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著者名:石川三四郎 

堺氏の言葉に從つて私はその年の試驗のみならず、永遠にそれを斷念しました。しかし私の戀心はつのるばかりでした。先方は私が新聞記者になつたことに失望を感じたらしく學校を卒業して高等女學校の教諭になつたばかりで病臥する身となりました。私はそれを見舞ひたかつたのですが、澄子さんや母親の心持が、私を快く受け容れてくれるかどうかわからないので思ひ止まりました。唯澄子さんの弟を通して私の心を傳へるのみでありました。弟は常に私のところに出入してゐましたから。

     萬朝報時代

「辯護士だの、裁判官だのにならないで、あなたは助かりました。ほんたうに、人間として生きることができたのです。その意味でムッシュウ堺こそ、ほんたうにあなたの救主ですよ」
 マダムには、私の戀愛問題など問題ではない。それよりは生まれた子供こそ大切だと考へて、そのことを問ひ詰めて來る。子供は私の母が孫娘として愛育しましたと答へると
「ああ、さう! それで安心しました」
 といかにも喜ばしさうに破顏微笑するのであつた。そして
「それから基督教のあなたはどうなつたんです?」
 耶蘇教ぎらひのマダムはまた些か興奮するのだつた。

 わたしが萬朝報社に入つた時、同社の外廓團體として理想團といふものがありました。その中には若い辯護士達や新進の思想家などが加はつてゐましたが、何と言つても、その思想的支柱となつてゐた人は特異な信仰の持主として有名な内村鑑三氏其他二、三の萬朝報社員でありました。毎日新聞の木下尚江氏も有名なメンバーの一人でありました。屡□理想團講演會が東京及び地方で開かれましたが、雄辯家木下氏の名は缺くことのできない看板でありました。私は社長の祕書であつた關係上、また理想團の事務も執らされました。諸方に飛んで講演會の準備工作の手傳もしました。この理想團で私は初めて公開演説をさせられて大みそをつけたことを記憶してゐます。それは四谷見附外の三河屋といふスキヤキ店の二階でした。私の前座が餘り長談議になつたので、聽衆はアクビする、私は結論に達すべく焦せるが、どうしても結びの言葉が出てこない。やつとのことで言葉を絶つて、樂屋に歸つた時は、汗びつしよりになつてゐました。
 この演説會が終つて、奧の室で黒岩社長以下牛肉のスキ燒の御馳走を食べてゐると、さきの會場には新たに多くの青年が車座になつて首を集めてゐました。それは漸く流行し始めた百人一首のカルタ會でありました。黒岩社長は、いたくその光景にうたれ、『これは面白い』の嘆聲を連發するのでありました。萬朝報がカルタ會の肝煎になつたのは、これから始まつたことであります。
 社の仕事に少し慣れた頃でした。私は社長の家に屡□招かれました。それは黒岩社長が當時執筆中であつた『天人論』の原稿を整理淨寫する仕事の御手傳をするなどのためでありました。しかし社長は私には筆耕をさせずに何時も議論を吹つかけるのです。デカルトの『われ思ふ故にわれあり』から、カントの『實踐理性』論から、『至上命令』論に及び、議論はなかなか盡きませんでした。わたしはしばしば夜中の十二時を聞いてから車で送られて歸宿するのでありました。そんな時は、いつも角筈の福田氏の家に行くことを常としました。素人下宿の家に夜更けて歸ると厭な顏をされるので、つひさうなつたのであります。
 當時の青年は、多く哲學的な思索に耽り、人生觀上の惱みに陷る者が少くありませんでした。黒岩氏がその人生哲學『天人論』を著したことは、まことに時代精神に深く觸れるものがあつたと言へるでありませう。一高の學生の藤村操といふ青年が、日光の華嚴の瀧の巖頭に一感想文を記して、自らその瀧壺に投身した事件は、『天人論』ができた直後のことでありました。そこで黒岩社長は直ちに藤村問題をとり上げて萬朝報紙上で論じたてました。『天人論』が盛に引きあひに出されたことは勿論です。そして『天人論』は飛ぶやうに賣れました。
 萬朝報は當時の知識的青年に熱愛された新聞でありましたが、それは黒岩氏のケイ眼がよく時代青年の心機を把へた結果であつたと思ひます。私のやうな若ものをもとらへて夜を徹して論議して倦むことを知らなかつたのも、かうした底意があつたからでありませう。黒岩氏が新聞記者として非凡な人であつたことが察せられます。
 ところが、この非凡な黒岩氏の新聞社内に一大問題がぼつ發しました。それは單に一新聞社の問題といふよりは寧ろ日本の、日本民族の、否更に世界人類の運命にかかはる重大問題でありました。日露間の戰爭の危機が切迫したのであります。明治三十六年(一九〇三年)の夏には日本の國論が沸騰して猛烈な勢で對露開戰論が唱道されました。萬朝報社でも黒岩社長や主筆格の圓城寺天山氏は開戰論者でありました。これに對して客員である内村鑑三氏や社會主義の幸徳秋水、堺枯川兩氏は非戰論を主張しました。私は會議室の隣で事務を執つてゐたので、兩派の對論をしばしば聞くことが出來ました。新參の若者であつた私は、その議論に加はり得なかつたのは勿論、その議論を聞くことも遠慮がちにせざるを得ませんでした。しかし私のほのかに察するところでは、堺氏の論鉾が最も鋭かつたやうに思はれます。内村氏は以前自ら非常な難局に遭遇した際に黒岩氏の厚い援助を受けた關係があり、幸徳氏は黒岩氏と同國人であり、かつ、その文才を愛せられて特に高給を與へられてゐた關係にあり、ともに黒岩氏に對しては極めて遠慮がちでありました。退社の際なども、堺氏がぐんぐん二人を引つぱつたらしく私には感じられました。堺氏は退社の直後私にいひました、『人間は決して腕前一ぱいの給料を取るものではない。いつ扶持にはなれても何處へ行つても自力で生活できる自信を持ち得ないと弱くなつて恥をかく』。非戰論で退社する時の堺氏の意氣を追想して私は『ははーなるほど』と感じたことでした。
 幸徳、堺兩氏と内村鑑三氏とは二つの退社の辭を萬朝報第一面に掲載してこの思ひ出多かるべき新聞と別れました。それが日本の進歩的知識階級に非常な衝撃を與へたことは言ふまでもありません。それは三十六年十月十二日のことでありました。やがて十一月十五日には、堺、幸徳兩氏協力の週刊『平民新聞』が創刊されました。それがまた非常なセンセーションを日本の青年社會に興起せしめ創刊號は再版まで發行するに至りました。剛腹そのもののやうな黒岩氏も何とかして退社の人々と和解の道はないものかと考へてゐたらしく、私にもそれとなく意中を漏らしたこともありましたが『平民新聞』創刊のことを聞いて、初めて斷念したやうに見えました。私は『平民』紙創刊の議が一決すると同時にこれに入社を許され、同十一月二十九日の同紙三號に入社の辭が掲げられました。

     基督教の影響

「クリスチャンが無政府主義者で非戰運動をするなんて、をかしくはありませんか?」
 ヨーロッパの一般クリスチャンを標準にするマダムはいささか不滿と興奮とを以て私に問ひつめるのであつた。ルクリュ翁は傍から言葉を添へていふ。
「クリスチャンだからつて、一概に排斥するには及ぶまい。クリスチャンにもいろいろある」
 マダムも顏色を和げて、ほがらかに言ふ。
「さういへば、ヨーロッパでも最初はキリスト教から社會主義になつた人が澤山にあります。けれども今社會主義または無政府主義を唱へるものは、直ちにキリスト教徒から敵對されます」
 これに應じてわたしはまた語を續けた。

 わたしは、前にも言つたやうに十五、六歳の時から社會主義や無政府主義のことを教へられ、學生時代から新聞や雜誌に『ソーシャリズム』を主張した文章を寄せました。しかし、ほんたうに人類社會への獻身といふことを教へられ、全我をそれに傾倒しようとする情熱を養はれたのは全くキリスト教によつてでありました。海老名彈正氏の『新武士道』といふ説教などにはどの位感激せしめられたことでせう。この海老名氏の本郷教會からは可なり多くの進歩的な青年が輩出しました。小山東助だの吉野作造だの、内ヶ崎作三郎だの、三澤糾だのいづれも當時の進歩的若人だつたのです。わが大杉榮なども同門の逸材といふべきでありました。
 わたしは海老名氏の教會に出入する當時、別に内村先生の教へを受けるやうになりました。それはわたしが萬朝報記者になつてからのことですが、内村先生から授けられる感化はまた不思議に新しいものがありました。海老名氏の思想は進歩的、社會的でありましたが、内村氏の教義は保守的、個人的でありました。而も内村氏の薫りは藝術的であり、海老名氏の色彩は倫理的でありました。内村氏は詩人風のところがあり、海老名氏は教育家的でありました。せめて二十歳前に、このやうな先生方の指導を受けたなら、わたしはもつと仕合せであつたらうにと、どんなにか考へたことでせう。
 このやうな思想的影響を受けたわたしが唯物論的社會主義者の創立した『平民新聞』に入つたので入社當時、感激に滿ちてゐる間は何も不都合を感じなかつたが、時のたつに從つて些かの心理的摩擦を覺えることもありました。殊に幸徳氏は眞向から私の基督教を打破しようと攻撃の鋒を向けるのでありました。そして堺氏は中間にあつて、儒・佛・耶すべてがよろしいと、われわれを丸めるのでありました。
 兎も角も、わたしは幸徳、堺兩先輩の招き、といふよりは、私自ら志願して平民社に入れて貰ひました。花井氏は大いに反對して萬朝報に留まることを勸告してくれたのですが、福田氏は入社せよとすすめてくれました。かうして『平民新聞』第三號には次のやうな入社の辭が掲載されました。
     予、平民社に入る
旭山 石川三四郎 予今平民社に入る、入らざるを得ざるもの存する也、何ぞや、曰く夫の主義てふものあり、夫の理想てふものあり、然りと雖ども予の自ら禁する能はざるものは啻に是れにのみに非ず、否寧ろ他に在て存する也、堺、幸徳兩先輩の心情即ち是れのみ、彼の南洲をして一寒僧と相抱きて海に投ぜしめしは是れに非ずや、彼の荊軻をして一太子の爲めに殉せしめしは是れに非ずや、徒らに理想と言ふ勿れ、主義と呼ぶ勿れ、吾は衷心天來の鼓吹を聞けり、曰く人生意氣に感ずと、
 まことに不思議な文章です。萬朝報の編集局長松井柏軒氏などは素晴らしい名文だと褒めてくれたのですが、今日では、私自身でさへ、別世界の人の言葉としか思へないから、他人さまはさぞ不可解に感じられるでありませう。しかし、よくよく咀嚼して見ると、耶蘇教でもなく社會主義でもない私自身のその時の心情がにじみ出てゐると思ひます。おそろしく古風な、しかも可なりにひねくれた心の持ち方が現はれてゐます。これは恐らく少年時代の古い型の先輩達から受けた感化と、有爲轉變のはげしい浪に飜弄されて來た生活環境から育成された性格でありませう。まことに自ら醜いとは思ふのですが未だにこれを脱却し得ないのです。全我を捧げて平民社に飛び込んでいつたのでありますが、このひねくれのために同志先輩とソリの合はないことも多く、殊に堺、幸徳の兩先輩を困らせたことも多かつたと思ひます。
 平民新聞の讀者にはクリスチャンが多く、平和運動に共鳴して、非常に熱心に應援してくれました。平民社發行の繪ハガキが、マルクス、クロポトキン、ベーベル、エンゲルス、トルストイの肖像を一組にしたのでも、平民新聞の思想的態度が察せられます。
 或る時、わたしは、『平民』紙上に『自由戀愛私見』といふ一小論文を出しました。夫婦生活には戀愛が至上命令である、それが消えたら直ちに離別することこそ眞の貞操だといふのでありました。多くのクリスチャンを讀者に持つてゐたので、この文章に對する讀者の非難はものすごいものでした。社内でも幸徳、西川兩君は『こんな文章を出すと讀者の志氣を弱める』とて非難しました。捨て置きがたくなつて、堺君は全ページに亙る大論文を出して解説補充してくれました。
 これと時を同じうして、私は本郷教會の日曜日の夜の傳道説教に右の論文と同じやうな演説を試みました。その日の朝海老名彈正先生の説教が『貞操論』であつたのに對して、わたしの話は正反對のものでありました。若い時には前後も左右も顧みず、非禮の行動にも氣づかず、思はぬ失敗を招くものです。いつも私の説教の後には先生が立つて握手してくれるのに、その時には、それがありませんでした。はつと氣がついた時、先生は内ヶ崎君に耳うちし、直ちに内ヶ崎君が演壇に立つて私の自由戀愛論を反ぱくするのでした。なるほど私は海老名先生の朝の説教を反ぱくしたことになつたのだ、と氣がつきました。格別わる氣があつた譯ではなく、私の個人的な強烈な要求をおさへ得なかつたためでしたが、爾來わたしは同教會と縁が切れてしまひました。

     寄せくる浪の姿

「耶蘇教徒のあなたが自由戀愛を説くなんて、をかしな譯ですが、しかし、そのために教會から破門されたことは、まことに結構ではありませんか」
 マダムは大喜びである。それは私の精神的解放だといふのである。しかし私は決して解放された譯ではなかつた。苦悶懊惱やるせなさの結果が、あの小論文となつたわけであるが、しかし私の戀愛は決して自由ではなかつた。わたしの心はただ益□囚はれてゆくばかりであつた。わたしは語を續けた。

 フランシ(素直)を第一義とするマダムの道義觀からすれば、わたしは如何にも解放されたやうに見えるでありませうが、東洋のわれわれの心持はなかなか、さう簡單に行きません。わたしの魂を金しばりにした戀愛の苦惱は、どんな理屈でも解消しませんでした。あの『自由戀愛私見』といふ文章は、英國の社會主義者ブラッチフォードに示唆を得て、いはば自分に言ひ聞かせるやうに、また一面には欝憤を晴らすために、書いたものなのであります。わたし自身少しも自由になつては居らず、實に半狂亂の戀であつたのです。かうした激情は青年男女に通ずるところがあると見えて、本郷教會のわたしの演説が、先生方の反撃を受けたにかかはらず、二三の青年女子聽衆から熱烈な同情の手紙を貰ひました。しかし、私のなやみは、つのるばかりでありました。
 多忙を極めた平民社の仕事に携はりながら、心身ともに自分の思ふままにならず、先輩や同志諸君に對して申譯がないと感じつつもつい狂態が續くのでした。堺君には屡□諭されました。いま社會運動の中心になつてゐる平民社の中堅であるべき君が、同志の集會や演説會に極めて稀にしか出席しないやうでは、まことに申譯なくはないか、といはれるのでした。それは有り難い友情の表はれであることを百も承知してゐながら、すなほに感謝することができないで、いつも棄てぜりふでこれに答へるのでした。當時、平民社に頻繁に出入する山路愛山であつたかと思ひますが、わたしの狂態を聞いて『それは些か犬王だね』と言つたさうです。犬王とは□へんに王、即ち狂を意味するのでした。
 銀座など散歩して、二十歳前後の娘さんに行き會ふと、わたしは無意識にその娘さんに視線を奪はれて、まはれ右までして、それをじつと見おくるのでした。銀座などを行けば、その頃でも往き交ふ娘さんは數多くありました。私の散歩は多忙でした。電車に乘つても同じことでした。三錢均一(當時の電車賃)で戀をする、なんて冗談を言ひました。然し、わたしの心は寂しさに堪へられなかつたのです。わたしの腦裏にある澄子さんの姿が、行き會ふ娘さんの上に投影して、それが、わたしの魂をひつさらふのでありました。そして、一瞬の後には、その幻影は忽ち消えて、ただ寂しさのみがわたしの周圍を閉ざすのでありました。馬鹿々々しいが、仕方がなかつたのです。
 ある時は、些かながら血痰を見るに至り、そのことが平民社の客員であり、援護者の一人であるドクトル加藤時次郎氏の耳に入り、兎も角も同氏の療養所であり、別莊でもある小田原海岸の家に招かれました。若い美しい咲子夫人の懇ろな御もてなしを受けて勿體なさは身にしみるばかりでした。晩餐の時など新鮮なお肴に冷いビールを傾けて、心ゆくまで勞つて下さる絶世の佳人と差し向ひになつて、わたしの魂は、忽然他の彼女のところに飛ぶのでした。この別莊に滯在中、平生たしなむ水泳を試みようと、裸體になつて、浪うつ濱べに足を入れては見ましたが、何かしら寄せくる浪の姿の怖ろしさに戰慄して、深入りすることができませんでした。死の一歩手前にあることを無意識に感じたのであらうか、いまだに、その時の心持が、いかにも病的な心持が、忘れ得ないのであります。
 餘りにわたし個人の情哀史を物語りましたが、今かへり見ると、かうした惱みに纒はられるのも、その原因は最初の失敗から由來するものです。みな身から出た錆なのです。全我を傾けて社會運動に投じようと決心しながら、かうした事情から思ふ半分も活動し得なかつたことは今日かへり見ても殘念でたまりません。しかしまた他の一方から考へて見ると、この氣むづかしい心の状態から、わたしは自然に内省的になり思索的生活に傾いて行つたのであらうと思ひます。普通選擧の請願運動などの代表者になりながら、所謂政治家的の氣分に接すると、堪まらなく、いやになるのでした。或る時、幸徳と堺と揃つて世間話をしてゐた際に
「これから普通選擧が實施される時代も來るであらうが、その時代に最も幸福な境涯に立つものは石川君、君等だよ」
 と幸徳が唱へ、堺がそれに和するのでした。そんな言葉を聞くと矢つ張りこの人達は政治家なんだと神經的にいや氣がさすのでした。ひねくれて、いぢけた當時の私には、ものごとを神經的に判斷することしか出來ませんでした。他の人の地位に立つて、その人の意向なり去就なりを、推量することが出來ませんでした。そして自分の殼を造つてその殼の中に閉ぢこもるやうに傾いて行きました。それは、わたしの性格の弱さをも物語るものであり、その弱い性格を防護するために自然に展開してきた生活態度であつたと思はれます。
 明治三十九年に、堺利彦君が主唱で日本社會黨を組織しましたが、そして堺君自ら來訪して懇切に入黨を勸誘してくれましたが、私は遂にその時は入黨しませんでした。最初の平民社が解散して、西川光次郎、堺利彦、幸徳傳次郎等の諸者は『光』を發行し、私は安部磯雄、木下尚江の兩先輩の驥尾に付して『新紀元』を發行してゐた際であつたので、これに入黨することは兩派を融和するに好機會を與へるものと考へながら、私には入黨することが出來ませんでした。わたしは『新紀元』で『政黨は、革命主義の運動には害こそあれ、有用のものではない』『政黨は、小才子、俗物が、世話、奔走、應接の間に胡麻をするに宜しき所なり』などと論じてゐますが實は心の弱い自分の本命を貫徹するために政黨を毛ぎらひした傾きも有つたかと思ひます。

     平民社の思想

「君が内省的になつた結果、政黨の運動をきらふやうになり、やがてそれが君を無政府主義に傾かしたのであらう。面白いぢやないか?」
 ルクリュ翁は興味深げであつた。
「一たんポリチックに足を踏みこんだら、それこそ泥沼に落ちたも同じことよ。それから脱け出ることは容易でなく、その上、正直では決してうだつの揚らぬところ、あなたの戀愛病があなたを救つたのよ」
 とマダムは得意であつた。

 マダムの仰しやる通り、わたしは大病だつたのです。その病人を棄てもせずに、深い友情をもつて、引き立ててくれた平民社の先輩達には今も心から感謝せずには居れません。平民社同人の思想的態度は、今から見れば極めて素朴なもので、またロマンチックであつたに相違ないが、しかし、あの黎明期に於ける混沌の中に、高いヒューマニズムの精神に徹してゐた點は、今も忘れることのできない美しさでありました。日本に於ける社會主義、共産主義、無政府主義等の稱を宿してゐた、あの温床は可なりに健全であり、豐饒であつたと思ひます。
 日本の社會思潮の上から見ればあの平民社の生活は、汲めども、汲めども、滾々として汲み盡すことのできない清冽な泉にも喩へらるべきであります。それはあの當時に於ける思想や主義の社會的價値にも由るでせうが、しかしあの峻烈嚴酷な鬪爭の中にも、常に明朗な陽春の雰圍氣を湛へて、若い男子が集り來り、協力を惜まなかつたのは何としても平民社の中心であつた先輩達の人格の致すところであつたと思ひます。幸徳と堺とは、實に好きコンビでした。堺は強かつた。幸徳は鋭かつた。堺はまるめ、幸徳は突き刺した。幸徳は剃刀の如く、堺は櫛の如く、剃刀は鈍なるべからず、櫛は滑かに梳るを要します。平民社は良き理容所でありました。およそ彼處に出入するほどの青年男女は、それぞれの個性に於て、その容姿を整へられました。
 永井柳太郎などは、その點において、平民社の畸形兒となつて世に出た一人でせう。不肖の子とまではいへないにしても、少々できそこなつたものといへるでありませう。大杉榮だの、荒畑寒村だの、先づ平民社の手にかかつた逸材であります。藝術の方では小川芋錢、平福百穗、竹久夢二などいふ名物がみな平民社から首途したのであります。中里介山や、白柳秀湖などいふ人々が、平民社の親しい友であつたことも忘れることはできません。この他に今日なほ生存してゐたならば、立派に各□の場面において活躍を續けてゐるであらうと思はれる人物が澤山にあります。
 平民社關係から世に出た新進の才人が多かつたと同時に、或は平民社に同情を持ち、或はこれを援護した人物の多かつたことも忘れ得ない重要事であります。西園寺公、中江兆民等の親友であつた小島龍太郎や、ドクトル加藤時次郎や、ユニテリヤン教會の佐治實然や、毎日新聞の木下尚江や、早稻田大學の安部磯雄や、いづれも皆平民社の相談役でありました。齋藤緑雨、田岡嶺雲、小泉三申、山路愛山、石川半山、斯波貞吉、杉村楚人冠、久津見蕨村などいふ人々は、屡□平民社を訪れて、或は舌に、或は筆に、平民新聞を賑はしてくれた同情者でありました。いづれも皆錚々たる人物で平民社の背景が如何に賑やかであつたかを推想せしめるものがあります。
 平民社は今の日本劇場あたりにあつたと思ひますが、その平民社の前から神田橋まで電車が開通したのは、明治三十七年末か三十八年の初期であつたと思ひます。それまで私は飯田町から毎日徒歩で通つてゐました。最初の内は毎週一回校正のため徹夜をしましたが、慣れない仕事で骨が折れました。築地の國光社といふ印刷所から深夜まで自轉車でゲラ刷を持つて往復する小僧さんにも同情が寄せられました。しかし、だんだん人手も多くなり、校正の助力者も現はれて來て後には徹夜をするやうなことも少くなりました。普通の新聞型十頁を毎週一回出すのであるから、三、四人の手では骨の折れるのは當然でありました。
 平民社の思ひ出は盡きません。若い娘さん達も隨分多く出入しました。一々お話できないがみんな立派な人々でした。機蕨((マヽ))とでも申すべきか、よくもあんなに、多數の女性が、あの鬪爭のなかに、和氣あいあいとして寄り集うたものと、感歎せずにはをられないのです。まことに豐饒な社會運動の温床であつたと言へるのでありませう。
 明治三十六年十月に創立せられたこの平民社は、三十八年秋に解散しました。幸徳は渡米することに決して居り、堺は由分社によつて獨立の仕事を創めることになつてゐたので、一先づ解散して捲土重來を期することになりました。平民社に對して外部同志の不滿もあつたやうに聞きましたが、私ども後輩にとつては唯淋しさを禁じ得ませんでした。しかるに平民社解散式の夜、先輩の木下尚江は突然わたしに呼びかけました「旭山やれよ!」。旭山とはわたしのペンネームでした。藪から棒で何のことかと驚きましたが、木下の意はキリスト教の精神に基いて社會主義の宣傳を試むべく一旗揚げよといふのでありました。平民社の解散後はどうしたら可いかと思案にくれた際ですから、私はうれしさを禁じ得ませんでした。
 その時の木下の意氣込は熱烈でした。二人で安部磯雄氏を訪問したのは、それから二、三日たつてからでした。安部氏も大へん喜んで參加を約しました。そして新しい雜誌の名稱も、安部氏の提議でニュー・エラ=新紀元=と決定しました。それからまた、二人で徳富蘆花を訪問しました。蘆花も喜んでわれわれの計畫を助けてくれることになりました。かうしてキリスト教社會主義を標榜した『新紀元』の運動は發足したのであります。新紀元社の看板は私の家に掲げましたが、その家は今の新宿驛の直ぐ近くで、西部電車がガード下をくぐつて西方に出たところの左側にありました。小さな門を奧深く入つた、藁ぶき屋根の六疊、三疊、二疊といふ小さな家でありました。前田河廣一郎君が同居するやうになつたのは、その時でありました。

     田中正造翁

『新紀元』の運動は私にとつて良い修業になりました。どんな仕事でも、心さへあれば、みな修業でありませうが、あの場合は自分が責任者になつたので、殊に自ら緊張した結果、わたしの精神生活に非常に深い影響を與へました。それにこの運動中は特に親しく田中正造翁の驥尾に付して奔走することになつたので、わたしは人生といふものに、驚異の眼を見開くに至りました。田中翁の偉大な人格に觸れて、わたしは人間といふものが、どんなに輝いた魂を宿してゐるものか、どんなに高大な姿に成長し得るものか、といふことを眼前に示されて、感激せしめられました。それと同時に、今まで種々な説教や、傳記やらで學んだ教養や人物といふものが、現實に翁において生かされ、輝かされてゐることを見て、心強く感じました。わたしは、自身が如何にも弱小な人間であることを見出しながらも、常に發奮し自重自省するやうになりました。
 田中翁は決して自ら宗教や道徳を説きませんでした。しかし、翁の生活そのものが、その巨大な人格の中に温かい光明と熾烈な情熱とをたたへて、わたしを包んでくれるのでした。木下尚江はその著『田中正造翁』の中に『旭山は、翁に對しては殆ど駄々ッ児のやうに親しんでゐた』と書いてゐますが、わたしは翁に尾して活動することを眞に幸福に感じました。谷中村の農家に翁と同じ蚊帳の中に寢せられ、ノミに喰はれて眠られず、隣でスヤスヤ眠る翁がうらやましかつたが、そのことを翌朝翁に談ると『珍客を愛撫してくれるノミの好意は有難く受けるものでがすよ』と笑はれました。それから栃木縣の縣會議員の船田三四郎といふ人の家に一泊か二泊して御馳走になりながら、縣の政治書類を檢討させて貰ひ、さまざまな醜いカラクリを數字によつて明白にすることができて、大へん翁に喜ばれた時などは、とても嬉しく感じました。
 わたしは、翁の思ひ出や、翁自身の思想の變遷やについて、機會のある毎に聞いては筆記しておいたのですが、今は皆散逸して無くなりました。しかし、今わたしの記憶に遺つてゐる翁の全生涯は翁が自ら教育して來た修業史である、といふことです。翁にとつては、政治でも、社會現象でも、自然現象でもすべてが、天授の教訓であります。或る時、翁は、何度目かの官吏侮辱罪で栃木の監獄に入り、木下と私と面會に行くと、最初に要求されたのが聖書でありました。わたし達が種々の註解書によつて聖書の研究をするのに對し、翁はただ自分で直讀するのですが、その解釋がまた活きてゐました。翁は善いと思つたことは直ぐに言行に移し表明するのを常としました。ところが、その直觀に就いての説明には、いつも苦しみました。或る時、翁は谷中村のある農家に『人道教會』といふ看板を掲げました。それは今までの政治運動をきつぱり止めて、人道の戰ひと修業とを始めるといふのでありました。ところが、その『人道』とは何ぞや、といふことになつて簡單明瞭な説明が見當らず、私が訪問すると、すぐにその質問です。わたしが『人道とは人情を盡すの道といふことです』といふと膝を打つて喜びました。それから、わたしが、人情の説明にとりかかると翁はそれを制していひました『いや、人情といふことで充分です。それ以上につけ加へる必要はありません』まことに單刀直入を喜ぶのでありました。
 谷中村を政府が買收して貯水池にするには、先づ住民を生活不可能状態に逐ひこまねばならない。ところが住民は隣接の赤麻沼に面する堤防缺潰箇所を自費で修築しました。縣廳の方では政府の許可なくしてこの樣な工事を營むのは不都合千萬だから、打ちこはす、と言ふ。明日はその破壞工作に縣の土木課の役人等が來るといふ、その前夜、田中翁は新紀元社に泊られました。わたしは東京の學生や青年達と共に田中翁を擁して防禦戰に赴くことに決定しました。翁と二人で枕を並べて寢についたが、明日の抗戰がどうなるかと思ひめぐらして眠れませんでした。土木の工夫や役人とわれわれとの間に亂鬪が展開されるのは必然と見られたのです。堤防の上に血の雨を降らすであらうことは想像されるが、見ぐるしい終局にさせたくない、それが私の心配でした。實は怯懦な私自身のことが心配なのです。この時も田中翁は寢るとすぐ高いびきです。翌朝眼を覺ますと、『風を引かないやうに氣をつけやんせう』。四月といふに寒い朝だつたのです。
 この日、谷中村に同行した青年達は十八名ばかりでした。谷中の住民約三十名と勢揃ひして假築堤防上に赴いた時には、しよぼしよぼと春雨が降り始めました。
 しかるに豫期した幽靈は出て來ませんでした。わたしどもは拍子ぬけの體でありましたが、しかし、かうした機會を無益に過してはならない、わたしは皮切りに激勵の演説を試みました。青年諸君も熱辯を振ひました。雨中の屋外集會は、ただそのままで既に悲壯の極みでありました。
 この日は何の事もなく歸京することができました。しかし、わたしは、自分の心持をかへり見て、いささか不安でありました。若し、あの堤防上に亂鬪が起つたとして自分は果して泰然とこれを乘切ることが出來たであらうか? 苟も十字架を負うて社會運動に身を投じたと稱するものが、びくびくしたのでは見つともない、だが、私はそのびくびくの方らしい。私は歸京の翌日箱根太平臺の内山愚童君を訪うて、このことを訴へました。愚童君は暫時の靜坐を勸めてくれました。愚童君の寺は小さな寺ではあるが、見晴らしのよい、靜かなところで、和尚一人の生活であるから、瞑想、靜觀を妨げる何ものもなかつた。わたしが與へられた室で瞑目端座してゐると、何時の間にか、鼻先に芳はしい線香のかをりがただよつて來る。愚童君の心づかひでありました。心はしーんとして閑寂の底に沈む。その時です、突如として心の窓が開け『十字架は生まれながら人間の負うたものだ』と氣がつきました。それは、眞に觀天喜地のうれしさでありました。その時、製茶に專心してゐる和尚のところに行つてこれを告げると『ああ、その通り、それだよ、それだよ!』とうなづきました。それは一週間の坐禪の中ごろのことでした。

     伸びる買收の手

「ボンズ(坊主)とクレチャン(基教徒)とが寄つて、アナルシスムの修業をするなんて、東洋でなくては見られない風景だネ」
 ルクリュ翁はいかにも興味深げであつたが、マダムはわたしの執えうな基教思想に不滿の面持であつた。
「アナルシストが十字架で惱むなんて、およそ意味がないではありませんか?」
 これに對する答はむづかしい。わたしの語學の力では明答し得ない。しかし、既に長い交際が續けられて來たので意は自ら言外に通ずる。不立文字、以心傳心とでもいふところであらう。おぼろげながら、理解は進められた。

 ボンズの心理的鍛練には仲々むづかしい難解な點も多いのですが、クレチャンなどの經驗しない別の世界があるのです。内山愚童君はこの鍛練によつて、眞に生死を超越したのです。幸徳等とともに死刑に處せられた時でも、いささかも心を動かす樣子さへ現はさず、極めて平靜に且ほがらかに、絞首臺に登つたといふことです。立會つた教誨師も、これには頭を下げたさうであります。
 田中正造翁もたしかに生死を超越してをりました。翁には、しかし、愚童と異つた人格が輝いてゐました。田中翁には最初から生死の問題はなかつたやうです。一生涯を人道の戰ひに捧げて寸分の隙もなかつた翁の心裡には生死の問題などを顧る餘地がなかつたのでありませう。もちろん養生には注意して人道に獻身せねばならないのですが、それすら翁にとつては自然生活であつて、特殊の問題ではありませんでした、翁は世俗の人から見れば非常に特殊な人物ですが、翁においてはそのすべてが自然でありました。畸人だの、義人だのといふ名稱は、翁においては如何にも不似合に感じられます。あるひはこの自然人としての翁こそ實は非常な異色をなすものであるかも知れません。翁は天成の無政府主義者でありました。
 私が田中翁に尾して熱心に奔走したことは、時の政權にとつていささか眼ざはりになつたと見えて、わたしの身邊に樣々な黒い手が伸べられてきました。それは田中翁自身に對しても久しい間試みられたことですから、當然のことともいへるでありませう。それは買收の奸策であります。翁の買收額は十萬圓、二十萬圓、三十萬圓と時とともに騰貴して行きました。正當な方法では、あの政府の罪惡を國民の前にかくすことができないのであります。何とかして、どんなくらい醜い方法を以てしても、資本と政權との抱合による大罪惡を隱ぺいしたいのです。田中翁の周圍にゐた栃木縣の政治家達は大部分が買收され、遂には翁を強制的に幽閉して、收賄の罪名を被らしめようとまで企てました。この陰謀から田中翁を救つたのはある遊女屋の樓主でありました。その結果、栃木縣の政治屋たちの間で、收賄金分前の奪ひ合ひが起り、ピストル騷動まで引きおこすに至りました。かういふ有樣ですから、私のやうな青年にも、その闇の魔手が近づいて來たのは當然です。それは何時も警視廳のトンネルをくぐつて來るのです。わたしが政治のからくりといふものを眞に身を以て體驗したのは、この時が始めてでありました。そして政治そのものが人間の罪惡の現はれであることをつくづく見せつけられました。特高課の部長級が種々な口實を設けて、わたしを官房主事または總監に引き合はせようとしたことは幾度か知れないが、ある時は、官房主事が自ら來訪したことさへありました。
 僅かに一年間の運動でありましたが、新紀元社の運動は、わたしにとつてよい修業になりました。そして思想上に於ても、從來考えてゐなかつた樣々な疑問が生起して來て、社會主義も基督教も何も解つてゐないことに氣がつきました。しかし、毎週一回『新紀元』講演があり、毎月一回社會研究會があり、隔週ごとに聖書研究會を開き、その間に於て、田中翁と東西に奔走したので、わたしの生活は隨分繁忙を極めました。それも月刊雜誌の經營と編集とを擔當したうへのことですから、骨も折れましたが、生きがひも感じました。
 しかし、『新紀元』の一ヶ年間の運動中には、同人の思想的動搖が甚だしい急調を帶びて行はれました。最初に徳富蘆花、蘆花はただ一回『黒潮』の續篇を出したのみで、伊香保に隱れてしまひました。夫婦間のもつれた感情の整理、兄蘇峰との和睦等、いづれも蘆花自身の平和思想の徹底から派生する外廓現象でありました。蘆花としては『黒潮』の續篇など書いてゐる心の餘裕がなくなつたのです。彼自身の生命の緊迫した問題に逢着したのであります。それが遂にパレスチナ及びヤスナヤ、ポリヤナへの巡禮となつた譯であります。そして『新紀元』は遂に蘆花の文章を得ることができなくなりました。
 次は『新紀元』の主柱であつた木下尚江の思想の變化であります。蘆花の場合は新紀元社の事業に殆ど影響を及ぼさなかつたが、木下の場合はさうは行かない。これにはいささか困りました。『光』一派の社會主義者が殊更基督教を嘲弄するのを見て、木下は遂に社會主義者に對して袂別の辭を書くに至りました(明治三十九年十月發行『新紀元』第十二號)。もつともこれを書くに至つた木下の心持は複雜であつたと思ひます。堺が發起した社會黨に入ることを謝絶して『堺兄に與へて政黨を論ず』といふ私の長文を『新紀元』に掲げたのが八月で、それに對して幸徳が(既に米國から歸つて)また長文を寄せて『政黨なるものが、單に議會の多數を占めるを目的とする黨派、即ち選拳の勝利のみを目的とする者ならば、其弊や確かに君のいふ通り』だ。しかし『君のいふ如き政黨たらしむるか、將た革命的たらしむるかは、一に我等の責任に存することと思ふ』とあるのが、九月號であります。そして、この社會黨に參加した木下としては明白に去就を決する責任を感じたものでありませう。それに蘆花が『巡禮紀行』を書き百姓生活を始めて、時の青年達の間に大きなセンセーションを起したことも、木下の精神生活に多少の影響を與へたでありませう。この時に當つて『日刊平民新聞』創立の議が起り、私にも參加せよといふ要求がありました。

     日刊平民新聞

 幸徳がアメリカから歸つて來て間もなく、西川、堺等とともに『日刊平民新聞』創立の相談を始めました。それには竹内兼七といふ若い金持が資金を出すことになつて急速に計畫が進んだのです。そして堺、幸徳兩兄から私にも創立者の一人になれといふ相談が持ち込まれました。わたしは兩兄の變らぬ友情にとても嬉しく感じたが、しかし、私に最も適した『新紀元』を棄てて、最も不得手な新聞記者になることは、どうかと思はれました。それに新刊の平民新聞には外部から盡力させて貰つたらどうか、こんな考へから、一應、參加を謝絶したのですが、兩兄は強ひて參加を要望するのでありました。兩兄の言ふには『今回の事は、啻に君一身の問題に非ず、從來何とは無しに對立の形勢をなせる基督教徒、非基督教徒の兩派の社會主義者が相融和するか否かの問題に係はる』ことであるから、とくと社中社外の同志と協議してくれとのことでありました。
 當時木下は思想の動搖のために上州伊香保温泉に行つてゐたので社中の赤羽巖穴、逸見斧吉、小野有香、横田兵馬の諸君に諮り諸君は安部磯雄氏を訪うてその意見を質しました。そして兎も角も、日刊平民の創立に參加せよ、といふ衆議が成立しました。勿論『新紀元』の編集、發行等は諸同志が協力して繼續するといふことでありました。ところが、木下が伊香保から歸つて、十名ばかりの諸同志が相會して最後の決定を計らうとしたが、主役の木下が繼續に同意しないので、遂に廢刊といふことに逆轉して了ひました。木下は『新紀元』の終刊號に
『慚謝の辭』を掲げて
「新紀元は一個の僞善者なりき。彼は同時に二人の主君に奉事せんことを欲したる二心の佞臣なりき。彼は同時に二人の情夫を操縱せんことを企てたる多淫の娼婦なりき」
 と絶呼しました。
 まことに傍若無人の態度で『慚謝』の心情など些かも窺はれない放言でありますが、ここが木下の人柄とでも言ふべきでありませう。一年間、熱心に『新紀元』に應援または協力して來た青年同志達は或は失望し、或は憤激し、或は呆れましたが、どうすることも出來ませんでした。(木下は最期の息を引きとるまで、かうした性格を持ちつづけたやうであります。偉大な天才でありましたが、かうした性格から、よき同志を發見し得なかつたので、その才能を充分に發揮し得なかつたのだと思ひます。)
 兎も角も、『新紀元』と『光』とは同時に廢刊して、双方の同志が新發足の日刊『平民新聞』に協力することになりました。前記の堺、幸徳、西川、竹内と私との五人が創立人となり、編集局には山口孤劍、荒畑寒村、山川均、深尾韶、赤羽巖穴等の諸君が入りました。そして京橋區新富町の有名な劇場、新富座の隣りの可なり大きな家に陣どりました。新富座は昔は最も有名な劇場であり、千兩役者ばかり出場する格式の高い芝居小屋でありました。
 この日刊平民の創立は可なりのセンセーションを日本の社會と政府とに起しました。西洋諸國の社會主義者間にもまた少からぬ感動を與へたらしく、諸國の革命家の來訪に接しました。就中ロシヤの革命家ゲルショニといふ巨大な體躯の持主の出現は平民社中に深い印象を與へました。『新紀元』時代にもロシヤの亡命者ピルスツスキイが現はれて、幾度か會食などしたが、今度のゲルショニはさういふことは致しませんでした。ゲルショニは本國の牢獄を脱して來たらしく、餘り落ちついてはゐられなかつたのでありませう。明白な記憶はないが、ブハーリンなども來訪したのではなかつたかと思ひます。印刷機械まで据ゑつけて日刊紙を刷りはじめたのですから、政府の方でも少々眼を見はつたやうでありました。
 この新聞紙上で幸徳は始めから自分の『思想の變化』を發表して、公然無政府主義的主張を宣言しました。それは創刊號から間もない十五、六號の頃で普通選擧制、議會政策を無益な運動となし、勞働者の團結訓練と直接行動とを主張するのでありました。この主張も可なりの衝激を世間一般に與へ、また社會主義者間にも議論を沸騰せしめました。新紀元にも平民新聞にも有力な援助者となつた田添鐵二君は議會政策論者として、正面から幸徳に對立しました。
 幸徳が直接行動論を宣言したのと時を同じくして、足尾銅山の鑛夫達の暴動が勃發しました、たしか二月四日の夕方でした。平民社經營上の相談のために、幸徳、堺、西川三君と私とで、近所の鳥屋に晩餐を喫してゐると、新聞の號外賣りがチリチリ鈴を鳴らして來る。足尾の暴動が益□激化して來たといふ報道でありました。これはこのまま棄ておく譯には行かないといふことになり、さしづめ西川君が急行して樣子を見たり、通信を書いたり、對策の施すべきことがあれば、適當の處置を講ずる、といふことになり、その夜すぐ出發と決定しました。晩餐もそこそこに濟ませて西川君は先づ家に走り、私は號外を持つて平民社に歸り既に大組を終つて印刷にとりかからうとする工場に行つて、二號活字の大見出しで、暴動記事を付加へました。六日には暴動のますます猛烈なこと、鑛山事務所長は猛火と動亂との包圍に會つて死去したこと、遂に高崎連隊が鎭壓のために出動し戒嚴令がしかれたこと、などが大々的に都下諸新聞に報ぜられました。七日には、平民新聞社と堺、幸徳、西川、石川、竹内等五人の家々に、一齊搜索が行はれました。同じ日に、平民新聞紙上には足尾鑛山勞働者至誠會の南助松、永岡鶴松その他五、六名の幹部が平民紙を抱へ、大旗を樹て整列せる寫眞を掲載しました。同じ日に、衆議院では、武藤金吉が大竹貫一他三十名の賛成を以て政府に詰問しました。
「……大暴動は鑛業主と勞働者との間に起りたる一椿事に過ぎずといへども、而も交通を遮斷し、電話、電燈、電信の電線を切斷し、道路、橋梁、鐵道、家屋建物を破壞燒失し、終に多數の人命を傷ふに至らしめ、數百の警察官を以つて鎭撫する能はず、なほ高崎連隊より出兵するに至りたるは、政府當局者の無責任にあらずや云々」
 この時、西川君は既に現地で拘引されて了ひました。

     平民廢刊まで

 西川君が拘引されたといふ報に接して、すぐにその仕事を續ける人を送らねばならぬことになりました。選ばれたのは編集局の最年少者、荒畑勝三(寒村)君でした。しかし荒畑君が足尾に着くと間もなく暴動は鎭まつたと思ひます。
 足尾の暴動は鎭まつたが、政府の暴動は鎭まらず、平民新聞の上に矢つぎ早やに、火矢を放射し始めました。わたしは編集局の番頭さんにされ、かつ、發行兼編集の名義人にもなつたので、僅か三ヶ月の間に四つの事件の被告人になりました。そして最後に發行禁止の宣告となつたのです。
 この間に社會黨内に議會政策と直接行動との是非の議論がやかましくなり、わるくすると、分裂にまで押し進みはせぬかと危ぶまれるほどでありましたが、まるめることの上手な堺が在り、堺と幸徳との厚い友交の關係もあり、その危機は逸しました。しかし、大會の決議と、その時の幸徳の演説とを載せた平民新聞は告發され、同時に發賣を禁止され、社會黨そのものも禁止されました。わたしも何とかして分裂を避けたいといふ念願から、社會黨員に對する私見をも平民紙上に掲げ、大會當日になつて入黨までしました。大會の決議は折衷的な評議員案が成立して無事終了しましたが、黨そのものが禁止されたので、いささかとびに油揚をさらはれた形になりました。皮肉なことに政黨ぎらひな私が大會の席上、堺と二人で幹事に選ばれ、そのまた皮肉をこつ稽にまで持つて行くべく、私は社會黨禁止令を拜受しに警察にまで呼び出されました。
 明治四十年二月二十三日の平民新聞の『平民社より』に堺が次のやうに書いてをります。
「△今日は石川君と僕と二人、本郷警察署に呼び出された。僕は差支があつて、石川君だけ恐る恐る出頭した。御用の筋は社會黨黨則改正屆出遲延のお叱りで、全體社會主義者は公私を混合してイカン。一昨日堺に出頭を申遣はして置いたに、編集が忙しいの何のと勝手なことばかり言つて、而も電話なんぞかけて警察を馬鹿にしてゐる、況んや屆書は早速差出すと云ひながら郵便で以てソロリソロリと送つてよこす、實以て怪しからん次第だと御意あつた、所が旭山、是式の事で罰金を取られては叶ふまじと、僕の代りに恐惶頓首再拜してヤットの事でお詫びが濟んだ△ヤレヤレこれ丈であつたかと、旭山胸撫でおろして罷らんとする其時、警部君チョットと呼びとめ、實は今一ツ御達しすることがある(サア來た)是は少し御迷惑かも知れぬがと厭にニヤニヤして猫撫聲で仰せられる。旭山謹んで承たまはるに、それこそ即ち社會黨禁止の達しであつたのだ△序に今少し旭山を紹介する、彼は昨夜深更、如何なる物の哀を感じてにや、ふらふらと家をさまよひ出で(この一句深尾韶案出)半圓の月に浮れて十二社の森に遊び、少々風を引いて歸つたよし」
 この最後の一節には覺えがないが、當時の激しい鬪爭の中で、平民社の内部の空氣が至極ほがらかであつたことを思ひ出させます。もう一つ堺の『平民社より』を紹介しませう。
「△活版の工場にリュウちやんといふ十ばかりの可愛らしい女の子が居る――石川さんモウ原稿は出ないこと? ――などといつて使に來る、われわれの事業にもコンナ小兒勞働を必要とするかと思へば情なくなる」
「△旭山は控訴なんぞ面倒だから仕方ないといつて居る、檢事の方でも眞逆やりは仕まい、すると判決言渡より五日の後、即ち三十一日に確定となつて『明日檢事局に出頭しろ』といふ樣な通知が一日にくるとすれば、多分二日から入監することになるだらう」
 この三十一日には、京橋區北槇町の池の尾といふところで、『石川君片山君送迎茶話會』といふのが開かれました。わたしの事件は檢事が控訴したので入獄が延期になり、片山潛は一ヶ月以上も前に歸國してゐたので、送るには早く、迎へるには遲すぎる會であつたが、カナダの社會主義者ジョン・レーなども出席して、にぎやかでありました。
 まだ入獄期は確定してはゐないが、どつち道、數重なる告發を受けてゐることで、いづれ暫時の離別は免れぬとあつて、諸方からの御招待に接し、わたしは些か甘えたやうな氣分にもなりました。三月廿九日の堺の『平民社より』に次のやうな記事があります。
「△旭山は入獄の準備やら、送別の招待やらで大ぶん忙がしい樣だ、昨日は丸善から何かの本を二、三册買つて來た△昨日と云へば秩序壞亂で又やられた、あんなものが何うして、と云つた所で仕方がない、お上の遊ばされる事だ△今夜はお隣の新富座の伊井蓉峰君から招かれて、霞外と旭山と僕と三人で見物に行く、旭山は河合武雄が好で、入獄前に一度見たいと云ふのだ△又月末になつた、ノンキな事ばかり云つて居れない」
 伊井と河合のよいコンビで演ぜられた『瀧の白糸』に感動せしめられて、わたしは思はず瞼を熱くしました。樂屋に通されて伊井と河合とに會談したことも愉快でした。河合が、
「芝居でしてさへ囚人の役は骨が折れますもの、あなた樣もこれからさぞ御苦勞遊ばすことで御座いませうねえ」
 など言うて、慰めてくれるのにつり込まれて、ほつと異性の温みに接する心地がするのでした。彼は樂屋に於ても、その動作から言葉使ひまで全然女性のやうでありました。
 こんな呑氣な生活をしてゐる間に、山口孤劍君の『父母を蹴れ』といふ文章が朝憲紊亂罪に問はれ發行禁止の宣告を受けるに至りました。それは四月十三日のことであつたが、平民新聞は裁判の確定を待たずに、翌十四日を以て自ら廢刊するに至りました。社の内外ともに餘りに突然の決定で驚いたらしいが、無理をせずに玉碎主義を採つた譯でありました。幸徳と堺とは、既に幾度か平民社の維持方法に就いて相談もしたのであるが、前掲の堺の『平民社より』に『月末になつた、ノンキな事ばかり云つてをれない』とあるやうに五、六十人の世帶を維持するのは容易ではなかつたのです。資金補給を申し出た向もあつたのですが、ほんたうに主義のために出資してくれるのでなければ、後の煩ひになるので謝絶したのであります。そして政府が發行を禁止したので、其機をとらへて廢刊を斷行した譯であります。でなければ、廢刊も實は非常な難事であつたのです。

     獄内での修業

「不意につかまつて、拘引されるならとに角、自分で進んで獄中へ行くなんて、隨分いやな氣持でせうね」
 マダムはわたしの話をさへぎつて、かう聞くのであつた。二十年前に、自分の夫、即ち現在のルクリュ翁が、懲役二十年の缺席判決を受けて、英國に脱走した時のことを思ひ出したのであらう。マダムにとつては興味が深刻なのであつた。ルクリュ翁は深い沈默で依然として傍でこれを聞くのであつた。

 いや、それほど、いやとも思ひませんでした。既に堺が行き、幸徳、西川が行つた後のことで、恐ろしくも思はず、むしろ好奇心にさそはれた方でした。それに先に私の文章で幸徳、西川の刑期を幾週間か長びかした責任も感じてゐた私は、晴ればれしい氣持で入獄しました。
 最初は十一ヶ月の豫定でありましたが、幾つもの事件が重なつてゐましたし、赤衣を着けて幾度か法廷に立ち、幸徳の直接行動論に就いての辯論も自分で思ふ存分やつたので、刑期はまた延長して十三ヶ月になりました。入獄した最初は市ヶ谷の東京監獄に一ヶ月ゐましたが、それから巣鴨監獄に移されました。
 東京監獄に入つた時、最初の二、三日間は、どうしても、飯が咽を通りませんでした。うつはは汚なし、異樣な臭氣はするし、辨當の箱を口のところに持つてゆくと嘔吐を催して、どうにも食ふ氣になれませんでした。それが四日目ぐらゐから、空腹に堪へられなくなり、三度の食事がうまくて待ちどほしくなりました。人間の生理生活には、どんなに彈力性、融通性があるものかと驚かされるのでありました。
 入獄の時は、同志山口孤劍君と一しよでした。『父母を蹴れ』といふ山口の論文が告發されて、それが二人に何ヶ月かを食はしたのです。東京監獄に行くと勿論二人は引き離されました。眞つ暗なブタ箱から、やがて夜具を抱へて獨房に入れられ、後からガチャンと鍵をかけられた瞬間の氣分といふものは、まつたく『大死一番』といふ心境、または『一切他力』の實感を、體驗させられるのでありました。窓は高くて外は見えず終日終夜面壁の修業です。
 東京監獄から巣鴨監獄に移されると、いささか格式が上つたやうに感じられました。今までは木造の小さな獨房であつたのが、今度は鐵の扉の岩窟のやうな冷たい室になりました。食物もずつと澤山に御馳走があるやうに感じられました。それから、間もなく別棟の十一監といふところに移されました。ここはまた木造で、昔の牢屋を思はせるやうな、大きな格子に圍まれた室でした。ここでは山口と隣りして居を定められたので、毎日の生活がいささかくつろいできました。さらに、暫くすると大杉が入つて來ました。山口はわたしの左室、大杉は右室に入れられました。わたし達は輕禁錮で、勞役がないので、終日讀書ができて、こんな仕合せはないと思つてゐましたら、さらに机を新調して與へられ、ペンとノートの携帶をも許可されたので、わたしは希望の光明に充たされました。そして、すぐに勉強の方針を樹て、第一に西洋の社會運動史を順序だてて檢討しようと志しました。それは、從來のわたしの心裡において、宗教と社會主義と人生觀との間に存在した、多くの不統一點、無融合點を照らすべき新しい光明が、この勉強によつて與へられるであらうと考へたからであります。
 先づイリー教授の書とカーカップの歴史を讀み、マルクスの『資本論』に喰ひつきました。面白い點も少くはないが、マルクスといふ男は、何といふ頭の惡い人間だらうと呆れました。思想がくどくて愚痴つぽいのです。勿論讀了どころか半分も讀めませんでした、そして、ジョン・レーの『現代社會主義』中のマルクス紹介で資本論をも卒業しました。マルクスに比してクロポトキンの『パンの略取』は實に愉快でした。これは少しも退屈することなく一氣に讀了することができました。しかし、この書が愉快きはまるにかかはらず、わたしはこの書に滿腔の信頼を捧げることができませんでした。その革命の道筋に於て、人生觀そのものに於て、いささか過超樂天的なところが見られました。その時わたしの出會つた思想家エドワード・カアペンターは、不思議にも、わたしの從來の一切の疑問に全的解決を與へてくれました。カアペンターの『文明、その原因と救治』及び『英國の理想』は、わたしの數年來の煩悶懊惱を一刀の下に切開してくれました。
 勿論カ翁の書が解決を與へてくれたのは、わたしの勉強の進んだ一ポイントに丁度的中した一刀が、翁によつて與へられたことを意味するのです。マルクス歴史主義、歴史必然論が、人類解放の觀點から全くナンセンスであることに氣づいた私は、カアペンターの特殊な人生史觀によつて救はれたやうに感じました。人類の社會生活の變遷とその種々相を、自我分裂の事實によつて説明し、内なる統一と外なる統一とを全く不可分のものとし、遂に宇宙的意識に復歸することに於て、無政府にして共同的にして同時に貴族的なる眞の民主生活が實現せらるるものとするカ翁の説は、從來の宗教思想も社會思想も藝術も農工業も、すべてを一つの熔爐に入れて、新しい自由の全一の世界を創造する捷徑を明示するのでありました。
 また碧巖録を讀み、論語、孟子、バイブルを讀み、古事記を反覆する間に、個人も、社會も、物質も、精神も、野蠻も、文明も、皆それぞれの面に於て『人間』といふ生命活動の一表現であつて、その自然の姿は終始一貫して『美即善』を追求してゐることが解るのでありました。カ翁の宇宙的意識といふのは、哲學者のいふ意識とは雲泥の相違があつて、それは宇宙的生命そのものであり、『人間』そのものであり、『眞善美』そのものであり、一面虚無であり、同時に實存でありました。
 巣鴨監獄内の一年間の冥想は私にとつて、よき修業になりました。

     巣鴨の幽居

「あなたのお話を聞いてゐると、監獄は樂しいところのやうに思はれて、何だか同情の念が薄らいでくる恐れがありますね」

 ええ、ある點からいへば、あすこは私達の樂園でありました。毎日三度三度の食事は供へてくれますし、社會のやうに、あくせく働かないでも、生活の心配はなし、いささかも心が散らず、勉學に專心し、終日終夜、面壁靜坐默想に耽ることもできるし、こんな贅澤な生活は、外界では到底できません。
 田中正造翁は面會に來てくれた時、立會の看守の顏を横目で見ながら『あなたは善いことをしてここにおいでになつたのだから、ここはあなたにとつて天國です。それ故、ここのお頭さんを典獄と申されます』と駄じやれて呵々大笑しました。翁に伴はれて來た二、三の友人も私も聲をあげて笑ひ合つたので、看守君も苦笑をかみ殺してゐました。
 片山潛君も面會に來てくれましたが、あの人は正造翁のやうなユーモアがなく、何となく悲痛な面持ちで餘り多くを語らず立ち去りました。
 自稱豫言者宮崎虎之助君も來てくれたらしいが、面會も許されず『健康を祈る』といふ看守長の言傳によつて、それを知りました。看守長は宮崎が白布に豫言者と書いてたすきがけにしてゐたと言ひ『あれはほんたうの豫言者かね』と問ふのでありました。『本人がさういふのですから間違ひはないでせう』とわたしがいふと、老看守長『さういへば、それまでさなあ』と意味のありさうな、またなささうな返事をして行きました。度々面會に來て、差入物や内外連絡のことを引受けて世話してくれたのは福田英子姉でありました。入獄の際、わたしの書物や荷物は悉く福田氏のところに托して置いたので、監獄當局へも福田氏のところをわたしの社會生活の本據として屆けたのであります。
 かうして在獄中もいささかのさびしさも感ぜず、大した不便も感ぜずに勉強ができました。親友逸見斧吉君は高價な洋書を丸善に注文して買つてくれ、それを福田氏に托して差入れてくれました。差入れられたノートも、積り積つて十五册になりました。それは自然に一卷の『西洋社會運動史』を構成したのであります。今日大册を成して世に出てゐるのは實にそれであります。
 この獄中生活はわたしの思想に多くの生産を與へました。第一に進化論否定の萠芽を産み、第二に古事記神話の新解釋に目標を與へました。進化論に懷疑し始めたのは、カアペンターの『文明論』とクロポトキンの『相互扶助』とを讀んだ結果であります。クロはダーヰンの進化論の一部面を強調するために『相互扶助』を書いたのであるが、不思議にも、それが私に進化論否定の動機を與へたのであります。あの書を讀むと、諸動物間に行はれる相互扶助は人間界に行はれるそれよりも一層純粹に本能的であつて有力であり、その點から言へば、少くとも今日の人間界は或る動物より遙かに退歩したものと言へるのであります。人間でも古代の人間の方が近代人よりは一層純一であり、道義的であつたと言へるのであります。それはカ翁の『自我の分裂』の歴史『人類墮落の意義』と對照して、深い考察點を指示するものであります。わたしは新世界の鐵の扉が開かれたやうな氣持で眼を見ひらきました。
 次に獄中で讀んだ書物中でわたしを喜ばしたのは『古事記』でした。わたしの第一に驚いたのは、古事記の言葉使ひが自由であること、從つて如何にも豐富であること、思想と言葉とが自由で自然で豐富であつて、その中に含まれた事實には寒帶地から熱帶地に及ぶ多くの地方色が伺はれること等これでありました。わたしの『古事記神話の新研究』の萠芽はこの時から生起したのであります。
 こんな譯で、わたしの巣鴨監獄における生活は可なり多忙でありました。思想生活に於て右にのべたやうに繁忙であつた上に、赤衣を着て屡□裁判所に引き出されました。それはわたしにとつて一種樂しい旅行でもありました。早朝に監房から出されて、草鞋を穿かされて、徒歩で東京監獄まで送られるのです。それから他の囚徒とともに法廷に馬車で送られるのでした。一人の看守に付添はれてさわやかな外氣に觸れながら巣鴨の町を歩くのは愉快でした。朝起きて店先を掃いてゐる婦人などが何と美しいことか! 婦人といふ婦人は大てい美人に見えました。
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