おせん
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著者名:邦枝完二 

 急(きゅう)に水(みず)を打(う)ったような静(しず)けさに還(かえ)った部屋(へや)の中(なか)には、ただ香(こう)のかおりが、低(ひく)く這(は)っているばかりであった。
 玄庵(げんあん)は、夜着(よぎ)の下(した)へ手(て)を入(い)れて、かるく菊之丞(きくのじょう)の手首(てくび)を掴(つか)んだまま首(くび)をひねった。
「先生(せんせい)、如何(いかが)でございます」
「脈(みゃく)に力(ちから)が出(で)たようじゃが。……」
「それはまァ、うれしゅうござんす」
「だが御安心(ごあんしん)は御無用(ごむよう)じゃ。いつ何時(なんどき)変化(へんか)があるか判(わか)らぬからのう」
「はい」
「お見舞(みまい)の方々(かたがた)も、次(つぎ)の間(ま)にお引取(ひきと)りなすってはどうじゃの、御病人(ごびょうにん)は、出来(でき)るだけ安静(あんせい)に、休(やす)ませてあげるとよいと思(おも)うでの」
「はいはい」と羽左衛門(うざえもん)が大(おお)きくうなずいた。「如何(いか)にも御(ご)もっともでございます。――では、ここはおかみさんにお願(ねが)い申(もう)して、次(つぎ)へ下(さが)っていることにいたしましょう」
「それがようござる。及(およ)ばずながら愚老(ぐろう)が看護(かんご)して居(い)る以上(いじょう)、手落(ておち)はいたさぬ考(かんが)えじゃ」
「何分共(なにぶんとも)にお願(ねが)い申上(もうしあ)げます」
 一同(どう)は足音(あしおと)を忍(しの)ばせて、襖(ふすま)の開(あ)けたてにも気(き)を配(くば)りながら、次(つぎ)の間(ま)へ出(で)て行(い)った。
 暫(しば)し、鉄瓶(てつびん)のたぎる音(おと)のみが、部屋(へや)のしじまに明(あか)るく残(のこ)された。
「御内儀(ごないぎ)」
 玄庵(げんあん)の声(こえ)は、低(ひく)く重(おも)かった。
「はい」
「お気(き)の毒(どく)でござるが、太夫(たゆう)はもはや、一時(とき)の命(いのち)じゃ」
「えッ」
「いや静(しず)かに。――ただ今(いま)、脈(みゃく)に力(ちから)が出(で)たようじゃと申上(もうしあ)げたが、実(じつ)は他(た)の方々(かたがた)の手前(てまえ)をかねたまでのこと。心臓(しんぞう)も、微(かす)かに温(ぬく)みを保(たも)っているだけのことじゃ」
「それではもはや」
 おむらの、今(いま)まで辛抱(しんぼう)に辛抱(しんぼう)を重(かさ)ねていた眼(め)からは、玉(たま)のような涙(なみだ)が、頬(ほほ)を伝(つたわ)って溢(あふ)れ落(お)ちた。
 やがて、香煙(こうえん)を揺(ゆる)がせて、恐(おそ)る恐(おそ)る襖(ふすま)の間(あいだ)から首(くび)を差出(さしだ)したのは、弟子(でし)の菊彌(きくや)だった。
「お客様(きゃくさま)でございます」
「どなたが」
「谷中(やなか)のおせん様(さま)」
「えッ、あの笠森(かさもり)の。……」
「はい」
「太夫(たゆう)は御病気(ごびょうき)ゆえ、お目(め)にかかれぬと、お断(ことわ)りしておくれ」
 するとその刹那(せつな)、ぱっと眼(め)を開(あ)いて菊之丞(きくのじょう)の、細(ほそ)い声(こえ)が鋭(するど)く聞(きこ)えた。
「いいよ。いいから、ここへお通(とお)し。――」

    六

 初霜(はつしも)を避(さ)けて、昨夜(さくや)縁(えん)に上(あ)げられた白菊(しらぎく)であろう、下葉(したは)から次第(しだい)に枯(か)れてゆく花(はな)の周囲(しゅうい)を、静(しず)かに舞(ま)っている一匹(ぴき)の虻(あぶ)を、猫(ねこ)が頻(しき)りに尾(お)を振(ふ)ってじゃれる影(かげ)が、障子(しょうじ)にくっきり映(うつ)っていた。
 その虻(あぶ)の羽音(はおと)を、聞(き)くともなしに聞(き)きながら、菊之丞(きくのじょう)の枕頭(ちんとう)に座(ざ)して、じっと寝顔(ねがお)に見入(みい)っていたのは、お七の着付(きつけ)もあでやかなおせんだった。
 紫(むらさき)の香煙(こうえん)が、ひともとすなおに立昇(たちのぼ)って、南向(みなみむ)きの座敷(ざしき)は、硝子張(ギヤマンばり)の中(なか)のように暖(あたた)かい。
 七年目(ねんめ)で会(あ)った、たった二人(ふたり)の世界(せかい)。殆(ほと)んど一夜(や)のうちに生気(せいき)を失(うしな)ってしまった菊之丞(きくのじょう)の、なかば開(ひら)かれた眼(め)からは、糸(いと)のような涙(なみだ)が一筋(すじ)頬(ほほ)を伝(つた)わって、枕(まくら)を濡(ぬ)らしていた。
「おせんちゃん」
 菊之丞(きくのじょう)の声(こえ)は、わずかに聞(き)かれるくらい低(ひく)かった。
「あい」
「よく来(き)てくれた」
「太夫(たゆう)さん」
「太夫(たゆう)さんなぞと呼(よ)ばずに、やっぱり昔(むかし)の通(とおり)り、吉(きち)ちゃんと呼(よ)んでおくれな」
「そんなら、吉(きち)ちゃん。――」
「はい」
「あたしゃ、会(あ)いとうござんした」
「あたしも会(あ)いたかった。――こういったら、お前(まえ)さんはさだめし、心(こころ)にもないことをいうと、お想(おも)いだろうが、決して嘘(うそ)でもなけりゃ、お世辞(せじ)でもない。――知(し)っての通(とお)り、あたしゃどうやら人気(にんき)も出(で)て、世間様(せけんさま)からなんのかのと、いわれているけれど、心(こころ)はやっぱり十年前(ねんまえ)もおなじこと。義理(ぎり)でもらった女房(にょうぼう)より、浮気(うわき)でかこった女(おんな)より、心(しん)から思(おも)うのはお前(まえ)の身(み)の上(うえ)。暑(あつ)いにつけ、寒(さむ)いにつけ、切(せつ)ない思(おも)いは、いつも谷中(やなか)の空(そら)に通(かよ)ってはいたが、今(いま)ではお前(まえ)も人気娘(にんきむすめ)、うっかりあたしが訪(たず)ねたら、あらぬ浮名(うきな)を立(た)てられて、さぞ迷惑(めいわく)でもあろうかと、きょうが日(ひ)まで、辛抱(しんぼう)して来(き)ましたのさ」
「勿体(もったい)ない、太夫(たゆう)さん。――」
「いいえ、勿体(もったい)ないより、済(す)まないのはあたしの心(こころ)。役者家業(やくしゃかぎょう)の憂(う)さ辛(つら)さは、どれ程(ほど)いやだとおもっても、御贔屓(ごひいき)からのお迎(むか)えよ。お座敷(ざしき)よといわれれば、三度(ど)に一度(ど)は出向(でむ)いて行(い)って、笑顔(えがお)のひとつも見(み)せねばならず、そのたび毎(ごと)に、ああいやだ、こんな家業(かぎょう)はきょうは止(よ)そうか、明日(あす)やめようかと思(おも)うものの、さて未練(みれん)は舞台(ぶたい)。このまま引(ひ)いてしまったら、折角(せっかく)鍛(きた)えたおのが芸(げい)を、根(ね)こそぎ棄(す)てなければならぬ悲(かな)しさ。それゆえ、秋(あき)の野(の)に鳴(な)く虫(むし)にも劣(おと)る、はかない月日(つきひ)を過(す)ごして来(き)たが、……おせんちゃん。それもこれも、今(いま)はもうきのうの夢(ゆめ)と消(き)えるばかり。所詮(しょせん)は会(あ)えないものと、あきらめていた矢先(やさき)、ほんとうによく来(き)てくれた。あたしゃこのまま死(し)んでも、思(おも)い残(のこ)すことはない。――」
「もし、吉(きち)ちゃん」
「おお」
「しっかりしておくんなさい。羞(はず)かしながら、お前(まえ)がなくてはこの世(よ)の中(なか)に、誰(だれ)を思(おも)って生(い)きようやら、おまえ一人(ひとり)を、胸(むね)にひそめて来(き)たあたし。あたしに死(し)ねというのなら、たった今(いま)でも、身代(みがわ)りにもなりましょう。――のう吉(きち)ちゃん。たとえ一夜(や)の枕(まくら)は交(かわ)さずとも、あたしゃおまえの女房(にょうぼう)だぞえ。これ、もうし吉(きち)ちゃん。返事(へんじ)のないのは、不承知(ふしょうち)かえ」
 一膝(ひざ)ずつ乗出(のりだ)したおせんは、頬(ほほ)がすれすれになるまでに、菊之丞(きくのじょう)の顔(かお)を覗(のぞ)き込(こ)んだが、やがてその眼(め)は、仏像(ぶつぞう)のようにすわって行(い)った。
「吉(きち)ちゃん。――太夫(たゆう)さん。――」
「お、せ、ん――」
「ああ、もし」
 おせんは、次第(しだい)に唇(くちびる)の褪(あ)せて行(ゆ)く菊之丞(きくのじょう)の顔(かお)の上(うえ)に、涙(なみだ)と共(とも)に打(う)ち伏(ふ)してしまった。
 隣座敷(となりざしき)から、俄(にわか)に人々(ひとびと)の立(た)つ気配(けはい)がした。

    七

 二代目(だいめ)瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)の死(し)が報(ほう)ぜられたのは、その日(ひ)の暮(く)れ方(がた)近(ちか)くだった。江戸(えど)の民衆(みんしゅう)は、去年(きょねん)の吉原(よしわら)の大火(たいか)よりも、更(さら)に大(おお)きな失望(しつぼう)の淵(ふち)に沈(しず)んだが、中(なか)にも手中(しゅちゅう)の珠(たま)を奪(うば)われたような、悲(かな)しみのどん底(ぞこ)に落(お)ち込(こ)んだのは、菊之丞(きくのじょう)でなければ夜(よ)も日(ひ)もあけない各大名(かくだいみょう)や旗本屋敷(はたもとやしき)の女中達(じょちゅうたち)だった。
 殊(こと)に、この知(し)らせを受(う)けて、天地(てんち)が覆(くつが)えった程(ほど)の驚愕(きょうがく)を覚(おぼ)えたのは、南町奉行(みなみまちぶぎょう)本多信濃守(ほんだしなののかみ)の妹(いもうと)お蓮(れん)であろう。折(おり)から夕餉(ゆうげ)の膳(ぜん)に対(むか)おうとしていたお蓮(れん)は、突然(とつぜん)手(て)にした箸(はし)を取落(とりおと)すと、そのまま狂気(きょうき)したように、ふらふらッと立上(たちあが)って、跣足(はだし)のまま庭先(にわさき)へと駆(か)け降(お)りて行(い)った。
 二三人(にん)の侍女(じじょ)が、直(す)ぐさまその後(あと)を追(お)った。
「もし、お嬢様(じょうさま)。お危(あぶ)のうござります」
「何(なに)をするのじゃ。放(はな)しや」
「どちらへおいで遊(あそ)ばします」
「知(し)れたことじゃ。これから直(す)ぐに、浜村屋(はまむらや)の許(もと)へまいる」
「これはまあ、滅相(めっそう)なことを仰(おっ)しゃいます」
「何(なに)が滅相(めっそう)なことじゃ、わらわがまいって、浜村屋(はまむらや)の病気(びょうき)を癒(なお)して取(と)らせるのじゃ。――邪間(じゃま)だてせずと、そこ退(の)きゃ」
「なりませぬ」
「ええもう、退(の)きゃというに、退(の)かぬか」
 手荒(てあら)く突(つ)き退(の)けられた一人(ひとり)の侍女(じじょ)は、転(ころ)びながらも、お蓮(れん)の裾(すそ)を確(しか)と押(おさ)えた。
「お嬢様(じょうさま)。お気(き)をお静(しず)め遊(あそ)ばしまして。……」
「いらぬことじゃ。放(はな)せ」
「いいえお放(はな)しいたしませぬ。今頃(いまごろ)お出(で)まし遊(あそ)ばしましては、お身分(みぶん)に係(かか)わりまする。もしまた、たってお出(で)まし遊(あそ)ばしますなら、一応(おう)わたくし共(ども)から御家老(ごかろう)へ、その由(よし)お伝(つた)えいたしませねば。……」
「くどいわ。放(はな)せというに、放(はな)さぬか」
 夢中(むちゅう)で振(ふ)り払(はら)ったお蓮(れん)の片袖(かたそで)は、稲穂(いなほ)のように侍女(じじょ)の手(て)に残(のこ)って、惜(お)し気(げ)もなく土(つち)を蹴(け)ってゆく白臘(はくろう)の足(あし)が、夕闇(ゆうやみ)の中(なか)にほのかに白(しろ)かった。
「もし、お嬢様(じょうさま)。――」
 池(いけ)を廻(まわ)って、築山(つきやま)の裾(すそ)を走(はし)るお蓮(れん)の姿(すがた)は、狐(きつね)のように速(はや)かった。
「それ、向(むこ)うから。――」
「あちらへお廻(まわ)り遊(あそ)ばしました」
 男気(おとこけ)のない奥庭(おくにわ)に、次第(しだい)に数(かず)を増(ま)した女中達(じょちゅうたち)は、お蓮(れん)の姿(すがた)を見失(みうしな)っては一大事(だいじ)と思(おも)ったのであろう。老(おい)も若(わか)きもおしなべて、庭(にわ)の木戸(きど)へと歩(ほ)を乱(みだ)した。
 が、必死(ひっし)に駆(か)け着(つ)けた庭(にわ)の木戸(きど)には、もはやお蓮(れん)の姿(すがた)は見(み)られなかった。
「お嬢様(じょうさま)。――」
「お待(ま)ち遊(あそ)ばせ」
 しかも、年(ねん)に一度(ど)も、駆(か)けたことなどのないお蓮(れん)は、庭木戸(にわきど)を出(で)は出(で)たものの、既(すで)に脚(あし)が釣(つ)るまでに疲(つか)れ果(は)てて、口(くち)の中(なか)で菊之丞(きくのじょう)の名(な)を呼(よ)びながら、今(いま)はもはや堪(た)えられない歩(あゆ)みを、いずくへとのあてもなしに、無理(むり)から先(さき)へ先(さき)へと運(はこ)んでいた。
「――浜村屋(はまむらや)、待(ま)ちや。わらわを置(お)いて、そなたばかりがどこへ行(ゆ)く。――そりゃ聞(き)こえぬぞ。わらわも一緒(しょ)じゃ。そなたの行(ゆ)きやるところなら、地獄(じごく)の極(はて)へなりと、いといはせぬ。連(つ)れて行(ゆ)きゃ。速(はよ)う連(つ)れて行(ゆ)きゃ」
 二十一で坂部壱岐守(さかべいきのかみ)へ嫁(とつ)いで八年目(ねんめ)に戻(もど)って来(き)た。既(すで)に三十の身(み)ではあったが、十四五の頃(ころ)から早(はや)くも本多小町(ほんだこまち)と謳(うた)われたお蓮(れん)は、まだ漸(ようやく)く二十四五にしか見(み)えず、いずれかといえば妖艶(ようえん)なかたちの、情熱(じょうねつ)に燃(も)えた眼(め)を据(す)えて、夕闇(ゆうやみ)の中(なか)を音(おと)もなく歩(ある)いてゆく様(さま)は、ぞッとする程(ほど)凄(すご)かった。

    八

 いずこの大名(だいみょう)旗本(はたもと)の屋敷(やしき)に、如何(いか)なる騒(さわ)ぎが持上(もちあが)っていようとも、それらのことは、まったく別(べつ)の世界(せかい)の出来事(できごと)のように、菊之丞(きくのじょう)の家(うち)は、静(しず)かにしめやかであった。
 座元(ざもと)をはじめ、あらゆる芝居道(しばいどう)の人達(ひとたち)はいうまでもなく、贔屓(ひいき)の人々(ひとびと)、出入(でいり)のたれかれと、百を越(こ)える人数(にんずう)は、仕切(しき)りなしに押(お)し寄(よ)せて、さしも豪奢(ごうしゃ)を誇(ほこ)る住居(すまい)も所(ところ)狭(せま)きまでの混雑(こんざつ)を見(み)ていたが、しかも菊之丞(きくのじょう)の冷たいむくろを安置(あんち)した八畳(じょう)の間(ま)には、妻女(さいじょ)のおむらさえ入(い)れないおせんがただ一人(ひとり)、首(くび)を垂(た)れたまま、黙然(もくねん)と膝(ひざ)の上(うえ)を見詰(みつ)めていた。
 ふと、おせんの固(かた)く結(むす)んだ唇(くちびる)から、低(ひく)い、微(かす)かな声(こえ)が漏(も)れた。
「吉(きち)ちゃん。おかみさんや、ほかの人達(ひとたち)にお願(ねが)いして、あたしがたった一人(ひとり)、お前(まえ)の枕許(まくらもと)へ残(のこ)してもらったのは、十年前(ねんまえ)の、飯事遊(ままごとあそ)びが、忘(わす)れられないからでござんす。――みんなして、近所(きんじょ)の飛鳥山(あすかやま)へ、お花見(はなみ)に出(で)かけたあの時(とき)、いつもの通(とお)り、あたしとお前(まえ)とは夫婦(ふうふ)でござんした。幔幕(まんまく)を張(は)りめぐらした、どこぞの御大家(ごたいけ)の中(なか)へ、迷(まよ)い込(こ)んだあたし達(たち)は、それお前(まえ)も覚(おぼ)えてであろ。絵(え)にあるような綺麗(きれい)な、お嬢様(じょうさま)に何(なに)やかやと御馳走(ごちそう)を頂戴(ちょうだい)した挙句(あげく)、お化粧直(けしょうなお)しの幕(まく)の隅(すみ)で、あたしはお前(まえ)に、お前(まえ)はあたしに、互(たがい)にお化粧(けしょう)をしあって、この子達(こたち)、もう小(こ)十年(ねん)も経(た)ったなら、きっと惚(ほ)れ惚(ぼ)れするように美(うつく)しくなるであろうと、お世辞(せじ)にほめて頂(いただ)いた、あの夢(ゆめ)のような日(ひ)のことが、いまだにはっきり眼(め)に残(のこ)って……吉(きち)ちゃん。あたしゃ今こそお前(まえ)に、精根(せいこん)をつくしたお化粧(けしょう)を、してあげとうござんす。――紅白粉(べにおしろい)は、家(いえ)を出(で)る時(とき)袱紗(ふくさ)に包(つつ)んで持(も)って来(き)ました。あたしの遣(つか)いふるしでござんすが、この紅筆(べにふで)は、お前(まえ)が王子(おうじ)を越(こ)す時(とき)に、あたしにおくんなすった。今では形見(かたみ)。役者衆(やくしゃしゅう)の、お前(まえ)のお気(き)に入(い)るように出来(でき)ますまいけれど、辛抱(しんぼう)しておくんなさい。せめてもの、あたしの心(こころ)づくしでござんす」
 北(きた)を枕(まくら)に、静(しず)かに眼(め)を閉(と)じている菊之丞(きくのじょう)の、女(おんな)にもみまほしいまでに美(うつく)しく澄(す)んだ顔(かお)は、磁器(じき)の肌(はだ)のように冷(つめ)たかった。
 白粉刷毛(おしろいばけ)を持(も)ったおせんの手(て)は、名匠(めいしょう)が毛描(けが)きでもするように、その上(うえ)を丹念(たんねん)になぞって行(い)った。
 眼(め)、口(くち)、耳(みみ)。――真白(まっしろ)に塗(ぬ)りつぶされたそれらのかたちが、間(ま)もなく濡手拭(ぬれてぬぐい)で、おもむろにふき清(きよ)められると、やがて唇(くちびる)には真紅(しんく)のべにがさされて、菊之丞(きくのじょう)の顔(かお)は今(いま)にも物(もの)をいうかと怪(あや)しまれるまでに、生々(いきいき)と蘇(よみがえ)った。
 おせんは、じッとその顔(かお)に見入(みい)った。
「吉(きち)ちゃん。――もし、吉(きち)ちゃん」
 次第(しだい)におせんの声(こえ)は、高(たか)かった。呼(よ)べば答(こた)えるかと思(おも)われる口許(くちもと)は、心(こころ)なしか、寂(さび)しくふるえて見(み)えた。
「――あたしゃ、これから先(さき)も、きっとおまえと一緒(しょ)に、生(い)きて行(ゆ)くでござんしょう。おまえもどうぞ、魂(たましい)だけはいつまでも、あたしの傍(そば)にいておくんなさい。あたしゃ千人(にん)万人(まんにん)の人(ひと)からいい寄(よ)られても、死(し)ぬまで動(うご)きはいたしませぬ。――もし、吉(きち)ちゃん。……」
 ぽたりと落(お)ちたおせんの涙(なみだ)は、菊之丞(きくのじょう)の頬(ほほ)をぬらした。
「これはまァ折角(せっかく)お化粧(けしょう)したお顔(かお)へ。……」
 おせんはもう一度(ど)、白粉刷毛(おしろいばけ)を手(て)に把(と)った。と、次(つぎ)の間(ま)から聞(きこ)えて来(き)たのは、妻女(さいじょ)のおむらの声(こえ)だった。
「おせんさん」
「は、はい。――」
「お焼香(しょうこう)のお客様(きゃくさま)がお見(み)えでござんす。よろしかったら、お通(とお)し申(もう)します」
「はい、どうぞ。――」
 あわてて枕許(まくらもと)から引(ひ)き下(さ)がったおせんの眼(め)に、夜叉(やしゃ)の如(ごと)くに映(うつ)ったのは、本多信濃守(ほんだしなののかみ)の妹(いもうと)お蓮(れん)の剥(は)げるばかりに厚化粧(あつげしょう)をした姿(すがた)だった。

 おせん (おわり)




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