おせん
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著者名:邦枝完二 

 母(はは)の方(ほう)へは行(い)かずに、四畳半(じょうはん)のおのが居間(いま)へ這入(はい)ったおせんは、直(す)ぐさま鏡(かがみ)の蓋(ふた)を外(はず)して、薄暮(はくぼ)の中(なか)にじっとそのまま見入(みい)ったが、二筋(すじ)三筋(すじ)襟(えり)に乱(みだ)れた鬢(びん)の毛(け)を、手早(てばや)く掻(か)き揚(あ)げてしまうと、今度(こんど)はあらためて、あたりをぐるりと見廻(みまわ)した。
「お母(っか)さん」
「あいよ」
「あたしの留守(るす)に、ここに誰(だれ)か這入(はい)りゃしなかったかしら」
「おやまァ滅相(めっそう)な。そこへは鼠(ねずみ)一匹(ぴき)も滅多(めった)に入(はい)るこっちゃァないよ。――何(な)んぞ変(かわ)わったことでもおありかえ」
「さァ、ちっとばかり。……」
「どれ、何(なに)がの。――」
 障子(しょうじ)の隙間(すきま)から、顔(かお)を半分(はんぶん)窺(のぞ)かせた母親(ははおや)を、おせんはあわてて遮(さえぎ)った。
「気(き)にする程(ほど)でもござんせぬ。あっちへ行(い)ってておくんなさい」
「ほんにまァ、ここへは来(く)るのじゃなかったッけ」
 三日前(みっかまえ)の夜(よる)の四つ頃(ごろ)、浜町(はまちょう)からの使(つか)いといって、十六七の男(おとこ)の子(こ)が、駕籠(かご)に乗(の)った女(おんな)を送(おく)って来(き)たその晩(ばん)以来(いらい)、お岸(きし)はおせんの口(くち)から、観音様(かんのんさま)への願(がん)かけゆえ、向(むこ)う三十日(にち)の間(あいだ)何事(なにごと)があっても、四畳半(じょうはん)へは這入(はい)っておくんなさいますな。あたしの留守(るす)にも、ここへ足(あし)を入(い)れたが最後(さいご)、お母(っか)さんの眼(め)はつぶれましょうと、きつくいわれたそれからこっち、何(なに)が何(なに)やら分(わか)らないままに、おせんの頼(たの)みを堅(かた)く守(まも)って、お岸(きし)は、鬼門(きもん)へ触(さわ)るように恐(おそ)れていた座敷(ざしき)だったが、留守(るす)に誰(だれ)かが這入(はい)ったと聞(き)いては、流石(さすが)にあわてずにいられなかったらしく、拵(こし)らえかけの蜆汁(しじみじる)を、七厘(りん)へ懸(か)けッ放(ぱな)しにしたまま、片眼(かため)でいきなり窺(のぞ)き込(こ)んだのであろう。
 部屋(へや)の中(なか)は、窓(まど)から差(さ)すほのかな月(つき)の光(ひかり)で、漸(ようや)く物(もの)のけじめがつきはするものの、ともすれば、入(い)れ換(か)えたばかりの青畳(あおだたみ)の上(うえ)にさえ、暗(くら)い影(かげ)が斜(なな)めに曳(ひ)かれて、じっと見詰(みつ)めている眼先(めさき)は、海(うみ)のように深(ふか)かった。
 母(はは)は直(す)ぐに勝手(かって)へ取(と)って返(かえ)したと見(み)えて、再(ふたた)び七厘(りん)の下(した)を煽(あお)ぐ渋団扇(しぶうちわ)の音(おと)が乱(みだ)れた。
 暗(くら)い、何者(なにもの)もはっきり見(み)えない部屋(へや)の中(なか)で、おせんはもう一度(ど)、じっと鏡(かがみ)の中(なか)を見詰(みつ)めた。底光(そこびかり)のする鏡(かがみ)の中(なか)に、澄(す)めば澄(す)む程(ほど)ほのかになってゆく、おのが顔(かお)が次第(しだい)に淡(あわ)く消(き)えて、三日月形(みかづきがた)の自慢(じまん)の眉(まゆ)も、いつか糸(いと)のように細(ほそ)くうずもれて行(い)った。
「吉(きち)ちゃん。――」
 ふと、鏡(かがみ)のおもてから眼(め)を放(はな)したおせんの唇(くちびる)は、小(ちい)さく綻(ほころ)びた。と同時(どうじ)に、すり寄(よ)るように、体(からだ)は戸棚(とだな)の前(まえ)へ近寄(ちかよ)った。
「済(す)みません。ひとりぽっちで、こんなに待(ま)たせて。――」
 そういいながら、おせんのふるえる手(て)は襖(ふすま)の引手(ひきて)を押(おさ)えた。

    五

 部屋(へや)の中(なか)は益々(ますます)暗(くら)かった。
 その暗(くら)い部屋(へや)の片隅(かたすみ)へ、今(いま)しもおせんが、辺(あたり)に気(き)を配(くば)りながら、胸(むね)一杯(ぱい)に抱(かか)え出(だ)したのは、つい三日前(みっかまえ)の夜(よる)、由斎(ゆうさい)の許(もと)から駕籠(かご)に乗(の)せて届(とど)けてよこした、八百屋(や)お七の舞台姿(ぶたいすがた)をそのままの、瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)の生人形(いきにんぎょう)であった。
 おせんは抱(かか)えた人形(にんぎょう)を、東(ひがし)に向(む)けて座敷(ざしき)のまん中(なか)に立(た)てると、薄月(うすづき)の光(ひかり)を、まともに受(う)けさせようがためであろう。音(おと)せぬ程(ほど)に、窓(まど)の障子(しょうじ)を徐(しずか)に開(あ)け始(はじ)めた。
 庭(にわ)には虫(むし)の声(こえ)もなく、遠(とお)くの空(そら)を渡(わた)る雁(かり)のおとずれがうつろのように、耳(みみ)に響(ひび)いた。
「吉(きち)ちゃん。――いいえ、太夫(たゆう)、あたしゃ会(あ)いとうござんした」
 生(い)きた相手(あいて)にいう如(ごと)く、如何(いか)にもなつかしそうに、人形(にんぎょう)を仰(あお)いだおせんの眼(め)には、情(なさけ)の露(つゆ)さえ仇(あだ)に宿(やど)って、思(おも)いなしか、声(こえ)は一途(ず)にふるえていた。
「――朝(あさ)から晩(ばん)まで、いいえ、それよりも、一生涯(しょうがい)、あたしゃ太夫(たゆう)と一緒(しょ)にいとうござんすが、なんといっても、お前(まえ)は今(いま)を時(とき)めく、江戸(えど)一番(ばん)の女形(おやま)。それに引(ひ)き換(か)えあたしゃそこらに履(は)き捨(す)てた、切(き)れた草鞋(わらじ)もおんなじような、水茶屋(みずぢゃや)の茶汲(ちゃく)み娘(むすめ)。百夜(ももよ)の路(みち)を通(かよ)ったとて、お前(まえ)に逢(あ)って、昔話(むかしばなし)もかなうまい。それゆえせめての心(こころ)から、あたしがいつも夢(ゆめ)に見(み)るお前(まえ)のお七を、由斎(ゆうさい)さんに仕上(しあ)げてもらって、ここまで内緒(ないしょ)で運(はこ)んだ始末(しまつ)。お前(まえ)のお宅(たく)にくらべたら、物置小屋(ものおきごや)にも足(た)りない住居(すまい)でござんすが、ここばっかりは、邪間(じゃま)する者(もの)もない二人(ふたり)の世界(せかい)。どうぞ辛抱(しんぼう)して、話相手(はなしあいて)になっておくんなさいまし、――あたしゃ、王子(おうじ)で育(そだ)った十年前(ねんまえ)も、お見世(みせ)へ通(かよ)うきょうこの頃(ごろ)も、心(こころ)に毛筋程(けすじほど)の変(かわ)りはござんせぬ。吉(きち)ちゃんと、おせんちゃんとは夫婦(ふうふ)だと、ままごと遊(あそ)びにからかわれた、あの春(はる)の日(ひ)が忘(わす)れられず、枕(まくら)を濡(ぬ)らして泣(な)き明(あ)かした夜(よる)も、一度(ど)や二度(ど)ではござんせんし。おせんも年頃(としごろ)、好(す)きなお客(きゃく)の一人(ひとり)くらいはあろうかと、折節(おりふし)のお母(っか)さんの心配(しんぱい)も、あたしの耳(みみ)には上(うわ)の空(そら)。火(ひ)あぶりで死(し)んだお七が羨(うらや)ましいと、あたしゃいつも、思(おもい)い続(つづ)けてまいりました。――太夫(たゆう)、お前(まえ)は、立派(りっぱ)なお上(かみ)さんのその外(ほか)に、二つも寮(りょう)をお持(も)ちの様子(ようす)。引(ひ)くてあまたの、御贔屓筋(ごひいきすじ)もござんしょうが、あたしゃこのままこがれ死(し)んでも、やっぱりお前(まえ)の女房(にょうぼう)でござんす」
 思(おも)わず知(し)らず、我(わ)れとわが袖(そで)を濡(ぬ)らした不覚(ふかく)の涙(なみだ)に、おせんは「はッ」として首(くび)を上(あ)げたが、どうやら勝手許(かってもと)の母(はは)の耳(みみ)へは這入(はい)らなかったものか、まだ抜(ぬ)け切(き)らぬ風邪(かぜ)の咳(せき)が二つ三つ、続(つづ)けざまに聞(き)こえたばかりであった。
 しばしおせんは、俯向(うつむ)いたまま眼(め)を閉(と)じていた。その眼(め)の底(そこ)を、稲妻(いなづま)のように、幼(おさな)い日(ひ)の思(おも)い出(で)が突(つ)ッ走(ぱし)った。
「おせんや」
 母(はは)の声(こえ)が聞(き)かれた。
「あい」
「この暗(くら)いのに、行燈(あんどん)もつけずに」
「あい。さして暗(くら)くはござんせぬ」
「何(なに)をしておいでだか知(し)らないが、支度(したく)が出来(でき)たから御飯(ごはん)にしようわな」
「あい、いまじきに」
「暗(くら)い所(ところ)に一人(ひとり)でいると、鼠(ねずみ)に引(ひ)かれるよ」
 隣座敷(となりざしき)では、母(はは)が燈芯(とうしん)をかき立(た)てたのであろう。障子(しょうじ)が急(きゅう)に明(あか)るくなって、膳立(ぜんだて)をする音(おと)が耳(みみ)に近(ちか)かった。
 よろめくように立上(たちあが)ったおせんは、窓(まど)の障子(しょうじ)に手(て)をかけた。と、その刹那(せつな)、低(ひく)いしかも聞(き)き慣(な)れない声(こえ)が、窓(まど)の下(した)から浮(う)き上(あが)った。
「おせん」
「えッ」
「驚(おどろ)くにゃ当(あた)らねえ。おいらだよ」
 おせんは、火箸(ひばし)のように立(た)ちすくんでしまった。

    六

「ど、どなたでござんす」
「叱(し)っ、静(しず)かにしねえ。怪(あや)しいものじゃねえよ。おいらだよ」
「あッ、お前(まえ)は兄(あに)さん。――」
「ええもう、静(しず)かにしろというのに。お袋(ふくろ)の耳(みみ)へへえッたら、事(こと)が面倒(めんどう)ンなる」
 そういいながら、出窓(でまど)の縁(えん)へ肘(ひじ)を懸(か)けて、するりと体(からだ)を持(もち)ちあげると、如何(いか)にも器用(きよう)に履(は)いた草履(ぞうり)を右手(みぎて)で脱(ぬ)ぎながら、腰(こし)の三尺帯(じゃくおび)へはさんで、猫(ねこ)のように青畳(あおだたみ)の上(うえ)へ降(お)り立(た)ったのは、三年前(ねんまえ)に家(いえ)を出(で)たまま、噂(うわさ)にさえ居所(いどころ)を知(し)らせなかった兄(あに)の千吉(きち)だった。――藍微塵(あいみじん)の素袷(すあわせ)に算盤玉(そろばんだま)の三尺(じゃく)は、見(み)るから堅気(かたぎ)の着付(きつけ)ではなく、殊(こと)に取(と)った頬冠(ほおかむ)りの手拭(てぬぐい)を、鷲掴(わしづか)みにしたかたちには、憎(にく)いまでの落着(おちつき)があった。
 まったく夢想(むそう)もしなかった出来事(できごと)に、おせんは、その場(ば)に腰(こし)を据(す)えたまま、直(す)ぐには二の句(く)が次(つ)げなかった。
「おせん。おめえ、いくつンなった」

「十八でござんす」
「十八か。――」
 千吉(きち)はそういって苦笑(くしょう)するように頷(うなず)いたが、隣座敷(となりざしき)を気にしながら、更(さら)に声(こえ)を低(ひく)めた。
「怖(こわ)がるこたァねえから、後(あと)ずさりをしねえで、落着(おちつ)いていてくんねえ。おいらァ何(なに)も、久(ひさ)し振(ぶ)りに会(あ)った妹(いもうと)を、取(と)って食(く)おうたァいやァしねえ」
「あかりを、つけさせておくんなさい」
「おっと、そんな事をされちゃァたまらねえ。暗(やみ)でもてえげえ見(み)えるだろうが、おいらァ堅気(かたぎ)の商人(しょうにん)で、四角(かく)い帯(おび)を、うしろで結(むす)んで来(き)た訳(わけ)じゃねえんだ。面目(めんぼく)ねえが五一三分六(ごいちさぶろく)のやくざ者(もの)だ。おめえやお袋(ふくろ)に、会(あ)わせる顔(かお)はねえンだが、ちっとばかり、人(ひと)に頼(たの)まれたことがあって、義理(ぎり)に挟(はさ)まれてやって来(き)たのよ。おせん、済(す)まねえが、おいらの頼(たの)みを聞(き)いてくんねえ」
「そりゃまた兄(あに)さん、どのようなことでござんす」
「どうのこうのと、話(はな)せば長(なげ)え訳合(わけあい)だが、手(て)ッ取早(とりばや)くいやァ、おいらァ金(かね)が入用(いりよう)なんだ」
「お金(かね)とえ」
「そうだ」
「あたしゃ、お金(かね)なんぞ。……」
「まァ待(ま)った。藪(やぶ)から棒(ぼう)に飛(と)び込(こ)んで来(き)た、おいらの口(くち)からこういったんじゃ、おめえがかぶりを振(ふ)るのももっともだが、こっちもまんざら目算(もくさん)なしで、出(で)かけて来(き)たという訳(わけ)じゃねえ。そこにゃちっとばかり、見(み)かけた蔓(つる)があってのことよ。――のうおせん。おめえは通油町(とおりあぶらちょう)の、橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)を知(し)ってるだろう」
「なんとえ」
「徳太郎(とくたろう)という、始末(しまつ)の良(よ)くねえ若旦那(わかだんな)だ」
「さァ、知(し)ってるような、知(し)らないような。……」
「ここァ別(べつ)に白洲(しらす)じゃねえから、隠(かく)しだてにゃ及(およ)ばねえぜ。知(し)らねえといったところが、どうでそれじゃァ通(とお)らねえんだ。先(さき)ァおめえに、家蔵(いえくら)売(う)ってもいとわぬ程(ほど)の、首(くび)ッたけだというじゃねえか」
「まァ兄(にい)さん」
「恥(はず)かしがるにゃァ当(あた)らねえ。何(なに)もこっちから、血道(ちみち)を上(あ)げてるという訳(わけ)じゃなし、おめえに惚(ほ)れてるな、向(むこ)う様(さま)の勝手次第(かってしだい)だ。――おせん。そこでおめえに相談(そうだん)だが、ひとつこっちでも、気(き)のある風(ふう)をしちゃあくれめえか」
「えッ」
「おめえも十八だというじゃァねえか。もうてえげえ、そのくれえの芸当(げいとう)は、出来(でき)ても辱(はじ)にゃァなるめえぜ」
 千吉(きち)は、たじろぐおせんを見詰(みつ)めながら、四角(かく)く坐(すわ)って詰(つ)め寄(よ)った。

    七

「もし、兄(あに)さん」
 月(つき)は雲(くも)に覆(おお)われたのであろう。障子(しょうじ)を漏(も)れる光(ひかり)さえない部屋(へや)の中(なか)は、僅(わず)かに隣(となり)から差(さ)す行燈(あんどん)の方影(かたかげ)に、二人(ふたり)の半身(はんしん)を淡(あわ)く見(み)せているばかり、三年(ねん)振(ぶ)りで向(む)き合(あ)った兄(あに)の顔(かお)も、おせんははっきり見極(みきわ)めることが出来(でき)なかった。
 その方暗(かたやみ)の中(なか)に、おせんの声(こえ)は低くふるえた。
「兄(あに)さん」
「え」
「帰(かえ)っておくんなさい」
「何(な)んだって。おいらに帰(けえ)れッて」
「あい」
「冗談(じょうだん)じゃねえ。用(よう)がありゃこそ、わざわざやって来(き)たんだ。なんでこのまま帰(けえ)れるものか。そんなことよりおいらの頼(たの)みを、素直(すなお)にきいてもらおうじゃねえか。おめえさえ首(くび)を縦(たて)に振(ふ)ってくれりゃァ、からきし訳(わけ)はねえことなんだ。のうおせん。赤(あか)の他人(たにん)でさえ、事(こと)を分(わ)けて、かくかくの次第(しだい)と頼(たの)まれりゃ、いやとばかりゃァいえなかろう。おいらァおめえの兄貴(あにき)だよ。――血(ち)を分(わ)けた、たった一人(ひとり)の兄貴(あにき)だよ。それも、百とまとまった金(かね)が入用(いりよう)だという訳(わけ)じゃねえ。四半分(はんぶん)の二十五両(りょう)で事(こと)が済(す)むんだ」
「二十五両(りょう)。――」
「みっともねえ。驚(おどろ)く程(ほど)の高(たか)でもあるめえ」
「でも、そんなお金(かね)は。……」
「だからよ。初手(しょて)からいってる通(とお)り、おめえやお袋(ふくろ)の臍(へそ)くりから、引(ひ)っ張(ぱ)り出(だ)そうたァいやァしねえや。狙(ねら)いをつけたなあの若旦那(わかだんな)、橘屋(たちばなや)の徳太郎(とくたろう)というでくの棒(ぼう)よ。ふふふふ。何(な)んの雑作(ぞうさ)もありァしねえ。おめえがここでたった一言(ひとこと)。おなつかしゅうござんす、とかなんとかいってくれさえすりァ、おいらの頼(たの)みァ聴(き)いてもらえようッてんだ。お釈迦(しゃか)が甘茶(あまちゃ)で眼病(めやみ)を直(なお)すより、もっとわけねえ仕事(しごと)じゃねえか」
「それでもあたしゃ。心(こころ)にもないことをいって。……」
「そ、その料簡(りょうけん)がいけねえんだ。腹(はら)にあろうがなかろうが、武士(ぶし)は戦略(せんりゃく)、坊主(ぼうず)は方便(ほうべん)、時(とき)と場合(ばあい)じゃ、人(ひと)の寝首(ねくび)をかくことさえあろうじゃねえか。――さ、ここに筆(ふで)と紙(かみ)がある。いろはのいの字(じ)とろの字(じ)を書(か)いて、いろよい返事(へんじ)をしてやんねえ」
 千吉(きち)がふところから取出(とりだ)したのは、巻紙(まきがみ)と矢立(やたて)であった。
 おせんは、あわてて手(て)を引(ひ)ッ込(こ)めた。
「堪忍(かんにん)しておくんなさい」
「何(なに)もあやまるこたァありゃァしねえ。暗(くら)くッて書(か)けねえというンなら、仕方(しかた)がねえ。行燈(あんどん)をつけてやる」
「もし。――」
 今度(こんど)はおせんが、千吉(きち)の手(て)をおさえた。
「何(なに)をするんだ」
「あたしゃ、どうでもいやでござんす」
「そんならこれ程(ほど)までに、頭(あたま)をさげて頼(たの)んでもか」
「外(ほか)のこととは訳(わけ)が違(ちが)い、あたしゃ数(かず)あるお客(きゃく)のうちでも、いの一番(ばん)に嫌(きら)いなお人(ひと)、たとえ嘘(うそ)でも冗談(じょうだん)でも、気(き)の済(す)まないことはいやでござんす」
「おせん。おめえ、兄貴(あにき)を見殺(みごろ)しにするつもりか」
「何(な)んとえ」
「おめえがいやだとかぶりを振(ふ)りゃァ、おいらは人(ひと)から預(あず)かった、大事(だいじ)な金(かね)を落(お)としたかどで、いやでも明日(あした)は棒縛(ぼうしば)りだ。――そいつもよかろう。おめえはかげで笑(わら)っていねえ」
「兄(あに)さん」
「もう何(な)んにも頼(たの)まねえ。これから帰(けえ)って縛(しば)られようよ」
 千吉(きち)は、わざとやけに立上(たちあが)って窓辺(まどべ)へつかつかと歩(あゆ)み寄(よ)った。
 突然(とつぜん)隣座敷(となりざしき)から、お岸(きし)のすすり泣(な)く声(こえ)が、障子越(しょうじご)しに聞(きこ)えて来(き)た。

  文(ふみ)


    一

「若旦那(わかだんな)、もし、油町(あぶらちょう)の若旦那(わかだんな)」
「おお、お前(まえ)は千吉(きち)つぁん」
「そんなに急(いそ)いで、どこへおいでなせえやす」
「お前(まえ)のとこさ」
「何、あっしンとこでげすッて。――あっしンとこなんざ、若旦那(わかだんな)においでを願(ねが)うような、そんな気(き)の利(き)いた住居(すまい)じゃござんせん。火口箱(ほくちばこ)みてえな、ちっぽけな棟割長屋(むねわりながや)なんで。……」
「小(ちい)さかろうが、大(おお)きかろうが、そんなことは考(かんが)えちゃいられないよ」
「何(な)んと仰(おっ)しゃいます」
「あたしゃお前(まえ)に頼(たの)んだ返事(へんじ)を、聞(き)かせてもらいに、往(ゆ)くところじゃないか」
「はッはッは。それでわざわざお運(はこ)び下(くだ)さろうッてんでげすか。これぁどうも恐(おそ)れいりやした。そのことなら、どうかもう御心配(ごしんぱい)は、御無用(ごむよう)になすっておくんなさいまし」
「おお、そんなら千吉(きち)さん、おせんの返事(へんじ)を。――」
「憚(はばか)りながら、いったんお引(ひき)受(う)け申(もう)しやした正直(しょうじき)千吉(きち)、お約束(やくそく)を違(たが)えるようなこたァいたしやせん」
「済(す)まない。あたしはそうとは思(おも)っていたものの、これがやっぱり恋心(こいごころ)か。ちっとも速(はや)く返事(へんじ)が聞(き)き度(た)くて、帳場格子(ちょうばこうし)と二階(かい)の間(あいだ)を、九十九度(ど)も通(かよ)った挙句(あげく)、とうとう辛抱(しんぼう)が出来(でき)なくなったばっかりに、ここまで出向(でむ)いて来(き)た始末(しまつ)さ。そうと極(きま)ったら、どうか直(す)ぐに色(いろ)よい返事(へんじ)を聞(き)かせておくれ」
「ま、ま、待(ま)っておくんなせえやし。そんなにお急(せき)ンならねえでも、おせんの返事(へんじ)は、直(す)ぐさまお聞(き)かせ申(もう)しやすが、ここは道端(みちばた)、誰(だれ)に見(み)られねえとも限(かぎ)りやせん。筋(すじ)の通(とお)ったいい所(ところ)で、ゆっくりお目(め)にかけようじゃござんせんか」
「そりゃもう、いずれおまんまでも食(た)べながら、ゆっくり見(み)せてもらおうが、まず文(ふみ)の上書(うわがき)だけでも、ここでちょいと、のぞかせておくれでないか」
「御安心(ごあんしん)くださいまし。上書(うわがき)なんざ二の次(つぎ)三の次(つぎ)、中味(なかみ)から封(ふう)じ目(め)まで、おせんの手(て)に相違(そうい)はございません。あいつァ七八つの時分(じぶん)から、手習(てならい)ッ子(こ)の仲間(なかま)でも、一といって二と下(さが)ったことのねえ手筋自慢(てすじじまん)。あっしゃァ質屋(しちや)の質(しち)の字(じ)と、万金丹(まんきんたん)の丹(たん)の字(じ)だけしきゃ書(か)けやせんが、おせんは若旦那(わかだんな)のお名前(なまえ)まで、ちゃァんと四角(かく)い字(じ)で書(か)けようという、水茶屋女(みずぢゃやおんな)にゃ惜(お)しいくらいの立派(りっぱ)な手書(てが)き。――この通(とお)り、あっしがふところに預(あず)かっておりやすから、どうか親船(おやぶね)に乗(の)った気(き)で、おいでなすっておくんなせえやし」
「安心(あんしん)はしているけれど、ちっとも速(はや)く見(み)たいのが人情(にんじょう)じゃないか。野暮(やぼ)をいわずに、ちょいとでいいから、ここでお見(み)せよ」
「堪忍(かんにん)しておくんなさい。道(みち)ッ端(ぱた)ではお目(め)にかけねえようにと、こいつァ妹(いもうと)からの、堅(かた)い頼(たの)みでござんすので。……」
「はてまァ、何(な)んという野暮(やぼ)だろうのう」
「どうか察(さっ)しておやンなすって。おせんにして見(み)りゃ、自分(じぶん)から文(ふみ)を書(か)いたな始(はじ)めての、いわば初恋(はつこい)とでも申(もう)しやしょうか。はずかしい上(うえ)にもはずかしいのが人情(にんじょう)でげしょう。道(みち)ッ端(ぱた)で展(ひろ)げたとこを、ひょっと誰(だれ)かに見(み)られた日(ひ)にゃァ、それこそ若旦那(わかだんな)、気(き)の弱(よわ)いおせんは、どんなことになるか、知(し)れたもんじゃござんせん。野暮(やぼ)は承知(しょうち)の上(うえ)でござんす。どうか、ここンところをお察(さっ)しなすって……」
 谷中(やなか)から上野(うえの)へ抜(ぬ)ける、寛永寺(かんえいじ)の土塀(どべい)に沿(そ)った一筋道(すじみち)、光琳(こうりん)の絵(え)のような桜(さくら)の若葉(わかば)が、道(みち)に敷(し)かれたまん中(なか)に佇(たたず)んだ、若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)とおせんの兄(あに)の千吉(きち)とは、折(おり)からの夕陽(ゆうひ)を浴(あ)びて、色(いろ)よい返事(へんじ)を認(したた)めたおせんの文(ふみ)を、見(み)せろ見(み)せないのいさかいに、しばし心(こころ)を乱(みだ)していたが、この上(うえ)の争(あらそ)いは無駄(むだ)と察(さっ)したのであろう。やがて徳太郎(とくたろう)は細(ほそ)い首(くび)をすくめた。
「あたしゃ気(き)が短(みじか)いから、どこへ行(ゆ)くにしても、とても歩(ある)いちゃ行(い)かれない。千吉(きち)つぁん、直(す)ぐに駕籠(かご)を呼(よ)んでもらおうじゃないか」
「合点(がってん)でげす」
 千吉(きち)は二(ふた)つ返事(へんじ)で頷(うなず)いた。

    二

 徳太郎(とくたろう)と千吉(きち)とが、不忍池畔(しのばずちはん)の春草亭(しゅんそうてい)に駕籠(かご)を停(と)めたのは、それから間(ま)もない後(あと)だった。
 徳太郎(とくたろう)は女中(じょちゅう)の案内(あんない)も待(ま)たず、駆(か)け込(こ)むように千吉(きち)の手(て)をとって、奥(おく)の座敷(ざしき)へ連(つ)れ込(こ)んだ。
「さ、千吉(きち)さん」
「へえ」
「早(はや)くお見(み)せ」
「何(なに)をでござんす」
「おや、何(なに)をはあるまい。おせんのふみじゃないか」
「おそうだ。これはすっかり忘(わす)れて居(お)りやした」
「お前(まえ)は道端(みちばた)じゃ見(み)せられないというから、わざわざ駕籠(かご)を急(いそ)がせて、ここまで来(き)たんだよ。さ大事(だいじ)な文(ふみ)を、少(すこ)しでも速(はや)く見(み)せてもらいましょう」
「お見(み)せいたしやす」
「口(くち)ばっかりでなく、速(はや)くお出(だ)しッたら」
「出(だ)しやす。――が、ちょいとお待(ま)ちなすっておくんなさい。その前(まえ)に、あっしゃァ若旦那(わかだんな)に、ひとつお願(ねが)い申(もう)してえことがござんすので。……」
「何(な)んだえ、あらたまって。――」
「実(じつ)ァその、おせんの奴(やつ)から。……」
「なに、おせんから、あたしに頼(たの)みとの」
「へえ」
「そんならなぜ、もっと早(はや)くいわないのさ」
「申上(もうしあ)げたいのは山々(やまやま)でござんすが、ちと厚(あつ)かましい筋(すじ)だもんでげすから、ついその、あっしの口(くち)からも、申上(もうしあ)げにくかったような訳(わけ)でげして」
「馬鹿(ばか)な。つまらない遠慮(えんりょ)なんか、水臭(みずくさ)いじゃないか。そんな遠慮(えんりょ)はいらないから、いっとくれ。あたしでかなうことなら、どんな願(ねが)いでも、きっと聞(き)いてあげようから。……」
「そりゃどうも。おせんに聞(き)かしてやりましたら、どれ程(ほど)喜(よろこ)ぶか知(し)れやァしません。――ところで若旦那(わかだんな)」
「なにさ」
「そのお願(ねが)いと申(もう)しますのは」
「その頼(たの)みとは」
「お金(かね)を。――」
「何(な)んのことかと思(おも)ったら、お金(かね)かい。憚(はばか)りながら、あたしァ江戸(えど)でも人様(ひとさま)に知(し)られた、橘屋(たちばなや)の徳太郎(とくたろう)、おせんの頼(たの)みとあれば、決(けっ)していやとはいわないから、かまわずにいって御覧(ごらん)。たとえどれ程(ほど)の大金(たいきん)でも、あれのためなら、首(くび)は横(よこ)にゃ振(ふ)らないつもりだよ」
「へえへえ、どうも恐(おそれ)れいりやした。いやもう、おせん、おめえよく捕(と)ったぞ。これ程(ほど)の鼠(ねずみ)たァ、まさか思(おも)っちゃ。……」
「これ千吉(きち)つぁん、何(なに)をおいいだ。あたしのことを鼠(ねずみ)とは。……」
「ど、どういたしやして、鼠(ねずみ)なんぞた申(もう)しゃしません。若旦那(わかだんな)にはこれからも、鼠(ぬずみ)のように、チウ義(ぎ)をおつくし申(もう)せと、こう申(もう)したのでございます」
「お前(まえ)は口(くち)が上手(じょうず)だから。……」
「口(くち)はからきし下手(へた)の皮(かわ)、人様(ひとさま)の前(まえ)へ出(で)たら、ろくにおしゃべりも出来(でき)る男(おとこ)じゃござんせんが、若旦那(わかだんな)だけは、どうやら赤(あか)の他人(たにん)とは思(おも)われず、ついへらへらとお喋(しゃべ)りもいたしやす。――ねえ若旦那(わかだんな)。どうかおせんに、二十五両(りょう)だけ、貸(か)してやっておくんなせえやし」
「何(なに)、二十五両(りょう)。――」
「江戸(えど)で名代(なだい)の橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)。二十五両(りょう)は、ほんのお小遣(こづかい)じゃござんせんか」
 千吉(きち)はそういいながら、ふところ深(ふか)くひそませた、おせんのふみを取(と)りだした。
   ありがたく存(ぞん)じ候(そうろう) かしこ
           せん  より
 若旦那(わかだんな)さま
 ふみのおもては、ただこれだけだった。

    三

 朝(あさ)っぱらの柳湯(やなぎゆ)は、町内(ちょうない)の若(わか)い者(もの)と、楊枝削(ようじけず)りの御家人(ごけにん)と道楽者(どうらくもの)の朝帰(あさがえ)りとが、威勢(いせい)のよしあしを取(とり)まぜて、柘榴口(ざくろぐち)の内(うち)と外(そと)とにとぐろを巻(ま)いたひと時(とき)の、辱(はじ)も外聞(がいぶん)もない、手拭(てぬぐい)一本(ぽん)の裸絵巻(はだかえまき)を展(ひろ)げていたが、こんな場合(ばあい)、誰(だれ)の口(くち)からも同(おな)じように吐(は)かれるのは、何吉(なにきち)がどこの賭場(とば)で勝(か)ったとか、どこそこのお何(なに)が、近頃(ちかごろ)誰(だれ)にのぼせているとか、さもなければ芝居(しばい)の噂(うわさ)、吉原(よしわら)の出来事(できごと)、観音様(かんのんさま)の茶屋女(ちゃやおんな)の身(み)の上(うえ)など、おそらく口(くち)を開(ひら)けば、一様(よう)におのれの物知(ものし)りを、少(すこ)しも速(はや)く人(ひと)に聞(き)かせたいとの自慢(じまん)からであろう。玉(たま)のような汗(あせ)を額(ひたい)にためながら、いずれもいい気持(きもち)でしゃべり続(つづ)ける面白(おもしろ)さ。中(なか)には、顔(かお)さえ洗(あら)やもう用(よう)はねえと、流(なが)しのまん中(なか)に頑張(がんば)って、四斗樽(とだる)のような体(からだ)を、あっちへ曲(ま)げ、こっちへ伸(のば)して、隣近所(となりきんじょ)へ泡(あわ)を飛(と)ばす暇(ひま)な隠居(いんきょ)や、膏薬(こうやく)だらけの背中(せなか)を見(み)せて、弘法灸(こうぼうきゅう)の効能(こうのう)を、相手(あいて)構(かま)わず吹(ふ)き散(ちら)す半病人(はんびょうにん)もある有様(ありさま)。湯屋(ゆや)は朝(あさ)から寄合所(よりあいしょ)のように賑(にぎ)わいを見(み)せていた。
「長兄(ちょうあに)イ。聞(き)いたか」
「何(なに)を」
「何(なに)をじゃねえ、千吉(きち)がしこたま儲(もう)けたッて話(はなし)をよ」
「うんにゃ。聞(き)かねえよ」
「迂濶(うかつ)だな」
「だっておめえ、知(し)らねえもなァ仕方(しかた)がねえや。――いってえ、あの怠(なま)け者(もの)が、どこでそんなに儲(もう)けやがったたんだ」
「どこッたっておめえ、そいつが、てえそうないかさまなんだぜ」
「ふうん、奴(やつ)にそんな器用(きよう)なことが出来(でき)るのかい」
「相手(あいて)がいいんだ」
「椋鳥(むくどり)か」
「ちゃきちゃきの江戸(えど)っ子(こ)よ」
「はァてな、江戸(えど)っ子(こ)が、奴(やつ)のいかさまに引(ひ)ッかかるたァおかしいじゃねえか」
「いかさまッたって、おめえ、丁半(ちょうはん)じゃねえぜ」
「ほう、さいころじゃねえのかい」
「女(おんな)が餌(えさ)だ」
「女(おんな)。――」
「相手(あいて)を釣(つ)って儲(もう)けたのよ」
「そいつァ尚更(なおさら)初耳(はつみみ)だ。――その相手(あいて)ッてな、どこの誰(だれ)よ」
「油町(あぶらちょう)の紙問屋(かみどんや)、橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)だ」
「ほう、そいつァおもしれえ」
「あれだ。おもしれえは気(き)の毒(どく)だぜ。千吉(きち)は妹(いもうと)のおせんを餌(えさ)にして、若旦那(わかだんな)から、二十五両(りょう)という大金(たいきん)をせしめやがったんだ」
「なに二十五両(りょう)だって」
「どうだ。てえしたもんだろう」
「冗談(じょうだん)じゃねえ。二十五両(りょう)といやァ、小判(こばん)が二十五枚(まい)だぜ。こいつが二両(りょう)とか、二両(りょう)二分(ぶ)とかいうンなら、まだしも話(はなし)の筋(すじ)が通(とお)るが、二十五両(りょう)は飛(と)んでもねえ。あいつの首(くび)を引換(ひきかえ)にしたって、借(か)りられる金(かね)じゃァねえぜ。冗談(じょうだん)も休(やす)み休(やす)みいってくんねえ」
「ふん、知(し)らねえッてもなァおッかねえや。おいらァ現(げん)にたった今(いま)、この二つの眼(め)で、睨(にら)んで来(き)たばかりなんだ。山吹色(やまぶきいろ)で二十五枚(まい)、滅多(めった)に見(み)られるかさじゃァねえて」
「ふふふふ、金(きん)の字(じ)。その話(はなし)をもうちっと委(くわ)しく聞(き)かせねえか」
 そういいながら、柘榴口(ざくろぐち)から、にゅッと首(くび)を出(だ)したのは、絵師(えし)の春重(はるしげ)だった。
「春重(はるしげ)さん、お前(まえ)さんいたのかい」
「いたから顔(かお)を出(だ)したんだがの。大分(だいぶ)話(はなし)が面白(おもしろ)そうじゃねえか」
 春重(はるしげ)は、もう一度(ど)ニヤリと笑(わら)った。

    四

「ふふふふ、金(きん)の字(じ)、なんで急(きゅう)に唖(おし)のように黙(だま)り込(こ)んじゃったんだ。話(はな)して聞(き)かせねえな。どうせおめえの腹(はら)が痛(いた)む訳(わけ)でもあるめえしよ」
 柘榴口(ざくろぐち)から流(なが)しへ出(で)て来(き)た春重(はるしげ)の様子(ようす)には、いつも通(とお)りの、妙(みょう)な粘(ねば)りッ気(け)が絡(から)みついていて、傘屋(かさや)の金蔵(きんぞう)の心持(こころもち)を、ぞッとする程(ほど)暗(くら)くさせずにはおかなかった。
「てえした面白(おもしれ)え話(はなし)でもねえからよ」
「なに面白(おもしろ)くねえことがあるもんか。二十五両(りょう)といやァ、おいらのような貧乏人(びんぼうにん)は、まごまごすると、生涯(しょうがい)お目(め)にゃぶら下(さ)がれない大金(たいきん)だぜ。そいつをいかさまだかさかさまだかにつるさげて、物(もの)にしたと聞(き)いちゃァ、志道軒(しどうけん)の講釈(こうしゃく)じゃねえが、嘘(うそ)にも先(さき)を聞(き)かねえじゃいられねえからの。――相手(あいて)が橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)だったてえな、ほんまかい」
「おめえさん、それを聞(き)いてどうしようッてんだ」
 顔(かお)をしかめて、春重(はるしげ)を見守(みまも)ったのは、金蔵(きんぞう)に兄(あに)イと呼(よ)ばれた左官(さかん)の長吉(ちょうきち)であった。
「どうもしやァしねえがの。そいつがほんまなら、おいらもちっとばかり、若旦那(わかだんな)に借(か)りてえと思(おも)ってよ」
「若旦那(わかだんな)に借(か)りるッて」
「まずのう。だが安心(あんしん)しなよ。おいらの借りようッてな、二十五両(りょう)の三十両(りょう)のという、大(だい)それた訳(わけ)のもんじゃねえ。ほんの二分(ぶ)か一両(りょう)が関(せき)の山(やま)だ。それも種(たね)や仕(し)かけで取(と)るようなけちなこたァしやァしねえ。真証(しんしょう)間違(まちが)いなしの、立派(りっぱ)な品物(しなもの)を持(も)ってって、若旦那(わかだんな)の喜(よろこ)ぶ顔(かお)を見(み)ながら、拝借(はいしゃく)に及(およ)ぼうッてんだ」
「そいつァ駄目(だめ)だ」
「なんだって」
「駄目(だめ)ッてことよ。橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)は、たとえお大名(だいみょう)から拝領(はいりょう)の鎧兜(よろいかぶと)を持(も)ってッたって、金(かね)ァ貸しちゃァくれめえよ。――あの人(ひと)の欲(ほ)しい物(もの)ァ、日本中(にほんじゅう)にたったひとつ、笠森(かさもり)おせんの情(なさけ)より外(ほか)にゃ、ありゃァしねッてこった」
「だから、そのおせんの、身(み)から分(わ)けた物(もの)を、おいらァ買(か)ってもらいに行(い)こうッてえのよ」
「身(み)から分(わ)けた物(もの)。――」
「そうだ。他(ほか)の者(もの)が望(のぞ)んだら、百両(りょう)でも譲(ゆず)れる品(しな)じゃねえんだが、相手(あいて)がおせんに首(くび)ッたけの若旦那(わかだんな)だから、まず一両(りょう)がとこで辛抱(しんぼう)してやろうと思(おも)ってるんだ」
「春重(はるしげ)さん。またお前(まえ)、つまらねえ細工物(さいくもの)でもこしらえたんだな」
「冗談(じょうだん)じゃねえ、こしらえたもンなんぞた、天(てん)から訳(わけ)が違うンだぜ」
「訳(わけ)が違(ちが)うッたって、そんな物(もの)がざらにあろうはずもなかろうじゃねえか」
「ところが、あるんだから面白(おもしれ)えや」
「そいつァいってえ、なんだってんだい」
「爪(つめ)よ」
「え」
「爪(つめ)だってことよ」
「爪(つめ)」
「その通(とお)りだ。おせんの身(み)についてた、嘘偽(うそいつわ)りのねえ生爪(なまづめ)なんだ」
「馬(ば)、馬鹿(ばか)にしちゃァいけねえ。いくらおせんの物(もの)だからッて、爪(つめ)なんざ、何(な)んの役(やく)にもたちゃァしねえや。かつぐのもいい加減(かげん)にしてくんねえ」
「ふん、物(もの)の値打(ねうち)のわからねえ奴(やつ)にゃかなわねえの。女(おんな)の身体(からだ)についてるもんで、年(ねん)が年中(ねんじゅう)、休(やす)みなしに伸(の)びてるもなァ、髪(かみ)の毛(け)と爪(つめ)だけだぜ。そのうちでも爪(つめ)の方(ほう)は、三日(みっか)見(み)なけりゃ目立(めだ)って伸(の)びる代物(しろもの)だ。――指(ゆび)の数(かず)で三百本(ぽん)、糠袋(ぬかぶくろ)に入(い)れてざっと半分(はんぶん)よ。この混(ま)じりッけのねえおせんの爪(つめ)が、たった小判(こばん)一枚(まい)だとなりゃ、若旦那(わかだんな)が猫(ねこ)のように飛(と)びつくなァ、磨(と)ぎたての鏡(かがみ)でおのが面(つら)を見(み)るより、はっきりしてるぜ」
 春重(はるしげ)のまわりには、いつか、ぐるりと裸(はだか)の人垣(ひとがき)が出来(でき)ていた。

    五

「千の字(じ)。おめえ、いい腕(うで)ンなったの」
「ふふふ」
「笑(わら)いごっちゃねえぜ。二十五両(りょう)たァ、大束(おおたば)に儲(もう)けたじゃねえか」
「どこで、そいつを聞(き)いた」
「壁(かべ)に耳(みみ)ありよ。さっき、通(とお)りがかりに飛(と)び込(こ)んだ神田(かんだ)の湯屋(ゆや)で、傘屋(かさや)の金蔵(きんぞう)とかいう奴(やつ)が、てめえのことのように、自慢(じまん)らしく、みんなに話(はな)して聞(き)かせてたんだ」
「あいつ、もうそんな余計(よけい)なことを喋(しゃべ)りゃがったかい」
「喋(しゃべ)ったの、喋(しゃべ)らねえの段(だん)じゃねえや。紙屋(かみや)の若旦那(わかだんな)をまるめ込(こ)んで。――」
 下総武蔵(しもふさむさし)の国境(くにざかい)だという、両国橋(りょうごくばし)のまん中(なか)で、ぼんやり橋桁(はしげた)にもたれたまま、薄汚(うすぎたな)い婆(ばあ)さんが一匹(ぴき)五文(もん)で売(う)っている、放(はな)し亀(かめ)の首(くび)の動(うご)きを見詰(みつ)めていた千吉(きち)は、通(とお)りがかりの細川(ほそかわ)の厩中間(うまやちゅうげん)竹(たけ)五郎(ろう)に、ぽんと背中(せなか)をたたかれて、立(た)て続(つづ)けに聞(き)かされたのが、柳湯(やなぎゆ)で、金蔵(きんぞう)がしゃべったという、橘屋(たちばなや)の一件(けん)であった。
 が、もう一度(ど)竹(たけ)五郎(ろう)が、鼻(はな)の頭(あたま)を引(ひ)ッこすって、ニヤリと笑(わら)ったその刹那(せつな)、向(むこ)うから来(き)かかった、八丁堀(ちょうぼり)の与力(よりき)井上藤吉(いのうえとうきち)の用(よう)を聞(き)いている鬼(おに)七を認(みと)めた千吉(きち)は、素速(すばや)く相手(あいて)を眼(め)で制(せい)した。
「叱(し)ッ。いけねえ。行(い)っちめえねえ」
「合点(がってん)だ」
 するりと抜(ぬ)けるようにして、竹(たけ)五郎(ろう)が行(い)ってしまうと、はやくも鬼(おに)七は、千吉(きち)の眼(め)の前(まえ)に迫(せま)っていた。
「千吉(きち)。おめえ、こんなとこで、何(なに)をうろうろしてるんだ」
「へえ。きょうは親父(おやじ)の、墓詣(はかめえ)りにめえりやした。その帰(けえ)りがけでござんして。……」
「墓詣(はかまい)り」
「へえ」
「いつッから、そんな心(こころ)がけになったんだ」
「どうか御勘弁(ごかんべん)を」
「勘弁(かんべん)はいいが、――丁度(ちょうど)いい所(ところ)でおめえに遭(あ)った。ちっとばかり訊(き)きてえことがあるから、つきあってくんねえ」
「へえ」
「びくびくするこたァありゃしねえ。こいつあこっちから頼(たの)むんだから、安心(あんしん)してついて来(き)ねえ」
 鬼(おに)七と呼ばれてはいるが、名前(なまえ)とはまったく違(ちが)った、すっきりとした男前(おとこまえ)の、結(ゆ)いたての髷(まげ)を川風(かわかぜ)に吹(ふ)かせた格好(かっこう)は、如何(いか)にも颯爽(さっそう)としていた。
 折柄(おりから)の上潮(あげしお)に、漫々(まんまん)たる秋(あき)の水(みず)をたたえた隅田川(すみだがわ)は、眼(め)のゆく限(かぎ)り、遠(とお)く筑波山(つくばやま)の麓(ふもと)まで続(つづ)くかと思(おも)われるまでに澄渡(すみわた)って、綾瀬(あやせ)から千住(じゅ)を指(さ)して遡(さかのぼ)る真帆方帆(まほかたほ)が、黙々(もくもく)と千鳥(ちどり)のように川幅(かわはば)を縫(ぬ)っていた。
 その絵巻(えまき)を展(ひろ)げた川筋(かわすじ)の景色(けしき)を、見(み)るともなく横目(よこめ)で見(み)ながら、千吉(きち)と鬼(おに)七は肩(かた)をならべて、静(しず)かに橋(はし)の上(うえ)を浅草御門(あさくさごもん)の方(ほう)へと歩(あゆ)みを運(はこ)んだ。
「千吉(きち)、おめえ、おせんのところへは出(で)かけたろうの」
「どういたしやして。妹(いもうと)にゃ、三年(ねん)この方(かた)、てんで会(あ)やァいたしません」
「ふふふ。つまらねえ隠(かく)し立(だ)ては止(や)めねえか。いまもいった通(とお)り、おいらァおめえを、洗(あら)い立(た)てるッてんじゃねえ。こっちの用(よう)で訊(き)きてえことがあるんだ。悪(わる)いようにゃしねえから、はっきり聞(き)かしてくんねえ」
「どんな御用(ごよう)で。……」
「おせんのとこへ、菊之丞(はまむらや)が毎晩(まいばん)通(かよ)うッて噂(うわさ)を聞(き)き込(こ)んだんだが、そいつをおめえは知(し)ってるだろうの」
 こう訊(き)きながら、鬼(おに)七の眼(め)は異様(いよう)に光(ひか)った。

    六

 鬼(おに)七の問(とい)は、まったく千吉(きち)には思(おも)いがけないことであった。――子供(こども)の時分(じぶん)から好(す)きでこそあれ、嫌(きら)いではない菊之丞(きくのじょう)を、おせんがどれ程(ほど)思(おも)い詰(つ)めているかは、いわずと知(し)れているものの、今(いま)では江戸(えど)一番(ばん)の女形(おやま)といわれている菊之丞(きくのじょう)が、自分(じぶん)からおせんの許(もと)へ、それも毎晩(まいばん)通(かよ)って来(き)ようなぞとは、どこから出(で)た噂(うわさ)であろう。岡焼半分(おかやきはんぶん)の悪刷(わるずり)にしても、あんまり話(はなし)が食(く)い違(ちが)い過(す)ぎると、千吉(きち)は思(おも)わず鬼(おに)七の顔(かお)を見返(みかえ)した。
「何(な)んで、そんな不審(ふしん)そうな顔(かお)をするんだ」
「何(な)んでと仰(おっ)しゃいますが、あんまり親方(おやかた)のお聞(き)きなさることが、解(げ)せねえもんでござんすから。……」
「おいらの訊(き)くことが解(げ)せねえッて。――何(なに)が解(げ)せねえんだ」
「浜村屋(はまむらや)は、おせんのところへなんざ、命(いのち)を懸(か)けて頼(たの)んだって、通(かよ)っちゃくれませんや」
「おめえ、まだ隠(かく)してるな」
「どういたしやして、嘘(うそ)も隠(かく)しもありゃァしません。みんなほんまのことを申(もうし)上(あ)げて居(お)りやすんで。……」
「千吉(きち)」
「へ」
「おめえ、二三日前(にちまえ)に行(い)った時(とき)、おせんが誰(だれ)と話(はなし)をしてえたか、そいつをいって見(み)ねえ」
「話(はなし)でげすって」
「そうだ。おせん一人(ひとり)じゃなかったろう。たしか相手(あいて)がいたはずだ」
「お袋(ふくろ)が、隣座敷(となりざしき)にいた外(ほか)にゃ、これぞといって、人(ひと)らしい者(もの)ァいやァいたしません」
「ふふふ、お七はいなかったか」
「お七ッ」
「どうだ、お七の衣装(いしょう)を着(き)た浜村屋(はまむらや)が、ちゃァんと一人(ひとり)いたはずだ。おめえはその眼(め)で見(み)たじゃねえか」
「ありゃァ親方(おやかた)。――」
「あれもこれもありゃァしねえ。おいらはそいつを訊(き)いてるんだ」
「人形(にんぎょう)じゃござんせんか」
「とぼけちゃいけねえ。人間(にんげん)を人形(にんぎょう)と見違(みちが)える程(ほど)、鬼(おに)七ァまだ耄碌(もうろく)しちゃァいねえよ。ありゃァ菊之丞(きくのじょう)に違(ちげ)えあるめえ」
「確(たしか)にそうたァ申上(もうしあげ)られねえんで。……」
「おめえ、眼(め)が上(あが)ったな。判(わか)った。――もういいから帰(けえ)ンな」
「有難(ありがと)うござんすが、――親方(おやかた)、あれがもしか浜村屋(はまむらや)だったら、どうなせえやすんで。……」
「どうもしやァしねえ」
「どうもしねンなら、何(なに)も。――」
「聞(き)きてえか」
「どうか、お聞(き)かせなすっておくんなせえやし」
「浜村屋(はまむらや)は、役者(やくしゃ)を止(や)めざァならねえんだ」
「何(な)んでげすッて」
「口(くち)が裂(さ)けてもいうじゃァねえぞ。――南御町奉行(みなみおまちぶぎょう)の、信濃守様(しなののかみさま)の妹御(いもうとご)のお蓮様(れんさま)は、浜村屋(はまむらや)の日本(にほん)一の御贔屓(ごひいき)なんだ」
「ではあの、壱岐様(いきさま)からのお出戻(でもど)りの。――」
「叱(し)っ。余計(よけい)なこたァいっちゃならねえ」
「へえ」
「さ、帰(けえ)ンねえ」
「有難(ありがと)うござんす」
 千吉(きち)は、ふところの小判(こばん)を気(き)にしながら、ほっとして頭(あたま)を下(さ)げた。
 襟(えり)に当(あた)る秋(あき)の陽(ひ)は狐色(きつねいろ)に輝(かがや)いていた。

    七

 無理(むり)やりに、手習(てなら)いッ子(こ)に筆(ふで)を握(にぎ)らせるようにして、たった二行(ぎょう)の文(ふみ)ではあったが、いや応(おう)なしに書(か)かされた、ありがたく存(ぞん)じ候(そうろう)かしこの十一文字(もじ)が気(き)になるままに、一夜(や)をまんじりともしなかったおせんは、茶(ちゃ)の味(あじ)もいつものようにさわやかでなく、まだ小半時(こはんとき)も早(はや)い、明(あ)けたばかりの日差(ひざし)の中(なか)を駕籠(かご)に揺(ゆ)られながら、白壁町(しろかべちょう)の春信(はるのぶ)の許(もと)を訪(おとず)れたのであった。
 弟子(でし)の藤吉(とうきち)から、おせんが来(き)たとの知(し)らせを聞(き)いた春信(はるのぶ)は、起(お)き出(で)たばかりで顔(かお)も洗(あら)っていなかったが、とりあえず画室(がしつ)へ通(とお)して、磁器(じき)の肌(はだ)のように澄(す)んだおせんの顔(かお)を、じっと見詰(みつ)めた。
「大(たい)そう早(はや)いの」
「はい。少(すこ)しばかり思(おも)い余(あま)ったことがござんして、お智恵(ちえ)を拝借(はいしゃく)に伺(うかが)いました」
「智恵(ちえ)を貸(か)せとな。はッはッは。これは面白(おもしろ)い。智恵(ちえ)はわたしよりお前(まえ)の方(ほう)が多分(たぶん)に持合(もちあわ)せているはずだがの」
「まァお師匠(ししょう)さん」
「いや、それァ冗談(じょうだん)だが、いったいどんなことが持上(もちあが)ったといいなさるんだ」
「あのう、いつもお話(はな)しいたします兄(あに)が、ゆうべひょっこり、帰(かえ)って来(き)たのでござんす」
「なに、兄(にい)さんが帰(かえ)って来(き)たと」
「はい」
「よく聞(き)くお前(まえ)の話(はなし)では、千吉(きち)とやらいう兄(にい)さんは、まる三年(ねん)も行方(ゆくえ)知(し)れずになっていたとか。――それがまた、どうして急(きゅう)に。――」
「面目次第(めんぼくしだい)もござんせぬが、兄(にい)さんは、お宝(たから)が欲(ほ)しいばっかりに、帰(かえ)って来(き)たのだと、自分(じぶん)の口(くち)からいってでござんす」
「金(かね)が欲(ほ)しいとの。したがまさか、お前(まえ)を分限者(ぶげんじゃ)だとは思(おも)うまいがの」
「兄(にい)さんは、あたしを囮(おとり)にして、よその若旦那(わかだんな)から、お金(かね)をお借(か)り申(もう)したのでござんす」
「ほう、何(な)んとして借(か)りた」
「いやがるあたしに文(ふみ)を書(か)かせ、その文(ふみ)を、二十五両(りょう)に、買(か)っておもらい申(もう)すのだと、引(ひ)ッたくるようにして、どこぞへ消(き)え失(う)せましたが、そのお人(ひと)は誰(だれ)あろう、通油町(とおりあぶらちょう)の、橘屋(たちばなや)の徳太郎(とくたろう)さんという、虫(むし)ずが走(はし)るくらい、好(す)かないお方(かた)でござんす」
「そんなら千吉(きち)さんは、橘屋(たちばなや)の徳(とく)さんから、その金(かね)を借(か)りて。――」
「はい。今頃(いまごろ)はおおかた、どこぞお大名屋敷(だいみょうやしき)のお厩(うまや)で、好(す)きな勝負(しょうぶ)をしてでござんしょうが、文(ふみ)を御覧(ごらん)なすった若旦那(わかだんな)が、まッことあたしからのお願(ねが)いとお思(おも)いなされて、大枚(たいまい)のお宝(たから)をお貸(か)し下(くだ)さいましたら、これから先(さき)あたしゃ若旦那(わかだんな)から、どのような難題(なんだい)をいわれても、返(かえ)す言葉(ことば)がござんせぬ。――お師匠(ししょう)さん。何(なん)としたらよいものでござんしょう」
 まったく途方(とほう)に暮(く)れたのであろう。春信(はるのぶ)の顔(かお)を見(み)あげたおせんの瞼(まぶた)は、露(つゆ)を含(ふく)んだ花弁(かべん)のように潤(うる)んで見(み)えた。
「さァてのう」
 腕(うで)をこまねいて、あごを引(ひ)いた春信(はるのぶ)は、暫(しば)し己(おの)が膝(ひざ)の上(うえ)を見詰(みつ)めていたが、やがて徐(おもむろ)に首(くび)を振(ふ)った。
「徳(とく)さんも、人(ひと)の心(こころ)の読(よ)めない程(ほど)馬鹿(ばか)でもなかろう。どのような文句(もんく)を書(か)いた文(ふみ)か知(し)らないが、その文(ふみ)一本(ぽん)で、まさか二十五両(りょう)の大金(たいきん)は出(だ)すまいよ」
「それでも兄(にい)さんは、ただの二字(じ)でも三字(じ)でも、あたしの書(か)いた文(ふみ)さえ持(も)って行(い)けば、お金(かね)は右(みぎ)から左(ひだり)とのことでござんした」
「そりゃ、いつのことだの」
「ゆうべでござんす」
 おせんがもう一度(ど)、顔(かお)を上(あ)げた時(とき)であった。突然(とつぜん)障子(しょうじ)の外(そと)から、藤吉(とうきち)の声(こえ)が低(ひく)く聞(きこ)えた。
「おせんさん、大変(たいへん)なことができましたぜ。浜村屋(はまむらや)の太夫(たゆう)が、急病(きゅうびょう)だってこった」
 おせんは「はッ」と胸(むね)が詰(つ)まって、直(す)ぐには口(くち)が听(き)けなかった。

  夢(ゆめ)


    一

 子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、――と、客(きゃく)のない上(あが)りかまちに腰(こし)をかけて、独(ひと)り十二支(し)を順(じゅん)に指折(ゆびお)り数(かぞ)えていた、仮名床(かなどこ)の亭主(ていしゅ)伝吉(でんきち)は、いきなり、息(いき)がつまるくらい荒(あら)ッぽく、拳固(げんこ)で背中(せなか)をどやしつけられた。
「痛(いて)ッ。――だ、だれだ」
「だれだじゃねえや、てえへんなことがおっ始(ぱじ)まったんだ。子丑寅(ねうしとら)もなんにもあったもんじゃねえ。あしたッから、うちの小屋(こや)は開(あ)かねえかも知(し)れねえぜ」
 火事場(かじば)の纏持(まといもち)のように、息(いき)せき切(き)って駆(か)け込(こ)んで来(き)たのは、同(おな)じ町内(ちょうない)に住(す)む市村座(いちむらざ)の木戸番(きどばん)長兵衛(ちょうべえ)であった。
 伝吉(でんきち)はぎょっとして、もう一度(ど)長兵衛(ちょうべえ)の顔(かお)を見直(みなお)した。
「な、なにがあったんだ」
「なにがも、かにがもあるもんじゃねえ、まかり間違(まちが)や、てえした騒(さわ)ぎになろうッてんだ。おめえンとこだって、芝居(しばい)のこぼれを拾(ひろ)ってる家業(かぎょう)なら、万更(まんざら)かかり合(あい)のねえこともなかろう。こけが秋刀魚(さんま)の勘定(かんじょう)でもしてやしめえし、指(ゆび)なんぞ折(お)ってる時(とき)じゃありゃァしねえぜ」
「いってえ、どうしたッてんだ、長(ちょう)さん」
「おめえ、まだ判(わか)らねえのか」
「聞(き)かねえことにゃ判(わか)らねえや」
「なんて血(ち)のめぐりが悪(わる)く出来(でき)てるんだ。――浜村屋(はまむらや)の太夫(たゆう)が、舞台(ぶたい)で踊(おど)ってたまま倒(たお)れちゃったんだ」
「何(な)んだッてそいつァおめえ、本当(ほんとう)かい」
「おれにゃ、嘘(うそ)と坊主(ぼうず)の頭(あたま)ァいえねえよ。――仮(かり)にもおんなじ芝居(しばい)の者(もの)が、こんなことを、ありもしねえのにいって見(み)ねえ。それこそ簀巻(すまき)にして、隅田川(すみだがわ)のまん中(なか)へおッ放(ぽ)り込(こ)まれらァな」
「長(ちょう)さん」
「ええびっくりするじゃねえか。急(きゅう)にそんな大(おお)きな声(こえ)なんざ、出(だ)さねえでくんねえ」
「何(なに)をいってるんだ。これがおめえ、こそこそ話(ばなし)にしてられるかい。おいらァ誰(だれ)が好きだといって、浜村屋(はまむらや)の太夫(たゆう)くれえ、好(す)きな役者衆(やくしゃしゅう)はねえんだよ。芸(げい)がよくって愛嬌(あいきょう)があって、おまけに自慢気(じまんげ)なんざ薬(くすり)にしたくもねえッてお人(ひと)だ。――どこが悪(わる)くッて、どう倒(たお)れたんだか、さ、そこをおいらに、委(くわ)しく話(はな)して聞(き)かしてくんねえ」

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