日本再建と科学
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著者名:仁科芳雄 

 それには,何よりも先づ産業の復舊といふことが急務である.これによつて國民は生活の安定を得ることになり,科學者は研究に專念することができる.又研究資材も次第に入手できるやうになり,科學者の仕事が進め得られるのである.然らばこの産業の回復は具體的に如何にすべきであるか,これは本論の範圍を逸脱するものであり,又自分はこれを述べる資格もないから,專門家の意見に俟つべきであるが,今日の虚脱状態は全體が相關聯した綜合的休止體を形成してゐるのである.從つてその復舊も綜合的に進められねばならぬ.然し一時に全體を動かすことはできないから,重點的に少數の産業が率先して範を示せば次々に凍結が溶けてくるであらう.例へば石炭とか肥料とかいふのは既にその緒についてゐるやうに思ふ.只この際特に注意すべきことは,國民の各層が,それぞれ救國の氣魄を以て立ちあがることであつて,徒らに自家の利害にのみ汲々たることは結局に於て己の損失を招くことを自覺すべき[#「自覺すべき」は底本では「自覺す べき」]である.今日の民主主義革命時代に於ては,産業組織も古い型態をその儘墨守することは許されないことである.それと同時に國民の全體から見て復舊を遲れさせるやうな變革は執るべきではない.要は各自が善意と誠意と眞實とを以て建設的の協力を盡すべきである.
 それでは科學者は産業の回復するまで只手を束ねて待つべきであらうか.それでは國民の義務を果すものとはいへない.今日でも活動開始の可能な分野は直ちに仕事を始めねばならぬ.先づ第一に今日有する知識經驗を用ひて多少とも産業の回復に役立つ仕事があれば,直ちに着手すべきである.次に理論的研究は外國から文獻さへ入つてくれば研究はできる.外國雜誌の輸入は今日まだ實現せられないが,それは早晩可能となるであらうから,その時の準備を今から始めて好いと思ふ.又實驗方面にしても,ある分野の活動は可能なものがあるであらう.例へば戰災を被らなかつた實驗室で,あまり資材を必要としない研究であるとか,或ひは貯へた資材で間に合ふ研究は始められるであらう.そんな研究の中で産業の復活に役立つものは,重點的に遂行せらるべきである.それによつて國家は活力のもとを得るであらう.
 又將來産業の回復した後に可能の見込みのある研究であつて,その根を枯らさぬやうにして置く必要のあるものは,細々ながら可能の範圍に於て研究を續けるべきであらう.又非常に長期の準備を要する研究は可能の範圍に於てこれを行ふべきである.これを要するに今日の情勢に於て可能な研究は將來をも勘案して重點的に進めねばならぬ.それには研究者は熱と忍耐とを以て目的を貫く覺悟が必要である.
 かくして始められた研究は戰前に比べて,又現在の諸外國に比べて著しく低調たることは免れない.殊に,大規模の裝置を要する研究は當分斷念するより外はないから,華々しい結果は豫期できないであらう.これは敗戰國として仕方がない.それだからといつて,落膽するには及ばない.100里の道を1歩より始めるのが今日である.これを始めなければ將來の達成もそれだけ遲れることになることを心に止めて努力せねばならぬ.要するに吾々の仕事は凡て初めから出直しなのである.

        4.科學者の組合組織

 以上の努力を可能ならしめるためには科學者の待遇改善が急務である.勿論吾々は今日の場合贅澤をしようといふのではない.研究ができるだけの最低生活を確保しようといふのである.今日吾々は研究の進捗度が食糧で支配せられることを毎日のやうに體驗してゐる.吾々の多くは都電の車掌の給與に遠く及ばないことを考へて見ねばならぬ.科學が國家の建設に必要な以上,たとへそれが目前の役に立たぬやうに見えても,これを推進する科學者の生活の安定は保證せらるべきである.これを實現するためには全國科學者の組合を組織して政治的にこれを解決するが好い.この組織は待遇改善のみならず,種々の問題の解決に貢獻するであらう.
 その一つは科學者の教養の向上,道義の昂揚である.科學者は多くの長所をもつてゐる.例へば適當な環境に置けば,事物を客觀的に冷靜に見て,科學的に處理する能力をもつてゐる.然し場合によつては,視野が限られてとかく偏狹に陷り,往々にして非民主々義的な且つ不明朗な社會を作り易い.これは科學者の教養の問題であつて相互の切磋によつて改善することは最も大切なことである.科學の研究も畢竟する處は人物の問題に歸着することを思へば,有機的に活動する組合組織をこの達成に使ふことは必要であり,且つ可能である.
 又科學者の政治的訓練といふことも,この組合を通して行ふことができるであらう.從來科學者の政治的理解は不充分であつて,寧ろ無關心な人が大多數であつた.これが我國の科學不振の大きな原因をなしてゐたのである.これからの民主々義政治は民意を反映する政黨政治であるから,將來の我が科學の盛衰の鍵は政黨が握ることになる.從つて,科學者たるものは孰れの政黨に我が科學政策を擔當して貰ふかといふことに就ては,深甚の關心を拂はねばならぬ.この意味に於て,今日各政黨は科學政策に就てその抱負を披瀝して貰ひ度いものである.吾々は科學に對して充分の經綸を行ふ政黨を支持したいのであるが,孰れの政黨も具體的の方針を示して呉れぬやうでは投票の仕方がない.勿論科學の問題となると孰れの政黨に對しても共通な事項があるかも知れない.そんな場合にはよく政黨を超越した問題であるといはれることがある.これは餘り好い表現ではない.今後吾々は政黨と共に起き政黨と共に倒れるのであるから,これを超越するといふよりは各政黨に共通であるといつた方が好い.然し如何に共通であらうとも,その根底の思想は政黨によつて異なつてゐる筈であるから自然その方法も一樣でないであらう.それによつて吾々も去就を決したいのである.勿論組合内に於ても政見や立場の相異に從ひ,問題のよつては意見が分れるであらう.そんな時に腹を割議することによつて進歩が齎され,又政治的の訓練ができるのである.
 從來の科學者はとかく,道具として使はれ勝ちであつた.そのために科學者の意志に反する結果が招來されることもあつた.これは科學者の團體が強力でないためにその意志が無視せられることになるからである.吾々は強力な組合を作つてその意志を政黨を通して政治に反映せしめねばならぬ.例へば科學者に重大な影響を及ぼす國是を定めるやうな場合には,科學者は組合内に於て充分の論議を盡し,その※[#「厂+黒」、18-左-12]まつた意見を政黨を通して政府に實行せしめることができるであらう.又我が國が自主的な獨立國家として認められた曉には,組合は外國に對しても我が國の科學者の意見を發表し,外國の同樣な組織と密接な連絡をとることもできるのである.これによつて科學者相互の間に從來よりも強い紐帶ができれば,國際間の平和を増進するに多大の貢獻をなし得るであらう.何となれば科學者は平和の好愛者であり,且つ科學者の力が一般に認識せられたからである.恐らく左樣な連繋は今後外交の有力な一翼をなすに至るであらう.

        5.科學教育

 我が國の再建に教育が重要な役割を演ずることは内外共にこれを充分認識してゐるのである.國民教育の問題が即ち國家再建そのものに外ならぬ.新しい日本は新しい人によつて創られる.そして舊い教育を受けたものは再教育によつて生れ變らねばならぬのである.この教育の改變は現下の最も重大な問題であつて,そのためにマ司令部はアメリカの著名の教育者を招いて,日本の教育に關する意見を訊かうとしてゐる.
 自分は,ここで教育全般について述べようとは思はない.只科學振興の基礎となる科學教育を如何にすべきかについて愚見を述べて見たい.我が國の科學が振はない一つの大きな原因は,國民の科學教育が適切を缺いてゐたためであることが強調せられ,今後は特に青少年の科學教育に力を入れねばならぬ,といふことが度々いはれる.これは洵に核心を把んだ意見である.今日までの科學教育はともすれば詰め込み主義に陷つてゐる.これでは子供の持つてゐる想像力を殺してしまふことになる.凡て教育なるものは被教育者に潜在する能力を最大限に發揮するやうに導いてやるのが目的であつて,生徒を型に入れて育て上げるとか,生徒の頭腦を教師の思ふやうに作り上げるとかいふのは決して教育の趣旨ではない.殊に知識を只詰め込んで見た所で,それを活用する能力を殺してしまつては,何の役にも立たない.これは幼少なものの教育については特に必要なことであり,又創意を必要とする科學者の教育について先づ心得べきことである.
 例へば教師たるものは,なるべく多くの事柄を教へようとする努力をやめて,生徒自らの獨創力を働かせ自らの理解力を引き出させて,事物の根柢を又核心を把握せしむることに力を注ぐべきである.かくて基本的の事項を體得せしむれば,枝葉の問題は自分で解決することができる.斯樣にして生徒に潜在する各自獨特の才能をできるだけ引き出して育て上げるやうに仕向けるといふ教育法が必要である.
 以上の教育方法を行ふためには,教師は生徒に對する理解と洞察との目を持つてゐなくてはならぬ.そして生徒の能力と特質[#「特質」は底本では「得失」]とを見抜いて,それを適當な方向に向ける技術が要る.それは決して萬能の教師を意味することではなくで,人間を見る力とこれを教育させる技術とを心得てゐる教師を要求するのである.これを今日の教師に期待することは無理であつて,それがためには教師からして新しく養成しなくてはならぬ.その養成は今日直ぐ役に立たぬけれども,しかも直ちに始める必要がある.それと同時に,現在の教師の再教育といふことを行つて,不滿足ながら速急の間に合はせることも考へねばならぬであろう.
 茲にもすぐ問題となるのは教師の待遇改善である.上述のやうな優良な教師を養成するには,それに必要な高い教育と優秀な人材とが必要であつて,今日のやうな待遇ではこれを得ることは不可能である.これも國家として解決すべき重要な問題である.
 又科學教育に必要な設備の充實といふことも非常に大切である.實驗を生徒自ら行ひ得るやうにするのと,實驗もしないで只ノートだけを取らせる教育方法とでは,生徒の能力を引き出せる點に於て,又理解の深さに於て同日の論ではない.この點では映畫による教育も今後大いに採用せらるべきであらう.然しこれ等の實施に就ても直ちに經費の問題がつき纒ふのである.然し國を創り上げるために費す金は決して無駄にはならない.
 以上は學校教育であるが,學校以外の社會教育に於ても,科學的に事物を考へ,科學知識を與へることが必要である.これには色々の方法と設備とが考へられる.例へば生きた科學博物館の増設,科學圖書館の活用,種々の展覧會の開催,映畫並に講演による教育,その他多くの案があるであらうが,茲にはその詳説を省くことにする.

        6.結語

 これを要するに我が國再建の基礎は科學によつて築かるべきものであるから,以上述べた諸方策は必ずしも短時日にその成果を期待し得ないものであつても,今日からその準備乃至は實施に着手して將來の科學振興を期すべきである.
(昭和21・3・12)


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