瘠我慢の説
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著者名:石河幹明 

求(もと)めたるやというに、診察とは口実(こうじつ)のみ、公使はかねて浅田が小栗に信用あるを探知(たんち)し、治療(ちりょう)に託してこれに親(した)しみ、浅田を介(かい)して小栗との間に、交通(こうつう)を開き事を謀(はか)りたる者にて、流石(さすが)は外交家の手腕(しゅわん)を見るべし。かくて事の漸(ようや)く進むや外国奉行(がいこくぶぎょう)等は近海巡視(きんかいじゅんし)など称し幕府の小軍艦に乗(じょう)じて頻々(ひんぴん)公使の許(もと)に往復(おうふく)し、他の外国人の知(しら)ぬ間に約束(やくそく)成立(せいりつ)して発表(はっぴょう)したるは、すなわち横須賀造船所(よこすかぞうせんじょ)の設立にして、日本政府は二百四十万弗(ドル)を支出(ししゅつ)し、四年間継続(けいぞく)の工事としてこれを経営(けいえい)し、技師職工は仏人を雇(やと)い、随(したがっ)て器械(きかい)材料(ざいりょう)の買入までも仏人に任(まか)せたり。
 小栗等の目的(もくてき)は一意(いちい)軍備の基(もとい)を固(かた)うするがために幕末財政(ざいせい)窮迫(きゅうはく)の最中(さいちゅう)にもかかわらず奮(ふるっ)てこの計画(けいかく)を企(くわだ)てたるに外ならずといえども、日本人がかかる事には全く不案内(ふあんない)なる時に際し、これを引受(ひきう)けたる仏人の利益(りえき)は想(おも)い見るべし。ロセツはこれがために非常(ひじょう)に利したりという。
 かくて一方には造船所の計画(けいかく)成(な)ると同時に、一方において更(さら)にロセツより申出(もうしい)でたるその言に曰(いわ)く、日本国中には将軍殿下(しょうぐんでんか)の御領地(ごりょうち)も少からざることならん、その土地の内に産(さん)する生糸(きいと)は一切他(た)に出(いだ)さずして政府の手より仏国人に売渡(うりわた)さるるよう致(いた)し度(た)し、御承知(ごしょうち)にてもあらんが仏国は世界第一の織物国(おりものこく)にして生糸の需用(じゅよう)甚(はなは)だ盛(さかん)なれば、他国の相場(そうば)より幾割の高価(こうか)にて引受け申すべしとの事なり。一見他に意味(いみ)なきがごとくなれども、ロセツの真意(しんい)は政府が造船所(ぞうせんじょ)の経営(けいえい)を企(くわだ)てしその費用の出処(しゅっしょ)に苦しみつつある内情を洞見(どうけん)し、かくして日本政府に一種の財源(ざいげん)を与(あた)うるときは、生糸専売(きいとせんばい)の利益を占(し)むるの目的(もくてき)を達し得べしと考(かんが)えたることならん。
 すなわち実際には造船所の計画(けいかく)と聯関(れんかん)したるものなれども、これを別問題(べつもんだい)としてさり気(げ)なく申出(もうしいだ)したるは、たといこの事が行われざるも造船所計画(けいかく)の進行(しんこう)に故障(こしょう)を及ぼさしむべからずとの用意(ようい)に外ならず。掛引(かけひき)の妙(みょう)を得たるものなれども、政府にてはかかる企(たくら)みと知るや知らずや、財政窮迫(きゅうはく)の折柄(おりから)、この申出(もうしいで)に逢うて恰(あたか)も渡(わた)りに舟(ふね)の思(おもい)をなし、直(ただち)にこれを承諾(しょうだく)したるに、かかる事柄(ことがら)は固(もと)より行わるべきに非ず。その事の知(し)れ渡(わた)るや各国公使は異口同音(いくどうおん)に異議を申込みたるその中にも、和蘭公使(オランダこうし)のごときもっとも強硬(きょうこう)にして、現に瓜哇(ジャワ)には蘭王(らんおう)の料地(りょうち)ありて物産(ぶっさん)を出せども、これを政府の手にて売捌(うりさば)くことなし、外国と通商条約(つうしょうじょうやく)を取結びながら、或(あ)る産物(さんぶつ)を或る一国に専売(せんばい)するがごとき万国公法(ばんこくこうほう)に違反(いはん)したる挙動(きょどう)ならずやとの口調(くちょう)を以て厳(きび)しく談(だん)じ込(こ)まれたるが故(ゆえ)に、政府においては一言(いちごん)もなく、ロセツの申出はついに行(おこな)われざりしかども、彼が日本人に信ぜられたるその信用(しんよう)を利用して利を謀(はか)るに抜目(ぬけめ)なかりしは凡(およ)そこの類(たぐい)なり。
 単に公使のみならず仏国の訳官(やくかん)にメルメデ・カションという者あり。本来宣教師(せんきょうし)にして久しく函館(はこだて)に在(あ)り、ほぼ日本語にも通(つう)じたるを以て仏公使館の訳官となりたるが、これまた政府に近(ちか)づきて利したること尠(すく)なからず。その一例を申せば、幕府にて下(しも)ノ関(せき)償金(しょうきん)の一部分を払うに際し、かねて貯(たくわ)うるところの文銭(ぶんせん)(一文銅銭)二十何万円を売り金(きん)に換(か)えんとするに、文銭は銅質(どうしつ)善良(ぜんりょう)なるを以てその実価(じっか)の高きにかかわらず、政府より売出すにはやはり法定(ほうてい)の価格に由(よ)るの外なくしてみすみす大損を招かざるを得ざるより、その処置(しょち)につき勘考中(かんこうちゅう)、カションこれを聞き込み、その銭(ぜに)を一手に引受(ひきう)け海外の市場に輸出し大(おおい)に儲(もう)けんとして香港(ホンコン)に送りしに、陸揚(りくあげ)の際に銭(ぜに)を積(つ)みたる端船(たんせん)覆没(ふくぼつ)してかえって大に損(そん)したることあり。その後カションはいかなる病気(びょうき)に罹(かか)りけん、盲目(もうもく)となりたりしを見てこれ等の内情を知れる人々は、因果(いんが)覿面(てきめん)、好(よ)き気味(きみ)なりと竊(ひそか)に語(かた)り合いしという。
 またその反対(はんたい)の例を記(しる)せば、彼(か)の生麦事件(なまむぎじけん)につき英人の挙動(きょどう)は如何(いかん)というに、損害要求(そんがいようきゅう)のためとて軍艦を品川に乗入(のりい)れ、時間を限(かぎ)りて幕府に決答(けっとう)を促(うなが)したるその時の意気込(いきご)みは非常(ひじょう)のものにして、彼等の言を聞けば、政府にて決答を躊躇(ちゅうちょ)するときは軍艦より先(ま)ず高輪(たかなわ)の薩州邸(さっしゅうてい)を砲撃(ほうげき)し、更(さ)らに浜御殿(はまごてん)を占領(せんりょう)して此処(ここ)より大城に向て砲火(ほうか)を開き、江戸市街を焼打(やきうち)にすべし云々(うんぬん)とて、その戦略(せんりゃく)さえ公言(こうげん)して憚(はば)からざるは、以て虚喝(きょかつ)に外ならざるを知るべし。
 されば米国人などは、一個人の殺害(さつがい)せられたるために三十五万弗(ドル)の金額を要求するごとき不法(ふほう)の沙汰(さた)は未(いま)だかつて聞かざるところなり、砲撃(ほうげき)云々(うんぬん)は全く虚喝(きょかつ)に過(す)ぎざれば断じてその要求を拒絶(きょぜつ)すべし、たといこれを拒絶(きょぜつ)するも真実(しんじつ)国と国との開戦(かいせん)に至(いた)らざるは請合(うけあ)いなりとて頻(しき)りに拒絶論(きょぜつろん)を唱(とな)えたれども、幕府の当局者は彼の権幕(けんまく)に恐怖(きょうふ)して直(ただち)に償金(しょうきん)を払(はら)い渡(わた)したり。
 この時、更(さ)らに奇怪(きかい)なりしは仏国公使の挙動(きょどう)にして本来(ほんらい)その事件には全く関係(かんけい)なきにかかわらず、公然書面を政府に差出(さしいだ)し、政府もし英国の要求を聞入(ききい)れざるにおいては仏国は英と同盟して直(ただち)に開戦(かいせん)に及(およ)ぶべしと迫(せま)りたるがごとき、孰(いずれ)も公使一個の考(かんがえ)にして決して本国政府の命令(めいれい)に出でたるものと見るべからず。
 彼(か)の下ノ関砲撃事件(ほうげきじけん)のごときも、各公使が臨機(りんき)の計(はから)いにして、深き考ありしに非ず。現(げん)に後日、彼の砲撃に与(あずか)りたる或(あ)る米国士官の実話(じつわ)に、彼の時は他国の軍艦が行(ゆ)かんとするゆえ強(し)いて同行したるまでにて、恰(あたか)も銃猟(じゅうりょう)にても誘(さそ)われたる積(つも)りなりしと語りたることあり。以てその事情を知るべし。
 右のごとき始末(しまつ)にして、外国政府が日本の内乱に乗(じょう)じ兵力(へいりょく)を用いて大(おおい)に干渉(かんしょう)を試みんとするの意志(いし)を懐(いだ)きたるなど到底(とうてい)思(おも)いも寄らざるところなれども、当時(とうじ)外国人にも自(おのず)から種々の説を唱(とな)えたるものなきにあらずというその次第(しだい)は、たとえば幕府にて始めに使節(しせつ)を米国に遣(つか)わしたるとき、彼の軍艦咸臨丸(かんりんまる)に便乗(ぴんじょう)したるが、米国のカピテン・ブルックは帰国の後、たまたま南北戦争の起るに遇(あ)うて南軍に属し、一種の弾丸(だんがん)を発明(はつめい)しこれを使用してしばしば戦功を現(あら)わせしが、戦後その身の閑(かん)なるがために所謂(いわゆる)脾肉(ひにく)の嘆(たん)に堪(た)えず、折柄(おりから)渡来(とらい)したる日本人に対し、もしも日本政府にて余(よ)を雇入(やといい)れ彼(か)の若年寄(わかどしより)の屋敷(やしき)のごとき邸宅(ていたく)に居るを得せしめなば別(べつ)に金(かね)は望まず、日本に行(ゆき)て政府のために尽力(じんりょく)したしと真面目(まじめ)に語りたることあり。
 また維新の際にも或(あ)る米人のごとき、もしも政府において五十万弗(ドル)を支出(ししゅつ)せんには三隻(せき)の船を造(つく)りこれに水雷を装置(そうち)して敵(てき)に当るべし、西国大名のごときこれを粉韲(ふんさい)[#ルビの「ふんさい」は底本では「ふんせい」]する容易(ようい)のみとて頻(しき)りに勧説(かんせつ)したるものあり。蓋(けだ)し当時南北戦争漸(ようや)く止(や)み、その戦争(せんそう)に従事したる壮年(そうねん)血気(けっき)の輩(はい)は無聊(ぶりょう)に苦しみたる折柄(おりから)なれば、米人には自(おのず)からこの種(しゅ)の輩(はい)多(おお)かりしといえども、或(あるい)はその他の外国人にも同様(どうよう)の者ありしならん。この輩のごときは、かかる多事紛雑(たじふんざつ)の際に何か一(ひ)と仕事(しごと)して恰(あたか)も一杯の酒を贏(か)ち得(う)れば自(みず)からこれを愉快(ゆかい)とするものにして、ただ当人銘々(めいめい)の好事心(こうずしん)より出でたるに過ぎず。五十万円(ママ)を以て三隻の水雷船(すいらいせん)を造り、以て敵を鏖(みなごろし)にすべしなど真に一場(じょう)の戯言(ぎげん)に似(に)たれども、何(いず)れの時代にもかくのごとき奇談(きだん)は珍らしからず。
 現に日清戦争(にっしんせんそう)の時にも、種々の計(はかりごと)を献(けん)じて支那政府の採用(さいよう)を求めたる外国人ありしは、その頃の新聞紙(しんぶんし)に見えて世人の記憶(きおく)するところならん。当時或る洋学者の家などにはこの種の外国人が頻(しき)りに来訪(らいほう)して、前記のごとき計画(けいかく)を説き政府に取次(とりつぎ)を求めたるもの一にして足(た)らざりしかども、ただこれを聞流(ききなが)して取合(とりあ)わざりしという。もしもかかる事実(じじつ)を以て外国人に云々(しかじか)の企(くわだて)ありなど認むるものもあらんには大なる間違(まちがい)にして、干渉(かんしょう)の危険のごとき、いやしくも時の事情を知(し)るものの何人(なんぴと)も認めざりしところなり。
 されば王政維新(おうせいいしん)の後、新政府にては各国公使を大阪に召集(しょうしゅう)し政府革命(かくめい)の事を告げて各国の承認(しょうにん)を求めたるに、素(もと)より異議(いぎ)あるべきにあらず、いずれも同意を表(ひょう)したる中に、仏国公使の答は徳川政府に対しては陸軍の編制(へんせい)その他の事に関し少なからざる債権(さいけん)あり、新政府にてこれを引受けらるることなれば、毛頭(もうとう)差支(さしつかえ)なしとてその挨拶(あいさつ)甚(はなは)だ淡泊(たんぱく)なりしという。仏国が殊(こと)に幕府を庇護(ひご)するの意なかりし一証(しょう)として見るべし。
 ついでながら仏公使の云々(うんぬん)したる陸軍の事を記(しる)さんに、徳川の海軍は蘭人(らんじん)より伝習(でんしゅう)したれども、陸軍は仏人に依頼(いらい)し一切仏式(ふっしき)を用いていわゆる三兵(さんぺい)なるものを組織(そしき)したり。これも小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)等の尽力(じんりょく)に出でたるものにて、例の財政(ざいせい)困難(こんなん)の場合とて費用の支出(ししゅつ)については当局者の苦心(くしん)尋常(じんじょう)ならざりしにもかかわらず、陸軍の隊長(たいちょう)等は仏国教師の言を聞(き)き、これも必要なり彼(か)れも入用なりとて兵器は勿論(もちろん)、被服(ひふく)帽子(ぼうし)の類に至るまで仏国品を取寄(とりよ)するの約束(やくそく)を結びながら、その都度(つど)小栗には謀(はか)らずして直(ただち)に老中(ろうじゅう)の調印(ちょういん)を求めたるに、老中等は事の要不要(ようふよう)を問わず、乞(こ)わるるまま一々調印(ちょういん)したるにぞ、小栗もほとんど当惑(とうわく)せりという。仏公使が幕府に対するの債権(さいけん)とはこれ等の代価(だいか)を指(さ)したる者なり。
 かかる次第(しだい)にして小栗等が仏人を延(ひ)いて種々計画(けいかく)したるは事実(じじつ)なれども、その計画は造船所の設立、陸軍編制等の事にして、専(もっぱ)ら軍備(ぐんび)を整うるの目的(もくてき)に外ならず。すなわち明治政府において外国の金(かね)を借り、またその人を雇(やと)うて鉄道海軍の事を計画(けいかく)したると毫(ごう)も異(こと)なるところなし。小栗は幕末に生れたりといえども、その精神(せいしん)気魄(きはく)純然たる当年の三河武士(みかわぶし)なり。徳川の存(そん)する限りは一日にてもその事(つか)うるところに忠ならんことを勉(つと)め、鞠躬(きっきゅう)尽瘁(じんすい)、終(つい)に身を以てこれに殉(じゅん)じたるものなり。外国の力を仮(か)りて政府を保存(ほぞん)せんと謀(はか)りたりとの評(ひょう)の如(ごと)きは、決(けっ)して甘受(かんじゅ)せざるところならん。
 今仮(か)りに一歩を譲(ゆず)り、幕末に際(さい)して外国(がいこく)干渉(かんしょう)の憂(うれい)ありしとせんか、その機会(きかい)は官軍(かんぐん)東下(とうか)、徳川顛覆(てんぷく)の場合にあらずして、むしろ長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)の時にありしならん。長州征伐は幕府創立(そうりつ)以来の大騒動(だいそうどう)にして、前後数年の久(ひさ)しきにわたり目的(もくてき)を達するを得ず、徳川三百年の積威(せきい)はこれがために失墜(しっつい)し、大名中にもこれより幕命(ばくめい)を聞かざるものあるに至りし始末(しまつ)なれば、果(はた)して外国人に干渉(かんしょう)の意あらんにはこの機会(きかい)こそ逸(いっ)すべからざるはずなるに、然(しか)るに当時外人の挙動(きょどう)を見れば、別に異(こと)なりたる様子(ようす)もなく、長州騒動(そうどう)の沙汰(さた)のごとき、一般にこれを馬耳東風(ばじとうふう)に付し去るの有様(ありさま)なりき。
 すなわち彼等は長州が勝(か)つも徳川が負(ま)くるも毫(ごう)も心に関(かん)せず、心に関するところはただ利益(りえき)の一点にして、或(あるい)は商人のごときは兵乱(へいらん)のために兵器(へいき)を売付(うりつ)くるの道を得てひそかに喜(よろこ)びたるものありしならんといえども、その隙(すき)に乗(じょう)じて政治的干渉(かんしょう)を試(こころ)みるなど企(くわだ)てたるものはあるべからず。右のごとく長州の騒動(そうどう)に対して痛痒(つうよう)相(あい)関(かん)せざりしに反し、官軍の東下に引続(ひきつづ)き奥羽の戦争(せんそう)に付き横浜外人中に一方ならぬ恐惶(きょうこう)を起したるその次第(しだい)は、中国辺にいかなる騒乱(そうらん)あるも、ただ農作(のうさく)を妨(さまた)ぐるのみにして、米の収穫(しゅうかく)如何(いかん)は貿易上に関係なしといえども、東北地方は我国の養蚕地(ようさんち)にして、もしもその地方が戦争のために荒(あ)らされて生糸の輸出(ゆしゅつ)断絶(だんぜつ)する時は、横浜の貿易に非常の影響(えいきょう)を蒙(こうむ)らざるを得ず、すなわち外人の恐惶(きょうこう)を催(もよお)したる所以(ゆえん)にして、彼等の利害上、内乱(ないらん)に干渉(かんしょう)してますますその騒動を大ならしむるがごとき思(おも)いも寄(よ)らず、ただ一日も平和回復(へいわかいふく)の早(はや)からんことを望みたるならんのみ。
 また更(さ)らに一歩を進(すす)めて考(かんが)うれば、日本の内乱に際し外国干渉(かんしょう)の憂(うれい)ありとせんには、王政維新(おうせいいしん)の後に至りてもまた機会(きかい)なきにあらず。その機会はすなわち明治十年の西南戦争(せいなんせんそう)なり。当時薩兵(さっぺい)の勢(いきおい)、猛烈(もうれつ)なりしは幕末(ばくまつ)における長州の比(ひ)にあらず。政府はほとんど全国の兵を挙(あ)げ、加(くわ)うるに文明精巧(せいこう)の兵器(へいき)を以てして尚(な)お容易(ようい)にこれを鎮圧(ちんあつ)するを得ず、攻城(こうじょう)野戦(やせん)凡(およ)そ八箇月、わずかに平定(へいてい)の功(こう)を奏(そう)したれども、戦争中国内の有様(ありさま)を察(さっ)すれば所在(しょざい)の不平士族(ふへいしぞく)は日夜、剣(けん)を撫(ぶ)して官軍の勢(いきおい)、利ならずと見るときは蹶起(けっき)直(ただち)に政府に抗(こう)せんとし、すでにその用意(ようい)に着手(ちゃくしゅ)したるものもあり。
 また百姓(ひゃくしょう)の輩(はい)は地租改正(ちそかいせい)のために竹槍(ちくそう)席旗(せきき)の暴動(ぼうどう)を醸(かも)したるその余炎(よえん)未(いま)だ収(おさ)まらず、況(いわ)んや現に政府の顕官(けんかん)中にも竊(ひそか)に不平士族と気脈(きみゃく)を通じて、蕭牆(しょうしょう)の辺(へん)に乱(らん)を企(くわだ)てたる者さえなきに非ず。形勢(けいせい)の急(きゅう)なるは、幕末の時に比(ひ)して更(さ)らに急なるその内乱(ないらん)危急(ききゅう)の場合に際し、外国人の挙動(きょどう)は如何というに、甚(はなは)だ平気(へいき)にして干渉(かんしょう)などの様子(ようす)なきのみならず、日本人においても敵味方(てきみかた)共(とも)に実際干渉(かんしょう)を掛念(けねん)したるものはあるべからず。
 或は西南の騒動(そうどう)は、一個の臣民(しんみん)たる西郷が正統(せいとう)の政府に対して叛乱(はんらん)を企(くわだ)てたるものに過ぎざれども、戊辰(ぼしん)の変(へん)は京都の政府と江戸の政府と対立(たいりつ)して恰(あたか)も両政府の争(あらそい)なれば、外国人はおのおのその認(みと)むるところの政府に左袒(さたん)して干渉(かんしょう)の端(たん)を開くの恐(おそ)れありしといわんか。外人の眼を以て見(み)るときは、戊辰(ぼしん)における薩長人(さっちょうじん)の挙動(きょどう)と十年における西郷の挙動と何の選(えら)むところあらんや。等(ひと)しく時の政府に反抗(はんこう)したるものにして、若(も)しも西郷が志(こころざし)を得て実際(じっさい)に新政府を組織(そしき)したらんには、これを認むることなお維新政府(いしんせいふ)を認めたると同様なりしならんのみ。内乱の性質(せいしつ)如何(いかん)は以て干渉の有無(うむ)を判断(はんだん)するの標準(ひょうじゅん)とするに足(た)らざるなり。
 そもそも幕末の時に当りて上方(かみがた)の辺に出没(しゅつぼつ)したるいわゆる勤王有志家(きんのうゆうしか)の挙動を見れば、家を焼(や)くものあり人を殺(ころ)すものあり、或は足利(あしかが)三代の木像(もくぞう)の首を斬(き)りこれを梟(きょう)するなど、乱暴狼籍(らんぼうろうぜき)名状(めいじょう)すべからず。その中には多少時勢(じせい)に通じたるものもあらんなれども、多数に無勢(ぶぜい)、一般の挙動はかくのごとくにして、局外より眺(なが)むるときは、ただこれ攘夷(じょうい)一偏の壮士輩(そうしはい)と認めざるを得ず。然(しか)らば幕府の内情は如何(いかん)というに攘夷論(じょういろん)の盛(さかん)なるは当時の諸藩(しょはん)に譲(ゆず)らず、否(い)な徳川を一藩として見れば諸藩中のもっとも強硬(きょうこう)なる攘夷(じょうい)藩というも可なる程(ほど)なれども、ただ責任(せきにん)の局に在(あ)るが故(ゆえ)に、止(や)むを得ず外国人に接して表面(ひょうめん)に和親(わしん)を表したるのみ。内実は飽(あ)くまでも鎖攘主義(さじょうしゅぎ)にして、ひたすら外人を遠(とお)ざけんとしたるその一例をいえば、品川(しながわ)に無益(むえき)の砲台(ほうだい)など築(きず)きたるその上に、更(さ)らに兵庫(ひょうご)の和田岬(わだみさき)に新砲台の建築(けんちく)を命じたるその命を受けて築造(ちくぞう)に従事せしはすなわち勝氏(かつし)にして、その目的(もくてき)は固(もと)より攘夷(じょうい)に外ならず。勝氏は真実(しんじつ)の攘夷論者に非ざるべしといえども、当時(とうじ)の勢(いきおい)、止(や)むを得ずして攘夷論を装(よそお)いたるものならん。その事情(じじょう)以(もっ)て知るべし。
 されば鳥羽(とば)伏見(ふしみ)の戦争、次(つい)で官軍の東下のごとき、あたかも攘夷藩(じょういはん)と攘夷藩との衝突(しょうとつ)にして、たとい徳川が倒(たお)れて薩長がこれに代わるも、更(さ)らに第二の徳川政府を見るに過(す)ぎざるべしと一般に予想(よそう)したるも無理(むり)なき次第(しだい)にして、維新後(いしんご)の変化(へんか)は或(あるい)は当局者においては自(みず)から意外(いがい)に思うところならんに、然(しか)るに勝氏は一身の働(はたらき)を以て強(し)いて幕府を解散(かいさん)し、薩長の徒(と)に天下を引渡(ひきわた)したるはいかなる考(かんがえ)より出でたるか、今日に至りこれを弁護(べんご)するものは、勝氏は当時外国干渉(がいこくかんしょう)すなわち国家の危機(きき)に際して、対世界の見地(けんち)より経綸(けいりん)を定めたりなど云々(うんぬん)するも、果(はた)して当人(とうにん)の心事(しんじ)を穿(うが)ち得たるや否(いな)や。
 もしも勝氏が当時において、真実(しんじつ)外国干渉の患(うれい)あるを恐れてかかる処置(しょち)に及びたりとすれば、独(ひと)り自(みず)から架空(かくう)の想像(そうぞう)を逞(たくまし)うしてこれがために無益(むえき)の挙動(きょどう)を演じたるものというの外なけれども、勝氏は決してかかる迂濶(うかつ)の人物にあらず。思うに当時人心(じんしん)激昂(げきこう)の際、敵軍を城下に引受(ひきう)けながら一戦にも及ばず、徳川三百年の政府を穏(おだやか)に解散(かいさん)せんとするは武士道の変則(へんそく)古今の珍事(ちんじ)にして、これを断行(だんこう)するには非常の勇気(ゆうき)を要すると共に、人心(じんしん)を籠絡(ろうらく)してその激昂(げきこう)を鎮撫(ちんぶ)するに足(た)るの口実(こうじつ)なかるべからず。これすなわち勝氏が特に外交の危機(きき)云々(うんぬん)を絶叫(ぜっきょう)して、その声を大にし以て人の視聴(しちょう)を聳動(しょうどう)せんと勉(つと)めたる所以(ゆえん)に非ざるか、竊(ひそか)に測量(そくりょう)するところなれども、人々の所見(しょけん)は自(おのず)から異(こと)にして漫(みだり)に他より断定(だんてい)するを得ず。
 当人の心事(しんじ)如何(いかん)は知るに由(よし)なしとするも、左(さ)るにても惜(お)しむべきは勝氏の晩節(ばんせつ)なり。江戸の開城(かいじょう)その事甚(はなは)だ奇(き)にして当局者の心事(しんじ)は解(かい)すべからずといえども、兎(と)に角(かく)その出来上(できあが)りたる結果(けっか)を見れば大成功(だいせいこう)と認めざるを得ず。およそ古今の革命(かくめい)には必ず非常の惨毒(さんどく)を流すの常にして、豊臣(とよとみ)氏の末路(まつろ)のごとき人をして酸鼻(さんび)に堪(た)えざらしむるものあり。然(しか)るに幕府の始末(しまつ)はこれに反し、穏(おだやか)に政府を解散(かいさん)して流血(りゅうけつ)の禍(わざわい)を避(さ)け、無辜(むこ)の人を殺さず、無用(むよう)の財(ざい)を散ぜず、一方には徳川家の祀(まつり)を存し、一方には維新政府の成立(せいりつ)を容易(ようい)ならしめたるは、時勢(じせい)の然(しか)らしむるところとは申しながら、そもそも勝氏が一身を以て東西の間に奔走(ほんそう)周旋(しゅうせん)し、内外の困難(こんなん)に当(あた)り円滑(えんかつ)に事を纒(まと)めたるがためにして、その苦心(くしん)の尋常(じんじょう)ならざると、その功徳(こうとく)の大(だい)なるとは、これを争(あらそ)う者あるべからず、明(あきらか)に認(みと)むるところなれども、日本の武士道(ぶしどう)を以てすれば如何(いか)にしても忍(しの)ぶべからざるの場合を忍んで、あえてその奇功(きこう)を収(おさ)めたる以上は、我事(わがこと)すでに了(おわ)れりとし主家の結末と共に進退(しんたい)を決し、たとい身に墨染(すみぞめ)の衣(ころも)を纒(まと)わざるも心は全く浮世(うきよ)の栄辱(えいじょく)を外(ほか)にして片山里(かたやまざと)に引籠(ひきこも)り静に余生(よせい)を送るの決断(けつだん)に出でたらば、世間においても真実、天下の為(た)めに一身を犠牲(ぎせい)にしたるその苦衷(くちゅう)苦節(くせつ)を諒(りょう)して、一点の非難(ひなん)を挟(さしはさ)むものなかるべし。
 すなわち徳川家が七十万石の新封(しんぽう)を得て纔(わずか)にその祀(まつり)を存したるの日は勝氏が断然(だんぜん)処決(しょけつ)すべきの時機(じき)なりしに、然(しか)るにその決断ここに出でず、あたかも主家を解散(かいさん)したるその功を持参金(じさんきん)にして、新政府に嫁(か)し、維新功臣の末班(まっぱん)に列して爵位(しゃくい)の高きに居(お)り、俸禄(ほうろく)の豊(ゆたか)なるに安(やす)んじ、得々(とくとく)として貴顕(きけん)栄華(えいが)の新地位(しんちい)を占めたるは、独(ひと)り三河武士(みかわぶし)の末流として徳川累世(るいせい)の恩義(おんぎ)に対し相済(あいす)まざるのみならず、苟(いやしく)も一個の士人たる徳義(とくぎ)操行(そうこう)において天下後世に申訳(もうしわけ)あるべからず。瘠我慢(やせがまん)一篇の精神(せいしん)も専(もっぱ)らここに疑(うたがい)を存しあえてこれを後世の輿論(よろん)に質(ただ)さんとしたるものにして、この一点については論者輩(ろんしゃはい)がいかに千言万語(せんげんばんご)を重(かさ)ぬるも到底(とうてい)弁護(べんご)の効(こう)はなかるべし。返(かえ)す返(がえ)すも勝氏のために惜(お)しまざるを得ざるなり。
 蓋(けだ)し論者のごとき当時の事情(じじょう)を詳(つまびら)かにせず、軽々(けいけい)他人の言に依(よっ)て事を論断(ろんだん)したるが故(ゆえ)にその論の全く事実に反(はん)するも無理(むり)ならず。あえて咎(とが)むるに足(た)らずといえども、これを文字に記(しる)して新聞紙上に公(おおやけ)にするに至りては、伝(つた)えまた伝えて或は世人を誤(あやま)るの掛念(けねん)なきにあらず。いささか筆を労(ろう)して当時の事実を明(あきらか)にするの止(や)むべからざる所以(ゆえん)なり。




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