回想録
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著者名:高村光太郎 

 そういう人々の印象派や後期印象派のような仕事が段々やっているうちにそれではどうにも行かなくなって御破算になり、正直に自分の見たものを描くより仕方がないというに立到った。岸田君は余りそんなことをしている中に胸を悪くし、鵠沼(くげぬま)に引込んで仕事をしていたが、その頃から岸田君の仕事は本当の画になって来たように思う。「白樺」の連中がデュラアのデッサンのもの凄いのに感心して、それに宗教的傾向が加ったりして岸田君を中心に「草土社」の運動になったのである。私は彫刻の方だったから、草土社には加わらなかった。
 彫刻家の中で私が一番親しくつきあったのは荻原守衛だ。アメリカで最初に会ったが、その時の印象では油切ったあくの強い人で、大言壮語する田舎者のように感じられて、私達江戸の教養ではそういうのを実に厭(いや)がる。然し後で考えれば、正直な丸出しの人で、段々油切った所がなくなり闊達ないいところだけが感じられて、日本に帰ってからなどは非常にいい人であった。一所懸命彫刻のことだけ考えていたような人で、今日私達が考えているような彫刻をやり出したのは矢張この人である。ロダンによってそういう事を悟ったのだろうと思う。よく角筈のアトリエに遊びに行ったものだが、私の帰国する前に帰って来ていて父の所にも時々訪ねて来たらしい。父も荻原君が好きで、よく手紙を貰ったようだ。父は、もうその頃は年寄で他にいろいろな傾向の新しい彫刻が出て旧弊な彫刻家になっていたが、荻原君は父を担いで、「あんなこまちゃくれた彫刻より先生のが一番いいんだ。」と言ったりして、父も悪い気がしないらしく、「守衛さんは若いけれどもいい。」と言っていた。

 私は鑑査を受ける展覧会に出品しないという建前であった。自分が鑑査を受けるなら神様に受けるので、人間などの鑑査を受けるべきではないという言分なのである。私が公の展覧会に出品したのは、第一回の聖徳太子奉賛会の展覧会の時が最初であったが、この時は審査はなく、総裁が宮様で父も出品を勧めるので、老人の首と木彫の鯰(なまず)とを出した。
「老人の首」というのは、此処へ乞食のようにして造花を売りに来る爺さんの顔が大変いいので、段々訊(き)いてみると昔の旗本が落魄(おちぶ)れたのであった。それを暫く来て貰ってモデルになって貰ったが、江戸時代の昔の顔をしているのに牽(ひ)かれた訳だ。「鯰」は従来木彫の方では伝統的なものを何の考もなく拵えていたが、其の頃から私は木彫のああいう風なやり方を始めて、木彫に本来の自覚を持とうとしたのである。その頃鯰の他に魴□(ほうぼう)を拵えたが、「魴□」は武者小路さんたちが中心でやった「大調和展」に出した。それらの木彫を初めやりかけて父に見せた時はそんなに思わなかったらしいが、二度目に見せた時は父はびっくりしていた。父の驚き方は私の意図したところとは違うのであるが、父は刀がよく切れるようになったといって驚いたのである。例えば鯰の反っている外側の凸部の丸みは一刀でやれるが、反対側の横腹の凹部は一と当てで削ることは出来ない。途中で木目が変って逆目になるが、無理と知ってやって行くと逆目の所から割れて了う。どうしてもそれから先を刀を逆に使わなければならぬから一刀に彫れない。それを自分で考えて一刀でやって了った。父はそんなことに驚いたので、結局技術方面でどうしてやったかと思ったに過ぎない。その時に父は「此処の所に貝殻を彫って添えると面白い置物になる。」など言い言いしたものである。然し彫刻の彫り方については、他の人の全然気のつかない所を解ってくれた。
 それから桃、栄螺(さざえ)などを彫った。桃は彫刻としては一種の彫刻性の出せる果物だと思ってやったのだが、本当に解ってくれる人は少いだろうと思う。桃の天を指しているという曲線が面白いと思って彫ったのだが、彫り方も切出し一本でやったので、切出しの面白さを桃と調和させようとしてやったのである。
 栄螺も彫ったが、それを父に見せたら「この貝はよく見たら栄螺の針が之だけ出ているけれど一つも同じのがないね。」と言った。実はその栄螺を彫る時に、五つ位彫り損って、何遍やっても栄螺にならない。実物のモデルを前に置いてやっているが、実に面倒臭くて、形は出来るのであるが、どうしても較べると栄螺らしくない。弱いのである。どうしてもその理由が分らないので、拵え拵えする最後の時に、色々考えて本物を見ていると、貝の中に軸があるのである。一本は前の方、一本は背中の方にあって、それが軸になっていて、持って廻すと滑らかにぐるぐる廻る。貝が育つ時に、その軸が中心になって針が一つ宛(ずつ)殖えて行くということが解った。だからその軸を見つけなければ貝にならない。成程と思って、其処をそういう風に考えながら拵えたら、丸でこれまでのと違って確(しっか)りして動きのない拠(よ)り所が出来た。それで私は、初めてこういうものも人間の身体と同じで動勢(ムウヴマン)を持つということが解った。それ迄は引写しばかりで、ムウヴマンの謂(いわ)れが解らなかったが、初めて自然の動きを見てのみこまなければならないということを悟った。
 それ以来、私は何を見てもその軸を見ない中には仕事に着手しない。ところがその軸を見つけ出すことは容易ではない。然し軸は魚にも木の葉にも何にでも存在する。それを間違わずに見つけ出すのは、なかなか大変ではあるが、結局自然の成立ちを考え、その理法の推測のもとに物を見て、それに合えばいいし、そうでない時には又見直したりしてやるのである。木の葉一枚でもそれを見ないでやったものは、本当の謂(いわ)れが分らないから彫ったものが弱い。展覧会などにも、そういう弱い作品が沢山あるが、形は本物と一寸も違わないけれども、その形の拠り所が分っていないから肝心のところで逃げていて人形のようになって了う。人形と彫刻とは丸で格段の違いである。その違う製作的根拠をはっきりと気がついたのはその栄螺の彫刻の時だ。
 然し彫刻にしようとする自然物の中にも彫刻性のあるものとないものとがある。例えば果物にしても桃は彫刻になるが林檎(りんご)はならない。魴□や鯉は彫刻になるが、鯛はならない。お目出度いものだから鯛はよく彫られるが、単独に彫刻の題材にはならない。いろいろな物の中から彫刻性を多分に帯びているものを選び出して、それを題材とするのでなければ無意味である。それが解らないで無茶苦茶にやるのは、未だ彫刻が解っていないのだと思う。一寸見ると摘(つま)んでみたい位に本物らしく出来ている果物の彫りものとか、よく鮭を一枚一枚鱗(うろこ)を拵えて本物のように彫ってあるものなどがあるが、ああいうのは本当の意味の彫刻ではなく、根附彫のような細工物になって了う。私なら鮭の頭だけ拵える。鮭も首だけにしてみると、彫刻的組立が出来て来る。
 又このこととは反対に、人間の力で彫刻的に表現されたものを、更に二重に彫刻として表現することも無意味だと思う。例えば能の舞台の姿は、一方から言うと、空間に於ける彫刻的な感銘を意図し振舞われている姿であるから、一種の彫刻的表現が大きな要素になっている。それを更に彫刻に拵えることは無意味だと私は思っている。

 私の乏しい作品も方々に散って、今は所在の解らないものが多い。「魴□」など相当に彫ってあるので、時々見たいと思うけれども行方不明である。何か寄附する会があって、そこに寄附して、その会に関係のある人が買ったという話だったが、その後平尾賛平さんが買ったという事も聞いたが、どうなったか分らない。「鯰」は房州の方の人が持っている。これは或る綴錦(つづれにしき)を織る人があって、その人が困っているので寄附して、その人のパトロンのような人が買った。尤(もっと)も鯰はあと二三尾彫っていて、その行先は分っている。一つは越後長岡の松木さんという人が持っている。「桃」は長谷川時雨さんが買った。お蚕の時に使う栃の木で刳抜(くりぬ)いた盆にのせると非常によくはまって、丁度お釈迦(しゃか)様の甘茶の時のように中に小さく桃があって面白いと思ってそれに載せて出したが、その盆にヴェルレーヌの詩句を彫ってあったのを面白く思って買われたのか、然し盆は売る積りではなかったから長谷川さんは弱られたらしい。第二回の大調和展に出した「鷽(うそ)」は野口米次郎さんの親類の人が買った。又後に出した「石榴(ざくろ)」は京都の方の好事家が持っている訳だが、此などは後で一寸借りたいと思って面倒な思をした。手放して了えば、自分の作ったものでも自由にならないから、愛着のある作品を人手に渡すのは厭(いや)になる。貧乏の最中だから仕方がなかったけれども、智恵子はそれを惜しがった。「蝉」は大分拵えたが、之も行先が分らないし、「栄螺」も全然分らない。「栄螺」は父から金を貰うので、百円位で買ってくれと言ったら、父は面白いから預っておこうと言ってとってくれた。そしたらある百貨店の美術部の人が父のところに来て、何百円とかで売れたといって父がその金を持って来てくれたことがあった。父は私のものがそんなに高く掛引なしに欲しい人があって売れたということでびっくりして居た。それ迄は私の仕事など「勝手なものを拵えている。」などとよく人に言っていたから、無論値段などありはしないと思っていたのである。
 首は可成作ったが、半分以上は父の仕事の下職のようにしてやっていたから、半ば父の意志が入って居り、数は沢山拵えたけれど自分の作には入らない訳だ。私が土で原型を拵えても、それを鋳金にしたり木彫にうつしたりする時に無茶苦茶に毀(こわ)されて了う。法隆寺の佐伯さんの肖像なども父の名で私が原型を拵えたものだが、出来上ったものはまるで元のものとは違う。佐伯さんの顔は丁度お婆さんみたいな柔和な顔でそれでいて非常に強いのである。坊さんは案外覇気のあるものだけれどもそれが無く、如何にも精神の深いものが出ている。ああいう顔を自分勝手に拵えたらいいだろうと思った。私が自分勝手に作った首はそれに較べると僅かである。大調和展の二回目に、アトリエ社の記者をしていた住友君の首を出したが、その首あたりから幾分か自分らしい彫刻が出来るようになった。黄瀛(コウエイ)の首もその前後の作品である。黄瀛は日本で中野の通信隊に入って伝書鳩を習い、私のところにも来ていたが、支那に帰って伝書鳩の隊長になり、中佐か何かになって喜んでいた。ところが漢奸(かんかん)だというので漢口の附近で一網打尽に殺戮(さつりく)されたらしい。漢口の山の中に伝書鳩の箱や設備が残っていたということだが、全然それきり消息がない。南京で居た町も調べて貰ったが、其処も全然形跡もない。当人もそれを恐がって手紙もくれるなと言っていたのだが――。(終戦後彼の無事だった事が分った。)
 黒田(清輝)さんの首もその頃作った。その後で、松戸の園芸学校の前の校長の赤星さんのを拵えたが、これは自分として突込めるだけ極度の写実主義をやってみたもので、一寸ドナテルロ風な物凄い彫刻である。松戸の学校の庭に建っていたが、此度供出した。それから女子大の成瀬仁蔵先生を拵えたが、これは暇がかかって十七年かかった。私はその人に実際に会ってみないと仕事が本当に行かない。成瀬さんにお目にかかったのは亡くなる直前で、首を作る為に行ったのでは困るからというので、お見舞ということにして病床でお目にかかっただけだから印象が薄かった。後は写真と学校の女の先生に会って聞いただけでやった。後には、成瀬さんが始終やらせていた理髪師を呼んで来て、頭の恰好(かっこう)を見て貰ったりした。女の先生の印象はいい加減なものだったが、理髪師の方は「此処のところが尖(とが)っていた。」とか、非常にはっきりしていた。序(つい)でがあって一両年前女子大で見たけれども、作としては味いがなくて余りよくない。
 智恵子の首は随分拵えたし、父の首も可成作っている。中には地震の時に毀(こわ)れたものもあるし、自分で毀したものもあるが、大体は残っている。久しくやっている団十郎の首は、石膏(せっこう)でとるつもりで始めたが、今は石膏がないから泥で固めて了おうと思っている。初めから塑像にするつもりならば、それはそれで味いの違うものが出来ると思っている。私の作ったものには首位の程度で、大きいものはない。これから大きいものを始めようという時に、材料などが無くなっているけれども、私の制作其のものに就ては、此からが本当の積りである。その為に今迄いろいろ蓄積し準備をして来た筈であるから。

 わが国の彫刻の歴史は、世界に誇示するに足る伝統を持っている。われわれはその秀れた伝統を正しく継承し、それをわれわれの新しい意味に於て発展させねばならぬ。
 日本の彫刻史中では、近い頃から言えば明治大正の時代では矢張荻原守衛がいいと思う。江戸時代は周知のように此と言ってまともに此こそ彫刻だというものはないが、彫刻の技術方面の伝統を繋(つな)いで来たことは確かである。それは唯職人としての伝統を保って、当人達は無意識でただ腕を競ってやっていたのだけれど、その中に含まれているものが矢張彫刻の本質からでなければならぬものがあって、それを絶やさず、どうやら繋いで来た訳である。宮彫師だの彫金の方の人達がそうであり、又根附彫や仏師などの中にもそういう人達はいた。又一方には民間で拵えた木像が多く、此は名も知れないようになっているが、その中にはどうかして偶々(たまたま)いいものがある。又恵比寿様とか大黒様とか、そういうものの中にも万更棄難いものもないわけではない。非常に片寄った畸形(きけい)なものだけれど、そういう中からいいものを見つけ出して、それを棄てずに純粋にして大きくしなければならぬと思う。
 然し彫刻としてむきになって立向うというものは、どうしても鎌倉時代あたりに行かなければならぬ。鎌倉では矢張運慶一派のものに見るべきものがあるが、ただ鎌倉のものは多少俗だ。然し運慶の無著禅師などは殊に立派であり、仏でも大日如来などはなかなかよい。矢張古いものを相当に研究しているし、それにその当時の溌剌(はつらつ)とした現世を見る眼が肥えて来ているのが表れている。ただどうしても時代のせいで、古いものから較べると俗気が入っているけれども、之は止むを得ない。それからこの時代は彫刻を拵える上の意匠が豊富になっている。此は彫刻について当時の彫刻家が自由に考えるようになった結果だと思う。
 平安朝では皆の感心するようなものは矢張私もいいと思う。神護寺の薬師は全くいい。特殊なもので、ああいうものはあれだけぽっつり在るのだけれど、いろいろな方面から考えてあの像は大変面白い。私はこの像製作の少し前頃から丸刀(がんとう)を使い始めたのではないかと思う。丸鑿(まるのみ)は、製作上の実際から考えると飛鳥(あすか)時代にはなく、飛鳥時代は平鑿ばかり使ったのだろうと思う。飛鳥時代のものは鼻下の人中のような処でも三角に彫ってあり、何処にも丸鑿を使った形跡がない。飛鳥時代の彫刻は、平鑿で削ってゆく清浄さ、その清浄な気持でやったから、丸鑿など思いもよらなかったのだろうと思う。私の考では、丸鑿の使い始めは乾漆像製作の際から起ったのではないかと考える。乾漆の際、箆(へら)でやると谷が丸くなるので、平鑿のような仕事は出来ないが、それが乾漆像に非常に柔い感じを出し得た。それで、木彫の場合にもその柔い感じを出そうとして丸鑿を使い出したものだろうと推測するのである。丸鑿は天平になると使い出し、唐招提寺の諸像あたりから本当に使い始めたように思う。丸鑿というのは丸くしゃくれるから、巧くやるとすっきりしていい代りに、下手をすると却(かえ)っていいところを取って了う。だから乱雑に使うと、取らないでいいところ迄取って了うので、筋ばかりになってうるさく、物が非常に貧弱になって了う。江戸時代になると丸鑿の弊害は極端で、肉がぼてている癖に貧寒なものが多い。
 然るに丸鑿を使っている唐招提寺の諸像もいいが、神護寺の薬師になると丸鑿の絶頂なのだ。あれは最もいい条件で丸鑿を使って居り、丸鑿でしゃくってあるけれども非常に謹んで使っていて決してやり過ぎていない。丸鑿でなければ出来ないことだけを実に有効にやっている。襞(ひだ)を丸鑿で木を深く削り込んで彫ってゆく意味がはっきり把(つか)んである。顔のようなところには肉を減らさない為に丸鑿は使わず、平鑿で突きつけて彫っている。あの仏像は技術の上からも非常に立派なもので、素晴しいと思う。
 天平になると、彫刻が彫刻として始めて完備した時代だから、いくらでもいいものが沢山あって、皆のいいというものは矢張いいと思う。天平末だろうが、新薬師寺の薬師なども私はいいと思う。肉のとり方がとても巧く、如何にも木というものを意識しているところがあって、新しい面を拓(ひら)いている。そういう意味であの像はなかなかいいと思う。天平の乾漆は概して皆よい。三月堂の不空羂索(ふくうけんさく)なども、大らかな堂々とした所があって、お頭(つむ)も案外写生だけれども美しい。天平の塑像もよい。当時の塑像は西洋流の塑像の拵え方とは違って、固い泥で押えつけて拵えたものだ。西洋流の塑像のモデリングという風な考え方だと、比較的柔い自由自在になる泥で捏(こ)ねて拵える感じがあるが、日本のは固い泥を次から次に叩いて拵えたものだから制作の感じがまるで違う。
 更に遡(さかのぼ)れば、私は夢殿の観音を最高のところに置きたい。此は彫刻などと呼ぶ以上に精神的な部類に入って了う。この御像は彫刻の技術としては無器用であるけれども、その無器用な所が素晴しい。彫刻的には不調和で無茶苦茶な作であるが、寧(むし)ろその破綻(はたん)から良さが出て来て居り、完全に出来ていない所から命が湧いて来ている例である。お顔と衣紋(えもん)は様式的に全く違う。御身躯(からだ)は漢魏式の決りきったやり方を踏襲しているが、お頭や手は丸で生きている人を標準にして刻んで附けている。法隆寺金堂の薬師にもその傾きはあるけれども夢殿の観音の方が甚しい。あの御像は確かに聖徳太子をお作りする積りで拵えたに違いないと私は信じる。それで時間的には短い期間に早く拵えた作だと思う。長く考えながら拵えた作ではない。夢中になって拵え、かかりきりで一気呵成(かせい)に仕上げた作だ。あの難しい時代を心配されて亡くなられた杖とも柱とも頼む聖徳太子を慕って、何だって亡くなられたろうと思う痛恨な悲憤な気持で居ても立ってもいられない思いに憑(つ)かれたようになって拵え、結果がどうなろうとそれを眼中に入れないで作られたものであろう。それは非常にあらたかなものである。自分で彫って拵えたろうけれども、その作者さえ其処に置いては拝めないように怖い仏であったろうと思う。御身躯は従来通りに作ったけれども、お頭は聖徳太子を思いながら拵えたのであろう。技術上微笑したようなお顔になっているけれども、拈華微笑(ねんげみしょう)の教義による微笑の意義を目指して拵えたという説があるようだが、私にはそうはとれない。あの時代に、ああいう風にこなすとああいう工合になるのは当然である。だから微笑を志してああいうお顔になったとは思えない。作り初めの人の彫刻を見ると、笑ったような顔に自然になりがちなもので、古い時代のものには可成それが手伝っているのだと思う。お目なども大きく見開いて居られるが、それもやっている中に大きくなって了ったのだと思う。聖徳太子を慕う痛恨な気持が端々に実によく出ているように思われ、お手なども変てこに絡んでいるが、そんな気持で拵えたものであろう。そして立てた其上は手も加えられない程怖しい御仏に感じられたと思う。普通の仏とは違って生物の感じがあり、何か化身のような気が漂っている。私達が今見てもそうだけれど、昔は尚更そういう感じが強かったに違いない。それで兎に角封じて了わなければならぬという気持が坊さんの間に起ったのだと思う。その為にただの秘仏ではなく、御身躯を布でぐるぐる巻きにして封じて了った。その位あの御仏の製作は真剣さに溢(あふ)れ、彫刻上のいろんなことなど考えている暇のない仏である。恐しいのはその精神が溢れているからである。私達を搏(う)つのは彫刻上の技巧ではなく、わけてその形ではなく、而もその中に籠(こも)って出て来る物凄い気魄(きはく)のようなものである。そういうものが如何に一番中心であり肝心なものであるかを感じる。どんなに彫刻として完備していても、それがなければ駄目だということが、あの像を見ると解るように思うのである。それがあの彫刻を全く無類に感じさせる。
 それはいろいろな意味で純粋な時代だから出来たのだろうとも思う。又それと同時に非常に難しい危機を孕(はら)んだ危い時代だったから、その中で彫刻家はああいう真剣さに溢れた仕事をし遂げたものだとも思う。
 われわれも一生涯にそんな彫刻を拵えたいと念じる。少くとも私達はこの厳しい時代に、そのような気持でやらなければ怠慢だと思う。(談話筆記)



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