おせん
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著者名:邦枝完二 

  虫(むし)


    一

「おッとッとッと。そう乗(のり)出(だ)しちゃいけない。垣根(かきね)がやわだ。落着(おちつ)いたり、落着(おちつ)いたり」
「ふふふ。あわててるな若旦那(わかだんな)、あっしよりお前(まえ)さんでげしょう」
「叱(し)ッ、静(しず)かに。――」
「こいつァまるであべこべだ。どっちが宰領(さいりょう)だかわかりゃァしねえ」
 が、それでも互(たがい)の声(こえ)は、ひそやかに触(ふ)れ合(あ)う草(くさ)の草(は)ずれよりも低(ひく)かった。
「まだかの」
「まだでげすよ」
「じれッてえのう、向(むこ)う臑(ずね)を蚊(か)が食(く)いやす」
「御辛抱(ごしんぼう)、御辛抱(ごしんぼう)。――」
 谷中(やなか)の感応寺(かんおうじ)を北(きた)へ離(はな)れて二丁(ちょう)あまり、茅葺(かやぶき)の軒(のき)に苔(こけ)持(も)つささやかな住居(すまい)ながら垣根(かきね)に絡(から)んだ夕顔(ゆうがお)も白(しろ)く、四五坪(つぼ)ばかりの庭(にわ)一杯(ぱい)に伸(の)びるがままの秋草(あきぐさ)が乱(みだ)れて、尾花(おばな)に隠(かく)れた女郎花(おみなえし)の、うつつともなく夢見(ゆめみ)る風情(ふぜい)は、近頃(ちかごろ)評判(ひょうばん)の浮世絵師(うきよえし)鈴木晴信(すずきはるのぶ)が錦絵(にしきえ)をそのままの美(うつく)しさ。次第(しだい)に冴(さ)える三日月(みかづき)の光(ひか)りに、あたりは漸(ようや)く朽葉色(くちばいろ)の闇(やみ)を誘(さそ)って、草(くさ)に鳴(な)く虫(むし)の音(ね)のみが繁(しげ)かった。
「松(まっ)つぁん」
「へえ」
「たしかにここに、間違(まちが)いはあるまいの」
「冗談(じょうだん)じゃござんせんぜ、若旦那(わかだんな)。こいつを間違(まちが)えたんじゃ、松(まつ)五郎(ろう)めくら犬(いぬ)にも劣(おと)りやさァ」
「だってお前(まえ)、肝腎(かんじん)の弁天様(べんてんさま)は、かたちどころか、影(かげ)も見(み)せやしないじゃないか」
「御辛抱(ごしんぼう)、御辛抱(ごしんぼう)、急(せ)いちゃァ事(こと)を仕損(しそん)じやす」
「ここへ来(き)てから、もう半時近(はんときちか)くも経(た)ってるんだよ。それだのにお前(まえ)。――」
「でげすから、あっしは浅草(おくやま)を出(で)る時(とき)に、そう申(もう)したじゃござんせんか。松(まつ)の位(くらい)の太夫(たゆう)でも、花魁(おいらん)ならば売(う)り物(もの)買(か)い物(もの)。耳(みみ)のほくろはいうに及(およ)ばず、足(あし)の裏(うら)の筋数(すじかず)まで、読(よ)みたい時(とき)に読(よ)めやすが、きょうのはそうはめえりやせん。半時(はんとき)はおろか、事(こと)によったら一時(いっとき)でも二時(ふたとき)でも、垣根(かきね)のうしろにしゃがんだまま、お待(ま)ちンならなきゃいけませんと、念(ねん)をお押(お)し申(もう)した時(とき)に、若旦那(わかだんな)、あなたは何(な)んと仰(おっ)しゃいました。当時(とうじ)、江戸(えど)の三人女(にんおんな)の随(ずい)一と名(な)を取(と)った、おせんの肌(はだ)が見(み)られるなら、蚊(か)に食(く)われようが、虫(むし)に刺(さ)されようが、少(すこ)しも厭(いと)うことじゃァない、好(す)きな煙草(たばこ)も慎(つつし)むし、声(こえ)も滅多(めった)に出(だ)すまいから、何(な)んでもかんでもこれから直(す)ぐに連(つ)れて行(い)け。その換(かわ)りお礼(れい)は二分(ぶ)まではずもうし、羽織(はおり)もお前(まえ)に進呈(しんてい)すると、これこの通(とお)りお羽織(はおり)まで下(くだ)すったんじゃござんせんか。それだのに、まだほんの、半時(はんとき)経(た)つか経(た)たないうちから、そんな我儘(わがまま)をおいいなさるんじゃ、お約束(やくそく)が違(ちが)いやす。頂戴物(ちょうだいもの)は、みんなお返(かえ)しいたしやすから、どうか松(まつ)五郎(ろう)に、お暇(ひま)をおくんなさいやして。……」
「おっとお待(ま)ち。あたしゃ何(なに)も、辛抱(しんぼう)しないたいやァしないよ。ええ、辛抱(しんぼう)しますとも、夜中(よなか)ンなろうが、夜(よ)が明(あ)けようが、ここは滅多(めった)に動(うご)くンじゃないけれど、お前(まえ)がもしか門違(かどちが)いで、おせんの家(うち)でもない人(ひと)の……」
「そ、それがいけねえというんで。……いくらあっしが酔狂(すいきょう)でも、若旦那(わかだんな)を知(し)らねえ家(いえ)の垣根(かきね)まで、引(ひ)っ張(ぱ)って来(く)る筈(はず)ァありませんや。松(まつ)五郎(ろう)自慢(じまん)の案内役(あんないやく)、こいつばかりゃ、たとえ江戸(えど)がどんなに広(ひろ)くッても――」
「叱(し)ッ」
「うッ」
 帯(おび)ははやりの呉絽(ごろ)であろう。引(ひ)ッかけに、きりりと結(むす)んだ立姿(たちすがた)、滝縞(たきじま)の浴衣(ゆかた)が、いっそ背丈(せたけ)をすっきり見(み)せて、颯(さっ)と簾(すだれ)の片陰(かたかげ)から縁先(えんさき)へ浮(う)き出(で)た十八娘(むすめ)。ぽつんと一本(ぽん)咲(さ)き初(はじ)めた、桔梗(ききょう)の花(はな)のそれにも増(ま)して、露(つゆ)は紅(べに)より濃(こま)やかであった。
 明和(めいわ)戌年(いぬどし)秋(あき)八月(がつ)、そよ吹(ふ)きわたるゆうべの風(かぜ)に、静(しず)かに揺(ゆ)れる尾花(おばな)の波路(なみじ)。娘(むすめ)の手(て)から、団扇(うちわ)が庭(にわ)にひらりと落(お)ちた。

    二

 顔(かお)を掠(かす)めて、ひらりと落(お)ちた桔梗(ききょう)の花(はな)のひとひらにさえ、音(おと)も気遣(きづか)う心(こころ)から、身動(みうご)きひとつ出来(でき)ずにいた、日本橋通(にほんばしとおり)油町(あぶらちょう)の紙問屋(かみどんや)橘屋徳兵衛(たちばなやとくべえ)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)と、浮世絵師(うきよえし)春信(はるのぶ)の彫工(ほりこう)松(まつ)五郎(ろう)の眼(め)は、釘着(くぎづ)けにされたように、夕顔(ゆうがお)の下(した)から離(はな)れなかった。
 が、よもやおのが垣根(かきね)の外(そと)に、二人(ふたり)の男(おとこ)が示(しめ)し合(あわ)せて、眼(め)をすえていようとは、夢想(むそう)もしなかったのであろう。娘(むすめ)は落(お)ちた団扇(うちわ)を流(なが)し目(め)に、呉絽(ごろ)の帯(おび)に手(て)をかけると、廻(まわ)り燈籠(どうろう)の絵(え)よりも速(はや)く、きりりと廻(まわ)ったただずまい、器用(きよう)に帯(おび)から脱(ぬ)け出(だ)して、さてもう一廻(まわ)り、ゆるりと廻(まわ)った爪先(つまさき)を縁(えん)に停(とど)めたその刹那(せつな)、俄(にわか)に音(ね)を張(は)る鈴虫(すずむし)に、浴衣(ゆかた)を肩(かた)から滑(すべ)らせたまま、半身(はんしん)を縁先(えんさき)へ乗(の)りだした。
「南無(なむ)大願成就(だいがんじょうじゅ)。――」
「叱(し)ッ」
 あとには再(ふたた)び虫(むし)の声(こえ)。
 京師(けいし)の、花(はな)を翳(かざ)して過(すご)す上臈(じょうろう)達(たち)はいざ知(し)らず、天下(てんか)の大将軍(だいしょうぐん)が鎮座(ちんざ)する江戸(えど)八百八町(ちょう)なら、上(うえ)は大名(だいみょう)の姫君(ひめぎみ)から、下(した)は歌舞(うたまい)の菩薩(ぼさつ)にたとえられる、よろず吉原(よしわら)千の遊女(ゆうじょ)をすぐっても、二人(ふたり)とないとの評判娘(ひょうんばんむすめ)。下谷(したや)谷中(やなか)の片(かた)ほとり、笠森稲荷(かさもりいなり)の境内(けいだい)に、行燈(あんどん)懸(か)けた十一軒(けん)の水茶屋娘(みずちゃやむすめ)が、三十余人(よにん)束(たば)になろうが、縹緻(きりょう)はおろか、眉(まゆ)一つ及(およ)ぶ者(もの)がないという、当時(とうじ)鈴木春信(すずきはるのぶ)が一枚刷(まいずり)の錦絵(にしきえ)から、子供達(こどもたち)の毬唄(まりうた)にまで持(も)て囃(はや)されて、知(し)るも知(し)らぬも、噂(うわさ)の花(はな)は咲(さ)き放題(ほうだい)、かぎ屋(や)のおせんならでは、夜(よ)も日(ひ)も明(あ)けぬ煩悩(ぼんのう)は、血気盛(けっきざか)りの若衆(わかしゅう)ばかりではないらしく、何(なに)ひとつ心願(しんがん)なんぞのありそうもない、五十を越(こ)した武家(ぶけ)までが、雪駄(せった)をちゃらちゃらちゃらつかせてお稲荷詣(いなりもう)でに、御手洗(みたらし)の手拭(てぬぐい)は、常(つね)に乾(かわ)くひまとてないくらいであった。
 橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)も、この例(れい)に漏(も)れず、日(ひ)に一度(ど)は、判(はん)で捺(お)したように帳場格子(ちょうばごうし)の中(なか)から消(き)えて、目指(めざ)すは谷中(やなか)の笠森様(かさもりさま)、赤(あか)い鳥居(とりい)のそれならで、赤(あか)い襟(えり)からすっきりのぞいたおせんが雪(ゆき)の肌(はだ)を、拝(おが)みたさの心願(しんがん)に外(ほか)ならならなかったのであるが、きょうもきょうとて浅草(あさくさ)の、この春(はる)死(し)んだ志道軒(しどうけん)の小屋前(こやまえ)で、出会頭(であいがしら)に、ばったり遭(あ)ったのが彫工(ほりこう)の松(まつ)五郎(ろう)、それと察(さっ)した松(まつ)五郎(ろう)から、おもて飾(かざ)りを見(み)るなんざ大野暮(おおやぼ)の骨頂(こっちょう)でげす。おせんの桜湯(さくらゆ)飲(の)むよりも、帯紐(おびひも)解(と)いた玉(たま)の肌(はだ)が見(み)たかァござんせんかとの、思(おも)いがけない話(はなし)を聞(き)いて、あとはまったく有頂天(うちょうてん)、どこだどこだと訪(たず)ねるまでもなく、二分(ぶ)の礼(れい)と着ていた羽織(はおり)を渡(わた)して、無我夢中(むがむちゅう)は、やがてこの垣根(かきね)の外(そと)となった次第(しだい)。――百匹(ぴき)の蚊(か)が一度(ど)に臑(すね)にとまっても、痛(いた)さもかゆさも感(かん)じない程(ほど)、徳太郎(とくたろう)の眼(め)は、野犬(やけん)のようにすわっていた。
「若旦那(わかだんな)」
「黙(だま)って。――」
「黙(だま)ってじゃァござんせん。もっと低(ひく)くおなんなすって。――」
「判(わか)ってるよ」
「そんならお速(はや)く」
「ええもういらぬお接介(せっかい)。――」
 おおかた、縁(えん)から上手(かみて)へ一段(だん)降(お)りて戸袋(とぶくろ)の蔭(かげ)には既(すで)に盥(たらい)が用意(ようい)されて、釜(かま)で沸(わか)した行水(ぎょうずい)の湯(ゆ)が、かるい渦(うず)を巻(ま)いているのであろうが、上半身(じょうはんしん)を現(あら)わにしたまま、じっと虫(むし)の音(ね)に聴(き)きいっているおせんは、容易(ようい)に立(た)とうとしないばかりか、背(せ)から腰(こし)へと浴衣(ゆかた)の滑(すべ)り落(お)ちるのさえ、まったく気(き)づかぬのであろう。三日月(みかづき)の淡(あわ)い光(ひかり)が青(あお)い波紋(はもん)を大(おお)きく投(な)げて、白珊瑚(しろさんご)を想(おも)わせる肌(はだ)に、吸(す)い着(つ)くように冴(さ)えてゆく滑(なめ)らかさが、秋草(あきぐさ)の上(うえ)にまで映(は)え盛(さか)ったその刹那(せつな)、ふと立上(たちあが)ったおせんは、颯(さっ)と浴衣(ゆかた)をかなぐり棄(す)てると手拭(てぬぐい)片手(かたて)に、上手(かみて)の段(だん)を二段(だん)ばかり、そのまま戸袋(とぶくろ)の蔭(かげ)に身(み)を隠(かく)した。
「あッ」
「たッ」
 辱(はじ)も外聞(がいぶん)も忘(わす)れ果(は)てたか、徳太郎(とくたろう)と松(まつ)五郎(ろう)の口(くち)からは、同時(どうじ)に奇声(きせい)が吐(は)きだされた。

    三

「おせんや」
「あい」
「何(な)んだえ、いまのあの音(おと)は。――」
「さァ、何(な)んでござんしょう。おおかた金魚(きんぎょ)を狙(ねら)う、泥棒猫(どろぼうねこ)かも知(し)れませんよ」
「そんならいいが、あたしゃまたおまえが転(ころ)びでもしたんじゃないかと思(おも)って、びっくりしたのさ。おまえあって、あたし、というより、勿体(もったい)ないが、おまえあってのお稲荷様(いなりさま)、滅多(めった)に怪我(けが)でもしてごらん、それこそ御参詣(おさんけい)が、半分(はんぶん)に減(へ)ってしまうだろうじゃないか。――縹緻(きりょう)がよくって孝行(こうこう)で、その上(うえ)愛想(あいそう)ならとりなしなら、どなたの眼(め)にも笠森(かさもり)一、お腹(なか)を痛(いた)めた娘(むすめ)を賞(ほ)める訳(わけ)じゃないが、あたしゃどんなに鼻(はな)が高(たか)いか。……」
「まァお母(かあ)さん。――」
「いいやね。恥(はず)かしいこたァありゃァしない。子(こ)を賞(ほ)める親(おや)は、世間(せけん)には腐(くさ)る程(ほど)あるけれど、どれもこれも、これ見(み)よがしの自慢(じまん)たらたら。それと違(ちが)ってあたしのは、おまえに聞(き)かせるお礼(れい)じゃないか。さ、ひとつついでに、背中(せなか)を流(なが)してあげようから、その手拭(てぬぐい)をこっちへお出(だ)し」
「いいえ、汗(あせ)さえ流(なが)せばようござんすから……」
「何(なに)をいうのさ。いいからこっちへお向(む)きというのに」
 二十二で伜(せがれ)の千吉(きち)を生(う)み、二十六でおせんを生(う)んだその翌年(よくねん)、蔵前(くらまえ)の質見世(しちみせ)伊勢新(いせしん)の番頭(ばんとう)を勤(つと)めていた亭主(ていしゅ)の仲吉(なかきち)が、急病(きゅうびょう)で亡(な)くなった、幸(こう)から不幸(ふこう)への逆落(さかおと)しに、細々(ほそぼそ)ながら人(ひと)の縫物(ぬいもの)などをさせてもらって、その日(ひ)その日(ひ)を過(す)ごして早(はや)くも十八年(ねん)。十八に家出(いえで)をしたまま、いまだに行方(ゆくえ)も知(し)れない伜(せがれ)千吉(きち)の不甲斐(ふがい)なさは、思(おも)いだす度毎(たびごと)にお岸(きし)が涙(なみだ)の種(たね)ではあったが、踏(ふ)まれた草(くさ)にも花咲(はなさ)くたとえの文字通(もじどお)り、去年(きょねん)の梅見時分(うめみじぶん)から伊勢新(いせしん)の隠居(いんきょ)の骨折(ほねお)りで、出(だ)させてもらった笠森稲荷(かさもりいなり)の水茶屋(みずぢゃや)が忽(たちま)ち江戸中(えどじゅう)の評判(ひょうばん)となっては、凶(きょう)が大吉(だいきち)に返(かえ)った有難(ありがた)さを、涙(なみだ)と共(とも)に喜(よろこ)ぶより外(ほか)になく、それにつけても持(も)つべきは娘(むすめ)だと、近頃(ちかごろ)、お岸(きし)が掌(て)を合(あわ)せるのは、笠森様(かさもりさま)ではなくておせんであった。
「おせん」
「あい」
「つかぬことを訊(き)くようだが、おまえ毎日(まいにち)見世(みせ)へ出(で)ていて、まだこれぞと思(おも)う、好(す)いたお方(かた)は出来(でき)ないのかえ」
「まあ何(なに)かと思(おも)えばお母(かあ)さんが。――あたしゃそんな人(ひと)なんか、ひとりもありァしませんよ」
「ほほほほ。お怒(おこ)りかえ」
「怒(おこ)りゃしませんけれど、あたしゃ男(おとこ)は嫌(きら)いでござんす」
「なに、男(おとこ)は嫌(きら)いとえ」
「あい」
「ほんにまァ。――」
 この春(はる)まで、まだまだ子供(こども)と思(おも)っていたおせんとは、つい食違(くいちが)って、一つ盥(たらい)で行水(ぎょうずい)つかう折(おり)もないところから、お岸(きし)はいまだにそのままのなりかたちを想像(そうぞう)していたのであったが、ふとした物音(ものおと)に駆(か)け着(つ)けたきっかけに、半年振(はんとしぶり)で見(み)たおせんの体(からだ)は、まったく打(う)って変(か)わった大人(おとな)びよう。七八つの時分(じぶん)から、鴉(からす)の生(う)んだ鶴(つる)だといわれたくらい、色(いろ)の白(しろ)いが自慢(じまん)は知(し)れていたものの、半年(はんとし)見(み)ないと、こうも変(かわ)るものかと驚(おどろ)くばかりの色(いろ)っぽさは、肩(かた)から乳(ちち)へと流(なが)れるほうずきのふくらみをそのままの線(せん)に、殊(こと)にあらわの波(なみ)を打(う)たせて、背(せ)から腰(こし)への、白薩摩(しろさつま)の徳利(とくり)を寝(ね)かしたような弓(ゆみ)なりには、触(さわ)ればそのまま手先(てさき)が滑(すべ)り落(お)ちるかと、怪(あや)しまれるばかりの滑(なめ)らかさが、親(おや)の目(め)にさえ迫(せま)らずにはいなかった。
 嫌(きら)いな客(きゃく)が百人(にん)あっても、一人(ひとり)は好(す)きがあろうかと、訊(き)いて見(み)たいは、娘(むすめ)もつ親(おや)の心(こころ)であろう。

    四

「若旦那(わかだんな)」
「何(な)んとの」
「何(な)んとの、じゃァござんせんぜ。あの期(ご)に及(およ)んで、垣根(かきね)へ首(くび)を突込(つっこ)むなんざ、情(なさけ)なすぎて、涙(なみだ)が出(で)るじゃァござんせんか」
「おやおや、これはけしからぬ。お前(まえ)が腰(こし)を押(お)したからこそ、あんな態(ざま)になったんじゃないか、それを松(まつ)つぁん、あたしにすりつけられたんじゃ、おたまり小法師(こぼし)がありゃァしないよ」
「あれだ、若旦那(わかだんな)。あっしゃァ後(うしろ)にいたんじゃねえんで。若旦那(わかだんな)と並(なら)んで、のぞいてたんじゃござんせんか。腰(こし)を押(お)すにも押(お)さないにも、まず、手(て)が届(とど)きゃァしませんや。――それにでえいち、あの声(こえ)がいけやせん。おせんの浴衣(ゆかた)が肩(かた)から滑(すべ)るのを、見(み)ていなすったまでは無事(ぶじ)でげしたが、さっと脱(ぬ)いで降(お)りると同時(どうじ)に、きゃっと聞(き)こえた異様(いよう)な音声(おんせい)。差(さ)し詰(づめ)志道軒(しどうけん)なら、一天(てん)俄(にわか)にかき曇(くも)り、あれよあれよといいもあらせず、天女(てんにょ)の姿(すがた)は忽(たちま)ちに、隠(かく)れていつか盥(たらい)の中(なか)。……」
「おいおい松(まっ)つぁん。いい加減(かげん)にしないか。声(こえ)を出(だ)したなお前(まえ)が初(はじ)めだ」
「おやいけねえ。いくら主(しゅ)と家来(けらい)でも、あっしにばかり、罪(つみ)をなするなひどうげしょう」
「ひどいことがあるもんか。これからゆっくりかみしめて、味(あじ)を見(み)ようというところで、お前(まえ)に腰(こし)を押(お)されたばっかりに、それごらん、手(て)までこんなに傷(きず)だらけだ」
「そんならこれでもお付(つ)けなんって。……おっとしまった。きのうかかあが洗(あら)ったんで、まるっきり袂(たもと)くそがありゃァしねえ」
「冗談(じょうだん)いわっし、お前(まえ)の袂(たもと)くそなんぞ付(つ)けられたら、それこそ肝腎(かんじん)の人(ひと)さし指(ゆび)が、本(もと)から腐(くさ)って落(お)ちるわな」
「あっしゃァまだ瘡気(かさけ)の持合(もちあわ)せはござせんぜ」
「なにないことがあるものか。三日(みっか)にあげず三枚橋(まいばし)へ横丁(よこちょう)へ売女(やまねこ)を買(か)いに出(で)かけてるじゃないか。――鼻(はな)がまともに付(つ)いてるのが、いっそ不思議(ふしぎ)なくらいなものだ」
「こいつァどうも御挨拶(ごあいさつ)だ。人(ひと)の知(し)らない、おせんの裸(はだか)をのぞかせた挙句(あげく)、鼻(はな)のあるのが不思議(ふしぎ)だといわれたんじゃ、松(まつ)五郎(ろう)立(た)つ瀬(せ)がありやせん。冗談(じょうだん)は止(よ)しにして、ひとつ若旦那(わかだんな)、縁起直(えんぎなお)しに、これから眼(め)の覚(さ)めるとこへ、お供(とも)をさせておくんなさいまし」
「眼(め)の覚(さ)めるとことは。――」
「おとぼけなすっちゃいけません。闇(やみ)の夜(よ)のない女護(にょご)ヶ島(しま)、ここから根岸(ねぎし)を抜(ぬ)けさえすりゃァ、眼(め)をつぶっても往(い)けやさァね」
「折角(せっかく)だが、そんな所(ところ)は、あたしゃきょうから嫌(きら)いになったよ」
「なんでげすって」
「橘屋徳太郎(たちばなやとくたろう)、女房(にょうぼう)はかぎ屋のおせんにきめました」
「と、とんでもねえ、若旦那(わかだんな)。おせんはそんななまやさしい。――」
「おっと皆(みな)までのたまうな。手前(てまえ)、孫呉(そんご)の術(じゅつ)を心得(こころえ)て居(お)りやす」
「損(そん)五も得(とく)七もありゃァしません。当時(とうじ)名代(なだい)の孝行娘(こうこうむすめ)、たとい若旦那(わかだんな)が、百日(にち)お通(かよ)いなすっても、こればっかりは失礼(しつれい)ながら、及(およ)ばぬ鯉(こい)の滝登(たきのぼ)りで。……」
「松(まつ)っぁん」
「へえ」
「帰(かえ)っとくれ」
「えッ」
「あたしゃ何(な)んだか頭痛(ずつう)がして来(き)た。もうお前(まえ)さんと、話(はなし)をするのもいやンなったよ」
「そ、そんな御無態(ごむたい)をおいいなすっちゃ。――」
「どうせあたしゃ無態(むたい)さ。――この煙草入(たばこいれ)もお前(まえ)に上(あ)げるから、とっとと帰(かえ)ってもらいたいよ」
 三日月(みかづき)に、谷中(やなか)の夜道(よみち)は暗(くら)かった。その暗(くら)がりをただ独(ひと)り鳴(な)く、蟋蟀(こおろぎ)を踏(ふ)みつぶす程(ほど)、やけな歩(あゆ)みを続(つづ)けて行(い)く、若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)の頭(あたま)の中(なか)は、おせんの姿(すがた)で一杯(ぱい)であった。

    五

「ふん、何(な)んて馬鹿気(ばかげ)た話(はなし)なんだろう。こっちからお頼(たの)み申(もう)して来(き)てもらった訳(わけ)じゃなし。若旦那(わかだんな)が手(て)を合(あわ)せて、たっての頼(たの)みだというからこそ、連(つ)れて来(き)てやったんじゃねえか、そいつを、自分(じぶん)からあわてちまってよ。垣根(かきね)の中(なか)へ突(つ)ンのめったばっかりに、ゆっくり見物(けんぶつ)出来(でき)るはずのおせんの裸(はだか)がちらッとしきゃのぞけなかったんだ。――面白(おもしろ)くもねえ。それもこれも、みんなおいらのせえだッてんじゃ、てんで立(た)つ瀬(せ)がありゃしねえや。どこの殿様(とのさま)がこさえたたとえか知(し)らねえが、長(なが)い物(もの)にゃ巻(ま)かれろなんて、あんまり向(むこ)うの都合(つごう)が良過(よす)ぎるぜ。橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)は、八百蔵(ぞう)に生(い)き写(うつ)しだなんて、つまらねえお世辞(せじ)をいわれるもんだから、当人(とうにん)もすっかりいい気(き)ンなってるんだろうが、八百蔵(ぞう)はおろか、八百屋(や)の丁稚(でっち)にだって、あんな面(つら)があるもんか。飛(と)んだ料簡違(りょうけんちが)いのこんこんちきだ」
 誰(だれ)にいうともない独言(ひとりごと)ながら、吉原(よしわら)への供(とも)まで見事(みごと)にはねられた、版下彫(はんしたぼり)の松(まつ)五郎(ろう)は、止度(とめど)なく腹(はら)の底(そこ)が沸(に)えくり返(かえ)っているのであろう。やがて二三丁(ちょう)も先(さき)へ行(い)ってしまった徳太郎(とくたろう)の背後(はいご)から、浴(あ)びせるように罵(ののし)っていた。
「おいおい松(まっ)つぁん」
「えッ」
「はッはッは。何(なに)をぶつぶついってるんだ。三日月様(みかづきさま)が笑(わら)ってるぜ」
「お前(まえ)さんは。――」
「おれだよ。春重(はるしげ)だよ」
 うしろから忍(しの)ぶようにして付(つ)いて来(き)た男(おとこ)は、そういいながら徐(おもむ)ろに頬冠(ほおかぶ)りをとったが、それは春信(はるのぶ)の弟子(でし)の内(うち)でも、変(かわ)り者(もの)で通(とお)っている春重(はるしげ)だった。
「なァんだ、春重(はるしげ)さんかい。今時分(いまじぶん)、一人(ひとり)でどこへ行(い)きなすった」
「一人(ひとり)でどこへは、そっちより、こっちで訊(き)きたいくらいのもんだ。――お前(まえ)、橘屋(たちばなや)の徳(とく)さんにまかれたな」
「まかれやしねえが、どうしておいらが、若旦那(わかだんな)と一緒(しょ)だったのを知(し)ってるんだ」
「ふふふ。平賀源内(ひらがげんない)の文句(もんく)じゃねえが、春重(はるしげ)の眼(め)は、一里(り)先(さき)まで見透(みとお)しが利(き)くんだからの。お前(まえ)が徳(とく)さんとこで会(あ)って、どこへ行(い)ったかぐらいのこたァ、聞(き)かねえでも、ちゃんと判(わか)ってらァな」
「おやッ、行(い)った先(さき)が判(わか)ってるッて」
「その通(とお)りだ、当(あて)てやろうか」
「冗談(じょうだん)じゃねえ、いくらお前(まえ)さんの眼(め)が利(き)いたにしたって、こいつが判(わか)ってたまるもんか。断(ことわ)っとくが、当時(とうじ)十六文(もん)の売女(やまねこ)なんざ、買(か)いに行(い)きゃァしねえよ」
「だが、あのざまは、あんまり威張(いば)れもしなかろう」
「あのざまたァ何(なに)よ」
「垣根(かきね)へもたれて、でんぐる返(かえ)しを打(う)ったざまだ」
「何(な)んだって」
「おせんの裸(はだか)を窺(のぞ)こうッてえのは、まず立派(りっぱ)な智恵(ちえ)だがの。おのれを忘(わす)れて乗出(のりだ)した挙句(あげく)、垣根(かきね)へ首(くび)を突(つ)っ込(こ)んだんじゃ、折角(せっかく)の趣向(しゅこう)も台(だい)なしだろうじゃねえか」
「そんなら重(しげ)さん、お前(まえ)さんはあの様子(ようす)を。――」
「気(き)の毒(どく)だが、根(ね)こそぎ見(み)ちまったんだ」
「どこで見(み)なすった」
「知(し)れたこった。庭(にわ)の中(なか)でよ」
「庭(にわ)の中(なか)」
「おいらァ泥棒猫(どろぼうねこ)のように、垣根(かきね)の外(そと)でうろうろしちゃァいねえからの。――それ見(み)な。鬼童丸(きどうまる)の故智(こち)にならって、牛(うし)の生皮(なまかわ)じゃねえが、この犬(いぬ)の皮(かわ)を被(かぶ)っての、秋草城(あきくさじょう)での籠城(ろうじょう)だ。おかげで画嚢(がのう)はこの通(とお)り。――」
 懐中(ふところ)から取(と)り出(だ)した春重(はるしげ)の写生帳(しゃせいちょう)には、十数枚(すうまい)のおせんの裸像(らぞう)が様々(さまざま)に描(か)かれていた。

    六

 松(まつ)五郎(ろう)は、狐(きつね)につままれでもしたように、しばし三日月(みかづき)の光(ひかり)に浮(う)いて出(で)たおせんの裸像(らぞう)を、春重(はるしげ)の写生帳(しゃせいちょう)の中(なか)に凝視(ぎょうし)していたが、やがて我(われ)に還(かえ)って、あらためて春重(はるしげ)の顔(かお)を見守(みまも)った。
「重(しげ)さん、お前(まえ)、相変(あいかわ)らず素(す)ばしっこいよ」
「なんでよ」
「犬(いぬ)の皮(かわ)をかぶって、おせんの裸(はだか)を思(おも)う存分(ぞんぶん)見(み)た上(うえ)に写(うつ)し取(と)って来(く)るなんざ、素人(しろうと)にゃ、鯱鉾立(しゃちほこだち)をしても、考(かんが)えられる芸(げい)じゃねえッてのよ」
「ふふふ、そんなこたァ朝飯前(あさめしまえ)だよ。――おいらぁ実(じつ)ァ、もうちっといいことをしてるんだぜ」
「ほう、どんなことを」
「聞(き)きてえか」
「聞(き)かしてくんねえ」
「ただじゃいけねえ、一朱(しゅ)だしたり」
「一朱(しゅ)は高(たけ)えの」
「なにが高(たけ)えものか。時(とき)によったら、安(やす)いくらいのもんだ。――だがきょうは見(み)たところ、一朱(しゅ)はおろか、財布(さいふ)の底(そこ)にゃ十文(もん)もなさそうだの」
「けちなことァおいてくんねえ。憚(はばか)ンながら、あしたあさまで持越(もちこ)したら、腹(はら)が冷(ひ)え切(き)っちまうだろうッてくれえ、今夜(こんや)は財布(さいふ)が唸(うな)ってるんだ」
「それァ豪儀(ごうぎ)だ。ついでだ、ちょいと拝(おが)ませな」
「ふん、重(しげ)さん。眼(め)をつぶさねえように、大丈夫(だいじょうぶ)か」
「小判(こばん)の船(ふね)でも着(つ)きゃしめえし、御念(ごねん)にゃ及(およ)び申(もう)さずだ」
 財布(さいふ)はなかった。が、おおかた晒(さら)しの六尺(しゃく)にくるんだ銭(ぜに)を、内(うち)ぶところから探(さぐ)っているのであろう。松(まつ)五郎(ろう)は暫(しば)しの間(あいだ)、唖(おし)が筍(たけのこ)を掘(ほ)るような恰好(かっこう)をしていたが、やがて握(にぎ)り拳(こぶし)の中(なか)に、五六枚(まい)の小粒(こつぶ)を器用(きよう)に握(にぎ)りしめて、ぱっと春重(はるしげ)の鼻(はな)の先(さき)で展(ひろ)げてみせた。
「どうだ、親方(おやかた)」
「ほう、こいつァ珍(めずら)しい。どこで拾(ひろ)った」
「冗談(じょうだん)いわっし。当節(とうせつ)銭(ぜに)を落(おと)す奴(やつ)なんざ、江戸中(えどじゅう)尋(たず)ねたってあるもんじゃねえ。稼(かせ)えだんだ」
「版下(はんした)か」
「はんははんだが、字(じ)が違(ちが)うやつよ。ゆうべお旗本の蟇(がま)本多(ほんだ)の部屋(へや)で、半(はん)を続(つづ)けて三度(ど)張(は)ったら、いう目(め)が出(で)ての俄(にわか)分限(ぶんげん)での、急(きゅう)に今朝(けさ)から仕事(しごと)をするのがいやンなって、天道様(てんとうさま)がべそをかくまで寝(ね)てえたんだが蝙蝠(こうもり)と一緒(しょ)に、ぶらりぶらりと出(で)たとこを、浅草(あさくさ)でばったり出遭(であ)ったのが若旦那(わかだんな)。それから先(さき)は、お前(まえ)さんに見(み)られた通(とお)りのあの始末(しまつ)だ。――」
「そいつァ夢(ゆめ)に牡丹餅(ぼたもち)だの。十文(もん)と踏(ふ)んだ手(て)の内(うち)が、三両(りょう)だとなりゃァ一朱(しゅ)はあんまり安過(やすす)ぎた。三両(りょう)のうちから一朱(しゅ)じゃァ、髪(かみ)の毛(け)一本(ぽん)、抜(ぬ)くほどの痛(いた)さもあるまいて」
「こいつァ今夜(こんや)のもとでだからの」
「そんなら止(よ)しなっ聞(きか)しちゃやらねえ」
「聞(き)かせねえ」
「だすか」
「仕方(しかた)がねえ、出(だ)しやしょう」
 すると春重(はるしげ)は、きょろりと辺(あたり)を見廻(みまわ)してから、俄(にわか)に首(くび)だけ前(まえ)へ突出(つきだ)した。
「耳(みみ)をかしな」
「こうか」
「――」
「ふふ、ほんとうかい。重(しげ)さん。――」
「嘘(うそ)はお釈迦(しゃか)の御法度(ごはっと)だ」
 痩(やせ)た松(まつ)五郎(ろう)の眼(め)が再(ふたた)び春重(はるしげ)の顔(かお)に戻(もど)った時(とき)、春重(はるしげ)はおもむろに、ふところから何物(なにもの)かを取出(とりだ)して松(まつ)五郎(ろう)の鼻(はな)の先(さき)にひけらかした。

    七

 足(あし)もとに、尾花(おばな)の影(かげ)は淡(あわ)かった。
「なんだい」
「なんだかよく見(み)さっし」
 八の字(じ)を深(ふか)くしながら、寄(よ)せた松(まつ)五郎(ろう)の眼先(めさき)を、ちらとかすめたのは、鶯(うぐいす)の糞(ふん)をいれて使(つか)うという、近頃(ちかごろ)はやりの紅色(べにいろ)の糠袋(ぬかぶくろ)だった。
「こいつァ重(しげ)さん、糠袋(ぬかぶくろ)じゃァねえか」
「まずの」
「一朱(しゅ)はずんで、糠袋(ぬかぶくろ)を見(み)せてもらうどじはあるめえぜ。――お前(めえ)いまなんてッた。おせんの雪(ゆき)のはだから切(き)り取(と)った、天下(てんか)に二つと無(ね)え代物(しろもの)を拝(おが)ませてやるからと。――」
「叱(し)ッ、極内(ごくない)だ」
「だってそんな糠袋(ぬかぶくろ)。……」
「袋(ふくろ)じゃねえよ。おいらの見(み)せるなこの中味(なかみ)だ。文句(もんく)があるンなら、拝(おが)んでからにしてくんな。――それこいつだ。触(さわ)った味(あじ)はどんなもんだの」
 ぐっと伸(の)ばした松(まつ)五郎(ろう)の手先(てさき)へ、春重(はるしげ)は仰々(ぎょうぎょう)しく糠袋(ぬかぶくろ)を突出(つきだ)したが、さて暫(しばら)くすると、再(ふたた)び取(と)っておのが額(ひたい)へ押(お)し当(あ)てた。
「開(あ)けて見(み)せねえ」
「拝(おが)みたけりゃ拝(おが)ませる。だが一つだって分(わ)けちゃァやらねえから、そのつもりでいてくんねえよ」
 そういいながら、指先(ゆびさき)を器用(きよう)に動(うご)かした春重(はるしげ)は、糠袋(ぬかぶくろ)の口(くち)を解(と)くと、まるで金(きん)の粉(こな)でもあけるように、松(まつ)五郎(ろう)の掌(てのひら)へ、三つばかりを、勿体(もったい)らしく盛(も)り上(あ)げた。
「こいつァ重(しげ)さん。――」
「爪(つめ)だ」
「ちぇッ」
「おっとあぶねえ。棄(す)てられて堪(たま)るものか。これだけ貯(た)めるにゃ、まる一年(ねん)かかってるんだ」
 松(まつ)五郎(ろう)の掌(て)へ、おのが掌(て)をかぶせた春重(はるしげ)は、あわてて相手の掌(て)ぐるみ裏返(うらがえ)して、ほっとしたように眼(め)の前(まえ)へ引(ひ)き着(つ)けた。
「湯屋(ゆや)で拾(ひろ)い集(あつ)めた爪(つめ)じゃァねえよ。蚤(のみ)や蚊(か)なんざもとよりのこと、腹(はら)の底(そこ)まで凍(こお)るような雪(ゆき)の晩(ばん)だって、おいらァじっと縁(えん)の下(した)へもぐり込(こ)んだまま辛抱(しんぼう)して来(き)た苦心(くしん)の宝(たから)だ。――この明(あか)りじゃはっきり見分(みわ)けがつくめえが、よく見(み)ねえ。お大名(だいみょう)のお姫様(ひめさま)の爪(つめ)だって、これ程(ほど)の艶(つや)はあるめえからの」
 三日月(みかづき)なりに切(き)ってある、目(め)にいれたいくらいの小(ちい)さな爪(つめ)を、母指(おやゆび)と中指(なかゆび)の先(さき)で摘(つま)んだまま、ほのかな月光(げっこう)に透(すか)した春重(はるしげ)の面(おもて)には、得意(とくい)の色(いろ)が明々(ありあり)浮(うか)んで、はては傍(そば)に松(まつ)五郎(ろう)のいることをさえも忘(わす)れた如(ごと)く、独(ひと)り頻(しき)りにうなずいていたが、ふと向(むこ)う臑(ずね)にたかった藪蚊(やぶか)のかゆさに、漸(ようや)くおのれに還(かえ)ったのであろう。突然(とつぜん)平手(ひらて)で臑(すね)をたたくと、くすぐったそうにふふふと笑(わら)った。
「重(しげ)さん、お前(まえ)まったく変(かわ)り者(もの)だの」
「なんでよ」
「考(かんが)えても見(み)ねえ。これが金(きん)の棒(ぼう)を削(けず)った粉(こな)とでもいうンなら、拾(ひろ)いがいもあろうけれど、高(たか)が女(おんな)の爪(つめ)だぜ。一貫目(かんめ)拾(ひろ)ったところで、□疽(ひょうそ)の薬(くすり)になるくれえが、関(せき)の山(やま)だろうじゃねえか。よく師匠(ししょう)も、春重(はるしげ)は変(かわ)り者(もの)だといってなすったが、まさかこれ程(ほど)たァ思(おも)わなかった」
「おいおい松(まっ)つぁん、はっきりしなよ。おいらが変(かわ)り者(もの)じゃァねえ。世間(せけん)の奴(やつ)らが変(かわ)ってるんだ。それが証拠(しょうこ)にゃ。願(がん)にかけておせんの茶屋(ちゃや)へ通(かよ)う客(きゃく)は山程(やまほど)あっても、爪(つめ)を切(き)るおせんのかたちを、一度(ど)だって見(み)た男(おとこ)は、おそらく一人(ひとり)もなかろうじゃねえか。――そこから生(うま)れたこの爪(つめ)だ」
 一つずつ数(かぞ)えたら、爪(つめ)の数(かず)は、百個(こ)近(ちか)くもあるであろう。春重(はるしげ)は、もう一度(ど)糠袋(ぬかぶくろ)を握(にぎ)りしめて、薄気味悪(うすきみわる)くにやりと笑(わら)った。

  朝(あさ)


    一

 ちち、ちち、ちちち。
 行燈(あんどん)はともしたままになっていたが、外(そと)は既(すで)に明(あ)けそめたのであろう。今(いま)まで流(なが)し元(もと)で頻(しき)りに鳴(な)いていた虫(むし)の音(ね)が、絶(た)えがちに細(ほそ)ったのは、雨戸(あまど)から差(さ)す陽(ひ)の光(ひか)りに、おのずと怯(おび)えてしまったに相違(そうい)ない。
 が、虫(むし)の音(ね)の細(ほそ)ったことも、外(そと)が白々(しらじら)と明(あ)けそめて、路地(ろじ)の溝板(どぶいた)を踏(ふ)む人(ひと)の足音(あしおと)が聞(きこ)えはじめたことも、何(なに)もかも知(し)らずに、ただ独(ひと)り、破(やぶ)れ畳(だたみ)の上(うえ)に据(す)えた寺子屋机(てらこやつくえ)の前(まえ)に頑張(がんば)ったまま、手許(てもと)の火鉢(ひばち)に載(の)せた薬罐(やかん)からたぎる湯気(ゆげ)を、千切(ぎ)れた蟋蟀(こおろぎ)の片脚(かたあし)のように、頬(ほほ)を引(ひ)ッつらせながら、夢中(むちゅう)で吸(す)い続(つづ)けていたのは春重(はるしげ)であった。
 七軒(けん)長屋(ながや)のまん中(なか)は縁起(えんぎ)がよくないという、人(ひと)のいやがるそんまん中(なか)へ、所帯道具(しょたいどうぐ)といえば、土竈(どがま)と七輪(りん)と、箸(はし)と茶碗(ちゃわん)に鍋(なべ)が一つ、膳(ぜん)は師匠(ししょう)の春信(はるのぶ)から、縁(ふち)の欠(か)けた根(ね)ごろの猫脚(ねこあし)をもらったのが、せめて道具(どうぐ)らしい顔(かお)をしているくらいが関(せき)の山(やま)。いわばすッてんてんの着(き)のみ着(き)のままで蛆(うじ)が湧(わ)くのも面白(おもしろ)かろうと、男(おとこ)やもめの垢(あか)だらけの体(からだ)を運(はこ)び込(こ)んだのが、去年(きょねん)の暮(くれ)も押(お)し詰(つま)って、引摺(ひきずり)り餅(もち)が向(むこ)ッ鉢巻(ぱちまき)で練(ね)り歩(ある)いていた、廿五日(にち)の夜(よる)の八つ時(どき)だった。
 ざっと二年(ねん)。きのうもきょうもない春重(はるしげ)のことながら、二十七のきょうの若(わか)さで、女(おんな)の数(かず)は千人(にん)近(ちか)くも知(し)り尽(つく)くしたのが自慢(じまん)なだけに、並大抵(なみたいてい)のことでは興味(きょうみ)が湧(わ)かず、師匠(ししょう)の通(とお)りに描(か)く美人画(びじんが)なら、いま直(す)ぐにも描(か)ける器用(きよう)な腕(うで)が却(かえ)って邪間(じゃま)になって、着物(きもの)なんぞ着(き)た女(おんな)を描(か)いても、始(はじ)まらないとの心(こころ)からであろう。自然(しぜん)の風景(ふうけい)を写(うつ)すほかは、画帳(がちょう)は悉(ことごと)く、裸婦(らふ)の像(ぞう)に満(み)たされているという変(かわ)り様(よう)だった。
 二畳(じょう)に六畳(じょう)の二間(ま)は、狭(せま)いようでも道具(どうぐ)がないので、独(ひと)り住居(ずまい)には広(ひろ)かった。そのぐるりの壁(かべ)に貼(は)りめぐらした絵(え)の数(かず)が、一目(め)で数(かぞ)えて三十余(あま)り、しかも男(おとこ)と名(な)のつく者(もの)は、半分(はんぶん)も描(か)いてあるのではなく、女(おんな)と、いうよりも、殆(ほとん)ど全部(ぜんぶ)が、おせんの様々(さまざま)な姿態(したい)に尽(つく)されているのも凄(すさ)まじかった。
 その六畳(じょう)の行燈(あんどん)の下(した)に、机(つくえ)の上(うえ)から投(な)げ出(だ)されたのであろう、腰(こし)の付根(つけね)から下(した)だけを、幾(いく)つともなく描(か)いた紙片(しへん)が、十枚(まい)近(ちか)くもちらばったのを、時(とき)おりじろりじろりとにらみながら、薬罐(やかん)の湯気(ゆげ)を、鼻(はな)の穴(あな)が開(ひら)きッ放(ぱな)しになる程(ほど)吸(す)い込(こ)んでいた春重(はるしげ)は、ふと、行燈(あんどん)の芯(しん)をかき立(た)てて、薄気味悪(うすきみわる)くニヤリと笑(わら)った。
「ふふふ。わるくねえにおいだ。――世間(せけん)の奴(やつ)らァ智恵(ちえ)なしだから、女(おんな)のにおいは、肌(はだ)からじかでなけりゃ、嗅(か)げねえように思(おも)ってるが、情(なさけ)ねえもんだ。この爪(つめ)が、薬罐(やかん)の中(なか)で煮(に)えくり返(かえ)る甘(あま)い匂(におい)を、一度(ど)でいいから嗅(か)がしてやりてえくれえのもんだ。紅(べに)やおしろいのにおいなんぞたァ訳(わけ)が違(ちが)って、魂(たましい)が極楽遊(ごくらくあそ)びに出(で)かけるたァこのことだろう。おまけにただの駄爪(だつめ)じゃねえ。笠森(かさもり)おせんの、磨(みが)きのかかった珠(たま)のような爪様(つめさま)だ。――大方(おおかた)松(まつ)五郎(ろう)の奴(やつ)ァ、今時分(いまじぶん)、やけで出(で)かけた吉原(よしわら)で、折角(せっかく)拾(ひろ)ったような博打(ばくち)の金(かね)を、手(て)もなく捲揚(まきあ)げられてることだろうが、可哀想(かわいそう)にこうしておせんの脚(あし)を描(か)きながらこの匂(におい)をかいでる気持(きもち)ァ、鯱鉾(しゃちほこ)立(だち)をしたってわかるこッちゃァあるめえて。――ふふふ。もうひと摘(つか)み、新(あたら)しいこいつをいれ、肚(はら)一杯(ぱい)にかぐとしようか」
 春重(はるしげ)は傍(かたわ)らに置(お)いた紅(べに)の糠袋(ぬかぶくろ)を、如何(いか)にも大切(たいせつ)そうに取上(とりあ)げると、おもむろに口紐(くちひも)を解(と)いて、十ばかりの爪(つめ)を掌(てのひら)にあけたが、そのまま湯(ゆ)のたぎる薬罐(やかん)の中(なか)へ、一つ一つ丁寧(ていねい)につまみ込(こ)んだ。
「ふふふ、こいつァいい匂(におい)だなァ。堪(たま)らねえ匂(におい)だ。――笠森(かさもり)の茶屋(ちゃや)で、おせんを見(み)てよだれを垂(た)らしての野呂間達(のろまたち)に、猪口(ちょこ)半分(はんぶん)でいいから、この湯(ゆ)を飲(の)ましてやりてえ気(き)がする。――」
 どこぞの秋刀魚(さんま)を狙(ねら)った泥棒猫(どろぼうねこ)が、あやまって庇(ひさし)から路地(ろじ)へ落(お)ちたのであろう。突然(とつぜん)雨戸(あまど)を倒(たお)したような大(おお)きな音(おと)が窓下(まどした)に聞(きこ)えたが、それでも薬罐(やかん)の中(なか)に埋(う)められた春重(はるしげ)の長(なが)い顔(かお)はただその眉(まゆ)が阿波人形(あわにんぎょう)のように、大(おお)きく動(うご)いただけで、決(けっ)して横(よこ)には向(む)けられなかった。

    二

「おたき」
「え」
「隣(となり)じゃまた、いつもの病(やまい)が始(はじ)まったらしいぜ。何(なに)しろあの匂(におい)じゃ、臭(くさ)くッてたまらねえな」
「ほんとうに、何(な)んて因果(いんが)な人(ひと)なんだろうね。顔(かお)を見(み)りゃ、十人(にん)なみの男前(おとこまえ)だし絵(え)も上手(じょうず)だって話(はなし)だけど、してることは、まるッきり並(なみ)の人間(にんげん)と変(かわ)ってるんだからね」
「おめえ。ちょいと隣(となり)へ行(い)って来(き)ねえ」
「何(なに)しにさ」
「夜(よる)のこたァ、こっちが寝(ね)てるうちだから、何(なに)をしても構(かま)わねえが、お天道様(てんとうさま)が、上(あが)ったら、その匂(におい)だけに止(や)めてもらいてえッてよ。仕事(しごと)に行(い)ったって、えたいの知(し)れぬ匂(におい)が、半纏(はんてん)にまでしみ込(こ)んでるんで、外聞(げえぶん)が悪(わる)くッて仕様(しよう)がありやァしねえ」
「女(おんな)じゃ駄目(だめ)だよ。お前(まえ)さん行(い)って、かけ合(あ)って来(き)とくれよ」
「だからね。おいらァ行(い)くな知(し)ってるが、今(いま)もそいった通(とお)り、帳場(ちょうば)へ出(で)かけてからがみっともなくて仕様(しよう)がねえんだ。あんな匂(におい)の中(なか)へ這入(へえ)っちゃいかれねえッてのよ」
「あたしだっていやだよ。まるで焼場(やきば)のような匂(におい)だもの。きのうだって、髪結(かみゆい)のおしげさんがいうじゃァないか。お上(かみ)さんとこへ結(ゆ)いに行(い)くのもいいけれど、お隣(となり)の壁越(かべご)しに伝(つた)わってくる匂(におい)をかぐと、仏臭(ほとけくさ)いような気(き)がしてたまらないから、なるたけこっちへ、出(で)かけて来(き)てもらいたいって。――いったいお前(まえ)さん、あれァ何(なに)を焼(や)く匂(におい)だと思(おも)ってるの」
「分(わか)ってらァな」
「何(な)んだえ」
「奴(やつ)ァ絵(え)かきッて振(ふ)れ込(こ)みだが、嘘(うそ)ッ八だぜ」
「おや、絵(え)かきじゃないのかい」
「そうとも。奴(やつ)ァ雪駄直(せったなお)しだ」
「雪駄直(せったなお)し。――」
「それに違(ちげ)えねえやな。でえいち、外(ほか)にあんな匂(におい)をさせる家業(かぎょう)が、ある筈(はず)はなかろうじゃねえか。雪駄(せった)の皮(かわ)を、鍋(なべ)で煮(に)るんだ。軟(やわ)らかにして、針(はり)の通(とお)りがよくなるようによ」
「そうかしら」
「しらも黒(くろ)もありァしねえ。それが為(ため)に、忙(いそが)しい時(とき)にゃ、夜(よ)ッぴて鍋(なべ)をかけッ放(はな)しにしとくから、こっちこそいい面(つら)の皮(かわ)なんだ。――この壁(かべ)ンところ鼻(はな)を当(あ)てて臭(か)いで見(み)ねえ。火事場(かじば)で雪駄(せった)の焼(や)け残(のこ)りを踏(ふ)んだ時(とき)と、まるッきり変(かわ)りがねえじゃねえか」
「あたしゃもう、ここにいてさえ、いやな気持(きもち)がするんだから、そんなとこへ寄(よ)るなんざ、真(ま)ッ平(ぴら)よ。――ねえお前(まえ)さん。後生(ごしょう)だから、かけ合(あ)って来(き)とくれよ」
「おめえ行(い)って来(き)ねえ」
「女(おんな)じゃ駄目(だめ)だというのにさ」
「男(おとこ)が行(い)っちゃァ、穏(おだ)やかでねえから、おめえ行(い)きねえッてんだ」
「だって、こんなこたァ、どこの家(うち)だって、みんな亭主(ていしゅ)の役(やく)じゃないか」
「おいらァいけねえ」
「なんて気(き)の弱(よわ)い人(ひと)なんだろう」
「臭(くせ)えからいやなんだ」
「お前(まえ)さんより、女(おんな)だもの。あたしの方(ほう)が、どんなにいやだか知(し)れやしない。――昔(むかし)ッから、公事(くじ)かけ合(あい)は、みんな男(おとこ)のつとめなんだよ」
「ふん。昔(むかし)も今(いま)もあるもんじゃねえ。隣近所(となりきんじょ)のこたァ、女房(にょうぼう)がするに極(きま)ッてらァな。行(い)って、こっぴどくやっ付(つ)けて来(き)ねえッてことよ」
 壁(かべ)一重(え)隣(となり)の左官夫婦(さかんふうふ)が、朝飯(あさめし)の膳(ぜん)をはさんで、聞(きこ)えよがしのいやがらせも、春重(はるしげ)の耳(みみ)へは、秋(あき)の蝿(はえ)の羽(は)ばたき程(ほど)にも這入(はい)らなかったのであろう。行燈(あんどん)の下(した)の、薬罐(やかん)の上(うえ)に負(お)いかぶさったその顔(かお)は、益々(ますます)上気(じょうき)してゆくばかりであった。

    三

「重(しげ)さん。もし、重(しげ)さんは留守(るす)かい。――おやッ、天道様(てんとうさま)が臍(へそ)の皺(しわ)まで御覧(ごらん)なさろうッて真(ま)ッ昼間(ぴるま)、あかりをつけッ放(ぱな)しにしてるなんざ、ひど過(す)ぎるぜ。――寝(ね)ているのかい。起(お)きてるんなら開(あ)けてくんねえ」
 どこかで一杯(ぱい)引(ひ)っかけて来(き)た、酔(よ)いの廻(まわ)った舌(した)であろう。声(こえ)は確(たしか)に彫師(ほりし)の松(まつ)五郎(ろう)であった。
「ふふふふ。とうとう寄(よ)りゃがったな」
 首(くび)をすくめながら、口(くち)の中(なか)でこう呟(つぶや)いた春重(はるしげ)は、それでも爪(つめ)を煮込(にこ)んでいる薬罐(やかん)の傍(そば)から顔(かお)を放(はな)さずに、雨戸(あまど)の方(ほう)を偸(ぬす)み見(み)た。陽(ひ)は高々(たかだか)と昇(のぼ)っているらしく、今(いま)さら気付(きづ)いた雨戸(あまど)の隙間(すきま)には、なだらかな日(ひ)の光(ひかり)が、吹矢(ふきや)で吹(ふ)き込(こ)んだように、こまいの現(あらわ)れた壁(かべ)の裾(すそ)へ流(なが)れ込(こ)んでいた。
「春重(はるしげ)さん。重(しげ)さん。――」
 が、それでも春重(はるしげ)は返事(へんじ)をしずに、そのまま鎌首(かまくび)を上(あ)げて、ひそかに上(あが)りはなの方(ほう)へ這(は)い寄(よ)って行(い)った。
「おかしいな。いねえはずァねえんだが。――あかりをつけて寝(ね)てるなんざ、どっちにしても不用心(ぶようじん)だぜ。おいらだよ。松(まつ)五郎(ろう)様(さま)の御登城(ごとじょう)だよ」
「もし、親方(おやかた)」
 突然(とつぜん)、隣(となり)の女房(にょうぼう)おたきの声(こえ)が聞(き)こえた。
「ねえお上(かみ)さん。ここの家(うち)ァ留守(るす)でげすかい。寝(ね)てるんだか留守(るす)なんだか、ちっともわからねえ」
「いますともさ。だが親方(おやかた)、悪(わる)いこたァいわないから、滅多(めった)に戸(と)を開(あ)けるなァお止(よ)しなさいよ。そこを開(あ)けた日(ひ)にゃ、それこそ生皮(なまかわ)の匂(におい)で、隣近所(となりきんじょ)は大迷惑(おおめいわく)だわな」
「生皮(なまかわ)の匂(におい)ってななんだの、お上(かみ)さん」
「おや、親方(おやかた)にゃこの匂(におい)がわからないのかい。このたまらないいやな匂(におい)が。……」
「判(わか)らねえこたァねえが、こいつァおまえ、膠(にかわ)を煮(に)てる匂(におい)だわな」
「冗談(じょうだん)じゃない。そんな生(なま)やさしいもんじゃありゃァしない。お鍋(なべ)を火鉢(ひばち)へかけて、雪駄(せった)の皮(かわ)を煮(に)てるんだよ。今(いま)もうちで、絵師(えし)なんて振(ふ)れ込(こ)みは、大嘘(おおうそ)だって話(はなし)を。……」
 がらッと雨戸(あまど)が開(あ)いて、春重(はるしげ)の辛(から)い顔(かお)がぬッと現(あらわ)れた。
「お早(は)よう」
「お早(は)ようじゃねえや。何(な)んだって松(まつ)つぁんこんな早(はや)くッからやって来(き)たんだ」
「早(はや)えことがあるもんか。お天道様(てんとうさま)は、もうとっくに朝湯(あさゆ)を済(す)まして、あんなに高(たか)く昇(のぼ)ってるじゃねえか。――いってえ重(しげ)さん。おめえ、寝(ね)てえたんだか起(お)きてたんだか、なぜ返事(へんじ)をしてくれねえんだ」
「返事(へんじ)なんざ、しちゃァいられねえよ。――いいからこっちへ這入(はい)ンねえ」
 不機嫌(ふきげん)な春重(はるしげ)の顔(かお)は、桐油(とうゆ)のように強張(こわば)っていた。
「へえってもいいかい」
「帰(かえ)るんなら帰(かえ)ンねえ」
「いやにおどかすの」
「振(ふ)られた朝帰(あさがえ)りなんぞに寄(よ)られちゃ、かなわねえ」
「ふふふ。振(ふ)られてなんざ来(き)ねえよ。それが証拠(しょうこ)にゃ、いい土産(みやげ)を持(も)って来(き)た」
「土産(みやげ)なんざいらねえから、そこを締(し)めたら、もとの通(とお)り、ちゃんと心張棒(しんばりぼう)をかけといてくんねえ」
「重(しげ)さん、おめえまだ寝(ね)るつもりかい」
「いいから、おいらのいった通(とお)りにしてくんねえよ」
 松(まつ)五郎(ろう)が不承無承(ふしょうぶしょう)に、雨戸(あまど)の心張棒(しんばりぼう)をかうと、九尺(しゃく)二間(けん)の家(うち)の中(なか)は再(ふたた)び元通(もとどお)りの夜(よる)の世界(せかい)に変(かわ)って行(い)った。
「上(あが)ンねえ」
 が、松(まつ)五郎(ろう)は、次第(しだい)に鼻(はな)を衝(つ)いてくる異様(いよう)な匂(におい)に、そのままそこへ佇(たたず)んでしまった。

    四

 行燈(あんどん)はほのかにともっていたものの、日向(ひなた)から這入(はい)って来(き)たばかりの松(まつ)五郎(ろう)の眼(め)には、家(うち)の中(なか)は真(ま)ッ暗闇(くらやみ)であった。
「松(まつ)つぁん、何(な)んで上(あが)らねえんだ」
「暗(くら)くって、足(あし)もとが見(み)えやしねえ」
「不自由(ふじゆう)な眼(まなこ)だの。そんなこっちゃ、面白(おもしろ)い思(おも)いは出来(でき)ねえぜ」
「重(しげ)さん、おめえ、ずっと起(お)きて何(なに)をしてなすった」
「ふふふ。こっちへ上(あが)りゃァ、直(す)ぐに判(わか)るこッた。――まァこの行燈(あんどん)の傍(そば)へ来(き)て見(み)ねえ」
 漸(ようや)く眼(め)に慣(な)れて来(き)たのであろう。行燈(あんどん)の輪(わ)が次第(しだい)に色(いろ)を濃(こ)くするにつれて、狭(せま)いあたりの有様(ありさま)は、おのずから松(まつ)五郎(ろう)の前(まえ)にはっきり浮(う)き出(だ)した。
「絵(え)をかいてたんじゃねえのかい」
「絵(え)なんざかいちゃァいねえよ。――おめえにゃ、この匂(におい)がわからねえかの」
「膠(にかわ)だな」
「ふふ、膠(にかわ)は情(なさけ)ねえぜ」
「じゃァやっぱり、牛(うし)の皮(かわ)でも煮(に)てるのか」
「馬鹿(ばか)をいわッし。おいらが何(な)んで、牛(うし)の皮(かわ)に用(よう)があるんだ。もっともこの薬罐(やかん)の傍(そば)へ鼻(はな)を押(お)ッつけて、よく嗅(か)いで見ねえ」
「おいらァ、こんな匂(におい)は真(ま)ァ平(ぴら)だ」
「何(な)んだって。この匂(におい)がかげねえッて。ふふふ。世(よ)の中(なか)にこれ程(ほど)のいい匂(におい)は、またとあるもんじゃねえや、伽羅沈香(きゃらちんこう)だろうが、蘭麝(らんじゃ)だろうが及(およ)びもつかねえ、勿体(もったい)ねえくれえの名香(めいこう)だぜ。――そんな遠(とお)くにいたんじゃ、本当(ほんとう)の香(かお)りは判(わか)らねえから、もっと薬罐(やかん)の傍(そば)に寄(よ)って、鼻(はな)の穴(あな)をおッぴろげて嗅(か)いで見(み)ねえ」
「いってえ、何(なに)を煮(に)てるのよ」
「江戸(えど)はおろか、日本中(にほんじゅう)に二つとねえ代物(しろもの)を煮(に)てるんだ」
「おどかしちゃいけねえ。そんな物(もの)がある訳(わけ)はなかろうぜ」
「なにねえことがあるものか。――それ見(み)ねえ。おめえ、この袋(ふくろ)にゃ覚(おぼ)えがあろう」
 鼻(はな)の先(さき)へ付(つ)き付(つ)けた紅(べに)の糠袋(ぬかぶくろ)は、春重(はるしげ)の手(て)の中(なか)で、珠(たま)のように小(ちい)さく躍(おど)った。
「あッ。そいつを。……」
「どうだ。おせんの爪(つめ)だ。この匂(におい)を嫌(きら)うようじゃ、男(おとこ)に生(うま)れた甲斐(かい)がねえぜ」
「重(しげ)さん。
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