源八栗
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著者名:沖野岩三郎 

て、やどちんを、はらひますと、もう、さいふの中に二銭どうくわ一つしかありませんでした。けれども、しかたがないので、つゑにすがつて、上り下り三十二きろの、けはしい、たうげを、こしにかかりました。
 さびしい山みちですから、朝からひるすぎまで、たれ一人にも、あひません、もうおなかがすいて、足がひけなくなつた時、うしろから、人のくる、足音がしますので、ふりかへつてみますと、一人の、せの高い、西洋人が自てん車をおして、上つてくるのです。
 源八さんは、町の工場にゐる時、酒によつぱらつて、停車場のひろばで、西洋人を、なぐりつけたことが、ありました。その西洋人は、外国からきた、くぢらとりの、れふしで、めつぱふ力のつよい、けんくわずきの男でした。源八さんは、それと知らずに、なぐりつけたのですから、今少しのことで、なぐりころされるところを、おまはりさんに、助けてもらつたのでした。
「きつと、あのくぢらとりの男だ。おれが工場をやめて、国へかへるときいて、自てん車で、おつかけて来たに、ちがひない。今となつては、もう、しかたがない。なぐられて、木のみきに、しばりつけられるか、それとも、ぴすとるで、うたれるか。」
 そんなことを、思つてゐるうちに、西洋人は、ちかよつてきました。源八さんは、つゑをかたくにぎつて、立ちとまりました。
「今日は。」と、西洋人は、いひました。源八さんも、「今日は。」といつて、西洋人の方を、ぢろりと見ました。
 そのうちに、西洋人は、さつさと、源八さんの、前をとほつて、坂をのぼりました。
「あの男では、なかつたか。」
 源八さんは、安心しました。そして、しばらく、あるいてゐると、向ふから、一人の魚屋さんが、来ました。
 魚屋さんは、源八さんの、すがたを見て、ぴたりと、立ちとまりました。
「あなたは、ごびやうきですか。」
 魚屋さんは、問ひました。
「はい、わたしは、かつけで、困つてゐます。」
「さうですか、それは、お気のどくですなあ。」
 言ひながら、魚屋さんは、かついでゐたかごを、みちの上に、おろしました。そして、さいふから、五十銭ぎんくわを、とり出して、
「これをなあ、西洋人が、あなたに上げておくれつて、おれに、たのんで行つたよ。あなたが、なんぎして、あるいてゐるのを見て、気のどくに、なつたのだらう。さあ、五十銭、もらつておきなさるがよい。」と、いひました。
 源八さんは、びつくりしました。なぐられるか、ころされるか、どつちかだと思つてゐた、西洋人から、五十銭ぎんくわを、もらつたのですから、びつくりするのも、たうぜんです。のみならず、それをあづかつた、魚屋さんが、それを、だまつて、自分のものにしたつて、たれも知らないはずだのに、正直に、自分にそれを、わたしてくれたことが、どうも、ふしぎでたまりませんでした。
 もう二銭どうくわ一つしか、もつてゐないんですから、その五十銭ぎんくわを、おしいただいて、さいふに入れました。そして、魚屋さんに、別れた時、源八さんは、思ひました。
「あれは、人間ぢやあない。神さまだ。おれが、いつも、さけをのんだり、けんくわをしたりしたあげく、こんな、びやうきにかかつて、困つてゐるので、これから、心をあらためるやうにといつて、神さまが、魚屋さんに、ばけて来て、おれに、このぎんくわを、下すつたんだ。さうにちがひない。」
 源八さんは、そんなことを思ひながら、夕方の七時すぎに、山のふもとの、小い木ちんやどに、つきました。
 そのやどには、さるまはしと、小間もの屋さんとが、とまつてゐました。二人とも、おさけを、のんでゐました。
 源八さんは、おさけを、のみたくつて、しやうが、なかつたのですが、神さまから、いただいたお金で、おさけをのんで、またけんくわをしたなら、どんなことに、なるかも知れないと思つて、たうとう、がまんして、おさけは、のみませんでした。


    四
 源八さんは、国へかへりました。国の人たちは、のんだくれの、源八さんが、かへつてきたといつて、たれも、あひてにする人が、ありませんでした。ところが、源八さんは、びやうきがなほつて、たつしやになつても、さけは、一口ものみません。むろん、けんくわなど、いたしません。
 どうして、あんなに、かはつたのだらう、といつて、みんなが、おどろきました。そして、そのわけを、ききますと、源八さんは、
「おれは、さけをのんで、けんくわばかり、してゐたんだが、おれの困つてゐる時、二人の神さまが、おれを助けて下すつたんだ。おれは、もう、死ぬまで、さけはのみません。」と、いひました。
 それから源八さんは、自分の家を、工場にしました。工場で、くわんづめを作りはじめました。
 源八さんの国は、栗のたくさん、できるところで、毎年たくさんの栗を、日本中におくり出します。源八さんは、その栗を、くわんづめにしたのです。
 源八さんの、くわんづめの、れつてるには、五十銭ぎんくわの上に、西洋人のかほと、魚かごとが、かいてあります。


    五
 魚屋の藤六(とうろく)さんの村に、大きな百くわ店ができました。気のきいた、そして正直な男を、はんばいがかりに、したいといつて、たづねてゐましたが、藤六さんが、一番よいだらうといつて、そこのはんばいがかりに、たのまれました。
 藤六さんは、時時町へ行つて、いろんなものを、仕入れてきます。その品物の中で、一番よく売れる物は、「源八栗(げんぱちぐり)」といふ、栗のくわんづめでした。しかし藤六さんは、そのくわんづめを、どこで、つくつてゐるのだか、ちつとも、知りませんでした。


    六
 もうりい博士は、そのご、間もなく、西洋へかへりました。長く日本にゐた博士は、日本りうに、町の左がはを、あるいてゐました。ところが、その国は、右がは通行の、きそくでしたから、町のまがりかどで、自動車にぶつかつて、大けがをいたしました。
 もうりい博士は、びやうゐんで一月あまり、やうじやうをしてゐるうちに、きふに、日本がこひしくなりました。で、かんごふに、日本せいの食物を、何でもいいから、買つてきて下さいといつて、たのみました。すると一時間ばかりたつて、かんごふは日本せいの、くりのくわんづめを、一つ、買つてかへりました。
 博士はよろこんで、そのくわんづめの、れつてるを見ました。れつてるには「Gempachi(ゲンパチ)-Kuri(クリ)」と書いてあります。日本に長くゐた博士は、くりといふ、わけはわかりましたが、げんぱちといふ、わけがわかりませんでした。
 博士は、日本ごの、じびきをひらいて、みましたが、「たんば栗」「いが栗」「あま栗」などの、ことばは、ありましたが、「げんばちぐり」と、いふことばは、ありませんでした。
 博士は、そこにかいてある、五十銭ぎんくわと、西洋人のかほと、さかなかごとの、ゑを見ましたが、なんのことやら、さつぱり、わかりませんでした。
 博士は、そのくわんづめを、かんごふさんに、あけてもらつて、食べて見ましたが、じつに、うまい栗でしたから、もつと、買つてきて下さいと、たのみました。
 間もなく、博士のへやには、源八栗の、くわんづめが、三十も四十も、あつまりました。それは、博士が、このくわんづめが、すきだといふので、みんなが、おみまひに、もつてきて、下すつたからです。
 ある時、二人づれの、見まひきやくが、びやうゐんへ来た時、源八栗のしるしを、見てゐた一人が、
「このゑに、かいてある、人のかほは、もうりい博士そつくりですね。」と、いつたので、博士も、かんごふも、こゑをそろへて、一どに笑ひました。しかし、博士は、それいらい、その、れつてるに、かいてあるかほが、自分のかほであるやうに、思はれてなりませんでした。で、博士は、びやうゐんを、たいゐんしたあとで、あふ人ごとに、
「あのね、わたしのかほを、かいてある、日本の栗は、本たうに、おいしいですよ。あれをお買ひなさい。」と、申しましたので、いつの間にか、その国では、源八栗のことを、博士栗(はかせぐり)といふやうになりました。


    七
 日本では、源八さんの工場が、だんだん、さかんになりました。
 藤六さんは、もうひくわんなど、けつしていたしません。うらの山では、木のえだに、ひつかかつた藤かづらが、まだそのままに、風に吹かれて、ぶらぶらしてゐます。山がらや、ほほじろが、そのかづらのわに、とまつて、面白い歌を、うたつてゐます。




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