おせん
是非お友達にも!
★暇つぶし何某★

[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:邦枝完二 

  虫(むし)


    一

「おッとッとッと。そう乗(のり)出(だ)しちゃいけない。垣根(かきね)がやわだ。落着(おちつ)いたり、落着(おちつ)いたり」
「ふふふ。あわててるな若旦那(わかだんな)、あっしよりお前(まえ)さんでげしょう」
「叱(し)ッ、静(しず)かに。――」
「こいつァまるであべこべだ。どっちが宰領(さいりょう)だかわかりゃァしねえ」
 が、それでも互(たがい)の声(こえ)は、ひそやかに触(ふ)れ合(あ)う草(くさ)の草(は)ずれよりも低(ひく)かった。
「まだかの」
「まだでげすよ」
「じれッてえのう、向(むこ)う臑(ずね)を蚊(か)が食(く)いやす」
「御辛抱(ごしんぼう)、御辛抱(ごしんぼう)。――」
 谷中(やなか)の感応寺(かんおうじ)を北(きた)へ離(はな)れて二丁(ちょう)あまり、茅葺(かやぶき)の軒(のき)に苔(こけ)持(も)つささやかな住居(すまい)ながら垣根(かきね)に絡(から)んだ夕顔(ゆうがお)も白(しろ)く、四五坪(つぼ)ばかりの庭(にわ)一杯(ぱい)に伸(の)びるがままの秋草(あきぐさ)が乱(みだ)れて、尾花(おばな)に隠(かく)れた女郎花(おみなえし)の、うつつともなく夢見(ゆめみ)る風情(ふぜい)は、近頃(ちかごろ)評判(ひょうばん)の浮世絵師(うきよえし)鈴木晴信(すずきはるのぶ)が錦絵(にしきえ)をそのままの美(うつく)しさ。次第(しだい)に冴(さ)える三日月(みかづき)の光(ひか)りに、あたりは漸(ようや)く朽葉色(くちばいろ)の闇(やみ)を誘(さそ)って、草(くさ)に鳴(な)く虫(むし)の音(ね)のみが繁(しげ)かった。
「松(まっ)つぁん」
「へえ」
「たしかにここに、間違(まちが)いはあるまいの」
「冗談(じょうだん)じゃござんせんぜ、若旦那(わかだんな)。こいつを間違(まちが)えたんじゃ、松(まつ)五郎(ろう)めくら犬(いぬ)にも劣(おと)りやさァ」
「だってお前(まえ)、肝腎(かんじん)の弁天様(べんてんさま)は、かたちどころか、影(かげ)も見(み)せやしないじゃないか」
「御辛抱(ごしんぼう)、御辛抱(ごしんぼう)、急(せ)いちゃァ事(こと)を仕損(しそん)じやす」
「ここへ来(き)てから、もう半時近(はんときちか)くも経(た)ってるんだよ。それだのにお前(まえ)。――」
「でげすから、あっしは浅草(おくやま)を出(で)る時(とき)に、そう申(もう)したじゃござんせんか。松(まつ)の位(くらい)の太夫(たゆう)でも、花魁(おいらん)ならば売(う)り物(もの)買(か)い物(もの)。耳(みみ)のほくろはいうに及(およ)ばず、足(あし)の裏(うら)の筋数(すじかず)まで、読(よ)みたい時(とき)に読(よ)めやすが、きょうのはそうはめえりやせん。半時(はんとき)はおろか、事(こと)によったら一時(いっとき)でも二時(ふたとき)でも、垣根(かきね)のうしろにしゃがんだまま、お待(ま)ちンならなきゃいけませんと、念(ねん)をお押(お)し申(もう)した時(とき)に、若旦那(わかだんな)、あなたは何(な)んと仰(おっ)しゃいました。当時(とうじ)、江戸(えど)の三人女(にんおんな)の随(ずい)一と名(な)を取(と)った、おせんの肌(はだ)が見(み)られるなら、蚊(か)に食(く)われようが、虫(むし)に刺(さ)されようが、少(すこ)しも厭(いと)うことじゃァない、好(す)きな煙草(たばこ)も慎(つつし)むし、声(こえ)も滅多(めった)に出(だ)すまいから、何(な)んでもかんでもこれから直(す)ぐに連(つ)れて行(い)け。その換(かわ)りお礼(れい)は二分(ぶ)まではずもうし、羽織(はおり)もお前(まえ)に進呈(しんてい)すると、これこの通(とお)りお羽織(はおり)まで下(くだ)すったんじゃござんせんか。それだのに、まだほんの、半時(はんとき)経(た)つか経(た)たないうちから、そんな我儘(わがまま)をおいいなさるんじゃ、お約束(やくそく)が違(ちが)いやす。頂戴物(ちょうだいもの)は、みんなお返(かえ)しいたしやすから、どうか松(まつ)五郎(ろう)に、お暇(ひま)をおくんなさいやして。……」
「おっとお待(ま)ち。あたしゃ何(なに)も、辛抱(しんぼう)しないたいやァしないよ。ええ、辛抱(しんぼう)しますとも、夜中(よなか)ンなろうが、夜(よ)が明(あ)けようが、ここは滅多(めった)に動(うご)くンじゃないけれど、お前(まえ)がもしか門違(かどちが)いで、おせんの家(うち)でもない人(ひと)の……」
「そ、それがいけねえというんで。……いくらあっしが酔狂(すいきょう)でも、若旦那(わかだんな)を知(し)らねえ家(いえ)の垣根(かきね)まで、引(ひ)っ張(ぱ)って来(く)る筈(はず)ァありませんや。松(まつ)五郎(ろう)自慢(じまん)の案内役(あんないやく)、こいつばかりゃ、たとえ江戸(えど)がどんなに広(ひろ)くッても――」
「叱(し)ッ」
「うッ」
 帯(おび)ははやりの呉絽(ごろ)であろう。引(ひ)ッかけに、きりりと結(むす)んだ立姿(たちすがた)、滝縞(たきじま)の浴衣(ゆかた)が、いっそ背丈(せたけ)をすっきり見(み)せて、颯(さっ)と簾(すだれ)の片陰(かたかげ)から縁先(えんさき)へ浮(う)き出(で)た十八娘(むすめ)。ぽつんと一本(ぽん)咲(さ)き初(はじ)めた、桔梗(ききょう)の花(はな)のそれにも増(ま)して、露(つゆ)は紅(べに)より濃(こま)やかであった。
 明和(めいわ)戌年(いぬどし)秋(あき)八月(がつ)、そよ吹(ふ)きわたるゆうべの風(かぜ)に、静(しず)かに揺(ゆ)れる尾花(おばな)の波路(なみじ)。娘(むすめ)の手(て)から、団扇(うちわ)が庭(にわ)にひらりと落(お)ちた。

    二

 顔(かお)を掠(かす)めて、ひらりと落(お)ちた桔梗(ききょう)の花(はな)のひとひらにさえ、音(おと)も気遣(きづか)う心(こころ)から、身動(みうご)きひとつ出来(でき)ずにいた、日本橋通(にほんばしとおり)油町(あぶらちょう)の紙問屋(かみどんや)橘屋徳兵衛(たちばなやとくべえ)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)と、浮世絵師(うきよえし)春信(はるのぶ)の彫工(ほりこう)松(まつ)五郎(ろう)の眼(め)は、釘着(くぎづ)けにされたように、夕顔(ゆうがお)の下(した)から離(はな)れなかった。
 が、よもやおのが垣根(かきね)の外(そと)に、二人(ふたり)の男(おとこ)が示(しめ)し合(あわ)せて、眼(め)をすえていようとは、夢想(むそう)もしなかったのであろう。娘(むすめ)は落(お)ちた団扇(うちわ)を流(なが)し目(め)に、呉絽(ごろ)の帯(おび)に手(て)をかけると、廻(まわ)り燈籠(どうろう)の絵(え)よりも速(はや)く、きりりと廻(まわ)ったただずまい、器用(きよう)に帯(おび)から脱(ぬ)け出(だ)して、さてもう一廻(まわ)り、ゆるりと廻(まわ)った爪先(つまさき)を縁(えん)に停(とど)めたその刹那(せつな)、俄(にわか)に音(ね)を張(は)る鈴虫(すずむし)に、浴衣(ゆかた)を肩(かた)から滑(すべ)らせたまま、半身(はんしん)を縁先(えんさき)へ乗(の)りだした。
「南無(なむ)大願成就(だいがんじょうじゅ)。――」
「叱(し)ッ」
 あとには再(ふたた)び虫(むし)の声(こえ)。
 京師(けいし)の、花(はな)を翳(かざ)して過(すご)す上臈(じょうろう)達(たち)はいざ知(し)らず、天下(てんか)の大将軍(だいしょうぐん)が鎮座(ちんざ)する江戸(えど)八百八町(ちょう)なら、上(うえ)は大名(だいみょう)の姫君(ひめぎみ)から、下(した)は歌舞(うたまい)の菩薩(ぼさつ)にたとえられる、よろず吉原(よしわら)千の遊女(ゆうじょ)をすぐっても、二人(ふたり)とないとの評判娘(ひょうんばんむすめ)。下谷(したや)谷中(やなか)の片(かた)ほとり、笠森稲荷(かさもりいなり)の境内(けいだい)に、行燈(あんどん)懸(か)けた十一軒(けん)の水茶屋娘(みずちゃやむすめ)が、三十余人(よにん)束(たば)になろうが、縹緻(きりょう)はおろか、眉(まゆ)一つ及(およ)ぶ者(もの)がないという、当時(とうじ)鈴木春信(すずきはるのぶ)が一枚刷(まいずり)の錦絵(にしきえ)から、子供達(こどもたち)の毬唄(まりうた)にまで持(も)て囃(はや)されて、知(し)るも知(し)らぬも、噂(うわさ)の花(はな)は咲(さ)き放題(ほうだい)、かぎ屋(や)のおせんならでは、夜(よ)も日(ひ)も明(あ)けぬ煩悩(ぼんのう)は、血気盛(けっきざか)りの若衆(わかしゅう)ばかりではないらしく、何(なに)ひとつ心願(しんがん)なんぞのありそうもない、五十を越(こ)した武家(ぶけ)までが、雪駄(せった)をちゃらちゃらちゃらつかせてお稲荷詣(いなりもう)でに、御手洗(みたらし)の手拭(てぬぐい)は、常(つね)に乾(かわ)くひまとてないくらいであった。
 橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)も、この例(れい)に漏(も)れず、日(ひ)に一度(ど)は、判(はん)で捺(お)したように帳場格子(ちょうばごうし)の中(なか)から消(き)えて、目指(めざ)すは谷中(やなか)の笠森様(かさもりさま)、赤(あか)い鳥居(とりい)のそれならで、赤(あか)い襟(えり)からすっきりのぞいたおせんが雪(ゆき)の肌(はだ)を、拝(おが)みたさの心願(しんがん)に外(ほか)ならならなかったのであるが、きょうもきょうとて浅草(あさくさ)の、この春(はる)死(し)んだ志道軒(しどうけん)の小屋前(こやまえ)で、出会頭(であいがしら)に、ばったり遭(あ)ったのが彫工(ほりこう)の松(まつ)五郎(ろう)、それと察(さっ)した松(まつ)五郎(ろう)から、おもて飾(かざ)りを見(み)るなんざ大野暮(おおやぼ)の骨頂(こっちょう)でげす。おせんの桜湯(さくらゆ)飲(の)むよりも、帯紐(おびひも)解(と)いた玉(たま)の肌(はだ)が見(み)たかァござんせんかとの、思(おも)いがけない話(はなし)を聞(き)いて、あとはまったく有頂天(うちょうてん)、どこだどこだと訪(たず)ねるまでもなく、二分(ぶ)の礼(れい)と着ていた羽織(はおり)を渡(わた)して、無我夢中(むがむちゅう)は、やがてこの垣根(かきね)の外(そと)となった次第(しだい)。――百匹(ぴき)の蚊(か)が一度(ど)に臑(すね)にとまっても、痛(いた)さもかゆさも感(かん)じない程(ほど)、徳太郎(とくたろう)の眼(め)は、野犬(やけん)のようにすわっていた。
「若旦那(わかだんな)」
「黙(だま)って。――」
「黙(だま)ってじゃァござんせん。
ご協力下さい!!
■暇つぶし何某■

[次ページ]
[ページジャンプ]
[青空文庫の検索]
[おまかせリスト]
[ブックマーク登録]
[作品情報参照]
[mixiチェック!]
[Twitterに投稿]
[話題のニュース]
[列車運行情報]
[暇つぶし青空文庫]

Size:260 KB

担当:FIRTREE