おせん
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著者名:邦枝完二 

おめえは、よっぽどの変(かわ)り者(もの)だのう」
 松(まつ)五郎(ろう)は、あらためて春重(はるしげ)の顔(かお)を見守(みまも)った。
「変(かわ)り者(もの)じゃァねえ。そういうおめえの方(ほう)が、変(かわ)ってるんだ。――四角(かく)四面(めん)にかしこまっているお武家(ぶけ)でも、男(おとこ)と生(うま)れたからにゃ、女(おんな)の嫌(きら)いな者(もの)ッ、ただの一人(ひとり)もありゃァしめえ。その万人(まんにん)が万人(まんにん)、好(す)きで好(す)きでたまらねえ女(おんな)の、これが本当(ほんとう)の匂(におい)だろうじゃねえか。成(な)る程(ほど)、肌(はだ)の匂(におい)もある。髪(かみ)の匂(におい)もある。乳(ちち)の匂(におい)もあるにァ違(ちげ)えねえ。だが、その数(かず)ある女(おんな)の匂(におい)を、一つにまとめた有難味(ありがたみ)の籠(こも)ったのが、この匂(におい)なんだ。――三浦屋(うらや)の高尾(たかお)がどれほど綺麗(きれい)だろうが、楊枝見世(ようじみせ)のお藤(ふじ)がどんなに評判(ひょうばん)だろうが、とどのつまりは、みめかたちよりは、女(おんな)の匂(におい)に酔(よ)って客(きゃく)が通(かよ)うという寸法(すんぽう)じゃねえか。――よく聞(き)きなよ。匂(におい)だぜ。このたまらねえいい匂(におい)だぜ」
「冗談(じょうだん)じゃねえ。おいらァいくら何(な)んだって、こんな匂(におい)をかぎたくッて、通(かよ)うような馬鹿気(ばかげ)たこたァ。……」
「あれだ。おめえにゃまだ、まるッきり判(わか)らねえと見(み)えるの。こいつだ。この匂(におい)が、嘘(うそ)も隠(かく)しもねえ、女(おんな)の匂(におい)だってんだ」
「馬鹿(ばか)な、おめえ。――」
「そうか。そう思(おも)ってるんなら、いまおめえに見(み)せてやる物(もの)がある。きっとびっくりするなよ」
 春重(はるしげ)はこういいながら、いきなり真暗(まっくら)な戸棚(とだな)の中(なか)へ首(くび)を突(つ)っ込(こ)んだ。

    五

 じりじりッと燈芯(とうしん)の燃(も)え落(お)ちる音(おと)が、しばしのしじまを破(やぶ)ってえあたりを急(きゅう)に明(あか)るくした。が、それも束(つか)の間(ま)、やがて油(あぶら)が尽(つ)きたのであろう。行燈(あんどん)は忽(たちま)ち消(き)えて、あたりは真(しん)の闇(やみ)に変(かわ)ってしまった。
「いたずらしちゃァいけねえ。まるっきりまっ暗(くら)で、何(な)んにも見(み)えやしねえ」
 背伸(せの)びをして、三尺(じゃく)の戸棚(とだな)の奥(おく)を探(さぐ)っていた春重(はるしげ)は、闇(やみ)の中(なか)から重(おも)い声(こえ)でこういいながら、もう一度(ど)、ごとりと鼠(ねずみ)のように音(おと)を立(た)てた。
「いたずらじゃねえよ。油(あぶら)が切(き)れちゃったんだ」
「油(あぶら)が切(き)れたッて。そんなら、行燈(あんどん)のわきに、油差(あぶらさし)と火口(ほくち)がおいてあるから、速(はや)くつけてくんねえ」
「どこだの」
「行燈(あんどん)の右手(みぎて)だ」
 口(くち)でそういわれても、勝手(かって)を知(し)らない暗(やみ)の中(なか)では、手探(てさぐ)りも容易(ようい)でなく、松(まつ)五郎(ろう)は破(やぶ)れ畳(たたみ)の上(うえ)を、小気味悪(こきみわる)く這(は)い廻(まわ)った。
「速(はや)くしてもらいてえの」
「いまつける」
 探(さぐ)り当(あ)てた油差(あぶらさし)を、雨戸(あまど)の隙間(すきま)から微(かす)かに差(さ)し込(こ)む陽(ひ)の光(ひかり)を頼(たよ)りに、油皿(あぶらざら)のそばまで持(も)って行(い)った松(まつ)五郎(ろう)は、中指(なかゆび)の先(さき)で冷(つめ)たい真鍮(しんちゅう)の口(くち)を加減(かげん)しながら、とッとッとと、おもく落(お)ちた油(あぶら)を透(す)かして見(み)たが、さてどうやらそれがうまく運(はこ)ぶと、これも足(あし)の先(さき)で探(さぐ)り出(だ)した火口(ほくち)を取(と)って、やっとの思(おも)いで行燈(あんどん)に灯(ひ)をいれた。
 ぱっと、漆盆(うるしぼん)の上(うえ)へ欝金(うこん)の絵(え)の具(ぐ)を垂(た)らしたように、あたりが明(あか)るくなった。同時(どうじ)に、春重(はるしげ)のニヤリと笑(わら)った薄気味悪(うすきみわる)い顔(かお)が、こっちを向(む)いて立(た)っていた。
「松(まつ)つぁん。おめえ本当(ほんとう)に、女(おんな)の匂(におい)は、麝香(じゃこう)の匂(におい)だと思(おも)ってるんだの」
「そりゃァそうだ。こんな生皮(なまかわ)のような匂(におい)が女(おんな)の匂(におい)でたまるもんか」
「そうか。じゃァよくわかるように、こいつを見(み)せてやる」
 編(あ)めば牛蒡締(ごぼうじめ)くらいの太(ふと)さはあるであろう。春重(はるしげ)の手(て)から、無造作(むぞうさ)に投(な)げ出(だ)された真(ま)ッ黒(くろ)な一束(たば)は、松(まつ)五郎(ろう)の膝(ひざ)の下(した)で、蛇(へび)のようにひとうねりうねると、ぐさりとそのまま畳(たたみ)の上(うえ)へ、とぐろを巻(ま)いて納(おさ)まってしまった。
「あッ」
「気味(きみ)の悪(わる)いもんじゃねえよ。よく手(て)に取(と)って、その匂(におい)を嗅(か)いで見(み)ねえ」
 松(まつ)五郎(ろう)は行燈(あんどん)の下(した)に、じっと眼(め)を瞠(みは)った。
「これァ重(しげ)さん、髪(かみ)の毛(け)じゃねえか」
「その通(とお)りだ」
「こんなものを、おめえ。……」
「ふふふ、気味(きみ)が悪(わる)いか。情(なさけ)ねえ料簡(りょうけん)だの、爪(つめ)の匂(におい)がいやだというから、そいつを嗅(か)がせてやるんだが、これだって、髢(かもじ)なんぞたわけが違(ちが)って、滅多矢鱈(めったやたら)に集(あつ)まる代物(しろもの)じゃァねえんだ。数(かず)にしたら何万本(なんまんぼん)。しかも一本(ぽん)ずつがみんな違(ちが)った、若(わか)い女(おんな)の髪(かみ)の毛(け)だ。――その中(なか)へ黙(だま)って顔(かお)を埋(う)めて見(み)ねえ。一人一人(ひとりひとり)の違(ちが)った女(おんな)の声(こえ)が、代(かわ)り代(がわ)りに聞(きこ)えて来(き)る。この世(よ)ながらの極楽(ごくらく)だ。上(うえ)はお大名(だいみょう)のお姫様(ひめさま)から、下(した)は橋(はし)の下(した)の乞食(こじき)まで、十五から三十までの女(おんな)と名(な)のつく女(おんな)の髪(かみ)は、ひと筋(すじ)残(のこ)らずはいってるんだぜ。――どうだ松(まつ)つぁん。おいらァ、この道(みち)へかけちゃ、江戸(えど)はおろか、蝦夷(えぞ)長崎(ながさき)の果(はて)へ行(い)っても、ひけは取(と)らねえだけの自慢(じまん)があるんだ。見(み)ねえ、髪(かみ)の毛(け)はこの通(とお)り、一本(ぽん)残(のこ)らず生(い)きてるんだから。……」
 松(まつ)五郎(ろう)の膝(ひざ)もとから、黒髪(くろかみ)の束(たば)を取(と)りあげた春重(はるしげ)は、忽(たちま)ちそれを顔(かお)へ押(お)し当(あ)てると、次第(しだい)に募(つの)る感激(かんげき)に身(み)をふるわせながら、異様(いよう)な声(こえ)で笑(わら)い始(はじ)めた。
「重(しげ)さん。おれァ帰(けえ)る」
「帰(けえ)るンなら、せめて匂(におい)だけでも嗅(か)いできねえ」
 が、松(まつ)五郎(ろう)は、もはや腰(こし)が坐(すわ)らなかった。

    六

「ああ気味(きみ)が悪(わる)かった。ついゆうべの惚気(のろけ)を聞(き)かせてやろうと思(おも)って、寄(よ)ったばっかりに、ひでえ目(め)に遇(あ)っちゃった。変(かわ)り者(もの)ッてこたァ知(し)ってたが、まさか、あれ程(ほど)たァ思(おも)わなかった。――あんな奴(やつ)につかまっちゃァ、まったくかなわねえ」
 弾(はじ)かれた煎豆(いりまめ)のように、雨戸(あまど)の外(そと)へ飛(と)び出(だ)した松(まつ)五郎(ろう)は、酔(よ)いも一時(じ)に醒(さ)め果(は)てて、一寸先(すんさき)も見(み)えなかったが、それでも溝板(どぶいた)の上(うえ)を駆(か)けだして、角(かど)の煙草屋(たばこや)の前(まえ)まで来(く)ると、どうやらほっと安心(あんしん)の胸(むね)を撫(な)でおろした。
「だが、いったいあいつは、何(な)んだってあんな馬鹿気(ばかげ)たことが好(す)きなんだろう。爪(つめ)を煮(に)たり、髪(かみ)の毛(け)の中(なか)へ顔(かお)を埋(う)めたり、気狂(きちがい)じみた真似(まね)をしちゃァ、いい気持(きもち)になってるようだが、虫(むし)のせえだとすると、ちと念(ねん)がいり過(す)ぎるしの。どうも料簡方(りょうけんがた)がわからねえ」
 ぶつぶつひとり呟(つぶや)きながら、小首(こくび)を傾(かし)げて歩(ある)いて来(き)た松(まつ)五郎(ろう)は、いきなりぽんと一つ肩(かた)をたたかれて、はッとした。
「どうした、兄(あに)ィ」
「おおこりゃ松住町(まつずみちょう)」
「松住町(まつずみちょう)じゃねえぜ。朝(あさ)っぱらから、素人芝居(しろうとしばい)の稽古(けいこ)でもなかろう。いい若(わけ)え者(もの)がひとり言(ごと)をいってるなんざ、みっともねえじゃねえか」
 坊主頭(ぼうずあたま)へ四つにたたんだ手拭(てぬぐい)を載(の)せて、朝(あさ)の陽差(ひざし)を避(さ)けながら、高々(たかだか)と尻(しり)を絡(から)げたいでたちの相手(あいて)は、同(おな)じ春信(はるのぶ)の摺師(すりし)をしている八五郎(ろう)だった。
「みっともねえかも知(し)れねえが、あれ程(ほど)たァ思(おも)わなかったからよ」
「何(なに)がよ」
「春重(はるしげ)だ」
「春重(はるしげ)がどうしたッてんだ」
「どうもこうもねえが、あいつァおめえ、日本(にほん)一の変(かわ)り者(もの)だぜ」
「春重(はるしげ)の変(かわ)り者(もの)だってこたァ、いつも師匠(ししょう)がいってるじゃねえか。今(いま)さら変(かわ)り者(もの)ぐれえに、驚(おどろ)くおめえでもなかろうによ」
「うんにゃ、そうでねえ。ただの変(かわ)り者(もの)なら、おいらもこうまじゃ驚(おどろ)かねえが、一晩中(ばんじゅう)寝(ね)ずに爪(つめ)を煮(に)たり、束(たば)にしてある女(おんな)の髪(かみ)の毛(け)を、一本(ぽん)一本(ぽん)しゃぶったりするのを見(み)ちゃァいくらおいらが度胸(どきょう)を据(す)えたって。……」
「爪(つめ)を煮(に)るたァ、そいつァいってえ何(な)んのこったい」
「薬罐(やかん)に入(い)れて、女(おんな)の爪(つめ)を煮(に)るんだ」
「女(おんな)の爪(つめ)を煮(に)る。――」
「そうよ。おまけにこいつァ、ただの女(おんな)の爪(つめ)じゃァねえぜ。当時(とうじ)江戸(えど)で、一といって二と下(くだ)らねえといわれてる、笠森(かさもり)おせんの爪(つめ)なんだ」
「冗談(じょうだん)じゃねえ。おせんの爪(つめ)が、何(な)んで煮(に)る程(ほど)取(と)れるもんか、おめえも人(ひと)が好過(よす)ぎるぜ。春重(はるしげ)に欺(だま)されて、気味(きみ)が悪(わる)いの恐(おそ)ろしいのと、頭(あたま)を抱(かか)えて帰(かえ)ってくるなんざ、お笑(わら)い草(ぐさ)だ。おおかた絵(え)を描(か)く膠(にかわ)でも煮(に)ていたんだろう。そいつをおめえが間違(まちが)って。……」
「そ、そんなんじゃねえ。真正(しんしょう)間違(まちが)いのねえおせんの爪(つめ)を紅(べに)の糠袋(ぬかぶくろ)から小出(こだ)しに出(だ)して、薬罐(やかん)の中(なか)で煮(に)てるんだ。そいつも、ただ煮(に)てるんならまだしもだが、薬罐(やかん)の上(うえ)へ面(つら)を被(かぶ)せて、立昇(たちのぼ)る湯気(ゆげ)を、血相(けっそう)変(か)えて嗅(か)いでるじゃねえか。あれがおめえ、いい心持(こころもち)で見(み)ていられるか、いられねえか、まず考(かんが)えてくんねえ」
「そいつを嗅(か)いで、どうしようッてんだ」
「奴(やつ)にいわせると、あのたまらなく臭(くせ)え匂(におい)が本当(ほんとう)の女(おんな)の匂(におい)だというんだ。嘘(うそ)だと思(おも)ったら、論(ろん)より証拠(しょうこ)、春重(はるしげ)の家(うち)へ行(い)って見(み)ねえ。戸(と)を締(し)め切(き)って、今(いま)が嬉(うれ)しがりの真(ま)ッ最中(さいちゅう)だぜ」
 が、八五郎(ろう)は首(くび)を振(ふ)った。
「そいつァいけねえ。おれァ師匠(ししょう)の使(つか)いで、おせんのとこまで行(い)かにゃならねえんだ」

    七

 隈取(くまど)りでもしたように眼(め)の皮(かわ)をたるませた春重(はるしげ)の、上気(じょうき)した頬(ほほ)のあたりに、蝿(はえ)が一匹(ぴき)ぽつんととまって、初秋(しょしゅう)の陽(ひ)が、路地(ろじ)の瓦(かわら)から、くすぐったい顔(かお)をのぞかせていた。
「おっといけねえ。春重(はるしげ)がやってくるぜ」
 煙草屋(たばこや)の角(かど)に立(た)ったまま、爪(つめ)を煮(に)る噂(うわさ)をしていた松(まつ)五郎(ろう)は、あわてて八五郎(ろう)に目(め)くばせをすると、暖簾(のれん)のかげに身(み)を引(ひ)いた。
「隠(かく)れるこたぁなかろう」
「そうでねえ。おいらは今(いま)逃(に)げて来(き)たばかりだからの。見付(みつ)かっちァことだ」
「そんなら、そっちへ引(ひ)っ込(こ)んでるがいい。もののついでに、おれがひとつ、鎌(かま)をかけてやるから。――」
 蛙(かえる)のように、眼玉(めだま)ばかりきょろつかせて暖簾(のれん)のかげから顔(かお)をだした松(まつ)五郎(ろう)は、それでもまだ怯(おび)えていた。
「大丈夫(だいじょうぶ)かの」
「叱(し)ッ。そこへ来(き)たぜ」
 出合頭(であいがしら)のつもりかなんぞの、至極(しごく)気軽(きがる)な調子(ちょうし)で、八五郎(ろう)は春重(はるしげ)の前(まえ)へ立(た)ちふさがった。
「重(しげ)さん、大層(たいそう)早(はえ)えの」
 びくっとしたように、春重(はるしげ)が爪先(つまさき)で立(た)ち止(どま)った。
「八つぁんか」
「八つぁんじゃねえぜ、一ぺえやったようないい顔色(かおいろ)をして、どこへ行(い)きなさる」
「柳湯(やなぎゆ)への」
「朝湯(あさゆ)たァしゃれてるの」
「しゃれてる訳(わけ)じゃねえが、寝(ね)ずに仕事(しごと)をしてたんで、湯(ゆ)へでも這入(はい)らねえことにゃ、はっきりしねえからよ」
「ふん、夜(よ)なべたァ恐(おそ)れ入(い)った。そんなに稼(かせ)いじゃ、銭(ぜに)がたまって仕方(しかた)があるめえ」
「だからよ。だから垢(あか)と一緒(しょ)に、柳湯(やなぎゆ)へ捨(す)てに行(い)くところだ」
「ほう、済(す)まねえが、そんな無駄(むだ)な銭(ぜに)があるんなら、ちとこっちへ廻(まわ)して貰(もら)いてえの。おれだの松(まつ)五郎(ろう)なんざ、貧乏神(びんぼうがみ)に見込(みこ)まれたせいか、いつもぴいぴい風車(かざぐるま)だ。そこへ行(い)くとおめえなんざ、おせんの爪(つめ)を糠袋(ぬかぶくろ)へ入(い)れて。……」
「なんだって八つぁん、おめえ夢(ゆめ)を見(み)てるんじゃねえか。爪(つめ)だの糠袋(ぬかぶくろ)だの、とそんなことァ、おれにゃァてんで通(つう)じねえよ」
「えええ隠(かく)しちゃァいけねえ。何(なに)から何(なに)まで、おれァ根(ね)こそぎ知(し)ってるぜ」
「知(し)ってるッて。――」
「知(し)らねえでどうするもんか。重(しげ)さん、おめえの夜(よ)あかしの仕事(しごと)は、銭(ぜに)のたまる稼(かせ)ぎじゃなくッて、色気(いろけ)のたまる楽(たの)しみじゃねえか」
「そ、そんなことが。……」
「嘘(うそ)だといいなさるのかい。証拠(しょうこ)はちゃんと上(あが)ってるんだぜ。おせんの爪(つめ)を煮(に)る匂(におい)は、さぞ香(こう)ばしくッて、いいだろうの」
「そいつを、おめえは誰(だれ)から聞(き)きなすった」
「誰(だれ)から聞(き)かねえでも、おいらの眼(め)は見透(みとお)しだて。――人間(にんげん)は、四百四病(びょう)の器(うつわ)だというが、重(しげ)さん、おめえの病(やまい)は、別(べつ)あつらえかも知(し)れねえの」
 春重(はるしげ)は、きょろりとあたりを見廻(みまわ)してから、一段(だん)声(こえ)を落(おと)した。
「ちょいと家(うち)へ寄(よ)らねえか。おもしろい物(もの)を見(み)せるぜ」
「折角(せっかく)だが、寄(よ)ってる暇(ひま)がねえやつさ。これから大急(おおいそぎ)ぎで、おせんの見世(みせ)まで行(い)かざァならねえんだ」
「おせんの見世(みせ)へ行(い)くッて、何(な)んの用(よう)でよ」
「何(な)んの用(よう)だか知(し)らねえが、春信師匠(はるのぶししょう)が、急(きゅう)に用(よう)ありとのことでの」
 八五郎(ろう)は、春信(はるのぶ)から預(あずか)った結文(むすびふみ)を、ちょいと懐中(ふところ)から窺(のぞ)かせた。

  紅(べに)


    一

 ゆく末(すえ)は誰(だれ)が肌(はだ)触(ふ)れん紅(べに)の花(はな)  ばせを
「おッとッと、そう一人(ひとり)で急(いそ)いじゃいけねえ。まず御手洗(みたらし)で手(て)を浄(きよ)めての。肝腎(かんじん)のお稲荷(いなり)さんへ参詣(さんけい)しねえことにゃ、罰(ばち)が当(あた)って眼(め)がつぶれやしょう」
「いかさまこれは早(はや)まった。こかァ笠森様(かさもりさま)の境内(けいだい)だったッけの」
「冗談(じょうだん)じゃごわせん。そいつを忘(わす)れちゃ、申訳(もうしわけ)がありますめえ。――それそれ、何(な)んでまた、洗(あら)った手(て)を拭(ふ)きなさらねえ。おせんは逃(に)げやしねえから、落着(おちつ)いたり、落着(おちつ)いたり」
「御隠居(ごいんきょ)、そうひやかしちゃいけやせん。堪忍(かんにん)堪忍(かんにん)」
「はッはッはッ、徳(とく)さん。お前(まえ)の足(あし)ッ、まるッきり、地(じ)べたを踏(ふ)んじァいねえの」
 こおろぎの音(ね)も細々(ほそぼそ)と明(あ)け暮(く)れて、風(かぜ)に乱(みだ)れる芒叢(すすきむら)に、三つ四つ五つ、子雀(こすずめ)の飛(と)び交(か)うさまも、いとど憐(あわ)れの秋(あき)ながら、ここ谷中(やなか)の草道(くさみち)ばかりは、枯野(かれの)も落葉(おちば)も影(かげ)さえなく、四季(しき)を分(わか)たず咲(さ)き競(そ)うた、芙蓉(ふよう)の花(はな)が清々(すがすが)しくも色(いろ)を染(そ)めて、西(にし)の空(そら)に澄(す)み渡(わた)った富岳(ふがく)の雪(ゆき)に映(は)えていた。
 名(な)にし負(お)う花(はな)の笠森(かさもり)感応寺(かんのうじ)。渋茶(しぶちゃ)の味(あじ)はどうであろうと、おせんが愛想(あいそう)の靨(えくぼ)を拝(おが)んで、桜貝(さくらがい)をちりばめたような白魚(しらうお)の手(て)から、お茶(ちゃ)一服(ぷく)を差(さ)し出(だ)されれば、ぞっと色気(いろけ)が身(み)にしみて、帰(かえ)りの茶代(ちゃだい)は倍(ばい)になろうという。女(おんな)ならでは夜(よ)のあけぬ、その大江戸(おおえど)の隅々(すみずみ)まで、子供(こども)が唄(うた)う毬唄(まりうた)といえば、近頃(ちかごろ)「おせんの茶屋(ちゃや)」にきまっていた。
 夜(よる)が白々(しらじら)と明(あ)けそめて、上野(うえの)の森(もり)の恋(こい)の鴉(からす)が、まだ漸(ようや)く夢(ゆめ)から覚(さ)めたか覚(さ)めない時分(じぶん)、早(はや)くも感応寺(かんのうじ)中門前町(なかもんぜんちょう)は、参詣(さんけい)の名(な)に隠(かく)れての、恋知(こいし)り男(おとこ)の雪駄(せった)の音(おと)で賑(にぎ)わいそめるが、十一軒(けん)の水茶屋(みずちゃや)の、いずれの見世(みせ)に休(やす)むにしても、当(とう)の金的(きんてき)はかぎ屋(や)のおせんただ一人(ひとり)。ゆうべ吉原(よしわら)で振(ふ)り抜(ぬ)かれた捨鉢(すてばち)なのが、帰(かえ)りの駄賃(だちん)に、朱羅宇(しゅらう)の煙管(きせる)を背筋(せすじ)に忍(しの)ばせて、可愛(かわい)いおせんにやろうなんぞと、飛(と)んだ親切(しんせつ)なお笑(わら)い草(ぐさ)も、数(かず)ある客(きゃく)の中(なか)にも珍(めずら)しくなかった。
「はいお早(はよ)う」
「ああ喉(のど)がかわいた」
 赤(あか)い鳥居(とりい)の手前(てまえ)にある。伊豆石(いずいし)の御手洗(みたらし)で洗(あら)った手(て)を、拭(ふ)くのを忘(わす)れた橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)が、お稲荷様(いなりさま)への参詣(さんけい)は二の次(つ)ぎに、連(つ)れの隠居(いんきょ)の台詞通(せりふどお)り、土(つち)へつかない足(あし)を浮(う)かせて、飛(と)び込(こ)んで来(き)たおせんの見世先(みせさき)。どかりと腰(こし)をおろした縁台(えんだい)に、小腰(こごし)をかがめて近寄(ちかよ)ったのは、肝腎(かんじん)のおせんではなくて、雇女(やといめ)のおきぬだった。
「いらっしゃいまし。お早(はや)くからようこそ御参詣(おさんけい)で。――」
「茶(ちゃ)をひとつもらいましょう」
「はい、唯今(ただいま)」
 三四人(にん)の先客(せんきゃく)への遠慮(えんりょ)からであろう。おきぬが茶(ちゃ)を汲(く)みに行(い)ってしまうと、徳太郎(とくたろう)はじくりと固唾(かたず)を呑(の)んで声(こえ)をひそめた。
「おかしいの。居(お)りやせんぜ」
「そんなこたァごわすまい。看板(かんばん)のねえ見世(みせ)はあるまいからの」
「だが御隠居(ごいんきょ)。おせんは影(かげ)もかたちも見(み)えやせんよ」
「あわてずに待(ま)ったり。じきに奥(おく)から出(で)て来(き)ようッて寸法(すんぽう)だろう」
「朝飯(あさめし)とお踏(ふ)みなすったか」
「そうだ。それともお前(まえ)さんのくるのを知(し)って、念入(ねんい)りの化粧(けしょう)ッてところか」
「嬉(うれ)しがらせは殺生(せっしょう)でげす。――おっと姐(ねえ)さん。おせんちゃんはどうしやした」
「唯今(ただいま)ちょいとお詣(まい)りに。――」
「どこへの」
「お稲荷様(いなりさま)でござんすよ」
「うむ、違(ちが)いない。ここァお稲荷様(いなりさま)の境内(けいだい)だっけの」
 徳太郎(とくたろう)は漸(ようや)く安心(あんしん)したように、ふふふと軽(かる)く内所(ないしょ)で笑(わら)った。

    二

 橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)が、おせんの茶屋(ちゃや)で安心(あんしん)の胸(むね)を撫(な)でおろしていた時分(じぶん)、当(とう)のおせんは、神田白壁町(かんだしろかべちょう)の鈴木春信(すずきはるのぶ)の住居(すまい)へと、ひたすら駕籠(かご)を急(いそ)がせた。
「相棒(あいぼう)」
「おお」
「威勢(いせい)よくやんねえ」
「合点(がってん)だ」
「そんじょそこらの、大道臼(だいどううす)を乗(の)せてるんじゃねえや。江戸(えど)一番(ばん)のおせんちゃんを乗(の)せてるんだからの」
「そうとも」
「こうなると、銭金(ぜにかね)のお客(きゃく)じゃァねえ。こちとらの見得(みえ)になるんだ」
「その通(とお)りだ」
「おれァ、一度(ど)、半蔵松葉(はんぞうまつば)の粧(よそ)おいという花魁(おいらん)を、小梅(こうめ)の寮(りょう)まで乗(の)せたことがあったっけが、入山形(いりやまがた)に一つ星(ぼし)の、全盛(ぜんせい)の太夫(たゆう)を乗(の)せた時(とき)だって、こんないい気持(きも)はしなかったぜ」
「もっともだ」
「垂(たれ)を揚(あ)げて、世間(せけん)の仲間(なかま)に見(み)せてやりてえくれえのものだの」
「おめえばかりじゃねえ。そいつァおいらもおんなじこッた」
「もし姐(ねえ)さん」と、後(うしろ)の方(ほう)から声(こえ)がかかった。
「あい」
「どうでげす。駕籠(かご)の垂(たれ)を揚(あ)げさしちァおくんなさるめえか」
「堪忍(かんにん)しておくんなさい。あたしゃ内所(ないしょ)の用事(ようじ)でござんすから。……」
「折角(せっかく)お前(まえ)さんを乗(の)せながら、垂(たれ)をおろして担(かつ)いでたんじゃ、勿体(もったい)なくって仕方(しかた)がねえ。憚(はばか)ンながら駕籠定(かごさだ)の竹(たけ)と仙蔵(せんぞう)は、江戸(えど)一番(ばん)のおせんちゃんを乗(の)せてるんだと、みんなに見(み)せてやりてえんで。……」
「どうかそんなことは、もういわないでおくんなさい」
「評判娘(ひょうばんむすめ)のおせんちゃんだ。両方(りょうほう)揚(あ)げて悪(わる)かったら、片(かた)ッ方(ぽう)だけでもようがしょう」
「そうだ、姐(ねえ)さん。こいつァ何(なに)も、あっしらばかりの見得(みえ)じゃァごあんせんぜ。春信(はるのぶ)さんの絵(え)で売(う)り込(こ)むのも、駕籠(かご)から窺(のぞ)いて見(み)せてやるのも、いずれは世間(せけん)へのおんなじ功徳(くどく)でげさァね。ひとつ思(おも)い切(き)って、ようがしょう」
「どうか堪忍(かんにん)。……」
「欲(よく)のねえお人(ひと)だなァ。垂(たれ)を揚(あ)げてごらんなせえ。あれ見(み)や、あれが水茶屋(みずちゃや)のおせんだ。笠森(かさもり)のおせんだと、誰(だれ)いうとなく口(くち)から耳(みみ)へ伝(つた)わって白壁町(しろかべちょう)まで往(ゆ)くうちにゃァ、この駕籠(かご)の棟(むね)ッ鼻(ぱな)にゃ、人垣(ひとがき)が出来(でき)やすぜ。のう竹(たけ)」
「そりゃァもう仙蔵(せんぞう)のいう通(とお)り真正(しんしょう)間違(まちげ)えなしの、生(い)きたおせんちゃんを江戸(えど)の町中(まちなか)で見(み)たとなりゃァ、また評判(ひょうばん)は格別(かくべつ)だ。――片(かた)ッ方(ぽう)でもいけなけりゃ、せめて半分(はんぶん)だけでも揚(あ)げてやったら、通(とお)りがかりの人達(ひとたち)が、どんなに喜(よろこ)ぶか知(し)れたもんじゃねえんで。……」
「駕籠屋(かごや)さん」
「ほい」
「あたしゃもう降(お)りますよ」
「何(な)んでげすッて」
「無理難題(むりなんだい)をいうんなら、ここで降(お)ろしておくんなさいよ」
「と、とんでもねえ。お前(まえ)さんを、こんなところでおろした日(ひ)にゃ、それこそこちとらァ、二度(ど)と再(ふたた)び、江戸(えど)じゃ家業(かぎょう)が出来(でき)やせんや。――そんなにいやなら、垂(たれ)を揚(あ)げるたいわねえから、そうじたばたと動(うご)かねえで、おとなしく乗(の)っておくんなせえ。――だが、考(かん)げえりゃ考(かん)げえるほど、このまま担(かつ)いでるな、勿体(もったい)ねえなァ」
 駕籠(かご)はいま、秋元但馬守(あきもとたじまのかみ)の練塀(ねりべい)に沿(そ)って、蓮(はす)の花(はな)が妍(けん)を競(きそ)った不忍池畔(しのばずちはん)へと差掛(さしかか)っていた。

    三

 東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ)の山裾(やますそ)に、周囲(しゅうい)一里(り)の池(いけ)を見(み)ることは、開府以来(かいふいらい)江戸(えど)っ子(こ)がもつ誇(ほこ)りの一つであったが、わけても雁(かり)の訪(おとず)れを待(ま)つまでの、蓮(はす)の花(はな)が池面(いけおも)に浮(う)き出(で)た初秋(しょしゅう)の風情(ふぜい)は、江戸歌舞伎(えどかぶき)の荒事(あらごと)と共(とも)に、八百八町(ちょう)の老若男女(ろうにゃくなんにょ)が、得意中(とくいちゅう)の得意(とくい)とするところであった。
 近頃(ちかごろ)はやり物(もの)のひとつになった黄縞格子(きじまごうし)の薄物(うすもの)に、菊菱(きくびし)の模様(もよう)のある緋呉羅(ひごら)の帯(おび)を締(し)めて、首(くび)から胸(むね)へ、紅絹(べにぎぬ)の守袋(まもりぶくろ)の紐(ひも)をのぞかせたおせんは、洗(あら)い髪(がみ)に結(ゆ)いあげた島田髷(しまだまげ)も清々(すがすが)しく、正(ただ)しく座(すわ)った膝(ひざ)の上(うえ)に、両(りょう)の手(て)を置(お)いたまま、駕籠(かご)の中(なか)から池(いけ)のおもてに視線(しせん)を移(うつ)した。
 夜(よ)が明(あ)けて、まだ五つには間(ま)があるであろう。ひと抱(かか)えもあろうと想(おも)われる蓮(はす)の葉(は)に、置(お)かれた露(つゆ)の玉(たま)は、いずれも朝風(あさかぜ)に揺(ゆ)れて、その足(あし)もとに忍(しの)び寄(よ)るさざ波(なみ)を、ながし目(め)に見(み)ながら咲(さ)いた花(はな)の紅(べに)が招(まね)く尾花(おばな)のそれとは変(かわ)った清(きよ)い姿(すがた)を、水鏡(みずかがみ)に映(うつ)すたわわの風情(ふぜい)。ゆうべの夢見(ゆめみ)が忘(わす)れられぬであろう。葉隠(はがく)れにちょいと覗(のぞ)いた青蛙(あおがえる)は、今(いま)にも落(お)ちかかった三角頭(かくとう)に、陽射(ひざ)しを眩(まば)ゆく避(さ)けていた。
「駕籠屋(かごや)さん」
 ふと、おせんが声(こえ)をかけた。
「へえ」
「こっち側(がわ)だけ、垂(たれ)を揚(あ)げておくんなさいな」
「なんでげすッて」
「花(はな)が見(み)とうござんすのさ」
「合点(がってん)でげす」
 先棒(さきぼう)と後(うしろ)との声(こえ)は、正(まさ)に一緒(しょ)であった。駕籠(かご)が地上(ちじょう)におろされると同時(どうじ)に、池(いけ)に面(めん)した右手(みぎて)の垂(たれ)は、颯(さっ)とばかりにはね揚(あ)げられた。
「まァ綺麗(きれい)だこと」
「でげすからあっしらが、さっきッからいってたじゃござんせんか。こんないい景色(けしき)ァ、毎朝(まいあさ)見(み)られる図(ず)じゃァねえッて。――ごらんなせえやし。お前(まえ)さんの姿(すがた)が見(み)えたら、つぼんでいた花(はな)が、あの通(とお)り一遍(ぺん)に咲(さ)きやしたぜ」
「ちげえねえ。葉ッぱにとまってた蛙(かえる)の野郎(やろう)までが、あんな大(おお)きな眼(め)を開(あ)きゃァがった」
「もういいから、やっておくんなさい」
「そんなら、ゆっくりめえりやしょう。――おせんちゃんが垂(たれ)を揚(あ)げておくんなさりゃ、どんなに肩身(かたみ)が広(ひろ)いか知(し)れやァしねえ。のう竹(たけ)」
「そうともそうとも。こうなったら、急(いそ)いでくれろと頼(たの)まれても、足(あし)がいうことを聞(き)きませんや。あっしと仙蔵(せんぞう)との、役得(やくとく)でげさァね」
「ほほほほ、そんならあたしゃ、垂(たれ)をおろしてもらいますよ」
「飛(と)んでもねえ。駕籠(かご)に乗(の)る人(ひと)かつぐ人(ひと)、行(ゆ)く先(さき)ァお客(きゃく)のままだが、かついでるうちァ、こっちのままでげすぜ。――それ竹(たけ)、なるたけ往来(おうらい)の人達(ひとたち)に目立(めだ)つように、腰(こし)をひねって歩(ある)きねえ」
「おっと、御念(ごねん)には及(およ)ばねえ。お上(かみ)が許(ゆる)しておくんなさりゃァ、棒鼻(ぼうはな)へ、笠森(かさもり)おせん御用駕籠(ごようかご)とでも、札(ふだ)を建(た)てて行(ゆ)きてえくらいだ」
 いうまでもなく、祝儀(しゅうぎ)や酒手(さかて)の多寡(たか)ではなかった。当時(とうじ)江戸女(えどおんな)の人気(にんき)を一人(ひとり)で背負(せお)ってるような、笠森(かさもり)おせんを乗(の)せた嬉(うれ)しさは、駕籠屋仲間(かごやなかま)の誉(ほま)れでもあろう。竹(たけ)も仙蔵(せんぞう)も、金(きん)の延棒(のべぼう)を乗(の)せたよりも腹(はら)は得意(とくい)で一ぱいになっていた。
「こう見(み)や。あすこへ行(い)くなァおせんだぜ」
「おせんだ」
「そうよ。人違(ひとちげ)えのはずはねえ。靨(えくぼ)が立派(りっぱ)な証拠(しょうこ)だて」
「おッと違(ちげ)えねえ。向(むこ)うへ廻(まわ)って見(み)ざァならねえ」
 帳場(ちょうば)へ急(いそ)ぐ大工(だいく)であろう。最初(さいしょ)に見(み)つけた誇(ほこ)りから、二人(ふたり)が一緒(しょ)に、駕籠(かご)の向(むこ)うへかけ寄(よ)った。

    四

「風流絵暦所(ふうりゅうえこよみどころ)鈴木春信(すずきはるのぶ)」
 水(みず)くきのあとも細々(ほそぼそ)と、流(なが)したように書(か)きつらねた木目(もくめ)の浮(う)いた看板(かんばん)に、片枝折(かたしおり)の竹(たけ)も朽(く)ちた屋根(やね)から柴垣(しばがき)へかけて、葡萄(ぶどう)の蔓(つる)が伸(の)び放題(ほうだい)の姿(すがた)を、三尺(じゃく)ばかりの流(なが)れに映(うつ)した風雅(ふうが)なひと構(かま)え、お城(しろ)の松(まつ)も影(かげ)を曳(ひ)きそうな、日本橋(にほんばし)から北(きた)へ僅(わずか)に十丁(ちょう)の江戸(えど)のまん中(なか)に、かくも鄙(ひな)びた住居(すまい)があろうかと、道往(みちゆ)く人(ひと)のささやき交(かわ)す白壁町(しろかべちょう)。夏(なつ)ならば、すいと飛(と)びだす迷(まよ)い蛍(ほたる)を、あれさ待(ま)ちなと、団扇(うちわ)で追(お)い寄(よ)るしなやかな手(て)も見(み)られるであろうが、はや秋(あき)の声(こえ)聞(き)く垣根(かきね)の外(そと)には、朝日(あさひ)を受(う)けた小葡萄(こぶどう)の房(ふさ)が、漸(ようや)く小豆大(あずきだい)のかたちをつらねた影(かげ)を、真下(ました)の流(なが)れに漂(ただよ)わせているばかりであった。
 池(いけ)と名付(なづ)ける程(ほど)ではないが、一坪余(つぼあま)りの自然(しぜん)の水溜(みずたま)りに、十匹(ぴき)ばかりの緋鯉(ひごい)が数(かぞ)えられるその鯉(こい)の背(せ)を覆(おお)って、なかば花(はな)の散(ち)りかけた萩(はぎ)のうねりが、一叢(ひとむら)ぐっと大手(おおて)を広(ひろ)げた枝(えだ)の先(さき)から、今(いま)しもぽたりと落(お)ちたひとしずく。波紋(はもん)が次第(しだい)に大(おお)きく伸(の)びたささやかな波(なみ)の輪(わ)を、小枝(こえだ)の先(さき)でかき寄(よ)せながら、じっと水(みず)の面(おも)を見詰(みつ)めていたのは、四十五の年(とし)よりは十年(ねん)も若(わか)く見(み)える、五尺(しゃく)に満(み)たない小作(こづく)りの春信(はるのぶ)であった。
 おおかた銜(くわ)えた楊枝(ようじ)を棄(す)てて、顔(かお)を洗(あら)ったばかりなのであろう。まだ右手(みぎて)に提(さ)げた手拭(てぬぐい)は、重(おも)く濡(ぬ)れたままになっていた。
「藤吉(とうきち)」
 春信(はるのぶ)は、鯉(こい)の背(せ)から眼(め)を放(はな)すと、急(きゅう)に思(おも)いだしたように、縁先(えんさき)の万年青(おもと)の葉(は)を掃除(そうじ)している、少年(しょうねん)の門弟(もんてい)藤吉(とうきち)を呼(よ)んだ。
「へえ」
「八つぁんは、まだ帰(かえ)って来(こ)ないようだの」
「へえ」
「おせんもまだ見(み)えないか」
「へえ」
「堺屋(さかいや)の太夫(たゆう)もか」
「へえ」
「おまえちょいと、枝折戸(しおりど)へ出(で)て見(み)て来(き)な」
「かしこまりました」
 藤吉(とうきち)は、万年青(おもと)の葉(は)から掃除(そうじ)の筆(ふで)を放(はな)すと、そのまま萩(はぎ)の裾(すそ)を廻(まわ)って、小走(こばし)りにおもてへ出(で)て行(い)った。
「今時分(いまじぶん)、おせんがいないはずはないから、ひょっとすると八五郎(ろう)の奴(やつ)、途中(とちゅう)で誰(だれ)かに遇(あ)って、道草(みちくさ)を食(く)ってるのかも知(し)れぬの。堺屋(さかいや)でもどっちでも、早(はや)く来(く)ればいいのに。――」
 濡(ぬ)れた手拭(てぬぐい)を、もう一度(ど)丁寧(ていねい)に絞(しぼ)った春信(はるのぶ)は、口(くち)のうちでこう呟(つぶや)きながら、おもむろに縁先(えんさき)の方(ほう)へ歩(あゆ)み寄(よ)った。すると、その額(ひたい)の汗(あせ)を拭(ふ)きながら駆(か)け込(こ)んで来(き)たのは、摺師(すりし)の八五郎(ろう)であった。
「行(い)ってめえりやした」
「御苦労(ごくろう)、御苦労(ごくろう)。おせんはいたかの」
「へえ。居(お)りやした。でげすが師匠(ししょう)、世(よ)の中(なか)にゃ馬鹿(ばか)な野郎(やろう)が多(おお)いのに驚(おどろ)きやしたよ。あっしが向(むこ)うへ着(つ)いたのは、まだ六つをちっと回(まわ)ったばかりでげすのに、もうお前(まえ)さん、かぎ屋(や)の前(まえ)にゃ、人(ひと)が束(たば)ンなってるじゃござんせんか。それも、女(おんな)一人(ひとり)いるんじゃねえ。みんな、おいらこそ江戸(えど)一番(ばん)の色男(いろおとこ)だと、いわぬばかりの顔(かお)をして、反(そ)りッかえってる野郎(やろう)ぞっきでげさァね。――おせんちゃんにゃ、千人(にん)の男(おとこ)が首(くび)ッたけンなっても、及(およ)ばぬ鯉(こい)の滝(たき)のぼりだとは、知らねえんだから浅間(あさま)しいや」
「八つぁん。おせんの返事(へんじ)はどうだったんだ。直(す)ぐに来(く)るとか、来(こ)ないとか」
「めえりやすとも。もうおッつけ、そこいらで声(こえ)が聞(きこ)えますぜ」
 八五郎(ろう)は得意(とくい)そうに小首(こくび)をかしげて、枝折戸(しおりど)の方(ほう)を指(ゆび)さした。

    五

 枝折戸(しおりど)の外(そと)に、外道(げどう)の面(つら)のような顔(かお)をして、ずんぐり立(た)って待(ま)っていた藤吉(とうきち)は、駕籠(かご)の中(なか)からこぼれ出(で)たおせんの裾(すそ)の乱(みだ)れに、今(いま)しもきょろりと、団栗(どんぐり)まなこを見張(みは)ったところだった。
「やッ、おせんちゃん。師匠(ししょう)がさっきから、首(くび)を長(なが)くしてお待(ま)ちかねだぜ」
 朱(しゅ)とお納戸(なんど)の、二こくの鼻緒(はなお)の草履(ぞうり)を、後(うしろ)の仙蔵(せんぞう)にそろえさせて、扇(おうぎ)で朝日(あさひ)を避(さ)けながら、静(しず)かに駕籠(かご)を立(た)ち出(で)たおせんは、どこぞ大店(おおだな)の一人娘(ひとりむすめ)でもあるかのように、如何(いか)にも品(ひん)よく落着(おちつ)いていた。
「藤吉(とうきち)さん。ここであたしを、待(ま)ってでござんすかえ」
「そうともさ、肝腎(かんじん)の万年青(おもと)の掃除(そうじ)を半端(はんぱ)でやめて、半時(はんとき)も前(まえ)から、お前(まえ)さんの来(く)るのを待(ま)ってたんだ。――だがおせんちゃん。お前(まえ)は相変(あいかわ)らず、師匠(ししょう)の絵(え)のように綺麗(きれい)だのう」
「おや、朝(あさ)ッからおなぶりかえ」
「なぶるどころか。おいらァ惚(ほ)れ惚(ぼ)れ見(み)とれてるんだ。顔(かお)といい、姿(すがた)といい、お前(まえ)ほどの佳(い)い女(おんな)は江戸中(えどじゅう)探(さが)してもなかろうッて、師匠(ししょう)はいつも口癖(くちぐせ)のようにいってなさるぜ。うちのお鍋(なべ)も女(おんな)なら、おせんちゃんも女(おんな)だが、おんなじ女(おんな)に生(うま)れながら、お鍋(なべ)はなんて不縹緻(ぶきりょう)なんだろう。お鍋(なべ)とはよく名(な)をつけたと、おいらァつくづくあいつの、親父(おやじ)の智恵(ちえ)に感心(かんしん)してるんだが、それと違(ちが)っておせんさんは、弁天様(べんてんさま)も跣足(はだし)の女(おんな)ッぷり。いやもう江戸(えど)はおろか日本中(にほんじゅう)、鉦(かね)と太鼓(たいこ)で探(さが)したって……」
「おいおい藤(とう)さん」
 肩(かた)を掴(つか)んで、ぐいと引(ひ)っ張(ぱ)った。その手(て)で、顔(かお)を逆(さか)さに撫(な)でた八五郎(ろう)は、もう一度(ど)帯(おび)を把(と)って、藤吉(とうきち)を枝折戸(しおりど)の内(うち)へ引(ひ)きずり込(こ)んだ。
「何(なに)をするんだ。八つぁん」
「何(なに)もこうありゃァしねえ。つべこべと、余計(よけい)なことをいってねえで、速(はや)くおせんちゃんを、奥(おく)へ案内(あんない)してやらねえか。師匠(ししょう)がもう、茶(ちゃ)を三杯(ばい)も換(か)えて待(ま)ちかねだぜ」
「おっと、しまった」
「おせんちゃん。少(すこ)しも速(はや)く、急(いそ)いだ、急(いそ)いだ」
「ほほほほ。八つぁんがまた、おどけた物(もの)のいいようは。……」
 駕籠(かご)を帰(かえ)したおせんの姿(すがた)は、小溝(こどぶ)へ架(か)けた土橋(どばし)を渡(わた)って、逃(のが)れるように枝折戸(しおりど)の中(なか)へ消(き)えて行(い)った。
「ふん、八五郎(ろう)の奴(やつ)、余計(よけい)な真似(まね)をしやァがる。おせんちゃんの案内役(あんないやく)は、いっさいがっさい、おいらときまってるんだ。――よし、あとで堺屋(さかいや)の太夫(たゆう)が来(き)たら、その時(とき)あいつに辱(はじ)をかかせてやる」
 手(て)の内(うち)の宝(たから)を奪(うば)われでもしたように、藤吉(とうきち)は地駄(じだ)ン駄(だ)踏(ふ)んで、あとから、土橋(どばし)をひと飛(と)びに飛(と)んで行(い)った。
 鉤(かぎ)なりに曲(まが)った縁先(えんさき)では、師匠(ししょう)の春信(はるのぶ)とおせんとが、既(すで)に挨拶(あいさつ)を済(す)ませて、池(いけ)の鯉(こい)に眼(め)をやりながら、何事(なにごと)かを、声(こえ)をひそめて話(はな)し合(あ)っていた。
「八つぁん、ちょいと来(き)てくんな」
「何(な)んだ藤(とう)さん」
 立(た)って来(き)た八五郎(ろう)を、睨(にら)めるようにして、藤吉(とうきち)は口(くち)を尖(とが)らせた。
「お前(まえ)、あとから誰(だれ)が来(く)るか、知(し)ってるかい」
「知(し)らねえ」
「それ見(み)な。知(し)らねえで、よくそんなお接介(せっかい)が出来(でき)たもんだの」
「お接介(せっかい)たァ何(な)んのこッた」
「おせんちゃんを、先(さき)に立(た)って連(つ)れてくなんざ、お接介(せっかい)だよ」
「冗談(じょうだん)じゃねえ。おせんちゃんは、師匠(ししょう)に頼(たの)まれて、おいらが呼(よ)びに行(い)ったんだぜ。――おめえはまだ、顔(かお)を洗(あら)わねえんだの」
 顔(かお)はとうに洗(あら)っていたが、藤吉(とうきち)の眼頭(めがしら)には、目脂(めやに)が小汚(こぎた)なくこすり付(つ)いていた。

    六

 赤(あか)とんぼが障子(しょうじ)へくっきり影(かげ)を映(うつ)した画室(がしつ)は、金(きん)の砂子(すなこ)を散(ち)らしたように明(あか)るかった。
 広々(ひろびろ)と庭(にわ)を取(と)ってはあるが、僅(わず)かに三間(ま)を数(かぞ)えるばかりの、茶室(ちゃしつ)がかった風流(ふうりゆう)の住居(すまい)は、ただ如何(いか)にも春信(はるのぶ)らしい好(この)みにまかせて、手(て)いれが行(ゆ)き届(とど)いているというだけのこと、諸大名(しょだいみょう)の御用絵師(ごようえし)などにくらべたら、まことに粗末(そまつ)なものであった。
 その画室(がしつ)の中(なか)ほどに、煙草盆(たばこぼん)をはさんで、春信(はるのぶ)とおせんとが対座(たいざ)していた。おせんの初(うぶ)な心(こころ)は、春信(はるのぶ)の言葉(ことば)にためらいを見(み)せているのであろう。うつ向(む)いた眼許(めもと)には、ほのかな紅(べに)を差(さ)して、鬢(びん)の毛(け)が二筋(すじ)三筋(すじ)、夢見(ゆめみ)るように頬(ほほ)に乱(みだ)れかかっていた。
「どうだの、これは別(べつ)に、おいらが堺屋(さかいや)から頼(たの)まれた訳(わけ)ではないが、何(な)んといっても中村松江(なかむらしょうこう)なら、当時(とうじ)押(お)しも押(お)されもしない、立派(りっぱ)な太夫(たゆう)。その堺屋(さかいや)が秋(あき)の木挽町(こびきちょう)で、お前(まえ)のことを重助(じゅうすけ)さんに書(か)きおろさせて、舞台(いた)に上(の)せようというのだから、まず願(ねが)ってもないもっけの幸(さいわ)い。いやの応(おう)のということはなかろうじゃないか」
「はい、そりゃァもう、あたしに取(と)っては勿体(もったい)ないくらいの御贔屓(ごひいき)、いや応(おう)いったら、眼(め)がつぶれるかも知(し)れませぬが。……」
「それなら何(な)んでの」
「お師匠(ししょう)さん、堪忍(かんにん)しておくんなさい。あたしゃ知(し)らない役者衆(やくしゃしゅう)と、差(さ)しで会(あ)うのはいやでござんす」
「はッはッは、何(なに)かと思(おも)ったら、いつもの馬鹿気(ばかげ)たはにかみからか。ここへ堺屋(さかいや)を招(よ)んだのは、何(なに)もお前(まえ)と差(さ)しで会(あ)わせようの、二人(ふたり)で話(はなし)をさせようのと、そんな訳合(わけあい)じァありゃしない。松江(しょうこう)は日頃(ひごろ)、おいらの絵(え)が大好(だいす)きとかで、板(いた)おろしをしたのはもとより、版下(はんした)までを集(あつ)めている程(ほど)の好(す)き者(しゃ)仲間(なかま)、それがゆうべ、芝居(しばい)の帰(かえ)りにひょっこり寄(よ)って、この次(つぎ)の狂言(きょうげん)には、是非(ぜひ)とも笠森(かさもり)おせんちゃんを、芝居(しばい)に仕組(しく)んで出(だ)したいとの、たっての望(のぞ)みさ。どういう筋(すじ)に仕組(しく)むのか、そいつは作者(さくしゃ)の重助(じゅうすけ)さんに謀(はか)ってからの寸法(すんぽう)だから、まだはっきりとはいえないとのことだった、松江(しょうこう)が写(うつ)したお前(まえ)の姿(すがた)を、舞台(ぶたい)で見(み)られるとなりゃ、何(な)んといっても面白(おもしろ)い話(はなし)。おいらは二つ返事(へんじ)で、手(て)を打(う)ってしまったんだ。――そこで、善(ぜん)は急(いそ)げのたとえをそのまま、あしたの朝(あさ)、ここへおせんに来(き)てもらおうから、太夫(たゆう)ももう一度(ど)、ここまで出(で)て来(き)てもらいたいと、約束事(やくそくごと)が出来(でき)たんだが、――のうおせん。おいらの前(まえ)じゃ、肌(はだ)まで見(み)せて、絵(え)を写(うつ)させるお前(まえ)じゃないか、相手(あいて)が誰(だれ)であろうと、ここで一時(いっとき)、茶のみ話(ばなし)をするだけだ。心持(こころも)よく会(あ)ってやるがいいわな」
「さァ。――」
「今更(いまさら)思案(しあん)もないであろう。こうしているうちにも、もうそこらへ、やって来(き)たかも知(し)れまいて」
「まァ、師匠(ししょう)さん」
「はッはッは。お前(まえ)、めっきり気(き)が小(ちい)さくなったの」
「そんな訳(わけ)じゃござんせぬが、あたしゃ知(し)らない役者衆(やくしゃしゅう)とは。……」
「ほい、まだそんなことをいってるのか。なまじ知(し)ってる顔(かお)よりも、はじめて会(あ)って見(み)る方(ほう)に、はずむ話(はなし)があるものだ。――それにお前(まえ)、相手(あいて)は当時(とうじ)上上吉(じょうじょうきち)の女形(おやま)、会(あ)ってるだけでも、気(き)が晴(は)れ晴(ば)れとするようだぜ」
 ふと、とんぼの影(かげ)が障子(しょうじ)から離(はな)れた。と同時(どうじ)に藤吉(とうきち)の声(こえ)が、遠慮勝(えんりょが)ちに縁先(えんさき)から聞(きこ)えた。
「師匠(ししょう)、太夫(たゆう)がおいでになりました」
「おおそうか。直(す)ぐにこっちへお通(とお)ししな」
 じっと畳(たたみ)の上(うえ)を見詰(みつ)めているおせんは、たじろぐように周囲(しゅうい)を見廻(みまわ)した。
「お師匠(ししょう)さん、後生(ごしょう)でござんす。あたしをこのまま、帰(かえ)しておくんなさいまし」
「なんだって」
 春信(はるのぶ)は大(おお)きく眼(め)を見(み)ひらいた。

    七

 たとえば青苔(あおこけ)の上(うえ)に、二つ三つこぼれた水引草(みずひきそう)の花(はな)にも似(に)て、畳(たたみ)の上(うえ)に裾(すそ)を乱(みだ)して立(た)ちかけたおせんの、浮(う)き彫(ぼり)のような爪先(つまさき)は、もはや固(かた)く畳(たたみ)を踏(ふ)んではいなかった。
「ははは、おせん。みっともない、どうしたというんだ」
 春信(はるのぶ)の、いささか当惑(とうわく)した視線(しせん)は、そのまま障子(しょうじ)の方(ほう)へおせんを追(お)って行(い)ったが、やがて追(お)い詰(つめ)られたおせんの姿(すがた)が、障子(しょうじ)の際(きわ)にうずくまるのを見(み)ると、更(さら)に解(げ)せない思(おも)いが胸(むね)の底(そこ)に拡(ひろ)がってあわてて障子(しょうじ)の外(そと)にいる藤吉(とうきち)に声(こえ)をかけた。
「藤吉(とうきち)、堺屋(さかいや)の太夫(たゆう)に、もうちっとの間(あいだ)、待(ま)っておもらい申(もう)してくれ」
「へえ」
 おおかた、もはや縁先近(えんさきちか)くまで来(き)ていたのであろう。藤吉(とうきち)が直(す)ぐさま松江(しょうこう)に春信(はるのぶ)の意(い)を伝(つた)えて、池(いけ)の方(ほう)へ引(ひ)き返(かえ)してゆく気配(けはい)が、障子(しょうじ)に映(うつ)った二つの影(かげ)にそれと知(し)れた。
「おせん」
「あい」
「お前(まえ)、何(なに)か訳(わけ)があってだの」
「いいえ、何(なに)も訳(わけ)はござんせぬ」
「隠(かく)すにゃ当(あた)らないから、有様(ありよう)にいって見(み)な、事(こと)と次第(しだい)に因(よ)ったら、堺屋(さかいや)は、このままお前(まえ)には会(あわ)せずに、帰(かえ)ってもらうことにする」
「そんなら、あたしの願(ねが)いを聞(き)いておくんなさいますか」
「聞(き)きもする。かなえもする。だが、その訳(わけ)は聞(き)かしてもらうぜ」
「さァその訳(わけ)は。――」
「まだ隠(かく)しだてをするつもりか。あくまで聞(き)かせたくないというなら、聞(き)かずに済(す)ませもしようけれど、そのかわりおいらはもうこの先(さき)、金輪際(こんりんざい)、お前(まえ)の絵(え)は描(か)かないからそのつもりでいるがいい」
「まァお師匠(ししょう)さん」
「なァにいいやな。笠森(かさもり)のおせんは、江戸(えど)一番(ばん)の縹緻佳(きりょうよ)しだ。おいらが拙(まず)い絵(え)なんぞに描(か)かないでも、客(きゃく)は御府内(ごふない)の隅々(すみずみ)から、蟻(あり)のように寄(よ)ってくるわな。――いいたくなけりゃ、聞(き)かずにいようよ」
 いたずらに、もてあそんでいた三味線(みせん)の、いとがぽつんと切(き)れたように、おせんは身内(みうち)に積(つも)る寂(さび)しさを覚(おぼ)えて、思(おも)わず瞼(まぶた)が熱(あつ)くなった。
「お師匠(ししょう)さん、堪忍(かんにん)しておくんなさい。あたしゃ、お母(かあ)さんにもいうまいと、固(かた)く心(こころ)にきめていたのでござんすが、もう何事(なにごと)も申(もう)しましょう。どっと笑(わら)っておくんなさいまし」
「おお、ではやっぱり何(なに)かの訳(わけ)があって。……」
「あい、あたしゃあの、浜村屋(はまむらや)の太夫(たゆう)さんが、死(し)ぬほど好(す)きなんでござんす」
「えッ。菊之丞(きくのじょう)に。――」
「あい。おはずかしゅうござんすが。……」
 消えも入(い)りたいおせんの風情(ふぜい)は、庭(にわ)に咲(さ)く秋海棠(しゅうかいどう)が、なまめき落(お)ちる姿(すがた)をそのまま悩(なや)ましさに、面(おもて)を袂(たもと)におおい隠(かく)した。
 じッと、釘(くぎ)づけにされたように、春信(はるのぶ)の眼(め)は、おせんの襟脚(えりあし)から動(うご)かなかった。が、やがて静(しず)かにうなずいたその顔(かお)には、晴(は)れやかな色(いろ)が漂(ただよ)っていた。
「おせん」
「あい」
「よくほれた」
「えッ」
「当代(とうだい)一の若女形(わかおやま)、瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)なら、江戸(えど)一番(ばん)のお前(まえ)の相手(あいて)にゃ、少(すこ)しの不足(ふそく)もあるまいからの。――判(わか)った。相手(あいて)がやっぱり役者(やくしゃ)とあれば、堺屋(さかいや)に会(あ)うのは気(き)が差(さ)そう。こりゃァ何(な)んとでもいって断(ことわ)るから、安心(あんしん)するがいい」

    八

 勢(きお)い込(こ)んで駕籠(かご)で乗(の)り着(つ)けた中村松江(なかむらしょうこう)は、きのうと同(おな)じように、藤吉(とうきち)に案内(あんない)されたが、直(す)ぐ様(さま)通(とお)してもらえるはずの画室(がしつ)へは、何(なに)やら訳(わけ)があって入(はい)ることが出来(でき)ぬところから、ぽつねんと、池(いけ)の近(ちか)くにたたずんだまま、人影(ひとかげ)に寄(よ)って来(く)る鯉(こい)の動(うご)きをじっと見詰(みつ)めていた。
 師(し)の歌右衛門(うたえもん)を慕(した)って江戸(えど)へ下(くだ)ってから、まだ足(あし)かけ三年(ねん)を経(へ)たばかりの松江(しょうこう)が、贔屓筋(ひいきすじ)といっても、江戸役者(えどやくしゃ)ほどの数(かず)がある訳(わけ)もなく、まして当地(とうち)には、当代随(とうだいずい)一の若女形(わかおやま)といわれる、二代目(だいめ)瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)が全盛(ぜんせい)を極(きわ)めていることとて、その影(かげ)は決(けっ)して濃(こ)いものではなかった。が、年(とし)は若(わか)いし、芸(げい)は達者(たっしゃ)であるところから、作者(さくしゃ)の中村重助(なかむらじゅうすけ)が頻(しき)りに肩(かた)を入(い)れて、何(なに)か目先(めさき)の変(かわ)った狂言(きょうげん)を、出(だ)させてやりたいとの心(こころ)であろう。近頃(ちかごろ)春信(はるのぶ)の画(え)で一層(そう)の評判(ひょうばん)を取(と)った笠森(かさもり)おせんを仕組(しく)んで、一番(ばん)当(あ)てさせようと、松江(しょうこう)が春信(はるのぶ)と懇意(こんい)なのを幸(さいわ)い、善(ぜん)は急(いそ)げと、早速(さっそく)きのうここへ訪(たず)ねさせての、きょうであった。
「太夫(たゆう)、お待遠(まちどお)さまでござんしょうが、どうかこちらへおいでなすって、お茶(ちゃ)でも召上(めしあが)って、お待(ま)ちなすっておくんなまし」
 藤吉(とうきち)にも、何(な)んで師匠(ししょう)が堺屋(さかいや)を待(ま)たせるのか、一向(こう)合点(がってん)がいかなかったが、張(は)り詰(つ)めていた気持(きもち)が急(きゅう)に緩(ゆる)んだように、しょんぼりと池(いけ)を見詰(みつ)めて立(た)っている後姿(うしろすがた)を見(み)ると、こういって声(こえ)をかけずにはいられなかった。
「へえ、おおきに。――」
「太夫(たゆう)は、おせんちゃんには、まだお会(あ)いなすったことがないんでござんすか」
「へえ、笠森様(かさもりさま)のお見世(みせ)では、お茶(ちゃ)を戴(いただ)いたことがおますが、先様(さきさま)は、何(なに)を知(し)ってではござりますまい。――したが若衆(わかしゅう)さん。おせんさんは、もはやお見(み)えではおますまいかな」
「つい今(いま)し方(がた)。
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