おせん
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著者名:邦枝完二 

おめえ、兄貴(あにき)を見殺(みごろ)しにするつもりか」
「何(な)んとえ」
「おめえがいやだとかぶりを振(ふ)りゃァ、おいらは人(ひと)から預(あず)かった、大事(だいじ)な金(かね)を落(お)としたかどで、いやでも明日(あした)は棒縛(ぼうしば)りだ。――そいつもよかろう。おめえはかげで笑(わら)っていねえ」
「兄(あに)さん」
「もう何(な)んにも頼(たの)まねえ。これから帰(けえ)って縛(しば)られようよ」
 千吉(きち)は、わざとやけに立上(たちあが)って窓辺(まどべ)へつかつかと歩(あゆ)み寄(よ)った。
 突然(とつぜん)隣座敷(となりざしき)から、お岸(きし)のすすり泣(な)く声(こえ)が、障子越(しょうじご)しに聞(きこ)えて来(き)た。

  文(ふみ)


    一

「若旦那(わかだんな)、もし、油町(あぶらちょう)の若旦那(わかだんな)」
「おお、お前(まえ)は千吉(きち)つぁん」
「そんなに急(いそ)いで、どこへおいでなせえやす」
「お前(まえ)のとこさ」
「何、あっしンとこでげすッて。――あっしンとこなんざ、若旦那(わかだんな)においでを願(ねが)うような、そんな気(き)の利(き)いた住居(すまい)じゃござんせん。火口箱(ほくちばこ)みてえな、ちっぽけな棟割長屋(むねわりながや)なんで。……」
「小(ちい)さかろうが、大(おお)きかろうが、そんなことは考(かんが)えちゃいられないよ」
「何(な)んと仰(おっ)しゃいます」
「あたしゃお前(まえ)に頼(たの)んだ返事(へんじ)を、聞(き)かせてもらいに、往(ゆ)くところじゃないか」
「はッはッは。それでわざわざお運(はこ)び下(くだ)さろうッてんでげすか。これぁどうも恐(おそ)れいりやした。そのことなら、どうかもう御心配(ごしんぱい)は、御無用(ごむよう)になすっておくんなさいまし」
「おお、そんなら千吉(きち)さん、おせんの返事(へんじ)を。――」
「憚(はばか)りながら、いったんお引(ひき)受(う)け申(もう)しやした正直(しょうじき)千吉(きち)、お約束(やくそく)を違(たが)えるようなこたァいたしやせん」
「済(す)まない。あたしはそうとは思(おも)っていたものの、これがやっぱり恋心(こいごころ)か。ちっとも速(はや)く返事(へんじ)が聞(き)き度(た)くて、帳場格子(ちょうばこうし)と二階(かい)の間(あいだ)を、九十九度(ど)も通(かよ)った挙句(あげく)、とうとう辛抱(しんぼう)が出来(でき)なくなったばっかりに、ここまで出向(でむ)いて来(き)た始末(しまつ)さ。そうと極(きま)ったら、どうか直(す)ぐに色(いろ)よい返事(へんじ)を聞(き)かせておくれ」
「ま、ま、待(ま)っておくんなせえやし。そんなにお急(せき)ンならねえでも、おせんの返事(へんじ)は、直(す)ぐさまお聞(き)かせ申(もう)しやすが、ここは道端(みちばた)、誰(だれ)に見(み)られねえとも限(かぎ)りやせん。筋(すじ)の通(とお)ったいい所(ところ)で、ゆっくりお目(め)にかけようじゃござんせんか」
「そりゃもう、いずれおまんまでも食(た)べながら、ゆっくり見(み)せてもらおうが、まず文(ふみ)の上書(うわがき)だけでも、ここでちょいと、のぞかせておくれでないか」
「御安心(ごあんしん)くださいまし。上書(うわがき)なんざ二の次(つぎ)三の次(つぎ)、中味(なかみ)から封(ふう)じ目(め)まで、おせんの手(て)に相違(そうい)はございません。あいつァ七八つの時分(じぶん)から、手習(てならい)ッ子(こ)の仲間(なかま)でも、一といって二と下(さが)ったことのねえ手筋自慢(てすじじまん)。あっしゃァ質屋(しちや)の質(しち)の字(じ)と、万金丹(まんきんたん)の丹(たん)の字(じ)だけしきゃ書(か)けやせんが、おせんは若旦那(わかだんな)のお名前(なまえ)まで、ちゃァんと四角(かく)い字(じ)で書(か)けようという、水茶屋女(みずぢゃやおんな)にゃ惜(お)しいくらいの立派(りっぱ)な手書(てが)き。――この通(とお)り、あっしがふところに預(あず)かっておりやすから、どうか親船(おやぶね)に乗(の)った気(き)で、おいでなすっておくんなせえやし」
「安心(あんしん)はしているけれど、ちっとも速(はや)く見(み)たいのが人情(にんじょう)じゃないか。野暮(やぼ)をいわずに、ちょいとでいいから、ここでお見(み)せよ」
「堪忍(かんにん)しておくんなさい。道(みち)ッ端(ぱた)ではお目(め)にかけねえようにと、こいつァ妹(いもうと)からの、堅(かた)い頼(たの)みでござんすので。……」
「はてまァ、何(な)んという野暮(やぼ)だろうのう」
「どうか察(さっ)しておやンなすって。おせんにして見(み)りゃ、自分(じぶん)から文(ふみ)を書(か)いたな始(はじ)めての、いわば初恋(はつこい)とでも申(もう)しやしょうか。はずかしい上(うえ)にもはずかしいのが人情(にんじょう)でげしょう。道(みち)ッ端(ぱた)で展(ひろ)げたとこを、ひょっと誰(だれ)かに見(み)られた日(ひ)にゃァ、それこそ若旦那(わかだんな)、気(き)の弱(よわ)いおせんは、どんなことになるか、知(し)れたもんじゃござんせん。野暮(やぼ)は承知(しょうち)の上(うえ)でござんす。どうか、ここンところをお察(さっ)しなすって……」
 谷中(やなか)から上野(うえの)へ抜(ぬ)ける、寛永寺(かんえいじ)の土塀(どべい)に沿(そ)った一筋道(すじみち)、光琳(こうりん)の絵(え)のような桜(さくら)の若葉(わかば)が、道(みち)に敷(し)かれたまん中(なか)に佇(たたず)んだ、若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)とおせんの兄(あに)の千吉(きち)とは、折(おり)からの夕陽(ゆうひ)を浴(あ)びて、色(いろ)よい返事(へんじ)を認(したた)めたおせんの文(ふみ)を、見(み)せろ見(み)せないのいさかいに、しばし心(こころ)を乱(みだ)していたが、この上(うえ)の争(あらそ)いは無駄(むだ)と察(さっ)したのであろう。やがて徳太郎(とくたろう)は細(ほそ)い首(くび)をすくめた。
「あたしゃ気(き)が短(みじか)いから、どこへ行(ゆ)くにしても、とても歩(ある)いちゃ行(い)かれない。千吉(きち)つぁん、直(す)ぐに駕籠(かご)を呼(よ)んでもらおうじゃないか」
「合点(がってん)でげす」
 千吉(きち)は二(ふた)つ返事(へんじ)で頷(うなず)いた。

    二

 徳太郎(とくたろう)と千吉(きち)とが、不忍池畔(しのばずちはん)の春草亭(しゅんそうてい)に駕籠(かご)を停(と)めたのは、それから間(ま)もない後(あと)だった。
 徳太郎(とくたろう)は女中(じょちゅう)の案内(あんない)も待(ま)たず、駆(か)け込(こ)むように千吉(きち)の手(て)をとって、奥(おく)の座敷(ざしき)へ連(つ)れ込(こ)んだ。
「さ、千吉(きち)さん」
「へえ」
「早(はや)くお見(み)せ」
「何(なに)をでござんす」
「おや、何(なに)をはあるまい。おせんのふみじゃないか」
「おそうだ。これはすっかり忘(わす)れて居(お)りやした」
「お前(まえ)は道端(みちばた)じゃ見(み)せられないというから、わざわざ駕籠(かご)を急(いそ)がせて、ここまで来(き)たんだよ。さ大事(だいじ)な文(ふみ)を、少(すこ)しでも速(はや)く見(み)せてもらいましょう」
「お見(み)せいたしやす」
「口(くち)ばっかりでなく、速(はや)くお出(だ)しッたら」
「出(だ)しやす。――が、ちょいとお待(ま)ちなすっておくんなさい。その前(まえ)に、あっしゃァ若旦那(わかだんな)に、ひとつお願(ねが)い申(もう)してえことがござんすので。……」
「何(な)んだえ、あらたまって。――」
「実(じつ)ァその、おせんの奴(やつ)から。……」
「なに、おせんから、あたしに頼(たの)みとの」
「へえ」
「そんならなぜ、もっと早(はや)くいわないのさ」
「申上(もうしあ)げたいのは山々(やまやま)でござんすが、ちと厚(あつ)かましい筋(すじ)だもんでげすから、ついその、あっしの口(くち)からも、申上(もうしあ)げにくかったような訳(わけ)でげして」
「馬鹿(ばか)な。つまらない遠慮(えんりょ)なんか、水臭(みずくさ)いじゃないか。そんな遠慮(えんりょ)はいらないから、いっとくれ。あたしでかなうことなら、どんな願(ねが)いでも、きっと聞(き)いてあげようから。……」
「そりゃどうも。おせんに聞(き)かしてやりましたら、どれ程(ほど)喜(よろこ)ぶか知(し)れやァしません。――ところで若旦那(わかだんな)」
「なにさ」
「そのお願(ねが)いと申(もう)しますのは」
「その頼(たの)みとは」
「お金(かね)を。――」
「何(な)んのことかと思(おも)ったら、お金(かね)かい。憚(はばか)りながら、あたしァ江戸(えど)でも人様(ひとさま)に知(し)られた、橘屋(たちばなや)の徳太郎(とくたろう)、おせんの頼(たの)みとあれば、決(けっ)していやとはいわないから、かまわずにいって御覧(ごらん)。たとえどれ程(ほど)の大金(たいきん)でも、あれのためなら、首(くび)は横(よこ)にゃ振(ふ)らないつもりだよ」
「へえへえ、どうも恐(おそれ)れいりやした。いやもう、おせん、おめえよく捕(と)ったぞ。これ程(ほど)の鼠(ねずみ)たァ、まさか思(おも)っちゃ。……」
「これ千吉(きち)つぁん、何(なに)をおいいだ。あたしのことを鼠(ねずみ)とは。……」
「ど、どういたしやして、鼠(ねずみ)なんぞた申(もう)しゃしません。若旦那(わかだんな)にはこれからも、鼠(ぬずみ)のように、チウ義(ぎ)をおつくし申(もう)せと、こう申(もう)したのでございます」
「お前(まえ)は口(くち)が上手(じょうず)だから。……」
「口(くち)はからきし下手(へた)の皮(かわ)、人様(ひとさま)の前(まえ)へ出(で)たら、ろくにおしゃべりも出来(でき)る男(おとこ)じゃござんせんが、若旦那(わかだんな)だけは、どうやら赤(あか)の他人(たにん)とは思(おも)われず、ついへらへらとお喋(しゃべ)りもいたしやす。――ねえ若旦那(わかだんな)。どうかおせんに、二十五両(りょう)だけ、貸(か)してやっておくんなせえやし」
「何(なに)、二十五両(りょう)。――」
「江戸(えど)で名代(なだい)の橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)。二十五両(りょう)は、ほんのお小遣(こづかい)じゃござんせんか」
 千吉(きち)はそういいながら、ふところ深(ふか)くひそませた、おせんのふみを取(と)りだした。
   ありがたく存(ぞん)じ候(そうろう) かしこ
           せん  より
 若旦那(わかだんな)さま
 ふみのおもては、ただこれだけだった。

    三

 朝(あさ)っぱらの柳湯(やなぎゆ)は、町内(ちょうない)の若(わか)い者(もの)と、楊枝削(ようじけず)りの御家人(ごけにん)と道楽者(どうらくもの)の朝帰(あさがえ)りとが、威勢(いせい)のよしあしを取(とり)まぜて、柘榴口(ざくろぐち)の内(うち)と外(そと)とにとぐろを巻(ま)いたひと時(とき)の、辱(はじ)も外聞(がいぶん)もない、手拭(てぬぐい)一本(ぽん)の裸絵巻(はだかえまき)を展(ひろ)げていたが、こんな場合(ばあい)、誰(だれ)の口(くち)からも同(おな)じように吐(は)かれるのは、何吉(なにきち)がどこの賭場(とば)で勝(か)ったとか、どこそこのお何(なに)が、近頃(ちかごろ)誰(だれ)にのぼせているとか、さもなければ芝居(しばい)の噂(うわさ)、吉原(よしわら)の出来事(できごと)、観音様(かんのんさま)の茶屋女(ちゃやおんな)の身(み)の上(うえ)など、おそらく口(くち)を開(ひら)けば、一様(よう)におのれの物知(ものし)りを、少(すこ)しも速(はや)く人(ひと)に聞(き)かせたいとの自慢(じまん)からであろう。玉(たま)のような汗(あせ)を額(ひたい)にためながら、いずれもいい気持(きもち)でしゃべり続(つづ)ける面白(おもしろ)さ。中(なか)には、顔(かお)さえ洗(あら)やもう用(よう)はねえと、流(なが)しのまん中(なか)に頑張(がんば)って、四斗樽(とだる)のような体(からだ)を、あっちへ曲(ま)げ、こっちへ伸(のば)して、隣近所(となりきんじょ)へ泡(あわ)を飛(と)ばす暇(ひま)な隠居(いんきょ)や、膏薬(こうやく)だらけの背中(せなか)を見(み)せて、弘法灸(こうぼうきゅう)の効能(こうのう)を、相手(あいて)構(かま)わず吹(ふ)き散(ちら)す半病人(はんびょうにん)もある有様(ありさま)。湯屋(ゆや)は朝(あさ)から寄合所(よりあいしょ)のように賑(にぎ)わいを見(み)せていた。
「長兄(ちょうあに)イ。聞(き)いたか」
「何(なに)を」
「何(なに)をじゃねえ、千吉(きち)がしこたま儲(もう)けたッて話(はなし)をよ」
「うんにゃ。聞(き)かねえよ」
「迂濶(うかつ)だな」
「だっておめえ、知(し)らねえもなァ仕方(しかた)がねえや。――いってえ、あの怠(なま)け者(もの)が、どこでそんなに儲(もう)けやがったたんだ」
「どこッたっておめえ、そいつが、てえそうないかさまなんだぜ」
「ふうん、奴(やつ)にそんな器用(きよう)なことが出来(でき)るのかい」
「相手(あいて)がいいんだ」
「椋鳥(むくどり)か」
「ちゃきちゃきの江戸(えど)っ子(こ)よ」
「はァてな、江戸(えど)っ子(こ)が、奴(やつ)のいかさまに引(ひ)ッかかるたァおかしいじゃねえか」
「いかさまッたって、おめえ、丁半(ちょうはん)じゃねえぜ」
「ほう、さいころじゃねえのかい」
「女(おんな)が餌(えさ)だ」
「女(おんな)。――」
「相手(あいて)を釣(つ)って儲(もう)けたのよ」
「そいつァ尚更(なおさら)初耳(はつみみ)だ。――その相手(あいて)ッてな、どこの誰(だれ)よ」
「油町(あぶらちょう)の紙問屋(かみどんや)、橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)だ」
「ほう、そいつァおもしれえ」
「あれだ。おもしれえは気(き)の毒(どく)だぜ。千吉(きち)は妹(いもうと)のおせんを餌(えさ)にして、若旦那(わかだんな)から、二十五両(りょう)という大金(たいきん)をせしめやがったんだ」
「なに二十五両(りょう)だって」
「どうだ。てえしたもんだろう」
「冗談(じょうだん)じゃねえ。二十五両(りょう)といやァ、小判(こばん)が二十五枚(まい)だぜ。こいつが二両(りょう)とか、二両(りょう)二分(ぶ)とかいうンなら、まだしも話(はなし)の筋(すじ)が通(とお)るが、二十五両(りょう)は飛(と)んでもねえ。あいつの首(くび)を引換(ひきかえ)にしたって、借(か)りられる金(かね)じゃァねえぜ。冗談(じょうだん)も休(やす)み休(やす)みいってくんねえ」
「ふん、知(し)らねえッてもなァおッかねえや。おいらァ現(げん)にたった今(いま)、この二つの眼(め)で、睨(にら)んで来(き)たばかりなんだ。山吹色(やまぶきいろ)で二十五枚(まい)、滅多(めった)に見(み)られるかさじゃァねえて」
「ふふふふ、金(きん)の字(じ)。その話(はなし)をもうちっと委(くわ)しく聞(き)かせねえか」
 そういいながら、柘榴口(ざくろぐち)から、にゅッと首(くび)を出(だ)したのは、絵師(えし)の春重(はるしげ)だった。
「春重(はるしげ)さん、お前(まえ)さんいたのかい」
「いたから顔(かお)を出(だ)したんだがの。大分(だいぶ)話(はなし)が面白(おもしろ)そうじゃねえか」
 春重(はるしげ)は、もう一度(ど)ニヤリと笑(わら)った。

    四

「ふふふふ、金(きん)の字(じ)、なんで急(きゅう)に唖(おし)のように黙(だま)り込(こ)んじゃったんだ。話(はな)して聞(き)かせねえな。どうせおめえの腹(はら)が痛(いた)む訳(わけ)でもあるめえしよ」
 柘榴口(ざくろぐち)から流(なが)しへ出(で)て来(き)た春重(はるしげ)の様子(ようす)には、いつも通(とお)りの、妙(みょう)な粘(ねば)りッ気(け)が絡(から)みついていて、傘屋(かさや)の金蔵(きんぞう)の心持(こころもち)を、ぞッとする程(ほど)暗(くら)くさせずにはおかなかった。
「てえした面白(おもしれ)え話(はなし)でもねえからよ」
「なに面白(おもしろ)くねえことがあるもんか。二十五両(りょう)といやァ、おいらのような貧乏人(びんぼうにん)は、まごまごすると、生涯(しょうがい)お目(め)にゃぶら下(さ)がれない大金(たいきん)だぜ。そいつをいかさまだかさかさまだかにつるさげて、物(もの)にしたと聞(き)いちゃァ、志道軒(しどうけん)の講釈(こうしゃく)じゃねえが、嘘(うそ)にも先(さき)を聞(き)かねえじゃいられねえからの。――相手(あいて)が橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)だったてえな、ほんまかい」
「おめえさん、それを聞(き)いてどうしようッてんだ」
 顔(かお)をしかめて、春重(はるしげ)を見守(みまも)ったのは、金蔵(きんぞう)に兄(あに)イと呼(よ)ばれた左官(さかん)の長吉(ちょうきち)であった。
「どうもしやァしねえがの。そいつがほんまなら、おいらもちっとばかり、若旦那(わかだんな)に借(か)りてえと思(おも)ってよ」
「若旦那(わかだんな)に借(か)りるッて」
「まずのう。だが安心(あんしん)しなよ。おいらの借りようッてな、二十五両(りょう)の三十両(りょう)のという、大(だい)それた訳(わけ)のもんじゃねえ。ほんの二分(ぶ)か一両(りょう)が関(せき)の山(やま)だ。それも種(たね)や仕(し)かけで取(と)るようなけちなこたァしやァしねえ。真証(しんしょう)間違(まちが)いなしの、立派(りっぱ)な品物(しなもの)を持(も)ってって、若旦那(わかだんな)の喜(よろこ)ぶ顔(かお)を見(み)ながら、拝借(はいしゃく)に及(およ)ぼうッてんだ」
「そいつァ駄目(だめ)だ」
「なんだって」
「駄目(だめ)ッてことよ。橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)は、たとえお大名(だいみょう)から拝領(はいりょう)の鎧兜(よろいかぶと)を持(も)ってッたって、金(かね)ァ貸しちゃァくれめえよ。――あの人(ひと)の欲(ほ)しい物(もの)ァ、日本中(にほんじゅう)にたったひとつ、笠森(かさもり)おせんの情(なさけ)より外(ほか)にゃ、ありゃァしねッてこった」
「だから、そのおせんの、身(み)から分(わ)けた物(もの)を、おいらァ買(か)ってもらいに行(い)こうッてえのよ」
「身(み)から分(わ)けた物(もの)。――」
「そうだ。他(ほか)の者(もの)が望(のぞ)んだら、百両(りょう)でも譲(ゆず)れる品(しな)じゃねえんだが、相手(あいて)がおせんに首(くび)ッたけの若旦那(わかだんな)だから、まず一両(りょう)がとこで辛抱(しんぼう)してやろうと思(おも)ってるんだ」
「春重(はるしげ)さん。またお前(まえ)、つまらねえ細工物(さいくもの)でもこしらえたんだな」
「冗談(じょうだん)じゃねえ、こしらえたもンなんぞた、天(てん)から訳(わけ)が違うンだぜ」
「訳(わけ)が違(ちが)うッたって、そんな物(もの)がざらにあろうはずもなかろうじゃねえか」
「ところが、あるんだから面白(おもしれ)えや」
「そいつァいってえ、なんだってんだい」
「爪(つめ)よ」
「え」
「爪(つめ)だってことよ」
「爪(つめ)」
「その通(とお)りだ。おせんの身(み)についてた、嘘偽(うそいつわ)りのねえ生爪(なまづめ)なんだ」
「馬(ば)、馬鹿(ばか)にしちゃァいけねえ。いくらおせんの物(もの)だからッて、爪(つめ)なんざ、何(な)んの役(やく)にもたちゃァしねえや。かつぐのもいい加減(かげん)にしてくんねえ」
「ふん、物(もの)の値打(ねうち)のわからねえ奴(やつ)にゃかなわねえの。女(おんな)の身体(からだ)についてるもんで、年(ねん)が年中(ねんじゅう)、休(やす)みなしに伸(の)びてるもなァ、髪(かみ)の毛(け)と爪(つめ)だけだぜ。そのうちでも爪(つめ)の方(ほう)は、三日(みっか)見(み)なけりゃ目立(めだ)って伸(の)びる代物(しろもの)だ。――指(ゆび)の数(かず)で三百本(ぽん)、糠袋(ぬかぶくろ)に入(い)れてざっと半分(はんぶん)よ。この混(ま)じりッけのねえおせんの爪(つめ)が、たった小判(こばん)一枚(まい)だとなりゃ、若旦那(わかだんな)が猫(ねこ)のように飛(と)びつくなァ、磨(と)ぎたての鏡(かがみ)でおのが面(つら)を見(み)るより、はっきりしてるぜ」
 春重(はるしげ)のまわりには、いつか、ぐるりと裸(はだか)の人垣(ひとがき)が出来(でき)ていた。

    五

「千の字(じ)。おめえ、いい腕(うで)ンなったの」
「ふふふ」
「笑(わら)いごっちゃねえぜ。二十五両(りょう)たァ、大束(おおたば)に儲(もう)けたじゃねえか」
「どこで、そいつを聞(き)いた」
「壁(かべ)に耳(みみ)ありよ。さっき、通(とお)りがかりに飛(と)び込(こ)んだ神田(かんだ)の湯屋(ゆや)で、傘屋(かさや)の金蔵(きんぞう)とかいう奴(やつ)が、てめえのことのように、自慢(じまん)らしく、みんなに話(はな)して聞(き)かせてたんだ」
「あいつ、もうそんな余計(よけい)なことを喋(しゃべ)りゃがったかい」
「喋(しゃべ)ったの、喋(しゃべ)らねえの段(だん)じゃねえや。紙屋(かみや)の若旦那(わかだんな)をまるめ込(こ)んで。――」
 下総武蔵(しもふさむさし)の国境(くにざかい)だという、両国橋(りょうごくばし)のまん中(なか)で、ぼんやり橋桁(はしげた)にもたれたまま、薄汚(うすぎたな)い婆(ばあ)さんが一匹(ぴき)五文(もん)で売(う)っている、放(はな)し亀(かめ)の首(くび)の動(うご)きを見詰(みつ)めていた千吉(きち)は、通(とお)りがかりの細川(ほそかわ)の厩中間(うまやちゅうげん)竹(たけ)五郎(ろう)に、ぽんと背中(せなか)をたたかれて、立(た)て続(つづ)けに聞(き)かされたのが、柳湯(やなぎゆ)で、金蔵(きんぞう)がしゃべったという、橘屋(たちばなや)の一件(けん)であった。
 が、もう一度(ど)竹(たけ)五郎(ろう)が、鼻(はな)の頭(あたま)を引(ひ)ッこすって、ニヤリと笑(わら)ったその刹那(せつな)、向(むこ)うから来(き)かかった、八丁堀(ちょうぼり)の与力(よりき)井上藤吉(いのうえとうきち)の用(よう)を聞(き)いている鬼(おに)七を認(みと)めた千吉(きち)は、素速(すばや)く相手(あいて)を眼(め)で制(せい)した。
「叱(し)ッ。いけねえ。行(い)っちめえねえ」
「合点(がってん)だ」
 するりと抜(ぬ)けるようにして、竹(たけ)五郎(ろう)が行(い)ってしまうと、はやくも鬼(おに)七は、千吉(きち)の眼(め)の前(まえ)に迫(せま)っていた。
「千吉(きち)。おめえ、こんなとこで、何(なに)をうろうろしてるんだ」
「へえ。きょうは親父(おやじ)の、墓詣(はかめえ)りにめえりやした。その帰(けえ)りがけでござんして。……」
「墓詣(はかまい)り」
「へえ」
「いつッから、そんな心(こころ)がけになったんだ」
「どうか御勘弁(ごかんべん)を」
「勘弁(かんべん)はいいが、――丁度(ちょうど)いい所(ところ)でおめえに遭(あ)った。ちっとばかり訊(き)きてえことがあるから、つきあってくんねえ」
「へえ」
「びくびくするこたァありゃしねえ。こいつあこっちから頼(たの)むんだから、安心(あんしん)してついて来(き)ねえ」
 鬼(おに)七と呼ばれてはいるが、名前(なまえ)とはまったく違(ちが)った、すっきりとした男前(おとこまえ)の、結(ゆ)いたての髷(まげ)を川風(かわかぜ)に吹(ふ)かせた格好(かっこう)は、如何(いか)にも颯爽(さっそう)としていた。
 折柄(おりから)の上潮(あげしお)に、漫々(まんまん)たる秋(あき)の水(みず)をたたえた隅田川(すみだがわ)は、眼(め)のゆく限(かぎ)り、遠(とお)く筑波山(つくばやま)の麓(ふもと)まで続(つづ)くかと思(おも)われるまでに澄渡(すみわた)って、綾瀬(あやせ)から千住(じゅ)を指(さ)して遡(さかのぼ)る真帆方帆(まほかたほ)が、黙々(もくもく)と千鳥(ちどり)のように川幅(かわはば)を縫(ぬ)っていた。
 その絵巻(えまき)を展(ひろ)げた川筋(かわすじ)の景色(けしき)を、見(み)るともなく横目(よこめ)で見(み)ながら、千吉(きち)と鬼(おに)七は肩(かた)をならべて、静(しず)かに橋(はし)の上(うえ)を浅草御門(あさくさごもん)の方(ほう)へと歩(あゆ)みを運(はこ)んだ。
「千吉(きち)、おめえ、おせんのところへは出(で)かけたろうの」
「どういたしやして。妹(いもうと)にゃ、三年(ねん)この方(かた)、てんで会(あ)やァいたしません」
「ふふふ。つまらねえ隠(かく)し立(だ)ては止(や)めねえか。いまもいった通(とお)り、おいらァおめえを、洗(あら)い立(た)てるッてんじゃねえ。こっちの用(よう)で訊(き)きてえことがあるんだ。悪(わる)いようにゃしねえから、はっきり聞(き)かしてくんねえ」
「どんな御用(ごよう)で。……」
「おせんのとこへ、菊之丞(はまむらや)が毎晩(まいばん)通(かよ)うッて噂(うわさ)を聞(き)き込(こ)んだんだが、そいつをおめえは知(し)ってるだろうの」
 こう訊(き)きながら、鬼(おに)七の眼(め)は異様(いよう)に光(ひか)った。

    六

 鬼(おに)七の問(とい)は、まったく千吉(きち)には思(おも)いがけないことであった。――子供(こども)の時分(じぶん)から好(す)きでこそあれ、嫌(きら)いではない菊之丞(きくのじょう)を、おせんがどれ程(ほど)思(おも)い詰(つ)めているかは、いわずと知(し)れているものの、今(いま)では江戸(えど)一番(ばん)の女形(おやま)といわれている菊之丞(きくのじょう)が、自分(じぶん)からおせんの許(もと)へ、それも毎晩(まいばん)通(かよ)って来(き)ようなぞとは、どこから出(で)た噂(うわさ)であろう。岡焼半分(おかやきはんぶん)の悪刷(わるずり)にしても、あんまり話(はなし)が食(く)い違(ちが)い過(す)ぎると、千吉(きち)は思(おも)わず鬼(おに)七の顔(かお)を見返(みかえ)した。
「何(な)んで、そんな不審(ふしん)そうな顔(かお)をするんだ」
「何(な)んでと仰(おっ)しゃいますが、あんまり親方(おやかた)のお聞(き)きなさることが、解(げ)せねえもんでござんすから。……」
「おいらの訊(き)くことが解(げ)せねえッて。――何(なに)が解(げ)せねえんだ」
「浜村屋(はまむらや)は、おせんのところへなんざ、命(いのち)を懸(か)けて頼(たの)んだって、通(かよ)っちゃくれませんや」
「おめえ、まだ隠(かく)してるな」
「どういたしやして、嘘(うそ)も隠(かく)しもありゃァしません。みんなほんまのことを申(もうし)上(あ)げて居(お)りやすんで。……」
「千吉(きち)」
「へ」
「おめえ、二三日前(にちまえ)に行(い)った時(とき)、おせんが誰(だれ)と話(はなし)をしてえたか、そいつをいって見(み)ねえ」
「話(はなし)でげすって」
「そうだ。おせん一人(ひとり)じゃなかったろう。たしか相手(あいて)がいたはずだ」
「お袋(ふくろ)が、隣座敷(となりざしき)にいた外(ほか)にゃ、これぞといって、人(ひと)らしい者(もの)ァいやァいたしません」
「ふふふ、お七はいなかったか」
「お七ッ」
「どうだ、お七の衣装(いしょう)を着(き)た浜村屋(はまむらや)が、ちゃァんと一人(ひとり)いたはずだ。おめえはその眼(め)で見(み)たじゃねえか」
「ありゃァ親方(おやかた)。――」
「あれもこれもありゃァしねえ。おいらはそいつを訊(き)いてるんだ」
「人形(にんぎょう)じゃござんせんか」
「とぼけちゃいけねえ。人間(にんげん)を人形(にんぎょう)と見違(みちが)える程(ほど)、鬼(おに)七ァまだ耄碌(もうろく)しちゃァいねえよ。ありゃァ菊之丞(きくのじょう)に違(ちげ)えあるめえ」
「確(たしか)にそうたァ申上(もうしあげ)られねえんで。……」
「おめえ、眼(め)が上(あが)ったな。判(わか)った。――もういいから帰(けえ)ンな」
「有難(ありがと)うござんすが、――親方(おやかた)、あれがもしか浜村屋(はまむらや)だったら、どうなせえやすんで。……」
「どうもしやァしねえ」
「どうもしねンなら、何(なに)も。――」
「聞(き)きてえか」
「どうか、お聞(き)かせなすっておくんなせえやし」
「浜村屋(はまむらや)は、役者(やくしゃ)を止(や)めざァならねえんだ」
「何(な)んでげすッて」
「口(くち)が裂(さ)けてもいうじゃァねえぞ。――南御町奉行(みなみおまちぶぎょう)の、信濃守様(しなののかみさま)の妹御(いもうとご)のお蓮様(れんさま)は、浜村屋(はまむらや)の日本(にほん)一の御贔屓(ごひいき)なんだ」
「ではあの、壱岐様(いきさま)からのお出戻(でもど)りの。――」
「叱(し)っ。余計(よけい)なこたァいっちゃならねえ」
「へえ」
「さ、帰(けえ)ンねえ」
「有難(ありがと)うござんす」
 千吉(きち)は、ふところの小判(こばん)を気(き)にしながら、ほっとして頭(あたま)を下(さ)げた。
 襟(えり)に当(あた)る秋(あき)の陽(ひ)は狐色(きつねいろ)に輝(かがや)いていた。

    七

 無理(むり)やりに、手習(てなら)いッ子(こ)に筆(ふで)を握(にぎ)らせるようにして、たった二行(ぎょう)の文(ふみ)ではあったが、いや応(おう)なしに書(か)かされた、ありがたく存(ぞん)じ候(そうろう)かしこの十一文字(もじ)が気(き)になるままに、一夜(や)をまんじりともしなかったおせんは、茶(ちゃ)の味(あじ)もいつものようにさわやかでなく、まだ小半時(こはんとき)も早(はや)い、明(あ)けたばかりの日差(ひざし)の中(なか)を駕籠(かご)に揺(ゆ)られながら、白壁町(しろかべちょう)の春信(はるのぶ)の許(もと)を訪(おとず)れたのであった。
 弟子(でし)の藤吉(とうきち)から、おせんが来(き)たとの知(し)らせを聞(き)いた春信(はるのぶ)は、起(お)き出(で)たばかりで顔(かお)も洗(あら)っていなかったが、とりあえず画室(がしつ)へ通(とお)して、磁器(じき)の肌(はだ)のように澄(す)んだおせんの顔(かお)を、じっと見詰(みつ)めた。
「大(たい)そう早(はや)いの」
「はい。少(すこ)しばかり思(おも)い余(あま)ったことがござんして、お智恵(ちえ)を拝借(はいしゃく)に伺(うかが)いました」
「智恵(ちえ)を貸(か)せとな。はッはッは。これは面白(おもしろ)い。智恵(ちえ)はわたしよりお前(まえ)の方(ほう)が多分(たぶん)に持合(もちあわ)せているはずだがの」
「まァお師匠(ししょう)さん」
「いや、それァ冗談(じょうだん)だが、いったいどんなことが持上(もちあが)ったといいなさるんだ」
「あのう、いつもお話(はな)しいたします兄(あに)が、ゆうべひょっこり、帰(かえ)って来(き)たのでござんす」
「なに、兄(にい)さんが帰(かえ)って来(き)たと」
「はい」
「よく聞(き)くお前(まえ)の話(はなし)では、千吉(きち)とやらいう兄(にい)さんは、まる三年(ねん)も行方(ゆくえ)知(し)れずになっていたとか。――それがまた、どうして急(きゅう)に。――」
「面目次第(めんぼくしだい)もござんせぬが、兄(にい)さんは、お宝(たから)が欲(ほ)しいばっかりに、帰(かえ)って来(き)たのだと、自分(じぶん)の口(くち)からいってでござんす」
「金(かね)が欲(ほ)しいとの。したがまさか、お前(まえ)を分限者(ぶげんじゃ)だとは思(おも)うまいがの」
「兄(にい)さんは、あたしを囮(おとり)にして、よその若旦那(わかだんな)から、お金(かね)をお借(か)り申(もう)したのでござんす」
「ほう、何(な)んとして借(か)りた」
「いやがるあたしに文(ふみ)を書(か)かせ、その文(ふみ)を、二十五両(りょう)に、買(か)っておもらい申(もう)すのだと、引(ひ)ッたくるようにして、どこぞへ消(き)え失(う)せましたが、そのお人(ひと)は誰(だれ)あろう、通油町(とおりあぶらちょう)の、橘屋(たちばなや)の徳太郎(とくたろう)さんという、虫(むし)ずが走(はし)るくらい、好(す)かないお方(かた)でござんす」
「そんなら千吉(きち)さんは、橘屋(たちばなや)の徳(とく)さんから、その金(かね)を借(か)りて。――」
「はい。今頃(いまごろ)はおおかた、どこぞお大名屋敷(だいみょうやしき)のお厩(うまや)で、好(す)きな勝負(しょうぶ)をしてでござんしょうが、文(ふみ)を御覧(ごらん)なすった若旦那(わかだんな)が、まッことあたしからのお願(ねが)いとお思(おも)いなされて、大枚(たいまい)のお宝(たから)をお貸(か)し下(くだ)さいましたら、これから先(さき)あたしゃ若旦那(わかだんな)から、どのような難題(なんだい)をいわれても、返(かえ)す言葉(ことば)がござんせぬ。――お師匠(ししょう)さん。何(なん)としたらよいものでござんしょう」
 まったく途方(とほう)に暮(く)れたのであろう。春信(はるのぶ)の顔(かお)を見(み)あげたおせんの瞼(まぶた)は、露(つゆ)を含(ふく)んだ花弁(かべん)のように潤(うる)んで見(み)えた。
「さァてのう」
 腕(うで)をこまねいて、あごを引(ひ)いた春信(はるのぶ)は、暫(しば)し己(おの)が膝(ひざ)の上(うえ)を見詰(みつ)めていたが、やがて徐(おもむろ)に首(くび)を振(ふ)った。
「徳(とく)さんも、人(ひと)の心(こころ)の読(よ)めない程(ほど)馬鹿(ばか)でもなかろう。どのような文句(もんく)を書(か)いた文(ふみ)か知(し)らないが、その文(ふみ)一本(ぽん)で、まさか二十五両(りょう)の大金(たいきん)は出(だ)すまいよ」
「それでも兄(にい)さんは、ただの二字(じ)でも三字(じ)でも、あたしの書(か)いた文(ふみ)さえ持(も)って行(い)けば、お金(かね)は右(みぎ)から左(ひだり)とのことでござんした」
「そりゃ、いつのことだの」
「ゆうべでござんす」
 おせんがもう一度(ど)、顔(かお)を上(あ)げた時(とき)であった。突然(とつぜん)障子(しょうじ)の外(そと)から、藤吉(とうきち)の声(こえ)が低(ひく)く聞(きこ)えた。
「おせんさん、大変(たいへん)なことができましたぜ。浜村屋(はまむらや)の太夫(たゆう)が、急病(きゅうびょう)だってこった」
 おせんは「はッ」と胸(むね)が詰(つ)まって、直(す)ぐには口(くち)が听(き)けなかった。

  夢(ゆめ)


    一

 子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、――と、客(きゃく)のない上(あが)りかまちに腰(こし)をかけて、独(ひと)り十二支(し)を順(じゅん)に指折(ゆびお)り数(かぞ)えていた、仮名床(かなどこ)の亭主(ていしゅ)伝吉(でんきち)は、いきなり、息(いき)がつまるくらい荒(あら)ッぽく、拳固(げんこ)で背中(せなか)をどやしつけられた。
「痛(いて)ッ。――だ、だれだ」
「だれだじゃねえや、てえへんなことがおっ始(ぱじ)まったんだ。子丑寅(ねうしとら)もなんにもあったもんじゃねえ。あしたッから、うちの小屋(こや)は開(あ)かねえかも知(し)れねえぜ」
 火事場(かじば)の纏持(まといもち)のように、息(いき)せき切(き)って駆(か)け込(こ)んで来(き)たのは、同(おな)じ町内(ちょうない)に住(す)む市村座(いちむらざ)の木戸番(きどばん)長兵衛(ちょうべえ)であった。
 伝吉(でんきち)はぎょっとして、もう一度(ど)長兵衛(ちょうべえ)の顔(かお)を見直(みなお)した。
「な、なにがあったんだ」
「なにがも、かにがもあるもんじゃねえ、まかり間違(まちが)や、てえした騒(さわ)ぎになろうッてんだ。おめえンとこだって、芝居(しばい)のこぼれを拾(ひろ)ってる家業(かぎょう)なら、万更(まんざら)かかり合(あい)のねえこともなかろう。こけが秋刀魚(さんま)の勘定(かんじょう)でもしてやしめえし、指(ゆび)なんぞ折(お)ってる時(とき)じゃありゃァしねえぜ」
「いってえ、どうしたッてんだ、長(ちょう)さん」
「おめえ、まだ判(わか)らねえのか」
「聞(き)かねえことにゃ判(わか)らねえや」
「なんて血(ち)のめぐりが悪(わる)く出来(でき)てるんだ。――浜村屋(はまむらや)の太夫(たゆう)が、舞台(ぶたい)で踊(おど)ってたまま倒(たお)れちゃったんだ」
「何(な)んだッてそいつァおめえ、本当(ほんとう)かい」
「おれにゃ、嘘(うそ)と坊主(ぼうず)の頭(あたま)ァいえねえよ。――仮(かり)にもおんなじ芝居(しばい)の者(もの)が、こんなことを、ありもしねえのにいって見(み)ねえ。それこそ簀巻(すまき)にして、隅田川(すみだがわ)のまん中(なか)へおッ放(ぽ)り込(こ)まれらァな」
「長(ちょう)さん」
「ええびっくりするじゃねえか。急(きゅう)にそんな大(おお)きな声(こえ)なんざ、出(だ)さねえでくんねえ」
「何(なに)をいってるんだ。これがおめえ、こそこそ話(ばなし)にしてられるかい。おいらァ誰(だれ)が好きだといって、浜村屋(はまむらや)の太夫(たゆう)くれえ、好(す)きな役者衆(やくしゃしゅう)はねえんだよ。芸(げい)がよくって愛嬌(あいきょう)があって、おまけに自慢気(じまんげ)なんざ薬(くすり)にしたくもねえッてお人(ひと)だ。――どこが悪(わる)くッて、どう倒(たお)れたんだか、さ、そこをおいらに、委(くわ)しく話(はな)して聞(き)かしてくんねえ」
 どやしつけられた、背中(せなか)の痛(いた)さもけろりと忘(わす)れて、伝吉(でんきち)は、元結(もとゆい)が輪(わ)から抜(ぬ)けて足元(あしもと)へ散(ち)らばったのさえ気付(きづ)かずに夢中(むちゅう)で長兵衛(ちょうべえ)の方(ほう)へ膝(ひざ)をすり寄(よ)せた。
「丁度(ちょうど)二番目(ばんめ)の、所作事(しょさごと)の幕(まく)に近(ちけ)え時分(じぶん)だと思(おも)いねえ。知(し)っての通(とお)りこの狂言(きょうげん)は、三五郎(ろう)さんの頼朝(よりとも)に、羽左衛門(うざえもん)さんの梶原(かじわら)、それに太夫(たゆう)は鷺娘(さぎむすめ)で出(で)るという、豊前(ぶぜん)さんの浄瑠璃(じょうるり)としっくり合(あ)った、今度(こんど)の芝居(しばい)の呼(よ)び物(もの)だろうじゃねえか。はねに近(ちか)くなったって、お客(きゃく)は唯(ただ)の一人(ひとり)だって、立(た)とうなんて料簡(りょうけん)の者(もの)ァねえやな。舞台(ぶたい)ははずむ、お客(きゃく)はそろって一寸(すん)でも先(さき)へ首(くび)を出(だ)そうとする。いわば紙(かみ)一重(え)の隙(すき)もねえッてとこだった。どうしたはずみか、太夫(たゆう)の踊(おど)ってた足(あし)が、躓(つまず)いたようによろよろっとしたかと思(おも)うと、あッという間(ま)もなく、舞台(ぶたい)へまともに突(つ)ッ俯(ぷ)しちまったんだ。――客席(きゃくせき)からは浜村屋(はまむらや)ッという声(こえ)が、石(いし)を投(な)げるように聞(き)こえて来(く)るかと思(おも)うと、御贔屓(ごひいき)の泣(な)く声(こえ)、喚(わめ)く声(こえ)、そいつが忽(たちま)ち渦巻(うずまき)になって、わッわッといってるうちに、道具方(どうぐかた)が気(き)を利(き)かして幕(まく)を引(ひ)いたんだが、そりゃおめえ、ここでおれが話(はなし)をしてるようなもんじゃァねえ、芝居中(しばいじゅう)がひっくり返(かえ)るような大騒(おおさわ)ぎだ。――そのうちに頭取(とうどり)が駆(か)け着(つ)ける、弟子達(でしたち)が集(あつ)まるで、倒(たお)れた太夫(たゆう)を、鷺娘(さぎむすめ)の衣装(いしょう)のまま楽屋(がくや)へかつぎ込(こ)んじまったが、まだおめえ、宗庵先生(そうあんせんせい)のお許(ゆる)しが出(で)ねえから、太夫(たゆう)は楽屋(がくや)に寝(ね)かしたまま、家(うち)へも帰(けえ)れねえんだ」
「よし、お花(はな)、おいらに羽織(はおり)を出(だ)してくんねえ」
 伝吉(でんきち)は突然(とつぜん)こういって立上(たちあが)った。

    二

「お前(まえ)さん、どこへ行(ゆ)くんだよ。真(ま)ッ昼間(ぴるま)ッからお見世(みせ)を空(あ)けて出(で)て行(い)ったんじゃ、お客様(きゃくさま)に申訳(もうしわけ)がないじゃないか。太夫(たゆう)さんとこへお見舞(みまい)に行(ゆ)くなら、日(ひ)が暮(く)れてからにしとくれよ。――ようッてば」
 下剃(したぞり)一人(ひとり)をおいて出(で)られたのでは、家業(かぎょう)に障(さわ)ると思(おも)ったのであろう。一張羅(ちょうら)の羽織(はおり)を、渋々(しぶしぶ)箪笥(たんす)から出(だ)して来(き)たお花(はな)は、亭主(ていしゅ)の伝吉(でんきち)の袖(そで)をおさえて、無理(むり)にも引止(ひきと)めようと顔(かお)を窺(のぞ)き込(こ)んだ。
 が、伝吉(でんきち)は、いきなり吐(は)きだすようにけんのみを食(く)わせた。
「馬鹿野郎(ばかやろう)。何(なに)をいってやがるんだ。亭主(ていしゅ)のすることに、女(おんな)なんぞが口(くち)を出(だ)すこたァねえから黙(だま)って引(ひ)ッ込(こ)んでろ。外(ほか)のことならともかく、太夫(たゆう)が急病(きゅうびょう)だッてのを、そのままにしといたんじゃ、世間(せけん)の奴等(やつら)になんていわれると思(おも)うんだ。仮名床(かなどこ)の伝吉(でんきち)の奴(やつ)ァ、ふだん浜村屋(はまむらや)が好(す)きだの蜂(はち)の頭(あたま)だのと、口幅(くちはば)ッてえことをいってやがるくせに、なんてざまなんだ。手間(てま)が惜(お)しさに見舞(みまい)にも行(ゆ)かねえしみッたれ野郎(やろう)だ、とそれこそ口(くち)をそろえて悪(わる)くいわれるなァ、加賀様(かがさま)の門(もん)よりもよく判(わか)ってるぜ。――つまらねえ理屈(りくつ)ァいわねえで、速(はや)く羽織(はおり)を着(き)せねえかい。こうなったり一刻(こく)だって、待(ま)てしばしはねえんだ」
 お花(はな)の手(て)から羽織(はおり)を引(ひ)ッたくった伝吉(でんきち)は、背筋(せすじ)が二寸(すん)も曲(ま)がったなりに引(ひ)ッかけると、もう一度(ど)お花(はな)の手(て)を振(ふ)りもぎって、喧嘩犬(けんかいぬ)のように、夢中(むちゅう)で見世(みせ)を飛(と)び出(だ)した。
「待(ま)ちねえ、伝(でん)さん」
 長兵衛(ちょうべえ)は背後(うしろ)から声(こえ)をかけた。
「何(な)んの用(よう)だ」
「用(よう)じゃァねえが、おかみさんもああいうンだから、晩(ばん)にしたらどうだ。どうせいま行(い)ったって、会(あ)えるもんでもねえンだから。――」
「ふん、おめえまで、余計(よけい)なことはおいてくんねえ。おいらの足(あし)でおいらが歩(ある)いてくんだ。どこへ行(い)こうが勝手(かって)じゃねえか」
「ほう、大(おお)まかに出(で)やァがったな。話(はなし)をしたなァおれなんだぜ。行(ゆ)くんなら、せめておれの髯(ひげ)だけでもあたッてッてくんねえ」
「髯(ひげ)は帰(けえ)って来(き)てからだ」
「帰(かえ)って来(き)てからじゃ、間(ま)に合(あ)わねえよ」
「間(ま)に合(あ)わなかったら、どこいでも行(い)って、やってもらって来(く)るがいいやな。――ええもう面倒臭(めんどうくせ)え、四の五のいってるうちに、日(ひ)が暮(く)れちまわァ」
 前つぼの固(かた)い草履(ぞうり)の先(さき)で砂(すな)を蹴(け)って、一目散(もくさん)に駆(か)け出(だ)した伝吉(でんきち)は、提灯屋(ちょうちんや)の角(かど)まで来(く)ると、ふと立停(たちどま)って小首(こくび)を傾(かし)げた。
「待(ま)てよ。こいつァ市村座(いちむらざ)へ行(ゆ)くより先(さき)に、もっと大事(だいじ)なところがあるぜ。――そうだ。まだおせんちゃんが知(し)らねえかもしれねえ。こんな時(とき)に人情(にんじょう)を見(み)せてやるのが、江戸(えど)ッ子(こ)の腹(はら)の見(み)せどこだ。よし、ひとつ駕籠(かご)をはずんで、谷中(やなか)まで突(つ)ッ走(ぱし)ってやろう」
 大(おお)きく頷(うなず)いた伝吉(でんきち)は、折(おり)から通(とお)り合(あわ)せた辻駕籠(つじかご)を呼(よ)び止(と)めて、笠森稲荷(かさもりいなり)の境内(けいだい)までだと、酒手(さかて)をはずんで乗(の)り込(こ)んだ。
「急(いそ)いでくんねえよ」
「ようがす」
「急病人(きゅうびょうにん)の知(し)らせに行(ゆ)くんだからの」
「合点(がってん)だ」
 返事(へんじ)は如何(いか)にも調子(ちょうし)がよかったが、肝腎(かんじん)の駕籠(かご)は、一向(こう)突(つ)ッ走(ぱし)ってはくれなかった。
「ちぇッ。吉原(よしわら)だといやァ、豪勢(ごうせい)飛(と)びゃァがるくせに、谷中(やなか)の病人(びょうにん)の知(し)らせだと聞(き)いて、馬鹿(ばか)にしてやがるんだろう。伝吉(でんきち)ァただの床屋(とこや)じゃねえんだぜ。当時(とうじ)江戸(えど)で名高(なだけ)え笠森(かさもり)おせんの、襟(えり)を剃(あた)るなァおいらより外(ほか)にゃ、広(ひろ)い江戸中(えどじゅう)に二人(ふたり)たねえんだ」
 伝吉(でんきち)が駕籠(かご)の中(なか)で鼻(はな)の頭(あたま)を引(ひ)ッこすってのひとり啖呵(たんか)も、駕籠屋(かごや)には少(すこ)しの効(き)き目(め)もないらしく、駕籠(かご)の歩(あゆ)みは、依然(いぜん)として緩(ゆる)やかだった。

    三

 床屋(とこや)の伝吉(でんきち)が、笠森(かさもり)の境内(けいだい)へ着(つ)いたその時分(じぶん)、春信(はるのぶ)の住居(すまい)で、菊之丞(きくのじょう)の急病(きゅうびょう)を聞(き)いたおせんは無我夢中(むがむちゅう)でおのが家(いえ)の敷居(しきい)を跨(また)いでいた。
「お母(っか)さん」
「おやおまえ、どうしたというの、何(なに)かお見世(みせ)にあったのかい」
 今(いま)ごろ帰(かえ)って来(こ)ようとは、夢(ゆめ)にも考(かんが)えていなかったお岸(きし)は、慌(あわただ)しく駆(か)け込(こ)んで来(き)たおせんの姿(すがた)を見(み)ると、まず、怪我(けが)でもしたのではないかと、穴(あな)のあく程(ほど)じッと見詰(みつ)めながら、静(しず)かに肩(かた)へ手(て)をかけたが、いつもと様子(ようす)の違(ちが)ったおせんは、母(はは)の手(て)を振(ふ)り払(はら)うようにして、そのまま畳(たたみ)ざわりも荒(あら)く、おのが居間(いま)へ駆(か)け込(こ)んで行(い)った。
「どうおしだよ、おせん」
「お母(っか)さん、あたしゃ、どうしよう」
「まァおまえ。……」
「吉(きち)ちゃんが、――あの菊之丞(きくのじょう)さんが、急病(きゅうびょう)との事(こと)でござんす」
「なんとえ。太夫(たゆう)さんが急病(きゅうびょう)とえ。――」
「あい。――あたしゃもう、生(い)きてる空(そら)がござんせぬ」
「何(なに)をおいいだえ。そんな気(き)の弱(よわ)いことでどうするものか。人(ひと)の口(くち)は、どうにでもいえるもの。急病(きゅうびょう)といったところが、どこまで本当(ほんとう)のことかわかったものではあるまいし。……」
「いえいえ、嘘(うそ)でも夢(ゆめ)でもござんせぬ。あたしゃたしかに、この耳(みみ)で聞(き)いて来(き)ました。これから直(す)ぐに市村座(いちむらざ)の楽屋(がくや)へお見舞(みまい)に行(い)って来(き)とうござんす。お母(っか)さん、そのお七の衣装(いしょう)を脱(ぬ)がせておくんなさいまし」
「えッ、これをおまえ」
「吉(きち)ちゃんが、去年(きょねん)の芝居(しばい)が済(す)んだ時(とき)、黙(だま)って届(とど)けておくんなすったお七の衣装(いしょう)、あたしに着(き)ろとの謎(なぞ)でござんしょう」
「それでもこれは。――」
「お母(っか)さん」
 おせんは、部屋(へや)の隅(すみ)に立(た)てかけてある人形(にんぎょう)の傍(そば)へ、自分(じぶん)から歩(あゆ)み寄(よ)ると、いきなり帯(おび)に手(て)をかけて、まるで芝居(しばい)の衣装着(いしょうつ)けがするように、如何(いか)にも無造作(むぞうさ)に衣装(いしょう)を脱(ぬ)がせ始(はじ)めた。
「お止(よ)し」
「いいえ、もう何(な)んにもいわないでおくんなさい。あたしゃお七とおんなじ心(こころ)で、太夫(たゆう)に会(あ)いに行(ゆ)きとうござんす」
 ばらりと解(と)いたお七の帯(おび)には、夜毎(よごと)に焚(た)きこめた伽羅(きゃら)の香(かお)りが悲(かな)しく籠(こも)って、静(しず)かに部屋(へや)の中(なか)を流(なが)れそめた。
「ああ。――」
 おせんはその帯(おび)を、ずッと胸(むね)に抱(だ)きしめた。
「おせんや」
 お岸(きし)は優(やさ)し眼(め)をふせた。
「あい」
「おまえ、一人(ひとり)で行(い)く気(き)かえ」
「あい」
 衣装(いしょう)を脱(ぬ)がせて、襦袢(じゅばん)を脱(ぬ)がせて、屏風(びょうぶ)のかげへ這入(はい)ったおせんは、素速(すばや)くおのが着物(きもの)と着換(きか)えた。と、この時(とき)格子戸(こうしど)の外(そと)から降(ふ)って湧(わ)いたように、男(おとこ)の声(こえ)が大(おお)きく聞(きこ)えた。
「おせんさん、仮名床(かなどこ)の伝吉(でんきち)でござんす。浜村屋(はまむらや)の太夫(たゆう)さんが、急病(きゅうびょう)と聞(き)いて、何(なに)より先(さき)にお知(し)らせしてえと、駕籠(かご)を飛(と)ばしてやってめえりやした。笠森様(かさもりさま)においでがねえんでこっちへ廻(まわ)って来(き)やした始末(しまつ)。ちっとも速(はや)く、葺屋町(ふきやちょう)へ行(い)っとくンなせえやし」
「親方(おやかた)、その駕籠(かご)を、待(ま)たせといておくんなさい」
「合点(がってん)でげす」
 おせんの声(こえ)は、いつになく甲高(かんだか)かった。

    四

 人目(ひとめ)を避(さ)けるために、わざと蓙巻(ござまき)を深(ふか)く垂(た)れた医者駕籠(いしゃかご)に乗(の)せて、男衆(おとこしゅう)と弟子(でし)の二人(ふたり)だけが付添(つきそ)ったまま、菊之丞(きくのじょう)の不随(ふずい)の体(からだ)は、その日(ひ)の午近(ひるちか)くに、石町(こくちょう)の住居(すまい)に運(はこ)ばれて行(い)った。
 が、たださえ人気(にんき)の頂点(ちょうてん)にある菊之丞(きくのじょう)が、舞台(ぶたい)で倒(たお)れたとの噂(うわさ)は、忽(たちま)ち人(ひと)から人(ひと)へ伝(つた)えられて、今(いま)は江戸(えど)の隅々(すみずみ)まで、知(し)らぬはこけの骨頂(こっちょう)とさえいわれるまでになっていた。他目(はため)からは、どう見(み)ても医者(いしゃ)の見舞(みまい)としか想(おも)われなかった駕籠(かご)の周囲(まわり)は、いつの間(ま)にやら五人(にん)十人(にん)の男女(だんじょ)で、百万遍(まんべん)のように取囲(とりかこ)んで、追(お)えば追(お)う程(ほど)、その数(かず)は増(ま)して来(く)るばかりであった。
「ちょいとお前(まえ)さん、何(な)んだってあんなお医者(いしゃ)の駕籠(かご)に、くッついて歩(ある)いているのさ」
「なんだ神田(かんだ)の、明神様(みょうじんさま)の石(いし)の鳥居(とりい)じゃないが、お前(まえ)さんもきがなさ過(す)ぎるよ。ありゃァただのお医者様(おいしゃさま)の駕籠(かご)じゃないよ」
「だってお辰(たっ)つぁん、どう見(み)たって。……」
「叱(し)ッ、静(しず)かにおしなね。あン中(なか)にゃ、浜村屋(はまむらや)の太夫(たゆう)さんが乗(の)ってるんだよ」
「浜村屋(はまむらや)の太夫(たゆう)さん。――」
「そうさ。きのう舞台(ぶたい)で倒(たお)れたまま、今(いま)が今(いま)まで、楽屋(がくや)で寝(ね)てえたんじゃないか。それをお前(まえ)さん、どうでも家(うち)へ帰(かえ)りたいと駄々(だだ)をこねて、とうとうあんな塩梅式(あんばいしき)に、お医者(いしゃ)と見(み)せて帰(かえ)る途中(とちゅう)だッてことさ」
「おやまァ、そんならそこを退(ど)いとくれよ」
「なぜ」
「あたしゃ駕籠(かご)の傍(そば)へ行(い)って、せめて太夫(たゆう)さんに、一言(こと)でもお見舞(みまい)がいいたいンだから。……」
「何(なに)をいうのさ。太夫(たゆう)は大病人(だいびょうにん)なんだよ。ちっとだッて騒(さわ)いだりしちゃァ、体(からだ)に障(さわ)らァね。一緒(しょ)について行(ゆ)くなァいいが、こッから先(さき)へは出(で)ちゃならねえよ」
「いいから退(ど)いとくれッたら」
「おや痛(いた)い、抓(つね)らなくッてもいいじゃないか」
「退(ど)かないからさ」
「おや、また抓(つね)ったね」
 髪結(かみゆい)のお辰(たつ)と、豆腐屋(とうふや)の娘(むすめ)のお亀(かめ)とが、いいのいけないのと争(あらそ)っているうちに、駕籠(かご)は更(さら)に多(おお)くの人数(にんず)に取巻(とりま)かれながら、芳町通(よしちょうどお)りを左(ひだり)へ、おやじ橋(ばし)を渡(わた)って、牛(うし)の歩(あゆ)みよりもゆるやかに進(すす)んでいた。
 菊之丞(きくのじょう)の駕籠(かご)を一町(ちょう)ばかり隔(へだ)てて、あたかも葬式(そうしき)でも送(おく)るように悵然(ちょうぜん)と首(くび)を垂(た)れたまま、一足毎(あしごと)に重(おも)い歩(あゆ)みを続(つづ)けていたのは、市村座(いちむらざ)の座元(ざもと)羽左衛門(うざえもん)をはじめ、坂東(ばんどう)彦(ひこ)三郎(ろう)、尾上(おのえ)菊(きく)五郎(ろう)、嵐(あらし)三五郎(ろう)、それに元服(げんぷく)したばかりの尾上松助(おのえまつすけ)などの一行(こう)であった。
 いずれも編笠(あみがさ)で深(ふか)く顔(かお)を隠(かく)したまま、眼(め)をしばたたくのみで、互(たがい)に一言(ごん)も発(はっ)しなかったが、急(きゅう)に何(なに)か思(おも)いだしたのであろう。羽左衛門(うざえもん)は、寂(さび)しく眉(まゆ)をひそめた。
「松助(まつすけ)さん」
「はい」
「お前(まえ)さんは、折角(せっかく)だが、ここから帰(かえ)る方(ほう)がいいようだの」
「なぜでございます」
「不吉(ふきつ)なことをいうようだが、浜村屋(はまむらや)さんはひょっとすると、あのままいけなくなるかも知(し)れないからの」
「ええ滅相(めっそう)な。左様(さよう)なことがおますかいな」
 そういって眼(め)をみはったのは嵐(あらし)三五郎(ろう)であった。
「いや、わたしとて、太夫(たゆう)に元(もと)のようになってもらいたいのは山々(やまやま)だが、今(いま)までの太夫(たゆう)の様子(ようす)では、どうも難(むず)かしかろうと思(おも)われる。縁起(えんぎ)でもないことだが、ゆうべわたしは、上下(じょうげ)の歯(は)が一本(ぽん)残(のこ)らず、脱(ぬ)けてしまった夢(ゆめ)を見(み)ました。情(なさけ)ないが、所詮(しょせん)太夫(たゆう)は助(たす)かるまい」
 羽左衛門(うざえもん)はそういって、寂(さび)しそうに眉(まゆ)をひそめた。

    五

 夢(ゆめ)から夢(ゆめ)を辿(たど)りながら、更(さら)に夢(ゆめ)の世界(せかい)をさ迷(まよ)い続(つづ)けていた菊之丞(はまむらや)は、ふと、夏(なつ)の軒端(のきば)につり残(のこ)されていた風鈴(ふうりん)の音(おと)に、重(おも)い眼(め)を開(あ)けてあたりを見廻(みまわ)した。

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