかりで見えなかった。やがて尿意をもよおしたので静かに寝台をすべり下り、久しぶりに普通の便器に用を足したが、その便器のなかに澱(よど)んだ水かげに、彼ははじめてやつれた自分の顔を映して見ることができたのであった。
 八日目の朝に看病夫が来て、彼の喀痰(かくたん)を採って行った。
 それからさらに二日経(た)った日の夕方、すでに夕飯を終えてからあわただしく病室の扉(とびら)が開かれ、先に立った看守が太田に外へ出ることを命じたのである。そして許された一切の持物を持って出ることをつけ加えた。夕飯後の外出ということはほとんどないことである。彼は不審そうにつっ立って看守の顔を見た。
「転房だ、急いで」
 看守は簡単に言ったままずんずん先に立って歩いて行く。太田は編笠(あみがさ)を少しアミダにかぶってまだふらふらする足を踏みしめながらその後に従ったが、――そうしてやがて来てしまったここの一廓は、これはまたなんという陰気に静まりかえった所であろう。一体に静かに沈んでいるのはここの建物の全体がそういう感じなのだが、その中にあってすらこんなところがあるかと思われるような、特にぽつんと切り離されたような一廓なのである。なるほど刑務所の内部というものは、行けども行けども尽きることなく、思いがけない所に思いがけないものが伏せてある(原文三字欠)にも似ているとたしかにここへ来ては思い当るようなところであった。もう秋に入って日も短かくなったこととて、すでにうっすらと夕闇(ゆうやみ)は迫り、うす暗い電気がそこの廊下にはともっていた。建物は細長い二棟(ふたむね)で廊下をもって互いに通ずるようになっている。不自然に真白く塗った外壁がかえってここでは無気味な感じを与えているのである。この二棟のうちの南側の建物の一番端の独房に太田は入れられた。何か聞いてみなければ心がすまないような気持で、ガチャリと鍵の音のした戸口に急いで戻って見た時には、もうコトコトと靴音が長い廊下の向うに消えかけていた。
 房内はきちんと整頓(せいとん)されていてきれいであった。入って右側には木製の寝台があり、便所はその一隅に別に設けてあり、流しは石でたたんで水道さえ引かれているのである。試みに栓(せん)をひねってみると水は音を立てて勢いよくほとばしり出た。窓は大きく取ってあって寝台の上に坐りながらなお外が見通されるくらいであった。太田が今日まで足かけ三年の間、いくつかその住いを変えて来た独房のうちこんなに綺麗(きれい)で整いすぎる感じを与えた所はかつてどこにもなかった。それは彼を喜ばせるよりもむしろ狼狽(ろうばい)させたのであった。俺は一体どこへ連れて来られたのであろう、ここは一体どこなのだ?
 あたりは静かであった。他の監房には人間がいないのであろうか、物音一つしないのである。それにさっきの看守が立ち去ってからほぼ三十分にもなるであろうが、巡回の役人の靴音も聞えない。いつも来るべきものが来ないと言うことは、この場合、自由を感じさせるよりもむしろ不安を感じさせるのであった。
 腰をかけていた寝台から立ち上って、太田は再び戸口に立ってみた。心細さがしんから骨身に浸(し)みとおってじっとしてはいられない心持である。扉にもガラスがはめてあって、今暮れかかろうとする庭土を低く這って、冷たい靄(もや)が流れているのが見えるのである。
「………………」
 ふと彼は人間のけはいを感じてぎょっとした。二つおいて隣りの監房は広い雑居房で、半分以上も前へせり出しているために、しかもその監房には大きく窓が取ってあるために、その内部の一部分がこっちからは見えるのであった。廊下の天井に高くともった弱い電気の光りに眼を定めてじっと見ると、窓によって大きな男がつっ立っているのだ。瞬(またた)きもせず眼を据(す)えてこっちを見ているのだが、男の顔は恐ろしく平べったくゆがんで見えた。何とはなしに冷たい氷のようなものが太田の背筋を走った。その男の立っている姿を見ただけで、何か底意地のわるい漠然(ばくぜん)たる敵意が向うに感ぜられるのだが、太田は勇気を出して話しかけてみたのであった。
「今晩は」
 それにはさらに答えようともせず、少し間をおいてから、男はぶっきら棒に言い出したのである。
「あんた、ハイかライかね?」
 その意味は太田には解しかねた。
「あんた、病気でここへ来なすったんだろう。なんの病気かというのさ」
「ああ、そうか。僕は肺が悪いんだろうと思うんだが」
「ああ、肺病か」
 突っぱねるように言って、それからペッとつばを吐く音がきこえた。
「あんたも病気ですか、なんの病気なんです? そしていつからここに来ているんです」
 明らかに軽蔑(けいべつ)されつき放された心細さに、いつの間にか意気地なくも相手に媚(こ)びた調子でものを言っている自分をさえ感じながら、太田はせき込んで尋ねたのであった。
「わしは五年いるよ」
「五年?」
「そうさ、一度ここへ来たからにゃ、焼かれて灰にならねえ限り出られやしねえ」
「あんたも病気なんですか、それでどこが悪いんです?」
 男は答えなかった。くるっと首だけ後ろに向けて、ぼそぼそと何か話している様子だったが、またこっちを向いた。その時気づいたことだが、彼は別にふところ手をしている風にもないのだが、左手の袖(そで)がぶらぶらし、袖の中がうつろに見えるのであった。
「わしの病気かね」
「ええ」
「わしは、れ・ぷ・ら、さ」
「え?」
「癩病(らいびょう)だよ」
 しゃがれた大声で一と口にスバリと言ってのけて、それから、ざまア見やがれ、おどろいたか、と言わんばかりの調子でヘッヘッヘッとひっつるような笑い声を長く引きながら監房の中に消えてしまった。その笑い声に応じて、今まで静かであった監房の中にもわっという叫び声が起り、急に活気づいたような話し声がつづいて聞えて来るのであった。すっかり惨(みじ)めに打ちひしがれた思いで太田は自分の寝台に帰った。いつか脂汗が額にも背筋にもべとべととにじんでいた。わきの下に手をあててみると火のように熱かった。二、三分、狭い監房の中を行ったり来たりしていたが、それから生温(なまぬる)い水にひたした手ぬぐいを額にのせてぐったりと横になり、彼は暁方までとろとろと夢を見ながら眠った。

     3

 朝晩吐く痰に赤い色がうすくなり、やがてその色が黒褐色(こっかっしょく)になり、二週間ほど経って全然色のつかない痰が出るようになり、天気のいい日にはぶらぶら運動にも出られるようになったころから、ようやく太田にはこの新らしい世界の全貌(ぜんぼう)がわかって来たのである。ここへ来た最初の日、雑居房の大男が、「ハイかライか?」と突然尋ねた言葉の意味もわかった。この隔離病舎の二棟のうち、北側には肺病患者が、南側には癩病患者が収容せられているのであった。癩病人と棟を同じくしている肺病患者は太田だけで、南側の建物の一番東のはしにただひとりおかれていた。
 社会から隔離され忘れられている牢獄のなかにあって、さらに隔離され全く忘れ去られている世界がここにあったのだ。何よりもまず何か特別な眼をもって見られ、特別な取扱いを受けているという感じが、新しくここへ連れ込まれた囚人の、彼ら特有の鋭どくなっている感覚にぴんとこたえるのであった。十分間おきぐらいにはきまって巡回するはずの役人もこの一廓にはほんのまれにしか姿を見せなかった。たとえ来てもその一端に立って、全体をぐるりと一と睨(にら)みすると、そそくさと急いで立ち去ってしまうのである。担当の看守はもう六十に手のとどくような老人で、日あたりのいい庭に椅子(いす)を持ち出し、半ばは眠っているのであろうか、半眼を見開いていつまでもじっとしていることが多かった。監房内にはだからどんな反則が行われつつあるか、それは想像するに難くはないのである。すべてこれらの取締り上の極端なルーズさというものは、だが、決して病人に対する寛大さから意識して自由を与えている、という性質のものではなく、それが彼らに対するさげすみと嫌悪(けんお)の情とからくる放任に過ぎないということは、ことごとにあたっての役人たちの言動に現われるのであった。用事があって報知機がおろされても、役人は三十分あるいは一時間の後でなければ姿を見せなかった。ようやく来たかと思えば、監房の一間も向うに立って用事を聞くのである。うむ、うむ、とうなずいてはいるが、しかしその用事が一回でこと足りたということはまずないといっていいのである。――よほど後のことではあるが、太田は教誨師(きょうかいし)を呼んで書籍の貸与方を願い出たことがあった。監房に備えつけてある書籍というものは、二、三冊の仏教書で、しかもそのいずれもが表紙も本文もちぎれた読むに堪えない程度のものであったから。教誨師が仔細(しさい)らしくうなずいて帰ったあとで、掃除夫(そうじふ)の仕事をここでやっている、同じ病人の三十番が太田に訊(き)くのであった。――「太田さん教誨師に何を頼みなすった?」「なに、本を貸してもらおうと思ってね」「そりゃ、あなた、無駄(むだ)なことをしなすったな。一年に一度、役に立たなくなった奴を払い下げてよこす外に、肺病やみに貸してくれる本なんかあるもんですか。第一、坊主なんかに頼んで何がしてもらえます? あんたも共産党じゃないか。頼むんなら赤裏(典獄のこと)に頼むんですよ、赤裏に。赤裏がまわって来た時に、かまうこたァない、恐れながらと直願をやるんですよ」この前科五犯のしたたか者の辛辣(しんらつ)な駁言(ばくげん)には一言もなかったが、なるほどその言葉どおりであった。頼んだ本はついに来なかった。そして二度目に逢(あ)った時、教誨師は忘れたもののごとくによそおい、こっちからいわれて始めて、ああ、と言い、何ぶん私の一存ばかりでも行かぬものですから、と平気で青い剃(そ)りあとを見せた顎を撫でまわすのであった。――読む本はなく、ある程度の健康は取り戻しても何らの手なぐさみも許されず、終日茫然(ぼうぜん)として暗い監房内に、病める囚人たちは発狂の一歩手前を彷徨(ほうこう)するのである。
 健康な他の囚人たちのここの病人に対するさげすみは、役人のそれに輪をかけたものであった。きまった雑役夫はあっても何かと口実を作ってめったに寄りつきはしなかった。仕方なく掃除だけは病人のうち比較的健康な一人が外に出て掃(は)いたり拭(ふ)いたりするのである。衣替えなどを請求してもかつて満足なものを支給されたためしはなかった。囚衣から手拭(てぬぐ)いのはしに至るまで、もう他では使用に堪えなくなったものばかりを、択(よ)りに択って持ってくるのである。病人たちは、尻(しり)が裂けたり、袖のちぎれかけた柿色の囚衣を着てノロノロと歩いた。而してこういう差別は三度三度の食事にさえ見られた。味噌汁(みそしる)は食器の半分しかなく飯も思いなしか少なかった。病人は常に少ししか食えないものと考えるのは間ちがいだ。病人というものは食欲にムラがあり、極端に食わなかったり、極端に食ったりするものなのだ。一度肺病やみの一人が雑役夫をつかまえて不平を鳴らしたが、「何だと! 遊んでただまくらっていやがって生意気な野郎だ!」声とともに汁をすくう柄杓(ひしゃく)の柄がとんで頭を割られ、そのために若者は三日間ほど寝込んでしまい、それ以後は蔭でブツブツは言っても大きな声でいうものはなくなった。
 さげすまれ、そのさげすみが極端になっては言葉に出して言うでもなく、何を言ってもソッポを向き、時々ふふんと鼻でわらい、病人の眼の前で雑役夫と看病夫とが顔を見合わして思わせぶりにくすりと笑って見せたりする、それはいい加減に彼らの尖(とが)った神経をいらいらさせるしぐさであった。だが、憎まれ、さげすまれる、ということは考えようによってはまだ我慢の出来ることである。憎まれるという場合はもちろん、さげすまれるという場合でも、まだ彼は相手にとってはその心を牽(ひ)くに足りる一つの存在であるのだから。次第にその存在が人々にとって興味がなくなり、路傍の石のように忘れられ、相手にもされなくなるということは、生きている人間にとっては我慢のできないことであった。
 ここの世界で発行されている新聞が時々配られる。それにはいろいろ耳寄りなことが書いてある。所内には新しくラジオが据えつけられ、収容者に聞かせることになった、図書閲覧の範囲が拡大された、近いうちに、巡回活動写真が来る、等々。だがそれらはすべてこの一廓の人間にとっては全く無縁の事柄なのである。病人は寝ているのが仕事だ、悪いことをしてここへ来て、遊んで寝そべって、しかも毎日高い薬を呑ませてもらっているとは、何と冥利(みょうり)の尽きたことではないか、というのであった。――刑務所内の安全週間の無事に終った祝いとして、収容者全部に砂糖入りの団子が配られ、この隔離病舎にだけはどうしたものかそれが配られず、後で炊事担当も病舎の担当もここのことは「忘れて」いたのだ、と聞かされた時、とうとう欝結していたものが一人の若者の口から迸り出た。「なに、忘れていたって! ようし思い出させてやるぞ!」雑居三房にこの二た月寝っきりに寝ていたひょろひょろした肺病やみの若者がいきなりすっくと立ち上った。あっけに取られている同居人を尻目にかけて、病み衰えた手に拳(こぶし)を握ると、素手で片っぱしから窓ガラスをぶっこわし始めたのである。恐ろしい大きな音を立ててガラスの破片が飛び散った。後難を恐れた同居人の一人が制止しようとして後ろから組みつくと、苦もなくはねとばされてしまった。物音に驚いた看守と雑役夫とがかけつけてようやく組み伏せるまで、若者は狂気のように荒れ狂った。後ろ手に縛り上げられた静脈のふくれ上った拳にはガラスの破片が突き刺さって鮮血で染まっていた。若者はそのまま連れて行かれ、三日間をどこかで暮して帰って来た。病人だからといっても懲罰はまぬがれ得なかったのである。ただそれが幾分か軽かったぐらいのものであろう。青い顔をして帰って来、監房へ入るとすぐに寝台の端に手をささえて崩折(くずお)れたほどであったが、無口な若者はそれ以来ますます無口になり、力のないしかし厳(きび)しい目つきでいつまでもじっと人の顔を見つめるようになり、間もなく寒くなる前に死んでしまった。
 さきに言ったように太田は癩病患者と棟を同じくして住んでいた。
 半ば物恐ろしさと半ば好奇心とから、彼はこの異常な病人の生活を注目して見るようになった。――雑居房の四人の癩病人は、運動の時間が来るとぞろぞろと広い庭の日向(ひなた)へ出て行った。太田はその時始めて、彼らの一々の面貌(めんぼう)をはっきり見ることができたのである。色のさめた柿色の囚衣を前のはだけたままに着てのろのろと歩み、じっとうずくまり、ふと思い出したように小刻みに走ってみ、または何を思い出したのかさもさもおかしくてたまらないといった風に、ひっつったような声を出して笑ったりする、残暑の烈しい秋の日ざしのなかの、白昼公然たる彼らのたたずまいはすさまじいものの限りであった。四人のうち二人はまだ若く、一人は壮年で他の一人はすでに五十を越えているかと思われる老人であった。若者は二人とも不自然にてかてかと光る顔いろをし、首筋や頬(ほお)のどちらかには赤い大きな痣(あざ)のような型があった。人の顔を見る時には、まぶしそうに細い眇目(すがめ)をして見るのであるが、じっと注意して観(み)ると、すでに眼の黒玉はどっちかに片よっているのであった。二人とも二十歳をすぎて間もあるまいと思われる年ごろであるが、おそらくは少年時代のうちにもうこの病いが出たものであろう、自分の病気の恐ろしさについても深くは知らず、世の中もこんなものと軽く思いなしているらしい風情(ふぜい)が、他からもすぐに察せられ、嬉々(きき)として笑い興じている姿などは一層見る人の哀れさをそそるのである。――壮年の男は驚くほどに巌丈(がんじょう)な骨組みで、幅も厚さも並はずれた胸の上に、眉毛(まゆげ)の抜け落ちた猪首(いくび)の大きな頭が、両肩の間に無理に押し込んだようにのしかかっているのである。飛び出した円(まる)い大きな眼は、腐りかけた魚の眼そのままであった。白眼のなかに赤い血の脈が縦横に走っている。その巌丈な体躯(たいく)にもかかわらず、どうしたものか隻手で、残った右手も病気のために骨がまがりかけたままで伸びず、箸(はし)すらもよくは持てぬらしいのであった。彼は監房内にあって、時々何を思い出してか、おおっと唸(うな)り声を発して立ち上り、まっ裸になって手をふり足を上げ、大声を出しながら体操を始めることがあった。その食欲は底知れぬほどで、同居人の残飯は一粒も残さず平らげ、秋から冬にかけては、しばしば暴力をもって同居人の食料を強奪するので、若い他の二人は秋風が吹くころから、また一つ苦労の種がふえるのであった。――そしてこの男は、時々思い出したように、食いものと女とどっちがええか、今ここに何でも好きな食いものと、女を一晩抱いて寝ることとどっちかをえらべ、といわれたら、お前たちはどっちをとるか、という質問を他の三人に向って発するのである。老人(としより)はにやにや笑って答えないが、若者の一人が真面目(まじめ)くさって考えこみ、多少ためらった末に「そりゃ、ごっつぉうの方がええ」と答え、「わしかてその方がええ」ともう一人の若者がそれに相槌(あいづち)を打つのを聞くと、その男は怒ったような破(わ)れ鐘(がね)のような声を出して怒鳴るのであった。「なんだと! へん、食いものの方がいいって! てめえたち、ここへ来てまでシャバにいた時みてえに嘘(うそ)ばっかりつきやがる。食いものはな、ここにいたって大して不自由はしねえんだ、三度三度食えるしな、ケトバシでも、たまにゃアンコロでも食えるんだ、……女はそうはいかねえや。てめえたち、そんなことを言う口の下から、毎晩ててんこうばかししやがって、この野郎」それは感きわまったような声を出して、ああ、女が欲(ほ)しいなァと嘆息し、みんながどっと笑ってはやすと、それにはかまわずブツブツと口のなかでいつまでも何事かを呟(つぶや)いているのであった
 最後の一人はもう五十を越えた老人でふだんはごく静かであった。顔はしなびて小さく眼はしょぼしょぼし、絶えず目脂(めやに)が流れ出ていた。両足の指先の肉は、すっかりコケ落ちて、草履を引っかけることもできず、足を紐(ひも)で草履の緒に結びつけていた。感覚が全然ないのであろう、泥(どろ)のついた履物(はきもの)のままずかずかと房内に入りこむのは始終のことであった。まだ若い時田舎(いなか)の百姓家のいろりの端で居眠りをし、もうそのころは病気がかなり重って足先の感覚を失っていたのだが、その足を炉のなかに入れてブスブス焼けるのも知らないでいたという、その時の名残(なご)りの焼傷(やけど)の痕(あと)が残っていて、右足の指が五本とも一つにくっついてのっぺりしていた。二十歳をすぎると間もなくこの病気が出、三池の獄に十八年いたのを始めとして、今の歳(とし)になるまで全生涯(ぜんしょうがい)の大半を暗いこの世界で過して来たというこの老人は、もう何事も諦(あきら)めているのであろうか、言葉少なにいつも笑っているような顔であった。時々、だが、何かの拍子に心の底にわだかまっているものがバクハツすると、憤怒(ふんぬ)の対象は、いつもきまって同居のかの壮年の男に向けられ、恐ろしい老人のいっこくさで執拗(しつよう)に争いつづけるのであった。

 この四人が太田の二つおいて隣りの雑居房におり、最初太田はそれだけで、彼の一つおいて隣りの独房は空房であるとのみ思っていた。それほどその独房はひっそりとして静かであったのである。だが、そこにもじつは人間が一人いるのであった。運動に出はじめて間もなくのある日のこと、太田はその監房の前を通りしなに何気なく中を覗いてみた。光線の関係で戸外の明るい時には、外から監房内は見えにくいのであった。ずっと戸の近くまですりよって房内を見た時に、思いもかけず寝台のすぐ端に坊主頭がきちんと坐ってじっとこちらを見ている眼に出っくわし、彼は思わずあッといってとびしさった。
 次の日彼が運動から帰って来た時には、その男は戸の前に立っていて、彼が通るのを見ると丁寧に頭を下げて挨拶(あいさつ)をしたのであった。その時太田ははじめてその男の全貌を見たのである。まだ二十代の若い男らしかった。太田はかつて何かの本で読んだ記憶のある、この病気の一つの特徴ともいうべき獅子面(ライオンフェース)という顔の型(タイプ)を、その男の顔に始めてまざまざと見たのであった。眼も鼻も口も、すべての顔の道具立てが極端に大きくてしかも平べったく、人間のものとは思われないような感じを与えるのである。気の毒なことにはその上に両方の瞼(まぶた)がもう逆転しかけていて、瞼の内側の赤い肉の色が半ば外から覗かれるのであった。
 太田が監房に帰ってしばらくすると、コトコトと壁を叩(たた)く音が聞え、やがて戸口に立って話しかけるその男の声がきこえて来た。
「太田さん」看守が口にするのを聞いていていつの間にか知ったものであろう、男は太田の名を知っていた。
「お話しかけたりして御迷惑ではないでしょうか。じつは今まで御遠慮していたのですが」
 声の音いろというものが、ある程度までその人間の人柄を示すことが事実であるとすれは、その男が善良な性質の持主であるらしいことがすぐに知れるのであった。こんな世界では恐ろしく丁寧なその言葉遣(づか)いもさしてわざとらしくは聞えず、自然であった。
「いいえ、迷惑なことなんかちっともありませんよ。僕だって退屈で弱っているんだから」太田は相手の心に気易(きやす)さを与えるために出来るだけ気さくな調子で答えたのである。
「始めてここへいらした時にはさぞびっくりなすったでしょうね。……あなたは共産党の方でしょう」
「どうしてそれを知っているんです」
「そりやわかります。赤い着物を着ていてもやっぱりわかるものです。わたしのここへ入った当座はちょうどあなた方の事件でやかましい時であったし……、それに肺病の人はみんな向うの一舎にはいる規則です。肺病でこっちの二舎に入るのは思想犯で、みんなと接近させないためですよ。戒護のだらしなさは、上の役人自身認めているんですからね。……あなたの今いる監房には、二年ほど前まで例のギロチン団の小林がいたんですよ」
 その名は太田も知っていた。それを聞いて房内にある二、三の、ぼろぼろになった書物の裏表紙などに折れ釘(くぎ)の先か何かで革命歌の一とくさりなどが書きつけてある謎(なぞ)が解けたのである。
「へえ、小林がいたんですかね、ここに、それであの男はどうしました」
「死にましたよ。お気を悪くなすっては困りますが、あなたの今いるその監房でです。引取人がなかったものですからね。薬瓶(くすりびん)で寝台のふちを叩きながら革命歌かなんか歌っているうちに死んじゃったのですが」
 いかにもアナーキストらしいその最後にちょっと暗い心を誘われるのであった。そして今、この男に向って病気のことについて尋ねたりするのは、痛い疵(きず)をえぐるようなもので残酷な気もするが、一方自分という話相手を得てしみじみとした述懐の機会を持ったならば、おのずから感傷の涙にぬれて、彼の心も幾分か慰められることもあろうか、などと考えられ、それとなく太田は聞いてみたのである。
「それで、あなたはいつからここへ来ているんです。いつごろから悪いんですか」
「わたしはこの病舎に来てからでももう三年になります。二区の三工場、指物(さしもの)の工場です、あそこで働いていたんですが急に病気が出ましてね。手先や足先が痺(しび)れて感覚がなくなって来たことに自分で気づいたころから、病気はどんどん進んで来ましたよ。もっとも自覚がないだけでよほど前から少しずつ悪くはなっていたんでしょうが。人にいわれて気がついて見ると、なるほど親指のつけ根のところの肉、――手の甲の方のです、その肉なんかずっと瘠せていますしね。第一子供の時の写真から見ると、二十ごろの写真はまるっきり人相が変っています。子供の時は、ほんとうにかわいい顔でしたが」
「誤診ということもあるでしょうが、医者は詳しく調べたんですか」
「ええ、手足が痺れるぐらいのうちは、私もまだ誤診であってくれればいいとそればかり願っていましたが、それから顔が急に腫れはじめた時にもまだ望みは失いませんでしたが……しかし、今となってはもう駄目(だめ)です、今は……、太田さん、あなたも御覧になったでしょう、え、御覧になったでしょうね、そしてさぞ驚かれたことでしょう、眼が……、眼がもうひっくりかえって来たのです。赤眼になって来たのです。ちょうど子供が赤んべえをしている時のような眼です。それからは私ももう諦めています。こわい病気ですね、こいつは。何しろ身体が生きながら腐って行くんですからね。どうもこいつには二通りあるようです。あの四人組の一人のおとっつぁん、あの人のように肉がこけて乾(ひ)からびて行くのと、それはまだいいが、ほんとに文字どおり腐って行く奴とです。そしてどうもわたしのはそれらしいのです。それでいて身体には別になに一つわるいところはないのです。胃などはかえって丈夫になって、人一倍よけいに食うし……、餓鬼です、全くの餓鬼です。業病ですね。何という因果なこったか……」
 急迫した調子で言って来たかと思うと、バッタリと言葉がとだえた。どうやら泣いているらしい。いい加減な慰めの言葉などは軽薄でかけられもせず、いいようのない心の惑乱を感じて太田はそこに立ちつくしていた。ちょうどその時靴音がきこえ、その男の監房の前に来て立ちどまり、戸を開(あ)けて、面会だ、と告げたのである。
 男は出て行った。どこで面会をするのであろうか。気をつけて見ると、この病舎には別に面会所とてないのである。庭の片隅のなるべく人目にかからない所ですますらしいのである。面会に来たのは杖(つえ)をつき、腰の半ば曲った老婆であった。黄色い日の弱々しく流れた庭の一隅に、影法師をおとして二人は向い合って立っている。老婆はハンケチで眼をおさえながら何かくどくどとくりかえしているようだ。やがてものの十五分も経つと、立会いの看守は時計を出して見、二人の間をへだて、老婆を連れて向うへ立ち去って行った。男は立って、壁のかげに隠れるその後ろ姿を見送っていたが、やがて担当にうながされて帰って来た。
「太田さん、太田さん」監房へ入るとすぐに男はおろおろ声でいうのであった。「ばばアはね、うちのばばアはたとえからだが腐っても死なないで出て来いというんです。それまではばばアも生きている、死ぬ時には一しょに死ぬから短気な真似(まね)はするなって、くり返しくり返しばばアはいうんです……」
 それから今度は声を放って彼は泣き出したのである。――とぎれとぎれの話の間に、太田は男の名を村井源吉といい、犯罪は殺人未遂らしく、五年の刑期だということだけを知ることができた。あなたの事件は何です、と遠慮がちに聞いてみると、「つまらない女のことでしてね、つい刃傷沙汰(にんじょうざた)になってしまったのです」そういったままぷっつりと口をつぐんで、自分の過去の経歴と事件の内容については何事も語らなかった。
「ねえ、太田さん、わたしは諦めようったって諦められないんだ。わたしはまだ二十五になったばかりです。そして社会では今まで何一つ面白い目は見ていないんです。今度出たら、今度シャバに出たらと、そればっかり考えていたら、そのとたんにこんな業病にかかってしまって……。私はばばアのいうとおり、なんとかして命だけは持って出て、出たら三日でも四日でもいい、思いっきりしたい放題をやって、無茶苦茶をやって、それがすんだら街(まち)のまん中で電車にでもからだをブッつけて死んでやるつもりです。嘘じゃありません、私はほんとうにそれをやりますよ」
 全く心からそう思いつめているのであろう、涙でうるんだ声で話すその言葉には、じかに聞き手の胸に迫ってくるものがあって、太田は心の寒くなるのを感じ、声もなくいつまでも戸の前に立っていた。

     4

 冬がすぎ、その年も明けて春となり、いつかまた夏が巡って来た。
 肺病患者の病室では病人がバタバタと倒れて行った。今まで運動にも出ていたものがバッタリと出なくなり、ずっと寝込んでしまうようになると、その監房には看病夫が割箸に水飴(みずあめ)をまきつけたのを持って入る姿が見られた。「ああ、飴をなめるようじゃもう長くないな」ほかの病人たちはそれを見ながらひそひそと話し合うのだ。熱気に室内がむれて息もたえだえに思われる土用の夜更(よふ)けなどに、けたたましく人を呼ぶ声がきこえ、その声に起き上って窓から見ると、白衣の人が長い廊下を急ぎ足に歩いて行くのが見える。そのような暁方には必らず死人があった。重病人が二人ある時には、一方が死ねば間もなく他の一方も死ぬのがつねであった。牢死ということは外への聞えもあまりよくはない、それで役所では病人の引取人に危篤の電報を打つのであったが、迎いに来るものは十人のうちに一人もなかった。たとえ引取りに来るものがあったとしても、大抵は途中の自動車の中で命をおとすのである。――牢死人の死体は荷物のように扱われ、鼻や、口や、肛門(こうもん)やには綿がつめられ、箱に入れられて町の病院に運ばれ、そこで解剖されるのである。
 暑気に中(あ)てられた肺病患者が一様に食欲を失ってくると、庭の片隅のゴミ箱には残飯が山のように溜り、それがまたすぐに腐って堪えがたい悪臭を放った。ちょっと側を通っても蝿(はえ)の大群が物すごい音を立てて飛び立った。「肺病のたれた糞(くそ)や食い残しじゃ肥しにもなりゃしねえ」雑役夫がブツブツいいながらその後始末をするのだ。その残飯の山をまた、かの雑居房の癩病人たちが横目で見て、舌なめずりしながら言うのである。「へへッ、肺病の罰(ばち)あたりめが、結構ないただきものを残して捨ててけつかる。十等めし一本を食い余すなんて、なんという甲斐性(かいしょう)なしだ!」それから彼らは、飯の配分時間になると、きまって運搬夫をつかまえて、肺病はあんなに飯を残すんだから、その飯を少し削ってこっちへ廻してくれ、と執拗に交渉するのであった。時たま肺病のなかに一人二人、昼めしなど欲しくないというものが出来、さすがに可哀(かわい)そうに思ってそれを彼らの方へ廻してやると、満面に諂(へつら)い笑いを浮べて引ったくるようにして取り合い、そういう時には何ほど嬉(うれ)しいのであろうか、病舎には食事時間の制限がないのをいいことにして、ものの一時間以上もかかってその飯を惜しみ借しみ食うのである。ひとしきり四人の間にその分配について争いが続いたのち、静かになった監房の窓ごしに、ぺちゃぺちゃという彼ら癩病人たちの舌なめずりの音を聞く時には、そぞろに寒け立つ思いがするのであった。――彼らは少しも変らないように見えたが、しかし仔細に見ると、やはり冬から春、春から夏にかけて、わずかながら目に見えるほどの変化はその外貌(がいぼう)に現われているのである。夏中は窓を開け放していても、この病気特有の一種の動物的悪臭が房内にこもり、それは外から来るものには堪えがたく思われるほどのもので、担当の老看守すら扉をあけることを嫌(きら)って運動にも出さずに放っておくことが多かった。そうすると彼らは不平のあまり足を踏みならし、一種の奇声を発してわめき立てるのであった。

     5

 夜なかに太田は眼をさました。
 もう何時だろう、少しは眠ったようだが、と思いながら頭の上に垂(た)れている電燈を見ると、この物静かな夜の監房の中にあって、ほんの心持だけではあるがそれが揺れているようにおもわれる。じっと見ると、夏の夜の驚くほどに大きな白い蛾(が)が電燈の紐(ひも)にへばりついているのだ。何とはなしに無気味さを覚えて寝返りを打つとたんに、ああ、またあれが来る、という予感に襲われて太田はすっかり青ざめ、恐怖のために四肢(しし)がわなわなとふるえてくるのであった。彼は半身を起してじっとうずくまったまま心を鎮(しず)めて動かずにいた。するとはたしてあれが来た。どっどっどっと遠いところからつなみでも押しよせて来るような音が身体の奥にきこえ、それがだんだん近く大きくなり、やがて心臓が破れんばかりの乱調子で狂いはじめるのだ。身体じゅうの脈管がそれに応じて一時に鬨(とき)の声をあげはじめ、血が逆流して頭のなかをぐるぐるかけ巡るのがきこえてくる。歯を食いしばってじっと堪えているうちに眼の前がぼ―っと暗くなり、意識が次第に痺れて行くのが自分にもわかるのである。――しばらくしてほっと眼の覚(さ)めるような心持で我に帰った時には、激しい心臓の狂い方はよほど治まっていたが、平静になって行くにつれて、今度はなんともいえない寂しさと漠然とした不安と、このまま気が狂うのではあるまいかという強迫観念におそわれ、太田は一刻もじっとしてはおれず大声に叫び出したいほどの気持になって一気に寝台をすべり下り、荒々しく監房のなかを歩きはじめるのであった。手と足は元気に打ちふりつつ、しかも泣き出しそうな顔をしてうつろな眼を見張りながら。――ものの二十分もそうしていたであろうか、やがてやや常態に復(かえ)ると心からの安心とともに深い疲れを感じ、気の抜けた人間のように窓によりかかって深い呼吸をした。彼は肺に浸み渡る快よい夜気を感じた。窓から月は見えなかったが星の美くしい夜であった。
 ――強度の神経衰弱の一つの徴候ともおもわれるこうした心悸亢進(しんきこうしん)に、太田はその年の夏から悩まされはじめたのである。それは一週に一度、あるいは十日に一度、きまって夜に来た。思い余った彼は、体操をやってみたり、静坐法をやってみたりした。しかしその発作から免れることはできなかった。体操や、静坐法や――太田はそういうものの完全な無力をよく熟知しながらも自分を欺いてそんなものに身を任せていたのだ。病気と拘禁生活による心身の衰弱にのみ、こうした発作を来す神経の変調の原因を帰することは彼にはできなかった。彼はその原因のすべてでないまでも、有力な一つを自分自身よく自覚していたのである。――若い共産主義者としての太田の心に、いつしか自分でも捕捉(ほそく)に苦しむ得体の知れない暗いかげがきざし、その不安が次第に大きなものとなり、確信に満ちていた心に動揺の生じ来ったことを自分みずから自覚しはじめ、そのために苦しみはじめたころから、彼は上述の発作に悩むようになったのであった。
 太田の心のなかに漠然と生じ来った不安と動揺とは一体どんな性質のものであったろう、彼自身はっきりとその本質をつかみえず、そこに悩みのたねもあったのだが、動揺という言葉を、彼が従来確信をもって守り来った思想が、何らかのそれに反対の理論に屈服して崩れかかって来た――という意味に解するならば、いま、彼の心にきざして来た暗い影というのはそういう性質のものではない、ということだけはいえる。太田の心の動揺は、彼がここの病舎で癩病患者および肺病患者のなかにあって、彼らの日常生活をまざまざと眼の前に見、自分もまた同じ患者の一人としてそこに生活しつつある間に、夏空に立つ雲のごとくに自然にわいて来たものであった。それはつかまえどころのないしかし理屈ではないところに強さがある、といった性質のものであった。――言うならば太田は冷酷な現実の重圧に打ちひしがれてしまったのだ。共産主義者としての彼はまだ若く、その上にいわばインテリにすぎなかったから、実際生活の苦汁(くじゅう)をなめつくし、その真只中(まっただなか)から自分の確信を鍛え上げた、というほどのものではなかった。ふだんは結構それでいいのだが、一度たとえようもない複雑な、そして冷酷な人生の苦味につき当ると、自分の抱(いだ)いていた思想は全く無力なものになり終り、現実の重圧にただ押しつぶされそうな哀れな自己をのみ感じてくるのである。苛酷(かこく)な現実の前に闘(たたか)いの意力をさえ失い、へなへなと崩折れてしまい――自分が今までその上に立っていた知識なり信念なりが、少しも自分の血肉と溶け合っていない、ふわふわと浮き上ったものであったことを鋭く自覚するようになるのである。一度この自覚に到達するということは、なんという恐ろしい、そしてその個人にとっては不幸なことであろう。理論の理論としての正しさには従来どおりの確信を持ちながらも、しかもその理論どおりには動いて行けない自分、鋭くそういう自分自身を自覚しながらもしかも結局どうにもならない自分、――それを感じただけでも人は容易に自殺を思わないであろうか。
 自分自身が今そこでさいなまれつつある不幸な現実の世界を熟視しながら太田は思うのであった。この厳(きび)しい、激しい、冷酷な、人間を手玉にとって翻弄(ほんろう)するところのものが今日の現実というもののほんとうの姿なのだ。そしてそういう盲目的な意志を貫ぬこうとして荒れ狂う現実を、人間の打ち立てた一定の法則の下にしっかと組み伏せようとする、それこそが共産主義者の持つ大きな任務ではなかったか。そして、自分もまた、そのために闘って来たのではなかったか。――そうは一応頭のなかで思いながら、彼の本心はいつかその任務を果すための闘争を回避し、苦しい現実の中から、ただひたすらに逃げ出すことばかりを考えているのであった。彼は積極的に生きようという欲望にも燃えず、すべての事柄に興味を失い、ただただ現実を嫌悪し、空々寞々(ばくばく)たる隠者のような生活を夢のように頭のなかにえがいて、ぼんやり一日をくらすようになった。それは、結局はやはり病にむしばまれた彼の生気を失った肉体が原因であったのであろうか。――だが、時々は過去において彼をとらえた情熱が、再び暴風のようにその身裡(みうち)をかけ巡ることがあった。太田は拳を固め、上気した熱い頬を感じながら、暗い独房のなかで若々しく興奮した。しかし次の瞬間にはすぐに「だが、それが何になる、死にかかっているお前にとって!」という意地のわるい囁(ささや)きがきこえ、それは烈(はげ)しい毒素のように一切の情熱をほろぼし、彼は再び冷たい死灰のような心に復るのであった。
 太田がそうした状態にある時に、一方彼が日々眼の前に見るかの癩病人たちは、身体がもう半ば腐っておりながら、なんとその生活力の壮(さか)んなこと! 食欲は人の数倍も旺盛(おうせい)で、そのためにしばしば与えられた食物の争奪のためにつかみ合いが始まるほどであり――また性欲もおさえがたく強いらしく、夏のある夕べ、かの雑居房の四人がひとしきり猥(みだ)らな話に興じたあげく、そのうちの一人が、いきなり四ツんばいになって動物のある時期の姿態を真似ながら、げらげらと笑い出したのを見た時には、太田は思わず、ああ、と声をあげ、人間の動物的な、盲目的な生の衝動の強さに打たれ、やがてはそれを憎み――生きるということの浅ましさに戦慄(せんりつ)したのであった。
 おなじ夏のある暁方、肺病の病舎では、三年越し患(わずら)った六十近い老人が死んだ。死んで死体を運び出し、寝台を見た時、誰も世話するものもなかったその老人の寝台の畳はすでに半ば腐り、敷布団(しきぶとん)と畳の間には白いかびが生(は)え、布団には糞がついてそれがカラカラにひからびていた。――そして同居人である同じ病人たちは、この死に行く老人の枕もとでこの老人に運ばれる水飴の争奪に余念もなかったのである。
 何という浅ましい人生の姿であろう。
 太田は慰めのない、暗い気持で毎日を暮した。病気が原因する肉体の苦痛とは別に、このままで進んだならばいつしか生きることをも苦痛と感ずるような日が、やがて来るだろうと思われた。この予感に間違いはないのだ。その時のことを思うと彼の心はふるえた。――人間はしばしば思いもかけぬことに遭遇し、何か運命的なものをさえ感ずることがあるものである。太田がこの病舎生活のなかにあって、ゆくりなくも昔の同志、岡田良造に逢ったのは、ちょうど、彼がこの泥沼のような境地におちこみ、そこからの出口を求めて、のた打ちまわっている時であった。

     6

 うとうとと眠りかけている耳もとに、遠くの監房の扉を開く音が聞える。――人の足音に何か物を運び入れるような物音もまじっているようだ。全身が何とはなしに熱っぽく、一日のうちの大部分の時間を寝てくらすことの多くなった太田は、半ば夢のなかで、遠く離れたその物音を聞き、どうもあれは一房らしいが、今までずっと空房であったあの雑居房に誰か新らしい患者でも入るのであろうか、などとぼんやり考えていた。
「太田さん、また新入りですよ。一房です」興奮をおし殺したような村井の声がその時きこえて来た。単調な毎日を送っているここの病人たちにとっては、新らしい患者の入ってくるということは、何にも増して大きな刺戟を与える事実であった。――だからその翌日になって、朝の運動時間が始まった時、太田は待ちかねて興味に眼を輝やかせながらその新入りの患者の姿を見たのである。そしてその男の姿をちらりと垣間(かいま)見た瞬間に、彼はおもわずハッと思い、軽い胸のときめきをさえ感じてそこに立ちつくしてしまったのであった。うららかな秋の一日で病舎の庭には囚人たちの作った草花の数々が咲き乱れていた。その花園の間を縫うて作られた道が運動の時の歩行にあてられているのだが、その歩行者の姿を監房の中からつかまえようとすると、廊下のガラス戸が日光に光ってよくは見えなかった。その上、監房の扉にはめられたガラスは小さいので、視野が狭く、歩行者の姿がその視界に入ったかと思うとすぐに消えてしまうのである。――そういう状態の下に、しばらく扉の前に立っていて、その新入りの男の姿を眼に捕えた瞬間に太田はわれ知らず、おやと思ったのである。
 その男は言うまでもなく癩病患者であった。しかも外観から察したところ、病勢は、もうかなり進んでいる模様である。まだ若い男らしいのだ。病気のために変った相貌から年のころははっきりわからないが、その手のふり方や足の運び方には若々しいものが感ぜられるのである。顔はほとんど全面紫色に腫れあがり、その腫れは、頸筋(くびすじ)にまで及んでいた。頭髪はもう大分うすくなり、眉毛も遠くからは見えがたいほどである。さほど瘠せてはおらず、骨組みの逞(たく)ましい大きな男である。
 その男の運動の間じゅう、扉の前に立ちつくしてまたたきもせず、男が監房へ帰ってからも胸騒ぎの容易に消ゆることのなかった太田は、その日から異常な注意をもってその男の一挙一動を観察するようになった。――太田は確かにその男の顔に見おぼえがあったのだ。その顔を見るごとに心の奥底をゆすぶる何ものかが感ぜられるのであるが、ただそれが何であるかをにわかに思い出すことができないのであった。日を経るに従ってその顔は次第に彼の心にくっきりとした映像を灼(や)きつけ、眼をつぶってみると、業病のために醜くゆがんだその顔の線の一つ一つが鮮(あざ)やかに浮き上って来、今は一種の圧迫をもって心に迫ってくるのであった。――夜、太田は四、五人の男たちと一緒に一室に腰をおろしていた。それは大阪のどこか明るい街に並んだ、喫茶店(きっさてん)ででもあったろう。何かの集会の帰りででもあったろうか。人々は声高に語り、議論をし、而してその議論はいつ果てるとも見えないのであった。――太田はまた、四、五人の男たちと肩をならべてうす闇の迫る場末の街を歩いていた。悪臭を放つどぶ川がくろぐろと道の片側を流れている。彼らの目ざす工場の大煙突が、そのどぶ川の折れ曲るあたりに冷然とつっ立っているのだ。彼らはそれぞれ何枚かのビラをふところにしのばせていた。而して興奮をおさえて言葉少なに大股(おおまた)に歩いて行く。――今はもう全く切り離されてすでに久しいかつての社会生活のなかから、そのようないろいろの情景がふっと憶(おも)い出され、そうした情景のどこかにひょっこりとかの男の顔が出て来そうな気が太田にはするのである。鳥かげのように心をかすめて通る、これらの情景の一つを彼はしっかりとつかまえて離さなかった。それを中心にしてそれからそれへと彼は記憶の糸をたぐってみた。そこから男の顔の謎(なぞ)を解こうと焦(あせ)るのである。
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