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著者名:石川三四郎 

「もう出來てから一週間になります、大部分は支那の同志が支那に持つて行きました。今時分は船の中で黄海あたりを渡航中でせう。もう少し早くお知らせを下さればよかつたですが、外國船に積み込まれたのでどうすることも出來ません」
 署長さんも今更怒つてもしかたがないと思つたか、ことやはらかに
「それでは歸つてもよろしい」
 と來た。かうして、たわいなく事件は經過し去りました。この事件が因縁になつて、わたしの日本脱走が發起されるに至りました。
 明治四十五年の夏、福田氏一家は東京角筈の家にゐられなくなつて、一まづわたしのところに來ることになりました。それには渡邊政太郎君が容易ならぬ骨折りで悲劇喜劇を演じながら兎も角も無事に移轉ができたのです。貧乏の結果、借金取りの包圍に會つて家財の運搬など思ひもよらぬ有り樣であつたのを渡邊君が一切引きうけて始末をつけてくれたのです。
 四十五年は半ばで大正元年になりましたが、その年の大晦日に渡邊とともに出版書の始末を終つたところに、裏口の方から『石川さんこちらですか』といふ聲がかかりました。田中正造翁の聲です。飛びだして見ると翁は人力車から降りるところです。
「やれやれ見つかつてよかつた。あちこちと一時間あまりも探しましたぜ!」
 二週間ほど前に海岸通りから少し高臺に移轉したために翁をまごつかせた譯です。しかし一家一族が大喜びで翁を迎へたので、翁はとても嬉しさうに、懷から十圓札を一枚だして
「これで皆さんと一しよにお正月をさせておくんなんしよ」
 といふのです。われわれに對する翁の愛情の深いのには、いつも感激させられます。横濱まで來てお正月をしようといふ翁の心の中には、貧困の極にあるわれわれがこの年の瀬を如何にして越しうるか、といふ心やりもあつたのでせう。無一物の翁なればこそ、無一物のわれわれに同情が持てるのです。わたしは何時もながら眞心から翁に感激しました。
 翁は元日から若いものどもにかしづかれながら、屠蘇に醉うて大元氣でした。唐紙がせん紙を翁の前に並べると、翁は一ぱいきげんで盛んに書きなぐりました。
「大雨にうたれたたかれ重荷ひくうしの轍のあとかたもなし」
「天地大野蠻」
「壯士髮冠をつく日の出酒」
「若いもの見てはうれしき今朝の春」
「餘り醉ふことはなりません屠蘇の春」
 といふやうな文句は今でも記憶してゐます。翁は大はしやぎにはしやいで三日に東京の方に行きました。家の無い翁の後姿はいかにも淋しさうに見えました。
 翁が去つて二、三日たつと前述の發賣禁止事件でわたしは横濱の警察に引致されました。それを聞いた支那の革命少女T君はベネジクティンの大壜を携へて來訪されました。T君は民國の第一革命を横取りした袁世凱の暗殺を企てて失敗し、危く捕へられようとした時ベルギーの領事G君に救はれ、G君に伴はれて日本に來た人です。G君はかねて二、三度わたしの家に來訪したことがあり、このG君から私のことを知つたのです。(この人のことは『爆彈の少女』[#「『爆彈の少女』」は底本では「『爆彈の少女」」]として幾度か紹介したことがあるから、ここには述べますまい。)
「あなたは、かうして、ぐづぐづしてゐると、幸徳のやうにくびられてしまひます。早くこの國から脱走しなさい。旅費はわたしが出します」
 と勢こめてT君は言ふのです。この少女の情熱にほだされて、わたしの日本脱走は決せられたのです。
 このことは渡邊と堺と二人に知らせたのみで、他のすべての同志には祕密でした。堺は送別のためにとて、有樂座の文藝協會演出アルト・ハイデルベルヒに招待してくれ、わたしは最初にして最後に松井須磨子を見ました。
 三月一日、わたしはひそかに佛國の巨船ポール・ルカ號に乘り込みました。渡邊から特に知らされて見送つてくれた青年山本一藏は岸壁に唯一人とどまつて、いつまでも見送つてくれましたが、それが永遠の別れになりました。彼は早稻田を優秀の成績で卒業しながら、間もなく鐵道自殺を遂げました。田中翁はわたしの脱走を聞いて些か淋しさうでしたが『わたしはヨーロッパに行つて、必ずあなたの傳記を書いて、あちらの人達に知らせてやります』といふ一言をもつて、わたしは翁にお別れしました。そしてそれが永遠のお別れになりました。
(永々紙面を汚しました「浪」は限りなくつづくのですが、一先づこれで……)
(昭和二十三年五月―十二月)



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