なよたけ
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著者名:加藤道夫 

『竹取物語』はこうして生れた。
世の中のどんなに偉い学者達が、どんなに精密な考証を楯(たて)にこの説を一笑に付そうとしても、作者はただもう執拗(しつよう)に主張し続けるだけなのです。
「いえ、竹取物語はこうして生れたのです。そしてその作者は石(いそ)ノ上(かみ)ノ文麻呂(ふみまろ)と云(い)う人です。……」


 人物
石(いそ)ノ上(かみ)ノ綾麻呂(あやまろ)
石ノ上ノ文麻呂(ふみまろ)
瓜生(うりゅう)ノ衛門(えもん)
清原(きよはら)ノ秀臣(ひでおみ)
小野(おの)ノ連(むらじ)
大伴(おおとも)ノ御行(みゆき)
讃岐(さぬき)ノ造麻呂(みやつこまろ)(竹取(たけとり)ノ翁(おきな))
なよたけ
雨彦
こがねまる
蝗麻呂(いなごまろ)
けらお
胡蝶(こちょう)
みのり
衛門の妻(声のみ)
陰陽師(おんようじ)
侍臣(じしん)
その他平安人の老若男女大勢

合唱隊
(舞台裏にて、低い吟詠(ぎんえい)調にて『合唱』を詠(うた)う。人数は少くとも三十人以上であること)
 時
今は昔、例えば平安朝の中葉


  第一幕

例えば平安京の東南部。小高い丘(おか)の上。丘の向う側には広大な竹林が遠々と連なっているらしい。前面は緩(ゆる)い傾斜(けいしゃ)になっている。
ある春の夕暮近く――
舞台溶明すると、中央丘の上に、旅姿の石ノ上ノ綾麻呂と、その息子文麻呂。
遠く、近く、寺々の鐘が鳴り始める。
夕暮の色がこよなく美しい。

綾麻呂 さあ、文麻呂。時間だ。文麻呂 なぜです、お父さん。まだです。綾麻呂 ――聞いてごらん。(鐘の音)……あれは寺々が夕方の勤行(ごんぎょう)の始まりをしらせる鐘の音だ。御覧(ごらん)。太陽が西に傾いた。黄昏(たそがれ)が平安の都大路(みやこおおじ)に立籠(たちこ)め始めた。都を落ちて行くものに、これほど都合(つごう)のよい時刻はあるまい。このひととき、家々からは夕餉(ゆうげ)の煙が立上り、人々は都大路から姿をひそめる。その名もまさに平安の、静けき沈黙(ちんもく)が街々の上を蔽(おお)うている……沈黙。あちこちから静かに鐘の音。
人目をはばかる落人(おちうど)にとっては、これこそまたとない機会だ。うっかりしていると、すぐ夜の帳(とばり)が落ちかかるからな。暗くならない内に、私は国境いを越して、出来ることなら、今夜のうちに滋賀(しが)の国のあの湖辺(みずうみべ)の町までは何とかして辿(たど)りついてやろうと思っている。おや! あそこの善仁寺ではもう勤行を始めたらしい。……文麻呂、やっぱり時間だよ。
文麻呂 大丈夫(だいじょうぶ)ですよ、お父さん。まだ大丈夫です。第一、この頃の坊主(ぼうず)達のやることなんて何が当てになるもんですか? 勤行の時間なんて出鱈目(でたらめ)ですよ、お父さん。どこか一ヶ所でいい加減にやり出すと、あっちの寺でもこっちの寺でもみんな思い出したように、ただ無定見(むていけん)に真似(まね)をして鐘を鳴らし始めるだけです。正確の観念なんかこれっぽっちだって持合わせてはいないんですからね。お父さんとの大切な別離の時間が坊主の鐘の音で決められるなんて、そんなことって……僕ぁ、……僕ぁ悲しいな。(鐘の音)……でも、もうそんな時間なのかしら、一体? (間)ねえ、お父さん。もう少しぐらいいいじゃありませんか? これっきり、もう何年も逢えないんだと思うと、やはり僕は名残(なご)り惜しくてしかたがありません。もう少しお話しましょうよ。ねえ、お父さん、もう少し居て下さい。せめて鴉(からす)が鳴くまでならいいでしょう? 鴉なら本当に正確な時間を伝えてくれます。あれは自然そのものですから、全く偽(いつわ)りと云うものを知りません。僕は自然と云うものだけには信頼を置くんです。ねえ、あの切株(きりかぶ)に腰(こし)を下して、もう少し色々なことを饒舌(しゃべ)り合いましょうよ。鴉が鳴くまでです。出発はそれからでも充分間に合いますよ。本当に保証します。……さあ、お父さん、お願いです。鴉が鳴くまで、せめて鴉が鳴くまでです。塒(ねぐら)へ帰る鴉が二三羽、大声で鳴きながら二人の頭上を飛んで行く。長い沈黙。
文麻呂 (低い声)やっぱり、お別れですね。綾麻呂 (しんみりと)ま、いずれは別れねばならない運命だったのさ。文麻呂 任地にお着きになっても、身体だけは充分に気を付けて、御病気にならないように注意して下さい。綾麻呂 む。文麻呂 お父さんはお酒を召し上らない代りに、甘いものとなると眼がないから、ちょっと油断をして食べ過ぎをなさるとすぐお腹(なか)をこわします。綾麻呂 有難(ありがと)う。充分に気をつける。お前も充分健康に留意して、無理をしない程度に、「文章(もんじょう)の道」を一生懸命に研鑚(けんさん)するんですよ。一日も早く偉くなって、お父さんを安心させておくれ。お前はお役所に勤めるのはどうも以前からあまり気がすすまなかったらしいが、いや、それならそれでもいい。お父さんは決して反対はしない。まあ、立派な学者になって、「文章博士(もんじょうはかせ)」の肩書でも貰(もら)ってくれれば、お父さんはそれだけでも大手を振って自慢が出来るからな。そうなれば、お父さんの受けた恥(はじ)も立派に雪(そそ)ぐことが出来るというものだ……しかしね、文麻呂。お前はどうも、この頃清原の息子(むすこ)や小野の息子達と一緒(いっしょ)になって、やれ「和歌」を作ってみたり、「恋物語」を書いてみたりしているらしいけれど、あれだけはお父さんどうしても気に掛ってしかたがないな。第一、外聞(がいぶん)が悪いよ。ああ云うものは当世の情事好(いろごとごの)みのすることで武人の血を引く石ノ上ノ綾麻呂の息子ともあろうものが、あんなものにかぶれるなどと云うことは大体、体裁(ていさい)がよくないからな。ことに学問の道に励(はげ)むものにはああ云うものは何の益もない代物(しろもの)だ。「芸術」と云うものか何と云うものか儂(わし)にはよく分らんが、お父さんに云わせればあんなものは不潔だ。ああ云う「遊びごと」だけは今後是非(ぜひ)とも止めて欲しいもんだな。文麻呂 (烈(はげ)しく)遊びごとではありません!綾麻呂 (びっくりする)文麻呂 (涙さえ含んで)お父さん、少くとも僕にとっちゃあれは決して「遊びごと」ではないつもりです。僕達の「詩(うた)」があんな巷(ちまた)で流行しているような下らない「恋歌」のやりとりと一緒くたにされては、僕は……情無くなって、涙が出て来ます。お父さん。僕はきっと立派な学者になってみせますよ。お望みなら「文章博士」にだってなります。ただ、詩(うた)だけは作らせて下さい。「文章博士」が経書の文句の暗誦(あんしょう)をするだけなら、あんなもの誰(だれ)だってなれます。だけど、そんな知識を振翳(ふりかざ)したって何になるでしょう。そんな学問はただの装飾です。いくら紅(くれない)の綾(あや)の単襲(ひとえがさね)をきらびやかに着込んだって、魂(たましい)の無い人間は空蝉(うつせみ)の抜殻(ぬけがら)です。僕達はこの時代の軟弱な風潮に反抗するんです。そして雄渾(ゆうこん)な本当の日本の「こころ」を取戻(とりもど)そうと思うんです。僕達があんな下らない「恋歌」や「恋愛心理」にうつつをぬかしているとお思いになるんでしたら、それこそそれは大変な誤解です。今、僕達の心を一番捉(とら)えているのは、例えばそれはお父さん、……これなのです。(懐(ふところ)から一冊の本を取り出す)綾麻呂 よろずはのあつめ……文麻呂 万葉集って読むんです。綾麻呂 奈良朝のものだな?文麻呂 お父さん。これこそ僕達の求めてやまぬ心の歌なのです。綾麻呂 巧(うま)い歌があるのかな? (黙って頁を繰(く)っている)文麻呂 読んでごらんなさい。どこでもいいから、お父さん、ひとつ読んでごらんなさい。綾麻呂 (何気なく開いたところを読み始める。夕日が赤々と輝き始める)玉だすき 畝火(うねび)の山の 橿原(かしはら)の 日知(ひじ)りの御代(みよ)ゆ あれましし 神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに 天(あめ)の下 知ろしめししを そらみつ やまとをおきて 青によし 平山(ならやま)越えて いかさまに 思ほしけめか 天(あま)さかる 夷(ひな)にはあれど 石走(いわばし)る 淡海(おうみ)の国の ささなみの 大津の宮に 天の下 知ろしめしけむ すめろぎの 神のみことの 大宮は ここと聞けども 大殿は ここといえども 霞(かすみ)立つ 春日(はるひ)かきれる 夏草香(なつくさか) 繁(しげ)くなりぬる ももしきの大宮処(おおみやどころ) 見ればかなしも。文麻呂 (厳(おごそ)かに)柿本(かきのもと)ノ朝臣人麻呂(あそんひとまろ)。過ギシ二近江ノ荒都ヲ一時作レル歌。…………間――
綾麻呂 む。………文麻呂 お父さん。そりゃ、僕だって三史や五経の教訓の立派なことくらいようく分っています。「李太白(りたいはく)」だって僕には涙の出るほど有難い書物です。だけど、あの教義をただ断片的に暗誦(あんしょう)して博識ぶったり、あの唐風(からふう)の詩から小手先の技巧を模倣(もほう)してみたりしたところで何になるでしょう? 要するに僕は、………自覚がなければ問題にならないと思うのです。間――
綾麻呂 文麻呂。………お父さんはあるいは誤解しておったかもしれん。この本は、残念ながらまだお父さん読んだことがないからよく分らんけれど、お前のやろうとしてることはどうやら間違ってはおらぬようだ。いや、そう云う心構えさえあるのならば、歌は遠慮なく作りなさい。けれども、真の儒教精神もこれまた大切なものだから、経書の勉強も決して怠(おこた)ってはいけません。いかにそれを日本的に生かすかがお前達の仕事なのだからな。………うむ、それはそうかもしれん。奈良朝時代の人達は、少くとも私達よりはもっとずっと純粋で、日本の心を知っておったかもしれんよ。いや、お前のやり方については、もうつべこべ云わぬ方がよさそうだ。自分の正しいと思ったことは、躊躇(ちゅうちょ)せずに思い切って最後までやり通すようにしなさい。突然、夕闇が迫(せま)り、舞台薄暗くなる。
おや! 急に日が暮れてしまった! うっかりしていたら、夕日が朝日ヶ峰にかくれてしまった! こりゃ、ぐずぐずしてはおられない。少し長話しをし過ぎてしまったようだ。さ! 文麻呂! いよいよお父さんは行くぞ!
文麻呂 (厳然たる姿勢をとる)御機嫌(ごきげん)よろしく、お父さん!綾麻呂 臣、石ノ上ノ綾麻呂、今、無実無根の讒言(ざんげん)を蒙(こうむ)って、平安の都を退下(たいげ)し、国司となって東国に左遷(させん)されんとす。………文麻呂いいか? もう一度、返答だ!文麻呂 はいッ!綾麻呂 勲(いさお)高き武人(もののふ)の家系、臣、石ノ上ノ綾麻呂から五位の位を奪いとった我等が仇敵(きゅうてき)は?文麻呂 (凜(りん)たる声)大納言(だいなごん)、大伴(おおとも)ノ宿禰御行(すくねみゆき)!綾麻呂 巧みなる贈賄(ぞうわい)行為で人々を手馴(てな)ずけ、無実の中傷で蔵人所(くろうどどころ)の官を奪い、あまつさえその復讐(ふくしゅう)をおそれて、臣、石ノ上を東国の果(はて)に追いやった我等が仇敵は?文麻呂 大納言、大伴ノ宿禰御行!綾麻呂 あるいはまた、その一人息子、文麻呂の出世を妨げんとて、大学寮内よりこれを追放し、より条件の悪い別曹(べっそう)、修学院などへと転校せしとめたる我等が仇敵は?文麻呂 大納言、大伴ノ宿禰御行!綾麻呂 よし!……くれぐれも我々の受けたあの侮辱(ぶじょく)だけは忘れないようにしなさいよ。不潔な血を流すことはたやすいことだが、我々はそんな他愛もない復讐はいさぎよしとしないのだ。お前は平安の都に残って、孜々(しし)として勉学にはげみ、立派な学者となる。私は東国の任地に赴(おもむ)き、武を練り、人格を磨いて、立派な武人となる。そうして、いつの日にか二人がまたこの地で相まみえる時があるとすれば、その時こそ、大伴ノ御行は必ずや地下人(じげびと)かさもなければ、それ以下の庶民(しもびと)にまで失墜(しっつい)するであろう。………(中央を向き、感慨深く)ああ、平安の都もどうやらこれでしばらくは見納めなのだな。………さて、いつまでぐずぐずしていてもきりがない。では、文麻呂、儂(わし)は出掛ける!文麻呂 じゃ、お父さん! お気をつけて!綾麻呂 お母さんのお墓参りだけは決して欠かさないようにしなさいよ! じゃ、元気で勉強しなさい! それから、瓜生(うりゅう)ノ衛門(えもん)だが、あれはもうだいぶ年をとってしまったから、あまり役には立たんだろうが、ま、よく面倒をみておやりなさい。あれだけはいつも変らぬ我々の忠実な従僕(しもべ)だ。ああ、忘れていた。これ。万葉集………文麻呂 いえ、それはお父さんに差上げます。僕はもう一冊持っていますから。東国の任地などでしみじみとお読みになるにはこれほどよい書物はありません。綾麻呂 そうか。それでは記念にひとつ貰(もら)っておこう。これはなかなかよさそうな本だから、お父さんもじっくり読んでみることにしよう。それから東国へ下る人があったら、必ず手紙をくれるんですよ。ああ、だいぶ遅くなってしまった。山科(やましな)の里では供奉(ぐぶ)の者達がさぞや待ちかねていることだろう。では、文麻呂。さらばじゃ!文麻呂 さようなら! お父さん!石ノ上ノ綾麻呂、左方へ下りて行く。退場。
文麻呂。独り中央丘の上に残る。
あたりには夕闇が立ち籠(こ)めている。………
文麻呂は傍の木の切株に腰を下ろして、冥想(めいそう)に耽(ふけ)り始める。………
遠近(おちこち)の広大な竹林の竹の葉のざわめく音が無気味に響き渡りはじめる。………
文麻呂ぎょっとして後をふりみる。
風。………そして、時折、山鴿(やまばと)の物淋(ものさび)しげな鳴声がし始める。
文麻呂 (独白)風か!………文麻呂は何やら急に耐え難い孤独感に襲われるのであった。懐(ふところ)より横笛を取り出して、親しい「曲」を奏し始める。澄んだ笛の妙音、風に伝わって、余韻嫋々(よいんじょうじょう)………舞台、しばらくは横笛を奏する文麻呂。
文麻呂、突然、何か不思議な予感に襲われたもののように唇(くちびる)からふと横笛を離す。耳を澄ます。――どこからともなく、こだまのように同じ曲が響いて、………消える。
文麻呂、不思議な笛の反響を解(げ)せぬ態度で、もうひとしきり吹いて、再び突然、唇から笛を離してみる。耳を澄ます。
――やはり、どこからともなく、同じ曲が響いて、………消える。文麻呂、もう一度今度は思い切り強く吹いてみる。――やはり、どこからともなく同じ音が反響する………
文麻呂 (不気味な気持に襲われて、すっくと立上り)誰(だれ)だ!………声 誰だ!………清原ノ秀臣(ひでおみ)、同じように横笛を片手に、丘の向側からつと文麻呂の背後に現れた。
清原 石ノ上ノ文麻呂ではないか?文麻呂 (びくんとして振向き)なんだ、清原。………君だったのか?清原 大学寮学生、清原ノ秀臣。………僕だ。文麻呂 一ヶ月前だったらこの僕も同じ「名乗り」を堂々と名乗り返せたのになあ。……残念ながら、今では、別曹(べっそう)、修学院学生、石ノ上ノ文麻呂……か。清原 おい、石ノ上。そのことだけはいつまでもそうくよくよ気に掛けるのは止めてもらおうじゃないか。学校がどうのこうのと云ったって、正しい文(ふみ)の道はただ一つさ。小野ノ連(むらじ)にしろ、この僕にしろ、君とは一生を誓い合った同志じゃないか。その繰言(くりごと)だけはもういい加減に止めたまえ。………ところで石ノ上。お父様は? もう発(た)たれたの?文麻呂 ああ、いまさっき。………ここで別れたところなんだ。何だか、今夜中に三井寺(みいでら)を過ぎて、滋賀(しが)の里までは是(ぜ)が非(ひ)でも辿(たど)り着くんだなんて、とても張り切ってたよ。清原 そりゃ大変だな。殊(こと)に夜道になると逢坂山(おうさかやま)を越えるのは一苦労だぜ。……でも、何だってよりによって夕方なぞにお発ちになろうなんてお考えになったのかな。文麻呂 人目を忍ぶ旅衣(たびごろも)と云う奴さ。でも、親父(おやじ)、あれで内心東国にはとても抱負があるらしいんだ。まあ、別れる時は割合に二人共さっぱりしてて、気が楽だったよ。山科(やましな)の里まで行けば、供奉(ぐぶ)の者がたくさん待っているそうだから……清原 そうか。それなら安心だ。……いや、実は、妙(みょう)な所で君に逢ったんで、びっくりしちゃってね。文麻呂 僕もびっくりした。こんな処(ところ)にまさか君が来ようとは思わなかったからな。僕は君をこだまと間違えてしまった。………清原 え?文麻呂 こだまさ。例えば、そら、向うの竹山から春風に乗って反響して来るこだまと間違えたのだよ。竹の精と間違えてしまったのさ。清原 竹の精?文麻呂 うん。ま、竹の精とでも云うんだろうな。何だか、そんなものがこの辺なら現れそうな気持がしたんだ。この丘へ登ってみたのは、実は僕は今日が初めてなんだがね。とにかく、すっかり気に入ってしまったよ。……平安京もこの通り一目で見渡せるし、それに、どうだい、こっち側の、この夕風にざわめいている素晴らしい竹林の遠々たる連なりは! 僕はさっき、親父と話しながらここまで登って来た時には、何だかまるで、突然夢の国に来たんじゃないかと眼を疑ってしまった。平安の都で世迷(よま)い事(ごと)に身をやつしている連中の中で、この丘のこっち側の世界の素晴しさに気の付いてる奴は、一体何人いるだろうかね? それにほら、見たまえ。すぐあすこにまであんなに深い竹林が続いて来てるなんて、実際、今まで僕は夢にも想像していなかった。全く、この丘から向うは別世界だ! あの堕落した平安人の巷(ちまた)からものの半道も離れていないこの丘の上には、まだ汚(けが)れない自然が、美しいそのままの姿で脈打っているような気がする。そんな気がするんだ。……清原。聞いてごらん。……山鴿(やまばと)だ。竹林の方から山鴿の鳴声、ひとしきり。二人共、しばらく沈黙。
清原 (静かに)石ノ上、……君は今竹の精って云ったね? 君は竹の精の存在を信じるか?文麻呂 どうしてだい、そりゃまた?清原 (真剣な顔)石ノ上、僕は、……僕はその竹の精を見たのだ!文麻呂 見た?清原 見た。この眼ではっきりと見てしまったのだ。自然そのままの汚(けが)れのない清純な女性の形象(かたち)をとってこの現世(おつつよ)に存在している、いわばそれは若竹の精霊だ。微塵(みじん)の悪徳もなく、美(うる)わしい天然の姿のままで。それはあの竹林の中に生きている。文麻呂 (じっと友の顔を凝視(みつ)め、ややあって)「恋」だな? 清原………清原 人の世の言挙(ことあげ)がそう名付けるならば、それもよかろう。……石ノ上、僕は白状する。……僕は、……僕はその恋を知りはじめたのだ。間――
文麻呂 (そっと友の肩(かた)に手を掛けて)よかろう、清原。僕は決して咎(とが)め立てはしないぜ。いやむしろ君のその碧空(あおぞら)のごとく清浄無垢(せいじょうむく)なる心を捉(とら)えた女性の顔が一目拝(おが)みたい位だよ。………恋とは夢だ。……「夢」とは全(まった)き放心だ。その正しい極限では一切が虚無となる。一切が存在しなくなる。それは未来永劫(えいごう)を一瞬に定着する詩人の凝視を形成する場所だ。真実の詩(うた)とはそこに生れるのだ。その虚無の場を不安と観ずるべからず、法悦(ほうえつ)の境と信ずべし、だ。そこに生ずる悲哀よりも歓喜よりも、何よりもそこに存する真実の詩(うた)をこそ尊ぶべきだ、と僕は思う。……清原、恋をしたまえ。一切を捨てて恋に酔(よ)いたまえ。清原 有難う。文麻呂 敷島(しきしま)の日本(やまと)の国に人二人ありとし念(も)わば何か嘆かむ、だ。……………知ってるかい、清原。清原 む。……万葉、巻十三、相聞(そうもん)の反歌だ。文麻呂 恋とはああ云うものだよ。僕はそう信ずる。恋とはただ一つの魂を烈(はげ)しくもひそかに呼び合うことだ。僕はそう信ずる。あの巷(ちまた)にあれすさんでいる火遊びの嵐はどうだ。あんなものは何が恋だ。あんなものは不潔な野合(やごう)だ。……汚らわしい惰遊(だゆう)だ。清原 石ノ上、……僕の場合に限って、あんな汚れた気持は微塵もないって云うこと、……君、信じてくれるだろうね?文麻呂 うん。信じる。信じよう。信じないではいられないのだ。君が本当のものと嘘(うそ)のものとを識別(みわ)ける眼を持っていることだけは、僕は心から信じているんだからな。清原 (次第に涙を催(もよお)すような感傷的な気持になって行く)………石ノ上、僕は、そのうちに君にもあの女(ひと)に一度逢ってもらおうと思ってる。文麻呂 何て云うの? 名前は。清原 ……なよたけ。文麻呂 え?清原 なよたけ。(舞台左手奥の竹林の方を指し)あすこの竹林の向うに住んでいる………二人共、そっちの方を眺めている。
文麻呂 田舎娘(いなかむすめ)なのかい?清原 竹籠(たけかご)作りの娘なんだ。年取った父親と二人暮しの貧しい少女さ。……まだ、まるで少女なんだ。汚れ多い浮世の風には一度だって触れたことのないような。……何て云うのかなあ、こう、まるで、……………文麻呂 いくつ?清原 え?文麻呂 年さ。いくつ?間――
清原 ……しらないんだ。文麻呂 何だい。訊(き)いてみないの?清原 ……まだなんだ。間――
文麻呂 いくつ位に見えるのさ?清原 それが、……よくわからないんだ。文麻呂 何だか少し頼りないね。……話したことはあるんだろ?清原 (俯向(うつむ)いたまま、無言)文麻呂 ね。毎晩逢って話ぐらいはするんだろ? え?清原 (ごく低く)まだなんだ。
長い沈黙。

文麻呂 (しばらくは呆(あき)れたような顔をしていたが)そうか、……まあ、いいさ。……つまり、まだほんの「恋知り初(そ)めぬ」と云ったばかりの所なんだな。だけどね、清原、恋をするにはもう少し勇気を持たなくちゃ駄目(だめ)だよ。もう少し思い切ってやらなくちゃ駄目さ。僕はそう思うな。この女(ひと)こそ自分の一生を賭(か)けた唯一(ゆいいつ)無二の女性だと云う確信がついたら、早速(さっそく)、自分の心情を率直(そっちょく)に打明けなけりゃ問題にならないよ。遠慮なんかしてたらいつまで経(た)ったってらちがあかない。もちろん、僕はあの当世流行のつけぶみと云う奴は大嫌いだ。こそこそまるで悪いことでもしてるように、巧(うま)くもない文章を紙に書き並べて、逃腰(にげごし)半分で打明けるなんてのは、第一、男らしくもないし、……それに卑怯(ひきょう)だ。もちろん、面と向って、堂々と口で打明けるんだ。……そりゃ、そうだぜ、君、いつまでもぐずぐずそんな態度を続けて行ったとしてごらん。せっかくの恋も水沫(みなわ)のごとく消え去ってしまうのだ。例えばね、先方でも君のことを慕(した)っているとする。……いいかい?……いつまでも君が愛を打明けてくれるのを待っている。……待っても待っても打明けてくれない。……そのうちに他の恋敵(こいがたき)があらわれて、先に結婚を申し込んでしまう。ね? 君はもう破滅だ。……君の「恋」は永久にそこで終ってしまうかもしれないのだ。話の途中から、空には星々が燦然(さんぜん)と輝き始めた。………
文麻呂はそっと清原ノ秀臣の反応を窺(うかが)ってみる。彼は黙ったまま、俯向(うつむ)いている。ふと、遠くの竹林の中から、まるでざわめく風の中からでも生れたかのように、わらべ達の合唱する童謡(わざうた)が、美妙な韻律(いんりつ)をひびかせながら、だんだんと聞えて来る。………

 〔わらべ達の唄(うた)〕
なよ竹やぶに 春風は
   さや さや
やよ春の微風(かぜ) 春の微風
   そよ そよ
なよ竹の葉は さあや
   さあや さや

文麻呂 (怪訝(けげん)な顔で、唄の聞えて来る方向を不気味そうに見やり)……清原。………あれは何だい? 何だろう、あの唄は?清原 (異様な悦(よろこ)びに既に眼は烱々(けいけい)と輝き始めている。熱情的な独白)わらべ達だ。……なよたけのわらべ達だ。……なよたけがわらべ達と一緒に散歩に出て来たんだ。(突然、駆(か)けて行こうとする)文麻呂 清原!清原 (立止る)文麻呂 何だって云うんだい? わらべ達がどうしたって云うんだい?清原 (もはや全く気もおろろに、譫言(うわごと)のごとく)わらべ達はなよたけの心の友達なのさ! なよたけが心を許しているのはわらべ達だけなのさ! わらべ達はひとりひとりなよたけの心を持ってるんだ! わらべ達の心はなよたけの心なんだ! 僕はなよたけと話が出来なくったって、わらべ達とは話が出来るんだ! なよたけは僕に話掛けてくれなくったって、わらべ達は僕に話掛けてくれるんだ! 僕がわらべ達と話をしてると、なよたけは傍(そば)で微笑(ほほえ)みながら、僕とわらべ達の話を聞いててくれるんだ! 僕はわらべ達と話をしてれば、まるでなよたけと話をしてるような気持なんだ! わらべ達の話の中にはなよたけの心が通(かよ)ってるんだ! なよたけの心の中にはわらべ達の話が通ってるんだ! 僕はわらべ達と話してるんじゃなくて、なよたけと話してるんだ! なよたけは僕に……文麻呂 清原! 落着け!間――
清原 (やや理性をとり戻す)……石ノ上。……僕は取乱しちまってる。恋のためにすっかり取乱しちまってる。許してくれ。……僕は行かなくちゃならない。すぐに行かなくちゃならない。なよたけに逢いに行かなくちゃならない。なよたけが僕を呼んでいる………文麻呂 (きっぱりと)行きたまえ!清原、脱兎(だっと)のごとく、やや左手奥へ駆け下りて行く。
文麻呂 (清原の後姿を見送りながら、独白)清原。……貴様は、完全に……「恋」の虜(とりこ)だ。………燦然(さんぜん)たる星空を背景に丘の中央に、影絵のごとく立っている文麻呂。
わらべ達の謡(うた)う童謡(わざうた)がだんだんと明瞭に聞えて来る。………

 〔わらべ達の唄〕
なよ竹やぶに 山鴿(やまばと)は
   るら るら
やよ春のとり 春のとり
   るろ るろ
なよ竹の葉に るうら
   るうら るら

春風にざわめく竹林の音と、わらべ達の謡う愛らしい童謡(わざうた)の旋律(せんりつ)と、時折淋(さび)しげに鳴く山鴿の鳴声が、微妙に入り交り、織りなされ、不可思議な「夢幻」の諧調となって、舞台はしばらくは奇妙に美しい一幅の「絵図」になってくれればいい。文麻呂は何か吾(われ)を忘れたもののように、じっと遠く竹林の方を見ている。……
やがてわらべ達の唄声が次第に遠く消えて行く頃、瓜生(うりゅう)ノ衛門(えもん)、右手より現れる。丘の上の人影をそっと窺(うかが)うようにみている。
瓜生ノ衛門 (文麻呂だと分ると、低い声で)文麻呂様。……文麻呂様。………文麻呂 (その声にふと我に返り、あたりを見廻すが、暗くてよく分らない。空耳かな、とも思う)瓜生ノ衛門 お坊ちゃま。………ここですよ。こちらでございますよ。文麻呂 誰だ!瓜生ノ衛門 私でございます! 瓜生ノ衛門でございます。文麻呂 なんだ、衛門か。……お前だったのか? びっくりさせるじゃないか、こんな処(ところ)に……瓜生ノ衛門 (笑いながら、近寄って行く)やっと見付けました。ずいぶん方々お探し申したんですよ。……お父上はもう?文麻呂 (丘の上から下りて来る)む。行ってしまわれた。……元気に発(た)って行かれた。瓜生ノ衛門 東路(あずまじ)はさぞ淋しゅうござりましょうな。……手前もお供致しとうございました。………でも、供奉(ぐぶ)のものはみな大伴(おおとも)様の御所存だったので、……残念ながら、……致し方ござりませぬ。文麻呂 む。あの供奉の連中ね。……まあ、あれは大納言の決めた人達なんで、心配でないこともないんだが、……しかし、父上のあの高邁(こうまい)な「人格」はたとえどんな腹黒い奴等(やつら)でも、たちどころに腹心の家来にしてしまうよ。僕はそう信ずる。……ねえ、衛門、そうだろうが?瓜生ノ衛門 そうでございますとも。……瓜生ノ衛門、今更(いまさら)ながら御父上から受けました四十年の御厚誼(ごこうぎ)、つくづくと身に沁(し)みまする。……(涙して)しがない瓜(うり)作りの山男を……これまでに……文麻呂 まあ、いいさ、衛門。過ぎ去った過去のことを思い出してくよくよするのは、遠い先の未来のことを妄想(もうそう)して思い上るのと同じくらい愚劣な空事(そらごと)だからな。一番大切なのは現在だ。現在の中に存在する可能性だ。……ところで、衛門。お前、これから、どうする積り?瓜生ノ衛門 手前、生れ故郷の瓜生の山里に帰って、また瓜作りでも始めようかと思います。文麻呂 え?瓜生ノ衛門 また瓜でも作ろうと思うのでございます。この上、お坊ちゃまに御厄介(ごやっかい)をお掛け申すのは、この衛門、とても忍びのうございますでな。それに、お坊ちゃま。(柄(がら)になく恥しそうに笑う)へ、へ、へ、へ、へ、………文麻呂 何だい。気持が悪いね。……それに? どうしたって云うんだい?瓜生ノ衛門 へえ、誠(まこと)に気恥しくて申し上げにくい話なんでございますが、……実は手前……瓜生の里には四十年前に云い交した許婚(いいなずけ)がひとり待って居るんでございます。文麻呂 許婚?瓜生ノ衛門 へえ、まあ、そのような……へ、へ、へ、へ、へ、……文麻呂 おい、おい。衛門。お前もなかなか隅(すみ)には置けないね。六十八にもなって許婚とは……さすがの僕も恐れ入っちゃった。それじゃ、まあ、惚(のろ)け話の花でもひとつ咲かせてもらおうかい。瓜生ノ衛門 いや、お坊ちゃまの方から先にそう開きなおられると、せっかくの花も蕾(つぼ)んでしまいます。………実を云えば、手前、若気(わかげ)のあやまち、とでも申しましょうか、……今から四十年前の昔でございます。手前がまだ瓜作りをやっておりました時分、ふとした浮気心から云い交した娘がございました。と云いましても、名前も顔もはっきりとはとても浮ぶ瀬もない冥途(めいど)の河原。……何分遠い昔の想(おも)い出(で)話でございますでな。手前は父上様にお仕(つか)え申す身になって四十年。……華(はな)やかな平安のみやびの中であのようにしあわせ過ぎる位の身の上でございましたもので、そんな娘のことなぞすっかり忘れてしまっておりましたのです。ところがつい最近のことですが、風の便りか山ほととぎす。……お坊ちゃま、実はその娘がまだ手前の帰って来る日をたった独(ひと)りで待っていると云う話をふと、耳に致しましたのです。それを聞きました時には、ちょうど、今度のお父上の御栄転騒ぎで、都のお勤めからは手前もいよいよ身を引潮の漁(いさ)り歌と云うわけで、……何となくすずろな憂身(うきみ)をやつしておりました最中だったもんで、何と申しますか、……人里離れた生れ故郷の瓜生の里が無性(むしょう)にこう……懐(なつか)しくなって参りましてな。文麻呂 ふーん? そうだったのかい。……いや、そう云うことなら衛門、そりゃ僕もとてもいいと思うよ。僕も大賛成だ。……故郷の山の中で一生を契(ちぎ)り合ったひとと二人っきりで瓜を作る。……いいな。羨(うらやま)しい生活だ。幸福な余生だ。衛門、……こんな汚れ多い都会の生活はもうお前のように正直な男には用のないものだよ。大切なのは孤独と云うことだ。真剣に生きると云うことだ。お婆(ばあ)さんもさぞ悦(よろこ)ぶことだろう。瓜生ノ衛門 お婆さん?文麻呂 や、こりゃ失礼。……だって、衛門。そりゃあもうだいぶお婆さんだろうじゃないか? 四十年も前に………瓜生ノ衛門 (そう云われて、ふと、今更のように四十年の経過を思い起し)ああ、……さようでございましたな。……む、そこんところを衛門もう少し考えてみなければなりませんでしたな。む。さようでございますとも。いくら手前に惚(ほ)れ込んだと申しましても、……四十年間、年もとらずに娘のまんまで手前を待ってるなんてわけは、どう考えたって、そんなことは有りゃしませんですからな。(何だか少々情無い気持になって来る)いや、そりゃもう大変婆さんになっとりましょう。……何せ、手前が二十六で、あれがそう、かれこれ……文麻呂 衛門!………そんなことは問題じゃないよ。顔に皺(しわ)が何本出来ていようと、どんなに腰が曲っていようと、お前を待っているのは忠実なひとりの少女の心だ。ね? 衛門、そうだろうが?瓜生ノ衛門 そうでございましょうか?文麻呂 なんだい、馬鹿に自信がなくなっちゃったんだね。そうだよ! 僕が保証する! そうだとも! 瓜生ノ衛門の帰りを、四十年間、ただひたすらに思いつめ待ちわびているのは美しい、ひとりの忠実な心の少女だ!瓜生ノ衛門 (感動して)……有難うございます。……有難うございます。……瓜生ノ衛門、明日にでも早速婆さんに逢(あ)いに瓜生の山に帰ってみようと存じます。文麻呂 それがいいよ、衛門。瓜生の山奥と云ったって、ここからは二里とは離れてやしないんだから、僕だって逢いたくなりゃいつだって逢いに行けるんだ。……ああ、何だか急に風が強くなって来たようじゃないか。竹林のざわめきが、急に何やら騒がしくなって来る。……不穏(ふおん)な風の渡る音。山鴿(やまばと)の鳴く声さえも、途絶え勝ちだ。空模様もだんだんあやしくなって来る。燦然(さんぜん)と瞬(またた)いていた星々も、あっちにひとつこっちにひとつとだんだん消え失せて行く………
瓜生ノ衛門 (不安そうに)何だか気味の悪い空模様になって参りましたな。嵐でも来そうな気配(けはい)でございますよ。……そろそろお家へお帰りになってはいかがです?強い風が不気味な音を立てて、吹きわたりはじめた。
文麻呂 おう、竹の葉があんなに烈(はげ)しくざわめき始めた。星々がだんだんと消えて行く。………(独白)父上は大丈夫だろうな? 竹林の「恋」は健在かな?瓜生ノ衛門 (何やらはたと思いついて)文麻呂殿! 瓜生ノ衛門、すっかり失念致しておりました! 実は手前、大変な噂(うわさ)の証拠をつきとめたのでございます。大納言様のことでございます。大納言様の道ならぬ浮名(うきな)の恋でございます。しかも相手はとんだ賤(いや)しい田舎娘(いなかむすめ)。いや、これだけはっきり尻尾(しっぽ)を掴(つか)んだら、それこそ大納言様の名声もたちどころ、と云ったよりどころでござりますぞ。昨日の午後(ひるすぎ)でござりました。手前、何気なくこの先の竹林に筍(たけのこ)を探しに参ったのでございます。……どうでしょう! まあ、大納言様ともあろう御方が、忍ぶ恋路のなんとやら、………いやもう大変な忍びのいでたちで、ついこの先の竹林の奥に住んでいる竹籠(たけかご)作りの爺(じい)の娘におふみをつけようとなさっているのを、手前この目ではっきり見てしまいました。文麻呂 (きっとなって)なにッ!瓜生ノ衛門 (少々驚いて)おふみでございます。文麻呂 いや、そんなことじゃない! 相手はどこの娘だと!瓜生ノ衛門 竹籠作りの爺の娘でございます。この造麻呂(みやつこまろ)と云う爺は手前も少しは存じている男でござりまするで……文麻呂 名前は何て云うんだって!瓜生ノ衛門 讃岐(さぬき)ノ造麻呂でございます。文麻呂 (苛立(いらだ)って)爺じゃないよ! 娘だ!瓜生ノ衛門 娘の名は、たしか……さよう、……なよたけとやら申しました。文麻呂 何ッ! なよたけ!瓜生ノ衛門 (あまりに烈しい語気に呆気(あっけ)にとられる)丘の上にはいつの間にやら、清原ノ秀臣が悄然(しょうぜん)として佇立(ちょりつ)している………
その豊かにたれた直衣(のうし)の裾(すそ)は烈しくも風にはためいている。不穏な竹林のざわめき。………
文麻呂 (丘の上の友の姿を認め)おい! 清原!……どうした!清原 (泣かんばかりの悲痛な声で)石ノ上!………駄目だ、僕は。……僕はなよたけを怒らしてしまった。なよたけは怒って家の中に駆(か)け込んでしまった。………文麻呂は身も軽々と丘の上に駆け上り、清原ノ秀臣の手をしっかりと握りしめる。風にはためく二人の直衣の裾。……風の音。竹林の烈しいざわめき。
文麻呂 元気を出せ! 清原! 元気を出すんだ! なよたけと貴様の恋は死んでもこの俺(おれ)が成就(じょうじゅ)させるぞ!……親父の名誉にかけて俺は誓う!清原 石ノ上、有難う。……だけど、僕はもう駄目だ。……なよたけは本当に怒ってしまったんだ。………文麻呂 何が駄目だ! おい、しっかりしろ! 勇気を出すんだ! そんなことでへなへな気が挫(くじ)けるようでどうする。……戦いはこれからだぞ。清原! 貴様の恋敵が分った! 貴様の恋敵だ! 誰だと思う?清原 恋敵?文麻呂 そうさ、清原。……貴様の手からなよたけを奪いとろうとしている憎むべき男がひとりいるのだ。清原 (その言葉にきっとなり、………むしろ傲然(ごうぜん)と)それは誰だ!文麻呂 大納言、大伴ノ御行だ。清原 えッ!文麻呂 (快心の微笑をもって)大伴の大納言様だよ。清原 (全身の力、一時に消滅し、気絶するもののごとく、文麻呂の胸によろよろと倒れかかる。………)文麻呂 (支えながら、狼狽(ろうばい)し)おい。清原! 清原! 清原!……衛門ッ!烈しい強風の中に………
――幕――
  第二幕――一幕より数日後

     第一場

幽麗(ゆうれい)なる孟宗(もうそう)竹林を象徴的に描いたる上下幕の前で演ぜられる。
石ノ上ノ文麻呂、清原ノ秀臣、右手より登場。
清原ノ秀臣は文麻呂の後に従って、何やらそわそわと、ひどく落着きがない。云わば、気もうつろである

文麻呂 全く、こりゃすごい竹林だ。……これじゃ、方角も何も皆目(かいもく)分ったもんじゃないね。……大体、我々はこれで確かになよたけの家の方向へ進みつつあるのかい? 清原。……本当に確かなんだな?清原 確かなんだ。文麻呂 確かにこの竹林なんだろうな?清原 これなんだ………文麻呂 (頼りな気に)で、……なにかい? だいぶあるのかい、まだ?清原 もうすぐなんだ。……あっちの方なんだ。文麻呂 それなら、もういい加減にそろそろ見えて来てもいい頃じゃないか?清原 ……ん、……でも、なよたけの家は竹林の真中にあって、竹で出来てるんだ。……だから、すぐ傍(そば)まで行かないと見えないんだ。文麻呂 ふーん?……保護色なんだね?清原 ん、……そうなんだ。文麻呂は清原の煮(に)え切らぬ態度を不愉快(ふゆかい)に感ずる。励ますように………
文麻呂 どうだい、清原。それじゃこうしようじゃないか。つまり、なんだよ、……大納言がやって来るまでにはまだ少しばかり間がありそうだから、しばらく我々はここに腰を落着けて、待伏せしていようではないか? え?……時を見計って、決行するのだ。我々の方はすっかり覚悟は出来ているんだから、たとえ万一ここでばったりと大納言にぶつかったとしたって何等(なんら)狼狽(ろうばい)することはない。堂々と計画通りに我々の初志を貫徹するまでの話だ。なあ。清原。そうだろう!清原 (自信なさそうに)うむ………文麻呂 まったく煮え切らないね、君と云う奴は。……それだからみんなに云われるんだよ。当節の若い学生はなんだかんだって。……口先だけで屁理窟(へりくつ)をこねるのがいくら巧(うま)くたって、実行力のない人間はあるかなきかのかげろうだ。なあ。そうだろう?清原 うむ………文麻呂 僕は君に限ってそんな意気地のない男とは信じたくないんだ。君だけはそう云う軟弱な知識階級の若様連中と同列に置きたくないんだ。分るだろう?清原 うむ………文麻呂 (苛々(いらいら)して)さあ、清原。坐ろう、坐ろう! 坐って大納言を堂々と待伏せするんだ! (ぺったりと坐る)……坐れよ!清原 (渋々(しぶしぶ)と彼の隣に坐る)
長い、気まずい沈黙。

文麻呂 (沈滞した空気を振払(ふりはら)うように)ああ、何と云う静けさだろう。………ねえ、清原。ほら。聞えないかい?……時々、あちこちから、かさかさ、かさかさって妙(みょう)な音が、まるで神秘な息づかいのように聞えて来るんだ。………清原 (あまり感興もなさそうに聞く)文麻呂 (慎重に、耳を澄まし)ねえ、おい。……あれは一体何だろう?清原 (しごくあっさりと)竹の皮が落ちてるんだ。………間――
文麻呂 そうか……若竹がすくすくと成長して行く音だったんだな? ひそやかな生成の儀式のかすかな衣(きぬ)ずれの音だったんだな?清原 (さり気なく)竹が囁(ささや)いてるんだ。……………間――
文麻呂 (情無さそうに清原を凝視(みつ)め、ややあって)清原。……君は変っちまったねえ。つくづく僕はそう思うよ。本当に変っちまった。……清原 (文麻呂にあまりまじまじと見られるので、何だか恥しそうにする)………そうかな?文麻呂 うん。変った。……第一、言うことに飛躍(ひやく)がなくなった。弾力がなくなった。知性の閃(ひらめ)きがなくなったよ。……「竹が囁いてるんだ……」。情無いことを云うじゃないか。……まるでもう君は萎(しな)えうらぶれている。……以前のあのうち羽振(はぶ)く鶏鳴(けいめい)の勢いは皆無だ。剣刀(つるぎたち)身に佩(は)き副(そ)うる丈夫(ますらお)の面影(おもかげ)は全くなくなってしまった。清原 (急に心配そうに)石ノ上……。僕あね、心配なんだよ。僕達のこの計画がかえってなよたけを怒らしちまうんじゃないかと思って………文麻呂 また!……僕はもう、そんな意気地のないことを云うんだったら、君に構わず自分だけで勝手にどんどん事を運んでしまうぜ。……何度も云ったけど、これは確かにこの上もない天の配剤なんだ。君の目的と僕の目的が全く一致する……これは単なる偶然じゃないんだ。僕はそう確信している。これは天が我々に味方したんだ。……そうは思わないかい?清原 うむ………文麻呂 (苛々(いらいら)して)さあ、元気を出そう、元気を! 天が与えてくれたこの機会を利用しなければ、君の恋も、僕の復讐(ふくしゅう)も、一生涯(いっしょうがい)実現出来ないようなことにならないとも限らないんだぜ。さあ! 肚(はら)を落着けて待とう、待とう! 大納言を恋と名声から失脚させるには我々の智慧(ちえ)の外に、最大の勇気と云うものを必要とするんだ。何よりもまず第一に肚だ。肚を落着けて、心静かに待とうじゃないか!……何でえ、しっかりしろよ! (いきなり両手で両膝(りょうひざ)を抱え込む)清原 (……これも文麻呂の真似(まね)をして、両膝を抱え込む)
長い、気まずい沈黙。

文麻呂 (再び沈滞した空気を振払うかのように)ああ、とにかくこれはすごい竹の木だな。……それにしても、この素晴らしく延びた幹はどうだ。……ねえ、清原。こいつは確か孟宗竹(もうそうちく)と云う奴だよ。話によるとこの竹の苗は奈良朝の初期に唐(から)の国から移植されたものらしいんだが、三百年足らずの間にどうだ、この東の国の一劃(いっかく)にも、このように幽麗な叢林(そうりん)を形成してしまったのだ。……まるで、もうここはあの国の幽邃境(ゆうすいきょう)だ。……深遠な唐国(からくに)の空気がそのままに漂っているではないか。……何と云う神秘な静寂だろう。僕は今、このような竹林の中で想を練ったと云うあの七人の賢者達のことを想い浮べている。………(沈黙)(ひとりで恍惚(こうこつ)として)
独リ坐ス幽篁ノ裏 弾琴復タ長嘯
深林人不レ知ラ 明月来リテ相照ス
(独り言のように)……竹里ノ館か、……知ってるだろう? 王維(おうい)の詩だ。
清原 (一向に聞いていない。頭の中は心配だけ)文麻呂 こんな素晴しい神秘の境で、燦(きら)めく恋の桂冠(けいかん)を獲得しようと云う君は全く幸福だ。また、同時に同じ場所で父の仇敵を思いのままに辱(はずか)しめてやれると云うこの僕も幸運だ。……云わばここは我々が幸運の星にめぐり逢うと云う秘(ひ)められたる場所だ。天が我々に与えたもうた恵(めぐ)みの扉(とびら)だ。……扉は今や開け放たれねばならない。清原 (突然すっくと立上り)そうだ! 僕、いいこと考えた!文麻呂 (呆(あき)れて彼を見上げ)何だい、また? どうしたんだい、清原?清原 ね、石ノ上。いいことがあるんだよ。なよたけの家のすぐ傍にね、竹籠(たけかご)の納屋(なや)があるんだ。僕達はこれからそっとそこへ行って、気付かれないようにその納屋ん中へ隠れるんだ。そうして内から様子(ようす)を伺(うかが)ってて、大納言様を待伏せするんだ。大納言様がいらっしゃってなよたけに何かいけないことをなさろうとしたら、そしたら、僕達はすぐに飛出して行って……やっちまうんだ。やっつけちまうんだ。それがいいよ。ね。それがいいよ。さあ、石ノ上! (先に立って、左の方へどんどん行く)文麻呂 (呆気(あっけ)にとられたように聞いていたが、渋々と立上り)……そりゃ、君がその方がいいと云うんなら、それでもいいさ。この辺の地理的な状況はそりゃ君の方がずっと詳(くわ)しいんだし………清原 (どんどん早足で行きながら)さあ、早く、早く! 早くしたまえ! 石ノ上! 早くしないともう大納言様が来てしまわれる………(左手に消える)文麻呂 (その後を渋々と追いながら、ぶつぶつと)何も行かないとは云ってやしないよ。そりゃ僕にはこの辺はどうも勝手がよく分らないんだし、……君の云うことをどうのこうのと云ったって、なにも別に………(突然、立止り、左の方を睨(にら)むようにして、大声で怒鳴る)おい! 待てッ! 清原! 落着け!
――(溶暗)――
     第二場 (幕間なし)

竹取翁(たけとりのおきな)、讃岐(さぬき)ノ造麻呂(みやつこまろ)が竹籠を編みながら唄(うた)う「竹取翁の唄」が次第に聞えて来る。なよたけの弾く和琴(わごん)の音が美しくも妙(たえ)にその唄の伴奏をしている。わらべ達の合唱が、時々それに交る。

 〔竹取翁の唄〕
竹山に 竹伐(き)るや翁(おじ)
   なよや なよや
竹をやは削(けんず)る 真竹やはけんずる
   けんずるや 翁(おじ)
      なよや なよや
 〔わらべ達の合唱〕
   なよや なよや なよや
 〔竹取翁の唄〕
竹山に 竹取るや翁(おじ)
   なよや なよや
竹をやは磨(みんが)く 真竹やはみんがく
   みんがくや 翁(おじ)
      なよや なよや
 〔わらべ達の合唱〕
   なよや なよや なよや
 〔竹取翁の唄〕
竹や竹 竹の山
   その竹山に 竹籠をやは編まむ
なよ竹籠をやは編まむ さら さら
   さらさらに わがな 我名は立てじ
ただ竹を編む よろずよや
   万世(よろずよ)までにや ただ竹を編む
      さら さら さら
 〔わらべ達の合唱〕
   なよや さら なよや さら
      なよや さら さら さら

唄の途中から、上下幕が静かに上る。
幽麗なる孟宗竹林に囲繞(いじょう)せられたる竹籠作り讃岐ノ造麻呂の家。
舞台右手には、その家の一部。土間と居間がある。すべて竹で意匠(いしょう)せられている。
奥手は一面、無限と思われるほど、深邃(しんすい)なる孟宗竹林、その中を通って、左の方へ小路が続いている。
舞台一面、耀(かがや)く緑の木洩日(こもれび)に充(み)ち溢(あふ)れている………
家の土間には、造麻呂が坐り込んで「唄」をうたいながら青竹を籠に編んでいる。
その背後には六人のわらべ達が並んで立っている。なよたけの和琴の音は、右手の竹簾(たけすだれ)の向うの奥の間から聞えて来るらしい。………
「唄」が終ると、なよたけの弾(ひ)いている美しい和琴の音だけがひびき残る。………老爺(ろうや)はさらさらと竹籠を編んでいる。
わらべ達も黙ってそれをみている。

造麻呂 (ふと、編む手を止めて、不審(ふしん)そうに)おや? 何じゃ? 裏の納屋(なや)の方で妙な音がしなかったかな?わらべ達 (きょとんとしている)造麻呂 なよたけ!なよたけの琴の音、止む。
造麻呂 ……お前、今、裏の納屋の方で妙な音が聞えなかったかい?なよたけ (声のみ)……いいえ。造麻呂 なんだか確かに聞えたような気がしたんだが………なよたけ (声のみ)またりすの子がゆすらうめの実でも食べに来たんでしょう。造麻呂 (半ば独白)……りすならいいんだが、……この頃は都の人間たちまでが、この辺にうろうろし出したからな。(再び籠を編み始める)………物騒(ぶっそう)でしようがない。沈黙――
なよたけ (声のみ)雨彦!……お前、ちょっと行ってみて来てごらん!雨彦と呼ばれた少年は「ん」と云って、一目散に裏の方へ駆(か)けて行く。他のわらべ達は一様に彼を見送って、何か心配そうにしている。
雨彦、しばらくして、また一目散に駆け戻って来る。
雨彦 誰もいない。りすもいない。ちゃんと戸が閉まってる。造麻呂 ふむ、………儂(わし)の空耳だったのかな?……どうも、年をとってしまったもんじゃ。造麻呂は再び一心に竹籠を編み始めた。またなよたけの琴がなり始める。……同時にわらべ達は一様に退屈(たいくつ)し始める。
こがねまる (つまらなそうに)……なよたけ! また外へ出て遊ばない?みのり(少女) 出ておいでよ、なよたけ!けらお なよたけ! お出でったら!胡蝶(こちょう)(少女) なよたけ! 今のうちじゃないと、またお天気が悪くなるわよ!蝗麻呂(いなごまろ) ほら! 来てごらん! お日様を邪魔(じゃま)する雲がひとつもないや!雨彦 なよたけ! 竹林はとても静かだよ! 今日も悪いことは何も起りゃしないよ!けらお おいでよ! おいでったら!わらべ達 (一緒に)おいでよ! おいでよ!こがねまる 琴なんていつだって弾(ひ)けるじゃないか!みのり そうよ、そうよ!なよたけ、一向に返事をしない。
けらお (ひねくれて)なよたけのあんなあな!……(他の者を誘う)おい、みんなも云えよ、なよたけはあんなあなだい!他のわらべ達、黙っている。
けらお なんだい。みんなも一緒に云えったら。……(大声で)なよたけのあんなあな! なよたけのあんなあな!造麻呂 うるさい子だね。竹簾(たけすだれ)が上った。その向うになよたけが立っている。田舎娘だが、天使のごとき清楚(せいそ)な美しい少女である。
雨彦 あ! なよたけだ!わらべ達 (悦(よろこ)びに心震(ふる)えて。思い思いに)なよたけ! なよたけ!………こがねまる ね、行こう!蝗麻呂 さ、行こう!けらお 遊びに行こう!二、三の者は戸外に駆け出る。
なよたけ (草履(ぞうり)をはきながら)静かにしなければ嫌(いや)。うるさくする子はもう遊んであげない。……お父さん。また、みんなと一緒に遊びに行って来るわ。造麻呂 (仕事を続けながら)あんまり遠くへ行ってはいけないよ。……春になってからと云うものは、お前のお尻(しり)をつけねらう色男が四人や五人じゃきかないんだから。……まったく物騒と云ったらありゃしない。なよたけ すぐその辺。なよたけ、老爺(ろうや)の背後を通って、左手の小路へ出る。わらべ達は嬉しそうになよたけのまわりを取囲(とりかこ)む。
蝗麻呂 ねえ、どこへ行こうか、なよたけ!こがねまる また街道の見えるとこがいいや!なよたけ 今日は遠いところは駄目(だめ)よ。あんまり遠くへ行くと、みんなまた晩御飯を食べそこなってしまうわ。けらお ちぇッ! つまんねえの!なよたけ またお前は我儘(わがまま)を云う。……云うこと聞かないんなら、帰ってしまうわよ。わらべ達 (けらおを除き)いやだ! いやだ!………なよたけ お前でしょ、けらお。さっきあたしのことをあんなあなって云ったのは?胡蝶 けらおよ!みのり けらおよ!けらお (ひとり、不貞腐(ふてくさ)れている)……おらだい。間――
なよたけ 駄目ねえ、お前は。……お前のお家は一番都に近いから、街の子供達が誘いに来ると、すぐ一緒に行ってしまって、一日中帰って来ない。昨日(きのう)もお前また都へ下りて行って、悪い子供達と遊んで来たんでしょ?けらお 悪い子じゃないやい!なよたけ 悪い子よ! 都の子供はみんな悪い子よ! みんな悪いあんなあなに取(と)っ憑(つ)かれてるのよ。あんな子供達と一緒に遊ぶから、けらおはいつまで経(た)っても本当にいい子になれないんだわ。けらお (なよたけを無視して)面白いぞイ! みんなも来いや! 賀茂(かも)川の橋の下で石合戦して遊ぶんだ! 勇ましいぞイ! おら敵の大将に石ぶつけて、泣かしちまったんだ。みんな、おらが一番強いって紙の兜(かぶと)をかぶしてくれたイ。おら、大将だ。一番強え大将だ!こがねまる おい、けらお。……おらもいれてくれるかい?なよたけ 駄目よ! 都へなんか行っちゃ。……けらおの云うことはみんな嘘(うそ)よ。都へなんか行ったってちっとも面白かないわ。大将なんかになって何が面白いの? 都には悪い友達がたくさんいるのよ。みんな都へなんか行きたくないわねえ? けらおはひとりでお行き!けらお ちぇッ! なよたけは行ったことがないもんで、あんなこと云うんだ! 都は面白いぞイ! 悪い子なんかいねえぞイ!なよたけ さあ、みんなまた唄をうたって、遊びに行こう! みんなお唄い!けらお 何でえ。こんな狭(せま)っくるしい竹藪(たけやぶ)ん中で遊んだって、ちっとも面白かねえや! 都へ行きゃ、綺麗(きれい)な御所車(ごしょぐるま)が一杯通ってるんだぞ! 偉い人はみんな車に乗って御殿に行くんだ! 綺麗(きれい)な着物を着て、みんながお辞儀(じぎ)をするんだ! いいぞイ! 綺麗だぞイ!なよたけ お唄い!わらべ達唄をうたい始める。なよたけの後を取巻くようにして、左方へ歩いて行く。けらおは、ひとり、不貞腐(ふてくさ)れて後からついてくる。
(舞台、徐々に移動。あたりは一面竹林になる。遠近(おちこち)に小鳥の声がし始める)

 〔わらべ達の唄〕
なよ竹やぶに 春風は
   さや さや
やよ春の微風(かぜ) 春の微風
   そよ そよ
なよ竹の葉は さあや
   さあや さや
なよ竹やぶに 春の陽は
   ほか ほか
やよ陽(ひ)の光 陽の光
   ほこ ほこ
なよ竹の葉に ほうか
   ほうか ほか

こがねまる (突然、地べたにしゃがみこみ)あ! 毛虫だ!けらお (駆け寄って)やっつけちゃい! やっつけちゃい!こがねまる (足で踏みつぶす)こん畜生(ちくしょう)ッ!………なよたけ (険(けわ)しい顔)こがねまる!こがねまる (びっくりして、顔を上げる)なよたけ (情無さそうに)お前はもう忘れちまったの?……どうして、そう罪のないものを殺そうとしたりするの? 毛虫がお前に何か悪いことでもしたの? しようのない子ねえ。それじゃ、今までに教えて上げたことがみんな台無しじゃないの。………けらお つぶれちゃったイ。こがねまる (後悔(こうかい)して)……もう死んじまった。皆、無言で毛虫の死骸(しがい)を凝視(みつ)めている、しばらくは粛然(しゅくぜん)たる沈黙。
なよたけ こがねまる!……お前のしたことをようく考えてごらん。……お前には毛虫の言葉が聞えたの? 「あたしを殺して下さい。」って毛虫がお前にそう云ったの?こがねまる (うなだれたまま、首を横に振る)なよたけ (険しく)こがねまる!……お前にも悪いあんなあなが取(と)っ憑(つ)いてしまったわ。皆、気味悪そうにこがねまるを凝視める。
雨彦 けらおが都から連れて来たんだ!胡蝶 (なよたけにすがりつき)なよたけ、……あたし、こわい!みのり (これもすがりつき)あたしもこわい!こがねまる、烈しい泣きじゃくりを始める。
けらお おらじゃねえよ! おらじゃねえよ!蝗麻呂 けらおのあんなあな!雨彦 こがねまるのあんなあな!なよたけ お前達は黙ってなさい!……(近寄って、優しく)こがねまる。……お前はただ、ちょっと忘れちゃってたのねえ? うっかりしてて、自分の悪いことに気がつかなかったのねえ? そうでしょう?こがねまる (うなずく)なよたけ じゃ、いい? こがねまる、……毛虫は大きくなったら何になるんだったかしら?こがねまる (泣きじゃくりながら)……蝶々(ちょうちょ)……なよたけ そうね。……じゃ、こがねまるは蝶々が好きじゃないの?こがねまる (首を横に振る)好き……なよたけ じゃ、その蝶々をなぜ殺したの? 毛虫を殺すのは蝶々を殺すのと同じことでしょ?……御覧(ごらん)! 可哀(かわい)そうに……今は毛むぐじゃらで、あんまり可愛(かわい)らしくないけど、もうすぐさなぎから美しいあげはになって、今度は広いお空をひらひら飛ぶことが出来たのに!……綺麗(きれい)なあげはにもなれないでこんな毛むぐじゃらのまま死んでしまった。……こがねまる (おいおい泣く)なよたけ 分ったでしょ? こがねまる……分ればいいの。毛虫を殺したのはこがねまるじゃなくて、悪いあんなあなだったのね?……こがねまるだってけらおだって、誰だって本当はみんないい子なのよ、とてもいい子なのよ。こんなにいい子なのに悪いことをするのは、知らぬ間にあんなあながお前達に取憑(とりつ)いてしまうからよ。さあ、もう泣くのはお止め!……お前のその涙が立派な証拠(しょうこ)だわ。自分の悪かったことに気がつきさえすれば、もうそれでいいの! 死んだ毛虫さんもきっと許してくれるに違いないわ! さあ、こがねまる。泣くのはお止め! お前はもう悪い子じゃなくなったの!けらお (頭上を見上げ、突然、一種の畏怖(いふ)にとらわれたように叫ぶ)あッ! 蝶々だ! 蝶々だ! あんなにたくさんあげはが飛んで来た!右手の方から、無数の蝶が、群をなして飛んで来たらしい。皆いっせいに頭上を見上げる。
雨彦 あ!……こがねまるが毛虫を殺したんで、怒ってやって来たんだ!蝗麻呂 こがねまるをうらみにやって来たんだ!けらお (叫ぶ)おらじゃねえよ! おらじゃねえよ! 毛虫を殺したのは、おらじゃねえよ!こがねまる (助けを求めるように、泣声で)おら、本当に殺そうとしたんじゃないやイ。……おら、あんなあなに騙(だま)かされたんだイ。知らない内にいつの間にか殺しちまったんだイ。……おら、毛虫が憎(にく)らしくも何ともなかったんだ。
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