沢氏の二人娘
著者名:岸田国士
二
舞台は前に同じ。
数日後の日曜日――午前十時頃。
一寿と田所理吉(二十九歳)。主客は卓子を挟んで向ひ合つてゐる。田所は、二等運転士の服装、健康な赭顔に絶えず微笑を泛べてゐる。
田所 あれが香港かハワイあたりだつたら、病院も相当なのがありますし、ことによつたら、あんなことにならずにすんだかも知れません。しかし、丁度、発病の時機もわるかつたんです。一寿 いろいろ、みなさんにお世話をかけたことだらう。日頃の不養生が祟つたんだね。酒はあまりやらんやうだつたが、あの通り、どか食ひをしよるんでね。田所 いや、初郎君なんか、まだ神妙な方ですよ。去年の夏、一緒に伺つた岡田なんて奴は……。
そこへ悦子が現はれる。
悦子 愛子はなんだか気分がわるいんで、失礼するつて申してますわ。少し風邪気味らしいんですの。田所 (ぢつと悦子の顔を見つめ)ちよつと顔だけ見せるつてわけに行きませんか。一寿 今朝、食事の時は起きて来よつたぢやないか。悦子 起きてはゐるんですよ。でも変な顔してお目にかかるのいやなんでせう。さうさう、岡田さんはどうしていらしつて?田所 相変らずですよ。今もお話したんですが、奴さん、この夏お嫁さんを貰ひましてね……。悦子 あら……。田所 それで可笑しいんです。上陸するたびに、まあ家へ帰るのはいいとして、船へ戻つて来ると、きまつて腹をこはしてるんです。なんでも、いきなり汁粉をこさへさせて、そいつを朝昼晩と食ふらしいんですな。悦子 まさか……。田所 船乗りなんて、みんな子供みたいなもんですよ。悦子 それでゐて、何時かは、麦酒をあんなに滅茶にお飲みになつて……。田所 あれは初郎君がわるいんだ。先生は人をおだてる名人でしてね、煽動家ですよ。うちの船長がその手に乗つて、たうとう黒ん坊の女と寝たつて話……あ、いけねえ……。一寿 何とね?悦子 いやねえ、黒ん坊の女とですつて……。一寿 ああ、君がかね。田所 いや、僕の話ぢやないんです。ああ、もうよさう。どうもたまに陸へ上ると、頭の調子が狂つて来やがる。一寿 ああ、君、なんか特別な話があるんだつたね。こいつがゐちや具合がわるいか。悦子 あたしはもう引込むわよ。明日の準備もありますし……では、ごゆつくり……。
悦子が奥へはいると、両人はしばらく、黙つて煙草を吸つてゐる。
田所 どうも、少し、切り出しにくいんで……。一寿 さあ、遠慮なく云ひ給へ。但し、僕の力に及ぶことかどうか……。田所 それが問題なんですが、ぢや、はつきり云ひます。実は、愛子さんのことで御相談があるんです。一寿 …………。田所 僕も、やつと一等運転士(チーフ・メート)の免状も取りましたし、そろそろ……。一寿 ああ、わかつた。愛子をくれと云はれるのか。そいつは、僕に相談してもなんにもならんよ。僕から取次いでもいいやうなもんだが、あれも自分のことは自分でやると云つとる。なるほど、それだけの頭もできとるやうに思ふから、僕も一切信用して、放任主義を取つとるんだ。そりや、君、世間の親達は、娘の将来にあれこれと喙を容れたがるが、それだけ娘を幸福にできるもんか? 僕はその点、親の権能といふもんを、正しく認識しとるつもりなんだ。娘の方から相談してくれれば、こりやまた別で、当りさはりのない注意ぐらゐしてやれんこともないが、僕んとこの娘たちは、ことにあの愛子といふ奴は、なかなか自信家でね。僕からでも、そんな話を持ち出さうものなら、てんで相手にはせんよ。まあまあ、そこはよろしくやり給へ。田所 さうおつしやられると、実は、どうしていいかわからなくなるんです。まつたく取りつく島がないわけなんで……。といふのは、順序として、お話しなければわかりませんが、以前、初郎君に一度愛子さんの心持を訊いてもらつたことがあるんです……。一寿 ほう、すると……?田所 むろん、手紙でなんですが、そのお返事つていふのが、まつたく予想外で、僕はそのために、却つて、愛子さんの真意がわからなくなりました。つまり、その文句によりますと、――田所といふ男は、名前も顔も覚えてゐない。従つて、なんらの関心も持つてゐない。何れにせよ、自分はもともと結婚はしないつもりなんだから、その話はこれきり打切つてもらひたい……。一寿 結婚せんつもりだつていふのかね。へえ、そりや僕も初耳だ。そんなら、君、ほつとき給へな。田所 いや、結婚するしないは別として、僕の名前も顔も忘れてゐられる道理はないと思ふんです。まる二日、ああして、一緒に顔をつき合はしてゐたんですからね。お宅で一日御厄介になつた挙句、翌日は、みんなで奥多摩へピクニツクをしました。途中、冗談も云ひ合つたり、すつかり仲好しになつたつもりなんです。一寿 岡田君とごつちやになつてるんぢやないかね?田所 まあ、しかし、そのことは、一度お目にかかりさへすれば、解決がつくと思ふんですが、今日の様子では、それもむづかしいやうだし、近いうちにまた出直して来ませう。ただ、僕が来たことについて、何か誤解をされてゐては困るんです。会ひたくないと云はれるんなら、たつてとは云ひませんが、さうなると、僕の方でもその理由を伺つておきたい気がします。一寿 待つてくれ給へ。どうもよく腑に落ちんが、君の言葉の調子でみると、愛子は君の意志を知つてゐて、わざと顔を見せたがらんのだといふやうに聞えるが、それなら、君も返事を聞く必要はないんぢやないのかね?田所 返事よりも、理由です、僕が聞きたいのは……。一寿 なんの理由……。田所 返事のできない理由です。一寿 返事ができるかできんか、まだ訊ねてもみないぢやないか。田所 わからないかなあ。さつき云つたでせう。初郎君への返事は、まるで返事になつてゐません。一寿 或は、それが返事の代りかも知れんな。田所 さうおつしやるのは、あなたがまだ、肝腎な点を御存じないからです。僕たちの間柄を、普通なもんだと思つてらつしやるからです。一寿 穏かならんことを云ふぢやないか。男女の間柄を、普通でないといふと、どういふことになるね。田所 愛子さんを此処へ呼んでごらんなさい。僕の前へ立たせてごらんなさい。すぐにお察しがつくと思ひますから。
一寿は、茫然として一つ時相手の顔を見つめてゐる。が、やがて、起ち上つて、奥にはいりかける。しかし、そのまま、思ひ返して座に戻る。
一寿 とにかく、いづれ僕から愛子に話してみよう。一旦、君は帰り給へ。さういふわけなら、この間題は僕が預つた。田所 それはかまひませんが、近いうち、一度愛子さんに会はせていただけるでせうか。一寿 その必要があればね。双方のために会はん方がいいといふことになれば、つまり、必要がないわけだ。田所 いいえ、それはあなたの方の御都合できまるわけでせう。僕の方は、どうあつても、愛子さんの口から、一言、はつきりした御返事を聞きたいんです。一寿 「否(ノー)」といふ返事なら聞くに及ぶまい。田所 ところが、ただ「否(ノー)」では、僕が承知すまいとおつしやつて下さい。一寿 承知せんといふのはどういふ意味だね。田所 満足できないといふ意味です。一寿 そりや無理だ。どんな約束をしたか知らんが、当人同士の約束だけでは、正式の約束とは云へん。第一、親の僕が、与り知らんといふ法はないぢやないか。田所 あなたは、一切干渉をなさらない方針ぢやなかつたんですか。一寿 今はさうだ。しかし、娘がそんな約束ぐらゐに縛られて、身動きができん羽目に落ちてゐるなら、吾輩は、断じて、約束なるものを取消させる。こりや当り前だらう。田所 今ここで、何を云つても無駄なやうですから、愛子さんにお目にかかれる機会を待ちませう。僕は、話さへわかればいいんです。決して、男らしくない真似はしないつもりです。ただ、いくら世間を識らないお嬢さんでも、自分の行為に責任をもてない筈はありません。相手の面目を潰さないぐらゐのことは心得てゐて欲しい。過去は過去として認めた上で、現在の立場を明かにする方法は、いくらでもあると思ひます。一寿 過去と云はれるが、それも序に聞いておかう。いつたい二人の関係といふのは、どの程度まで進んでゐたんですか?田所 それを、はつきり申上げるためには、愛子さんの同意を得なければならないでせう。かまひませんか?一寿 そいつはかまはんと思ふが……いや、待ち給へ。君にそれだけのデリカシイがあるなら、僕も、強ひて訊くまい。愛子から云はせることにしよう。かうつと……では、またといふのもなんだから、君、しばらく、悦子と話でもしてゐてくれ給へ。僕は、ちよつと愛子の様子を見てくるから……。
一寿が奥へ引込むと、入違ひに悦子が現はれる。
悦子 (小声で)妹はどうしてああでせう。お目にかかるのが恥かしいのか知ら……。あたくし、お手紙のこと、知つててよ。田所 ああ、僕の手紙ですか。愛子さんは、ほんとに読まないで破いちまつたんでせうか。兄さんのところへは、さう云つて来てましたよ。どうも、そいつが信じられないんだ。悦子 あたくしにも、絶対、あなたのことは隠してるんだから、不思議だわ。でも、今奥で話したけれど、あの女(ひと)たしかにどうかしててよ。そりや、気分もわるいにはわるいんでせうけれど、御挨拶ぐらゐできない法ないつて、あたし、さんざん勧めてみたの。駄目ね。変りましたよ、以前と……。冷たいつていふのか、強いつていふのか、あの頃から見ると、女らしいところなんかすつかりなくなつたわ。自分でも、それを努めてるつて風ね。でも、あなたに対する気持には、たしかに、自然でないところがあるわ。詳しい事情はよく知らないけど……。田所 事情は、大体、今お父さんにお話したんですが、どうも、一方的な説明は、こいつ、しにくくつて……。悦子 (好奇的に眼を見張り)あら、そんな深い事情がおありになるの? うそでせう。いくらなんでも、たつた二日の間に。そこまで行けるか知ら……?田所 行つたんだから仕方がないでせう。悦子 妬いてると思はれちやいやだけど、あの子、あたしなんかより、ずつと大胆だわ……。田所 あなたには、むろん、第一に親しみを感じますよ。悦子 (そこにある急須に手を触れてみて)少しおぬるいか知ら。
間。
田所 学校の方は、まだお止めになりませんか?悦子 停年には間がありますもの。田所 いや、さういふ意味でなく、相変らず、興味をおもちですか?悦子 職業としてでは、もつと柄に合つた仕事がありさうに思ふんですけれ 時までも歌を唄つてるの。低い声だけど、節なんかはつきり……。一寿 寝言ぢやないんだな。愛子 ええ。姉さんは、蒲団を引つかぶつて、何処が頭だかわからないやうにしてるし、あたしは、それができないから、明るい電気の下で、眼が冴えて眠られないぢやないの。かすかに、流れの音が聞えて来て、あの人のバスにそれが交ると、寝返りを打つのも怖いやうな静かな晩になつたわ。一寿 隣の部屋との唐紙は閉めてあつたのか。愛子 それがよ。閉めてあつたのよ。でも、少し隙間が開いてるもんだから、あたし、気になつて……ひよいと、何気なく手を伸ばして、それを閉めようとしたの……。その手をぐいとつかまれた時、あたし、もうなんにも見えなかつた。声も出なかつたの。ハツと気がついてみると、部屋が真つ暗になつてて、……外には風が出てゐたらしいわ。雨戸が頭の上で、ゴトゴト鳴つてゐたの……。一寿 たしかに、あの男だとわかつてたんだね。愛子 (急に、つめ寄るやうに)わかつてたらどうなの? あたしの責任なの?(激しく)いやだわ、いやだわ……そんなの、なんにもなかつたのとおんなじだわ。最初から最後のものを与へるなんて、そんな馬鹿な女どこにもないわ。さういふことが、何の証拠になるの? 男が、それで、何を得たと云へるの? 自惚れるがいいわ、勝手に……。約束なんて、それがどんな約束なの? 愛してる証拠なら、ほかにあるわ。いくらだつてみせられる……。さうよ、なぜ拒まなかつたかつて云ふんでせう。ああ、女つて、そんなもんぢやないわ……。(卓子に突つ伏す)
この時、悦子が忍び足で、入口に現はれ、父の方に眼くばせをして、快げな微笑を送る。一寿は、それに応へる代りに、静かに瞼を閉ぢる。
悦子 (そつと愛子の肩に手をかけ)大丈夫よ、大丈夫よ、愛子ちやん……。あたしたちが附いてるわよ。長い間、ひとりで苦しかつたでせう。可哀さうに……。そんな秘密をあんたが持つてると判つたら、あたしは、もつともつとあんたを労はらなけりやならなかつたんだわ……。遠くにゐたあんたが、今、急に、こんなにあたしたちの近くへ戻つて来ようなんて……それこそ、夢のやうだわ……。だから、あたし、悲しいのか、うれしいのかわからない……。さうよ、葬らなけりやならない過去は、早く葬つてしまはう……ね。あんた、まだ泣いてるの……?愛子 (急に顔をあげ)うゝん、泣いてなんかゐない……(その通りである)悦子 もつと、あたしのそばへ寄りなさいよ。愛子 ええ、ありがたう……。だけど、あたしたちは、姉さんの云ふやうに、近くなつたなんて、うそだわ。大うそだわ……。悦子 あら、どうして?愛子 (冷たく)パパ、あたしは、今日から、この家を出てくわ。なんにも心配しないで頂戴ね。いろんなことが、だんだんわかつて来たからだわ。自分の生活は、お父さんや姉さんのそばにないつてことがわかつたの……。(入口に立つてうしろを振り返り)居所がきまつたら、すぐお知らせするわ……。一寿 おい……愛子……。
愛子姿を消す。
悦子は、しばらくそれを見送つてゐるが、ふと、父の眼に涙を発見し、急いで、自分もハンケチを取出す。
三
あるアパートの一室。正面に扉。右手に窓。左手に幕を引いたアルコーヴ。寝台の一端が見える。室の中央に瀬戸火鉢。
前場より二年後の冬、昼近く。
扉をノツクする音。
寝台から、むくむくと起き上つた男は、無精髭を生やした沢一寿である。彼は、扉を開けに行く。奥井らくが立つてゐる。
一寿 なんの用だ!らく さう突慳貪に云はないで下さいよ。はいつちやいけないんですか。一寿 用事を早く云つたらいいだらう。らく それぢやあなた、風邪を引きますよ。いいんですか。一寿 (渋々、引つ返して丹前の袖を通しながら)今日は娘たちの来る日なんだ。また見つかると、わしはいやだよ。らく だから、すぐ帰りますよ。(さう云ひながら、火鉢のそばに蹲る)一寿 ねえ、おい、今の境遇ぢや、さうさうは困るよ。もう就職も、わしは思ひきつた。神谷の奴も、てんで相手にしてくれず、この年になつて、方々へ頭を下げて廻るよりは、かうして細々と暮してゐた方がましかも知れんと、近頃やつと覚悟をきめたんだ。らく 愛子さんの方からは、ちつと、どうかできないんですか。一寿 それだけは勘弁してくれ。あいつも、来るたんびに、なんか置いてかうとするが、わしは断然、そんなものは受取らんと突つ返してやる。毛唐の女房になつて、楽をしようつてぐらゐの女だ。娘は娘でも、こつちから弱味をみせたくないんだ。らく あたし一人だけなら、今のでどうかかうかやつて行けるんですけど、桃枝を学校へ出すとなると、こりや無理にきまつてるんです。悦子さんに、あたしからお詫びしてもかまひませんから、元々どほりにしていただけないでせうか?一寿 元々どほりつて、三人が一緒に暮すことかい。そいつは、もう真平だ。お前と悦子の間に挟まつて、わしはどれだけ苦労したか、まあ考へてみてくれ。ほかの理由でならとにかく、お前との折合ひが悪くつて、あいつが出て行くといふもんを、それならさうしろと、このわしが云へるか。妙な意地で、三人がばらばらになつた。それでも、そのためにわしは双方への顔がたつた。もう、これでよろしい。なんにも変へる必要はない。そうつとしといてくれ。らく あたしも、最初伺つた時は、あんなことになるつもりはなかつたんですからね……。一寿 それを、今云ひ出してどうするんだ。らく どうしようていふんぢやないんですよ。自分で自分がわからないつてことを云つてるんです。今日も月謝のことで桃枝とすつたもんだの挙句、ふらふらつと、ここへ来てしまつたんです。一寿 ふらふらつとなら、もうちつと気の利いたところへ行くとよかつた。五円はおろか、二円も覚束ない、今のところ……。らく へえ、今日がお二人の見える日でしたかね。ちつとも気がつかなかつた。一寿 毎月の第三日曜つてこと覚えといてくれ。愛子の亭主がゴルフをやりに行く日だ。今日はこれで風もなし、絶好のゴルフ日和だな。(クラブを振る真似をする)らく あなた、やつたことあるんですか。ゴルフとかつて……。一寿 (照れて)ない。
この時、扉をノツクする音。
一寿、慌てて、扉を細目に開ける。
「お電話です、横浜から」といふ声。
一寿 ありがたう。(らくに)ぢや、今日はもう帰るか?らく しかたがないでせう。(これも起ち上つて、一緒に出かけるが、思ひ出したやうに)また序に、洗濯を持つて行きますよ。
彼女は、戸棚から、汚れたシヤツ、猿股、ハンケチなどを取り出し、それを新聞紙に包む。脱ぎ棄てた洋服を壁に掛ける。ポケツトの中のものを出してみる。銀貨がチヨツキのカクシからこぼれる。その一つ二つを、手早く帯の間へ押し込む。
一寿が、寒さうにはいつて来る。
らく さうさう、いい話を聞きましたよ。一寿 (大袈裟に)ああ、たまにはいい話を持つて来てくれ。らく さういふいい話かどうか知らないけど、今ゐる家の階下(した)の店へ来る問屋さんでね、悦子さんの学校へ文房具を入れてる人があるんです。その人がさう云つてましたよ――悦子さんは、どうして、すごいんですつてね。一寿 さういふ噂は、半分に聞いとくといい。らく そりや噂だから、根も葉もないことかも知れないけど、なかなかすごいんですつて……。一寿 すごいすごいつて、なにがすごいんだ?らく すごいんですつて、ああ見えて……。一寿 校長を丸め込んでるとでも云ふのか?らく まあ、あたしの口からは云はない方がいいでせう。一寿 やれやれ、さういふ癖が、お前にもあるのか。四十年この方、わしの識つた女は、例外なくそれだつたよ。らく そんなら言ひませうか。一寿 云はんでよろしい。聞きたくない。らく あら、怒つたんですか?一寿 (火鉢の炭を吹きながら)拗ねてみせるやうな年になつてみたい、もう一度……。らく 悦子さんは、若い男の先生達から、とても騒がれてるんですつて……。ところが、うんと騒がしといて、そのうちの一人を、誰も知らないうちに、ちやんと手なづけてるんですつて、三年前から……。そりや、わからないやうにうまいんですつてさ。相手は五つとか年下なんですけどね、学校にゐる時は、まるで子供扱ひにして、お使ひまでさせるんですつて……。一寿 (益々顔を火鉢に近づけ、やたらに灰を吹き上げる)あちいツ!(顰めた顔で、らくをみあげ)おい、頼むから帰つてくれ。らく はい、はい、ぢや、御用がなければ、あたくしは帰ります。一寿 教へた通りの挨拶をして行け。らく (ぎごちなく、一寿の額に接吻する)
彼女が出て行くと、一寿は、洋服に着かへはじめる。最初の場で唄つたのと同じ節の歌を口吟む。大きく咳払ひをする。嚏めをする。手で鼻を拭く。
カラの釦をはめようとしてゐる時、扉をノツクする音。
一寿 アントレエ! おはいりイ!
悦子が、肩掛に顔を埋めてはいつて来る。
悦子 お変りない?一寿 変らざること、ミイラの如し。お前も風邪は引かんかい?悦子 風邪なんか引いてられないわ。忙しくつて忙しくつて……。一寿 結構だ。悦子 愛ちやん、今日来る?(チヨツキと上着を着せかけてやる)一寿 今電話をかけて寄越した。出かける時間だけど、ゴルフ場から車が帰つて来ないんで、ことによると、少し遅れるかも知れんつてさ。十二時には間に合ふだらう。悦子 今日は是非、会つてきたいの。この前はあんな風にして別れたもんで、あと気持ちが悪くて……。でも、ああなつちまつたら、なほらないもんね。もうちやんと性格になつてるわ。どういふものか知ら……人の言ひなりになるつてことがいやなのね。一寿 亭主にはああでもなからう。悦子 それが、あの女(ひと)うまいのよ。西洋人が日本の女のどういふところに目をつけてるか、ちやんと呑み込んでるわよ。西洋人のお神さんになつて、西洋の女の真似をしちや損だつてことを、百も承知なんだから感心だわ。甘え方だつて、ほら、何時かみてなかつた? あたしたちの前なんかと、どう? がらつと変つちまふでせう。まるで芸者よ。あれ、驚いた、あたし……。一寿 驚くことはないさ。お前だつて、亭主を持つたらおんなじこつた。悦子 違ひますよ。いくらなんでも、かういふ(頸と肩とを同時に寄せて行く科(しな)を作つてみせ)真似は、あたしにはできつこないわ。あんな恰好、何時の間に覚えこんだか、訊いてやらうか知ら……。一寿 また、また! お前も近ごろ、ずばずば云ひ過ぎるよ。あいつはあいつでいいぢやないか。わしも、お前も、あいつの世話になつてるわけぢやなし、苦労はめいめい、有り余るほどもつてるんだ。それみろ、お前は痩せたぞ、この節……。悦子 云はないでよ、それ……。自分にもわかつてるのよ。どこまで痩せてくか、黙つて見てて頂戴よ。これで、どうにもならないんぢやないの……。一寿 苦にしちやいかん、苦にしちや……。人生は、ひらりとからだをかはすものの勝利だ。神谷をみろ、神谷を……。あいつが、からだをかはし損つたのは、細君だけだ。そのほかのことは、こいついかんとなつたら、その場で、なんの躊躇もなく、ひらり、ひらりだ。わしもそいつを喰つた一人だ。ああなくつちやならん。どうしたんだ、え? 妙に沈んじまつたぢやないか?悦子 あたし、お水一杯ほしいわ。汲みたてない?(一寿が起たうとするのを止めて)いいわ、いいわ、あたし、行つて飲んで来るから……。コツプ貸して……。(戸棚へ行つて、自分でコツプを出す)一寿 わしが持つて来てやらう。悦子 いいのよ、さうしてらつしやいよ。
悦子は、幾分重い足取りで廊下に出る。一寿はぽかんとそれを見送つてゐる。やがて、起ち上つて、蟇口の中を検める。紙幣が二三枚小さく畳んで入れてある。チヨツキのカクシに指を突つ込んで、小銭をつまみ出す。ちよつと考へる。が、別に何も気がついた風は見えない。
十二時の汽笛。
悦子が、帰つて来る。顔が蒼ざめてゐる。
悦子 おうお、寒い。一寿 さあ、あたれ、あたれ……。(椅子を一脚火鉢のそばへ引寄せてやる)悦子 おらくさん、どうしてます?一寿 うむ?(聞えないふりをしてゐる)悦子 おらくさんよ。近頃、どうしてますつて訊いてるの。一寿 (曖昧に)いやあ……あれもねえ……なんちゆうことはないさ。悦子 あたし、ちつともかまはないから、一緒におなりになつたらどう……。さうしていただかないと、あたし、却つて困るわ。第一、御不自由でせう。それに、あたしがわる者みたいで……。ねえ後生だからむづかしいこと云はないで、側へ呼んでおあげなさいよ。一寿 なあに、お前が思つてるほどのことはない。わしも、かういふ生活は、慣れつこになつとるし、気楽でいいよ。なにも今更、朝は味噌汁でなけりやならんといふわけもなしさ。お前たちさへ、かうして、時々顔を見せてくれさへしたら、このままかうしてゐるのが、誰にも迷惑をかけんで一番いい。おや、お前、熱でもあるんぢやないか。顫へてるぢやないか。(娘の額に手をあててみる)まだ寒いか。悦子 (肩で呼吸をしながら)愛ちやん、早く来ないかなあ……。人が待つてるのを知らないんだわ……。一寿 (腰を浮かし)もう家を出たかどうか、訊いてみよう。悦子 電話? いいぢやないの。来る時は来るわよ。あたし今日は愛ちやんと、一生の仲直りをすんの。一寿 立会人はいらんのか? わしは、もう役に立たん。お前たちの一生と云へば、わしが死んでからの方が長いわけだ。悦子 立会人なんかいるもんですか? ひとりでにうまく行く方法を考へたのよ。一寿 さう云ふが、お前たちはそれほど仲の悪い姉妹(きやうだい)でもないぢやないか。それに較べると、あれなんかひどかつた。話したかも知れんが、わしが最初に外務省から語学の勉強にやらされたフランスのトウウルといふ町でだが、丁度下宿をした家に、五十そこそこの婆さんが二人ゐてね、一方はマダム・テパアズ、一方はマドマゼル・ポオリイヌとみんなが、呼んでゐた。二人とも、その家の主人の姉さんで、めいめい食扶持を持ち寄つて所謂共同生活をやつてゐるわけだが、その二人姉妹は、姉さんのマダム・テパアズがお嫁に行つてゐる間の幾年かを除いて、それこそ、朝晩顔をつき合はせてゐるといふ間柄だ。ところで、この二人は、もう十年間お互に口を利かないといふんだから、驚くぢやないか。それまでは、何かにつけて意見が合はず、しよつちゆう、口論もする代りに、まだ、人の前なんかでは、普通の姉妹に見えたものださうだ。どつちか一方が、箒を持つて門口までもう一方を追つかけて来るところをよく見かけたなんていふ話は、まだ愛嬌があつていい。それが、最近の十年といふもの、今も云ふとほり、ぱつたり、口を利かなくなつてしまつた。むろん、話し合ふ用事なんかなくなつてしまつたんだらう。わしは、食堂で、三度三度その二人が卓子の両端(はし)を占領して、まるつきり眼と眼を反け合つてゐる有様を、ある時は気まづく、またある時は滑稽に思つてながめ暮したもんだ。あそこまで行けば、喧嘩も徹底してゐる。仲が悪いなんていふ生やさしい関係ぢやない。さうだらう、顔を見るのもいやだから、自分はほかへ遷らうつていふ気をどつちかが起しさうなもんだのに、さういふ気は起さない。ね、毛唐はさういふところが面白い。遷つた方が負けになるんだ。主人の細君、つまり、その婆さんたちの義理の妹といふのが、これはまた陽気な女で、いい対照だつた。さう云へば、喧嘩をしてゐる二人も、顰めつ面ばかりしてゐるわけぢやない。相手を前において、ほかのものと必要以上にはしやいだりすることもあるんだ。一種の示威運動だ。――お前さんと口を利かないぐらゐで、あたしの人生は不幸になりやしないよと、つまり、それとなく虚勢を張つてみせる。さあ、さうなると、一方も、これに対抗する上から、そばの誰かをつかまへて、自分が現在如何に幸福であるか、その日その日を如何に楽しく送つてゐるかを力説する。更に片つ方が親友と旅行する計画について吹聴すると、片つ方は、教会の集りで、余興委員に挙げられたことを自慢するといふ具合に、そのへん、なかなか、聴く方でも骨が折れる。
扉をノツクする音。
一寿 アントレエ!
愛子が、すばらしい洋装で現はれる。
一寿 (わざと、西洋紳士が貴婦人を迎へ入れる時のやうな調子を真似て)ビヤン・ヴニユウ・シエエル・マダム。(それから、椅子をもう一脚火鉢のそばへ寄せながら)アツソイエ・ヴ・マダム・ラ・ヴイコンテス!愛子 (父親の道化芝居には目もくれず、いきなり、姉の方に向つて)どう? 忙しい? 悦子 愛ちやん、今日は一生の仲直りしませう。あたし、今度、遠くへ行くことになつたの。一寿 (驚いて)何処へ行くつて?悦子 まだ、はつきり決めてないの。なるべく遠くへ行つちまふつもりよ。愛子 なあぜ。悦子 少し、わけがあつて……。ゆつくり話すわ。一寿 転任かい?悦子 ええ、まあ、都合によつては、さういふ形式になるかも知れないわ。一寿 お前の志望でかい、それとも……。悦子 ちよつと、その話は後にして、今日は、どうすんの?一寿 (愛子の顔をみて)また、例の支那料理か?愛子 坐るの困るわ、あたし……。それに、今日はゆつくりできないの、お茶に呼ばれてるから……。一寿 何処のお茶?愛子 大使館よ。二時にルネが迎へに来てくれることになつてるの。あたしに委せてくれない、今日は?一寿 その方の用意は若干してあるがね。まあ、たまに御馳走になるのもよからう。だが、服はこれしかないんだが……。いや、お前さへよけりや、わしはかまはん。愛子 この部屋、たまに掃除すんの?一寿 なに、今起きたばかりなんだよ。珈琲もまだ沸かさにやならず……。愛子 珈琲、もういいぢやないの。ねえ、いらないでせう、姉さん。悦子 でも、御自慢なんだから、させておあげなさいよ。一寿 (珈琲の道具を用意しながら)材料が材料だから、思ふやうには行かんさ。
その間に、愛子は、寝台に近づき、姉の隣に腰をかける。
愛子 (ぢつと、姉の横顔を見て)顔色がわるいわね。悦子 あたし、今の学校よすことになつたの。愛子 でも、よしたつきりぢやないんでせう。悦子 それがね、愛ちやん、少し面倒なことが起つたの。聞いてくれる?愛子 聞いてよければ……。悦子 相変らずね。ほら、何時かのこと覚えてる? あんたが家を出るつて、怒つた時を。あたしが同情したのがわるいつて……、ぷりぷりしたぢやないの。愛子 ああ、例の問題の時ね。悦子 あのこと、あたしまだわからないんだけど、あんたが一人で苦しんだらうと思つて、一生懸命慰めるつもりだつたら、あべこべに御機嫌を損じちやつて、おまけに、当分絶交みたいなことになつたの、あれ、今でも不思議なのよ。愛子 …………。悦子 お互に秘密なんかないやうにつて、あの少し前、あたしが云ひ出したわね。あん時の気持、今も変つてないわ。だから、今度は、あたしの秘密を打明ける番なの。あんたのプライドが、何時かの問題であたしの前に傷けられたとすれば、今日は、あたしのプライドを、あんたの前で、踏みにじらうと思ふの……。それでアイコぢやないの。でも、あたしは、あんたのやうに、自分を信じることができないから、同情してくれればしてくれるだけ、うれしいと思ふわ。もちろん、他人からぢやなくつてよ。あんたからよ。妹のあんたからよ。あたしは今、眼の前が真つ暗なの。あんたにだつて、ああしろかうしろつていふことはできないかも知れないけど、とにかく、力をつけてよ。倒れさうになつたら、手をかしてよ。後生だから、希望があるうちは、その希望の方へあたしを向け直してよ……。愛子 …………。悦子 どう、約束してくれる? 云つても無駄ぢやないつてことを感じさせてくれなきや、あたし、勇気がでないわ。愛子 とにかく話してみたら……? あたしで、出来るだけのことはするわ。ただ、その前に、これだけのことは云つとくけど、姉さんが重大だと思ふことを、あたしはそれほどに思はないかも知れないわよ。そん時、同情のしかたが足りないなんて云つちやいやよ。一寿 (珈琲を珈琲つぎに入れながら)二人ともお代りはいらないか?愛子 いらないわ。ぢや、云ひなさいよ。悦子 頼りないなあ……。でも、思ひ切つて云ふわ――愛ちやんを悦ばすと思つて云ふわ。愛子 (ぴくりと眉を動かす)悦子 あたし、実は、学校のある男の教師と、三年前から、愛し合つてゐたの。むろん、周囲がうるさいから、絶対誰にも知れないやうに注意してたわ。それはまあ、うまく行つたの。愛子 …………。悦子 ところが、去年の夏頃から、ふつとした機会に、もう一人の男の教師と度々話をするやうになつて、別にそれはなんでもないんだけど、ほら、前の男が妙に気を廻しはじめたの。初めはただ、そんなこと弁解するのは馬鹿々々しいぐらゐに思つてたわ。嫉妬つて恐ろしいもんね。たうとうしまひに、人前であたしの方をにらみつけたり、二人きりになると、めそめそ泣いたりするやうになつて来て、いくらわけを云つても承知しないんでせう。こつちもうるさくなるわ、しまひに……。勝手にしろつていふ気になるわ。それで、その結果が、まつたく、思ひがけない方向へあたしを引つ張つてつたの……。それまで何でもなかつた相手と、冗談みたいにして離れられない関係ができちまつたのよ。今から思ふと、なんだつてそんな向ふ見ずなことができたらうつて気がするんだけど、もうしかたがないわ。あれで半年ぐらゐの間、その二人の男を、一方には飽くまでさうなつたことを打明けず、一方には、以前の男を棄てたやうに見せて、大胆つていふか、図々しいつていふか、まるで良心のない生活を続けて来たの。どうかしなけりや、どうかしなけりやと思ひながら、一日一日がたつてしまつたのね。でも、たうとう、来るものが来たと云つていいわ。その二人は、同時に、あたしから瞞されてゐたことを知つたわけよ。そして、一方ではもう、その噂が校長の耳にはいつてるの。一昨日、あたしは校長の前に呼ばれて、然るべく身の始末をするやうに云ひ渡されたの。校長は、そりやあたしを信用してたの。その信用が、職務の範囲を越えて、ある時は、個人的な親愛とまで感じられる程度だつたから、若しあたしさへその気になれば、これもどんなことで……と、内心不安に思ふやうなことさへあつたわ。その校長が、あたしに、さういふ宣告を下さなけりやならないんだから、随分皮肉ね。一寿 さ、熱いうちにどうだ?悦子 ええと、ああ、さうだわ……。将来を慎めば、今度のことは内密にして、何処か離れた土地へ、三人とも別々に転任させてもいいつて、校長は云つてくれたんだけど、男が二人とも、それは承知しないの。前の男は、かうなつたのは自分が悪いんだから、過ぎ去つたことは過ぎ去つたこととして、どうしても一緒に、これから二人で生活の建て直しをしようつて、きかないの。後の男は後の男で、自分の方にその権利があるつて譲らないから、あたしは、もう、はつきり自分の考へが云へなくなつてしまふぢやないの。一方はまだ二十五で、一方はもう……たしか三十だわ。二人を並べると、あたしの気持は、十分、前の男の方に傾いてゐることはわかつてるの。愛子 若い方ね?悦子 ええ……。でも、さういふ気持を別にしても、その方が正しいんぢやないか知ら……?一寿 (自分の珈琲を飲み干し)おい、折角のが冷めちまふぢやないか。愛子 (黙つて、卓子に近づき、珈琲茶碗を取り上げる)姉さん、それだけの話?一寿 なにをお前たちは、こそこそ話してるんだ?愛子 秘密の話よ。パパは聞かなくつていいの。(姉の方に近づく)悦子 興味ない?愛子 そこまでは事件の筋道ね。スキヤンダルになるかならないかは、姉さんの態度ひとつだわ。悦子 どうすればいいの?愛子 あたしならつていふ返事はできるけど、姉さんの場合は、さあ、どうか知ら?悦子 これで二十八よ、あたしはもう……。どういふ意味でも、新しく出直すつてことが、女にはもうできない年になつてるのよ……。あんたの何時か言つた、勇気もお金も時間もない、今の場合を考へて頂戴……。なにが恐ろしいつて、あたしは、一人つきりになることよ。(涙を拭く)愛子 (突然大声で笑ひ出す)悦子 (キツとなり)どうして笑ふの?愛子 ごめんなさい、つひ笑ひたくなつたの……。悦子 いいわよ。笑ひたけりや笑ひなさいよ。やつぱりさうなんだわ……。あんたみたいな冷血に、なにを云つたつてわかるもんか! 今日限り、姉妹の縁を切るわよ。洋妾みたいな生活をして得意になつてたら大間違ひだわ。あんたには、心の悩みなんてものがないんでせう。男の顔がお金にみえて、毛皮の外套が幸福のシンボルなんでせう……。一寿 また喧嘩をはじめたのか。月に一度、云ひ合ひをしに此処へ来るんなら、わしやもう、部屋を貸してやらんぞ。愛子 姉さん……。何時かのことを思ひ出さない? あたしが、あんな口惜しい思ひをしてる時に、姉さんは、口で優しくあたしをなだめながら、心の中で、笑つてゐたぢやないの……。あたしが馬鹿に見えたんでせう? あたしが泥だらけになつて、それがうれしかつたんでせう……? だから、同情にならないとは云はないわ。それがあたしたちの同情よ。相手を慰める悦びに、人は酔ふことがあるのよ。姉さんは、それだつたのよ。それを有難がる相手もあつていいでせう。あたしはちつとも有難くないの。だから、あたしは、人にもそれをしないのよ。悪く思はないで頂戴……。悦子 そんな理窟、聞きたくない。あたしは心から、あんたの不幸を悲しんであげたんだ。愛子 悲しんでくれて、それがどうなつた? 人間の不幸が若し過ちから生れるもんなら、さういふ不幸を、先づ、笑ふのがほんとだわ。あたしはむろん、今、そんな意味で笑つたんぢやない。姉さんが、心の中で、あたしを笑つた、あの笑ひ方を、声に出してみせてあげたのよ。わかつて? おつしやる通り、アイコだわ。一寿 あああ、いい加減によさないか? わしは腹がへつて来た。(さう云ひながら、室内を歩きまはる。喧嘩がすむのを何時もの通り待つてゐるのである)悦子 ぢや、それで勘定はすんだわけね。序に、これからは、赤の他人になりませう。妹がゐると思ふから、あたしも一人になるのが淋しかつた。もう、今日限り会ふこともないでせう……。(起ち上り)お父さん……。あたし、また近いうちに出直して来るわ。
悦子は、さう云ひながら、部屋を出て行く。
一寿と愛子とは、それを見送る。
一寿 姉さんはどうしたんだ? なにを怒らしたんだ?愛子 また素敵な仲直りをしたいもんだから、思ひ切り、腹を立てたふりをするのよ。パパは、姉さんの味方をしなきや駄目よ。それから、今日は、あたし一人でつまんないから、これで帰るわ。御馳走する予定で、これ持つて来たから置いてくわよ。(紙幣を卓子の上に投げ出す)一寿 (慌てて)ええい、また、そんなことをする! わしは、それが嫌ひだつて云つてるぢやないか。持つて帰りなさい、持つて帰りなさい、そんなもの……。少しぐらゐ小遣が自由になるからつて、無駄使ひを覚えなさんな。愛子 ぢや、これで、靴下でも買はうツと……。(紙幣をハンドバツクにしまひ)ぢや、さよなら……また、来月……。
愛子は、ゆるゆる戸口から姿を消す。一寿は、その方は見ずに、上着を脱いで、戸棚からパンのカケラを取出し、チーズを片手につまんで、あちこちと歩きながら、代る代るそれを口に運ぶ。ラヂオの音楽が、この情景の底を皮肉に彩つて――
――幕――
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