ファラデーの伝
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著者名:愛知敬一 

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     序

 偉人の伝記というと、ナポレオンとかアレキサンドロスとか、グラッドストーンというようなのばかりで、学者のはほとんど無いと言ってよい。なるほどナポレオンやアレキサンドロスのは、雄であり、壮である。しかし、いつの世にでもナポレオンが出たり、アレキサンドロスの出ずることは出来ない。文化の進まざる時代の物語りとして読むには適していても、修養の料にはならない。グラッドストーンのごときといえども、一国について見れば二、三人あり得るのみで、しかも大宰相たるは一時に一人のみしか存在を許さない。これに反して、科学者や哲学者や芸術家や宗教家は、一時代に十人でも二十人でも存在するを得、また多く存在するほど文化は進む。ことに科学においては、言葉を用うること少なきため、他に比して著しく世界的に共通で、日本での発見はそのまま世界の発見であり、詩や歌のごとく、外国語に訳するの要もない。
 これらの理由により、科学者たらんとする者のために、大科学者の伝記があって欲しい。しかし、科学者の伝記を書くということは、随分むずかしい。というのは、まず科学そのものを味った人であることが必要であると同時に多少文才のあることを要する。悲しいかな、著者は自ら顧みて、決してこの二つの条件を備えておるとは思わない。ただ最初の試みをするのみである。
 科学者の中で、特にファラデーを選んだ理由は、第一に彼は大学教育を受けなかった人で、全くの丁稚小僧から成り上ったのだ。学界にでは家柄とか情実とかいうものの力によることがない、腕一本でやれるということが明かになると思う。また立身伝ともいえる。次に彼の製本した本も、筆記した手帳も、実験室での日記も、発見の時に用いた機械も、それから少し変ってはいるが、実験室も今日そのまま残っている。シェーキスピアやカーライルの家は残っている。ゲーテ、シルレルの家もあり、死んだ床も、薬を飲んだ杯までもある(真偽は知らないが)。ファラデーのも、これに比較できる位のものはある。科学者でファラデーほど遺物のあるのは、他に無いと言ってよい。それゆえ、伝記を書くにも精密に書ける。諸君がロンドンに行かるる機会があったら、これらの遺物を実際に見らるることも出来る。
 第三に、何にか発見でもすると、その道行きは止めにして、出来上っただけを発表する人が多い。感服に値いしないことはないが、これでは、後学者が発見に至るまでの着想や推理や実験の順序方法について、貴ぶべき示唆を受けることは出来ない。あたかも雲に聳(そび)ゆる高塔を仰いで、その偉観に感激せずにはいられないとしても、さて、どういう足場を組んで、そんな高いものを建て得たかが、判らないのと同じである。
 ファラデーの論文には、いかに考え、いかに実験して、それでは結果が出なくて、しまいにかくやって発見した、というのが、偽らずに全部書いてある。これでこそ発見の手本にもなる。
 またファラデーの伝記は決して無味乾燥ではない。電磁気廻転を発見して、踊り喜び、義弟をつれて曲馬見物に行き、入口の所でこみ合って喧嘩をやりかけた壮年の元気は中々さかんである。莫大の内職をすて、[#「莫大の内職をすて、」は底本では「莫大の内職をすて、」]宴会はもとより学会にも出ないで、専心研究に従事した時代は感嘆するの外はない、晩年に感覚も鈍り、ぼんやりと椅子(いす)にかかりて、西向きの室から外を眺めつつ日を暮らし、終に眠るがごとくにこの世を去り、静かに墓地に葬られた頃になると、落涙を禁じ得ない。
 前編に大体の伝記を述べて、後編に研究の梗概(こうがい)を叙することにした。
    大正十二年一月著者識す。[#改丁]

     目次

  前編 生涯

    生い立ち

一 生れ
二 家系
三 製本屋
四 タタムの講義
五 デビーの講義
六 デビーに面会
七 助手
八 勉強と観察
九 王立協会
一〇 王立協会の内部
一一 王立協会の講義

    大陸旅行

一二 出立
一三 フランス
一四 イタリア入り
一五 スイス
一六 デビー夫人
一七 デ・ラ・リーブ
一八 旅行の続き

    中年時代

一九 帰国後のファラデー
二〇 デビーの手伝い
二一 自分の研究
二二 研究の続き。電磁気□転
二三 サンデマン宗
二四 サラ・バーナード嬢
二五 結婚
二六 幸福なる家
二七 ローヤル・ソサイテーの会員
二八 講演
二九 協会の財政
三〇 ファラデーの収入
三一 千五百万円の富豪
三二 年金問題

    研究と講演

三三 研究室で
三四 研究の方針
三五 学者の評
三六 実験して見る
三七 実験に対する熱心
三八 発見の優先権
三九 学界の空気
四〇 実用
四一 講演振り

    晩年時代

四二 一日中の暮し
四三 病気
四四 保養
四五 しなかった事
四六 訪問と招待
四七 質問
四八 ローヤル・ソサイテーの会長
四九 研究と著書
五〇 名誉
五一 宗教
五二 狐狗狸(こくり)の研究
五三 晩年
五四 終焉
五五 外見

  附記
    ルムフォード伯
    サー・ハンフリー・デビー
    トーマス・ヤング

  後編 研究

    研究の三期

   第一期の研究

一 諸研究
二 電磁気□転
三 手帳
四 ガスの液化
五 ガラスの研究

   第二期の研究

六 磁気から電流
七 アラゴの発見
八 感応電流の発見
九 結果の発表
十 その後の研究
一一[#「一一」は底本では「一〇」] 媒介物の作用
一二 その他の研究
一三 電気分解
一四 静電気の研究
一五 その後の研究

   第三期の研究

一六 光と電磁気との関係
一七 磁気に働かるる光
一八 磁性の研究
一九 光の電磁気説
二〇 その他の研究
二一 再び感応電流
二二 晩年の研究
二三 研究の総覧

    年表
    参考書類
    地名、人名、物名の原語
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前編 生涯
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      生い立ち

     一 生れ

 前世紀の初めにロンドンのマンチエスター・スクエーアで、走り廻ったり、球をころがして遊んだり、おりおり妹に気をつけたりしていた子供があった。すぐ側のヤコブス・ウエルス・ミュースに住んでいて、学校通いをしていた子供なのだ。通りがかりの人で、この児に気づいた者は無論たくさんあったであろうが、しかし誰れ一人として、この児が成人してから、世界を驚すような大科学者になろうと思った者があろうか。
 この児の生れたのは今いうたミュースではない。只今では大ロンドン市の一部となっているが、その頃はまだロンドンの片田舎に過ぎなかったニューイングトン・ブットが、始じめて呱々(ここ)の声をあげた所で、それは一七九一年九月二十二日のことであった。父はジェームス・ファラデーといい、母はマーガレットと呼び、その第三番目の子で、ミケルという世間には余り多くない名前であった。父のジェームスは鍛冶職人(かじしょくにん)で、身体も弱く、貧乏であったので、子供達には早くからそれぞれ自活の道を立てさせた。


     二 家系

 ファラデーの家はアイルランドから出たという言い伝えはあるが、確かではない。信ずべき記録によると、ヨークシャイアのグラッパムという所に、リチャード・ファラデーという人があって、一七四一年に死んでいるが、この人に子供が十人あることは確かで、その十一番目の子だとも、または甥だともいうのに、ロバートというのがあった。一七二四年に生れ、同八六年に死んでいるが、これが一七五六年にエリザベス・ジーンという女と結婚して、十人の子を挙げた。その子供等は百姓だの、店主だの、商人だのになったが、その三番目に当るのが一七六一年五月八日に生れたジェームスというので、上に述べた鍛冶屋さんである。ジェームスは一七八六年にマーガレット・ハスウエルという一七六四年生れの女と結婚し、その後間もなくロンドンに出て来て、前記のニューイングトンに住むことになった。子供が四人できて、長女はエリザベスといい一七八七年に、つづいて長男のロバートというのが翌八八年に、三番目のミケルが同九一年に、末子のマーガレットは少し間をおいて一八〇二年に生れた。
 一七九六年にミュースに移ったが、これは車屋の二階のささやかな借間であった。一八〇九年にはウエーマウス町に移り、その翌年にジェームスは死んだ。後家さんのマーガレットは下宿人を置いて暮しを立てておったが、年老いてからは子供のミケルに仕送りをしてもらい、一八三八年に歿(な)くなった。

     三 製本屋

 かように家が貧しかったので、ミケルも自活しなければならなかった。幸いにもミュースの入口から二・三軒先きにあるブランド町の二番地に、ジョージ・リボーという人の店があった。文房具屋で、本や新聞も売るし、製本もやっていた。リボーは名前から判ずると、生来の英国人では無いらしい。とにかく、学問も多少あったし、占星術も学んだという人である。
 一八〇四年にミケルは十三歳で、この店へ走り使いをする小僧に雇われ、毎朝御得意先へ新聞を配ったりなどした。骨を惜しまず、忠実に働いた。ことに日曜日には朝早く御用を仕舞って、両親と教会に行った。この教会との関係はミケルの一生に大影響のあるもので、後にくわしく述べることとする。
 一年してから、リボーの店で製本の徒弟になった。徒弟になるには、いくらかの謝礼を出すのが習慣になっていた。が、今まで忠実に働いたからというので、これは免除してもらった。
 リボーの店は今日でも残っているが、行って見ると、入口の札に「ファラデーがおった」と書いてある。その入口から左に入った所で、ファラデーは製本をしたのだそうである。
 かように製本をしている間に、ファラデーは単に本の表紙だけではなく、内容までも目を通すようになった。その中でも、よく読んだのは、ワットの「心の改善」や、マルセットの「化学叢話(そうわ)」や、百科全書(エンサイクロペジア)中の「電気」の章などであった。この外にリオンの「電気実験」、ボイルの「化学原理大要」も読んだらしい。
 否、ファラデーはただに本を読んだだけでは承知できないで、マルセットの本に書いてある事が正しいかどうか、実験して見ようというので、ごくわずかしかもらわない小遣銭で、買えるような簡単な器械で、実験をも始めた。

     四 タタムの講義

 ファラデーはある日賑(にぎ)やかなフリート町を歩いておったが、ふとある家の窓ガラスに貼ってある広告のビラに目をとめた。それは、ドルセット町五十三番のタタム氏が科学の講義をする、夕の八時からで、入場料は一シリング(五十銭)というのであった。
 これを見ると、聴きたくてたまらなくなった。まず主人リボーの許可を得、それから鍛冶職をしておった兄さんのロバートに話をして、入場料を出してもらい、聴きに行った。これが即ちファラデーが理化学の講義をきいた初めで、その後も続いて聴きに行った。何んでも一八一〇年の二月から翌年の九月に至るまでに、十二三回は聴講したらしい。
 そのうちに、タタム氏と交際もするようになり、またこの人の家には書生がよく出はいりしたが、その書生等とも心易くなった。そのうちには、リチャード・フィリップスというて、後に化学会の会長になった人もあり、アボットというて、クエーカー宗の信者で、商店の番頭をしておった人もある。後までも心易く交際しておった。アボットと往復した手紙がベンス・ジョンスの書いたファラデー伝の中に入れてあるが、中々立派に書いてある。そのうちには、ファラデーが時々物忘れをして困るというような事も述べてある。ファラデーは随分と物忘れをして、困ったので、その発端は既にこの時にあらわれている。仕方がないので、後にはポケットにカードを入れて置いて、一々の用事を書きつけたそうである。
 またアボットの後日の話によれば、ファラデーが自分の家の台所へ来て、実験をしたこともあり、台所の卓子(テーブル)で友人を集めて講義をしたこともあるそうだ。この頃ファラデーが自分で作って実験を試みた電気機械は、その後サー・ジェームス・サウスの所有になって、王立協会に寄附され、今日も保存されてある。
 ファラデーはタタムの講義をきくにつれて、筆記を取り、後で立派に清書して、節を切り、実験や器械の図をも入れ、索引を附して四冊とし、主人のリボーに献ずる由を書き加えた。
 この筆記を始めとして、ファラデーが後になって聴いたデビーの講義の筆記も、自分のした講義の控(ノート)も、諸学者と往復した手紙も、あるいはまた金銭の収入を書いた帳面までも、王立協会に全部保存されて今日に残っている。
 リボーの店には、外国から政治上の事で脱走して来た人達が泊(と)まることもあった。その頃には、マスケリーという著名な画家がおった。ナポレオンの肖像を画いたこともある人で、フランスの政変のため逃げて来たのである。ファラデーはこの人の部屋の掃除をしたり、靴を磨いたりしたが、大層忠実にやった。それゆえマスケリーも自分の持っている本を貸してやったり、講義の筆記に入用だからというて、画のかき方を教えてやったりした。

     五 デビーの講義

 ファラデイの聴いたのはタタムの講義だけでは無かった。王立協会のサー・ハンフリー・デビーの講義もきいた。それはリボーの店の御得意にダンスという人があって、王立協会の会員であったので、この人に連れられて聞きに行ったので、時は一八一二年二月二十九日、三月十四日、四月八日および十日で、題目は塩素、可燃性および金属、というのであった。これも叮嚀に筆記を取って置いて、立派に清書し、実験の図も入れ、索引も附けた。だんだん講義を聴くにつれ、理化学が面白くなって来てたまらない。まだ世間の事にも暗いので、「たとい賤(いや)しくてもよいから、科学のやれる位置が欲しい」と書いた手紙を、ローヤル・ソサイテー(Royal Society)の会長のサー・ジョセフ・バンクスに出した。無論、返事は来なかった。

     六 デビーに面会

 そうこうしている中に、一八一二年十月七日に製本徒弟の年期が終って、一人前の職人となり、翌日からキング町に住んでいるフランス人のデ・ラ・ロッセというに傭われることになった。ところが、この人は頗(すこぶ)る怒り易い人なので、ファラデーはすっかり職人生活が嫌いになってしまった。「商売のような、利己的な、反道徳的の仕事はいやだ。科学のような、自由な、温厚な職務に就きたい」というておった。それでダンスに勧められて、自分の希望を書いた手紙をデビーに送り、また自分の熱心な証明として、デビーの講義の筆記も送った。しかし、この筆記は大切の物なれば、御覧済みの上は御返しを願いたいと書き添えてやった。この手紙も今に残っているそうであるが、公表されてはおらぬ。
 デビーは返事をよこして、親切にもファラデーに面会してくれた。この会見は王立協会の講義室の隣りの準備室で行われた。その時デビーは「商売変えは見合わせたがよかろう。科学は、仕事がつらくて収入は少ないものだから」というた。この頃デビーは塩化窒素の研究中であったが、これは破裂し易い物で、その為め目に負傷をして□衝を起したことがある。自分で手紙が書けないので、ファラデーを書記に頼んだことがあるらしい。多分マスケリーの紹介であったろう。しかしこれは、ほんの数日であった。
 その後しばらくして、ある夜ファラデーの家の前で馬車が止った。御使がデビーからの手紙を持って来たのである。ファラデーはもう衣を着かえて寝ようとしておったが、開いて見ると、翌朝面会したいというのであった。
 早速翌くる朝訪(たず)ねて行って面会すると、デビーは「まだ商売かえをするつもりか」と聞いて、それから「ペインという助手がやめて、その後任が欲しいのだが、なる気かどうか」という事であった。ファラデーは非常に喜び、二つ返事で承諾した。

     七 助手

 それで、一八一三年三月一日より助手になった。俸給は一週二十五シリング(十二円五十銭)で、なお協会内の一室もあてがわれ、ここに泊ることとなった。
 どういう仕事をするのかというと、王立協会の幹事との間に作成された覚書の今に残っているのによると、「講師や教授の講義する準備をしたり、講義の際の手伝いをしたり、器械の入用の節は、器械室なり実験室なりから、これを講堂に持ちはこび、用が済めば奇麗にして元の所に戻して置くこと。修理を要するような場合には、幹事に報告し、かつ色々の出来事は日記に一々記録して置くこと。また毎週一日は器械の掃除日とし、一ヶ月に一度はガラス箱の内にある器械の掃除をもして塵をとること。」というのであった。
 しかしファラデーは、かような小使風の仕事をするばかりでなく、礦物の標本を順序よく整理したりして、覚書に定めてあるより以上の高い地位を占めているつもりで働いた。
 ファラデーが助手になってから、どんな実験の手伝いをしたかというに、まず甜菜(てんさい)から砂糖をとる実験をやったが、これは中々楽な仕事ではなかった。次ぎに二硫化炭素の実験であったが、これは頗る臭い物である。臭い位はまだ可(よ)いとしても、塩化窒素の実験となると、危険至極の代物だ。
 三月初めに雇われたが、一月半も経(た)たない内に、早くもこれの破裂で負傷したことがある。デビーもファラデーもガラス製の覆面(マスク)をつけて実験するのだが、それでも危険である。一度は、ファラデーがガラス管の内に塩化窒素を少し入れたのを指で持っていたとき、温いセメントをその傍に持って来たら、急に眩暈(めまい)を感じた。ハッと意識がついて見ると、自分は前と同じ場所に立ったままで、手もそのままではあったが、ガラス管は飛び散り、ガラスの覆面も滅茶滅茶に壊(こ)われてしまっておった。
 またある日、このガスを空気ポンプで抽(ぬ)くと、静に蒸発した。翌日同じ事をやると、今度は爆発し、傍にいたデビーも腮(あご)に負傷した。
 かようなわけで、何時どんな負傷をするか知れないのではあるが、それでもファラデーは喜んで実験に従事し、夕方になって用が済むと、横笛を吹いたりして楽しんでおった。

     八 勉強と観察

 ファラデーは暇さえあれば、智識を豊かにすることを努めておった。既に一八一三年にはタタムの発起にかかる市の科学界に入会した。(これは後につぶれたが)。この会は三・四十人の会員組織で、毎水曜日に集って、科学の研究をするのである。この外にもマグラース等六・七人の同志が集って、語学の稽古をして、発音を正したりなどした。
 一方において、王立協会で教授が講義をするのを聴いたが、これも単に講義をきくというだけでは無く、いろいろの点にも注意をはらった。その証拠には、当時アボットにやった手紙が四通も今日に残っているが、それによると、講堂の形から、通風、入口、出口のことや、講義の題目、目と耳との比較を論じて、机上に器械標本を如何に排列すべきかというような配置図や、それから講師のスタイル、聴者の注意の引きつけ方、講義の長さ等に至るまで、色々と書いてある。その観察の鋭敏なることは驚くばかりで、後にファラデー自身が講師となって、非常に名声を博したのも、実にこれに基づくことと思われる。

     九 王立協会

 王立協会(Royal Institution)はファラデーが一生涯研究をした所で、従ってファラデー伝の中心点とも見るべき所である。それ故、その様子を少しく述べて置こうと思う。この協会の創立は一七九九年で、有名なルムフォード伯すなわちベンヂャミン・トンプソンの建てたものである。(この人の事については附録で述べる)。
 それで王立協会の目的はというと、一八〇〇年に国王の認可状の下りたのによると、「智識を普及し、有用の器械の発明並びに改良を奨め、また講義並びに実験によりて、生活改善のために科学の応用を教うる所」としてある。
 しかし、その翌年には既に財政困難に陥って維持がむずかしくなった。幸いにデビーが教授になったので、評判が良くなり、この後十年間は上流社会の人達がデビーの講義を聞くために、ここに雲集した。しかし財政は依然として余り楽(らく)にもならず、後で述べるように、デビーが欧洲大陸へ旅行した留守中につぶれかけたこともあり、一八三〇年頃までは中々に苦しかった。
 かように、一方では大学に似て、教授があって講義をする。しかし余り高尚なむずかしい講義はしない。また実験室があって研究もする。けれども他方では、会員があって、読書室に来て、科学の雑誌や図書の集めてあるのを読むようになっている。
 その頃、欧洲の大学では実験室の設備のあった所は無いので、キャンブリッジ大学のごとき所でも、相当の物理実験室の出来たのは、ファラデーの死んだ後である。それ故、王立協会に実験室のあったということは、非常な長所と言って宜しい。
 しかし時代が移り変って、現今では欧洲の大学には物理や化学の立派な実験室が出来た。その割合に王立協会のは立派にならない。今日でも講義をする場所としては有名であるが、それに関わらず、研究の余り出ないのはこのためである。

     一〇 王立協会の内部

 ロンドンの中央より少々西に寄ったピカデリーという賑やかな通から北へ曲りて、アルベマール町へはいると、普通の家と軒を並べた、大きなギリシャ式の建物がある。戸を開けて這入(はい)ると、玄関の正面には大きな石の廻り階段があって、その左右に室がある。室には、棚に書物あり、机の上には雑誌ありという風で、読書室になっている。また器械室と小さな標本室もある。さて正面の大きな階段を登ると、左に準備室があって、その先きに大きな講堂がある。講堂には大きい馬蹄形の机があって、その後方に暖炉や黒板があり、壁には図面などが掛かるようになっている。机の前には半円形になった聴講者の腰掛がならべてあり、一列毎に段々と高くなり、その上には大向うの桟敷に相当する席もあり、全体で七百人位は入れる。
 この室はファラデーの時代には非常に大きい講堂として有名なものであった。しかし今日では、ドイツ辺の大学の物理講堂は、無論これ位の大きさはあるので、昔の評判を耳にしていて、今日実際を見ると、かえって貧弱の感がする。
 また階下には小さな化学実験室がある。これは初めに小講堂であった室で、その先きに、昔からの実験室がある。炉や砂浴や机などがあり、棚には一面にいろいろの道具や器械が載せてある。この実験室は今でも明るくはないが、昔はもっと暗かったそうである。この実験室こそファラデーの大発見をした室である。その先きに暗い物置があるが、これから狭い階段を登ると、場長の住む室の方へとつづいている。
 以上が大体ファラデー時代の王立協会の様子である。この後に多少変ったり、広くもなった。ファラデーの後任のチンダルが、一八七二年に全部を改築し、一八九六年にはモンドが「デビー―ファラデー実験室」というのを南に建て増しをした。その後ヂュワーが低温度の実験をしたとき重い機械を入れたため、多少の模様変えをした。しかし今日でも昔のおもかげは残っている。[#「残っている。」は底本では「残っている 」]また大通りに十四本の柱があるが、これはファラデー時代に附けたもので、この間の入口を這入(はい)ると、今日では玄関にファラデーの立像がある。

     一一 王立協会の講義

 王立協会でやっている講義は三種類で、これはファラデーの時代からずっと引続いて同じである。
 クリスマスの頃に子供のために開くやさしい講義が六回位ある。また平常一週三回位、午後三時からの講義があって、これは同じ題目で二・三回で完了することが多い。それから金曜の夜の九時からのがある。これが一番有名なので、良い研究の結果が出ると、それを通俗に砕いて話すのである。現今ではここで話すことを以て名誉として、講師には別に謝礼は出さないことにしてある。それでも、講師は半年も一年も前から実験の準備にかかる。もちろん講師自身が全部をするのではない、助手が手伝いをするのではあるが。
 これらの講義は、著者も滞英中、聴きに行ったことがある。聴衆は多くは半白の老人で、立派な紳士が来る。学者もあり、実業家もある。夫婦連れのもあるが、中には老婦人だけ来るのもある。自働車で来るのが多いという有様で、上流の紳士に科学の興味があるのは喜ばしいことではあるが、昔のファラデーを想い起すというような小僧や書生の来ておらないのには、何となく失望を禁じ得ない。会員は多いようである。会員外の人は聴講料を出す。かなり高い。二回で半ギニー(十円五十銭)位であったと思う。一回分が丁度芝居の土間位の金高である。
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      大陸旅行

     一二 出立

 ファラデーが助手となって、六個月ばかり経つと、ファラデーの一身上に新生面の開ける事件が起った。それはデビーが欧洲大陸を旅行するという事件で、デビーはナポレオン皇帝から特別の旅券をもらい、夫人同伴で旅行する。そしてファラデーを書記として伴うことになった。
 一八一三年九月に旅行の話が定まり、十月十三日ロンドンを出発し、同一五年三月二十三日に帰るまで、約一年半の間、フランス、イタリア、スイス、オーストリア、ドイツを巡った。
 ファラデーはこのとき二十二才の青年で、最も印象をうけ易い年頃であったから、この旅行より得たものは実に莫大で、単に外国を観たというのみでなく、欧洲の学者を見たり、その話を聞いたりした。丁度普通の人の大学教育に相当するのが、ファラデーではこの大陸の旅行である。

     一三 フランス

 この旅行についてファラデーは委細の記事を残した。これを見ると、デビーの友人の事から、旅行中の研究もわかり、これに処々(ところどころ)の風景や見聞録を混じているので、非常に面白い。
 ファラデーはロンドンに育ったから、市外の青野を見ていたばかりで、小山を山岳と思い、小石を岩石と思っていたという次第である。それゆえロンドンを立ってデボンシャイアに来たばかりで、もう花崗石だの、石灰石だのという、ロンドンあたりでは見られぬものが地上に顕(あら)われて来たので、これが地盤の下にある岩石かと、その喜びと驚きとは非常であった。また海を見るのも初めてであり、ことにフランスの海岸に近づくと、熱心に南方を眺め、岸に着いては労働者を見て、文明の劣れる国だと驚いた。
 それから税関の騒擾(そうじょう)に吃驚(きっきょう)したり、馬車の御者が膝の上にも達する長い靴をはき、鞭をとり、革嚢(かくのう)を持っているのを不思議がったり、初めてミミズを見たり、ノルマンヂイの痩せた豚で驚いたりした。
 パリではルーブルを見て、その寳物を評して、これを獲たことはフランスの盗なることを示すに過ぎずというたり、旅券の事で警察に行ったら、ファラデーは円い頤(あご)で、鳶色の髪、大きい口で、大きい鼻という人相書をされた。寺院に行っては、芝居風で真面目な感じがしないといい、石炭でなくて木の炭を料理に使うことや、セイヌ河岸にいる洗濯女から、室内の飾りつけ、書物の印刷と種々の事が珍らしかった。
 学問の方面の事を書いて見ると、デビーの所へアンペアやクレメントが来て、クルトアの発見したXという新しい物を示し、これを熱すると美しい菫(すみれ)色の蒸気が立ちのぼった。それからアンペアがこの見本をよこしたので、デビーはファラデーを相手に実験をはじめた。この物が何であるかということをフランスの学者は秘密にしておったが、後には海の草から取るという事だけ漏らした。これはヨウ素なのだ。
 パリを立つ前に、ファラデーはナポレオンをちょっと見た。馬車に乗って、黄鼬(テン)の大きな長衣を着こみ、頭には天鵞絨(ビロード)の帽子を戴き、鳥の羽がさがりて顔もほとんど見えないばかりであった。この外にフンボルトにも逢い、またゲー・ルーサックが二百人の学生に講義をしてる所をも見た。

     一四 イタリア入り

 十二月二十九日にパリを立ち、郊外のフォンテン・ブローを過ぐる際、折りしも森林は一面に結晶した白い氷で被われて、非常な美観を呈していた。リオン、モンペリエ、ニースを過ぎて、地中海の岸にヨウ素を探し、翌一八一四年の正月終りには、六千尺のコール・デ・タンデの山雪を越えて、イタリアに入った。チューリンにて謝肉祭に逢い、ゲノアにては電気魚の実験をなし、これの起す電気にて水の分解されるや否やをしらべた。
 ゲノアから小舟にてレリシという所に渡ったが、危くも難破せんとした。それよりフローレンスに向った。フローレンスでは、アカデミア・デル・シメント(Academia del Cimento)に行って、図書館、庭園、博物館を見物した。ここにはガリレオの作った望遠鏡があり、筒は紙と木とで、両端にレンズがはめてあるだけだが、ガリレオはこんな粗末な物で、木星の衛星を発見したのだ。またいろいろの磁石を集めたのがあったが、中には百五十斤の重さの天然磁石もあった。タスカニイの大公爵の所有にかかる大きな「焼きガラス」も見た。つまり大きなレンズに外ならぬ。これにて太陽の光を集め、酸素でダイヤモンドを焼き、ダイヤモンドは純粋の炭素より成ることを確めた。
 四月初めにはローマに向い、そこからファラデーは旅行の事どもを書いた長い手紙を母親に送り、また元の主人のリボーにも手紙を出した。そのうちには、政治上のごたごたの事や、デビーの名声は到るところ素晴らしいため、自由に旅行できることも書いてある。またパリが同盟軍に占領された由も書き加えてある。
 ローマでは、モリシニが鋼鉄の針に太陽の光をあてて磁石にするという、あやしい実験を見、月夜にコロシウムの廃趾を越え、朝早くカンパニアの原を過ぎ、ネープルに向った。匪徒(ひと)の恐れありというので、護衛兵をも附した。
 五月半ばには再度ベスビアスに登ったが、二度目の時は丁度噴火のあった際であり、それに噴火口に着いたのが夕方の七時半だったので、一段の壮観をほしいままにした。
 六月にはテルニに行って、大瀑布の霧にうつれる虹を見たが、このとき虹の円形の全体を見ることができた。アペナイン山を過ぎて、ミランに着いたのは七月十七日。有名なボルタはこの時もう老人であったが、それでも頗る壮健で、遠来の珍客たるデビーに敬意を表せんとて、伯爵の大礼服をつけて訪ねて来て、デビーの略服にかえって驚かされた。
 コモ湖を過ぎてゼネバに来り、しばらくここに滞在した。

     一五 スイス

 この間に、友人アボットに手紙を出して、フランス語とイタリア語との比較や、パリおよびローマの文明の傾向を論じたりしたが、一方では王立協会の前途について心配し、なおその一節には、
「旅行から受くる利益と愉快とを貴ぶことはもちろんである。しかし本国に帰ろうと決心した事が度々ある。結局再び考えなおして、そのままにして置いた。」
「科学上の智識を得るには屈竟(くっきょう)の機会であるから、サー・デビーと共に旅行を続けようと思う。けれども、他方ではこの利益を受けんがために、多くの犠牲を払わねばならぬのは辛い。この犠牲たるや、下賤の者は左程と思わぬであろうが、自分は平然としていられない。」
 そうかと思うと、
「サー・デビーはヨウ素の実験を繰りかえしている。エム・ピクテーの所の三角稜(プリズム)を借りて、そのスペクトルを作った。」
 それから、終りには、
「近頃は漁猟と銃猟とをし、ゼネバの原にてたくさんの鶉(うずら)をとり、ローン河にては鱒(ます)を漁った。」
などとある。

     一六 デビー夫人

 かくファラデーが、辛棒出来かねる様にいうているのは、そもそも何の事件であるか。これにはデビイの事をちょっと述べて置く。
 デビーが一八〇一年に始めてロンドンに出て来たときは、田舎生れの蛮カラだったが、都会の風に吹かれて来ると、大のハイカラになりすまし、時代の崇拝者となり、美人の評判高かった金持の後家と結婚し、従男爵に納まってサー(Sir)すなわち準男爵を名前に附けるようになり、上流社会の人々と盛んに交際した。この度の旅行にもこの夫人が同行したが、夫人は平素デビーの書記兼助手たるファラデーを眼下に見下しておったらしい。
 さて上に述べた手紙に対して、アボットは何が不快であるかと訊(き)いてよこした。ファラデーはこの手紙を受取って、ローマで十二枚にわたる長文の返事を出した。これは一月の事だが、その後二月二十三日にも手紙を出した。この時には事件がやや平穏になっていた時なので、
「サー・デビーが英国を出立する前、下僕が一緒に行くことを断った。時がないので、代りを探すことも出来なくて、サー・デビーは非常に困りぬいた。そこで、余に、パリに着くまででよいから、非常に必要の事だけ代りをしてはくれまいか、パリに行けば下僕を雇うから、と言われた。余は多少不平ではあったが、とにかく承知をした。しかしパリに来て見ても、下僕は見当らない。第一、英国人がいない。また丁度良いフランス人があっても、その人は余に英語を話せない。リオンに行ったが無い。モンペリエに行っても無い。ゼネバでも、フローレンスでも、ローマでも、やはりない。とうとうイタリア旅行中なかった。しまいには、雇おうともしなかったらしい。つまり英国を出立した時と全く同一の状態のままなのである。それゆえ初めから余の同意しない事を、余のなすべき事としてしまった。これは余がなすことを望まない事であって、サー・デビーと一緒に旅行している以上はなさないわけには行かないことなのだ。しかも実際はというと、かかる用は少ない。それにサー・デビーは昔から自分の事は自分でする習慣がついているので、僕のなすべき用はほとんどない。また余がそれをするのを好まぬことも、余がなすべき務と思っておらぬことも、知りぬいているから、不快と思うような事は余にさせない様に気をつけてくれる。しかしデビー夫人の方は、そういう人ではない、自分の権威を振りまわすことを好み、余を圧服せんとするので、時々余と争になることがある。」
「しかしサー・デビーは、その土地で女中を雇うことをつとめ、これが夫人の御用をする様になったので、余はいくぶんか不快でなくなった。」
と書いてある。
 かような風習は欧洲と日本とでは大いに違うているので、少し註解を附して置く。欧洲では、下女を雇っても、初めから定めた仕事の外は、主人も命じないし、命じてもしない。夜の八時には用をしまうことになっていると、たとい客が来ておろうと、そんな事にはかまわない。八時になれば、さっさと用をやめて、自分の室に帰るなり、私用で外出するなりする。特別の場合で、下女が承知すれば用をさせるが、そのときは特別の手当をやらねばならぬ。デビーはファラデーに取っては恩人であるから、日本流にすれば、少々は嫌やな事もなしてよさそうに思われるが、そうは行かない。この点はファラデーのいう所に理がある。しかし他方で、ファラデーは権力に抑えられることを非常に嫌った人で、また決して穏かな怒りぽくない人では無かったのである。

     一七 デ・ラ・リーブ

 そのうちに、ファラデーに同情する人も出来て来た。一八一四年七月から九月中旬までゼネバに滞在していたが、デ・ラ・リーブはデビーの名声に眩(くら)まさるることなく、ファラデーの真価を認め出した。その動機は、デビーが狩猟を好むので、リーブも一緒に行ったが、リーブは自分の銃は自分で装填し、デビーの鉄砲にはファラデーが装填する。こんな事で、リーブとファラデーとは談話する機会を得、リーブはファラデーが下僕ではなくて、実験の助手であることも知ったし、またこの助手が中々偉い人間であることも知った。それでほとんどデビーに次ぐの尊敬を払いはじめた。ある日、リーブの所で正餐をデビー夫妻に饗(もてな)したことがあった。その時ファラデーをも陪席させると言い出した。しかしデビーは下僕の仕事もしているのだからというて断った。しかしリーブは再三申し出して、とにかく別室でファラデーを饗応(きょうおう)することにした。
 ファラデーはリーブを徳としたのか、その交際はリーブの子の代までも続き、実に五十年の長きに亘(わた)った。

     一八 旅行のつづき

 再び旅行の事に戻ろう。デビーはゼネバを立って、北方ローザン、ベルン、ツーリヒに出で、バーデンを過ぎてミュンヘンに行き、ドイツの都会を巡遊して、チロールを過ぎり、南下してピエトラ・マラの近くで、土地より騰(のぼ)る燃ゆるガスを集め、パヅアに一日、ヴェニスに三日を費し、ボログナを通ってフローレンスに行き、ここに止まって前に集めたガスを分析し、十一月の初めには再びローマに戻って来た。
 ファラデーは一・二度母親にも妹にも手紙を送り、また王立協会の前途を案じてはアボットに手紙を送り、「もし事変の起るようなことでもあったら、そこに置いてある自分の書籍を忘れずに取り出してくれ。これらの書籍は旧に倍しても珍重するから」と書いてやった。また自分の属する教会の長老には寺院のお祭りや謝肉祭の光景、コロシウムの廃跡等をくわしく書きおくり、若い友人にはフランス語の学び方を述べた手紙を送ったりした。
 この頃のファラデーの日記を見ると、謝肉祭の事がたくさんかいてある。その馬鹿騒ぎが非常に気に入ったらしく、昼はコルソにて競馬を見、夕には仮面舞踏会に四回までも出かけ、しかも最後の時には、女の寝巻に鳥打帽という扮装で押し出した。
 サー・デビーは、それからギリシャ、トルコの方面までも旅行したい希望であったが、見合わすこととなり、一八一五年二月末、ネープルに赴いてベスビアス山に登り、前年の時よりも噴火の一層活動せるを見て大いに喜んだ。
 このとき何故か、急に帰途に就くこととなり、三月二十一日ネープルを出立、二十四日ローマに着、チロールからドイツに入り、スツットガルト、ハイデルベルヒ、ケルンを経て、四月十六日にはベルギーのブラッセルにつき、オステンドから海を渡ってヂールに帰り、同じく二十三日には既にロンドンに到着した。
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      中年時代

     一九 帰国後のファラデー

 ファラデーは再び王立協会に帰って、以前と同じ仕事をやりだしたが、ファラデーその人はというと旧阿蒙(きゅうあもう)ではなかった。ファラデーにとっての大学は欧洲大陸であって、ファラデーの先生は主人のデビーや、デビーの面会した諸学者であった。
 この頃は英国と大陸との交通がまだ少ない時代であったから、外国の学者に知り合いの出来たことは非常に都合が好く、自分の研究を大陸に知らせるにも非常な便宜を得た。ことにフランスではアカデミー(Academie)の出来たてで、その会員の人々にも心易くなった。
 一八一五年五月には引き続いて王立協会に雇わるることとなって、俸給も一週三十シリング(十五円)に増したが、その後に一年百ポンド(一千円)となった。
 今日に残っている実験室の手帳を見ると、この年の九月から手が変って、化学教授のブランドの大きな流し書きから、ファラデーの細かい奇麗な字になっている。デビーは欧洲へ出立するとき教授をやめて、ブランドが後任となり、デビーは名誉教授となって研究だけは続けておった。

     二〇 デビーの手伝い

 この頃デビーは□(ほのお)の研究をしていた。これは鉱山で、よくガスが爆発して、礦夫の死ぬのを救わんため、安全灯を作ろうという計画なのである。ファラデーもこれを手伝った。デビーの安全灯の論文の初めにも、「ファラデー君の助力を非常に受けた」と書いてある。
 デビーは金網を用いて火□を包み安全灯を作ったが、一八一六年には礦山で実地に用いられるようになった。しかしこの安全灯とても、絶対に安全という訳には行かない。議会の委員が安全灯を試験した際にも、ファラデーはこの由を明言した。ファラデーは先生のデビーにはどこまでも忠実であったが、しかし不正を言うことは出来ない人であった。
 ファラデーはデビーの実験を助ける外に、デビーの書いた物をも清書した。デビーは乱雑に字を書くし、順序等には少しも構わないし、原稿も片っ端しから破ってしまう。それでファラデーは強(し)いて頼んでその原稿を残して置いてもらい、あとで二冊の本に製本した。今日に保存されている。

     二一 自分の研究

 これまでのファラデーは智識を吸収する一方であったが、この頃からボツボツと研究を発表し出した。初めて講演をしたのは一八一六年の一月十七日で、市(シティ)科学会でやり、また初めて自分の研究した論文を出したのもこの年で、「科学四季雑誌」(Quarterly Journal of Science)に発表した。講演は物質に関するもので、論文は生石灰の分析に就いてである。いずれもそう価値のあるものではない。
 しかし、これは特筆に値いするものというて宜かろう。ささやかなる小川もやがては洋々たる大河の源であると思えば、旅行者の一顧に値いするのと同じく、ファラデーは講演者として古今に比いなき名人と謂(い)われ、また研究者としては幾世紀の科学者中ことに群を抜いた大発見をなした偉人と称(たた)えられるようになったが、そのそもそもの初めをたずねれば、実にこの講演と研究とを発端とするからである。
 かくファラデー自身が研究を始めることになって見ると、デビーの為めに手伝いする部分と、自分自身のために研究する部分との区別がつきにくくなり、これがため後には行き違いを生じたり、妬みを受けたりした。しかし初めの間はまだ左様なこともなく、一八一八年頃デビーが再び大陸に旅行しておった留守にも、ファラデーは実験室で種々の研究をし、ウエストの新金属というたシリウムを分析して、鉄、ニッケル、硫黄から成ることを発表し、またベスチウムなる金属を分析しては「既知の元素を順次に取り去れば、ベスチウムは無くなってしまった」というた。
 一方で研究をすると同時に、他方では講演も上手になろうと苦心し、スマート氏について雄弁術の稽古をし、一回に半ギニー(十円五十銭)の謝礼を払ってやった位、熱心であった。

     二二 研究の続き。電磁気廻転

 その後ファラデーは結婚した。この事は後にくわしく述べるとして、引きつづいてファラデーのしておった仕事について述べよう。
 ファラデーの仕事は、ブランド教授が講義に見せる実験の器械を前以て備え置き、時間が来ると教授の右方に立って、色々の実験をして見せる。講義のない時は、化学分析をしたり、新しい化学の薬品を作ったり、また暇には新しい研究もした。
 この数年間にやった新しい研究を述べると、まず塩素の研究をした。しかし、臭い黄色いガスを室の内に撒き散らすのではなくて、炭素と化合させたり、または液体にして、伝染病の消毒に使うというような事をした。次にはヨウ素を研究した。やはり炭素や水素と化合させた。またナフサリンを強い酸に溶したりした。鋼鉄の堅くて錆びないのを作ろうと工夫して、白金だの、その他の金属を少しずつ加えて見たが、これは成功しなかった。一番成功したのは電磁気廻転の実験であった。
 一八二〇年にエールステッドが電流の作用によりて磁針が動くのを発見したのが初まりで、電流と磁石との研究が色々と始まった。その翌年にファラデーは、電流の通れる針金を磁極の囲(まわ)りに廻転させる実験に成功した。これは九月三日の事で、ジョージ・バーナードというファラデーの細君の弟も手伝っておったが、それがうまく行ったので、ファラデーは喜びの余り、針金の廻る傍で踊り出してしまい、「廻る! 廻る! とうとう成功したぞ!」といった。「今日の仕事はこれで切り上げ、どこかに行こう。どこがよい。」「アストレーに行って、曲馬でも見よう」と、大機嫌でバーナードを連れてアストレーに行った。これまでは宜かったが、土間の入口で大変に込み合い、大きな奴がバーナードを押しつけた。不正な事の少しも辛棒できないファラデーの事とて、とうとう喧嘩になりかけた。
 この頃ファラデーの道楽は、自転車のようなベロシピードというものを造って、朝はやく郊外のハムステッド岡のあたりに出かけたり、夕方から横笛を吹いたり、歌を唄う仲間と一週に一回集ったりした。彼はバスを歌った。

     二三 サンデマン宗

 キリスト教の宗派はたくさんあるが、そのうちで最も世の中に知られないのはサンデマン宗であろう。
 一七三〇年頃にスコットランドのプレスビテリアン教会の牧師にジョン・グラスという人があった。教会はキリストと使徒との教えのみにより支配さるべきもので、国教という様になりて国家と関係をつけるのは間違っている。吾等も新約聖書にあるだけ、すなわち初期のキリスト教徒の信じただけを信ずべきであると説いた。グラスと婿のサンデマンとがこの教旨を諸方に広めたので、この宗をグラサイトとも、またサンデマニアンともいう。
 大体の教義については、清教徒に近く、礼拝の形式においてはプレスビテリアンに似ている。しかしこの宗の信者は他の教会と全く不関焉(かんせずえん)で、他宗の信者を改宗させるために伝道するというようなこともしない。それゆえ余り盛んにもならないでしまった。
 ファラデーの父のジェームスがこの教会に属しており、母も(教会には入らなかったが)礼拝に行った関係上、まだ小児の時から教会にも行き、その影響を受けたことは一と通りではなかった。

     二四 サラ・バーナード嬢

 この教会の長老にバーナードという人があって、銀細工師で、ペーターノスター・ローという所に住んでおった。その次男のエドワードとファラデーは親しかったので、その家に行ったりした。エドワードの弟にジョージというのがあり、後に水彩画家になった人だが、この外に三人の妹があった。長女はもはやかたづいてライド夫人となり、次女はサラといいて、妙齢二十一才、三女のジェンはまだ幼い子であった。ファラデーは前から手帖に色々の事を書いておったが、その中に「愛」を罵(ののし)った短い歌の句などもたくさんあった。
 ところが、これをエドワードが見つけて、妹のサラに話した。サラはファラデーに何と書いてあるのか見せて頂戴なと言った。これにはファラデー閉口した。結局それは見せないで、別に歌を作って、前の考は誤りなることを発見したからと言ってやった。これはその年(一八一九年)の十月十一日のことである。この頃からファラデーは、すっかりサラにまいってしまった。
 時に、手紙をやったが、それらのうちには中々名文のがある。翌年七月五日附けの一部を紹介すると、
「私が私の心を知っている位か、否な、それ以上にも、貴女は私の心を御存知でしょう。私が前に誤れる考を持っておったことも、今の考も、私の弱点も、私の自惚(うぬぼれ)も、つまり私のすべての心を貴女は御存知でしょう。貴女は私を誤れる道から正しい方へと導いて下さった。その位の御方であるから、誰なりと誤れる道に踏み入れる者のありもせば導き出さるる様にと御骨折りを御願い致します。」
「幾度も私の思っている事を申し上げようと思いましたが、中々に出来ません。しかし自分の為めに、貴女の愛情をも曲げて下さいと願うほどの我儘(わがまま)者でない様にと心がけてはおります。貴女を御喜ばせする様にと私が一生懸命になった方がよいのか、それとも御近寄りせぬでいた方がよいのか、いずれなりと御気に召した様に致しましょう。ただの友人より以上の者に私がなりたいと希(こ)い願ったからとて、友人以下の者にしてしまいて、罰されぬようにと祈りております。もし現在以上に貴女が私に御許し下さることが出来ないとしても現在私に与えていて下さるだけは、せめてそのままにしておいて下さい。しかし私に御許し下さるよう願います。」

     二五 結婚

 サラはこの手紙を父に見せると、父は一笑に附して、科学者が、馬鹿な事を書いたものだといった。ファラデーは段々と熱心になる。サラは返事に困って躊躇し、※[#「姉」の正字、「女+□のつくり」、65-6]のライド夫人とラムスゲートの海岸へ旅行に行ってしまった。ファラデーは、もうジッとしてはいられない。追いかけて行って、一緒にドーバーあたりで一日を送り、愉快に満ちた顔して帰って来た。ついに一八二一年六月十二日に結婚した。
 式の当日は賑やかなことや、馬鹿騒ぎはせぬ様にし、またこの日が平日と特に区別の無い様にしようとの希望であった。しかし実際においては、この日こそファラデーに取って、生涯忘るべからざる日となったので、その事はすぐ後に述べることとする。
 結婚のすぐ前に、ファラデーは王立協会の管理人ということになり、結局細君を王立協会の内に連れて来て、そこに住んだ。しかし舅(しゅうと)のバーナードの死ぬまでは、毎土曜日には必ずその家に行って、日曜には一緒に教会に行き、夕方また王立協会へ帰って来た。
 ファラデーの真身の父は、ファラデーがリボーの所に奉公している中に死んだが、母はファラデーと別居していて、息子の仕送りで暮し、時々協会にたずね来ては、息子の名声の昇り行くのを喜んでおった。
 ファラデーは結婚してから一ヶ月ばかりして、罪の懺悔をなし、信仰の表白をして、サンデマン教会にはいった。しかしこの際に、細君のサラには全く相談しなかった。もっとも細君は既に教会にはいってはおった。ある人が何故に相談しなかったときいたら、それは自分と神との間のみの事だから、と答えた。

     二六 幸福なる家(ホーム)

 ファラデーには子供が無かった。しかし、この結婚は非常に幸福であった。年の経つに従って、夫妻の愛情はますます濃(こま)やかになるばかりで[#「ばかりで」は底本では「ばかりて」]、英国科学奨励会(British Association of the Advancement of Science)の年会があって、ファラデーがバーミンガムに旅行しておった時も、夫人に送った手紙に、
「結局、家(ホーム)の静かな悦楽に比ぶべきものは外にない。ここでさえも食卓を離れる時は、おん身と一緒に静かにおったらばと切に思い出す。こうして世の中を走り廻るにつけて、私はおん身と共に暮すことの幸福を、いよいよ深く感ずるばかりである。」
 ファラデーは諸方からもらった名誉の書類を非常に大切に保存して置いた。今でも王立協会にそのままある。各大学や、各学会からよこした学位記や賞状の中に、一つの折紙が挟んである。
「一八四七年一月二十五日。」
これらの記録の間に、尊敬と幸福との源として、他のものよりも一層すぐれたものを挟んで置く。余等は一八二一年六月十二日に結婚した。
ファラデー」 またチンダルの書いたファラデー伝には、「これにも優りて、雄々しく、清らかなる、不変の愛情他にあるべきや。宛も燃ゆるダイヤモンドのその如く、四十六年の長きに亘りて、煙なき、純白の光を放ちつつ燃えぬ」
と、美しい筆致で描かれてある。
 ファラデーは結婚後、家庭が極めて幸福だったので、仕事にますます精が出るばかりであった。前記の市科学会はもはやつぶれたので、友人のニコルの家へ集って、科学の雑誌を読んだりした。
 一八二三年には、アセニウム倶楽部ができた。今のパル・マルにある立派な建物はまだなくて、ウォータールー・プレースの私人の家に、学者や文学者が集ったので、ファラデーはその名誉秘書になった。しかし、自分の気風に向かない仕事だというので、翌年辞した。

     二七 ローヤル・ソサイテーの会員

 デビーはファラデーの書いたものの文法上の誤を正したり、文章のおかしい所をなおしたりしてくれた。一八二二年に塩素を液化したときのファラデーの論文も、デビーはなおした上に附録をつけ、自分が実験の方法を話したことも書き加えた。しかし、ファラデーの要求すべき領域内に立ち入るようなことはなかった。ただ事情を知らない人には、こうした事もとかく誤解を生じ易い。
 すでに二、三年前に電磁気廻転を発見した時にも誤解が起った。ファラデーが発見した以前、ウォーラストンがやはり電磁気廻転のことを考えておった。しかし、ファラデーのとは全く別のものであった。それにも関わらずウォーラストンの友人のワルブルトン等は同じものだと誤解しておった。
 この塩素の液化の発見の後に、ファラデーはローヤル・ソサイテーの会員になろうと思った。会員になるには、まず推薦書を作って、既に会員たる者の幾名かの記名を得てソサイテーに提出する。ソサイテーでは引き続きたる、十回の集会の際に読み上げ、しかる後に投票して可否を決するのである。ファラデーのは、友人のフィリップスがこの推薦書を作り、二十九名の記名を得て、一八二三年五月一日に会に提出した。しかし、デビー並びにブランドの記名が無かった。多くの人は、デビーは会長であり、ブランドは秘書だからだと思った。
 しかし、後にファラデーが人に話したのによると、デビーはこの推薦書を下げろとファラデーに言った。ファラデーは、自分が出したのではない、提出者が出したのだから、自分からは下げられないと答えた。デビーは「それなら、提出者に話して下げろ。」「いや、提出者は下げまい。」「それなら、自分はソサイテーの会長だから、下げる。」「サー・デビーは会長だから、会の為めになると思わるる様にされたらよい。」
 また、提出者の話にも、ファラデーを推薦するのはよくないという事をデビーが一時間も説いた。こんな風で、その頃のデビーとファラデーとの間はとかく円満を欠いておった。しかしその後になって、段々とデビーの感情もなおり、また一方で、ウォーラストンの誤解も分明になって、結局ただ一つの反対票があったのみで、翌一八二四年の一月八日に名誉ある会員に当選した。
 デビーの妬み深いのは、健康を損してから一層ひどくなった。この後といえどもファラデーのデビーを尊敬することは依然旧のごとくであったが、デビーの方ではもとのようにやさしく無かった。やがてデビーは病気保養のため、イタリアに転地などをしておったが、五年の後逝(な)くなった。

     二八 講演

 一八二三年にブランド教授が講演を突然休んだことがあって、ファラデーが代理をして好評を博した。これが王立協会での、ファラデーの初めての講演である。一八二五年二月には、王立協会の実験場長になった。ブランドはやはり化学の教授であった。
 ファラデーが実験場長になってから、協会の会員を招いて実験を見せたり講演を聞かせたりすることを始めた。また講演も自分がやるだけでなく、外からも有名な人を頼んで来た。後になっては、金曜日の夜に開くことになり(毎金曜日ではない)、今日まで引き続きやっている。「金曜夕の講演」というて、科学を通俗化するに非常な効があった。
 この講演を何日に誰がして、何という題で、何を見せたか、ファラデーは細かく書きつけて置いた。これも今日残っている。
 また木曜日の午後には、王立協会の委員会があるが、この記事もファラデーが書いて置いた。
 一八二七年のクリスマスには、子供に理化学の智識をつけようというので、六回ほど講演をした。これも非常な成功で、その後十九年ばかり引きつづいて行った。この手扣(てびかえ)も今日まで保存されてある。これが有名な「クリスマスの講演」というのである。
 この年、化学教授のブランドが辞職し、ファラデーが後任になった。一八二九年には、欧洲の旅行先きでデビーが死んだ。
 これよりさき、一八二七年に、ロンドン大学(ただ今のユニバーシティ・カレッジというているもの)から化学教授にと呼ばれたが、断った。
 一八二九年には、ロンドン郊外のウールウイッチにある王立の海軍学校に講師となり、一年に二十回講義を引き受けた。たいてい、講義のある前日に行って準備をし、それから近辺を散歩し、翌朝、講義をしまいてから、散歩ながら帰って来た。講師としては非常に評判がよかった。一八五二年まで続けておったが、学制が変ったので、辞職して、アーベルを後任に入れた。

     二九 協会の財政

 この頃ファラデーの発表した研究は既に述べた通りである。しかし、王立協会の財政は引きつづいて悪いので、ファラデーも実験費を出来るだけ節約し、半ペンスの金も無駄にしないように気をつけていた。
 それでも一八三一年には、電磁気感応の大発見をした。この翌年の末の頃には王立協会の財政はいよいよ悪くなった。その時委員会の出した報告に、「ファラデーの年俸一百ポンド、それに室と石炭とロウソク(灯用)。これは減ずることは出来ない。またファラデーの熱心や能力に対して気の毒ではあるが、王立協会のただ今の財政では、これを増す余地は絶対にない」ということが書いてある。
 しかしその翌年に、下院議員のジョン・フーラーという人が金を寄附してくれて、新たに化学の教授を置くこととなり、ファラデーを終身官として、これを兼任させた。その年俸百ポンドで、今までの俸給の上にこれだけ増俸した事になった。実験費もいくぶん楽になった。その後に俸給もまた少し増した。
 ファラデーが年を取りて、研究や講演が出来なくなっても、王立協会の幹事は元通りファラデーに俸給も払い、室も貸して置いて、出来るだけの優遇をした。
 実際、王立協会はファラデーが芽生で植えられた土地で、ここにファラデーは生長して、天才の花は爛漫(らんまん)と開き、果を結んで、あっぱれ協会の飾りともなり、名誉ともなったのであるから、かく優遇したのは当然の事と言ってよい。

     三〇 ファラデーの収入

 しかし、年俸一百ポンドと室と石炭とロウソク。
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