おせん
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著者名:邦枝完二 

  虫(むし)


    一

「おッとッとッと。そう乗(のり)出(だ)しちゃいけない。垣根(かきね)がやわだ。落着(おちつ)いたり、落着(おちつ)いたり」
「ふふふ。あわててるな若旦那(わかだんな)、あっしよりお前(まえ)さんでげしょう」
「叱(し)ッ、静(しず)かに。――」
「こいつァまるであべこべだ。どっちが宰領(さいりょう)だかわかりゃァしねえ」
 が、それでも互(たがい)の声(こえ)は、ひそやかに触(ふ)れ合(あ)う草(くさ)の草(は)ずれよりも低(ひく)かった。
「まだかの」
「まだでげすよ」
「じれッてえのう、向(むこ)う臑(ずね)を蚊(か)が食(く)いやす」
「御辛抱(ごしんぼう)、御辛抱(ごしんぼう)。――」
 谷中(やなか)の感応寺(かんおうじ)を北(きた)へ離(はな)れて二丁(ちょう)あまり、茅葺(かやぶき)の軒(のき)に苔(こけ)持(も)つささやかな住居(すまい)ながら垣根(かきね)に絡(から)んだ夕顔(ゆうがお)も白(しろ)く、四五坪(つぼ)ばかりの庭(にわ)一杯(ぱい)に伸(の)びるがままの秋草(あきぐさ)が乱(みだ)れて、尾花(おばな)に隠(かく)れた女郎花(おみなえし)の、うつつともなく夢見(ゆめみ)る風情(ふぜい)は、近頃(ちかごろ)評判(ひょうばん)の浮世絵師(うきよえし)鈴木晴信(すずきはるのぶ)が錦絵(にしきえ)をそのままの美(うつく)しさ。次第(しだい)に冴(さ)える三日月(みかづき)の光(ひか)りに、あたりは漸(ようや)く朽葉色(くちばいろ)の闇(やみ)を誘(さそ)って、草(くさ)に鳴(な)く虫(むし)の音(ね)のみが繁(しげ)かった。
「松(まっ)つぁん」
「へえ」
「たしかにここに、間違(まちが)いはあるまいの」
「冗談(じょうだん)じゃござんせんぜ、若旦那(わかだんな)。こいつを間違(まちが)えたんじゃ、松(まつ)五郎(ろう)めくら犬(いぬ)にも劣(おと)りやさァ」
「だってお前(まえ)、肝腎(かんじん)の弁天様(べんてんさま)は、かたちどころか、影(かげ)も見(み)せやしないじゃないか」
「御辛抱(ごしんぼう)、御辛抱(ごしんぼう)、急(せ)いちゃァ事(こと)を仕損(しそん)じやす」
「ここへ来(き)てから、もう半時近(はんときちか)くも経(た)ってるんだよ。それだのにお前(まえ)。――」
「でげすから、あっしは浅草(おくやま)を出(で)る時(とき)に、そう申(もう)したじゃござんせんか。松(まつ)の位(くらい)の太夫(たゆう)でも、花魁(おいらん)ならば売(う)り物(もの)買(か)い物(もの)。耳(みみ)のほくろはいうに及(およ)ばず、足(あし)の裏(うら)の筋数(すじかず)まで、読(よ)みたい時(とき)に読(よ)めやすが、きょうのはそうはめえりやせん。半時(はんとき)はおろか、事(こと)によったら一時(いっとき)でも二時(ふたとき)でも、垣根(かきね)のうしろにしゃがんだまま、お待(ま)ちンならなきゃいけませんと、念(ねん)をお押(お)し申(もう)した時(とき)に、若旦那(わかだんな)、あなたは何(な)んと仰(おっ)しゃいました。当時(とうじ)、江戸(えど)の三人女(にんおんな)の随(ずい)一と名(な)を取(と)った、おせんの肌(はだ)が見(み)られるなら、蚊(か)に食(く)われようが、虫(むし)に刺(さ)されようが、少(すこ)しも厭(いと)うことじゃァない、好(す)きな煙草(たばこ)も慎(つつし)むし、声(こえ)も滅多(めった)に出(だ)すまいから、何(な)んでもかんでもこれから直(す)ぐに連(つ)れて行(い)け。その換(かわ)りお礼(れい)は二分(ぶ)まではずもうし、羽織(はおり)もお前(まえ)に進呈(しんてい)すると、これこの通(とお)りお羽織(はおり)まで下(くだ)すったんじゃござんせんか。それだのに、まだほんの、半時(はんとき)経(た)つか経(た)たないうちから、そんな我儘(わがまま)をおいいなさるんじゃ、お約束(やくそく)が違(ちが)いやす。頂戴物(ちょうだいもの)は、みんなお返(かえ)しいたしやすから、どうか松(まつ)五郎(ろう)に、お暇(ひま)をおくんなさいやして。……」
「おっとお待(ま)ち。あたしゃ何(なに)も、辛抱(しんぼう)しないたいやァしないよ。ええ、辛抱(しんぼう)しますとも、夜中(よなか)ンなろうが、夜(よ)が明(あ)けようが、ここは滅多(めった)に動(うご)くンじゃないけれど、お前(まえ)がもしか門違(かどちが)いで、おせんの家(うち)でもない人(ひと)の……」
「そ、それがいけねえというんで。……いくらあっしが酔狂(すいきょう)でも、若旦那(わかだんな)を知(し)らねえ家(いえ)の垣根(かきね)まで、引(ひ)っ張(ぱ)って来(く)る筈(はず)ァありませんや。松(まつ)五郎(ろう)自慢(じまん)の案内役(あんないやく)、こいつばかりゃ、たとえ江戸(えど)がどんなに広(ひろ)くッても――」
「叱(し)ッ」
「うッ」
 帯(おび)ははやりの呉絽(ごろ)であろう。引(ひ)ッかけに、きりりと結(むす)んだ立姿(たちすがた)、滝縞(たきじま)の浴衣(ゆかた)が、いっそ背丈(せたけ)をすっきり見(み)せて、颯(さっ)と簾(すだれ)の片陰(かたかげ)から縁先(えんさき)へ浮(う)き出(で)た十八娘(むすめ)。ぽつんと一本(ぽん)咲(さ)き初(はじ)めた、桔梗(ききょう)の花(はな)のそれにも増(ま)して、露(つゆ)は紅(べに)より濃(こま)やかであった。
 明和(めいわ)戌年(いぬどし)秋(あき)八月(がつ)、そよ吹(ふ)きわたるゆうべの風(かぜ)に、静(しず)かに揺(ゆ)れる尾花(おばな)の波路(なみじ)。娘(むすめ)の手(て)から、団扇(うちわ)が庭(にわ)にひらりと落(お)ちた。

    二

 顔(かお)を掠(かす)めて、ひらりと落(お)ちた桔梗(ききょう)の花(はな)のひとひらにさえ、音(おと)も気遣(きづか)う心(こころ)から、身動(みうご)きひとつ出来(でき)ずにいた、日本橋通(にほんばしとおり)油町(あぶらちょう)の紙問屋(かみどんや)橘屋徳兵衛(たちばなやとくべえ)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)と、浮世絵師(うきよえし)春信(はるのぶ)の彫工(ほりこう)松(まつ)五郎(ろう)の眼(め)は、釘着(くぎづ)けにされたように、夕顔(ゆうがお)の下(した)から離(はな)れなかった。
 が、よもやおのが垣根(かきね)の外(そと)に、二人(ふたり)の男(おとこ)が示(しめ)し合(あわ)せて、眼(め)をすえていようとは、夢想(むそう)もしなかったのであろう。娘(むすめ)は落(お)ちた団扇(うちわ)を流(なが)し目(め)に、呉絽(ごろ)の帯(おび)に手(て)をかけると、廻(まわ)り燈籠(どうろう)の絵(え)よりも速(はや)く、きりりと廻(まわ)ったただずまい、器用(きよう)に帯(おび)から脱(ぬ)け出(だ)して、さてもう一廻(まわ)り、ゆるりと廻(まわ)った爪先(つまさき)を縁(えん)に停(とど)めたその刹那(せつな)、俄(にわか)に音(ね)を張(は)る鈴虫(すずむし)に、浴衣(ゆかた)を肩(かた)から滑(すべ)らせたまま、半身(はんしん)を縁先(えんさき)へ乗(の)りだした。
「南無(なむ)大願成就(だいがんじょうじゅ)。――」
「叱(し)ッ」
 あとには再(ふたた)び虫(むし)の声(こえ)。
 京師(けいし)の、花(はな)を翳(かざ)して過(すご)す上臈(じょうろう)達(たち)はいざ知(し)らず、天下(てんか)の大将軍(だいしょうぐん)が鎮座(ちんざ)する江戸(えど)八百八町(ちょう)なら、上(うえ)は大名(だいみょう)の姫君(ひめぎみ)から、下(した)は歌舞(うたまい)の菩薩(ぼさつ)にたとえられる、よろず吉原(よしわら)千の遊女(ゆうじょ)をすぐっても、二人(ふたり)とないとの評判娘(ひょうんばんむすめ)。下谷(したや)谷中(やなか)の片(かた)ほとり、笠森稲荷(かさもりいなり)の境内(けいだい)に、行燈(あんどん)懸(か)けた十一軒(けん)の水茶屋娘(みずちゃやむすめ)が、三十余人(よにん)束(たば)になろうが、縹緻(きりょう)はおろか、眉(まゆ)一つ及(およ)ぶ者(もの)がないという、当時(とうじ)鈴木春信(すずきはるのぶ)が一枚刷(まいずり)の錦絵(にしきえ)から、子供達(こどもたち)の毬唄(まりうた)にまで持(も)て囃(はや)されて、知(し)るも知(し)らぬも、噂(うわさ)の花(はな)は咲(さ)き放題(ほうだい)、かぎ屋(や)のおせんならでは、夜(よ)も日(ひ)も明(あ)けぬ煩悩(ぼんのう)は、血気盛(けっきざか)りの若衆(わかしゅう)ばかりではないらしく、何(なに)ひとつ心願(しんがん)なんぞのありそうもない、五十を越(こ)した武家(ぶけ)までが、雪駄(せった)をちゃらちゃらちゃらつかせてお稲荷詣(いなりもう)でに、御手洗(みたらし)の手拭(てぬぐい)は、常(つね)に乾(かわ)くひまとてないくらいであった。
 橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)も、この例(れい)に漏(も)れず、日(ひ)に一度(ど)は、判(はん)で捺(お)したように帳場格子(ちょうばごうし)の中(なか)から消(き)えて、目指(めざ)すは谷中(やなか)の笠森様(かさもりさま)、赤(あか)い鳥居(とりい)のそれならで、赤(あか)い襟(えり)からすっきりのぞいたおせんが雪(ゆき)の肌(はだ)を、拝(おが)みたさの心願(しんがん)に外(ほか)ならならなかったのであるが、きょうもきょうとて浅草(あさくさ)の、この春(はる)死(し)んだ志道軒(しどうけん)の小屋前(こやまえ)で、出会頭(であいがしら)に、ばったり遭(あ)ったのが彫工(ほりこう)の松(まつ)五郎(ろう)、それと察(さっ)した松(まつ)五郎(ろう)から、おもて飾(かざ)りを見(み)るなんざ大野暮(おおやぼ)の骨頂(こっちょう)でげす。おせんの桜湯(さくらゆ)飲(の)むよりも、帯紐(おびひも)解(と)いた玉(たま)の肌(はだ)が見(み)たかァござんせんかとの、思(おも)いがけない話(はなし)を聞(き)いて、あとはまったく有頂天(うちょうてん)、どこだどこだと訪(たず)ねるまでもなく、二分(ぶ)の礼(れい)と着ていた羽織(はおり)を渡(わた)して、無我夢中(むがむちゅう)は、やがてこの垣根(かきね)の外(そと)となった次第(しだい)。――百匹(ぴき)の蚊(か)が一度(ど)に臑(すね)にとまっても、痛(いた)さもかゆさも感(かん)じない程(ほど)、徳太郎(とくたろう)の眼(め)は、野犬(やけん)のようにすわっていた。
「若旦那(わかだんな)」
「黙(だま)って。――」
「黙(だま)ってじゃァござんせん。もっと低(ひく)くおなんなすって。――」
「判(わか)ってるよ」
「そんならお速(はや)く」
「ええもういらぬお接介(せっかい)。――」
 おおかた、縁(えん)から上手(かみて)へ一段(だん)降(お)りて戸袋(とぶくろ)の蔭(かげ)には既(すで)に盥(たらい)が用意(ようい)されて、釜(かま)で沸(わか)した行水(ぎょうずい)の湯(ゆ)が、かるい渦(うず)を巻(ま)いているのであろうが、上半身(じょうはんしん)を現(あら)わにしたまま、じっと虫(むし)の音(ね)に聴(き)きいっているおせんは、容易(ようい)に立(た)とうとしないばかりか、背(せ)から腰(こし)へと浴衣(ゆかた)の滑(すべ)り落(お)ちるのさえ、まったく気(き)づかぬのであろう。三日月(みかづき)の淡(あわ)い光(ひかり)が青(あお)い波紋(はもん)を大(おお)きく投(な)げて、白珊瑚(しろさんご)を想(おも)わせる肌(はだ)に、吸(す)い着(つ)くように冴(さ)えてゆく滑(なめ)らかさが、秋草(あきぐさ)の上(うえ)にまで映(は)え盛(さか)ったその刹那(せつな)、ふと立上(たちあが)ったおせんは、颯(さっ)と浴衣(ゆかた)をかなぐり棄(す)てると手拭(てぬぐい)片手(かたて)に、上手(かみて)の段(だん)を二段(だん)ばかり、そのまま戸袋(とぶくろ)の蔭(かげ)に身(み)を隠(かく)した。
「あッ」
「たッ」
 辱(はじ)も外聞(がいぶん)も忘(わす)れ果(は)てたか、徳太郎(とくたろう)と松(まつ)五郎(ろう)の口(くち)からは、同時(どうじ)に奇声(きせい)が吐(は)きだされた。

    三

「おせんや」
「あい」
「何(な)んだえ、いまのあの音(おと)は。――」
「さァ、何(な)んでござんしょう。おおかた金魚(きんぎょ)を狙(ねら)う、泥棒猫(どろぼうねこ)かも知(し)れませんよ」
「そんならいいが、あたしゃまたおまえが転(ころ)びでもしたんじゃないかと思(おも)って、びっくりしたのさ。おまえあって、あたし、というより、勿体(もったい)ないが、おまえあってのお稲荷様(いなりさま)、滅多(めった)に怪我(けが)でもしてごらん、それこそ御参詣(おさんけい)が、半分(はんぶん)に減(へ)ってしまうだろうじゃないか。――縹緻(きりょう)がよくって孝行(こうこう)で、その上(うえ)愛想(あいそう)ならとりなしなら、どなたの眼(め)にも笠森(かさもり)一、お腹(なか)を痛(いた)めた娘(むすめ)を賞(ほ)める訳(わけ)じゃないが、あたしゃどんなに鼻(はな)が高(たか)いか。……」
「まァお母(かあ)さん。――」
「いいやね。恥(はず)かしいこたァありゃァしない。子(こ)を賞(ほ)める親(おや)は、世間(せけん)には腐(くさ)る程(ほど)あるけれど、どれもこれも、これ見(み)よがしの自慢(じまん)たらたら。それと違(ちが)ってあたしのは、おまえに聞(き)かせるお礼(れい)じゃないか。さ、ひとつついでに、背中(せなか)を流(なが)してあげようから、その手拭(てぬぐい)をこっちへお出(だ)し」
「いいえ、汗(あせ)さえ流(なが)せばようござんすから……」
「何(なに)をいうのさ。いいからこっちへお向(む)きというのに」
 二十二で伜(せがれ)の千吉(きち)を生(う)み、二十六でおせんを生(う)んだその翌年(よくねん)、蔵前(くらまえ)の質見世(しちみせ)伊勢新(いせしん)の番頭(ばんとう)を勤(つと)めていた亭主(ていしゅ)の仲吉(なかきち)が、急病(きゅうびょう)で亡(な)くなった、幸(こう)から不幸(ふこう)への逆落(さかおと)しに、細々(ほそぼそ)ながら人(ひと)の縫物(ぬいもの)などをさせてもらって、その日(ひ)その日(ひ)を過(す)ごして早(はや)くも十八年(ねん)。十八に家出(いえで)をしたまま、いまだに行方(ゆくえ)も知(し)れない伜(せがれ)千吉(きち)の不甲斐(ふがい)なさは、思(おも)いだす度毎(たびごと)にお岸(きし)が涙(なみだ)の種(たね)ではあったが、踏(ふ)まれた草(くさ)にも花咲(はなさ)くたとえの文字通(もじどお)り、去年(きょねん)の梅見時分(うめみじぶん)から伊勢新(いせしん)の隠居(いんきょ)の骨折(ほねお)りで、出(だ)させてもらった笠森稲荷(かさもりいなり)の水茶屋(みずぢゃや)が忽(たちま)ち江戸中(えどじゅう)の評判(ひょうばん)となっては、凶(きょう)が大吉(だいきち)に返(かえ)った有難(ありがた)さを、涙(なみだ)と共(とも)に喜(よろこ)ぶより外(ほか)になく、それにつけても持(も)つべきは娘(むすめ)だと、近頃(ちかごろ)、お岸(きし)が掌(て)を合(あわ)せるのは、笠森様(かさもりさま)ではなくておせんであった。
「おせん」
「あい」
「つかぬことを訊(き)くようだが、おまえ毎日(まいにち)見世(みせ)へ出(で)ていて、まだこれぞと思(おも)う、好(す)いたお方(かた)は出来(でき)ないのかえ」
「まあ何(なに)かと思(おも)えばお母(かあ)さんが。――あたしゃそんな人(ひと)なんか、ひとりもありァしませんよ」
「ほほほほ。お怒(おこ)りかえ」
「怒(おこ)りゃしませんけれど、あたしゃ男(おとこ)は嫌(きら)いでござんす」
「なに、男(おとこ)は嫌(きら)いとえ」
「あい」
「ほんにまァ。――」
 この春(はる)まで、まだまだ子供(こども)と思(おも)っていたおせんとは、つい食違(くいちが)って、一つ盥(たらい)で行水(ぎょうずい)つかう折(おり)もないところから、お岸(きし)はいまだにそのままのなりかたちを想像(そうぞう)していたのであったが、ふとした物音(ものおと)に駆(か)け着(つ)けたきっかけに、半年振(はんとしぶり)で見(み)たおせんの体(からだ)は、まったく打(う)って変(か)わった大人(おとな)びよう。七八つの時分(じぶん)から、鴉(からす)の生(う)んだ鶴(つる)だといわれたくらい、色(いろ)の白(しろ)いが自慢(じまん)は知(し)れていたものの、半年(はんとし)見(み)ないと、こうも変(かわ)るものかと驚(おどろ)くばかりの色(いろ)っぽさは、肩(かた)から乳(ちち)へと流(なが)れるほうずきのふくらみをそのままの線(せん)に、殊(こと)にあらわの波(なみ)を打(う)たせて、背(せ)から腰(こし)への、白薩摩(しろさつま)の徳利(とくり)を寝(ね)かしたような弓(ゆみ)なりには、触(さわ)ればそのまま手先(てさき)が滑(すべ)り落(お)ちるかと、怪(あや)しまれるばかりの滑(なめ)らかさが、親(おや)の目(め)にさえ迫(せま)らずにはいなかった。
 嫌(きら)いな客(きゃく)が百人(にん)あっても、一人(ひとり)は好(す)きがあろうかと、訊(き)いて見(み)たいは、娘(むすめ)もつ親(おや)の心(こころ)であろう。

    四

「若旦那(わかだんな)」
「何(な)んとの」
「何(な)んとの、じゃァござんせんぜ。あの期(ご)に及(およ)んで、垣根(かきね)へ首(くび)を突込(つっこ)むなんざ、情(なさけ)なすぎて、涙(なみだ)が出(で)るじゃァござんせんか」
「おやおや、これはけしからぬ。お前(まえ)が腰(こし)を押(お)したからこそ、あんな態(ざま)になったんじゃないか、それを松(まつ)つぁん、あたしにすりつけられたんじゃ、おたまり小法師(こぼし)がありゃァしないよ」
「あれだ、若旦那(わかだんな)。あっしゃァ後(うしろ)にいたんじゃねえんで。若旦那(わかだんな)と並(なら)んで、のぞいてたんじゃござんせんか。腰(こし)を押(お)すにも押(お)さないにも、まず、手(て)が届(とど)きゃァしませんや。――それにでえいち、あの声(こえ)がいけやせん。おせんの浴衣(ゆかた)が肩(かた)から滑(すべ)るのを、見(み)ていなすったまでは無事(ぶじ)でげしたが、さっと脱(ぬ)いで降(お)りると同時(どうじ)に、きゃっと聞(き)こえた異様(いよう)な音声(おんせい)。差(さ)し詰(づめ)志道軒(しどうけん)なら、一天(てん)俄(にわか)にかき曇(くも)り、あれよあれよといいもあらせず、天女(てんにょ)の姿(すがた)は忽(たちま)ちに、隠(かく)れていつか盥(たらい)の中(なか)。……」
「おいおい松(まっ)つぁん。いい加減(かげん)にしないか。声(こえ)を出(だ)したなお前(まえ)が初(はじ)めだ」
「おやいけねえ。いくら主(しゅ)と家来(けらい)でも、あっしにばかり、罪(つみ)をなするなひどうげしょう」
「ひどいことがあるもんか。これからゆっくりかみしめて、味(あじ)を見(み)ようというところで、お前(まえ)に腰(こし)を押(お)されたばっかりに、それごらん、手(て)までこんなに傷(きず)だらけだ」
「そんならこれでもお付(つ)けなんって。……おっとしまった。きのうかかあが洗(あら)ったんで、まるっきり袂(たもと)くそがありゃァしねえ」
「冗談(じょうだん)いわっし、お前(まえ)の袂(たもと)くそなんぞ付(つ)けられたら、それこそ肝腎(かんじん)の人(ひと)さし指(ゆび)が、本(もと)から腐(くさ)って落(お)ちるわな」
「あっしゃァまだ瘡気(かさけ)の持合(もちあわ)せはござせんぜ」
「なにないことがあるものか。三日(みっか)にあげず三枚橋(まいばし)へ横丁(よこちょう)へ売女(やまねこ)を買(か)いに出(で)かけてるじゃないか。――鼻(はな)がまともに付(つ)いてるのが、いっそ不思議(ふしぎ)なくらいなものだ」
「こいつァどうも御挨拶(ごあいさつ)だ。人(ひと)の知(し)らない、おせんの裸(はだか)をのぞかせた挙句(あげく)、鼻(はな)のあるのが不思議(ふしぎ)だといわれたんじゃ、松(まつ)五郎(ろう)立(た)つ瀬(せ)がありやせん。冗談(じょうだん)は止(よ)しにして、ひとつ若旦那(わかだんな)、縁起直(えんぎなお)しに、これから眼(め)の覚(さ)めるとこへ、お供(とも)をさせておくんなさいまし」
「眼(め)の覚(さ)めるとことは。――」
「おとぼけなすっちゃいけません。闇(やみ)の夜(よ)のない女護(にょご)ヶ島(しま)、ここから根岸(ねぎし)を抜(ぬ)けさえすりゃァ、眼(め)をつぶっても往(い)けやさァね」
「折角(せっかく)だが、そんな所(ところ)は、あたしゃきょうから嫌(きら)いになったよ」
「なんでげすって」
「橘屋徳太郎(たちばなやとくたろう)、女房(にょうぼう)はかぎ屋のおせんにきめました」
「と、とんでもねえ、若旦那(わかだんな)。おせんはそんななまやさしい。――」
「おっと皆(みな)までのたまうな。手前(てまえ)、孫呉(そんご)の術(じゅつ)を心得(こころえ)て居(お)りやす」
「損(そん)五も得(とく)七もありゃァしません。当時(とうじ)名代(なだい)の孝行娘(こうこうむすめ)、たとい若旦那(わかだんな)が、百日(にち)お通(かよ)いなすっても、こればっかりは失礼(しつれい)ながら、及(およ)ばぬ鯉(こい)の滝登(たきのぼ)りで。……」
「松(まつ)っぁん」
「へえ」
「帰(かえ)っとくれ」
「えッ」
「あたしゃ何(な)んだか頭痛(ずつう)がして来(き)た。もうお前(まえ)さんと、話(はなし)をするのもいやンなったよ」
「そ、そんな御無態(ごむたい)をおいいなすっちゃ。――」
「どうせあたしゃ無態(むたい)さ。――この煙草入(たばこいれ)もお前(まえ)に上(あ)げるから、とっとと帰(かえ)ってもらいたいよ」
 三日月(みかづき)に、谷中(やなか)の夜道(よみち)は暗(くら)かった。その暗(くら)がりをただ独(ひと)り鳴(な)く、蟋蟀(こおろぎ)を踏(ふ)みつぶす程(ほど)、やけな歩(あゆ)みを続(つづ)けて行(い)く、若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)の頭(あたま)の中(なか)は、おせんの姿(すがた)で一杯(ぱい)であった。

    五

「ふん、何(な)んて馬鹿気(ばかげ)た話(はなし)なんだろう。こっちからお頼(たの)み申(もう)して来(き)てもらった訳(わけ)じゃなし。若旦那(わかだんな)が手(て)を合(あわ)せて、たっての頼(たの)みだというからこそ、連(つ)れて来(き)てやったんじゃねえか、そいつを、自分(じぶん)からあわてちまってよ。垣根(かきね)の中(なか)へ突(つ)ンのめったばっかりに、ゆっくり見物(けんぶつ)出来(でき)るはずのおせんの裸(はだか)がちらッとしきゃのぞけなかったんだ。――面白(おもしろ)くもねえ。それもこれも、みんなおいらのせえだッてんじゃ、てんで立(た)つ瀬(せ)がありゃしねえや。どこの殿様(とのさま)がこさえたたとえか知(し)らねえが、長(なが)い物(もの)にゃ巻(ま)かれろなんて、あんまり向(むこ)うの都合(つごう)が良過(よす)ぎるぜ。橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)は、八百蔵(ぞう)に生(い)き写(うつ)しだなんて、つまらねえお世辞(せじ)をいわれるもんだから、当人(とうにん)もすっかりいい気(き)ンなってるんだろうが、八百蔵(ぞう)はおろか、八百屋(や)の丁稚(でっち)にだって、あんな面(つら)があるもんか。飛(と)んだ料簡違(りょうけんちが)いのこんこんちきだ」
 誰(だれ)にいうともない独言(ひとりごと)ながら、吉原(よしわら)への供(とも)まで見事(みごと)にはねられた、版下彫(はんしたぼり)の松(まつ)五郎(ろう)は、止度(とめど)なく腹(はら)の底(そこ)が沸(に)えくり返(かえ)っているのであろう。やがて二三丁(ちょう)も先(さき)へ行(い)ってしまった徳太郎(とくたろう)の背後(はいご)から、浴(あ)びせるように罵(ののし)っていた。
「おいおい松(まっ)つぁん」
「えッ」
「はッはッは。何(なに)をぶつぶついってるんだ。三日月様(みかづきさま)が笑(わら)ってるぜ」
「お前(まえ)さんは。――」
「おれだよ。春重(はるしげ)だよ」
 うしろから忍(しの)ぶようにして付(つ)いて来(き)た男(おとこ)は、そういいながら徐(おもむ)ろに頬冠(ほおかぶ)りをとったが、それは春信(はるのぶ)の弟子(でし)の内(うち)でも、変(かわ)り者(もの)で通(とお)っている春重(はるしげ)だった。
「なァんだ、春重(はるしげ)さんかい。今時分(いまじぶん)、一人(ひとり)でどこへ行(い)きなすった」
「一人(ひとり)でどこへは、そっちより、こっちで訊(き)きたいくらいのもんだ。――お前(まえ)、橘屋(たちばなや)の徳(とく)さんにまかれたな」
「まかれやしねえが、どうしておいらが、若旦那(わかだんな)と一緒(しょ)だったのを知(し)ってるんだ」
「ふふふ。平賀源内(ひらがげんない)の文句(もんく)じゃねえが、春重(はるしげ)の眼(め)は、一里(り)先(さき)まで見透(みとお)しが利(き)くんだからの。お前(まえ)が徳(とく)さんとこで会(あ)って、どこへ行(い)ったかぐらいのこたァ、聞(き)かねえでも、ちゃんと判(わか)ってらァな」
「おやッ、行(い)った先(さき)が判(わか)ってるッて」
「その通(とお)りだ、当(あて)てやろうか」
「冗談(じょうだん)じゃねえ、いくらお前(まえ)さんの眼(め)が利(き)いたにしたって、こいつが判(わか)ってたまるもんか。断(ことわ)っとくが、当時(とうじ)十六文(もん)の売女(やまねこ)なんざ、買(か)いに行(い)きゃァしねえよ」
「だが、あのざまは、あんまり威張(いば)れもしなかろう」
「あのざまたァ何(なに)よ」
「垣根(かきね)へもたれて、でんぐる返(かえ)しを打(う)ったざまだ」
「何(な)んだって」
「おせんの裸(はだか)を窺(のぞ)こうッてえのは、まず立派(りっぱ)な智恵(ちえ)だがの。おのれを忘(わす)れて乗出(のりだ)した挙句(あげく)、垣根(かきね)へ首(くび)を突(つ)っ込(こ)んだんじゃ、折角(せっかく)の趣向(しゅこう)も台(だい)なしだろうじゃねえか」
「そんなら重(しげ)さん、お前(まえ)さんはあの様子(ようす)を。――」
「気(き)の毒(どく)だが、根(ね)こそぎ見(み)ちまったんだ」
「どこで見(み)なすった」
「知(し)れたこった。庭(にわ)の中(なか)でよ」
「庭(にわ)の中(なか)」
「おいらァ泥棒猫(どろぼうねこ)のように、垣根(かきね)の外(そと)でうろうろしちゃァいねえからの。――それ見(み)な。鬼童丸(きどうまる)の故智(こち)にならって、牛(うし)の生皮(なまかわ)じゃねえが、この犬(いぬ)の皮(かわ)を被(かぶ)っての、秋草城(あきくさじょう)での籠城(ろうじょう)だ。おかげで画嚢(がのう)はこの通(とお)り。――」
 懐中(ふところ)から取(と)り出(だ)した春重(はるしげ)の写生帳(しゃせいちょう)には、十数枚(すうまい)のおせんの裸像(らぞう)が様々(さまざま)に描(か)かれていた。

    六

 松(まつ)五郎(ろう)は、狐(きつね)につままれでもしたように、しばし三日月(みかづき)の光(ひかり)に浮(う)いて出(で)たおせんの裸像(らぞう)を、春重(はるしげ)の写生帳(しゃせいちょう)の中(なか)に凝視(ぎょうし)していたが、やがて我(われ)に還(かえ)って、あらためて春重(はるしげ)の顔(かお)を見守(みまも)った。
「重(しげ)さん、お前(まえ)、相変(あいかわ)らず素(す)ばしっこいよ」
「なんでよ」
「犬(いぬ)の皮(かわ)をかぶって、おせんの裸(はだか)を思(おも)う存分(ぞんぶん)見(み)た上(うえ)に写(うつ)し取(と)って来(く)るなんざ、素人(しろうと)にゃ、鯱鉾立(しゃちほこだち)をしても、考(かんが)えられる芸(げい)じゃねえッてのよ」
「ふふふ、そんなこたァ朝飯前(あさめしまえ)だよ。――おいらぁ実(じつ)ァ、もうちっといいことをしてるんだぜ」
「ほう、どんなことを」
「聞(き)きてえか」
「聞(き)かしてくんねえ」
「ただじゃいけねえ、一朱(しゅ)だしたり」
「一朱(しゅ)は高(たけ)えの」
「なにが高(たけ)えものか。時(とき)によったら、安(やす)いくらいのもんだ。――だがきょうは見(み)たところ、一朱(しゅ)はおろか、財布(さいふ)の底(そこ)にゃ十文(もん)もなさそうだの」
「けちなことァおいてくんねえ。憚(はばか)ンながら、あしたあさまで持越(もちこ)したら、腹(はら)が冷(ひ)え切(き)っちまうだろうッてくれえ、今夜(こんや)は財布(さいふ)が唸(うな)ってるんだ」
「それァ豪儀(ごうぎ)だ。ついでだ、ちょいと拝(おが)ませな」
「ふん、重(しげ)さん。眼(め)をつぶさねえように、大丈夫(だいじょうぶ)か」
「小判(こばん)の船(ふね)でも着(つ)きゃしめえし、御念(ごねん)にゃ及(およ)び申(もう)さずだ」
 財布(さいふ)はなかった。が、おおかた晒(さら)しの六尺(しゃく)にくるんだ銭(ぜに)を、内(うち)ぶところから探(さぐ)っているのであろう。松(まつ)五郎(ろう)は暫(しば)しの間(あいだ)、唖(おし)が筍(たけのこ)を掘(ほ)るような恰好(かっこう)をしていたが、やがて握(にぎ)り拳(こぶし)の中(なか)に、五六枚(まい)の小粒(こつぶ)を器用(きよう)に握(にぎ)りしめて、ぱっと春重(はるしげ)の鼻(はな)の先(さき)で展(ひろ)げてみせた。
「どうだ、親方(おやかた)」
「ほう、こいつァ珍(めずら)しい。どこで拾(ひろ)った」
「冗談(じょうだん)いわっし。当節(とうせつ)銭(ぜに)を落(おと)す奴(やつ)なんざ、江戸中(えどじゅう)尋(たず)ねたってあるもんじゃねえ。稼(かせ)えだんだ」
「版下(はんした)か」
「はんははんだが、字(じ)が違(ちが)うやつよ。ゆうべお旗本の蟇(がま)本多(ほんだ)の部屋(へや)で、半(はん)を続(つづ)けて三度(ど)張(は)ったら、いう目(め)が出(で)ての俄(にわか)分限(ぶんげん)での、急(きゅう)に今朝(けさ)から仕事(しごと)をするのがいやンなって、天道様(てんとうさま)がべそをかくまで寝(ね)てえたんだが蝙蝠(こうもり)と一緒(しょ)に、ぶらりぶらりと出(で)たとこを、浅草(あさくさ)でばったり出遭(であ)ったのが若旦那(わかだんな)。それから先(さき)は、お前(まえ)さんに見(み)られた通(とお)りのあの始末(しまつ)だ。――」
「そいつァ夢(ゆめ)に牡丹餅(ぼたもち)だの。十文(もん)と踏(ふ)んだ手(て)の内(うち)が、三両(りょう)だとなりゃァ一朱(しゅ)はあんまり安過(やすす)ぎた。三両(りょう)のうちから一朱(しゅ)じゃァ、髪(かみ)の毛(け)一本(ぽん)、抜(ぬ)くほどの痛(いた)さもあるまいて」
「こいつァ今夜(こんや)のもとでだからの」
「そんなら止(よ)しなっ聞(きか)しちゃやらねえ」
「聞(き)かせねえ」
「だすか」
「仕方(しかた)がねえ、出(だ)しやしょう」
 すると春重(はるしげ)は、きょろりと辺(あたり)を見廻(みまわ)してから、俄(にわか)に首(くび)だけ前(まえ)へ突出(つきだ)した。
「耳(みみ)をかしな」
「こうか」
「――」
「ふふ、ほんとうかい。重(しげ)さん。――」
「嘘(うそ)はお釈迦(しゃか)の御法度(ごはっと)だ」
 痩(やせ)た松(まつ)五郎(ろう)の眼(め)が再(ふたた)び春重(はるしげ)の顔(かお)に戻(もど)った時(とき)、春重(はるしげ)はおもむろに、ふところから何物(なにもの)かを取出(とりだ)して松(まつ)五郎(ろう)の鼻(はな)の先(さき)にひけらかした。

    七

 足(あし)もとに、尾花(おばな)の影(かげ)は淡(あわ)かった。
「なんだい」
「なんだかよく見(み)さっし」
 八の字(じ)を深(ふか)くしながら、寄(よ)せた松(まつ)五郎(ろう)の眼先(めさき)を、ちらとかすめたのは、鶯(うぐいす)の糞(ふん)をいれて使(つか)うという、近頃(ちかごろ)はやりの紅色(べにいろ)の糠袋(ぬかぶくろ)だった。
「こいつァ重(しげ)さん、糠袋(ぬかぶくろ)じゃァねえか」
「まずの」
「一朱(しゅ)はずんで、糠袋(ぬかぶくろ)を見(み)せてもらうどじはあるめえぜ。――お前(めえ)いまなんてッた。おせんの雪(ゆき)のはだから切(き)り取(と)った、天下(てんか)に二つと無(ね)え代物(しろもの)を拝(おが)ませてやるからと。――」
「叱(し)ッ、極内(ごくない)だ」
「だってそんな糠袋(ぬかぶくろ)。……」
「袋(ふくろ)じゃねえよ。おいらの見(み)せるなこの中味(なかみ)だ。文句(もんく)があるンなら、拝(おが)んでからにしてくんな。――それこいつだ。触(さわ)った味(あじ)はどんなもんだの」
 ぐっと伸(の)ばした松(まつ)五郎(ろう)の手先(てさき)へ、春重(はるしげ)は仰々(ぎょうぎょう)しく糠袋(ぬかぶくろ)を突出(つきだ)したが、さて暫(しばら)くすると、再(ふたた)び取(と)っておのが額(ひたい)へ押(お)し当(あ)てた。
「開(あ)けて見(み)せねえ」
「拝(おが)みたけりゃ拝(おが)ませる。だが一つだって分(わ)けちゃァやらねえから、そのつもりでいてくんねえよ」
 そういいながら、指先(ゆびさき)を器用(きよう)に動(うご)かした春重(はるしげ)は、糠袋(ぬかぶくろ)の口(くち)を解(と)くと、まるで金(きん)の粉(こな)でもあけるように、松(まつ)五郎(ろう)の掌(てのひら)へ、三つばかりを、勿体(もったい)らしく盛(も)り上(あ)げた。
「こいつァ重(しげ)さん。――」
「爪(つめ)だ」
「ちぇッ」
「おっとあぶねえ。棄(す)てられて堪(たま)るものか。これだけ貯(た)めるにゃ、まる一年(ねん)かかってるんだ」
 松(まつ)五郎(ろう)の掌(て)へ、おのが掌(て)をかぶせた春重(はるしげ)は、あわてて相手の掌(て)ぐるみ裏返(うらがえ)して、ほっとしたように眼(め)の前(まえ)へ引(ひ)き着(つ)けた。
「湯屋(ゆや)で拾(ひろ)い集(あつ)めた爪(つめ)じゃァねえよ。蚤(のみ)や蚊(か)なんざもとよりのこと、腹(はら)の底(そこ)まで凍(こお)るような雪(ゆき)の晩(ばん)だって、おいらァじっと縁(えん)の下(した)へもぐり込(こ)んだまま辛抱(しんぼう)して来(き)た苦心(くしん)の宝(たから)だ。――この明(あか)りじゃはっきり見分(みわ)けがつくめえが、よく見(み)ねえ。お大名(だいみょう)のお姫様(ひめさま)の爪(つめ)だって、これ程(ほど)の艶(つや)はあるめえからの」
 三日月(みかづき)なりに切(き)ってある、目(め)にいれたいくらいの小(ちい)さな爪(つめ)を、母指(おやゆび)と中指(なかゆび)の先(さき)で摘(つま)んだまま、ほのかな月光(げっこう)に透(すか)した春重(はるしげ)の面(おもて)には、得意(とくい)の色(いろ)が明々(ありあり)浮(うか)んで、はては傍(そば)に松(まつ)五郎(ろう)のいることをさえも忘(わす)れた如(ごと)く、独(ひと)り頻(しき)りにうなずいていたが、ふと向(むこ)う臑(ずね)にたかった藪蚊(やぶか)のかゆさに、漸(ようや)くおのれに還(かえ)ったのであろう。突然(とつぜん)平手(ひらて)で臑(すね)をたたくと、くすぐったそうにふふふと笑(わら)った。
「重(しげ)さん、お前(まえ)まったく変(かわ)り者(もの)だの」
「なんでよ」
「考(かんが)えても見(み)ねえ。これが金(きん)の棒(ぼう)を削(けず)った粉(こな)とでもいうンなら、拾(ひろ)いがいもあろうけれど、高(たか)が女(おんな)の爪(つめ)だぜ。一貫目(かんめ)拾(ひろ)ったところで、□疽(ひょうそ)の薬(くすり)になるくれえが、関(せき)の山(やま)だろうじゃねえか。よく師匠(ししょう)も、春重(はるしげ)は変(かわ)り者(もの)だといってなすったが、まさかこれ程(ほど)たァ思(おも)わなかった」
「おいおい松(まっ)つぁん、はっきりしなよ。おいらが変(かわ)り者(もの)じゃァねえ。世間(せけん)の奴(やつ)らが変(かわ)ってるんだ。それが証拠(しょうこ)にゃ。願(がん)にかけておせんの茶屋(ちゃや)へ通(かよ)う客(きゃく)は山程(やまほど)あっても、爪(つめ)を切(き)るおせんのかたちを、一度(ど)だって見(み)た男(おとこ)は、おそらく一人(ひとり)もなかろうじゃねえか。――そこから生(うま)れたこの爪(つめ)だ」
 一つずつ数(かぞ)えたら、爪(つめ)の数(かず)は、百個(こ)近(ちか)くもあるであろう。春重(はるしげ)は、もう一度(ど)糠袋(ぬかぶくろ)を握(にぎ)りしめて、薄気味悪(うすきみわる)くにやりと笑(わら)った。

  朝(あさ)


    一

 ちち、ちち、ちちち。
 行燈(あんどん)はともしたままになっていたが、外(そと)は既(すで)に明(あ)けそめたのであろう。今(いま)まで流(なが)し元(もと)で頻(しき)りに鳴(な)いていた虫(むし)の音(ね)が、絶(た)えがちに細(ほそ)ったのは、雨戸(あまど)から差(さ)す陽(ひ)の光(ひか)りに、おのずと怯(おび)えてしまったに相違(そうい)ない。
 が、虫(むし)の音(ね)の細(ほそ)ったことも、外(そと)が白々(しらじら)と明(あ)けそめて、路地(ろじ)の溝板(どぶいた)を踏(ふ)む人(ひと)の足音(あしおと)が聞(きこ)えはじめたことも、何(なに)もかも知(し)らずに、ただ独(ひと)り、破(やぶ)れ畳(だたみ)の上(うえ)に据(す)えた寺子屋机(てらこやつくえ)の前(まえ)に頑張(がんば)ったまま、手許(てもと)の火鉢(ひばち)に載(の)せた薬罐(やかん)からたぎる湯気(ゆげ)を、千切(ぎ)れた蟋蟀(こおろぎ)の片脚(かたあし)のように、頬(ほほ)を引(ひ)ッつらせながら、夢中(むちゅう)で吸(す)い続(つづ)けていたのは春重(はるしげ)であった。
 七軒(けん)長屋(ながや)のまん中(なか)は縁起(えんぎ)がよくないという、人(ひと)のいやがるそんまん中(なか)へ、所帯道具(しょたいどうぐ)といえば、土竈(どがま)と七輪(りん)と、箸(はし)と茶碗(ちゃわん)に鍋(なべ)が一つ、膳(ぜん)は師匠(ししょう)の春信(はるのぶ)から、縁(ふち)の欠(か)けた根(ね)ごろの猫脚(ねこあし)をもらったのが、せめて道具(どうぐ)らしい顔(かお)をしているくらいが関(せき)の山(やま)。いわばすッてんてんの着(き)のみ着(き)のままで蛆(うじ)が湧(わ)くのも面白(おもしろ)かろうと、男(おとこ)やもめの垢(あか)だらけの体(からだ)を運(はこ)び込(こ)んだのが、去年(きょねん)の暮(くれ)も押(お)し詰(つま)って、引摺(ひきずり)り餅(もち)が向(むこ)ッ鉢巻(ぱちまき)で練(ね)り歩(ある)いていた、廿五日(にち)の夜(よる)の八つ時(どき)だった。
 ざっと二年(ねん)。きのうもきょうもない春重(はるしげ)のことながら、二十七のきょうの若(わか)さで、女(おんな)の数(かず)は千人(にん)近(ちか)くも知(し)り尽(つく)くしたのが自慢(じまん)なだけに、並大抵(なみたいてい)のことでは興味(きょうみ)が湧(わ)かず、師匠(ししょう)の通(とお)りに描(か)く美人画(びじんが)なら、いま直(す)ぐにも描(か)ける器用(きよう)な腕(うで)が却(かえ)って邪間(じゃま)になって、着物(きもの)なんぞ着(き)た女(おんな)を描(か)いても、始(はじ)まらないとの心(こころ)からであろう。自然(しぜん)の風景(ふうけい)を写(うつ)すほかは、画帳(がちょう)は悉(ことごと)く、裸婦(らふ)の像(ぞう)に満(み)たされているという変(かわ)り様(よう)だった。
 二畳(じょう)に六畳(じょう)の二間(ま)は、狭(せま)いようでも道具(どうぐ)がないので、独(ひと)り住居(ずまい)には広(ひろ)かった。そのぐるりの壁(かべ)に貼(は)りめぐらした絵(え)の数(かず)が、一目(め)で数(かぞ)えて三十余(あま)り、しかも男(おとこ)と名(な)のつく者(もの)は、半分(はんぶん)も描(か)いてあるのではなく、女(おんな)と、いうよりも、殆(ほとん)ど全部(ぜんぶ)が、おせんの様々(さまざま)な姿態(したい)に尽(つく)されているのも凄(すさ)まじかった。
 その六畳(じょう)の行燈(あんどん)の下(した)に、机(つくえ)の上(うえ)から投(な)げ出(だ)されたのであろう、腰(こし)の付根(つけね)から下(した)だけを、幾(いく)つともなく描(か)いた紙片(しへん)が、十枚(まい)近(ちか)くもちらばったのを、時(とき)おりじろりじろりとにらみながら、薬罐(やかん)の湯気(ゆげ)を、鼻(はな)の穴(あな)が開(ひら)きッ放(ぱな)しになる程(ほど)吸(す)い込(こ)んでいた春重(はるしげ)は、ふと、行燈(あんどん)の芯(しん)をかき立(た)てて、薄気味悪(うすきみわる)くニヤリと笑(わら)った。
「ふふふ。わるくねえにおいだ。――世間(せけん)の奴(やつ)らァ智恵(ちえ)なしだから、女(おんな)のにおいは、肌(はだ)からじかでなけりゃ、嗅(か)げねえように思(おも)ってるが、情(なさけ)ねえもんだ。この爪(つめ)が、薬罐(やかん)の中(なか)で煮(に)えくり返(かえ)る甘(あま)い匂(におい)を、一度(ど)でいいから嗅(か)がしてやりてえくれえのもんだ。紅(べに)やおしろいのにおいなんぞたァ訳(わけ)が違(ちが)って、魂(たましい)が極楽遊(ごくらくあそ)びに出(で)かけるたァこのことだろう。おまけにただの駄爪(だつめ)じゃねえ。笠森(かさもり)おせんの、磨(みが)きのかかった珠(たま)のような爪様(つめさま)だ。――大方(おおかた)松(まつ)五郎(ろう)の奴(やつ)ァ、今時分(いまじぶん)、やけで出(で)かけた吉原(よしわら)で、折角(せっかく)拾(ひろ)ったような博打(ばくち)の金(かね)を、手(て)もなく捲揚(まきあ)げられてることだろうが、可哀想(かわいそう)にこうしておせんの脚(あし)を描(か)きながらこの匂(におい)をかいでる気持(きもち)ァ、鯱鉾(しゃちほこ)立(だち)をしたってわかるこッちゃァあるめえて。――ふふふ。もうひと摘(つか)み、新(あたら)しいこいつをいれ、肚(はら)一杯(ぱい)にかぐとしようか」
 春重(はるしげ)は傍(かたわ)らに置(お)いた紅(べに)の糠袋(ぬかぶくろ)を、如何(いか)にも大切(たいせつ)そうに取上(とりあ)げると、おもむろに口紐(くちひも)を解(と)いて、十ばかりの爪(つめ)を掌(てのひら)にあけたが、そのまま湯(ゆ)のたぎる薬罐(やかん)の中(なか)へ、一つ一つ丁寧(ていねい)につまみ込(こ)んだ。
「ふふふ、こいつァいい匂(におい)だなァ。堪(たま)らねえ匂(におい)だ。――笠森(かさもり)の茶屋(ちゃや)で、おせんを見(み)てよだれを垂(た)らしての野呂間達(のろまたち)に、猪口(ちょこ)半分(はんぶん)でいいから、この湯(ゆ)を飲(の)ましてやりてえ気(き)がする。――」
 どこぞの秋刀魚(さんま)を狙(ねら)った泥棒猫(どろぼうねこ)が、あやまって庇(ひさし)から路地(ろじ)へ落(お)ちたのであろう。突然(とつぜん)雨戸(あまど)を倒(たお)したような大(おお)きな音(おと)が窓下(まどした)に聞(きこ)えたが、それでも薬罐(やかん)の中(なか)に埋(う)められた春重(はるしげ)の長(なが)い顔(かお)はただその眉(まゆ)が阿波人形(あわにんぎょう)のように、大(おお)きく動(うご)いただけで、決(けっ)して横(よこ)には向(む)けられなかった。

    二

「おたき」
「え」
「隣(となり)じゃまた、いつもの病(やまい)が始(はじ)まったらしいぜ。何(なに)しろあの匂(におい)じゃ、臭(くさ)くッてたまらねえな」
「ほんとうに、何(な)んて因果(いんが)な人(ひと)なんだろうね。顔(かお)を見(み)りゃ、十人(にん)なみの男前(おとこまえ)だし絵(え)も上手(じょうず)だって話(はなし)だけど、してることは、まるッきり並(なみ)の人間(にんげん)と変(かわ)ってるんだからね」
「おめえ。ちょいと隣(となり)へ行(い)って来(き)ねえ」
「何(なに)しにさ」
「夜(よる)のこたァ、こっちが寝(ね)てるうちだから、何(なに)をしても構(かま)わねえが、お天道様(てんとうさま)が、上(あが)ったら、その匂(におい)だけに止(や)めてもらいてえッてよ。仕事(しごと)に行(い)ったって、えたいの知(し)れぬ匂(におい)が、半纏(はんてん)にまでしみ込(こ)んでるんで、外聞(げえぶん)が悪(わる)くッて仕様(しよう)がありやァしねえ」
「女(おんな)じゃ駄目(だめ)だよ。お前(まえ)さん行(い)って、かけ合(あ)って来(き)とくれよ」
「だからね。おいらァ行(い)くな知(し)ってるが、今(いま)もそいった通(とお)り、帳場(ちょうば)へ出(で)かけてからがみっともなくて仕様(しよう)がねえんだ。あんな匂(におい)の中(なか)へ這入(へえ)っちゃいかれねえッてのよ」
「あたしだっていやだよ。まるで焼場(やきば)のような匂(におい)だもの。きのうだって、髪結(かみゆい)のおしげさんがいうじゃァないか。お上(かみ)さんとこへ結(ゆ)いに行(い)くのもいいけれど、お隣(となり)の壁越(かべご)しに伝(つた)わってくる匂(におい)をかぐと、仏臭(ほとけくさ)いような気(き)がしてたまらないから、なるたけこっちへ、出(で)かけて来(き)てもらいたいって。――いったいお前(まえ)さん、あれァ何(なに)を焼(や)く匂(におい)だと思(おも)ってるの」
「分(わか)ってらァな」
「何(な)んだえ」
「奴(やつ)ァ絵(え)かきッて振(ふ)れ込(こ)みだが、嘘(うそ)ッ八だぜ」
「おや、絵(え)かきじゃないのかい」
「そうとも。奴(やつ)ァ雪駄直(せったなお)しだ」
「雪駄直(せったなお)し。――」
「それに違(ちげ)えねえやな。でえいち、外(ほか)にあんな匂(におい)をさせる家業(かぎょう)が、ある筈(はず)はなかろうじゃねえか。雪駄(せった)の皮(かわ)を、鍋(なべ)で煮(に)るんだ。軟(やわ)らかにして、針(はり)の通(とお)りがよくなるようによ」
「そうかしら」
「しらも黒(くろ)もありァしねえ。それが為(ため)に、忙(いそが)しい時(とき)にゃ、夜(よ)ッぴて鍋(なべ)をかけッ放(はな)しにしとくから、こっちこそいい面(つら)の皮(かわ)なんだ。――この壁(かべ)ンところ鼻(はな)を当(あ)てて臭(か)いで見(み)ねえ。火事場(かじば)で雪駄(せった)の焼(や)け残(のこ)りを踏(ふ)んだ時(とき)と、まるッきり変(かわ)りがねえじゃねえか」
「あたしゃもう、ここにいてさえ、いやな気持(きもち)がするんだから、そんなとこへ寄(よ)るなんざ、真(ま)ッ平(ぴら)よ。――ねえお前(まえ)さん。後生(ごしょう)だから、かけ合(あ)って来(き)とくれよ」
「おめえ行(い)って来(き)ねえ」
「女(おんな)じゃ駄目(だめ)だというのにさ」
「男(おとこ)が行(い)っちゃァ、穏(おだ)やかでねえから、おめえ行(い)きねえッてんだ」
「だって、こんなこたァ、どこの家(うち)だって、みんな亭主(ていしゅ)の役(やく)じゃないか」
「おいらァいけねえ」
「なんて気(き)の弱(よわ)い人(ひと)なんだろう」
「臭(くせ)えからいやなんだ」
「お前(まえ)さんより、女(おんな)だもの。あたしの方(ほう)が、どんなにいやだか知(し)れやしない。――昔(むかし)ッから、公事(くじ)かけ合(あい)は、みんな男(おとこ)のつとめなんだよ」
「ふん。昔(むかし)も今(いま)もあるもんじゃねえ。隣近所(となりきんじょ)のこたァ、女房(にょうぼう)がするに極(きま)ッてらァな。行(い)って、こっぴどくやっ付(つ)けて来(き)ねえッてことよ」
 壁(かべ)一重(え)隣(となり)の左官夫婦(さかんふうふ)が、朝飯(あさめし)の膳(ぜん)をはさんで、聞(きこ)えよがしのいやがらせも、春重(はるしげ)の耳(みみ)へは、秋(あき)の蝿(はえ)の羽(は)ばたき程(ほど)にも這入(はい)らなかったのであろう。行燈(あんどん)の下(した)の、薬罐(やかん)の上(うえ)に負(お)いかぶさったその顔(かお)は、益々(ますます)上気(じょうき)してゆくばかりであった。

    三

「重(しげ)さん。もし、重(しげ)さんは留守(るす)かい。――おやッ、天道様(てんとうさま)が臍(へそ)の皺(しわ)まで御覧(ごらん)なさろうッて真(ま)ッ昼間(ぴるま)、あかりをつけッ放(ぱな)しにしてるなんざ、ひど過(す)ぎるぜ。――寝(ね)ているのかい。起(お)きてるんなら開(あ)けてくんねえ」
 どこかで一杯(ぱい)引(ひ)っかけて来(き)た、酔(よ)いの廻(まわ)った舌(した)であろう。声(こえ)は確(たしか)に彫師(ほりし)の松(まつ)五郎(ろう)であった。
「ふふふふ。とうとう寄(よ)りゃがったな」
 首(くび)をすくめながら、口(くち)の中(なか)でこう呟(つぶや)いた春重(はるしげ)は、それでも爪(つめ)を煮込(にこ)んでいる薬罐(やかん)の傍(そば)から顔(かお)を放(はな)さずに、雨戸(あまど)の方(ほう)を偸(ぬす)み見(み)た。陽(ひ)は高々(たかだか)と昇(のぼ)っているらしく、今(いま)さら気付(きづ)いた雨戸(あまど)の隙間(すきま)には、なだらかな日(ひ)の光(ひかり)が、吹矢(ふきや)で吹(ふ)き込(こ)んだように、こまいの現(あらわ)れた壁(かべ)の裾(すそ)へ流(なが)れ込(こ)んでいた。
「春重(はるしげ)さん。重(しげ)さん。――」
 が、それでも春重(はるしげ)は返事(へんじ)をしずに、そのまま鎌首(かまくび)を上(あ)げて、ひそかに上(あが)りはなの方(ほう)へ這(は)い寄(よ)って行(い)った。
「おかしいな。いねえはずァねえんだが。――あかりをつけて寝(ね)てるなんざ、どっちにしても不用心(ぶようじん)だぜ。おいらだよ。松(まつ)五郎(ろう)様(さま)の御登城(ごとじょう)だよ」
「もし、親方(おやかた)」
 突然(とつぜん)、隣(となり)の女房(にょうぼう)おたきの声(こえ)が聞(き)こえた。
「ねえお上(かみ)さん。ここの家(うち)ァ留守(るす)でげすかい。寝(ね)てるんだか留守(るす)なんだか、ちっともわからねえ」
「いますともさ。だが親方(おやかた)、悪(わる)いこたァいわないから、滅多(めった)に戸(と)を開(あ)けるなァお止(よ)しなさいよ。そこを開(あ)けた日(ひ)にゃ、それこそ生皮(なまかわ)の匂(におい)で、隣近所(となりきんじょ)は大迷惑(おおめいわく)だわな」
「生皮(なまかわ)の匂(におい)ってななんだの、お上(かみ)さん」
「おや、親方(おやかた)にゃこの匂(におい)がわからないのかい。このたまらないいやな匂(におい)が。……」
「判(わか)らねえこたァねえが、こいつァおまえ、膠(にかわ)を煮(に)てる匂(におい)だわな」
「冗談(じょうだん)じゃない。そんな生(なま)やさしいもんじゃありゃァしない。お鍋(なべ)を火鉢(ひばち)へかけて、雪駄(せった)の皮(かわ)を煮(に)てるんだよ。今(いま)もうちで、絵師(えし)なんて振(ふ)れ込(こ)みは、大嘘(おおうそ)だって話(はなし)を。……」
 がらッと雨戸(あまど)が開(あ)いて、春重(はるしげ)の辛(から)い顔(かお)がぬッと現(あらわ)れた。
「お早(は)よう」
「お早(は)ようじゃねえや。何(な)んだって松(まつ)つぁんこんな早(はや)くッからやって来(き)たんだ」
「早(はや)えことがあるもんか。お天道様(てんとうさま)は、もうとっくに朝湯(あさゆ)を済(す)まして、あんなに高(たか)く昇(のぼ)ってるじゃねえか。――いってえ重(しげ)さん。おめえ、寝(ね)てえたんだか起(お)きてたんだか、なぜ返事(へんじ)をしてくれねえんだ」
「返事(へんじ)なんざ、しちゃァいられねえよ。――いいからこっちへ這入(はい)ンねえ」
 不機嫌(ふきげん)な春重(はるしげ)の顔(かお)は、桐油(とうゆ)のように強張(こわば)っていた。
「へえってもいいかい」
「帰(かえ)るんなら帰(かえ)ンねえ」
「いやにおどかすの」
「振(ふ)られた朝帰(あさがえ)りなんぞに寄(よ)られちゃ、かなわねえ」
「ふふふ。振(ふ)られてなんざ来(き)ねえよ。それが証拠(しょうこ)にゃ、いい土産(みやげ)を持(も)って来(き)た」
「土産(みやげ)なんざいらねえから、そこを締(し)めたら、もとの通(とお)り、ちゃんと心張棒(しんばりぼう)をかけといてくんねえ」
「重(しげ)さん、おめえまだ寝(ね)るつもりかい」
「いいから、おいらのいった通(とお)りにしてくんねえよ」
 松(まつ)五郎(ろう)が不承無承(ふしょうぶしょう)に、雨戸(あまど)の心張棒(しんばりぼう)をかうと、九尺(しゃく)二間(けん)の家(うち)の中(なか)は再(ふたた)び元通(もとどお)りの夜(よる)の世界(せかい)に変(かわ)って行(い)った。
「上(あが)ンねえ」
 が、松(まつ)五郎(ろう)は、次第(しだい)に鼻(はな)を衝(つ)いてくる異様(いよう)な匂(におい)に、そのままそこへ佇(たたず)んでしまった。

    四

 行燈(あんどん)はほのかにともっていたものの、日向(ひなた)から這入(はい)って来(き)たばかりの松(まつ)五郎(ろう)の眼(め)には、家(うち)の中(なか)は真(ま)ッ暗闇(くらやみ)であった。
「松(まつ)つぁん、何(な)んで上(あが)らねえんだ」
「暗(くら)くって、足(あし)もとが見(み)えやしねえ」
「不自由(ふじゆう)な眼(まなこ)だの。そんなこっちゃ、面白(おもしろ)い思(おも)いは出来(でき)ねえぜ」
「重(しげ)さん、おめえ、ずっと起(お)きて何(なに)をしてなすった」
「ふふふ。こっちへ上(あが)りゃァ、直(す)ぐに判(わか)るこッた。――まァこの行燈(あんどん)の傍(そば)へ来(き)て見(み)ねえ」
 漸(ようや)く眼(め)に慣(な)れて来(き)たのであろう。行燈(あんどん)の輪(わ)が次第(しだい)に色(いろ)を濃(こ)くするにつれて、狭(せま)いあたりの有様(ありさま)は、おのずから松(まつ)五郎(ろう)の前(まえ)にはっきり浮(う)き出(だ)した。
「絵(え)をかいてたんじゃねえのかい」
「絵(え)なんざかいちゃァいねえよ。――おめえにゃ、この匂(におい)がわからねえかの」
「膠(にかわ)だな」
「ふふ、膠(にかわ)は情(なさけ)ねえぜ」
「じゃァやっぱり、牛(うし)の皮(かわ)でも煮(に)てるのか」
「馬鹿(ばか)をいわッし。おいらが何(な)んで、牛(うし)の皮(かわ)に用(よう)があるんだ。もっともこの薬罐(やかん)の傍(そば)へ鼻(はな)を押(お)ッつけて、よく嗅(か)いで見ねえ」
「おいらァ、こんな匂(におい)は真(ま)ァ平(ぴら)だ」
「何(な)んだって。この匂(におい)がかげねえッて。ふふふ。世(よ)の中(なか)にこれ程(ほど)のいい匂(におい)は、またとあるもんじゃねえや、伽羅沈香(きゃらちんこう)だろうが、蘭麝(らんじゃ)だろうが及(およ)びもつかねえ、勿体(もったい)ねえくれえの名香(めいこう)だぜ。――そんな遠(とお)くにいたんじゃ、本当(ほんとう)の香(かお)りは判(わか)らねえから、もっと薬罐(やかん)の傍(そば)に寄(よ)って、鼻(はな)の穴(あな)をおッぴろげて嗅(か)いで見(み)ねえ」
「いってえ、何(なに)を煮(に)てるのよ」
「江戸(えど)はおろか、日本中(にほんじゅう)に二つとねえ代物(しろもの)を煮(に)てるんだ」
「おどかしちゃいけねえ。そんな物(もの)がある訳(わけ)はなかろうぜ」
「なにねえことがあるものか。――それ見(み)ねえ。おめえ、この袋(ふくろ)にゃ覚(おぼ)えがあろう」
 鼻(はな)の先(さき)へ付(つ)き付(つ)けた紅(べに)の糠袋(ぬかぶくろ)は、春重(はるしげ)の手(て)の中(なか)で、珠(たま)のように小(ちい)さく躍(おど)った。
「あッ。そいつを。……」
「どうだ。おせんの爪(つめ)だ。この匂(におい)を嫌(きら)うようじゃ、男(おとこ)に生(うま)れた甲斐(かい)がねえぜ」
「重(しげ)さん。おめえは、よっぽどの変(かわ)り者(もの)だのう」
 松(まつ)五郎(ろう)は、あらためて春重(はるしげ)の顔(かお)を見守(みまも)った。
「変(かわ)り者(もの)じゃァねえ。そういうおめえの方(ほう)が、変(かわ)ってるんだ。――四角(かく)四面(めん)にかしこまっているお武家(ぶけ)でも、男(おとこ)と生(うま)れたからにゃ、女(おんな)の嫌(きら)いな者(もの)ッ、ただの一人(ひとり)もありゃァしめえ。その万人(まんにん)が万人(まんにん)、好(す)きで好(す)きでたまらねえ女(おんな)の、これが本当(ほんとう)の匂(におい)だろうじゃねえか。成(な)る程(ほど)、肌(はだ)の匂(におい)もある。髪(かみ)の匂(におい)もある。乳(ちち)の匂(におい)もあるにァ違(ちげ)えねえ。だが、その数(かず)ある女(おんな)の匂(におい)を、一つにまとめた有難味(ありがたみ)の籠(こも)ったのが、この匂(におい)なんだ。――三浦屋(うらや)の高尾(たかお)がどれほど綺麗(きれい)だろうが、楊枝見世(ようじみせ)のお藤(ふじ)がどんなに評判(ひょうばん)だろうが、とどのつまりは、みめかたちよりは、女(おんな)の匂(におい)に酔(よ)って客(きゃく)が通(かよ)うという寸法(すんぽう)じゃねえか。――よく聞(き)きなよ。匂(におい)だぜ。このたまらねえいい匂(におい)だぜ」
「冗談(じょうだん)じゃねえ。おいらァいくら何(な)んだって、こんな匂(におい)をかぎたくッて、通(かよ)うような馬鹿気(ばかげ)たこたァ。……」
「あれだ。おめえにゃまだ、まるッきり判(わか)らねえと見(み)えるの。こいつだ。この匂(におい)が、嘘(うそ)も隠(かく)しもねえ、女(おんな)の匂(におい)だってんだ」
「馬鹿(ばか)な、おめえ。――」
「そうか。そう思(おも)ってるんなら、いまおめえに見(み)せてやる物(もの)がある。きっとびっくりするなよ」
 春重(はるしげ)はこういいながら、いきなり真暗(まっくら)な戸棚(とだな)の中(なか)へ首(くび)を突(つ)っ込(こ)んだ。

    五

 じりじりッと燈芯(とうしん)の燃(も)え落(お)ちる音(おと)が、しばしのしじまを破(やぶ)ってえあたりを急(きゅう)に明(あか)るくした。が、それも束(つか)の間(ま)、やがて油(あぶら)が尽(つ)きたのであろう。行燈(あんどん)は忽(たちま)ち消(き)えて、あたりは真(しん)の闇(やみ)に変(かわ)ってしまった。
「いたずらしちゃァいけねえ。まるっきりまっ暗(くら)で、何(な)んにも見(み)えやしねえ」
 背伸(せの)びをして、三尺(じゃく)の戸棚(とだな)の奥(おく)を探(さぐ)っていた春重(はるしげ)は、闇(やみ)の中(なか)から重(おも)い声(こえ)でこういいながら、もう一度(ど)、ごとりと鼠(ねずみ)のように音(おと)を立(た)てた。
「いたずらじゃねえよ。油(あぶら)が切(き)れちゃったんだ」
「油(あぶら)が切(き)れたッて。そんなら、行燈(あんどん)のわきに、油差(あぶらさし)と火口(ほくち)がおいてあるから、速(はや)くつけてくんねえ」
「どこだの」
「行燈(あんどん)の右手(みぎて)だ」
 口(くち)でそういわれても、勝手(かって)を知(し)らない暗(やみ)の中(なか)では、手探(てさぐ)りも容易(ようい)でなく、松(まつ)五郎(ろう)は破(やぶ)れ畳(たたみ)の上(うえ)を、小気味悪(こきみわる)く這(は)い廻(まわ)った。
「速(はや)くしてもらいてえの」
「いまつける」
 探(さぐ)り当(あ)てた油差(あぶらさし)を、雨戸(あまど)の隙間(すきま)から微(かす)かに差(さ)し込(こ)む陽(ひ)の光(ひかり)を頼(たよ)りに、油皿(あぶらざら)のそばまで持(も)って行(い)った松(まつ)五郎(ろう)は、中指(なかゆび)の先(さき)で冷(つめ)たい真鍮(しんちゅう)の口(くち)を加減(かげん)しながら、とッとッとと、おもく落(お)ちた油(あぶら)を透(す)かして見(み)たが、さてどうやらそれがうまく運(はこ)ぶと、これも足(あし)の先(さき)で探(さぐ)り出(だ)した火口(ほくち)を取(と)って、やっとの思(おも)いで行燈(あんどん)に灯(ひ)をいれた。
 ぱっと、漆盆(うるしぼん)の上(うえ)へ欝金(うこん)の絵(え)の具(ぐ)を垂(た)らしたように、あたりが明(あか)るくなった。同時(どうじ)に、春重(はるしげ)のニヤリと笑(わら)った薄気味悪(うすきみわる)い顔(かお)が、こっちを向(む)いて立(た)っていた。
「松(まつ)つぁん。おめえ本当(ほんとう)に、女(おんな)の匂(におい)は、麝香(じゃこう)の匂(におい)だと思(おも)ってるんだの」
「そりゃァそうだ。こんな生皮(なまかわ)のような匂(におい)が女(おんな)の匂(におい)でたまるもんか」
「そうか。じゃァよくわかるように、こいつを見(み)せてやる」
 編(あ)めば牛蒡締(ごぼうじめ)くらいの太(ふと)さはあるであろう。春重(はるしげ)の手(て)から、無造作(むぞうさ)に投(な)げ出(だ)された真(ま)ッ黒(くろ)な一束(たば)は、松(まつ)五郎(ろう)の膝(ひざ)の下(した)で、蛇(へび)のようにひとうねりうねると、ぐさりとそのまま畳(たたみ)の上(うえ)へ、とぐろを巻(ま)いて納(おさ)まってしまった。
「あッ」
「気味(きみ)の悪(わる)いもんじゃねえよ。よく手(て)に取(と)って、その匂(におい)を嗅(か)いで見(み)ねえ」
 松(まつ)五郎(ろう)は行燈(あんどん)の下(した)に、じっと眼(め)を瞠(みは)った。
「これァ重(しげ)さん、髪(かみ)の毛(け)じゃねえか」
「その通(とお)りだ」
「こんなものを、おめえ。……」
「ふふふ、気味(きみ)が悪(わる)いか。情(なさけ)ねえ料簡(りょうけん)だの、爪(つめ)の匂(におい)がいやだというから、そいつを嗅(か)がせてやるんだが、これだって、髢(かもじ)なんぞたわけが違(ちが)って、滅多矢鱈(めったやたら)に集(あつ)まる代物(しろもの)じゃァねえんだ。数(かず)にしたら何万本(なんまんぼん)。しかも一本(ぽん)ずつがみんな違(ちが)った、若(わか)い女(おんな)の髪(かみ)の毛(け)だ。――その中(なか)へ黙(だま)って顔(かお)を埋(う)めて見(み)ねえ。一人一人(ひとりひとり)の違(ちが)った女(おんな)の声(こえ)が、代(かわ)り代(がわ)りに聞(きこ)えて来(き)る。この世(よ)ながらの極楽(ごくらく)だ。上(うえ)はお大名(だいみょう)のお姫様(ひめさま)から、下(した)は橋(はし)の下(した)の乞食(こじき)まで、十五から三十までの女(おんな)と名(な)のつく女(おんな)の髪(かみ)は、ひと筋(すじ)残(のこ)らずはいってるんだぜ。――どうだ松(まつ)つぁん。おいらァ、この道(みち)へかけちゃ、江戸(えど)はおろか、蝦夷(えぞ)長崎(ながさき)の果(はて)へ行(い)っても、ひけは取(と)らねえだけの自慢(じまん)があるんだ。見(み)ねえ、髪(かみ)の毛(け)はこの通(とお)り、一本(ぽん)残(のこ)らず生(い)きてるんだから。……」
 松(まつ)五郎(ろう)の膝(ひざ)もとから、黒髪(くろかみ)の束(たば)を取(と)りあげた春重(はるしげ)は、忽(たちま)ちそれを顔(かお)へ押(お)し当(あ)てると、次第(しだい)に募(つの)る感激(かんげき)に身(み)をふるわせながら、異様(いよう)な声(こえ)で笑(わら)い始(はじ)めた。
「重(しげ)さん。おれァ帰(けえ)る」
「帰(けえ)るンなら、せめて匂(におい)だけでも嗅(か)いできねえ」
 が、松(まつ)五郎(ろう)は、もはや腰(こし)が坐(すわ)らなかった。

    六

「ああ気味(きみ)が悪(わる)かった。ついゆうべの惚気(のろけ)を聞(き)かせてやろうと思(おも)って、寄(よ)ったばっかりに、ひでえ目(め)に遇(あ)っちゃった。変(かわ)り者(もの)ッてこたァ知(し)ってたが、まさか、あれ程(ほど)たァ思(おも)わなかった。――あんな奴(やつ)につかまっちゃァ、まったくかなわねえ」
 弾(はじ)かれた煎豆(いりまめ)のように、雨戸(あまど)の外(そと)へ飛(と)び出(だ)した松(まつ)五郎(ろう)は、酔(よ)いも一時(じ)に醒(さ)め果(は)てて、一寸先(すんさき)も見(み)えなかったが、それでも溝板(どぶいた)の上(うえ)を駆(か)けだして、角(かど)の煙草屋(たばこや)の前(まえ)まで来(く)ると、どうやらほっと安心(あんしん)の胸(むね)を撫(な)でおろした。
「だが、いったいあいつは、何(な)んだってあんな馬鹿気(ばかげ)たことが好(す)きなんだろう。爪(つめ)を煮(に)たり、髪(かみ)の毛(け)の中(なか)へ顔(かお)を埋(う)めたり、気狂(きちがい)じみた真似(まね)をしちゃァ、いい気持(きもち)になってるようだが、虫(むし)のせえだとすると、ちと念(ねん)がいり過(す)ぎるしの。どうも料簡方(りょうけんがた)がわからねえ」
 ぶつぶつひとり呟(つぶや)きながら、小首(こくび)を傾(かし)げて歩(ある)いて来(き)た松(まつ)五郎(ろう)は、いきなりぽんと一つ肩(かた)をたたかれて、はッとした。
「どうした、兄(あに)ィ」
「おおこりゃ松住町(まつずみちょう)」
「松住町(まつずみちょう)じゃねえぜ。朝(あさ)っぱらから、素人芝居(しろうとしばい)の稽古(けいこ)でもなかろう。いい若(わけ)え者(もの)がひとり言(ごと)をいってるなんざ、みっともねえじゃねえか」
 坊主頭(ぼうずあたま)へ四つにたたんだ手拭(てぬぐい)を載(の)せて、朝(あさ)の陽差(ひざし)を避(さ)けながら、高々(たかだか)と尻(しり)を絡(から)げたいでたちの相手(あいて)は、同(おな)じ春信(はるのぶ)の摺師(すりし)をしている八五郎(ろう)だった。
「みっともねえかも知(し)れねえが、あれ程(ほど)たァ思(おも)わなかったからよ」
「何(なに)がよ」
「春重(はるしげ)だ」
「春重(はるしげ)がどうしたッてんだ」
「どうもこうもねえが、あいつァおめえ、日本(にほん)一の変(かわ)り者(もの)だぜ」
「春重(はるしげ)の変(かわ)り者(もの)だってこたァ、いつも師匠(ししょう)がいってるじゃねえか。今(いま)さら変(かわ)り者(もの)ぐれえに、驚(おどろ)くおめえでもなかろうによ」
「うんにゃ、そうでねえ。ただの変(かわ)り者(もの)なら、おいらもこうまじゃ驚(おどろ)かねえが、一晩中(ばんじゅう)寝(ね)ずに爪(つめ)を煮(に)たり、束(たば)にしてある女(おんな)の髪(かみ)の毛(け)を、一本(ぽん)一本(ぽん)しゃぶったりするのを見(み)ちゃァいくらおいらが度胸(どきょう)を据(す)えたって。……」
「爪(つめ)を煮(に)るたァ、そいつァいってえ何(な)んのこったい」
「薬罐(やかん)に入(い)れて、女(おんな)の爪(つめ)を煮(に)るんだ」
「女(おんな)の爪(つめ)を煮(に)る。――」
「そうよ。おまけにこいつァ、ただの女(おんな)の爪(つめ)じゃァねえぜ。当時(とうじ)江戸(えど)で、一といって二と下(くだ)らねえといわれてる、笠森(かさもり)おせんの爪(つめ)なんだ」
「冗談(じょうだん)じゃねえ。おせんの爪(つめ)が、何(な)んで煮(に)る程(ほど)取(と)れるもんか、おめえも人(ひと)が好過(よす)ぎるぜ。春重(はるしげ)に欺(だま)されて、気味(きみ)が悪(わる)いの恐(おそ)ろしいのと、頭(あたま)を抱(かか)えて帰(かえ)ってくるなんざ、お笑(わら)い草(ぐさ)だ。おおかた絵(え)を描(か)く膠(にかわ)でも煮(に)ていたんだろう。そいつをおめえが間違(まちが)って。……」
「そ、そんなんじゃねえ。真正(しんしょう)間違(まちが)いのねえおせんの爪(つめ)を紅(べに)の糠袋(ぬかぶくろ)から小出(こだ)しに出(だ)して、薬罐(やかん)の中(なか)で煮(に)てるんだ。そいつも、ただ煮(に)てるんならまだしもだが、薬罐(やかん)の上(うえ)へ面(つら)を被(かぶ)せて、立昇(たちのぼ)る湯気(ゆげ)を、血相(けっそう)変(か)えて嗅(か)いでるじゃねえか。あれがおめえ、いい心持(こころもち)で見(み)ていられるか、いられねえか、まず考(かんが)えてくんねえ」
「そいつを嗅(か)いで、どうしようッてんだ」
「奴(やつ)にいわせると、あのたまらなく臭(くせ)え匂(におい)が本当(ほんとう)の女(おんな)の匂(におい)だというんだ。嘘(うそ)だと思(おも)ったら、論(ろん)より証拠(しょうこ)、春重(はるしげ)の家(うち)へ行(い)って見(み)ねえ。戸(と)を締(し)め切(き)って、今(いま)が嬉(うれ)しがりの真(ま)ッ最中(さいちゅう)だぜ」
 が、八五郎(ろう)は首(くび)を振(ふ)った。
「そいつァいけねえ。おれァ師匠(ししょう)の使(つか)いで、おせんのとこまで行(い)かにゃならねえんだ」

    七

 隈取(くまど)りでもしたように眼(め)の皮(かわ)をたるませた春重(はるしげ)の、上気(じょうき)した頬(ほほ)のあたりに、蝿(はえ)が一匹(ぴき)ぽつんととまって、初秋(しょしゅう)の陽(ひ)が、路地(ろじ)の瓦(かわら)から、くすぐったい顔(かお)をのぞかせていた。
「おっといけねえ。春重(はるしげ)がやってくるぜ」
 煙草屋(たばこや)の角(かど)に立(た)ったまま、爪(つめ)を煮(に)る噂(うわさ)をしていた松(まつ)五郎(ろう)は、あわてて八五郎(ろう)に目(め)くばせをすると、暖簾(のれん)のかげに身(み)を引(ひ)いた。
「隠(かく)れるこたぁなかろう」
「そうでねえ。おいらは今(いま)逃(に)げて来(き)たばかりだからの。見付(みつ)かっちァことだ」
「そんなら、そっちへ引(ひ)っ込(こ)んでるがいい。もののついでに、おれがひとつ、鎌(かま)をかけてやるから。――」
 蛙(かえる)のように、眼玉(めだま)ばかりきょろつかせて暖簾(のれん)のかげから顔(かお)をだした松(まつ)五郎(ろう)は、それでもまだ怯(おび)えていた。
「大丈夫(だいじょうぶ)かの」
「叱(し)ッ。そこへ来(き)たぜ」
 出合頭(であいがしら)のつもりかなんぞの、至極(しごく)気軽(きがる)な調子(ちょうし)で、八五郎(ろう)は春重(はるしげ)の前(まえ)へ立(た)ちふさがった。
「重(しげ)さん、大層(たいそう)早(はえ)えの」
 びくっとしたように、春重(はるしげ)が爪先(つまさき)で立(た)ち止(どま)った。
「八つぁんか」
「八つぁんじゃねえぜ、一ぺえやったようないい顔色(かおいろ)をして、どこへ行(い)きなさる」
「柳湯(やなぎゆ)への」
「朝湯(あさゆ)たァしゃれてるの」
「しゃれてる訳(わけ)じゃねえが、寝(ね)ずに仕事(しごと)をしてたんで、湯(ゆ)へでも這入(はい)らねえことにゃ、はっきりしねえからよ」
「ふん、夜(よ)なべたァ恐(おそ)れ入(い)った。そんなに稼(かせ)いじゃ、銭(ぜに)がたまって仕方(しかた)があるめえ」
「だからよ。だから垢(あか)と一緒(しょ)に、柳湯(やなぎゆ)へ捨(す)てに行(い)くところだ」
「ほう、済(す)まねえが、そんな無駄(むだ)な銭(ぜに)があるんなら、ちとこっちへ廻(まわ)して貰(もら)いてえの。おれだの松(まつ)五郎(ろう)なんざ、貧乏神(びんぼうがみ)に見込(みこ)まれたせいか、いつもぴいぴい風車(かざぐるま)だ。そこへ行(い)くとおめえなんざ、おせんの爪(つめ)を糠袋(ぬかぶくろ)へ入(い)れて。……」
「なんだって八つぁん、おめえ夢(ゆめ)を見(み)てるんじゃねえか。爪(つめ)だの糠袋(ぬかぶくろ)だの、とそんなことァ、おれにゃァてんで通(つう)じねえよ」
「えええ隠(かく)しちゃァいけねえ。何(なに)から何(なに)まで、おれァ根(ね)こそぎ知(し)ってるぜ」
「知(し)ってるッて。――」
「知(し)らねえでどうするもんか。重(しげ)さん、おめえの夜(よ)あかしの仕事(しごと)は、銭(ぜに)のたまる稼(かせ)ぎじゃなくッて、色気(いろけ)のたまる楽(たの)しみじゃねえか」
「そ、そんなことが。……」
「嘘(うそ)だといいなさるのかい。証拠(しょうこ)はちゃんと上(あが)ってるんだぜ。おせんの爪(つめ)を煮(に)る匂(におい)は、さぞ香(こう)ばしくッて、いいだろうの」
「そいつを、おめえは誰(だれ)から聞(き)きなすった」
「誰(だれ)から聞(き)かねえでも、おいらの眼(め)は見透(みとお)しだて。――人間(にんげん)は、四百四病(びょう)の器(うつわ)だというが、重(しげ)さん、おめえの病(やまい)は、別(べつ)あつらえかも知(し)れねえの」
 春重(はるしげ)は、きょろりとあたりを見廻(みまわ)してから、一段(だん)声(こえ)を落(おと)した。
「ちょいと家(うち)へ寄(よ)らねえか。おもしろい物(もの)を見(み)せるぜ」
「折角(せっかく)だが、寄(よ)ってる暇(ひま)がねえやつさ。これから大急(おおいそぎ)ぎで、おせんの見世(みせ)まで行(い)かざァならねえんだ」
「おせんの見世(みせ)へ行(い)くッて、何(な)んの用(よう)でよ」
「何(な)んの用(よう)だか知(し)らねえが、春信師匠(はるのぶししょう)が、急(きゅう)に用(よう)ありとのことでの」
 八五郎(ろう)は、春信(はるのぶ)から預(あずか)った結文(むすびふみ)を、ちょいと懐中(ふところ)から窺(のぞ)かせた。

  紅(べに)


    一

 ゆく末(すえ)は誰(だれ)が肌(はだ)触(ふ)れん紅(べに)の花(はな)  ばせを
「おッとッと、そう一人(ひとり)で急(いそ)いじゃいけねえ。まず御手洗(みたらし)で手(て)を浄(きよ)めての。肝腎(かんじん)のお稲荷(いなり)さんへ参詣(さんけい)しねえことにゃ、罰(ばち)が当(あた)って眼(め)がつぶれやしょう」
「いかさまこれは早(はや)まった。こかァ笠森様(かさもりさま)の境内(けいだい)だったッけの」
「冗談(じょうだん)じゃごわせん。そいつを忘(わす)れちゃ、申訳(もうしわけ)がありますめえ。――それそれ、何(な)んでまた、洗(あら)った手(て)を拭(ふ)きなさらねえ。おせんは逃(に)げやしねえから、落着(おちつ)いたり、落着(おちつ)いたり」
「御隠居(ごいんきょ)、そうひやかしちゃいけやせん。堪忍(かんにん)堪忍(かんにん)」
「はッはッはッ、徳(とく)さん。お前(まえ)の足(あし)ッ、まるッきり、地(じ)べたを踏(ふ)んじァいねえの」
 こおろぎの音(ね)も細々(ほそぼそ)と明(あ)け暮(く)れて、風(かぜ)に乱(みだ)れる芒叢(すすきむら)に、三つ四つ五つ、子雀(こすずめ)の飛(と)び交(か)うさまも、いとど憐(あわ)れの秋(あき)ながら、ここ谷中(やなか)の草道(くさみち)ばかりは、枯野(かれの)も落葉(おちば)も影(かげ)さえなく、四季(しき)を分(わか)たず咲(さ)き競(そ)うた、芙蓉(ふよう)の花(はな)が清々(すがすが)しくも色(いろ)を染(そ)めて、西(にし)の空(そら)に澄(す)み渡(わた)った富岳(ふがく)の雪(ゆき)に映(は)えていた。
 名(な)にし負(お)う花(はな)の笠森(かさもり)感応寺(かんのうじ)。渋茶(しぶちゃ)の味(あじ)はどうであろうと、おせんが愛想(あいそう)の靨(えくぼ)を拝(おが)んで、桜貝(さくらがい)をちりばめたような白魚(しらうお)の手(て)から、お茶(ちゃ)一服(ぷく)を差(さ)し出(だ)されれば、ぞっと色気(いろけ)が身(み)にしみて、帰(かえ)りの茶代(ちゃだい)は倍(ばい)になろうという。女(おんな)ならでは夜(よ)のあけぬ、その大江戸(おおえど)の隅々(すみずみ)まで、子供(こども)が唄(うた)う毬唄(まりうた)といえば、近頃(ちかごろ)「おせんの茶屋(ちゃや)」にきまっていた。
 夜(よる)が白々(しらじら)と明(あ)けそめて、上野(うえの)の森(もり)の恋(こい)の鴉(からす)が、まだ漸(ようや)く夢(ゆめ)から覚(さ)めたか覚(さ)めない時分(じぶん)、早(はや)くも感応寺(かんのうじ)中門前町(なかもんぜんちょう)は、参詣(さんけい)の名(な)に隠(かく)れての、恋知(こいし)り男(おとこ)の雪駄(せった)の音(おと)で賑(にぎ)わいそめるが、十一軒(けん)の水茶屋(みずちゃや)の、いずれの見世(みせ)に休(やす)むにしても、当(とう)の金的(きんてき)はかぎ屋(や)のおせんただ一人(ひとり)。ゆうべ吉原(よしわら)で振(ふ)り抜(ぬ)かれた捨鉢(すてばち)なのが、帰(かえ)りの駄賃(だちん)に、朱羅宇(しゅらう)の煙管(きせる)を背筋(せすじ)に忍(しの)ばせて、可愛(かわい)いおせんにやろうなんぞと、飛(と)んだ親切(しんせつ)なお笑(わら)い草(ぐさ)も、数(かず)ある客(きゃく)の中(なか)にも珍(めずら)しくなかった。
「はいお早(はよ)う」
「ああ喉(のど)がかわいた」
 赤(あか)い鳥居(とりい)の手前(てまえ)にある。伊豆石(いずいし)の御手洗(みたらし)で洗(あら)った手(て)を、拭(ふ)くのを忘(わす)れた橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)が、お稲荷様(いなりさま)への参詣(さんけい)は二の次(つ)ぎに、連(つ)れの隠居(いんきょ)の台詞通(せりふどお)り、土(つち)へつかない足(あし)を浮(う)かせて、飛(と)び込(こ)んで来(き)たおせんの見世先(みせさき)。どかりと腰(こし)をおろした縁台(えんだい)に、小腰(こごし)をかがめて近寄(ちかよ)ったのは、肝腎(かんじん)のおせんではなくて、雇女(やといめ)のおきぬだった。
「いらっしゃいまし。お早(はや)くからようこそ御参詣(おさんけい)で。――」
「茶(ちゃ)をひとつもらいましょう」
「はい、唯今(ただいま)」
 三四人(にん)の先客(せんきゃく)への遠慮(えんりょ)からであろう。おきぬが茶(ちゃ)を汲(く)みに行(い)ってしまうと、徳太郎(とくたろう)はじくりと固唾(かたず)を呑(の)んで声(こえ)をひそめた。
「おかしいの。居(お)りやせんぜ」
「そんなこたァごわすまい。看板(かんばん)のねえ見世(みせ)はあるまいからの」
「だが御隠居(ごいんきょ)。おせんは影(かげ)もかたちも見(み)えやせんよ」
「あわてずに待(ま)ったり。じきに奥(おく)から出(で)て来(き)ようッて寸法(すんぽう)だろう」
「朝飯(あさめし)とお踏(ふ)みなすったか」
「そうだ。それともお前(まえ)さんのくるのを知(し)って、念入(ねんい)りの化粧(けしょう)ッてところか」
「嬉(うれ)しがらせは殺生(せっしょう)でげす。――おっと姐(ねえ)さん。おせんちゃんはどうしやした」
「唯今(ただいま)ちょいとお詣(まい)りに。――」
「どこへの」
「お稲荷様(いなりさま)でござんすよ」
「うむ、違(ちが)いない。ここァお稲荷様(いなりさま)の境内(けいだい)だっけの」
 徳太郎(とくたろう)は漸(ようや)く安心(あんしん)したように、ふふふと軽(かる)く内所(ないしょ)で笑(わら)った。

    二

 橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)が、おせんの茶屋(ちゃや)で安心(あんしん)の胸(むね)を撫(な)でおろしていた時分(じぶん)、当(とう)のおせんは、神田白壁町(かんだしろかべちょう)の鈴木春信(すずきはるのぶ)の住居(すまい)へと、ひたすら駕籠(かご)を急(いそ)がせた。
「相棒(あいぼう)」
「おお」
「威勢(いせい)よくやんねえ」
「合点(がってん)だ」
「そんじょそこらの、大道臼(だいどううす)を乗(の)せてるんじゃねえや。江戸(えど)一番(ばん)のおせんちゃんを乗(の)せてるんだからの」
「そうとも」
「こうなると、銭金(ぜにかね)のお客(きゃく)じゃァねえ。こちとらの見得(みえ)になるんだ」
「その通(とお)りだ」
「おれァ、一度(ど)、半蔵松葉(はんぞうまつば)の粧(よそ)おいという花魁(おいらん)を、小梅(こうめ)の寮(りょう)まで乗(の)せたことがあったっけが、入山形(いりやまがた)に一つ星(ぼし)の、全盛(ぜんせい)の太夫(たゆう)を乗(の)せた時(とき)だって、こんないい気持(きも)はしなかったぜ」
「もっともだ」
「垂(たれ)を揚(あ)げて、世間(せけん)の仲間(なかま)に見(み)せてやりてえくれえのものだの」
「おめえばかりじゃねえ。そいつァおいらもおんなじこッた」
「もし姐(ねえ)さん」と、後(うしろ)の方(ほう)から声(こえ)がかかった。
「あい」
「どうでげす。駕籠(かご)の垂(たれ)を揚(あ)げさしちァおくんなさるめえか」
「堪忍(かんにん)しておくんなさい。あたしゃ内所(ないしょ)の用事(ようじ)でござんすから。……」
「折角(せっかく)お前(まえ)さんを乗(の)せながら、垂(たれ)をおろして担(かつ)いでたんじゃ、勿体(もったい)なくって仕方(しかた)がねえ。憚(はばか)ンながら駕籠定(かごさだ)の竹(たけ)と仙蔵(せんぞう)は、江戸(えど)一番(ばん)のおせんちゃんを乗(の)せてるんだと、みんなに見(み)せてやりてえんで。……」
「どうかそんなことは、もういわないでおくんなさい」
「評判娘(ひょうばんむすめ)のおせんちゃんだ。両方(りょうほう)揚(あ)げて悪(わる)かったら、片(かた)ッ方(ぽう)だけでもようがしょう」
「そうだ、姐(ねえ)さん。こいつァ何(なに)も、あっしらばかりの見得(みえ)じゃァごあんせんぜ。春信(はるのぶ)さんの絵(え)で売(う)り込(こ)むのも、駕籠(かご)から窺(のぞ)いて見(み)せてやるのも、いずれは世間(せけん)へのおんなじ功徳(くどく)でげさァね。ひとつ思(おも)い切(き)って、ようがしょう」
「どうか堪忍(かんにん)。……」
「欲(よく)のねえお人(ひと)だなァ。垂(たれ)を揚(あ)げてごらんなせえ。あれ見(み)や、あれが水茶屋(みずちゃや)のおせんだ。笠森(かさもり)のおせんだと、誰(だれ)いうとなく口(くち)から耳(みみ)へ伝(つた)わって白壁町(しろかべちょう)まで往(ゆ)くうちにゃァ、この駕籠(かご)の棟(むね)ッ鼻(ぱな)にゃ、人垣(ひとがき)が出来(でき)やすぜ。のう竹(たけ)」
「そりゃァもう仙蔵(せんぞう)のいう通(とお)り真正(しんしょう)間違(まちげ)えなしの、生(い)きたおせんちゃんを江戸(えど)の町中(まちなか)で見(み)たとなりゃァ、また評判(ひょうばん)は格別(かくべつ)だ。――片(かた)ッ方(ぽう)でもいけなけりゃ、せめて半分(はんぶん)だけでも揚(あ)げてやったら、通(とお)りがかりの人達(ひとたち)が、どんなに喜(よろこ)ぶか知(し)れたもんじゃねえんで。……」
「駕籠屋(かごや)さん」
「ほい」
「あたしゃもう降(お)りますよ」
「何(な)んでげすッて」
「無理難題(むりなんだい)をいうんなら、ここで降(お)ろしておくんなさいよ」
「と、とんでもねえ。お前(まえ)さんを、こんなところでおろした日(ひ)にゃ、それこそこちとらァ、二度(ど)と再(ふたた)び、江戸(えど)じゃ家業(かぎょう)が出来(でき)やせんや。――そんなにいやなら、垂(たれ)を揚(あ)げるたいわねえから、そうじたばたと動(うご)かねえで、おとなしく乗(の)っておくんなせえ。――だが、考(かん)げえりゃ考(かん)げえるほど、このまま担(かつ)いでるな、勿体(もったい)ねえなァ」
 駕籠(かご)はいま、秋元但馬守(あきもとたじまのかみ)の練塀(ねりべい)に沿(そ)って、蓮(はす)の花(はな)が妍(けん)を競(きそ)った不忍池畔(しのばずちはん)へと差掛(さしかか)っていた。

    三

 東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ)の山裾(やますそ)に、周囲(しゅうい)一里(り)の池(いけ)を見(み)ることは、開府以来(かいふいらい)江戸(えど)っ子(こ)がもつ誇(ほこ)りの一つであったが、わけても雁(かり)の訪(おとず)れを待(ま)つまでの、蓮(はす)の花(はな)が池面(いけおも)に浮(う)き出(で)た初秋(しょしゅう)の風情(ふぜい)は、江戸歌舞伎(えどかぶき)の荒事(あらごと)と共(とも)に、八百八町(ちょう)の老若男女(ろうにゃくなんにょ)が、得意中(とくいちゅう)の得意(とくい)とするところであった。
 近頃(ちかごろ)はやり物(もの)のひとつになった黄縞格子(きじまごうし)の薄物(うすもの)に、菊菱(きくびし)の模様(もよう)のある緋呉羅(ひごら)の帯(おび)を締(し)めて、首(くび)から胸(むね)へ、紅絹(べにぎぬ)の守袋(まもりぶくろ)の紐(ひも)をのぞかせたおせんは、洗(あら)い髪(がみ)に結(ゆ)いあげた島田髷(しまだまげ)も清々(すがすが)しく、正(ただ)しく座(すわ)った膝(ひざ)の上(うえ)に、両(りょう)の手(て)を置(お)いたまま、駕籠(かご)の中(なか)から池(いけ)のおもてに視線(しせん)を移(うつ)した。
 夜(よ)が明(あ)けて、まだ五つには間(ま)があるであろう。ひと抱(かか)えもあろうと想(おも)われる蓮(はす)の葉(は)に、置(お)かれた露(つゆ)の玉(たま)は、いずれも朝風(あさかぜ)に揺(ゆ)れて、その足(あし)もとに忍(しの)び寄(よ)るさざ波(なみ)を、ながし目(め)に見(み)ながら咲(さ)いた花(はな)の紅(べに)が招(まね)く尾花(おばな)のそれとは変(かわ)った清(きよ)い姿(すがた)を、水鏡(みずかがみ)に映(うつ)すたわわの風情(ふぜい)。ゆうべの夢見(ゆめみ)が忘(わす)れられぬであろう。葉隠(はがく)れにちょいと覗(のぞ)いた青蛙(あおがえる)は、今(いま)にも落(お)ちかかった三角頭(かくとう)に、陽射(ひざ)しを眩(まば)ゆく避(さ)けていた。
「駕籠屋(かごや)さん」
 ふと、おせんが声(こえ)をかけた。
「へえ」
「こっち側(がわ)だけ、垂(たれ)を揚(あ)げておくんなさいな」
「なんでげすッて」
「花(はな)が見(み)とうござんすのさ」
「合点(がってん)でげす」
 先棒(さきぼう)と後(うしろ)との声(こえ)は、正(まさ)に一緒(しょ)であった。駕籠(かご)が地上(ちじょう)におろされると同時(どうじ)に、池(いけ)に面(めん)した右手(みぎて)の垂(たれ)は、颯(さっ)とばかりにはね揚(あ)げられた。
「まァ綺麗(きれい)だこと」
「でげすからあっしらが、さっきッからいってたじゃござんせんか。こんないい景色(けしき)ァ、毎朝(まいあさ)見(み)られる図(ず)じゃァねえッて。――ごらんなせえやし。お前(まえ)さんの姿(すがた)が見(み)えたら、つぼんでいた花(はな)が、あの通(とお)り一遍(ぺん)に咲(さ)きやしたぜ」
「ちげえねえ。葉ッぱにとまってた蛙(かえる)の野郎(やろう)までが、あんな大(おお)きな眼(め)を開(あ)きゃァがった」
「もういいから、やっておくんなさい」
「そんなら、ゆっくりめえりやしょう。――おせんちゃんが垂(たれ)を揚(あ)げておくんなさりゃ、どんなに肩身(かたみ)が広(ひろ)いか知(し)れやァしねえ。のう竹(たけ)」
「そうともそうとも。こうなったら、急(いそ)いでくれろと頼(たの)まれても、足(あし)がいうことを聞(き)きませんや。あっしと仙蔵(せんぞう)との、役得(やくとく)でげさァね」
「ほほほほ、そんならあたしゃ、垂(たれ)をおろしてもらいますよ」
「飛(と)んでもねえ。駕籠(かご)に乗(の)る人(ひと)かつぐ人(ひと)、行(ゆ)く先(さき)ァお客(きゃく)のままだが、かついでるうちァ、こっちのままでげすぜ。――それ竹(たけ)、なるたけ往来(おうらい)の人達(ひとたち)に目立(めだ)つように、腰(こし)をひねって歩(ある)きねえ」
「おっと、御念(ごねん)には及(およ)ばねえ。お上(かみ)が許(ゆる)しておくんなさりゃァ、棒鼻(ぼうはな)へ、笠森(かさもり)おせん御用駕籠(ごようかご)とでも、札(ふだ)を建(た)てて行(ゆ)きてえくらいだ」
 いうまでもなく、祝儀(しゅうぎ)や酒手(さかて)の多寡(たか)ではなかった。当時(とうじ)江戸女(えどおんな)の人気(にんき)を一人(ひとり)で背負(せお)ってるような、笠森(かさもり)おせんを乗(の)せた嬉(うれ)しさは、駕籠屋仲間(かごやなかま)の誉(ほま)れでもあろう。竹(たけ)も仙蔵(せんぞう)も、金(きん)の延棒(のべぼう)を乗(の)せたよりも腹(はら)は得意(とくい)で一ぱいになっていた。
「こう見(み)や。あすこへ行(い)くなァおせんだぜ」
「おせんだ」
「そうよ。人違(ひとちげ)えのはずはねえ。靨(えくぼ)が立派(りっぱ)な証拠(しょうこ)だて」
「おッと違(ちげ)えねえ。向(むこ)うへ廻(まわ)って見(み)ざァならねえ」
 帳場(ちょうば)へ急(いそ)ぐ大工(だいく)であろう。最初(さいしょ)に見(み)つけた誇(ほこ)りから、二人(ふたり)が一緒(しょ)に、駕籠(かご)の向(むこ)うへかけ寄(よ)った。

    四

「風流絵暦所(ふうりゅうえこよみどころ)鈴木春信(すずきはるのぶ)」
 水(みず)くきのあとも細々(ほそぼそ)と、流(なが)したように書(か)きつらねた木目(もくめ)の浮(う)いた看板(かんばん)に、片枝折(かたしおり)の竹(たけ)も朽(く)ちた屋根(やね)から柴垣(しばがき)へかけて、葡萄(ぶどう)の蔓(つる)が伸(の)び放題(ほうだい)の姿(すがた)を、三尺(じゃく)ばかりの流(なが)れに映(うつ)した風雅(ふうが)なひと構(かま)え、お城(しろ)の松(まつ)も影(かげ)を曳(ひ)きそうな、日本橋(にほんばし)から北(きた)へ僅(わずか)に十丁(ちょう)の江戸(えど)のまん中(なか)に、かくも鄙(ひな)びた住居(すまい)があろうかと、道往(みちゆ)く人(ひと)のささやき交(かわ)す白壁町(しろかべちょう)。夏(なつ)ならば、すいと飛(と)びだす迷(まよ)い蛍(ほたる)を、あれさ待(ま)ちなと、団扇(うちわ)で追(お)い寄(よ)るしなやかな手(て)も見(み)られるであろうが、はや秋(あき)の声(こえ)聞(き)く垣根(かきね)の外(そと)には、朝日(あさひ)を受(う)けた小葡萄(こぶどう)の房(ふさ)が、漸(ようや)く小豆大(あずきだい)のかたちをつらねた影(かげ)を、真下(ました)の流(なが)れに漂(ただよ)わせているばかりであった。
 池(いけ)と名付(なづ)ける程(ほど)ではないが、一坪余(つぼあま)りの自然(しぜん)の水溜(みずたま)りに、十匹(ぴき)ばかりの緋鯉(ひごい)が数(かぞ)えられるその鯉(こい)の背(せ)を覆(おお)って、なかば花(はな)の散(ち)りかけた萩(はぎ)のうねりが、一叢(ひとむら)ぐっと大手(おおて)を広(ひろ)げた枝(えだ)の先(さき)から、今(いま)しもぽたりと落(お)ちたひとしずく。波紋(はもん)が次第(しだい)に大(おお)きく伸(の)びたささやかな波(なみ)の輪(わ)を、小枝(こえだ)の先(さき)でかき寄(よ)せながら、じっと水(みず)の面(おも)を見詰(みつ)めていたのは、四十五の年(とし)よりは十年(ねん)も若(わか)く見(み)える、五尺(しゃく)に満(み)たない小作(こづく)りの春信(はるのぶ)であった。
 おおかた銜(くわ)えた楊枝(ようじ)を棄(す)てて、顔(かお)を洗(あら)ったばかりなのであろう。まだ右手(みぎて)に提(さ)げた手拭(てぬぐい)は、重(おも)く濡(ぬ)れたままになっていた。
「藤吉(とうきち)」
 春信(はるのぶ)は、鯉(こい)の背(せ)から眼(め)を放(はな)すと、急(きゅう)に思(おも)いだしたように、縁先(えんさき)の万年青(おもと)の葉(は)を掃除(そうじ)している、少年(しょうねん)の門弟(もんてい)藤吉(とうきち)を呼(よ)んだ。
「へえ」
「八つぁんは、まだ帰(かえ)って来(こ)ないようだの」
「へえ」
「おせんもまだ見(み)えないか」
「へえ」
「堺屋(さかいや)の太夫(たゆう)もか」
「へえ」
「おまえちょいと、枝折戸(しおりど)へ出(で)て見(み)て来(き)な」
「かしこまりました」
 藤吉(とうきち)は、万年青(おもと)の葉(は)から掃除(そうじ)の筆(ふで)を放(はな)すと、そのまま萩(はぎ)の裾(すそ)を廻(まわ)って、小走(こばし)りにおもてへ出(で)て行(い)った。
「今時分(いまじぶん)、おせんがいないはずはないから、ひょっとすると八五郎(ろう)の奴(やつ)、途中(とちゅう)で誰(だれ)かに遇(あ)って、道草(みちくさ)を食(く)ってるのかも知(し)れぬの。堺屋(さかいや)でもどっちでも、早(はや)く来(く)ればいいのに。――」
 濡(ぬ)れた手拭(てぬぐい)を、もう一度(ど)丁寧(ていねい)に絞(しぼ)った春信(はるのぶ)は、口(くち)のうちでこう呟(つぶや)きながら、おもむろに縁先(えんさき)の方(ほう)へ歩(あゆ)み寄(よ)った。すると、その額(ひたい)の汗(あせ)を拭(ふ)きながら駆(か)け込(こ)んで来(き)たのは、摺師(すりし)の八五郎(ろう)であった。
「行(い)ってめえりやした」
「御苦労(ごくろう)、御苦労(ごくろう)。おせんはいたかの」
「へえ。居(お)りやした。でげすが師匠(ししょう)、世(よ)の中(なか)にゃ馬鹿(ばか)な野郎(やろう)が多(おお)いのに驚(おどろ)きやしたよ。あっしが向(むこ)うへ着(つ)いたのは、まだ六つをちっと回(まわ)ったばかりでげすのに、もうお前(まえ)さん、かぎ屋(や)の前(まえ)にゃ、人(ひと)が束(たば)ンなってるじゃござんせんか。それも、女(おんな)一人(ひとり)いるんじゃねえ。みんな、おいらこそ江戸(えど)一番(ばん)の色男(いろおとこ)だと、いわぬばかりの顔(かお)をして、反(そ)りッかえってる野郎(やろう)ぞっきでげさァね。――おせんちゃんにゃ、千人(にん)の男(おとこ)が首(くび)ッたけンなっても、及(およ)ばぬ鯉(こい)の滝(たき)のぼりだとは、知らねえんだから浅間(あさま)しいや」
「八つぁん。おせんの返事(へんじ)はどうだったんだ。直(す)ぐに来(く)るとか、来(こ)ないとか」
「めえりやすとも。もうおッつけ、そこいらで声(こえ)が聞(きこ)えますぜ」
 八五郎(ろう)は得意(とくい)そうに小首(こくび)をかしげて、枝折戸(しおりど)の方(ほう)を指(ゆび)さした。

    五

 枝折戸(しおりど)の外(そと)に、外道(げどう)の面(つら)のような顔(かお)をして、ずんぐり立(た)って待(ま)っていた藤吉(とうきち)は、駕籠(かご)の中(なか)からこぼれ出(で)たおせんの裾(すそ)の乱(みだ)れに、今(いま)しもきょろりと、団栗(どんぐり)まなこを見張(みは)ったところだった。
「やッ、おせんちゃん。師匠(ししょう)がさっきから、首(くび)を長(なが)くしてお待(ま)ちかねだぜ」
 朱(しゅ)とお納戸(なんど)の、二こくの鼻緒(はなお)の草履(ぞうり)を、後(うしろ)の仙蔵(せんぞう)にそろえさせて、扇(おうぎ)で朝日(あさひ)を避(さ)けながら、静(しず)かに駕籠(かご)を立(た)ち出(で)たおせんは、どこぞ大店(おおだな)の一人娘(ひとりむすめ)でもあるかのように、如何(いか)にも品(ひん)よく落着(おちつ)いていた。
「藤吉(とうきち)さん。ここであたしを、待(ま)ってでござんすかえ」
「そうともさ、肝腎(かんじん)の万年青(おもと)の掃除(そうじ)を半端(はんぱ)でやめて、半時(はんとき)も前(まえ)から、お前(まえ)さんの来(く)るのを待(ま)ってたんだ。――だがおせんちゃん。お前(まえ)は相変(あいかわ)らず、師匠(ししょう)の絵(え)のように綺麗(きれい)だのう」
「おや、朝(あさ)ッからおなぶりかえ」
「なぶるどころか。おいらァ惚(ほ)れ惚(ぼ)れ見(み)とれてるんだ。顔(かお)といい、姿(すがた)といい、お前(まえ)ほどの佳(い)い女(おんな)は江戸中(えどじゅう)探(さが)してもなかろうッて、師匠(ししょう)はいつも口癖(くちぐせ)のようにいってなさるぜ。うちのお鍋(なべ)も女(おんな)なら、おせんちゃんも女(おんな)だが、おんなじ女(おんな)に生(うま)れながら、お鍋(なべ)はなんて不縹緻(ぶきりょう)なんだろう。お鍋(なべ)とはよく名(な)をつけたと、おいらァつくづくあいつの、親父(おやじ)の智恵(ちえ)に感心(かんしん)してるんだが、それと違(ちが)っておせんさんは、弁天様(べんてんさま)も跣足(はだし)の女(おんな)ッぷり。いやもう江戸(えど)はおろか日本中(にほんじゅう)、鉦(かね)と太鼓(たいこ)で探(さが)したって……」
「おいおい藤(とう)さん」
 肩(かた)を掴(つか)んで、ぐいと引(ひ)っ張(ぱ)った。その手(て)で、顔(かお)を逆(さか)さに撫(な)でた八五郎(ろう)は、もう一度(ど)帯(おび)を把(と)って、藤吉(とうきち)を枝折戸(しおりど)の内(うち)へ引(ひ)きずり込(こ)んだ。
「何(なに)をするんだ。八つぁん」
「何(なに)もこうありゃァしねえ。つべこべと、余計(よけい)なことをいってねえで、速(はや)くおせんちゃんを、奥(おく)へ案内(あんない)してやらねえか。師匠(ししょう)がもう、茶(ちゃ)を三杯(ばい)も換(か)えて待(ま)ちかねだぜ」
「おっと、しまった」
「おせんちゃん。少(すこ)しも速(はや)く、急(いそ)いだ、急(いそ)いだ」
「ほほほほ。八つぁんがまた、おどけた物(もの)のいいようは。……」
 駕籠(かご)を帰(かえ)したおせんの姿(すがた)は、小溝(こどぶ)へ架(か)けた土橋(どばし)を渡(わた)って、逃(のが)れるように枝折戸(しおりど)の中(なか)へ消(き)えて行(い)った。
「ふん、八五郎(ろう)の奴(やつ)、余計(よけい)な真似(まね)をしやァがる。おせんちゃんの案内役(あんないやく)は、いっさいがっさい、おいらときまってるんだ。――よし、あとで堺屋(さかいや)の太夫(たゆう)が来(き)たら、その時(とき)あいつに辱(はじ)をかかせてやる」
 手(て)の内(うち)の宝(たから)を奪(うば)われでもしたように、藤吉(とうきち)は地駄(じだ)ン駄(だ)踏(ふ)んで、あとから、土橋(どばし)をひと飛(と)びに飛(と)んで行(い)った。
 鉤(かぎ)なりに曲(まが)った縁先(えんさき)では、師匠(ししょう)の春信(はるのぶ)とおせんとが、既(すで)に挨拶(あいさつ)を済(す)ませて、池(いけ)の鯉(こい)に眼(め)をやりながら、何事(なにごと)かを、声(こえ)をひそめて話(はな)し合(あ)っていた。
「八つぁん、ちょいと来(き)てくんな」
「何(な)んだ藤(とう)さん」
 立(た)って来(き)た八五郎(ろう)を、睨(にら)めるようにして、藤吉(とうきち)は口(くち)を尖(とが)らせた。
「お前(まえ)、あとから誰(だれ)が来(く)るか、知(し)ってるかい」
「知(し)らねえ」
「それ見(み)な。知(し)らねえで、よくそんなお接介(せっかい)が出来(でき)たもんだの」
「お接介(せっかい)たァ何(な)んのこッた」
「おせんちゃんを、先(さき)に立(た)って連(つ)れてくなんざ、お接介(せっかい)だよ」
「冗談(じょうだん)じゃねえ。おせんちゃんは、師匠(ししょう)に頼(たの)まれて、おいらが呼(よ)びに行(い)ったんだぜ。――おめえはまだ、顔(かお)を洗(あら)わねえんだの」
 顔(かお)はとうに洗(あら)っていたが、藤吉(とうきち)の眼頭(めがしら)には、目脂(めやに)が小汚(こぎた)なくこすり付(つ)いていた。

    六

 赤(あか)とんぼが障子(しょうじ)へくっきり影(かげ)を映(うつ)した画室(がしつ)は、金(きん)の砂子(すなこ)を散(ち)らしたように明(あか)るかった。
 広々(ひろびろ)と庭(にわ)を取(と)ってはあるが、僅(わず)かに三間(ま)を数(かぞ)えるばかりの、茶室(ちゃしつ)がかった風流(ふうりゆう)の住居(すまい)は、ただ如何(いか)にも春信(はるのぶ)らしい好(この)みにまかせて、手(て)いれが行(ゆ)き届(とど)いているというだけのこと、諸大名(しょだいみょう)の御用絵師(ごようえし)などにくらべたら、まことに粗末(そまつ)なものであった。
 その画室(がしつ)の中(なか)ほどに、煙草盆(たばこぼん)をはさんで、春信(はるのぶ)とおせんとが対座(たいざ)していた。おせんの初(うぶ)な心(こころ)は、春信(はるのぶ)の言葉(ことば)にためらいを見(み)せているのであろう。うつ向(む)いた眼許(めもと)には、ほのかな紅(べに)を差(さ)して、鬢(びん)の毛(け)が二筋(すじ)三筋(すじ)、夢見(ゆめみ)るように頬(ほほ)に乱(みだ)れかかっていた。
「どうだの、これは別(べつ)に、おいらが堺屋(さかいや)から頼(たの)まれた訳(わけ)ではないが、何(な)んといっても中村松江(なかむらしょうこう)なら、当時(とうじ)押(お)しも押(お)されもしない、立派(りっぱ)な太夫(たゆう)。その堺屋(さかいや)が秋(あき)の木挽町(こびきちょう)で、お前(まえ)のことを重助(じゅうすけ)さんに書(か)きおろさせて、舞台(いた)に上(の)せようというのだから、まず願(ねが)ってもないもっけの幸(さいわ)い。いやの応(おう)のということはなかろうじゃないか」
「はい、そりゃァもう、あたしに取(と)っては勿体(もったい)ないくらいの御贔屓(ごひいき)、いや応(おう)いったら、眼(め)がつぶれるかも知(し)れませぬが。……」
「それなら何(な)んでの」
「お師匠(ししょう)さん、堪忍(かんにん)しておくんなさい。あたしゃ知(し)らない役者衆(やくしゃしゅう)と、差(さ)しで会(あ)うのはいやでござんす」
「はッはッは、何(なに)かと思(おも)ったら、いつもの馬鹿気(ばかげ)たはにかみからか。ここへ堺屋(さかいや)を招(よ)んだのは、何(なに)もお前(まえ)と差(さ)しで会(あ)わせようの、二人(ふたり)で話(はなし)をさせようのと、そんな訳合(わけあい)じァありゃしない。松江(しょうこう)は日頃(ひごろ)、おいらの絵(え)が大好(だいす)きとかで、板(いた)おろしをしたのはもとより、版下(はんした)までを集(あつ)めている程(ほど)の好(す)き者(しゃ)仲間(なかま)、それがゆうべ、芝居(しばい)の帰(かえ)りにひょっこり寄(よ)って、この次(つぎ)の狂言(きょうげん)には、是非(ぜひ)とも笠森(かさもり)おせんちゃんを、芝居(しばい)に仕組(しく)んで出(だ)したいとの、たっての望(のぞ)みさ。どういう筋(すじ)に仕組(しく)むのか、そいつは作者(さくしゃ)の重助(じゅうすけ)さんに謀(はか)ってからの寸法(すんぽう)だから、まだはっきりとはいえないとのことだった、松江(しょうこう)が写(うつ)したお前(まえ)の姿(すがた)を、舞台(ぶたい)で見(み)られるとなりゃ、何(な)んといっても面白(おもしろ)い話(はなし)。おいらは二つ返事(へんじ)で、手(て)を打(う)ってしまったんだ。――そこで、善(ぜん)は急(いそ)げのたとえをそのまま、あしたの朝(あさ)、ここへおせんに来(き)てもらおうから、太夫(たゆう)ももう一度(ど)、ここまで出(で)て来(き)てもらいたいと、約束事(やくそくごと)が出来(でき)たんだが、――のうおせん。おいらの前(まえ)じゃ、肌(はだ)まで見(み)せて、絵(え)を写(うつ)させるお前(まえ)じゃないか、相手(あいて)が誰(だれ)であろうと、ここで一時(いっとき)、茶のみ話(ばなし)をするだけだ。心持(こころも)よく会(あ)ってやるがいいわな」
「さァ。――」
「今更(いまさら)思案(しあん)もないであろう。こうしているうちにも、もうそこらへ、やって来(き)たかも知(し)れまいて」
「まァ、師匠(ししょう)さん」
「はッはッは。お前(まえ)、めっきり気(き)が小(ちい)さくなったの」
「そんな訳(わけ)じゃござんせぬが、あたしゃ知(し)らない役者衆(やくしゃしゅう)とは。……」
「ほい、まだそんなことをいってるのか。なまじ知(し)ってる顔(かお)よりも、はじめて会(あ)って見(み)る方(ほう)に、はずむ話(はなし)があるものだ。――それにお前(まえ)、相手(あいて)は当時(とうじ)上上吉(じょうじょうきち)の女形(おやま)、会(あ)ってるだけでも、気(き)が晴(は)れ晴(ば)れとするようだぜ」
 ふと、とんぼの影(かげ)が障子(しょうじ)から離(はな)れた。と同時(どうじ)に藤吉(とうきち)の声(こえ)が、遠慮勝(えんりょが)ちに縁先(えんさき)から聞(きこ)えた。
「師匠(ししょう)、太夫(たゆう)がおいでになりました」
「おおそうか。直(す)ぐにこっちへお通(とお)ししな」
 じっと畳(たたみ)の上(うえ)を見詰(みつ)めているおせんは、たじろぐように周囲(しゅうい)を見廻(みまわ)した。
「お師匠(ししょう)さん、後生(ごしょう)でござんす。あたしをこのまま、帰(かえ)しておくんなさいまし」
「なんだって」
 春信(はるのぶ)は大(おお)きく眼(め)を見(み)ひらいた。

    七

 たとえば青苔(あおこけ)の上(うえ)に、二つ三つこぼれた水引草(みずひきそう)の花(はな)にも似(に)て、畳(たたみ)の上(うえ)に裾(すそ)を乱(みだ)して立(た)ちかけたおせんの、浮(う)き彫(ぼり)のような爪先(つまさき)は、もはや固(かた)く畳(たたみ)を踏(ふ)んではいなかった。
「ははは、おせん。みっともない、どうしたというんだ」
 春信(はるのぶ)の、いささか当惑(とうわく)した視線(しせん)は、そのまま障子(しょうじ)の方(ほう)へおせんを追(お)って行(い)ったが、やがて追(お)い詰(つめ)られたおせんの姿(すがた)が、障子(しょうじ)の際(きわ)にうずくまるのを見(み)ると、更(さら)に解(げ)せない思(おも)いが胸(むね)の底(そこ)に拡(ひろ)がってあわてて障子(しょうじ)の外(そと)にいる藤吉(とうきち)に声(こえ)をかけた。
「藤吉(とうきち)、堺屋(さかいや)の太夫(たゆう)に、もうちっとの間(あいだ)、待(ま)っておもらい申(もう)してくれ」
「へえ」
 おおかた、もはや縁先近(えんさきちか)くまで来(き)ていたのであろう。藤吉(とうきち)が直(す)ぐさま松江(しょうこう)に春信(はるのぶ)の意(い)を伝(つた)えて、池(いけ)の方(ほう)へ引(ひ)き返(かえ)してゆく気配(けはい)が、障子(しょうじ)に映(うつ)った二つの影(かげ)にそれと知(し)れた。
「おせん」
「あい」
「お前(まえ)、何(なに)か訳(わけ)があってだの」
「いいえ、何(なに)も訳(わけ)はござんせぬ」
「隠(かく)すにゃ当(あた)らないから、有様(ありよう)にいって見(み)な、事(こと)と次第(しだい)に因(よ)ったら、堺屋(さかいや)は、このままお前(まえ)には会(あわ)せずに、帰(かえ)ってもらうことにする」
「そんなら、あたしの願(ねが)いを聞(き)いておくんなさいますか」
「聞(き)きもする。かなえもする。だが、その訳(わけ)は聞(き)かしてもらうぜ」
「さァその訳(わけ)は。――」
「まだ隠(かく)しだてをするつもりか。あくまで聞(き)かせたくないというなら、聞(き)かずに済(す)ませもしようけれど、そのかわりおいらはもうこの先(さき)、金輪際(こんりんざい)、お前(まえ)の絵(え)は描(か)かないからそのつもりでいるがいい」
「まァお師匠(ししょう)さん」
「なァにいいやな。笠森(かさもり)のおせんは、江戸(えど)一番(ばん)の縹緻佳(きりょうよ)しだ。おいらが拙(まず)い絵(え)なんぞに描(か)かないでも、客(きゃく)は御府内(ごふない)の隅々(すみずみ)から、蟻(あり)のように寄(よ)ってくるわな。――いいたくなけりゃ、聞(き)かずにいようよ」
 いたずらに、もてあそんでいた三味線(みせん)の、いとがぽつんと切(き)れたように、おせんは身内(みうち)に積(つも)る寂(さび)しさを覚(おぼ)えて、思(おも)わず瞼(まぶた)が熱(あつ)くなった。
「お師匠(ししょう)さん、堪忍(かんにん)しておくんなさい。あたしゃ、お母(かあ)さんにもいうまいと、固(かた)く心(こころ)にきめていたのでござんすが、もう何事(なにごと)も申(もう)しましょう。どっと笑(わら)っておくんなさいまし」
「おお、ではやっぱり何(なに)かの訳(わけ)があって。……」
「あい、あたしゃあの、浜村屋(はまむらや)の太夫(たゆう)さんが、死(し)ぬほど好(す)きなんでござんす」
「えッ。菊之丞(きくのじょう)に。――」
「あい。おはずかしゅうござんすが。……」
 消えも入(い)りたいおせんの風情(ふぜい)は、庭(にわ)に咲(さ)く秋海棠(しゅうかいどう)が、なまめき落(お)ちる姿(すがた)をそのまま悩(なや)ましさに、面(おもて)を袂(たもと)におおい隠(かく)した。
 じッと、釘(くぎ)づけにされたように、春信(はるのぶ)の眼(め)は、おせんの襟脚(えりあし)から動(うご)かなかった。が、やがて静(しず)かにうなずいたその顔(かお)には、晴(は)れやかな色(いろ)が漂(ただよ)っていた。
「おせん」
「あい」
「よくほれた」
「えッ」
「当代(とうだい)一の若女形(わかおやま)、瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)なら、江戸(えど)一番(ばん)のお前(まえ)の相手(あいて)にゃ、少(すこ)しの不足(ふそく)もあるまいからの。――判(わか)った。相手(あいて)がやっぱり役者(やくしゃ)とあれば、堺屋(さかいや)に会(あ)うのは気(き)が差(さ)そう。こりゃァ何(な)んとでもいって断(ことわ)るから、安心(あんしん)するがいい」

    八

 勢(きお)い込(こ)んで駕籠(かご)で乗(の)り着(つ)けた中村松江(なかむらしょうこう)は、きのうと同(おな)じように、藤吉(とうきち)に案内(あんない)されたが、直(す)ぐ様(さま)通(とお)してもらえるはずの画室(がしつ)へは、何(なに)やら訳(わけ)があって入(はい)ることが出来(でき)ぬところから、ぽつねんと、池(いけ)の近(ちか)くにたたずんだまま、人影(ひとかげ)に寄(よ)って来(く)る鯉(こい)の動(うご)きをじっと見詰(みつ)めていた。
 師(し)の歌右衛門(うたえもん)を慕(した)って江戸(えど)へ下(くだ)ってから、まだ足(あし)かけ三年(ねん)を経(へ)たばかりの松江(しょうこう)が、贔屓筋(ひいきすじ)といっても、江戸役者(えどやくしゃ)ほどの数(かず)がある訳(わけ)もなく、まして当地(とうち)には、当代随(とうだいずい)一の若女形(わかおやま)といわれる、二代目(だいめ)瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)が全盛(ぜんせい)を極(きわ)めていることとて、その影(かげ)は決(けっ)して濃(こ)いものではなかった。が、年(とし)は若(わか)いし、芸(げい)は達者(たっしゃ)であるところから、作者(さくしゃ)の中村重助(なかむらじゅうすけ)が頻(しき)りに肩(かた)を入(い)れて、何(なに)か目先(めさき)の変(かわ)った狂言(きょうげん)を、出(だ)させてやりたいとの心(こころ)であろう。近頃(ちかごろ)春信(はるのぶ)の画(え)で一層(そう)の評判(ひょうばん)を取(と)った笠森(かさもり)おせんを仕組(しく)んで、一番(ばん)当(あ)てさせようと、松江(しょうこう)が春信(はるのぶ)と懇意(こんい)なのを幸(さいわ)い、善(ぜん)は急(いそ)げと、早速(さっそく)きのうここへ訪(たず)ねさせての、きょうであった。
「太夫(たゆう)、お待遠(まちどお)さまでござんしょうが、どうかこちらへおいでなすって、お茶(ちゃ)でも召上(めしあが)って、お待(ま)ちなすっておくんなまし」
 藤吉(とうきち)にも、何(な)んで師匠(ししょう)が堺屋(さかいや)を待(ま)たせるのか、一向(こう)合点(がってん)がいかなかったが、張(は)り詰(つ)めていた気持(きもち)が急(きゅう)に緩(ゆる)んだように、しょんぼりと池(いけ)を見詰(みつ)めて立(た)っている後姿(うしろすがた)を見(み)ると、こういって声(こえ)をかけずにはいられなかった。
「へえ、おおきに。――」
「太夫(たゆう)は、おせんちゃんには、まだお会(あ)いなすったことがないんでござんすか」
「へえ、笠森様(かさもりさま)のお見世(みせ)では、お茶(ちゃ)を戴(いただ)いたことがおますが、先様(さきさま)は、何(なに)を知(し)ってではござりますまい。――したが若衆(わかしゅう)さん。おせんさんは、もはやお見(み)えではおますまいかな」
「つい今(いま)し方(がた)。――」
「では何(なに)か、絵(え)でも習(なろ)うていやはるのでは。――」
「さァ、大方(おおかた)そんなことでげしょうが、どっちにしても長(なが)いことじゃござんすまい。そこは日(ひ)が当(あた)りやす。こっちへおいでなすッて。……」
 ふと踵(くびす)を返(かえ)して、二足(あし)三足(あし)、歩(ある)きかかった時(とき)だった。隅(すみ)の障子(しょうじ)を静(しず)かに開(あ)けて、庭(にわ)に降(お)り立(た)った春信(はるのぶ)は、蒼白(そうはく)の顔(かお)を、振袖姿(ふりそですがた)の松江(しょうこう)の方(ほう)へ向(む)けた。
「太夫(たゆう)」
「おお、これはお師匠(ししょう)さんは。早(はよう)からお邪間(じゃま)して、えろ済(す)みません」
「済(す)まないのは、お前(まえ)さんよりこっちのこと、折角(せっかく)眠(ねむ)いところを、早起(はやお)きをさせて、わざわざ来(き)てもらいながら、肝腎(かんじん)のおせんが。――」
「おせんさんが、なんぞしやはりましたか」
「急病(きゅうびょう)での」
「えッ」
「血(ち)の道(みち)でもあろうが、ここへ来(く)るなり頭痛(ずつう)がするといって、ふさぎ込(こ)んでしまったまま、いまだに顔(かお)も挙(あ)げない始末(しまつ)、この分(ぶん)じゃ、半時(はんとき)待(ま)ってもらっても、今朝(けさ)は、話(はなし)は出来(でき)まいと思(おも)っての、お気(き)の毒(どく)だが、またあらためて、会(あ)ってやっておもらい申(もう)すより、仕方(しかた)がないじゃなかろうかと、実(じつ)は心配(しんぱい)している訳(わけ)だが。……」
「それはまア」
「のう太夫(たゆう)。お前(まえ)さん、詫(わび)はあたしから幾重(いくえ)にもしようから、きょうはこのまま、帰(かえ)っておくんなさるまいか」
「それァもう、帰(かえ)ることは、いつでも帰(かえ)りますけれど、おせんさんが急病(きゅうびょう)とは、気(き)がかりでおますさかい。……」
「いや、気(き)に病(や)むほどのことでもなかろうが、何(なん)せ若(わか)い女(おんな)の急病(きゅうびょう)での。ちっとばかり、朝(あさ)から世間(せけん)が暗(くら)くなったような気(き)がするのさ」
「へえ」
 春信(はるのぶ)の眼(め)は、松江(しょうこう)を反(そ)れて、地(ち)に曳(ひ)く萩(はぎ)の葉(は)に移(うつ)っていた。

  雨(あめ)


    一

「おい坊主(ぼうず)、火鉢(ひばち)の火(ひ)が消(き)えちゃってるぜ。ぼんやりしてえちゃ困(こま)るじゃねえか」
 浜町(はまちょう)の細川邸(ほそかわてい)の裏門前(うらもんまえ)を、右(みぎ)へ折(お)れて一町(ちょう)あまり、角(かど)に紺屋(こうや)の干(ほ)し場(ば)を見(み)て、伊勢喜(いせき)と書(か)いた質屋(しちや)の横(よこ)について曲(まが)がった三軒目(げんめ)、おもてに一本柳(ぽんやなぎ)が長(なが)い枝(えだ)を垂(た)れたのが目印(めじるし)の、人形師(にんぎょうし)亀岡由斎(かめおかゆうさい)のささやかな住居(すまい)。
 まだ四十を越(こ)していくつにもならないというのが、一見(けん)五十四五に見(み)える。髷(まげ)も白髪(しらが)もおかまいなし、床屋(とこや)の鴨居(かもい)は、もう二月(つき)も潜(くぐ)ったことがない程(ほど)の、垢(あか)にまみれたうす汚(ぎた)なさ。名人(めいじん)とか上手(じょうず)とか評判(ひょうばん)されているだけに、坊主(ぼうず)と呼(よ)ぶ十七八の弟子(でし)の外(ほか)は、猫(ねこ)の子(こ)一匹(ぴき)もいない、たった二人(ふたり)の暮(くら)しであった。
「おめえ、いってえ弟子(でし)に来(き)てから、何年(なんねん)経(た)つと思(おも)っているんだ」
「へえ」
「へえじゃねえぜ。人形師(にんぎょうし)に取(と)って、胡粉(ごふん)の仕事(しごと)がどんなもんだぐれえ、もうてえげえ判(わか)っても、罰(ばち)は当(あた)るめえ。この雨(あめ)だ。愚図々々(ぐずぐず)してえりゃ、湿気(しっけ)を呼(よ)んで、みんなねこンなっちまうじゃねえか。速(はや)くおこしねえ」
「へえ」
「それから何(な)んだぜ。火がおこったら、直(す)ぐに行燈(あんどん)を掃除(そうじ)しときねえよ。こんな日(ひ)ァ、いつもより日(ひ)の暮(く)れるのが、ぐっと早(はえ)えからの」
「へえ」
「ふん。何(なに)をいっても、張合(はりあ)いのねえ野郎(やろう)だ。飯(めし)は腹(はら)一杯(ぱい)食(く)わせてあるはずだに。もっとしっかり返事(へんじ)をしねえ」
「かしこまりました」
「糠(ぬか)に釘(くぎ)ッてな、おめえのこった。――火のおこるまで一服(ぷく)やるから、その煙草入(たばこいれ)を、こっちへよこしねえ」
「へえ」
「なぜ煙管(きせる)を取(と)らねえんだ」
「へえ」
「それ、蛍火(ほたるび)ほどの火(ひ)もねえじゃねえか。何(な)んで煙草(たばこ)をつけるんだ」
 相手(あいて)は黙々(もくもく)とした少年(しょうねん)だが、由斎(ゆうさい)は、たとえにある箸(はし)の揚(あ)げおろしに、何(なに)か小言(こごと)をいわないではいられない性分(しょうぶん)なのであろう。殆(ほと)んど立続(たてつづ)けに口小言(くちこごと)をいいながら、胡坐(あぐら)の上(うえ)にかけた古(ふる)い浅黄(あさぎ)のきれをはずすと、火口箱(ほぐちばこ)を引(ひ)き寄(よ)せて、鉄(てつ)の長煙管(ながきせる)をぐつと銜(くわ)えた。
 勝手元(かってもと)では、頻(しき)りにばたばたと七輪(りん)の下(した)を煽(あお)ぐ、団扇(うちわ)の音(おと)が聞(きこ)えていた。
 その団扇(うちわ)の音(おと)を、じりじりと妙(みょう)にいら立(だ)つ耳(みみ)で聞(き)きながら、由斎(ゆうさい)は前(まえ)に立(た)てかけている、等身大(とうしんだい)に近(ちか)い女(おんな)の人形(にんぎょう)を、睨(にら)めるように眺(なが)めていたが、ふと何(なに)か思(おも)い出(だ)したのであろう。あたり憚(はばか)らぬ声(こえ)で勝手元(かってもと)へ向(むか)って叫(さけ)んだ。
「坊主(ぼうず)。坊主(ぼうず)」
「へえ」
「おめえ、今朝(けさ)面(つら)を洗(あら)ったか」
「へえ」
「嘘(うそ)をつけ。面(つら)を洗(あら)った奴(やつ)が、そんな粗相(そそう)をするはずァなかろう。ここへ来(き)て、よく人形(にんぎょう)の足(あし)を見(み)ねえ。甲(こう)に、こんなに蝋(ろう)が垂(た)れているじゃねえか」
 恐(おそ)る恐(おそ)る仕事場(しごとば)へ戻(もど)った。坊主(ぼうず)の足(あし)はふるえていた。
「こいつァおめえの仕事(しごと)だな」
「知(し)りません」
「知(し)らねえことがあるもんか。ゆうべ遅(おそ)く仕事場(しごとば)へ蝋燭(ろうそく)を持(も)って這入(はい)って来(き)たなァ、おめえより外(ほか)にねえ筈(はず)だぜ。こいつァただの人形(にんぎょう)じゃねえ。菊之丞(きくのじょう)さんの魂(たましい)までも彫(ほ)り込(こ)もうという人形(にんぎょう)だ。粗相(そそう)があっちゃァならねえと、あれ程(ほど)いっておいたじゃねえか」

    二

 廂(ひさし)の深(ふか)さがおいかぶさって、雨(あめ)に煙(けむ)った家(いえ)の中(なか)は、蔵(くら)のように手許(てもと)が暗(くら)く、まだ漸(ようや)く石町(こくちょう)の八つの鐘(かね)を聞(き)いたばかりだというのに、あたりは行燈(あんどん)がほしいくらい、鼠色(ねずみいろ)にぼけていた。
 軒(のき)の樋(とい)はここ十年(ねん)の間(あいだ)、一度(ど)も換(か)えたことがないのであろう。竹(たけ)の節々(ふしぶし)に青苔(あおこけ)が盛(も)り上(あが)って、その破(わ)れ目(め)から落(お)ちる雨水(あまみず)が砂時計(すなどけい)の砂(すな)が目(め)もりを落(お)ちるのと同(おな)じに、絶(た)え間(ま)なく耳(みみ)を奪(うば)った。
 への字(じ)に結(むす)んだ口(くち)に、煙管(きせる)を銜(くわ)えたまま、魅(み)せられたように人形(にんぎょう)を凝視(ぎょうし)し続(つづ)けている由斎(ゆうさい)は、何(なに)か大(おお)きく頷(うなず)くと、今(いま)し方(がた)坊主(ぼうず)がおこして来(き)た炭火(すみび)を、十能(のう)から火鉢(ひばち)にかけて、独(ひと)りひそかに眉(まゆ)を寄(よ)せた。
「坊主(ぼうず)。おめえ、表(おもて)の声(こえ)が聞(きこ)えねえのか」
「誰(だれ)か来(き)ておりますか」
「来(き)てる。戸(と)を開(あ)けて見(み)ねえ」
「へえ」
「だが、こっちへ通(とお)しちゃならねえぜ」
 半信半疑(はんしんはんぎ)で立(た)って行(い)った坊主(ぼうず)は、背(せ)をまるくして、雨戸(あまど)の隙間(すきま)から覗(のぞ)いた。
「おや、あたしでござんすよ」
「おお、おせんさん」
 坊主(ぼうず)は、たてつけの悪(わる)い雨戸(あまど)を開(あ)けて、ぺこりと一つ頭(あたま)をさげた。そこには頭巾(ずきん)で顔(かお)を包(つつ)んだおせんが、傘(かさ)を肩(かた)にして立(た)っていた。
「親方(おやかた)は」
「仕事(しごと)なんで。――」
「御免(ごめん)なさいよ」
「ぁッいけません。お前(まえ)さんをお上(あ)げ申(もう)しちゃ、叱(しか)られる」
「ほほほほ、そんな心配(しんぱい)は止(や)めにしてさ」
「でもあたしが親方(おやかた)に。――」
「坊主(ぼうず)」と、鋭(するど)い声(こえ)が奥(おく)から聞(きこ)えた。
「へえ」
「いまもいった通(とお)りだ。たとえどなたでも、仕事場(しごとば)へは通(とお)しちゃならねえ」
「親方(おやかた)」と、おせんは訴(うった)えるように声(こえ)をかけた。
「どうかきょうだけ、堪忍(かんにん)しておくんなさいよ」
「いけねえ」
「あたしゃお前(まえ)さんに、断(ことわ)られるのを知(し)りながら、もう辛抱(しんぼう)が出来(でき)なくなって、この雨(あめ)の中(なか)を来(き)たんじゃござんせんか。――後生(ごしょう)でござんす。ちょいとの間(あいだ)だけでも。……」
「折角(せっかく)だが、お断(ことわ)りしやすよ。あっしゃァお前(まえ)さんから、この人形(にんぎょう)を請合(うけあ)う時(とき)、どんな約束(やくそく)をしたかはっきり覚(おぼ)えていなさろう。――のうおせんちゃん。あの時(とき)お前(まえ)は何(な)んといいなすった。あたしゃ死(し)んでる人形(にんぎょう)は欲(ほ)しくない。生(い)きた、魂(たましい)のこもった人形(にんぎょう)をこさえておくんなさるなら、どんな辛抱(しんぼう)でもすると、あれ程(ほど)堅(かた)く約束(やくそく)をしたじゃァねえか。――江戸(えど)一番(ばん)の女形(おやま)、瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)の生人形(いきにんぎょう)を、舞台(ぶたい)のままに彫(ほ)ろうッてんだ。なまやさしい業(わざ)じゃァねえなァ知(し)れている。あっしもきょうまで、これぞと思(おも)った人形(にんぎょう)を、七つや十はこさえて来(き)たが、これさえ仕上(しあ)げりゃ、死(し)んでもいいと思(おも)った程(ほど)、精魂(せいこん)を打(うち)込(こ)んだ作(さく)はしたこたァなかった。だが、今度(こんど)の仕事(しごと)ばかりァそうじゃァねえ。この生人形(いきにんぎょう)さえ仕上(しあ)げたら、たとえあすが日(ひ)、血(ち)へどを吐(は)いてたおれても、決(けっ)して未練(みれん)はねえと、覚悟(かくご)をきめての真剣勝負(しんけんしょうぶ)だ。――お前(まえ)さんが、どこまで出来(でき)たか見(み)たいという。その心持(こころもち)ァ、腹(はら)の底(そこ)から察(さっ)してるが、ならねえ、あっしゃァ、いま、人形(にんぎょう)を塗(ぬ)ってるんじゃァねえ。おのが魂(たましい)を血(ち)みどろにして、死(し)ぬか生(い)きるかの、仕事(しごと)をしてるんだからの」
 由斎(ゆうさい)の声(こえ)を聞(き)きながら、ひと足(あし)ずつ後(あと)ずさりしていたおせんは、いつか磔(はりつけ)にされたように、雨戸(あまど)の際(きわ)へ立(た)ちすくんでいた。

    三

 ひと目(め)でいい、ひと目(め)でいいから会(あ)いたいとの、切(せつ)なる思(おも)いの耐(た)え難(がた)く、わざと両国橋(りょうごくばし)の近(ちか)くで駕籠(かご)を捨(す)てて、頭巾(ずきん)に人目(ひとめ)を避(さ)けながら、この質屋(しちや)の裏(うら)の、由斎(ゆうさい)の仕事場(しごとば)を訪(おとず)れたおせんの胸(むね)には、しとど降(ふ)る雨(あめ)よりしげき思(おも)いがあった。
 年(とし)からいえば五つの違(ちが)いはあったものの、おなじ王子(おうじ)で生(うま)れた幼(おさな)なじみの菊之丞(きくのじょう)とは、けし奴(やっこ)の時分(じぶん)から、人(ひと)もうらやむ仲好(なかよ)しにて、ままごと遊(あそ)びの夫婦(めおと)にも、吉(きち)ちゃんはあたいの旦那(だんな)、おせんちゃんはおいらのお上(かみ)さんだよと、度重(たびかさ)なる文句(もんく)はいつか遊(あそ)び仲間(なかま)に知(し)れ渡(わた)って、自分(じぶん)の口(くち)からいわずとも、二人(ふたり)は真(す)ぐさま夫婦(ふうふ)にならべられるのが却(かえっ)てきまり悪(わる)く、時(とき)にはわざと背中合(せなかあわ)せにすわる場合(ばあい)もままあったが、さて、吉次(きちじ)はやがて舞台(ぶたい)に出(で)て、子役(こやく)としての評判(ひょうばん)が次第(しだい)に高(たか)くなった時分(じぶん)から、王子(おうじ)を去(さ)った互(たがい)の親(おや)が、芳町(よしちょう)と蔵前(くらまえ)に別(わか)れ別(わか)れに住(す)むようになったばかりに、いつか会(あ)って語(かた)る日(ひ)もなく二年(ねん)は三年(ねん)三年(ねん)は五年(ねん)と、速(はや)くも月日(つきひ)は流(なが)れ流(なが)れて、辻番付(つじばんづけ)の組合(くみあわ)せに、振袖姿(ふりそですがた)の生々(いきいき)しさは見(み)るにしても、吉(きち)ちゃんおせんちゃんと、呼(よ)び交(か)わす機(おり)はまったくないままに、過(す)ぎてしまったのであった。
 女形(おやま)といえば、中村(なかむら)富(とみ)十郎(ろう)をはじめ、芳沢(よしざわ)あやめにしろ、中村(なかむら)喜代(きよ)三郎(ろう)にしろ、または中村粂太郎(なかむらくめたろう)にしろ、中村松江(なかむらしょうこう)にしろ、十人(にん)いれば十人(にん)がいずれもそろって上方下(かみがたくだ)りの人達(ひとたち)である中(なか)に、たった一人(ひとり)、江戸(えど)で生(うま)れて江戸(えど)で育(そだ)った吉次(きちじ)が、他(ほか)の女形(おやま)を尻目(しりめ)にかけて、めきめきと売出(うりだ)した調子(ちょうし)もよく、やがて二代目(だいめ)菊之丞(きくのじょう)を継(つ)いでからは上上吉(じょうじょうきち)の評判記(ひょうばんき)は、弥(いや)が上(うえ)にも人気(にんき)を煽(あお)ったのであろう。「王子路考(おうじろこう)」の名(な)は、押(お)しも押(お)されもしない、当代(とうだい)随(ずい)一の若女形(わかおやま)と極(き)まって、出(だ)し物(もの)は何(な)んであろうと菊之丞(きくのじょう)の芝居(しばい)とさえいえば、見(み)ざれば恥(はじ)の如(ごと)き有様(ありさま)となってしまった。
 したがって、人気役者(にんきやくしゃ)に付(つ)きまとう様々(さまざま)な噂(うわさ)は、それからそれえと、日毎(ひごと)におせんの耳(みみ)へ伝(つた)えられた。――どこそこのお大名(だいみょう)のお妾(めかけ)が、小袖(こそで)を贈(おく)ったとか。何々屋(なになにや)の後家(ごけ)さんが、帯(おび)を縫(ぬ)ってやったとか。酒問屋(さけとんや)の娘(むすめ)が、舞台(ぶたい)で□(さ)した簪(かんざし)が欲(ほ)しさに、親(おや)の金(かね)を十両(りょう)持(も)ち出(だ)したとか。数(かぞ)えれば百にも余(あま)る女(おんな)出入(でいり)の出来事(できごと)は、おせんの茶見世(ちゃみせ)へ休(やす)む人達(ひとたち)の間(あいだ)にさえ、聞(き)くともなく、語(かた)るともなく伝(つた)えられて、嘘(うそ)も真(まこと)も取交(とりま)ぜた出来事(できごと)が、きのうよりはきょう、きょうよりは明日(あす)と、益々(ますます)菊之丞(きくのじょう)の人気(にんき)を高(たか)くするばかり。
 が、おせんの胸(むね)の底(そこ)にひそんでいる、思慕(しぼ)の念(ねん)は、それらの噂(うわさ)には一切(さい)おかまいなしに日毎(ひごと)につのってゆくばかりだった。それもそのはずであろう。おせんが慕(した)う菊之丞(きくのじょう)は、江戸中(えどじゅう)の人気(にんき)を背負(せお)って立(た)った、役者(やくしゃ)の菊之丞(きくのじょう)ではなくて、かつての幼(おさな)なじみ、王子(おうじ)の吉(きち)ちゃんその人(ひと)だったのだから。――
 何某(なにがし)の御子息(ごしそく)、何屋(なにや)の若旦那(わかだんな)と、水茶屋(みずちゃや)の娘(むすめ)には、勿体(もったい)ないくらいの縁談(えんだん)も、これまでに五つや十ではなく、中(なか)には用人(ようにん)を使者(ししゃ)に立(た)てての、れッきとしたお旗本(はたもと)からの申込(もうしこ)みも二三は数(かぞ)えられたが、その度毎(たびごと)に、おせんの首(くび)は横(よこ)に振(ふ)られて、あったら玉(たま)の輿(こし)に乗(の)りそこねるかと人々(ひとびと)を惜(お)しがらせて来(き)た腑甲斐(ふがい)なさ、しかも胸(むね)に秘(ひ)めた菊之丞(きくのじょう)への切(せつ)なる思(おも)いを、知(し)る人(ひと)とては一人(ひとり)もなかった。
 名人(めいじん)由斎(ゆうさい)に、心(こころ)の内(うち)を打(う)ちあけて、三年前(ねんまえ)に中村座(なかむらざ)を見(み)た、八百屋(や)お七の舞台姿(ぶたいすがた)をそのままの、生人形(いきにんぎょう)に頼(たの)み込(こ)んだ半年前(はんとしまえ)から、おせんはきょうか明日(あす)かと、出来(でき)上(あが)る日(ひ)を、どんなに待(ま)ったか知(し)れなかったが、心魂(しんこん)を傾(かたむ)けつくす仕事(しごと)だから、たとえなにがあっても、その日(ひ)までは見(み)に来(き)ちゃァならねえ、行(ゆ)きますまいと誓(ちか)った言葉(ことば)の手前(てまえ)もあり、辛抱(しんぼう)に辛抱(しんぼう)を重(かさ)ねて来(き)たとどのつまりが、そこは女(おんな)の乱(みだ)れる思(おも)いの堪(た)え難(がた)く、きのうときょうの二度(ど)も続(つづ)けて、この仕事場(しごとば)を、ひそかに訪(おとず)れる気(き)になったのであろう。頭巾(ずきん)の中(なか)に瞠(みは)った眼(め)には、涙(なみだ)の露(つゆ)が宿(やど)っていた。
「親方(おやかた)。――もし親方(おやかた)」
 もう一度(ど)おせんは奥(おく)へ向(むか)って、由斎(ゆうさい)を呼(よ)んで見(み)た。が、聞(きこ)えるものは、わずかに樋(とい)を伝(つた)わって落(お)ちる、雨垂(あまだ)れの音(おと)ばかりであった。
 軒端(のきば)の柳(やなぎ)が、思(おも)い出(だ)したように、かるく雨戸(あまど)を撫(な)でて行(い)った。

    四

「若旦那(わかだんな)。――もし、若旦那(わかだんな)」
「うるさいね。ちと黙(だま)ってお歩(ある)きよ」
「そう仰(おっ)しゃいますが、これを黙(だま)って居(お)りましたら、あとで若旦那(わかだんな)に、どんなお小言(こごと)を頂戴(ちょうだい)するか知(し)れませんや」
「何(な)んだッて」
「あすこを御覧(ごらん)なさいまし。ありゃァたしかに、笠森(かさもり)のおせんさんでござんしょう」
「おせんがいるッて。――ど、どこに」
 薬研堀(やげんぼり)の不動様(ふどうさま)へ、心願(しんがん)があっての帰(かえ)りがけ、黒(くろ)八丈(じょう)の襟(えり)のかかったお納戸茶(なんどちゃ)の半合羽(はんがっぱ)に奴蛇(やっこじゃ)の目(め)を宗(そう)十郎(ろう)好(ごの)みに差(さ)して、中小僧(ちゅうこぞう)の市松(いちまつ)を供(とも)につれた、紙問屋(かみどんや)橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)の眼(め)は、上(うわ)ずッたように雨(あめ)の中(なか)を見詰(みつ)めた。
「あすこでござんすよ。あの筆屋(ふでや)の前(まえ)から両替(りょうがえ)の看板(かんばん)の下(した)を通(とお)ってゆく、あの頭巾(ずきん)をかぶった後姿(うしろすがた)。――」
「うむ。ちょいとお前(まえ)、急(いそ)いで行(い)って、見届(みとど)けといで」
「かしこまりました」
 頭(あたま)のてっぺんまで、汚泥(はね)の揚(あ)がるのもお構(かま)いなく、横(よこ)ッ飛(と)びに飛(と)び出(だ)した市松(いちまつ)には、雨(あめ)なんぞ、芝居(しばい)で使(つか)う紙(かみ)の雪(ゆき)ほどにも感(かん)じられなかったのであろう。七八間先(けんさき)を小(こ)きざみに往(い)く渋蛇(しぶじゃ)の目(め)の横(よこ)を、一文字(もんじ)に駆脱(かけぬ)けたのも束(つか)の間(ま)、やがて踵(くびす)を返(かえ)すと、鬼(おに)の首(くび)でも取(と)ったように、喜(よろこ)び勇(いさ)んで駆(か)け戻(もど)った。
「どうした」
「この二つの眼(め)で睨(にら)んだ通(とお)り、おせんさんに違(ちが)いござんせん」
「これこれ、何(な)んでそんな頓狂(とんきょう)な声(こえ)を出(だ)すんだ。いくら雨(あめ)の中(なか)でも、人様(ひとさま)に聞(き)かれたら事(こと)じゃァないか」
「へいへい」
「お前(まえ)、あとからついといで」
 目(め)はしの利(き)いたところが、まず何(なに)よりの身上(しんしょう)なのであろう。若旦那(わかだんな)のお供(とも)といえば、常(つね)に市(いち)どんと朋輩(ほうばい)から指(さ)される慣(なら)わしは、時(とき)にかけ蕎麦(そば)の一杯(ぱい)くらいには有(あ)りつけるものの、市松(いちまつ)に取(と)っては、寧(むし)ろ見世(みせ)に坐(すわ)って、紙(かみ)の小口(こぐち)をそろえている方(ほう)が、どのくらい楽(らく)だか知(し)れなかった。
 が、そんな小僧(こぞう)の苦楽(くらく)なんぞ、背中(せなか)にとまった蝿程(はえほど)にも思(おも)わない徳太郎(とくたろう)の、おせんと聞(き)いた夢中(むちゅう)の歩(あゆ)みは、合羽(かっぱ)の下(した)から覗(のぞ)いている生(なま)ッ白(しろ)い脛(すね)に出(で)た青筋(あおすじ)にさえうかがわれて、道(みち)の良(よ)し悪(わる)しも、横(よこ)ッ降(ぷ)りにふりかかる雨(あめ)のしぶきも、今(いま)は他所(よそ)の出来事(できごと)でもあるように、まったく意中(いちゅう)にないらしかった。
「ちょいと姐(ねえ)さん。いえさ、そこへ行(い)くのは、おせんちゃんじゃないかい」
 それと呼(よ)び止(と)めた徳太郎(とくたろう)の声(こえ)は、どうやら勝手(かって)のわるさにふるえていた。
「え」
 くるりと振(ふ)り向(む)いたおせんは、頭巾(ずきん)の中(なか)で、眼(め)だけに愛嬌(あいきょう)をもたせながら、ちらりと徳太郎(とくたろう)の顔(かお)を偸(ぬす)み見(み)たが、相手(あいて)がしばしば見世(みせ)へ寄(よ)ってくれる若旦那(わかだんな)だと知(し)ると、あらためて腰(こし)をかがめた。
「おやまァ若旦那(わかだんな)、どちらへおいででござんす」
「つい、そこの不動様(ふどうさま)へ、参詣(さんけい)に行(い)ったのさ。――そうしてお前(まえ)さんは」
「お母(かあ)さんの薬(くすり)を買(か)いに、浜町(はまちょう)までまいりました。」
「浜町(はまちょう)。そりゃァこの雨(あめ)に、大抵(たいてい)じゃあるまい。お前(まえ)さんがわざわざ行(い)かないでも、ちょいと一言(こと)聞(き)いてれば、いつでもうちの小僧(こぞう)に買(か)いにやってあげたものを」
「有難(ありがと)うはござんすが、親(おや)に服(の)ませるお薬(くすり)を人様(ひとさま)にお願(ねが)い申(もう)しましては、お稲荷様(いなりさま)の罰(ばち)が当(あた)ります」
「成(な)る程(ほど)、成(な)る程(ほど)、相変(あいかわ)らずの親孝行(おやこうこう)だの」
 徳太郎(とくたろう)はそういって、ごくりと一つ固唾(かたず)を飲(の)んだ。

    五

 当代(とうだい)の人気役者(にんきやくしゃ)宗(そう)十郎(ろう)に似(に)ていると、太鼓持(たいこもち)の誰(だれ)かに一度(ど)いわれたのが、無上(むじょう)に機嫌(きげん)をよくしたものか、のほほんと納(おさ)まった色男振(いろおとこぶ)りは、見(み)る程(ほど)の者(もの)をして、ことごとく虫(むし)ずの走(はし)る思(おも)いをさせずにはおかないくらい、気障気(きざけ)たっぷりの若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)ではあったが、親孝行(おやこうこう)の話(はなし)を切(き)ッかけに、あらたまっておせんを見詰(みつ)めたその眼(め)には、いつもと違(ちが)った真剣(しんけん)な心持(こころもち)が不思議(ふしぎ)に根強(ねづよ)く現(あらわ)れていた。
「お前(まえ)さんは、これから何(なに)か、急(きゅう)な御用(ごよう)がお有(あり)かの」
「あい、肝腎(かんじん)のお見世(みせ)の方(ほう)を、脱(ぬ)けて来(き)たのでござんすから、一刻(こく)も速(はや)く帰(かえ)りませぬと、お母(かあ)さんにいらぬ心配(しんぱい)をかけますし、それに、折角(せっかく)のお客様(きゃくさま)にも、申訳(もうしわけ)がござんせぬ」
「お客(きゃく)の心配(しんぱい)は、別(べつ)にいりゃァすまいがの。しかし、お母(かあ)さんといわれて見(み)ると。……」
「何(なに)か御用(ごよう)でござんすかえ」
「なァにの。思(おも)いがけないところで出遭(であ)った、こんな間(ま)のいいことは、願(ねが)ってもありゃァしないからひとつどこぞで、御飯(ごはん)でもつき合(あ)ってもらおうと思(おも)ってさ」
「おや、それは御親切(ごしんせつ)に、有難(ありがと)うはござんすが、あたしゃいまも申(もう)します通(とお)り、風邪(かぜ)を引(ひ)いたお母(かあ)さんと、お見世(みせ)へおいでのお客様(きゃくさま)がござんすから。――」
「この雨(あめ)だ。いくら何(な)んでも、お客(きゃく)の方(ほう)は、気(き)になるほど行(い)きもしまい。それとも誰(だれ)ぞ、約束(やくそく)でもした人(ひと)がお有(あ)りかの」
「まァ何(な)んでそのようなお人(ひと)が。――」
「そんなら別(べつ)に、一時(とき)やそこいら遅(おそ)くなったとて、案(あん)ずることもなかろうじゃないか」
「お母(かあ)さんが首(くび)を長(なが)くして、薬(くすり)を待(ま)ってでございます」
「これ、おせんちゃん」
「ああもし。――」
「お手間(てま)を取(と)らせることじゃない。ちと折(おり)いって、相談(そうだん)したい訳(わけ)もある。ついそこまで、ほんのしばらく、つき合(あ)っておくれでないか」
「さァそれが。……」
「おまえ、お袋(ふくろ)さんの、薬(くすり)を買(か)いに行(い)ったとは、そりゃ本当(ほんとう)かの」
「えッ」
「本当(ほんとう)かと訊(き)いてるのさ」
「何(な)んで、あたしが嘘(うそ)なんぞを。――」
「そんならその薬(くすり)の袋(ふくろ)を、ちょいと見(み)せておくれでないか」
「袋(ふくろ)とえ。――」
「持(も)ってはいないとおいいだろう。ふふふ。やっぱりお前(まえ)は、あたしの手前(てまえ)をつくろって、根(ね)もない嘘(うそ)をついたんだの、おおかた好(す)きな男(おとこ)に、会(あ)いに行(い)った帰(かえ)りであろう。それと知(し)ったら、なおさらこのまま帰(かえ)すことじゃないから、観念(かんねん)おし」
「あれ若旦那(わかだんな)。――」
「いいえ、放(はな)すものか、江戸中(えどじゅう)に、女(おんな)の数(かず)は降(ふ)る程(ほど)あっても、思(おも)い詰(つ)めたのはお前(まえ)一人(ひとり)。ここで会(あ)えたな、日頃(ひごろ)お願(ねが)い申(もう)した、不動様(ふどうさま)の御利益(ごりやく)に違(ちが)いない。きょうというきょうはたとえ半時(はんとき)でもつき合(あ)ってもらわないことにゃ。……」
 押(おさ)えた袂(たもと)を振(ふ)り払(はら)って、おせんが体(からだ)をひねったその刹那(せつな)、ひょいと徳太郎(とくたろう)の手首(てくび)をつかんで、にやり笑(わら)ったのは、傘(かさ)もささずに、頭(あたま)から桐油(とうゆ)を被(かぶ)った彫師(ほりし)の松(まつ)五郎(ろう)だった。
「若旦那(わかだんな)、殺生(せっしょう)でげすぜ」
「ええ、うるさい。余計(よけい)な邪間(じゃま)だてをしないで、引(ひ)ッ込(こ)んでおくれ」
「はははは。邪間(じゃま)だてするわけじゃござんせんが、御覧(ごらん)なせえやし。おせんちゃんは、こんなにいやだといってるじゃござんせんか。若旦那(わかだんな)、色男(いろおとこ)の顔(かお)がつぶれやすぜ」
 過日(かじつ)の敵(かたき)を討(う)ったつもりなのであろう。松(まつ)五郎(ろう)はこういって、髯(ひげ)あとの青(あお)い顎(あご)を、ぐっと徳太郎(とくたろう)の方(ほう)へ突(つ)きだした。

    六

「はッはッは。若旦那(わかだんな)、そいつァ御無理(ごむり)でげすよ。おせんは名代(なだい)の親孝行(おやこうこう)、薬(くすり)を買(か)いに行(い)ったといやァ、嘘(うそ)も隠(かく)しもござんすまい。ここで逢(あ)ったが百年目(ねんめ)と、とっ捕(つか)まえて口説(くど)こうッたって、そうは問屋(とんや)でおろしませんや。――この近所(きんじょ)の揚弓場(ようきゅうば)の姐(ねえ)さんなら知(し)らねえこと、かりにもお前(まえ)さん、江戸(えど)一番(ばん)と評判(ひょうばん)のあるおせんでげすぜ。いくら若旦那(わかだんな)の御威勢(ごいせい)でも、こればッかりは、そう易々(やすやす)たァいきますまいて」
 おせんを首尾(しゅび)よく逃(にが)してやった雨(あめ)の中(なか)で、桐油(とうゆ)から半分(はんぶん)顔(かお)を出(だ)した松(まつ)五郎(ろう)は、徳太郎(とくたろう)をからかうようにこういうと、我(わ)れとわが鼻(はな)の頭(あたま)を、二三度(ど)平手(ひらて)で引(ひ)ッこすった。
 腹立(はらだ)たしさに、なかば泣(な)きたい気持(きもち)をおさえながら、松(まつ)五郎(ろう)を睨(にら)みつけた徳太郎(とくたろう)の細(ほそ)い眉(まゆ)は、止(と)め度(ど)なくぴくぴく動(うご)いていた。
「市公(いちこう)」
 思(おも)いがけない出来事(できごと)に、茫然(ぼうぜん)としていた小僧(こぞう)の市松(いちまつ)が、ぺこりと下(さ)げた頭(あたま)の上(うえ)で、若旦那(わかだんな)の声(こえ)はきりぎりすのようにふるえた。
「馬鹿野郎(ばかやろう)」
「へえ」
「なぜおせんを捕(つか)まえないんだ」
「お放(はな)しなすったのは、若旦那(わかだんな)でございます」
「ええうるさい。たとえあたしが放(はな)しても、捕(つか)まえるのはお前(まえ)の役目(やくめ)だ。――もうお前(まえ)なんぞに用(よう)はない。今(いま)すぐここで暇(ひま)をやるから、どこへでも行(い)っておしまい」
「ははは。若旦那(わかだんな)」と、松(まつ)五郎(ろう)が口(くち)をはさんだ。「そいつァちと責(せ)めが強過(つよす)ぎやしょう。小僧(こぞう)さんに罪(つみ)はねえんで。みんなあなたの我(わが)ままからじゃござんせんか」
「松(まつ)つぁん、お前(まえ)なんぞの出(で)る幕(まく)じゃないよ。黙(だま)ってておくれ」
「そうでもござんしょうが、市(いち)どんこそ災難(さいなん)だ。何(な)んにも知(し)らずにお供(とも)に来(き)て、おせんに遭(あ)ったばっかりに、大事(だいじ)な奉公(ほうこう)をしくじるなんざ、辻占(つじうらない)の文句(もんく)にしても悪過(わるす)ぎやさァね。堪忍(かんにん)してやっとくんなさい。――こう市(いち)どん。おめえもしっかり、若旦那(わかだんな)にあやまんねえ」
「若旦那(わかだんな)、どうか御勘弁(ごかんべん)なすっておくんなさいまし」
「いやだよ。お前(まえ)は、もう家(うち)の奉公人(ほうこうにん)でもなけりゃ、あたしの供(とも)でもないんだから、ちっとも速(はや)くあたしの眼(め)の届(とど)かないとこへ消(き)えちまうがいい」
「消(け)えろとおっしゃいましても。……」
「判(わか)らずやめ。泥(どろ)の中(なか)へでも何(な)んでも、勝手(かって)にもぐって失(う)せるんだ」
「へえ」
 尻(しり)ッ端折(ぱしょ)りの尾□骨(かめのお)のあたりまで、高々(たかだか)と汚泥(はね)を揚(あ)げた市松(いちまつ)の、猫背(ねこぜ)の背中(せなか)へ、雨(あめ)は容赦(ようしゃ)なく降(ふ)りかかって、いつの間(ま)にか人(ひと)だかりのした辺(あたり)の有様(ありさま)に、徳太郎(とくたろう)は思(おも)わず亀(かめ)の子(こ)のように首(くび)をすくめた。
「もし、若旦那(わかだんな)」
 円(まる)く取巻(とりま)いた中(なか)から、ひょっこり首(くび)だけ差(さ)し伸(の)べて、如何(いか)にも憚(はばか)った物腰(ものごし)の、手(て)を膝(ひざ)の下(した)までさげたのは、五十がらみのぼて振(ふ)り魚屋(さかなや)だった。
 徳太郎(とくたろう)は、偸(ぬす)むように顔(かお)を挙(あ)げた。
「手前(てまえ)でございます。市松(いちまつ)の親父(おやじ)でございます」
「えッ」
「通(とお)りがかりの御挨拶(ごあいさつ)で、何(な)んとも恐(おそ)れいりますが、どうやら、市松(いちまつ)の野郎(やろう)が、飛(と)んだ粗相(そそう)をいたしました様子(ようす)。早速(さっそく)連(つ)れて帰(かえ)りまして、性根(しょうね)の坐(すわ)るまで、責(せ)め折檻(せっかん)をいたします。どうかこのまま。手前(てまえ)にお渡(わた)し下(くだ)さいまし」
「おッとッとッと。父(とっ)つぁん、そいつァいけねえ。おいらが悪(わる)いようにしねえから、おめえはそっちに引(ひ)ッ込(こ)んでるがいい」
 松(まつ)五郎(ろう)が親爺(おやじ)を制(せい)している隙(すき)に、徳太郎(とくたろう)の姿(すがた)は、いつか人込(ひとご)みの中(なか)へ消(き)えていた。

    七

「政吉(まさきち)、辰蔵(たつぞう)、亀(かめ)八、分太(ぶんた)、梅吉(うめきち)、幸兵衛(こうべえ)。――」
 殆(ほと)んどひといきに、二三日前(にちまえ)に奉公(ほうこう)に来(き)た八歳(さい)の政吉(まさきち)から、番頭(ばんとう)の幸兵衛(こうべえ)まで、やけ半分(はんぶん)に呼(よ)びながら、中(なか)の口(くち)からあたふたと駆(か)け込(こ)んで来(き)た徳太郎(とくたろう)は、髷(まげ)の刷毛先(はけさき)に届(とど)く、背中(せなか)一杯(ぱい)の汚泥(はね)も忘(わす)れたように、廊下(ろうか)の暖簾口(のれんぐち)で地駄(じだ)ン駄(だ)踏(ふ)んで、おのが合羽(かっぱ)をむしり取(と)っていた。
「へい、これは若旦那(わかだんな)、お早(はや)いお帰(かえ)りでございます」
 番頭(ばんとう)の幸兵衛(こうべえ)は、帳付(ちょうづけ)の筆(ふで)を投(な)げ出(だ)して、あわてて暖簾口(のれんぐち)へ顔(かお)を出(だ)したが、ひと目(め)徳太郎(とくたろう)の姿(すがた)を見(み)るとてっきり、途中(とちゅう)で喧嘩(けんか)でもして来(き)たものと、思(おも)い込(こ)んでしまったのであろう。頭(あたま)のてッ辺(ぺん)から足(あし)の爪先(つまさき)まで、見上(みあ)げ見(み)おろしながら、言葉(ことば)を吃(ども)らせた。
「ど、どうなすったのでございます」
「番頭(ばんとう)さん、市松(いちまつ)に直(す)ぐ暇(ひま)をだしとくれ」
「市松(いちまつ)が、な、なにか、粗相(そそう)をいたしましたか」
「何(な)んでもいいから、あたしのいった通(とお)りにしておくれ。あたしゃきょうくらい、恥(はじ)をかいたこたァありゃしない。もう口惜(くや)しくッて、口惜(くや)しくッて。……」
「そ、それはまたどんなことでございます。小僧(こぞう)の粗相(そそう)は番頭(ばんとう)の粗相(そそう)、手前(てまえ)から、どのようにもおわびはいたしましょうから、御勘弁(ごかんべん)願(ねが)えるものでございましたら、この幸兵衛(こうべえ)に御免(ごめん)じ下(くだ)さいまして。……」
「余計(よけい)なことは、いわないでおくれ」
「へい。……左様(さよう)でございましょうが、お見世(みせ)の支配(しはい)は、大旦那様(おおだんなさま)から、一切(さい)お預(あず)かりいたして居(お)ります幸兵衛(こうべえ)、あとで大旦那様(おおだんなさま)のお訊(たず)ねがございました時(とき)に、知(し)らぬ存(ぞん)ぜぬでは通(とお)りませぬ。どうぞその訳(わけ)を、仰(おっ)しゃって下(くだ)さいまし」
「訳(わけ)なんぞ、聞(き)くことはないじゃないか。何(な)んでもあたしのいった通(とお)り、暇(ひま)さえ出(だ)してくれりゃいいんだよ」
 駄々(だだ)ッ子(こ)がおもちゃ箱(ばこ)をぶちまけたように、手(て)のつけられないすね方(かた)をしている徳太郎(とくたろう)の耳(みみ)へ、いきなり、見世先(みせさき)から聞(きこ)え来(き)たのは、松(まつ)五郎(ろう)の笑(わら)い声(ごえ)だった。
「はッはッは、若旦那(わかだんな)、まだそんなことを、いっといでなさるんでござんすかい。耳寄(みみよ)りの話(はなし)を聞(き)いてめえりやした。いい智恵(ちえ)をお貸(か)し申(もう)しやすから、小僧(こぞう)さんのしくじりなんざさっぱり水(みず)に流(なが)しておやんなさいまし」
 中番頭(ちゅうばんとう)から小僧達(こぞうたち)まで、一同(どう)の顔(かお)が一齊(せい)に松(まつ)五郎(ろう)の方(ほう)へ向(む)き直(なお)った。が、徳太郎(とくたろう)は暖簾口(のれんぐち)から見世(みせ)の方(ほう)を睨(にら)みつけたまま、返事(へんじ)もしなかった。
「もし、若旦那(わかだんな)。悪(わる)いこたァ申(もう)しやせん。お前(まえ)さんが、鯱鉾立(しゃっちょこだち)をしてお喜(よろこ)びなさる、うれしい話(はなし)を聞(き)いてめえりやしたんで。――ここで話(はな)しちゃならねえと仰(おっ)しゃるんなら、そちらへ行(い)ってお話(はな)しいたしやす。着物(きもの)もぬれちゃァ居(お)りやせん。どうでげす。それともこのまま帰(かえ)りやしょうか」
 被(かぶ)っていた桐油(とうゆ)を、見世(みせ)の隅(すみ)へかなぐり棄(す)てて、ふところから取出(とりだ)した鉈豆煙管(なたまめぎせる)[#「鉈豆煙管」は底本では「鉈煙管」]へ、叺(かます)の粉煙草(こなたばこ)を器用(きよう)に詰(つ)めた松(まつ)五郎(ろう)は、にゅッと煙草盆(たばこぼん)へ手(て)を伸(の)ばしながら、ニヤリと笑(わら)って暖簾口(のれんぐち)を見詰(みつ)めた。
「松(まつ)つぁん」
「へえ」
「若旦那(わかだんな)が、こっちへとおいなさる」
「そいつァどうも。――」
「おっと待(ま)った。その足(あし)で揚(あ)がられちゃかなわない。辰(たつ)どん、裏(うら)の盥(たらい)へ水(みず)を汲(く)みな」
 番頭(ばんとう)の幸兵衛(こうべえ)は、壁(かべ)の荒塗(あらぬ)りのように汚泥(はね)の揚(あ)がっている松(まつ)五郎(ろう)の脛(すね)を、渋(しぶ)い顔(かお)をしてじっと見守(みまも)った。
「ふふふ、松(まつ)五郎(ろう)は、見(み)かけに寄(よ)らねえ忠義者(ちゅうぎもの)でげすぜ」
 独(ひと)り言(ごと)をいって顎(あご)を突出(つきだ)した松(まつ)五郎(ろう)の顔(かお)は、道化方(どうけかた)の松島茂平次(まつしまもへいじ)をそのままであった。

    八

 行水(ぎょうずい)でもつかうように、股(もも)の付根(つけね)まで洗(あら)った松(まつ)五郎(ろう)が、北向(きたむき)の裏(うら)二階(かい)にそぼ降(ふ)る雨(あめ)の音(おと)を聞(き)きながら、徳太郎(とくたろう)と対座(たいざ)していたのは、それから間(ま)もない後(あと)だった。瓦(かわら)のおもてに、あとからあとから吸(す)い込(こ)まれて行(い)く秋雨(あきさめ)の、時(とき)おり、隣(となり)の家(いえ)から飛(と)んで来(き)た柳(やなぎ)の落葉(おちば)を、貼(は)り付(つ)けるように濡(ぬ)らして消(き)えるのが、何(なに)か近頃(ちかごろ)はやり始(はじ)めた飛絣(とびがすり)のように眼(め)に映(うつ)った。
 銀煙管(ぎんぎせる)を握(にぎ)った徳太郎(とくたろう)の手(て)は、火鉢(ひばち)の枠(わく)に釘着(くぎづ)けにされたように、固(かた)くなって動(うご)かなかった。
「ではおせんにゃ、ちゃんとした情人(いろ)があって、この節(せつ)じゃ毎日(まいにち)、そこへ通(かよ)い詰(づ)めだというんだね」
「まず、ざっとそんなことなんで。……」
「いったい、そのおせんの情人(いろ)というのは、何者(なにもの)なんだか、松(まっ)つぁん、はっきりあたしに教(おし)えておくれ」
「さァ、そいつァどうも。――」
「何(なに)をいってんだね。そこまで明(あ)かしておきながら、あとは幽霊(ゆうれい)の足(あし)にしちまうなんて、馬鹿(ばか)なことがあるもんかね。――お前(まえ)さんさっき、何(な)んといったい。若旦那(わかだんな)が鯱鉾立(しゃっちょこだち)して喜(よろこ)ぶ話(はなし)だと、見世(みせ)であんなに、大(おお)きなせりふでいったじゃないか。あたしゃ口惜(くや)しいけれど聞(き)いてるんだよ。どうせその気(き)で来(き)たんなら、あからさまに、一から十まで話(はなし)しておくれ。相手(あいて)の名(な)を聞(き)かないうちは、気の毒だが松(まっ)つぁん、ここは滅多(めった)に動(うご)かしゃァしないよ」
「ちょ、ちょいと待(ま)っとくんなさい、若旦那(わかだんな)。無理(むり)をおいいなすっちゃ困(こま)りやす」
「何(なに)が無理(むり)さ」
「何(なに)がと仰(おっ)しゃって、実(じつ)ァあっしゃァ、相手(あいて)の名前(なまえ)まじァ知(し)らねえんで。……」
「名前(なまえ)を知(し)らないッて」
「そうなんで。……」
「そんなら、名前(なまえ)はともかく、どんな男(おとこ)なんだか、それをいっとくれ。お武家(ぶけ)か、商人(あきんど)か、それとも職人(しょくにん)か。――」
「そいつがやっぱり判(わか)らねえんで。――」
「松つぁん」
 徳太郎(とくたろう)の声(こえ)は甲走(かんばし)った。
「へえ」
「たいがいにしとくれ。あたしゃ酔狂(すいきょう)で、お前(まえ)さんをここへ通(とお)したんじゃないんだよ。おせんが隠(かく)れて逢(あ)っているという、相手(あいて)の男(おとこ)を知(し)りたいばっかりに、見世(みせ)の者(もの)の手前(てまえ)も構(かま)わず、わざわざ二階(かい)へあげたんじゃないか。名(な)を知(し)らないのはまだしものこと、お武家(ぶけ)か商人(あきんど)か、職人(しょくにん)か、それさえ訳(わけ)がわからないなんて、馬鹿(ばか)にするのも大概(たいがい)におし。――もうそんな人(ひと)にゃ用(よう)はないから、とっとと消(き)えて失(う)せとくれよ」
「帰(けえ)れと仰(おっ)しゃるんなら、帰(けえ)りもしましょうが、このまま帰(けえ)っても、ようござんすかね」
「なんだって」
「若旦那(わかだんな)。あっしゃァなる程(ほど)、おせんの相手(あいて)が、どこの誰(だれ)だか知(し)っちゃいませんが、そんなこたァ知(し)ろうと思(おも)や、半日(はんにち)とかからねえでも、ちゃァんと突(つ)きとめてめえりやす。それよりも若旦那(わかだんな)。もっとお前(まえ)さんにゃ、大事(だいじ)なことがありゃァしませんかい」
「そりゃ何(な)んだい」
「まァようがす。とっとと消(き)えて失(う)せろッてんなら、あんまり畳(たたみ)のあったまらねえうちに、いい加減(かげん)で引揚(ひきあ)げやしょう。――どうもお邪間(じゃま)いたしやした」
「お待(ま)ち」
「何(なん)か御用(ごよう)で」
「あたしの大事(だいじ)なことだという、それを聞(き)かせてもらいましょう」
 が、松(まつ)五郎(ろう)はわざと頬(ほほ)をふくらまして、鼻(はな)の穴(あな)を天井(てんじょう)へ向(む)けた。

  帯(おび)


    一

 祇園守(ぎおんまもり)の定紋(じょうもん)を、鶯茶(うぐいすちゃ)に染(そ)め抜(ぬ)いた三尺(じゃく)の暖簾(のれん)から、ちらりと見(み)える四畳半(じょうはん)。床(とこ)の間(ま)に□(さ)した秋海棠(しゅうかいどう)が、伊満里(いまり)の花瓶(かびん)に影(かげ)を映(うつ)した姿(すがた)もなまめかしく、行燈(あんどん)の焔(ほのお)が香(こう)のように立昇(たちのぼ)って、部屋(へや)の中程(なかほど)に立(た)てた鏡台(きょうだい)に、鬘下地(かつらしたじ)の人影(ひとかげ)がおぼろであった。
 所(ところ)は石町(こくちょう)の鐘撞堂新道(かねつきどうしんみち)。白紙(はくし)の上(うえ)に、ぽつんと一点(てん)、桃色(ももいろ)の絵(え)の具(ぐ)を垂(た)らしたように、芝居(しばい)の衣装(いしょう)をそのまま付(つ)けて、すっきりたたずんだ中村松江(なかむらしょうこう)の頬(ほほ)は、火桶(ひおけ)のほてりに上気(じょうき)したのであろう。たべ酔(よ)ってでもいるかと思(おも)われるまでに赤(あか)かった。
「おこの。――これ、おこの」
 鏡(かがみ)のおもてにうつしたおのが姿(すがた)を見詰(みつ)めたまま、松江(しょうこう)は隣座敷(となりざしき)にいるはずの、女房(にょうぼう)を呼(よ)んで見(み)た。が、いずこへ行(い)ったのやら、直(す)ぐに返事(へんじ)は聞(き)かれなかった。
「ふふ、居(お)らんと見(み)えるの。このようによう映(うつ)る格好(かっこう)を、見(み)せようとおもとるに。――」
 松江(しょうこう)はそういいながら、きゃしゃな身体(からだ)をひねって、踊(おどり)のようなかたちをしながら、再(ふたた)び鏡(かがみ)のおもてに呼(よ)びかけた。
「おせんが茶(ちゃ)をくむ格好(かっこう)じゃ、早(はよ)う見(み)に来(き)たがいい」
「もし、太夫(たゆう)」
 暖簾(のれん)の下(した)にうずくまって、髷(まげ)の刷毛先(はけさき)を、ちょいと指(ゆび)で押(おさ)えたまま、ぺこりと頭(あたま)をさげたのは、女房(にょうぼう)のおこのではなくて、男衆(おとこしゅう)の新(しん)七だった。
「新(しん)七かいな」
「へえ」
「おこのは何(なに)をしてじゃ」
「さァ」
「何(なん)としたぞえ」
「お上(かみ)さんは、もう一時(とき)も前(まえ)にお出(で)かけなすって、お留守(るす)でござります」
「留守(るす)やと」
「へえ」
「どこへ行(い)った」
「白壁町(しろかべちょう)の、春信(はるのぶ)さんのお宅(たく)へ行(い)くとか仰(おっ)しゃいまして、――」
「何(な)んじゃと。春信(はるのぶ)さんのお宅(たく)へ行(い)った。そりゃ新(しん)七、ほんまかいな」
「ほんまでござります」
「おこのがまた、白壁町(しろかべちょう)さんへ、どのような用事(ようじ)で行(い)ったのじゃ。早(はよ)う聞(き)かせ」
「御用(ごよう)の筋(すじ)は存(ぞん)じませぬが、帯(おび)をどうとやらすると、いっておいででござりました」
「帯(おび)。新(しん)七。――そこの箪笥(たんす)をあけて見(み)や」
 あわてて箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)へ手(て)をかけた新(しん)七は、松江(しょうこう)のいいつけ通(どお)り、片(かた)ッ端(ぱし)から抽斗(ひきだし)を開(あ)け始(はじ)めた。
「着物(きもの)も羽織(はおり)も、みなそこへ出(だ)して見(み)や」
「こうでござりますか」
「もっと」
「これも」
「ええもういちいち聞(き)くことかいな。一度(ど)にあけてしまいなはれ」
 ぎっしり、抽斗(ひきだし)一杯(ぱい)に詰(つま)った衣装(いしょう)を、一枚(まい)残(のこ)らず畳(たたみ)の上(うえ)へぶちまけたその中(なか)を、松江(しょうこう)は夢中(むちゅう)で引(ひ)ッかき廻(まわ)していたが、やがて眼(め)を据(す)えながら新(しん)七に命(めい)じた。
「おまえ、直(す)ぐに白壁町(しろかべちょう)へ、おこのの後(あと)を追(お)うて、帯(おび)を取(と)って戻(もど)るのじゃ」
「何(な)んの帯(おび)でござります」
「阿呆(あほう)め、おせんの帯(おび)じゃ。あれがのうては、肝腎(かんじん)の芝居(しばい)がわやになってしまうがな」
 剃(そ)りたての松江(しょうこう)の眉(まゆ)は、青(あお)く動(うご)いた。

    二

 その時分(じぶん)、当(とう)のおこのは、駕籠(かご)を急(いそ)がせて、月(つき)のない柳原(やなぎはら)の土手(どて)を、ひた走(はし)りに走(はし)らせていた。
 欝金(うこん)の風呂敷(ふろしき)に包(つつ)んで、膝(ひざ)の上(うえ)に確(しっか)と抱(かか)えたのは、亭主(ていしゅ)の松江(しょうこう)が今度(こんど)森田屋(もりたや)のおせんの狂言(きょうげん)を上演(じょうえん)するについて、春信(はるのぶ)の家(いえ)へ日参(にっさん)して借(か)りて来(き)た、いわくつきのおせんの帯(おび)であるのはいうまでもなかった。
 鉄漿(おはぐろ)も黒々(くろぐろ)と、今朝(けさ)染(そ)めたばかりのおこのの歯(は)は、堅(かた)く右(みぎ)の袂(たもと)を噛(か)んでいた。
 当時(とうじ)江戸(えど)では一番(ばん)だという、その笠森(かさもり)の水茶屋(みずぢゃや)の娘(むすめ)が、どれ程(ほど)勝(すぐ)れた縹緻(きりょう)にもせよ、浪速(なにわ)は天満天神(てんまんてんじん)の、橋(はし)の袂(たもと)に程近(ほどちか)い薬種問屋(やくしゅどんや)「小西(こにし)」の娘(むすめ)と生(う)まれて、何(なに)ひとつ不自由(ふじゆう)も知(し)らず、我(わが)まま勝手(かって)に育(そだ)てられて来(き)たおこのは、たとい役者(やくしゃ)の女房(にょうぼう)には不向(ふむき)にしろ、品(ひん)なら縹緻(きりょう)なら、人(ひと)には引(ひ)けは取(と)らないとの、固(かた)い己惚(うぬぼれ)があったのであろう。仮令(たとえ)江戸(えど)に幾(いく)千の女(おんな)がいようともうちの太夫(たゆう)にばかりは、足(あし)の先(さき)へも触(ふ)らせることではないと、三年前(ねんまえ)に婚礼早々(こんれいそうそう)大阪(おおさか)を発(た)って来(き)た時(とき)から、肚(はら)の底(そこ)には、梃(てこ)でも動(うご)かぬ強(つよ)い心(こころ)がきまっていた。
 この秋(あき)の狂言(きょうげん)に、良人(おっと)が選(えら)んだ「おせん」の芝居(しばい)を、重助(じゅうすけ)さんが書(か)きおろすという。もとよりそれには、連(つ)れ添(そ)う身(み)の異存(いぞん)のあろうはずもなく、本読(ほんよ)みも済(す)んで、愈(いよいよ)稽古(けいこ)にかかった四五日(にち)は、寝(ね)る間(ま)をつめても、次(つぎ)の間(ま)に控(ひか)えて、茶(ちゃ)よ菓子(かし)よと、女房(にょうぼう)の勤(つと)めに、さらさら手落(ておち)はなく過(す)ぎたのであったが、さて稽古(けいこ)が積(つ)んで、おのれの工夫(くふう)が真剣(しんけん)になる時分(じぶん)から、ふと眼(め)についたのは、良人(おっと)の居間(いま)に大事(だいじ)にたたんで置(お)いてある、もみじを散(ち)らした一本(ぽん)の女帯(おんなおび)だった。
 買(か)った衣装(いしょう)というのなら、誰(だれ)に見(み)しょうとて、別(べつ)に邪間(じゃま)になるまいと思(おも)われる、その帯(おび)だけに殊更(ことさら)に、夜寝(よるね)る時(とき)まで枕許(まくらもと)へ引(ひ)き付(つけ)ての愛着(あいちゃく)は、並大抵(なみたいてい)のことではないと、疑(うたが)うともなく疑(うたが)ったのが、事(こと)の始(はじ)まりというのであろうか。おこのが昼(ひる)といわず夜といわず、ひそかに睨(にら)んだとどのつまりは、独(ひと)り四畳半(じょうはん)に立籠(たてこ)もって、おせんの型(かた)にうき身(み)をやつす、良人(おっと)の胸(むね)に巻(ま)きつけた帯(おび)が、春信(はるのぶ)えがくところの、おせんの大事(だいじ)な持物(もちもの)だった。
 カッとなって、持(も)ち出(だ)したのではもとよりなく、きのうもきょうもと、二日二晩(ふつかふたばん)考(かんが)え抜(ぬ)いた揚句(あげく)の果(は)てが、隣座敷(となりざしき)で茶(ちゃ)を入(い)れていると見(み)せての、雲隠(くもがくれ)れが順(じゅん)よく運(はこ)んで、大通(おおどお)りへ出(で)て、駕籠(かご)を拾(ひろ)うまでの段取(だんどり)りは、誰一人(だれひとり)知(し)る者(もの)もなかろうと思(おも)ったのが、手落(ておち)といえばいえようが、それにしても、新(しん)七が後(あと)を追(お)って来(き)ようなぞとは、まったく夢(ゆめ)にも想(おも)わなかった。
「駕籠屋(かごや)さん。済(す)まんが、急(いそ)いどくれやすえ」
「へいへい、合点(がってん)でげす。月(つき)はなくとも星明(ほしあか)り、足許(あしもと)に狂(くる)いはござんせんから御安心(ごあんしん)を」
「酒手(さかて)はなんぼでもはずみますさかい、そのつもりで頼(たの)ンます」
「相棒(あいぼう)」
「おお」
「聞(き)いたか」
「聞(き)いたぞ」
「流石(さすが)にいま売(うり)だしの、堺屋(さかいや)さんのお上(かみ)さんだの。江戸(えど)の女達(おんなたち)に聞(き)かしてやりてえ嬉(うれ)しい台詞(せりふ)だ」
「その通(とお)り。――お上(かみ)さん。太夫(たゆう)の人気(にんき)は大(たい)したもんでげすぜ。これからァ、何(な)んにも恐(こわ)いこたァねえ、日(ひ)の出(で)の勢(いきお)いでげさァ」
「そうともそうとも、酒手(さかて)と聞(き)きいていうんじゃねえが、太夫(たゆう)はでえいち、品(ひん)があるッて評判(ひょうばん)だて。江戸役者(えどやくしゃ)にゃ、情(なさけ)ねえことに、品(ひん)がねえからのう」
「おや駕籠屋(かごや)さん。左様(さよう)にいうたら、江戸(えど)のお方(かた)に憎(にく)まれまッせ」
「飛(と)んでもねえ。太夫(たゆう)を誉(ほ)めて、憎(にく)むような奴(やつ)ァ、みんなけだものでげさァね」
「そうとも」
 柳原(やなぎはら)の土手(どて)を左(ひだり)に折(お)れて、駕籠(かご)はやがて三河町(かわちょう)の、大銀杏(おおいちょう)の下(した)へと差(さ)しかかっていた。
 夜(よ)は正(まさ)に四つだった。

    三

 白壁町(しろかべちょう)の春信(はるのぶ)の住居(すまい)では、今(いま)しも春信(はるのぶ)が彫師(ほりし)の松(まつ)五郎(ろう)を相手(あいて)に、今度(こんど)鶴仙堂(かくせんどう)から板(いた)おろしをする「鷺娘(さぎむすめ)」の下絵(したえ)を前(まえ)にして、頻(しき)りに色合(いろあわ)せの相談中(そうだんちゅう)であったが、そこへひょっこり顔(かお)を出(だ)した弟子(でし)の藤吉(とうきち)は、団栗眼(どんぐりまなこ)を一層(いっそう)まるくしながら、二三度(ど)続(つづ)けさまに顎(あご)をしゃくった。
「お師匠(ししょう)さん、お客(きゃく)でござんす」
「どなたかおいでなすった」
「堺屋(さかいや)さんの、お上(かみ)さんがお見(み)えなんで」
「なに、堺屋(さかいや)のお上(かみ)さんだと。そりゃァおかしい。何(なに)かの間違(まちが)いじゃねえのかの」
「間違(まちが)いどころじゃござんせん。真正証銘(しんしょうしょうめい)のお上(かみ)さんでござんすよ」
「お上(かみ)さんが、何(な)んの用(よう)で、こんなにおそく来(き)なすったんだ」
 ついに一度(ど)も来(き)たことのない、中村松江(なかむらしょうこう)の女房(にょうぼう)が、訪(たず)ねて来(き)たと聞(き)いただけでは、春信(はるのぶ)は、直(す)ぐさまその気(き)になれなかったのであろう。絵(え)の具(ぐ)から眼(め)を離(はな)すと、藤吉(とうきち)の顔(かお)をあらためて見直(みなお)した。
「何(なん)の御用(ごよう)か存(ぞん)じませんが、一刻(こく)も早(はや)くお師匠(ししょう)さんにお目(め)にかかって、お願(ねが)いしたいことがあると、それはそれは、急(いそ)いでおりますんで。……」
「はァてな。――何(な)んにしても、来(き)たとあれば、ともかくこっちへ通(とお)すがいい」
 藤吉(とうきち)が、あたふたと行(い)ってしまうと、春信(はるのぶ)は仕方(しかた)なしに松(まつ)五郎(ろう)の前(まえ)に置(お)いた下絵(したえ)を、机(つくえ)の上(うえ)へ片着(かたづ)けて、かるく舌(した)うちをした。
「飛(と)んだところへ邪間(じゃま)が這入(はい)って、気(き)の毒(どく)だの」
「どういたしやして、どうせあっしゃァ、外(ほか)に用(よう)はありゃァしねえんで。……なんならあっちへ行(い)って待(ま)っとりやしょうか」
「いやいや、それにゃァ及(およ)ぶまい。話(はなし)は直(す)ぐに済(す)もうから、構(かま)わずここにいるがいい」
「そんならこっちの隅(すみ)の方(ほう)へ、まいまいつぶろのようンなって、一服(ぷく)やっておりやしょう」
 ニヤリと笑(わら)った松(まつ)五郎(ろう)が、障子(しょうじ)の隅(すみ)へ、まるくなった時(とき)だった。藤吉(とうきち)に案内(あんない)されたおこのの姿(すがた)が、影絵(かげえ)のように縁先(えんさき)へ現(あらわ)れた。
「師匠(ししょう)、お連(つ)れ申(もう)しました」
「御免やすえ」
「さァ、ずっとこっちへ」
 欝金(うこん)の包(つつみ)を抱(かか)えたおこのは、それでも何(なに)やら心(こころ)が乱(みだ)れたのであろう。上気(じょうき)した顔(かお)をふせたまま、敷居際(しきいぎわ)に頭(あたま)を下(さ)げた。
「こないに遅(おそ)う、無躾(ぶしつけ)に伺(うかが)いまして。……」
「どんな御用(ごよう)か、遠慮(えんりょ)なく、ずっとお通(とお)りなさるがいい」
「いいえもう、ここで結構(けっこう)でおます」
 行燈(あんどん)の灯(ひ)が長(なが)く影(かげ)をひいた、その鼠色(ねずみいろ)に包(つつ)まれたまま、石(いし)のように硬(かた)くなったおこのの髪(かみ)が二筋(すじ)三筋(すじ)、夜風(よかぜ)に怪(あや)しくふるえて、心(こころ)もち青(あお)みを帯(お)びた頬(ほほ)のあたりに、ほのかに汗(あせ)がにじんでいた。
「そうしてお上(かみ)さんは、こんな遅(おそ)く、何(な)んの用(よう)でおいでなすった」
「拝借(はいしゃく)の、おせん様(さま)の帯(おび)を、お返(かえ)し申(もう)しに。――」
「なに、おせんの帯(おび)を。――」
「はい」
「それはまた何(な)んでの」
 春信(はるのぶ)は、意外(いがい)なおこのの言葉(ことば)は、思(おも)わず眼(め)を瞠(みは)った。
「御大切(おたいせつ)なお品(しな)ゆえ、粗相(そそう)があってはならんよって、速(はよ)うお返(かえ)し申(もう)すが上分別(じょうふんべつ)と、思(おも)い立(た)って参(さん)じました」
「では太夫(たゆう)はこの帯(おび)を、芝居(しばい)にゃ使(つか)わないつもりかの」
「はい。折角(せっかく)ながら。……」
 おこのは、そのまま固(かた)く唇(くちびる)を噛(か)んだ。

    四

「ふふふふ、お上(かみ)さん」
 じっとおこのの顔(かお)を見詰(みつ)めていた春信(はるのぶ)は、苦笑(くしょう)に唇(くちびる)を歪(ゆが)めた。
「はい」
「お前(まえ)さんもう一度(ど)、思(おもい)い直(なお)して見(み)なさる気(き)はないのかい」
「おもい直(なお)せといやはりますか」
「まずのう」
「なぜでおます」
「なぜかそいつは、そっちの胸(むね)に、訊(き)いて見(み)たらば判(わか)ンなさろう。――その帯(おび)は、おせんから頼(たの)まれて、この春信(はるのぶ)が描(か)いたものにゃ違(ちが)いないが、まだ向(むこ)うの手(て)へ渡(わた)さないうちに、太夫(たゆう)が来(き)て、貸(か)してくれとのたッての頼(たの)み、これがなくては、肝腎(かんじん)の芝居(しばい)が出来(でき)ないとまでいった挙句(あげく)、いや応(おう)なしに持(も)って行(い)かれてしまったものだ。おせんにゃもとより、内所(ないしょ)で貸(か)して渡(わた)した品物(しなもの)、今更(いまさら)急(きゅう)に返(かえ)す程(ほど)なら、あれまでにして、持(も)って行(い)きはしなかろう。お上(かみ)さん。お前(まえ)、つまらない料簡(りょうけん)は、出(だ)さないほうがいいぜ」
「そんならなんぞ、わたしがひとりの料簡(りょうけん)で。……」
「そうだ。これがおせんの帯(おび)でなかったら、まさかお前(まえ)さんは、この夜道(よみち)を、わざわざここまで返(かえ)しにゃ来(き)なさるまい。太夫(たゆう)が締(し)めて踊(おど)ったとて、おせんの色香(いろか)が移(うつ)るという訳(わけ)じゃァなし、芸人(げいにん)のつれあいが、そんな狭(せま)い考(かんが)えじゃ、所詮(しょせん)[#「所詮」は底本では「所謂」]うだつは揚(あ)がらないというものだ。余計(よけい)なお接介(せっかい)のようだが、今頃(いまごろ)太夫(たゆう)は、帯(おび)の行方(ゆくえ)を探(さが)しているだろう。お前(まえ)さんの来(き)たこたァ、どこまでも内所(ないしょ)にしておこうから、このままもう一度(ど)、持(も)って帰(かえ)ってやるがいい」
「ほほほ、お師匠(ししょう)さん」
 おこのは冷(つめ)たく額(ひたい)で笑(わら)った。
「え」
「折角(せっかく)の御親切(ごしんせつ)でおますが、いったんお返(かえ)ししょうと、持(も)って参(さん)じましたこの帯(おび)、また拝借(はいしゃく)させて頂(いただ)くとしましても、今夜(こんや)はお返(かえ)し申(もう)します」
「ではどうしても、置(お)いて行(い)こうといいなさるんだの」
「はい」
「そうかい。それ程(ほど)までにいうんなら、仕方(しかた)がない、預(あず)かろう。その換(かわ)り、太夫(たゆう)が借(か)りに来(き)たにしても、もう二度(ど)と再(ふたた)び貸(か)すことじゃないから、それだけは確(しか)と念(ねん)を押(お)しとくぜ」
「よう判(わか)りました。この上(うえ)の御迷惑(ごめいわく)はおかけしまへんよって。……」
「はッはッはッ」と、今(いま)まで座敷(ざしき)の隅(すみ)に黙(だま)りこくっていた松(まつ)五郎(ろう)が、急(きゅう)に煙管(きせる)をつかんで大笑(おおわら)いに笑(わら)った。
「どうした松(まつ)つぁん」
「どうもこうもありませんが、あんまり話(はなし)が馬鹿気(ばかげ)てるんで、とうとう辛抱(しんぼう)が出来(でき)なくなりやしたのさ。――師匠(ししょう)、ひとつあっしに、ちっとばかりしゃべらしておくんなせえ」
「何(な)んとの」
「身(み)に降(ふ)りかかる話(はなし)じゃねえ。どうせ人様(ひとさま)のことだと思(おも)って、黙(だま)って聴(き)いて居(お)りやしたが。――もし堺屋(さかいや)さんのお上(かみ)さん、つまらねえ焼(や)きもちは、焼(や)かねえ方(ほう)がようがすぜ」
「なにいいなはる」
「なにも蟹(かに)もあったもんじゃねえ。蟹(かに)なら横(よこ)にはうのが近道(ちかみち)だろうに、人間(にんげん)はそうはいかねえ。広(ひろ)いようでも世間(せけん)は狭(せめ)えものだ。どうか真(ま)ッ直(すぐ)向(む)いて歩(ある)いておくんなせえ」
「あんたはん、どなたや」
「あっしゃァ松(まつ)五郎(ろう)という、けちな職人(しょくにん)でげすがね。お前(まえ)さんの仕方(しかた)が、あんまり情(なさけ)な過(す)ぎるから、口(くち)をはさましてもらったのさ。知(し)らなきゃいって聞(き)かせるが、笠森(かさもり)のおせん坊(ぼう)は、男嫌(おとこぎら)いで通(とお)っているんだ。今(いま)さらお前(まえ)さんとこの太夫(たゆう)が、金鋲(きんびょう)を打(う)った駕籠(かご)で迎(むか)えに来(き)ようが、毛筋(けすじ)一本(ぽん)動(うご)かすような女(おんな)じゃねえから安心(あんしん)しておいでなせえ。痴話喧嘩(ちわげんか)のとばっちりがここまでくるんじゃ、師匠(ししょう)も飛(と)んだ迷惑(めいわく)だぜ」
 松(まつ)五郎(ろう)はこういって、ぐっとおこのを睨(にら)みつけた。

    五

 暗(やみ)の中(なか)を、鼠(ねずみ)のようになって、まっしぐらに駆(か)けて来(き)た堺屋(さかいや)の男衆(おとこしゅう)新(しん)七は、これもおこのと同(おな)じように、柳原(やなぎはら)の土手(どて)を八辻(つじ)ヶ原(はら)へと急(いそ)いだが、夢中(むちゅう)になって走(はし)り続(つづ)けてきたせいであろう。右(みぎ)へ行(い)く白壁町(しろかべちょう)への道(みち)を左(ひだり)へ折(お)れたために、狐(きつね)につままれでもしたように、方角(ほうがく)さえも判(わか)らなくなった折(おり)も折(おり)、彼方(かなた)の本多豊前邸(ほんだぶぜんてい)の練塀(ねりべい)の影(かげ)から、ひた走(はし)りに走(はし)ってくる女(おんな)の気配(けはい)。まさかと思(おも)って眼(め)をすえた刹那(せつな)瞼(まぶた)ににじんだ髪(かみ)かたちは、正(まさ)しくおこのの姿(すがた)だった。
 新(しん)七は、はッとして飛(と)び上(あが)った。
「おお、お上(かみ)さん」
「あッ。お前(まえ)はどこへ」
「どこへどころじゃござりません。お上(かみ)さんこそ今時分(いまじぶん)、どちらへおいでなさいました」
「わたしは、お前(まえ)も知(し)っての通(とお)り、あの絵師(えし)の春信(はるのぶ)さんのお宅(たく)へ、いって来(き)ました」
「そんならやっぱり、春信師匠(はるのぶししょう)のお宅(たく)へ」
「お前(まえ)がまた、そのようなことを訊(き)いて、何(な)んにしやはる」
「手前(てまえ)は太夫(たゆう)からのおいいつけで、お上(かみ)さんをお迎(むか)えに上(あが)ったのでござります」
「わたしを迎(むか)えに。――」
「へえ。――そうしてあの帯(おび)をどうなされました」
「何(なに)、帯(おび)とえ」
「はい。おせんさんの帯(おび)は、お上(かみ)さんが、お持(も)ちなされたのでござりましょう」
「そのような物(もの)を、わたしが知(し)ろかいな」
「いいえ。知(し)らぬことはございますまい。先程(さきほど)お出(で)かけなさる時(とき)、帯(おび)を何(な)んとやら仰(おっ)しゃったのを、新(しん)七は、たしかにこの耳(みみ)で聞(き)きました」
「知(し)らぬ知(し)らぬ。わたしが春信(はるのぶ)さんをお訊(たず)ねしたのは帯(おび)や衣装(いしょう)のことではない。今度(こんど)鶴仙堂(かくせんどう)から板(いた)おろしをしやはるという、鷺娘(さぎむすめ)の絵(え)のことじゃ。――ええからそこを退(の)きなされ」
「いいや、それはなりません。お上(かみ)さんは、確(たしか)に持(も)ってお出(いで)なされたはず。もう一度(ど)手前(てまえ)と一緒(しょ)に、白壁町(しろかべちょう)のお宅(たく)へ、お戻(もど)りなすって下(くだ)さりませ」
「なにいうてんのや。わたしが戻(もど)ったとて、知(し)らぬものが、あろうはずがあるかいな。――こうしてはいられぬのじゃ。そこ退(の)きやいの」
 おこのが払(はら)った手(て)のはずみが、ふと肩(かた)から滑(すべ)ったのであろう。袂(たもと)を放(はな)したその途端(とたん)に、新(しん)七はいやという程(ほど)、おこのに頬(ほほ)を打(う)たれていた。
「あッ。お打(う)ちなさいましたな」
「打(う)ったのではない。お前(まえ)が、わたしの手(て)を取(と)りやはって。……」
「ええ、もう辛抱(しんぼう)がなりませぬ。手前(てまえ)と一緒(しょ)にもう一度(ど)、春信(はるのぶ)さんのお宅(たく)まで、とっととおいでなさりませ」
 ぐっとおこのの手首(てくび)をつかんだ新(しん)七には、もはや主従(しゅじゅう)の見(み)さかいもなくなっていたのであろう。たとえ何(な)んであろうと、引(ひき)ずっても連(つ)れて行(い)かねばならぬという、強(つよ)い意地(いじ)が手伝(てつだ)って、荒々(あらあら)しく肩(かた)に手(て)をかけた。
「これ、新(しん)七、何(なに)をしやる」
「何(なに)もかもござりませぬ。あの帯(おび)は、太夫(たゆう)が今度(こんど)の芝居(しばい)にはなくてはならない大事(だいじ)な衣装(いしょう)、手前(てまえ)がひとりで行(い)ったとて、春信(はるのぶ)さんは渡(わた)しておくんなさいますまい。どうでもお前様(まえさま)を一緒(しょ)に連(つ)れて。――」
「ええ、行(い)かぬ。何(な)んというてもわしゃ行(い)かぬ」
 星(ほし)のみ光(ひか)った空(そら)の下(した)に、二つのかたちは、犬(いぬ)の如(ごと)くに絡(から)み合(あ)っていた。
「ふふふふ。みっともねえ。こんなことであろうと思(おも)って、後(あと)をつけて来(き)たんだが、お上(かみ)さん、こいつァ太夫(たゆう)さんの辱(はじ)ンなるぜ」
「えッ」
「おれだよ。彫職人(ほりしょくにん)の松(まつ)五郎(ろう)」

    六

 留(と)めるのもきかずに松(まつ)五郎(ろう)が火(ひ)のようになって出(で)て行(い)ってしまった後(あと)の画室(がしつ)には、春信(はるのぶ)がただ一人(ひとり)おこのの置(お)いて行(い)った帯(おび)を前(まえ)にして、茫然(ぼうぜん)と煙管(きせる)をくわえていたが、やがて何(なに)か思(おも)いだしたのであろう。突然(とつぜん)顔(かお)をあげると、吐(は)きだすように藤吉(とうきち)を呼(よ)んだ。
「藤吉(とうきち)。――これ藤吉(とうきち)」
「へえ」
 いつにない荒(あら)い言葉(ことば)に、あわてて次(つぎ)の間(ま)から飛(と)んで出(で)た藤吉(とうきち)は、敷居際(しきいぎわ)で、もう一度(ど)ぺこりと頭(あたま)を下(さ)げた。
「何(なに)か御用(ごよう)で」
「羽織(はおり)を出(だ)しな」
「へえ。――どッかへお出(で)かけなさるんで。……」
「余計(よけい)な口(くち)をきかずに、速(はや)くするんだ」
「へえ」
 何(なに)が何(なに)やら、一向(こう)見当(けんとう)が付(つ)かなくなった藤吉(とうきち)は、次(つぎ)の間(ま)に取(と)って返(かえ)すと、箪笥(たんす)をがたぴしいわせながら、春信(はるのぶ)が好(この)みの鶯茶(うぐいすちゃ)の羽織(はおり)を、捧(ささ)げるようにして戻(もど)って来(き)た。
「これでよろしいんで。……」
 それには答(こた)えずに、藤吉(とうきち)の手(て)から羽織(はおり)を、ひったくるように受取(うけと)った春信(はるのぶ)の足(あし)は、早(はや)くも敷居(しきい)をまたいで、縁先(えんさき)へおりていた。
「師匠(ししょう)、お供(とも)をいたしやす」
「独(ひと)りでいい」
「お一人(ひとり)で。……そんなら提灯(ちょうちん)を。――」
 が、春信(はるのぶ)の心(こころ)は、やたらに先(さき)を急(いそ)いでいたのであろう。いつもなら、藤吉(とうきち)を供(とも)に連(つ)れてさえ、夜道(よみち)を歩(あるく)くには、必(かなら)ず提灯(ちょうちん)を持(も)たせるのであったが、今(いま)はその提灯(ちょうちん)を待(ま)つ間(ま)ももどかしく、羽織(はおり)の片袖(かたそで)を通(とお)したまま、早(はや)くも姿(すがた)は枝折戸(しおりど)の外(そと)に消(き)えていた。
「藤吉(とうきち)。――藤吉(とうきち)」
「へえ」
 奥(おく)からの声(こえ)は、この春(はる)まで十五年(ねん)の永(なが)い間(あいだ)、番町(ばんちょう)の武家屋敷(ぶけやしき)へ奉公(ほうこう)に上(あが)っていた。春信(はるのぶ)の妹(いもうと)梶女(かじじょ)だった。
「ここへ来(き)や」
「へえ」
 お屋敷者(やしきもの)の見識(けんしき)とでもいうのであろうか。足(あし)が不自由(ふじゆう)であるにも拘(かかわ)らず、四十に近(ちか)い顔(かお)には、触(ふれ)れば剥(は)げるまでに濃(こ)く白粉(おしろい)を塗(ぬ)って、寝(ね)る時(とき)より外(ほか)には、滅多(めった)に放(はな)したことのない長煙管(ながぎせる)を、いつも膝(ひざ)の上(うえ)についていた。
「お兄様(にいさま)は、どちらにお出(で)かけなされた」
「さァ、どこへおいでなさいましたか、つい仰(おっ)しゃらねえもんでござんすから。……」
「何(なに)をうかうかしているのじゃ。知(し)らぬで済(す)もうとお思(おも)いか。なぜお供(とも)をせぬのじゃ」
「そう申(もう)したのでござんすが、師匠(ししょう)はひどくお急(いそ)ぎで、行(い)く先(さき)さえ仰(おっ)しゃらねえんで。……」
「直(す)ぐに行(い)きゃ」
「へ」
「提灯(ちょうちん)を持(も)って直(す)ぐに、後(あと)を追(お)うて行(い)きゃというのじゃ」
「と仰(おっ)しゃいましても、どっちへお出(で)かけか、方角(ほうがく)も判(わか)りゃァいたしやせん」
「まだ出(で)たばかりじゃ。そこまで行(い)けば直(す)ぐに判(わか)ろう。たじろいでいる時(とき)ではない。速(はよ)う。速(はよ)う」
 この上(うえ)躊躇(ちょうちょ)していたら、持(も)った煙管(きせる)で、頭(あたま)のひとつも張(は)られまじき気配(けはい)となっては、藤吉(とうきち)も、立(た)たない訳(わけ)には行(い)かなかった。
 提灯(ちょうちん)は提灯(ちょうちん)、蝋燭(ろうそく)は蝋燭(ろうそく)と、右(みぎ)と左(ひだり)に別々(べつべつ)につかんだ藤吉(とうきち)は、追(お)われるように、梶女(かじじょ)の眼(め)からおもてに遁(のが)れた。

    七

 鏡(かがみ)のおもてに映(うつ)した眉間(みけん)に、深(ふか)い八の字(じ)を寄(よ)せたまま、ただいらいらした気持(きもち)を繰返(くりかえ)していた中村松江(なかむらしょうこう)は、ふと、格子戸(こうしど)の外(そと)に人(ひと)の訪(おとず)れた気配(けはい)を感(かん)じて、じッと耳(みみ)を澄(すま)した。
「もし、今晩(こんばん)は。――今晩(こんばん)は」
(おお、やはりうちかいな)
 そう、思(おも)った松江(しょうこう)は、次(つぎ)の座敷(ざしき)まで立(た)って行(い)って、弟子(でし)のいる裏(うら)二階(かい)へ声(こえ)をかけた。
「これ富江(とみえ)、松代(まつよ)、誰(だれ)もいぬのか。お客(きゃく)さんがおいでなされたようじゃ」
 が、先刻(せんこく)新(しん)七におこのの後(あと)を追(お)わせた隙(すき)に、二人(ふたり)とも、どこぞ近所(きんじょ)へまぎれて行(い)ったのであろう。もう一度(ど)呼(よ)んで見(み)た松江(しょうこう)の耳(みみ)には、容易(ようい)に返事(へんじ)が戻(もど)っては来(こ)なかった。
「ええけったいな、何(な)んとしたのじゃ。お客(きゃく)さんじゃというのに。――」
 口小言(くちこごと)をいいながら、自(みずか)ら格子戸(こうしど)のところまで立(た)って行(い)った松江(しょうこう)は、わざと声音(こわね)を変(か)えて、低(ひく)く訊(たず)ねた。
「どなた様(さま)でござります」
「わたしだ」
「へえ」
「白壁町(しろかべちょう)の春信(はるのぶ)だよ」
「えッ」
 驚(おどろ)きと、土間(どま)を駆(か)け降(お)りたのが、殆(ほとん)ど同時(どうじ)であった。
「お師匠(ししょう)さんでおましたか。これはまァ。……」
 がらりと開(あ)けた雨戸(あまど)の外(そと)に、提灯(ちょうちん)も持(も)たずに、独(ひと)り蒼白(あおじろ)く佇(たたず)んだ春信(はるのぶ)の顔(かお)は暗(くら)かった。
「面目次第(めんぼくしだい)もござりませぬ。――でもまァ、ようおいでで。――」
「ふふふ。あんまりよくもなかろうが、ちと、来(き)ずには済(す)まされぬことがあっての」
「そこではお話(はなし)も出来(でき)ませんで。……どうぞ、こちらへお通(とお)り下(くだ)さりませ」
「しかし、わたしが上(あが)っても、いいのか」
「何(なに)を仰(おっ)しゃいます。狭苦(せまくる)しゅうはござりますが、御辛抱(ごしんぼう)しやはりまして。……」
「では遠慮(えんりょ)なしに、通(とお)してもらいましょうか。……のう太夫(たゆう)」
 座敷へ上(あが)って、膝(ひざ)を折(お)ると同時(どうじ)に、春信(はるのぶ)の眼(め)は険(けわ)しく松江(しょうこう)を見詰(みつ)めた。
「今更(いまさら)あらためて、こんなことを訊(き)くのも野暮(やぼ)の沙汰(さた)だが、おこのさんといいなさるのは、確(たしか)にお前(まえ)さんの御内儀(ごないぎ)だろうのう」
「何(な)んといやはります」
 松江(しょうこう)のおもてには、不安(ふあん)の色(いろ)が濃(こ)い影(かげ)を描(えが)いた。
「深(ふか)いことはどうでもいいが、ただそれだけを訊(き)かしてもらいたいと思(おも)っての。あれが太夫(たゆう)の御内儀(ごないぎ)なら、わたしはこれから先(さき)、お前(まえ)さんと、二度(ど)と顔(かお)を合(あ)わせまいと、心(こころ)に固(かた)く極(き)めて来(き)たのさ」
「えッ。ではやはり。……」
「太夫(たゆう)。つまらない面(つら)あてでいう訳(わけ)じゃないが、お前(まえ)さんは、いいお上(かみ)さんを持(も)ちなすって、仕合(しあわせ)だの。――帯(おび)はたしかにわたしの手(て)から、おせんのとこへ返(かえ)そうから、少(すこ)しも懸念(けねん)には、及(およ)ばねえわな」
「どうぞ堪忍(かんにん)しておくれやす」
「お前(まえ)さんにあやまらせようと思(おも)って、こんなにおそく、わざわざひとりで出(で)て来(き)た訳(わけ)じゃァさらさらない。詫(わび)なんぞは無用(むよう)にしておくんなさい」
「なんで、これがお詫(わび)せいでおられましょう。愚(ぐ)なおこのが、いらぬことを仕出来(しでか)しました心(こころ)なさからお師匠(ししょう)さんに、このようないやな思(おも)いをおさせ申(もう)しました。堺屋(さかいや)、穴(あな)があったら這入(はい)りとうおます」
 松江(しょうこう)は、われとわが手(て)で顔(かお)を掩(おお)ったまま、暫(しば)し身(み)じろぎもしなかった。
 霜(しも)の来(こ)ぬ間(ま)に、早(はや)くも弱(よわ)り果(は)てた蟋蟀(こおろぎ)であろう。床下(ゆかした)にあえぐ音(ね)が細々(ほそぼそ)と聞(き)かれた。

  月(つき)


    一

「――そら来(き)た来(き)なんせ、土平(どへい)の飴(あめ)じゃ。大人(おとな)も子供(こども)も銭(ぜに)持(も)っておいで。当時(とうじ)名代(なだい)の土平(どへい)の飴(あめ)じゃ。味(あじ)がよくってでがあって、おまけに肌理(きめ)が細(こま)こうて、笠森(かさもり)おせんの羽(は)二重肌(えはだ)を、紅(べに)で染(そ)めたような綺麗(きれい)な飴(あめ)じゃ。買(か)って往(ゆ)かんせ、食(た)べなんせ。天竺渡来(てんじくとらい)の人参飴(にんじんあめ)じゃ。何(な)んと皆(みな)の衆(しゅう)合点(がってん)か」
 もはや陽(ひ)が落ちて、空(そら)には月(つき)さえ懸(かか)っていた。その夕月(ゆうづき)の光(ひかり)の下(した)に、おのが淡(あわ)い影(かげ)を踏(ふ)みながら、言葉(ことば)のあやも面白(おもしろ)おかしく、舞(ま)いつ踊(おど)りつ来懸(きかか)ったのは、この春頃(はるごろ)から江戸中(えどじゅう)を、隈(くま)なく歩(ある)き廻(まわ)っている飴売土平(あめうりどへい)。まだ三十にはならないであろう。おどけてはいるが、どこか犯(おか)し難(がた)いところのある顔(かお)かたちは、敵(かたき)持(も)つ武家(ぶけ)が、世(よ)を忍(しの)んでの飴売(あめうり)だとさえ噂(うわさ)されて、いやが上(うえ)にも人気(にんき)が高(たか)く、役者(やくしゃ)ならば菊之丞(きくのじょう)、茶屋女(ちゃやおんな)なら笠森(かさもり)おせん、飴屋(あめや)は土平(どへい)、絵師(えし)は春信(はるのぶ)と、当時(とうじ)切(き)っての評判者(ひょうばんもの)だった。
「わッ、土平(どへい)だ土平(どへい)だ」
「それ、みんな来(こ)い、みんな来(こ)いやァイ」
「お母(っか)ァ、銭(ぜに)くんな」
「父(ちゃん)、おいらにも銭(ぜに)くんな」
「あたいもだ」
「あたしもだ」
 軒端(のきば)に立(た)つ蚊柱(かばしら)のように、どこからともなく集(あつ)まって来(き)た子供(こども)の群(むれ)は、土平(どへい)の前後左右(ぜんごさゆう)をおッ取(と)り巻(ま)いて、買(か)うも買(か)わぬも一様(よう)にわッわッと囃(はや)したてる賑(にぎ)やかさ、長屋(ながや)の井戸端(いどばた)で、一心不乱(しんふらん)に米(こめ)を磨(と)いでいたお上(かみ)さん達(たち)までが、手(て)を前(まえ)かけで、拭(ふ)きながら、ぞろぞろつながって出(で)てくる有様(ありさま)は、流石(さすが)に江戸(えど)は物見高(ものみだか)いと、勤番者(きんばんもの)の眼(め)の玉(たま)をひっくり返(かえ)さずにはおかなかった。
「――さァさ来(き)た来(き)た、こっちへおいで、高(たか)い安(やす)いの思案(しあん)は無用(むよう)。思案(しあん)するなら谷中(やなか)へござれ。谷中(やなか)よいとこおせんの茶屋(ちゃや)で、お茶(ちゃ)を飲(の)みましょ。煙草(たばこ)をふかそ。煙草(たばこ)ふかして煙(けむ)だして、煙(けむ)の中(なか)からおせんを見(み)れば、おせん可愛(かあい)や二九からぬ。色気(いろけ)程(ほど)よく靨(えくぼ)が霞(かす)む。霞(かす)む靨(えくぼ)をちょいとつっ突(つ)いて、もしもしそこなおせん様(さま)。おはもじながらここもとは、そもじ思(おも)うて首(くび)ッたけ、烏(からす)の鳴(な)かぬ日(ひ)はあれど、そもじ見(み)ぬ日(ひ)は寝(ね)も寝(ね)つかれぬ。雪駄(せった)ちゃらちゃら横眼(よこめ)で見(み)れば、咲(さ)いた桜(さくら)か芙蓉(ふよう)の花(はな)か、さても見事(みごと)な富士(ふじ)びたえ。――さッさ買(か)いなよ買(か)わしゃんせ。土平(どへい)自慢(じまん)の人参飴(にんじんあめ)じゃ。遠慮(えんりょ)は無用(むよう)じゃ。買(か)わしゃんせ。買(か)っておせんに惚(ほ)れしゃんせ」
 手振(てぶ)りまでまじえての土平(どへい)の唄(うた)は、月(つき)の光(ひかり)が冴(さ)えるにつれて、愈(いよいよ)益々(ますます)面白(おもしろ)く、子供(こども)ばかりか、ぐるりと周囲(しゅうい)に垣(かき)を作(つく)った大方(おおかた)は、通(とお)りがかりの、大人(おとな)の見物(けんぶつ)で一杯(ぱい)であった。
「はッはッはッ。これが噂(うわさ)の高(たか)い土平(どへい)だの。いやもう感心(かんしん)感心(かんしん)。この咽(のど)では、文字太夫(もじだゆう)も跣足(はだし)だて」
「それはもう御隠居様(ごいんきょさま)。滅法(めっぽう)名代(なだい)の土平(どへい)でござんす。これ程(ほど)のいい声(こえ)は、鉦(かね)と太鼓(たいこ)で探(さが)しても、滅多(めった)にあるものではござんせぬ」
「御隠居(ごいんきょ)は、土平(どへい)の声(こえ)を、始(はじ)めてお聞(き)きなすったのかい」
「左様(さよう)」
「これはまた迂濶(うかつ)千万(ばん)。飴売(あめうり)土平(どへい)は、近頃(ちかごろ)江戸(えど)の名物(めいぶつ)でげすぜ」
「いや、噂(うわさ)はかねて聞(き)いておったが、眼(め)で見(み)たのは今(いま)が初(はじ)めて。まことにはや。面目次第(めんぼくしだい)もござりませぬて」
「はははは。お前様(まえさま)は、おなじ名代(なだい)なら、やっぱりおせんの方(ほう)が、御贔屓(ごひいき)でげしょう」
「決(けっ)して左様(さよう)な訳(わけ)では。……」
「お隠(かく)しなさいますな。それ、そのお顔(かお)に書(か)いてある」
 見物(けんぶつ)の一人(ひとり)が、近(ちか)くにいる隠居(いんきょ)の顔(かお)を指(さ)した時(とき)だった、誰(だれ)かが突然(とつぜん)頓狂(とんきょう)な声(こえ)を張(は)り上(あ)げた。
「おせんが来(き)た。あすこへおせんが帰(かえ)って来(き)た」

    二

「なに、おせんだと」
「どこへどこへ」
 飴売(あめうり)土平(どへい)の道化(どうけ)た身振(みぶ)りに、われを忘(わす)れて見入(みい)っていた人達(ひとたち)は、降(ふ)って湧(わ)いたような「おせんが来(き)た」という声(こえ)を聞(き)くと、一齊(せい)に首(くび)を東(ひがし)へ振(ふ)り向(む)けた。
「どこだの」
「あすこだ。あの松(まつ)の木(き)の下(した)へ来(く)る」
 斜(なな)めにうねった道角(みちかど)に、二抱(ふたかか)えもある大松(おおまつ)の、その木(き)の下(した)をただ一人(ひとり)、次第(しだい)に冴(さ)えた夕月(ゆうづき)の光(ひかり)を浴(あ)びながら、野中(のなか)に咲(さ)いた一本(ぽん)の白菊(しらぎく)のように、静(しず)かに歩(あゆ)みを運(はこ)んで来(く)るほのかな姿(すがた)。それはまごう方(かた)ない見世(みせ)から帰(かえ)りのおせんであった。
「違(ちげ)えねえ。たしかにおせんだ」
「そら行(い)け」
 駆(か)け出(だ)す途端(とたん)に鼻緒(はなお)が切(き)れて、草履(ぞうり)をさげたまま駆(か)け出(だ)す小僧(こぞう)や、石(いし)に躓(つまず)いてもんどり打(う)って倒(たお)れる職人(しょくにん)。さては近所(きんじょ)の生臭坊主(なまぐさぼうず)が、俗人(ぞくじん)そこのけに目尻(めじり)をさげて追(お)いすがるていたらく。所詮(しょせん)は男(おとこ)も女(おんな)もなく、おせんに取(と)っては迷惑千万(めいわくせんばん)に違(ちが)いなかろうが、遠慮会釈(えんりょえしゃく)はからりと棄(す)てた厚(あつ)かましさからつるんだ犬(いぬ)を見(み)に行(ゆ)くよりも、一層(そう)勢(きお)い立(た)って、どっとばかりに押(お)し寄(よ)せた。
「いやだよ直(なお)さん、そんなに押(お)しちゃァ転(ころ)ンじまうよ」
「人(ひと)の転(ころ)ぶことなんぞ、遠慮(えんりょ)してたまるもんかい。速(はや)く行(い)って触(さわ)らねえことにゃ、おせんちゃんは帰(かえ)ッちまわァ」
「おッと退(ど)いた退(ど)いた。番太郎(ばんたろう)なんぞの見(み)るもンじゃねえ」
「馬鹿(ばか)にしなさんな。番太郎(ばんたろう)でも男(おとこ)一匹(ぴき)だ。綺麗(きれい)な姐(ねえ)さんは見(み)てえや」
「さァ退(ど)いた、退(ど)いた」
「火事(かじ)だ火事(かじ)だ」
 人(ひと)の心(こころ)が心(こころ)に乗(の)って、愈(いよいよ)調子(ちょうし)づいたのであろう。茶代(ちゃだい)いらずのその上(うえ)にどさくさまぎれの有難(ありがた)さは、たとえ指先(ゆびさき)へでも触(さわ)れば触(さわ)り得(どく)と考(かんが)えての悪戯(いたずら)か。ここぞとばかり、息(いき)せき切(き)って駆(か)け着(つ)けた群衆(ぐんしゅう)を苦笑(くしょう)のうちに見守(みまも)っていたのは、飴売(あめうり)の土平(どへい)だった。
「ふふふふ。飴(あめ)も買(か)わずに、おせん坊(ぼう)へ突(つ)ッ走(ぱし)ったな豪勢(ごうせい)だ。こんな鉄錆(てつさび)のような顔(かお)をしたおいらより、油壺(あぶらつぼ)から出(で)たよなおせん坊(ぼう)の方(ほう)が、どれだけいいか知(し)れねえからの。いやもう、浮世(うきよ)のことは、何(なに)をおいても女(おんな)が大事(だいじ)。おいらも今度(こんど)の世(よ)にゃァ、犬(いぬ)になっても女(おんな)に生(うま)れて来(く)ることだ。――はッくしょい。これァいけねえ。みんなが急(きゅう)に散(ち)ったせいか、水(みず)ッ洟(ぱな)が出(で)て来(き)たぜ。風邪(かぜ)でも引(ひ)いちゃァたまらねから、そろそろ帰(かえ)るとしべえかの」
「おッと、飴屋(あめや)さん」
「はいはい、お前(まえ)さんは、何(な)んであっちへ行(い)きなさらない」
「行(い)きたくねえからよ」
「行(い)きたくないとの」
「そうだ。おいらはこれでも、辱(はじ)を知(し)ってるからの」
「面白(おもしろ)い。人間(にんげん)、辱(はじ)を知(し)ってるたァ何(なに)よりだ」
「何(なに)より小(こ)より御存(ごぞん)じよりか。なまじ辱(はじ)を知(し)ってるばかりに、おいらァ出世(しゅっせ)が出来(でき)ねえんだよ」
「お前(まえ)さんは、何(なに)をしなさる御家業(おかぎょう)だの」
「絵(え)かきだよ」
「名前(なまえ)は」
「名前(なまえ)なんざあるもんか」
「誰(だれ)のお弟子(でし)だの」
「おいらはおいらの弟子(でし)よ。絵(え)かきに師匠(ししょう)や先生(せんせい)なんざ、足手(あしで)まといになるばッかりで、物(もの)の役(やく)にゃ立(た)たねえわな」
 そういいながら、鼻(はな)の頭(あたま)を擦(こす)ったのは、変(かわ)り者(もの)の春重(はるしげ)だった。

    三

「おッとッとッと、おせんちゃん。何(な)んでそんなに急(いそ)ぎなさるんだ。みんながこれ程(ほど)騒(さわ)いでるんだぜ。靨(えくぼ)の一つも見(み)せてッてくんねえな」
「そうだそうだ。どんなに待(ま)ったか知(し)れやァしねえよ。おめえに急(いそ)いで帰(かえ)られたんじゃ、待(ま)ってたかいがありゃァしねえ」
 それと知(し)って、おせんを途中(とちゅう)に押(お)ッ取(と)りかこんだ多勢(おおぜい)は、飴屋(あめや)の土平(どへい)があっ気(け)に取(と)られていることなんぞ、疾(と)うの昔(むかし)に忘(わす)れたように、我(わ)れ先(さき)にと、夕(ゆう)ぐれ時(どき)のあたりの暗(くら)さを幸(さいわ)いにして、鼻(はな)から先(さき)へ突出(つきだ)していた。
 が、いつもなら、人(ひと)にいわれるまでもなく、まずこっちから愛嬌(あいきょう)を見(み)せるにきまっていたおせんが、きょうは何(な)んとしたのであろう。靨(えくぼ)を見(み)せないのはまだしも、まるで別人(べつじん)のようにせかせかと、先(さき)を急(いそ)いでの素気(すげ)ない素振(そぶり)に、一同(どう)も流石(さすが)におせんの前(まえ)へ、大手(おおで)をひろげる勇気(ゆうき)もないらしく、ただ口(くち)だけを達者(たっしゃ)に動(うご)かして、少(すこ)しでも余計(よけい)に引止(ひきと)めようと、あせるばかりであった。
「もし、そこを退(ど)いておくんなさいな」
「どいたらおめえが帰(かえ)ッちまうだろう。まァいいから、ここで遊(あそ)んで行(ゆ)きねえ」
「あたしゃ、先(さき)を急(いそ)ぎます。きょうは堪忍(かんにん)しておくんなさいよ」
「先(さき)ッたって、これから先(さき)ァ、家(うち)へ帰(かえ)るより道(みち)はあるめえ。それともどこぞへ、好(す)きな人(ひと)でも出来(でき)たのかい」
「なんでそんなことが。……」
「ねえンなら、よかろうじゃねえか」
「でもお母(っか)さんが。――」
「お袋(ふくろ)の顔(かお)なんざ、生(うま)れた時(とき)から見(み)てるんだろう。もう大概(たいがい)、見(み)あきてもよさそうなもんだぜ」
「そうだ、おせんちゃん。帰(けえ)る時(とき)にゃ、みんなで送(おく)ってッてやろうから、きょう一(いち)ン日(ち)の見世(みせ)の話(はなし)でも、聞(き)かしてくんねえよ」
「お見世(みせ)のことなんぞ、何(な)んにも話(はなし)はござんせぬ。――どうか通(とお)しておくんなさい」
「紙屋(かみや)の若旦那(わかだんな)の話(はなし)でも、名主(なぬし)さんのじゃんこ息子(むすこ)の話(はなし)でも、いくらもあろうというもんじゃねえか」
「知(し)りませんよ。お母(っか)さんが風邪(かぜ)を引(ひ)いて、独(ひと)りで寝(ね)ててござんすから、ちっとも速(はや)く帰(かえ)らないと、あたしゃ心配(しんぱい)でなりませんのさ」
「お袋(ふくろ)さんが風邪(かぜ)だッて」
「あい」
「そいつァいけねえ。何(な)んなら見舞(みまい)に行(い)ってやるよ」
「おいらも行(い)くぜ」
「わたしも行(い)く」
「いいえ、もうそんなことは。――」
 少(すこ)しも長(なが)く、おせんを引(ひ)き止(と)めておきたい人情(にんじょう)が、互(たがい)の口(くち)を益々(ますます)軽(かる)くして、まるく囲(かこ)んだ人垣(ひとがき)は、容易(ようい)に解(と)けそうにもなかった。
 すると突然(とつぜん)、はッはッはと、腹(はら)の底(そこ)から絞(しぼ)り出(だ)したような笑(わら)い声(ごえ)が、一同(どう)の耳許(みみもと)に湧(わ)き立(た)った、
「はッはッは。みんな、みっともねえ真似(まね)をしねえで、速(はや)くおせんちゃんを、帰(かえ)してやったらどんなもんだ」
「おめえは、春重(はるしげ)だな」
「つまらねえ差(さ)し出口(でぐち)はきかねえで、引(ひ)ッ込(こ)んだ、引(ひ)ッ込(こ)んだ」
「ふふふ。おめえ達(たち)、あんまり気(き)が利(き)かな過(す)ぎるぜ。おせんちゃんにゃ、おせんちゃんの用(よう)があるんだ。野暮(やぼ)な止(と)めだてするよりも、一刻(こく)も速(はや)く帰(かえ)してやんねえ」
「馬鹿(ばか)ァいわッし。そんなお接介(せっかい)は受けねえよ」
 一同(どう)の視線(しせん)が、春重(はるしげ)の上(うえ)に集(あつ)まっている暇(ひま)に、おせんは早(はや)くも月(つき)の下影(したかげ)に身(み)を隠(かく)した。

    四

「お母(っか)さん」
「おや、おせんかえ」
「あい」
 猫(ねこ)に追(お)われた鼠(ねずみ)のように、慌(あわただ)しく駆(か)け込(こ)んで来(き)たおせんの声(こえ)に、折(おり)から夕餉(ゆうげ)の支度(したく)を急(いそ)いでいた母(はは)のお岸(きし)は、何(なに)やら胸(むね)に凶事(きょうじ)を浮(うか)べて、勝手(かって)の障子(しょうじ)をがらりと明(あ)けた。
「どうかおしかえ」
「いいえ」
「でもお前(まえ)、そんなに息(いき)せき切(き)ってさ」
「どうもしやァしませんけれど、いまそこで、筆屋(ふでや)さんの黒(くろ)がじゃれたもんだから。……」
「ほほほほ。黒(くろ)が尾(お)を振(ふ)ってじゃれるのは、お前(まえ)を慕(した)っているからだよ。あたしゃまた、悪(わる)いいたずらでもされたかと思(おも)って、びっくりしたじゃァないか。何(なに)も食(く)いつくような黒(くろ)じゃなし、逃(に)げてなんぞ来(こ)ないでも、大丈夫(だいじょうぶ)金(かね)の脇差(わきざし)だわな。――こっちへおいで。頭(あたま)を撫(な)で付(つ)けてあげようから。……」
「おや、髪(かみ)がそんなに。――」
 母(はは)の方(ほう)へは行(い)かずに、四畳半(じょうはん)のおのが居間(いま)へ這入(はい)ったおせんは、直(す)ぐさま鏡(かがみ)の蓋(ふた)を外(はず)して、薄暮(はくぼ)の中(なか)にじっとそのまま見入(みい)ったが、二筋(すじ)三筋(すじ)襟(えり)に乱(みだ)れた鬢(びん)の毛(け)を、手早(てばや)く掻(か)き揚(あ)げてしまうと、今度(こんど)はあらためて、あたりをぐるりと見廻(みまわ)した。
「お母(っか)さん」
「あいよ」
「あたしの留守(るす)に、ここに誰(だれ)か這入(はい)りゃしなかったかしら」
「おやまァ滅相(めっそう)な。そこへは鼠(ねずみ)一匹(ぴき)も滅多(めった)に入(はい)るこっちゃァないよ。――何(な)んぞ変(かわ)わったことでもおありかえ」
「さァ、ちっとばかり。……」
「どれ、何(なに)がの。――」
 障子(しょうじ)の隙間(すきま)から、顔(かお)を半分(はんぶん)窺(のぞ)かせた母親(ははおや)を、おせんはあわてて遮(さえぎ)った。
「気(き)にする程(ほど)でもござんせぬ。あっちへ行(い)ってておくんなさい」
「ほんにまァ、ここへは来(く)るのじゃなかったッけ」
 三日前(みっかまえ)の夜(よる)の四つ頃(ごろ)、浜町(はまちょう)からの使(つか)いといって、十六七の男(おとこ)の子(こ)が、駕籠(かご)に乗(の)った女(おんな)を送(おく)って来(き)たその晩(ばん)以来(いらい)、お岸(きし)はおせんの口(くち)から、観音様(かんのんさま)への願(がん)かけゆえ、向(むこ)う三十日(にち)の間(あいだ)何事(なにごと)があっても、四畳半(じょうはん)へは這入(はい)っておくんなさいますな。あたしの留守(るす)にも、ここへ足(あし)を入(い)れたが最後(さいご)、お母(っか)さんの眼(め)はつぶれましょうと、きつくいわれたそれからこっち、何(なに)が何(なに)やら分(わか)らないままに、おせんの頼(たの)みを堅(かた)く守(まも)って、お岸(きし)は、鬼門(きもん)へ触(さわ)るように恐(おそ)れていた座敷(ざしき)だったが、留守(るす)に誰(だれ)かが這入(はい)ったと聞(き)いては、流石(さすが)にあわてずにいられなかったらしく、拵(こし)らえかけの蜆汁(しじみじる)を、七厘(りん)へ懸(か)けッ放(ぱな)しにしたまま、片眼(かため)でいきなり窺(のぞ)き込(こ)んだのであろう。
 部屋(へや)の中(なか)は、窓(まど)から差(さ)すほのかな月(つき)の光(ひかり)で、漸(ようや)く物(もの)のけじめがつきはするものの、ともすれば、入(い)れ換(か)えたばかりの青畳(あおだたみ)の上(うえ)にさえ、暗(くら)い影(かげ)が斜(なな)めに曳(ひ)かれて、じっと見詰(みつ)めている眼先(めさき)は、海(うみ)のように深(ふか)かった。
 母(はは)は直(す)ぐに勝手(かって)へ取(と)って返(かえ)したと見(み)えて、再(ふたた)び七厘(りん)の下(した)を煽(あお)ぐ渋団扇(しぶうちわ)の音(おと)が乱(みだ)れた。
 暗(くら)い、何者(なにもの)もはっきり見(み)えない部屋(へや)の中(なか)で、おせんはもう一度(ど)、じっと鏡(かがみ)の中(なか)を見詰(みつ)めた。底光(そこびかり)のする鏡(かがみ)の中(なか)に、澄(す)めば澄(す)む程(ほど)ほのかになってゆく、おのが顔(かお)が次第(しだい)に淡(あわ)く消(き)えて、三日月形(みかづきがた)の自慢(じまん)の眉(まゆ)も、いつか糸(いと)のように細(ほそ)くうずもれて行(い)った。
「吉(きち)ちゃん。――」
 ふと、鏡(かがみ)のおもてから眼(め)を放(はな)したおせんの唇(くちびる)は、小(ちい)さく綻(ほころ)びた。と同時(どうじ)に、すり寄(よ)るように、体(からだ)は戸棚(とだな)の前(まえ)へ近寄(ちかよ)った。
「済(す)みません。ひとりぽっちで、こんなに待(ま)たせて。――」
 そういいながら、おせんのふるえる手(て)は襖(ふすま)の引手(ひきて)を押(おさ)えた。

    五

 部屋(へや)の中(なか)は益々(ますます)暗(くら)かった。
 その暗(くら)い部屋(へや)の片隅(かたすみ)へ、今(いま)しもおせんが、辺(あたり)に気(き)を配(くば)りながら、胸(むね)一杯(ぱい)に抱(かか)え出(だ)したのは、つい三日前(みっかまえ)の夜(よる)、由斎(ゆうさい)の許(もと)から駕籠(かご)に乗(の)せて届(とど)けてよこした、八百屋(や)お七の舞台姿(ぶたいすがた)をそのままの、瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)の生人形(いきにんぎょう)であった。
 おせんは抱(かか)えた人形(にんぎょう)を、東(ひがし)に向(む)けて座敷(ざしき)のまん中(なか)に立(た)てると、薄月(うすづき)の光(ひかり)を、まともに受(う)けさせようがためであろう。音(おと)せぬ程(ほど)に、窓(まど)の障子(しょうじ)を徐(しずか)に開(あ)け始(はじ)めた。
 庭(にわ)には虫(むし)の声(こえ)もなく、遠(とお)くの空(そら)を渡(わた)る雁(かり)のおとずれがうつろのように、耳(みみ)に響(ひび)いた。
「吉(きち)ちゃん。――いいえ、太夫(たゆう)、あたしゃ会(あ)いとうござんした」
 生(い)きた相手(あいて)にいう如(ごと)く、如何(いか)にもなつかしそうに、人形(にんぎょう)を仰(あお)いだおせんの眼(め)には、情(なさけ)の露(つゆ)さえ仇(あだ)に宿(やど)って、思(おも)いなしか、声(こえ)は一途(ず)にふるえていた。
「――朝(あさ)から晩(ばん)まで、いいえ、それよりも、一生涯(しょうがい)、あたしゃ太夫(たゆう)と一緒(しょ)にいとうござんすが、なんといっても、お前(まえ)は今(いま)を時(とき)めく、江戸(えど)一番(ばん)の女形(おやま)。それに引(ひ)き換(か)えあたしゃそこらに履(は)き捨(す)てた、切(き)れた草鞋(わらじ)もおんなじような、水茶屋(みずぢゃや)の茶汲(ちゃく)み娘(むすめ)。百夜(ももよ)の路(みち)を通(かよ)ったとて、お前(まえ)に逢(あ)って、昔話(むかしばなし)もかなうまい。それゆえせめての心(こころ)から、あたしがいつも夢(ゆめ)に見(み)るお前(まえ)のお七を、由斎(ゆうさい)さんに仕上(しあ)げてもらって、ここまで内緒(ないしょ)で運(はこ)んだ始末(しまつ)。お前(まえ)のお宅(たく)にくらべたら、物置小屋(ものおきごや)にも足(た)りない住居(すまい)でござんすが、ここばっかりは、邪間(じゃま)する者(もの)もない二人(ふたり)の世界(せかい)。どうぞ辛抱(しんぼう)して、話相手(はなしあいて)になっておくんなさいまし、――あたしゃ、王子(おうじ)で育(そだ)った十年前(ねんまえ)も、お見世(みせ)へ通(かよ)うきょうこの頃(ごろ)も、心(こころ)に毛筋程(けすじほど)の変(かわ)りはござんせぬ。吉(きち)ちゃんと、おせんちゃんとは夫婦(ふうふ)だと、ままごと遊(あそ)びにからかわれた、あの春(はる)の日(ひ)が忘(わす)れられず、枕(まくら)を濡(ぬ)らして泣(な)き明(あ)かした夜(よる)も、一度(ど)や二度(ど)ではござんせんし。おせんも年頃(としごろ)、好(す)きなお客(きゃく)の一人(ひとり)くらいはあろうかと、折節(おりふし)のお母(っか)さんの心配(しんぱい)も、あたしの耳(みみ)には上(うわ)の空(そら)。火(ひ)あぶりで死(し)んだお七が羨(うらや)ましいと、あたしゃいつも、思(おもい)い続(つづ)けてまいりました。――太夫(たゆう)、お前(まえ)は、立派(りっぱ)なお上(かみ)さんのその外(ほか)に、二つも寮(りょう)をお持(も)ちの様子(ようす)。引(ひ)くてあまたの、御贔屓筋(ごひいきすじ)もござんしょうが、あたしゃこのままこがれ死(し)んでも、やっぱりお前(まえ)の女房(にょうぼう)でござんす」
 思(おも)わず知(し)らず、我(わ)れとわが袖(そで)を濡(ぬ)らした不覚(ふかく)の涙(なみだ)に、おせんは「はッ」として首(くび)を上(あ)げたが、どうやら勝手許(かってもと)の母(はは)の耳(みみ)へは這入(はい)らなかったものか、まだ抜(ぬ)け切(き)らぬ風邪(かぜ)の咳(せき)が二つ三つ、続(つづ)けざまに聞(き)こえたばかりであった。
 しばしおせんは、俯向(うつむ)いたまま眼(め)を閉(と)じていた。その眼(め)の底(そこ)を、稲妻(いなづま)のように、幼(おさな)い日(ひ)の思(おも)い出(で)が突(つ)ッ走(ぱし)った。
「おせんや」
 母(はは)の声(こえ)が聞(き)かれた。
「あい」
「この暗(くら)いのに、行燈(あんどん)もつけずに」
「あい。さして暗(くら)くはござんせぬ」
「何(なに)をしておいでだか知(し)らないが、支度(したく)が出来(でき)たから御飯(ごはん)にしようわな」
「あい、いまじきに」
「暗(くら)い所(ところ)に一人(ひとり)でいると、鼠(ねずみ)に引(ひ)かれるよ」
 隣座敷(となりざしき)では、母(はは)が燈芯(とうしん)をかき立(た)てたのであろう。障子(しょうじ)が急(きゅう)に明(あか)るくなって、膳立(ぜんだて)をする音(おと)が耳(みみ)に近(ちか)かった。
 よろめくように立上(たちあが)ったおせんは、窓(まど)の障子(しょうじ)に手(て)をかけた。と、その刹那(せつな)、低(ひく)いしかも聞(き)き慣(な)れない声(こえ)が、窓(まど)の下(した)から浮(う)き上(あが)った。
「おせん」
「えッ」
「驚(おどろ)くにゃ当(あた)らねえ。おいらだよ」
 おせんは、火箸(ひばし)のように立(た)ちすくんでしまった。

    六

「ど、どなたでござんす」
「叱(し)っ、静(しず)かにしねえ。怪(あや)しいものじゃねえよ。おいらだよ」
「あッ、お前(まえ)は兄(あに)さん。――」
「ええもう、静(しず)かにしろというのに。お袋(ふくろ)の耳(みみ)へへえッたら、事(こと)が面倒(めんどう)ンなる」
 そういいながら、出窓(でまど)の縁(えん)へ肘(ひじ)を懸(か)けて、するりと体(からだ)を持(もち)ちあげると、如何(いか)にも器用(きよう)に履(は)いた草履(ぞうり)を右手(みぎて)で脱(ぬ)ぎながら、腰(こし)の三尺帯(じゃくおび)へはさんで、猫(ねこ)のように青畳(あおだたみ)の上(うえ)へ降(お)り立(た)ったのは、三年前(ねんまえ)に家(いえ)を出(で)たまま、噂(うわさ)にさえ居所(いどころ)を知(し)らせなかった兄(あに)の千吉(きち)だった。――藍微塵(あいみじん)の素袷(すあわせ)に算盤玉(そろばんだま)の三尺(じゃく)は、見(み)るから堅気(かたぎ)の着付(きつけ)ではなく、殊(こと)に取(と)った頬冠(ほおかむ)りの手拭(てぬぐい)を、鷲掴(わしづか)みにしたかたちには、憎(にく)いまでの落着(おちつき)があった。
 まったく夢想(むそう)もしなかった出来事(できごと)に、おせんは、その場(ば)に腰(こし)を据(す)えたまま、直(す)ぐには二の句(く)が次(つ)げなかった。
「おせん。おめえ、いくつンなった」

「十八でござんす」
「十八か。――」
 千吉(きち)はそういって苦笑(くしょう)するように頷(うなず)いたが、隣座敷(となりざしき)を気にしながら、更(さら)に声(こえ)を低(ひく)めた。
「怖(こわ)がるこたァねえから、後(あと)ずさりをしねえで、落着(おちつ)いていてくんねえ。おいらァ何(なに)も、久(ひさ)し振(ぶ)りに会(あ)った妹(いもうと)を、取(と)って食(く)おうたァいやァしねえ」
「あかりを、つけさせておくんなさい」
「おっと、そんな事をされちゃァたまらねえ。暗(やみ)でもてえげえ見(み)えるだろうが、おいらァ堅気(かたぎ)の商人(しょうにん)で、四角(かく)い帯(おび)を、うしろで結(むす)んで来(き)た訳(わけ)じゃねえんだ。面目(めんぼく)ねえが五一三分六(ごいちさぶろく)のやくざ者(もの)だ。おめえやお袋(ふくろ)に、会(あ)わせる顔(かお)はねえンだが、ちっとばかり、人(ひと)に頼(たの)まれたことがあって、義理(ぎり)に挟(はさ)まれてやって来(き)たのよ。おせん、済(す)まねえが、おいらの頼(たの)みを聞(き)いてくんねえ」
「そりゃまた兄(あに)さん、どのようなことでござんす」
「どうのこうのと、話(はな)せば長(なげ)え訳合(わけあい)だが、手(て)ッ取早(とりばや)くいやァ、おいらァ金(かね)が入用(いりよう)なんだ」
「お金(かね)とえ」
「そうだ」
「あたしゃ、お金(かね)なんぞ。……」
「まァ待(ま)った。藪(やぶ)から棒(ぼう)に飛(と)び込(こ)んで来(き)た、おいらの口(くち)からこういったんじゃ、おめえがかぶりを振(ふ)るのももっともだが、こっちもまんざら目算(もくさん)なしで、出(で)かけて来(き)たという訳(わけ)じゃねえ。そこにゃちっとばかり、見(み)かけた蔓(つる)があってのことよ。――のうおせん。おめえは通油町(とおりあぶらちょう)の、橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)を知(し)ってるだろう」
「なんとえ」
「徳太郎(とくたろう)という、始末(しまつ)の良(よ)くねえ若旦那(わかだんな)だ」
「さァ、知(し)ってるような、知(し)らないような。……」
「ここァ別(べつ)に白洲(しらす)じゃねえから、隠(かく)しだてにゃ及(およ)ばねえぜ。知(し)らねえといったところが、どうでそれじゃァ通(とお)らねえんだ。先(さき)ァおめえに、家蔵(いえくら)売(う)ってもいとわぬ程(ほど)の、首(くび)ッたけだというじゃねえか」
「まァ兄(にい)さん」
「恥(はず)かしがるにゃァ当(あた)らねえ。何(なに)もこっちから、血道(ちみち)を上(あ)げてるという訳(わけ)じゃなし、おめえに惚(ほ)れてるな、向(むこ)う様(さま)の勝手次第(かってしだい)だ。――おせん。そこでおめえに相談(そうだん)だが、ひとつこっちでも、気(き)のある風(ふう)をしちゃあくれめえか」
「えッ」
「おめえも十八だというじゃァねえか。もうてえげえ、そのくれえの芸当(げいとう)は、出来(でき)ても辱(はじ)にゃァなるめえぜ」
 千吉(きち)は、たじろぐおせんを見詰(みつ)めながら、四角(かく)く坐(すわ)って詰(つ)め寄(よ)った。

    七

「もし、兄(あに)さん」
 月(つき)は雲(くも)に覆(おお)われたのであろう。障子(しょうじ)を漏(も)れる光(ひかり)さえない部屋(へや)の中(なか)は、僅(わず)かに隣(となり)から差(さ)す行燈(あんどん)の方影(かたかげ)に、二人(ふたり)の半身(はんしん)を淡(あわ)く見(み)せているばかり、三年(ねん)振(ぶ)りで向(む)き合(あ)った兄(あに)の顔(かお)も、おせんははっきり見極(みきわ)めることが出来(でき)なかった。
 その方暗(かたやみ)の中(なか)に、おせんの声(こえ)は低くふるえた。
「兄(あに)さん」
「え」
「帰(かえ)っておくんなさい」
「何(な)んだって。おいらに帰(けえ)れッて」
「あい」
「冗談(じょうだん)じゃねえ。用(よう)がありゃこそ、わざわざやって来(き)たんだ。なんでこのまま帰(けえ)れるものか。そんなことよりおいらの頼(たの)みを、素直(すなお)にきいてもらおうじゃねえか。おめえさえ首(くび)を縦(たて)に振(ふ)ってくれりゃァ、からきし訳(わけ)はねえことなんだ。のうおせん。赤(あか)の他人(たにん)でさえ、事(こと)を分(わ)けて、かくかくの次第(しだい)と頼(たの)まれりゃ、いやとばかりゃァいえなかろう。おいらァおめえの兄貴(あにき)だよ。――血(ち)を分(わ)けた、たった一人(ひとり)の兄貴(あにき)だよ。それも、百とまとまった金(かね)が入用(いりよう)だという訳(わけ)じゃねえ。四半分(はんぶん)の二十五両(りょう)で事(こと)が済(す)むんだ」
「二十五両(りょう)。――」
「みっともねえ。驚(おどろ)く程(ほど)の高(たか)でもあるめえ」
「でも、そんなお金(かね)は。……」
「だからよ。初手(しょて)からいってる通(とお)り、おめえやお袋(ふくろ)の臍(へそ)くりから、引(ひ)っ張(ぱ)り出(だ)そうたァいやァしねえや。狙(ねら)いをつけたなあの若旦那(わかだんな)、橘屋(たちばなや)の徳太郎(とくたろう)というでくの棒(ぼう)よ。ふふふふ。何(な)んの雑作(ぞうさ)もありァしねえ。おめえがここでたった一言(ひとこと)。おなつかしゅうござんす、とかなんとかいってくれさえすりァ、おいらの頼(たの)みァ聴(き)いてもらえようッてんだ。お釈迦(しゃか)が甘茶(あまちゃ)で眼病(めやみ)を直(なお)すより、もっとわけねえ仕事(しごと)じゃねえか」
「それでもあたしゃ。心(こころ)にもないことをいって。……」
「そ、その料簡(りょうけん)がいけねえんだ。腹(はら)にあろうがなかろうが、武士(ぶし)は戦略(せんりゃく)、坊主(ぼうず)は方便(ほうべん)、時(とき)と場合(ばあい)じゃ、人(ひと)の寝首(ねくび)をかくことさえあろうじゃねえか。――さ、ここに筆(ふで)と紙(かみ)がある。いろはのいの字(じ)とろの字(じ)を書(か)いて、いろよい返事(へんじ)をしてやんねえ」
 千吉(きち)がふところから取出(とりだ)したのは、巻紙(まきがみ)と矢立(やたて)であった。
 おせんは、あわてて手(て)を引(ひ)ッ込(こ)めた。
「堪忍(かんにん)しておくんなさい」
「何(なに)もあやまるこたァありゃァしねえ。暗(くら)くッて書(か)けねえというンなら、仕方(しかた)がねえ。行燈(あんどん)をつけてやる」
「もし。――」
 今度(こんど)はおせんが、千吉(きち)の手(て)をおさえた。
「何(なに)をするんだ」
「あたしゃ、どうでもいやでござんす」
「そんならこれ程(ほど)までに、頭(あたま)をさげて頼(たの)んでもか」
「外(ほか)のこととは訳(わけ)が違(ちが)い、あたしゃ数(かず)あるお客(きゃく)のうちでも、いの一番(ばん)に嫌(きら)いなお人(ひと)、たとえ嘘(うそ)でも冗談(じょうだん)でも、気(き)の済(す)まないことはいやでござんす」
「おせん。
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