人口論
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著者名:マルサストマス・ロバート 


 1) Id. Appen. p. 558.
 食物としてこんなものに頼らざるを得ず、動植物の食物の供給がかくも乏しく、それを得るための労働がかくも苦しい土地では、人口が地域に比較して非常に稀薄に散在していなければならぬことは明かである。その最大限は非常に狭くなければならぬ。しかし吾々は、これらの人民の奇妙な野蛮な風習、彼らの女子に対する残酷な取扱、及び子供を養う困難を注意して見ると、その人口がこの限界を突破することがもっとしばしば起らぬことに不審を抱くよりは、むしろかかる貧弱な資源ですらかかる境遇の下に成長し得るすべての人口を養って余りあるものとさえ、考えたくなるのである。
 この国における恋愛の序曲は暴力、しかも極めて残虐な暴力である。野蛮人は、思う妻を異る種族から、一般に彼れの種族と敵対している種族から選ぶ。彼は、その保護者のいない間に女を盗み出し、そしてまず棍棒か木刀で女の頭や背中や肩を血だらけにするまでなぐりつけて気を失うや、それを片手で引ずって、途中の石ころや木片などにかまわず森の中をひきずり、ただその獲物を無事に自分の仲間の所まで運ぼうと急ぐのである。このような取扱いを受けた女は彼れの妻となり、彼れの種族の一員となるのであるが、この男をすてて他の男のところへ行くことは滅多にない。こんなひどい目にあっても女の親族は憤慨せず、ただ出来るときには今度は自分も同じことをして復讐するだけのことである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. Appen. p. 559.
 両性の結合は早期に行われる。そして非常に若い少女が男によりひどい恥しい凌辱を受けているのは我国の移住民がよく見るところである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. Appen. p. 563.
 その一人または二人以上の妻に対する夫の処置は、この奇怪野蛮な求婚様式と性質が似ているようである。女性はその頭に男の優越の痕を止めており、これは、男がその腕に打つ力を見出すや否や直ちにそれを発揮してこしらえたものである。かかる不幸な女のあるものは、その刈り込まれた頭の至る所に数え得ないほどの傷痕をもっている。コリンズ氏は感傷的に曰く、『これらの女の境遇はあまり悲惨なので、私は母の肩におぶさっている女の子を見ると、その子の将来の悲惨なことを予見して、それを殺してしまった方が慈悲であろうとしばしば考えた1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。』他の場所では彼は分娩中のベニロングの妻のことについて曰く、『私は今この記録の中に、ベニロングがあることに腹を立てて、分娩直前の朝この女を激しくなぐったという覚書を見出した2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。』
 1) Id. Appen. p. 583.
 2) Id. Appen. note, p. 562.
 このように獣的に取扱われる女は、必然的にしばしば流産せざるを得ず、またおそらく、前に述べたような、非常に若い少女の凌辱が普通に行われ、また両性の結合が一般にあまりに早く行われれば、女性の生殖力は減殺されるであろう。一妻よりも多妻の場合の方が一般であるが、しかし驚くべきことには、コリンズ氏は二人以上の子供のある場合は一度以上は思い出せないのである。彼はある土人から第一の妻は夫婦関係の独占権を有つものとされているが、第二の妻は単に両人の奴隷であり召使に過ぎない、と聞いたのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. Appen. p. 560.
 夫婦関係に対し第一の妻が絶対独占権を有つということはありそうもないことである。しかし第二の妻がその子供を育てることを許されないということは、あり得ることである。とにかく、もし右のことが一般的に正しいとすれば、多くの女には子供がないのであり、これは、彼女らの激しい苦難、またはコリンズ氏には知られなかったある特別な習慣に起因するものであることを、証明するものである。
 もし乳児の母が死ねば、この頼りなき幼児は生きたまま母と同じ墓に埋められる。父親自身が生きている子供を母の死骸の上に置き、それに大きな石を投げ込むと、他の土人がすぐ墓を埋めてしまうのである。我国の移住民によく知られているコーレーベーという土人が、この恐ろしい行為をしたが、彼はこのことを訊ねられたときに、この子供を育てる女はどこにも見出すことは出来ず、従ってこうして死を与えなければもっとひどい死に方をしなければならないはずだと云って、その行為を弁解した。コリンズ氏は、この風習は一般に行われていると信ずべき理由があると云い、それがある程度人口の稀薄の理由をなすものであろう、と云っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き、「1」が底本では欠落]。
 1) Id. Appen. p. 607.
 かかる習慣は、それ自身としてはおそらく一国の人口に大きな影響を与えるものではなかろうが、蒙昧人の生活で子供を育てることの極めて困難なることをよく物語るものである。その生活習慣上絶えず居住を変え、その夫のために絶えず苦役に服せざるを得ない女は、ほとんど同じ年頃の二三人の子供を育てることは絶対に出来ないように思われる。上の子供が独り立が出来て母に歩いてついて行けるようになる前に、もう一人子供が出来れば、世話が行届かずに二人の中一人はほとんど必然的に死ななければならない。このような放浪的な苦労の多い生活では、たった一人の子供でさえこれを育てることは非常に厄介な苦しい仕事に相違ないのであるから、母たるの強い感情に刺戟されないくらいの女でそれを引受けるもののあり得ないのは、驚くに当らぬことである。
 生れて来る人間を力ずくで抑圧するこれらの原因の外に、なお結果においてこれを殺すに寄与する原因を挙げなければならぬ。すなわちこれら蒙昧人の他の種族との頻々(ひんぴん)たる戦争と相互間の不断の闘争、深夜の殺人を促がししばしば無辜(むこ)の流血を惹き起す不思議な復讐心、醜悪な皮膚病を発生させるような彼らのみじめな住居の煤や汚物、及びあわれな生活様式、なかんずく多数の人間を一掃する天然痘の如き恐るべき伝染病がこれである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) See generally, the Appendix to Collins's Account of the English Colony in New South Wales.
 一七八九年に彼らはこの悪疫に見舞われたが、これは天然痘の一切の特徴と猛烈さとをもって、彼らの間に猖獗(しょうけつ)を極めた。それがもたらした荒廃はほとんど信じ得ないほどである。彼らが最も姿を見せた湾や渡場には、ただの一人も生きた人間は見られなかった。砂上にはただの一つの足跡でさえ認められなかった。死骸は更に死骸で蔽われた。岩間の穴は腐った屍体で満たされ、また多くの地方では道は骸骨で蔽われた1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. Appen. p. 597.
 コリンズ氏は上述のコーレーベーの種族は、この恐るべき病気の結果、たった三人になってしまい、この三人は全滅を免れるため他の種族と合体せざるを得なかった、と聞いたのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. Appen. p. 598.
 かかる人口減退の有力な原因があるのであるから、吾々は当然に、この国の動植物生産物が稀薄な人口のの周囲に次第に増加し、その上、海辺からは魚の供給もあるのであるから、食物は消費に対して余りあるものと考えたくなる。しかし全体として、人口は一般にほとんど、食物の平均供給と一致しているので、不順な天気やその他の原因からわずかの欠乏を生じてもすぐ困窮が生じなければならないように思われる。住民が非常な欠乏に遭遇しているように思われた特殊な場合は稀らしくないと云われているが、かかる時にはこの土人のある者は骨ばかりになり、またほとんど餓死しようとしているのが見られたのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. c. iii. p. 34, and Appen. p. 551.
[#改丁]

    第四章 アメリカ・インディアンにおける人口に対する妨げについて

 吾々は次に、広大なアメリカ大陸に目を転じよう。その大部分の土地には、ニュウ・オランダの土人とほとんど同様に、自然から与えられるままの生産物を得て生活している、小さな独立した蒙昧種族が、住んでいる。土地はほとんどあまねく森林で蔽われ、南洋諸島に豊富に成長する果実や食用植物はほとんどない。狩猟種族のあるものが知っている極めて粗雑な不完全な耕作によって得られる生産物は、狩猟により獲られる食料の補助と考えてよいほど、わずかである。従ってこの新世界の住民は、主として狩猟と漁撈によって生活しているものと考えてよい1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。そしてこのような生活様式に対する限界の小なることは云うまでもない。漁撈から得られる食料は、湖水や河や海の近くにいる者が手にし得たのみである。そして慎慮の足らぬ蒙昧人の無智と怠惰とのために、これらの食料を、実際に手に入れた時よりも後日のためにとっておくことはしばしば出来なかった。この狩猟者を養うためには、広大な地域が必要であることは、しばしば述べられまた認められているところである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。彼らの手に届く野獣の数、並びにそれらの獣を殺すか捕えることの難易によって、社会の人口は必然的に制限されなければならぬ。だから狩猟民族は、その生活様式で彼らが似ている野獣と同様に、土地の上に極めて稀薄に散在するであろう。野獣のように、彼らはあらゆる敵を逐い払うか、またそれから逃げるかしなければならず、そして互いに間断なく争っていなければならない3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Robertson's History of America, vol. ii. b. iv. p. 127, et. seq. octavo edit. 1780.
 2) Franklin's Miscell. p. 2.
 3) Robertson, b. iv. p. 129.
 かかる事情の下において、アメリカがその面積に比例して極めて人口が稀薄なのは、人口はそれを養うべき食物なくしては増加し得ないという明かな真理の、例証でしかない。しかしこの問題のうちに私が特に読者の興味を惹きたいと思っている面白い点は、人口がいかにしてこの乏しい供給の水準まで抑止されるかということである。人民に対する食物供給の不足は、常に飢饉という形でだけ現れるものではなく、他のもっと永続的な困窮の形で、時に生れてから殺すよりも生れる前に人口を妨げる方に大きく働く習慣を生み出すという形で、現れるということを、見逃すことは出来ない。
 アメリカ人の女は多産的でないと一般的に云われている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。この少産性は、その女に対する男の情熱が足りないという、アメリカの蒙昧人に特有と考えられている特徴の一つから起るのだと、あるものは云っている。しかしながらそれはこの種族のみに特有なことではなくて、食物が貧弱で不十分であり、そして絶えず飢饉または外敵により襲われる不安の中に生活している、すべての野蛮民族に、おそらく大きな程度に存在しているものである。ブルウスはしばしばこれに注目し、特にアビシニアの辺境の蒙昧民族たるガラ族及びシャンガラ族について述べている2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。またヴァイヤンはホッテントット族の人口稀薄の主原因としてその冷淡な気質を挙げている3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。これは、性的情欲から注意を奪ってしまう蒙昧生活の艱難と危険によって起るもののように思われる。そしてアメリカ土人の情熱不足の主たる原因は、その体質から来る絶対的欠陥ではなく、かかる事情がその原因であるということは、かかる原因が緩和されまたは除去される程度にほとんど比例して、この傾向が減少して行くことから、本当らしく思われる。アメリカの諸地方のうち特殊な地の利またはそれ以上の改良上の有利な事情から、蒙昧生活の苦労がそれほどはげしくは感ぜられない地方においては、両性間の情欲はもっと熱烈である。河岸に位置を占め魚の貯蔵の十分にある種族、または鳥獣に豊富な地方やまたは農業が大いに進歩している地方に住んでいる種族の間では、女はもっと尊重され大事にされる。そして情欲の満足に対してはほとんどいかなる抑制もないから、その風俗の紊乱(びんらん)は時に過度に達している4)[#「4)」は縦中横、行右小書き](訳註)。
 1) Id. b. iv. p.106. Burke's America, vol. i. p. 187. Charlevoix, Hist. de la Nouvelle France, tom. iii. p. 304. Lafitau, M□urs des Sauvages, tom. i. p. 590.
 本章では私はしばしばロバトスンと同じ引用をするが、しかし自らこれを調べ確かめなかったことはない。そうすることが出来なかった場合には、私はロバトスンのみを引用した。
 2) Travels to discover the Source of the Nile, vol. ii. pp. 223, 559.
 3) Voyage dans l'Int□rieur de l'Afrique, tom. i. p. 12, 13.
 4) Robertson, b. iv. p. 71. Lettres Edif. et. Curieuses, tom. vi. pp. 48, 322, 330; tom. vii. p. 20. 12 mo. edit. 1780. Charlevoix, tom. iii. pp. 303, 423. Hennepin, M□urs des Sauvages, p. 37.
〔訳註〕このパラグラフについては、Cf. 1st ed., pp. 39-40.
 ところで、もし吾々がアメリカ土人のこの情熱不足を彼らの体躯の自然的欠陥と考えずに、単なる一般的の冷淡であり、情欲衝動が余り来ないからであると考えるならば、吾々は一家族に対する子供の数に影響を与えるものとして、それに重きをおく気にはならないであろう。そしてむしろこの少産性の原因を蒙昧状態における女子の境遇と習慣に求める気になるであろう。そしてかくすれば、吾々は問題の事実を説明すべき十分な説明を見出すことになるであろう。
 ロバトスンは正しくも次の如く述べている。『男子が技術や文明の進歩によって改良されたかどうかということは哲学者の間で矢釜(やかま)しく論ぜられて来ている問題である。ところで女子の境遇の幸福な変化がその洗練された優雅な挙措に負うものであることは、疑をいれえない点である1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。』世界のあらゆる地方において蒙昧人に最も一般的な特徴の一つは、女性を軽蔑し貶すことである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。アメリカの種族の大抵においては、女子の境遇は余りにひどすぎて、奴役という言葉はその悲惨な状態を表すには、やわらかすぎる。妻は牛馬と同じである。男がその日を怠惰と安逸に送っているとき、女は絶えず労役に服している。仕事は容赦なく彼らの上に課せられ、そして奉仕は満足も感謝もなしに受入れられる3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。アメリカのある地方では、こうした悲惨な状態が余りひどいので、母親はその女児を、こうした悲惨な奴隷の運命に陥るにちがいないこの世から、速かに救い出すために殺したのである4)[#「4)」は縦中横、行右小書き](訳註)。
 1) Robertson, b. iv. p. 103.
 2) Id. b. iv. 103. Lettres Edif. passim. Charlevoix, Hist. Nouv. Fr. tom. iii. p. 287. Voy. de P□rouse, c. ix. p. 402. 4to. Lodon.
 3) Robertson, b. iv. p. 105. Lettres Edif. tom. vi. p. 329. Major, Roger's North America, p. 211. Creuxii Hist. Canad. p. 57.
 4) Robertson, b. iv. p. 106. Raynal, Hist. des Indes, tom. iv. c. vii. p. 110. 8vo. 10 vol. 1795.
〔訳註〕このパラグラフについては、Cf. 1st ed., p. 41.
 蒙昧生活の不可避的な困難に加えての、この圧迫と不断の労働の状態とは、一般に子供を産むという仕事には非常に都合が悪いのは当然である1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。そして結婚前の女子の間で一般に行われている不品行は、堕胎の習慣と相俟って、必然的に彼らを後に至り子供を産むに適しなくさせる2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。宣教師の一人はナッチェツ族の間でその妻を取り換える一般の習慣があることを述べて、もしその妻に子供がないならば、と附言しているが、これはこれらの結婚の多くは子供を産まないことの証拠であり、そしてこれらは、彼が前に述べている3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]結婚前の不品行な生活から説明され得よう。
 1) Robertson, b. iv. p. 106. Creuxii Hist. Canad. p. 57. Lafitau, tom. i. p. 590.
 2) Robertson, b. iv. p. 72. Ellis's Voyage, p. 198. Burke's America, vol. i. p. 187.
 3) Lettres Edif. tom. vii. p. 20, 22.
 シャルルボワがアメリカ土人の女の不姙の原因としているものは、彼らの子供に数年間授乳している間その夫と同棲しないこと、彼らがどんな状態にいても常に服しなければならぬ過度の労働、及び多くの地方で樹立されている所の、若い女子に結婚以前に売淫を許す習慣、などである。これに加うるに、これ等の人々は時に極貧に陥るので、子供を持とうという欲望を全く失うに至る、と彼は云っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き、「1」が底本では欠落]。もっと蒙昧の種族のあるものでは、子供を二人以上も産んで自分の足かせになるようにはしないというのが、公理となっている2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。双生児が生れると、母が二人を育てることは出来ないので、その一人は普通棄てられる。そして子供に授乳中に母が死ぬ時には、子供はその命を保つ望みはなく、そしてニュウ・オランダにおける如くに、それは母と同じ墓に埋められる3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Charlevoix, N. Fr. tom. iii. p. 304.
 2) Robertson, b. iv. p. 107. Lettres Edif. tom. ix. p. 140.
 3) Robertson, b. iv. p. 107. Lettres Edif. tom. viii. p. 86.
 親自身がしばしば欠乏に曝されるのであるから、その子供を養うの困難は時に極めて大となり、ために彼らは子供を棄てたり殺したりするの止むなきに至る1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。不具の子供が棄てられるのは非常に一般的である。そして南アフリカの種族のあるものでは、その労働に能く堪えない母の子供は、親の弱点を遺伝するかもしれぬという恐れから、同じ運命を分つのである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Robertson, b. iv. p. 108.
 2) Lafitau, Moeurs des Sauv. tom. i. p. 592.
 アメリカ土人の間に不具者が著しく少ないことの原因を、吾々はこの種の原因に帰しなければならぬ。たとえ母がその子供達を区別なしに育てようと努めたとしても、全体のうちある比例のものは、蒙昧生活の運命たる峻烈な試練の下に死んでしまうのであり、その結果としておそらく、本来の虚弱や欠陥をもちながら働くものは、何人も成年になるまで生きることは出来ないのである。もし彼らが生れるや否や殺されないとしても、彼らを待つ苛酷な試練があるのであるから、久しくその命を保つことは出来ない1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。インディアンがこれほど苦しい労働生活をせず、そして子供を殺すことを妨げられている、スペイン領地方では、彼らの数多くは不具者で、小人で、手を欠いており、盲目で、聾である2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Charlevoix, tom. iii. p. 303. Raynal, Hist. des, Indes tom. viii. l. xv. p. 22.
 2) Robertson, b. iv. p. 73. Voyage d'Ulloa, tom. i. p. 232.
 一夫多妻はアメリカ土人の間では一般に許されていたようであるが、しかしこの特権は、カシイク及び酋長、または生活資料がもっと容易に得られる南方の肥沃なある地方でその他のものが時々用いる外は、滅多に用いられたことはない。一家を養う困難は人民大衆をして一人の妻に満足せしめたが1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、しかもこの困難は一般に知られかつ認められているので、父親は娘を嫁にやることを承諾する前に、求婚者に、狩猟の熟練、従って妻子を養う能力について、明確な証拠を要求したのである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。女は早く結婚しないと云われている3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。そしてこれは、宣教師やその他の著者が再三留意している結婚前の彼らの不品行によって、確かめられるようである4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Robertson, b. iv. p. 102. Lettres Edif. tom. viii. p. 87.
 2) Lettres Edif. tom. ix. p. 364. Robertson, b. iv. p. 115.
 3) Robertson, b. iv. p. 107.
 4) Lettres Edif. passim. Voyage d'Ulloa, tom. i. p. 343. Burke's America, vol. i. p. 187. Charlevoix, tom. iii. p. 303, 304.
 右に挙げた習慣は、主として家族の扶養に伴う困難から生じたものと思われるが、これは、その親が彼らを救おうとする最上の努力にもかかわらず蒙昧生活の困難の下において必然的に多数の子供が死ななければならぬということ1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]と相俟って、疑いもなく、新しく生れて来るものを力強く圧迫しなければならぬのである。
 1) クリュウクシュウスは、ほとんど三十人に一人も成年に達しない、と云っている(Hist. Canad. p. 57.)が、これは確かに大きな誇張に違いない。
 若い蒙昧人がその少年期の危険を無事に通った時には、これに劣らぬ恐るべき他の危険が成年になろうとする彼を待ち構えている。蒙昧状態においてかかる疾病は、数は文明社会よりも少いが、その激しさと、致命的なことでは、文明社会にある疾病よりももっと甚しい。蒙昧人は不思議なほど不慎慮であり、そして彼らの生活資料は常に不安なものであるから、彼らは、獲物の多寡、または季節の生産物の多少によって、しばしば極端な欠乏から法外な豊富へと移行する1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。一方の場合における彼らの無思慮な大食と、他方の場合におけるその極端な節食は、人類の体躯に等しく有害である。従って彼らの気力はある季節には欠乏によってそこなわれ、また他の季節には過食と消化不良による疾病によってそこなわれる2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。これは彼らの生活様式の不可避的結果と考えられようが、これによって多くの者は働き盛りに死んでしまう。彼らは同様に、極度に肺病や肪膜や喘息や麻痺性の病気にかかるが、これは彼らが狩猟や戦争に当って蒙る甚しい困苦と疲労、及び彼らが絶えず曝されている険悪な気候によって、もたらされるのである3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Robertson, b. iv. p. 85.
 2) Charlevoix, tom. iii. p. 302, 303.
 3) Robertson, b. iv. p. 86. Charlevoix, tom. iii. p. 364. Lafitau, tom. ii. p. 361.
 宣教師は、南アフリカのインディアンについて、彼らが治療法を知らない病気に絶えずかかると云っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。最も簡単な薬草を用いることも、またはその粗雑な食事を変えてみることも知らず、彼らは数多くこれらの病気で死んでしまう。ジェスイット僧のフォークは、彼が旅行した各地ではどこでも老人はただの一人も見なかったと云っている2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。ロバトスンは、蒙昧人の寿命は、よく整った勤勉な社会におけるよりも短いと断定している3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。レイナルは、蒙昧生活をしばしば擁護しているにもかかわらず、カナダのインディアンについて、もっと整った安穏な生活方法をしている吾々国民ほど長生きするものはほとんど無いと云っている4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]。そしてクックとペルウズは、アメリカの西北海岸の住民のあるものについて述べているところで、これらの意見を確認しているのである5)[#「5)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Lettres Edif. tom. viii. p. 83.
 2) Id. tom. vii. p. 317, et seq.
 3) Id. b. iv. p. 86.
 4) Raynal, b. xv. p. 23.
 5) Cook's Third Voy. vol. iii. ch. ii. p. 520. Voy. de P□rouse, ch. ix.
 南アメリカの大平原においては、広い沼や雨期に続く洪水に焼けつくように照りつける太陽は、時に恐るべき流行病を惹き起す。宣教師は、インディアンの間にしばしば伝染病が起り、そして時々その部落に大きな死亡率を生ずると云っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。天然痘は至る処に猖獗を極めるが、それは注意が足りずまた住居が狭いので、これに罹った者は、ほとんど全く恢復しないからである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。パラグアイのインディアンは、ジェスイット僧が世話や注意を払っているにもかかわらず、非常に伝染病に罹ると云われている。天然痘と悪性熱病は、それがもたらす惨害からして、悪疫と呼ばれているが、これはしばしば盛んな伝道を駄目にしてしまうのであり、そしてウロアによれば、伝道が始まって以来の時間と彼らの非常に平和な生活とに比例してそれがその勢を増さないのは、この原因によるのである3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Lettres Edif. tom. viii. p. 79, 339; tom. ix. p. 125.
 2) Voyage d'Ulloa, tom. i. p. 349.
 3) Id. tom. i. p. 549.
 かかる流行病は啻に南方のみに限られるものではない。それはもっと北の民族にも稀しくないかの如き記述が行われている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。そしてキャプテン・ヴァンクウヴァは、アメリカ西北方海岸の、最近の航海記において、明かにこの種のある疾病から起った極めて異常な荒廃を、報告している。ニュウ・ダンジェネスから海岸を百五十哩(マイル)彼は通過したが、前と同じ数の住民を見たことは一度もなかった。人影のない部落がしばしばあったが、それはいずれも、以前にこの地方に散らばっていた蒙昧人を全部収容するに足るほど大きかった。彼が行った色々の地方で、特にポオト・ディスカヴァリ附近では、人間の頭蓋骨、肋骨、脊髄骨、その他種々の人体の遺物が滅茶苦茶にたくさん散乱していた。そして生き残ったインディアンの身体には戦の傷痕は何もなく、また恐怖や不安の特別な徴候は何も認められなかったのであるから、この人口減少は流行病により生じたに違いないと考えるのが最も当然である2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。天然痘はこの海岸地方におけるインディアンでは普通であり、致命的なものであるように見える。その消し難いあばたは多くの者に見られ、また若干はそれにより一眼の視力を失っていたのである3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Lettres Edif. tom. vi. p. 335.
 2) Vancouver's Voy. vol. i. b. ii. c. v. p. 256.
 3) Id. c. iv. p. 242.
 一般的に云えば、蒙昧人は、その極端な無智、その身体の不潔、その小屋のつまって汚れているところから1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、通常人口稀薄な地方に伴う利点、すなわち人口稠密な地方よりも流行病から免れうるという利点を、失っている。アメリカのある地方では、家屋は多くの異った家族を容れるように作られる。そして八十人も百人もが同じ屋根の下に群居している。家族が分れて暮している場合には、その小屋は極度に小さく、つまっており、みすぼらしく、窓は無く、そしてその入口は非常に低くて、そこに入るには手と膝で這わなければならない2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。アメリカの西北岸地方では、家屋は一般に大きい。そしてミイアスは、ヌウトカ・サウンドに近いある酋長に属している非常に大きな家のことを記しているが、そこでは、八百人の人間が食事をしたり、坐ったり、寝たりするのである3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。すべての旅行者は、この海岸地方の人民の住居の不潔と身体のきたなさについては見解が一致している4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]。キャプテン・クックは、彼らが群をなす虱を摘まみ取って食うと書いており5)[#「5)」は縦中横、行右小書き]、また彼らの住居の状態を最大の厭悪をもって述べている6)[#「6)」は縦中横、行右小書き]。ペルウズは、彼らの小屋は世界中の既知のいかなる動物の洞窟とも比較しえない不潔と臭気を有っている、と云っている7)[#「7)」は縦中横、行右小書き]。
 1) シャルルヴォアは、アメリカ人の小屋の極度の不潔と悪臭とを語るに最も強い言葉を使っている。曰く、『病気にかからずにその小屋の中に入ることは出来ない。』またその食事の不潔について曰く、『身の毛がよだつ、』と。Vol. iii. p. 338.
 2) Robertson, b. iv. p. 182. Voyage d'Ulloa, tom. i. p. 340.
 3) Meares's Voyage, ch. xii. p. 138.
 4) Id. ch. xxiii. p. 252. Vancouver's Voyage, vol. iii. b. vi. c. i. p. 313.
 5) Cook's Third Voyage, vol. ii. p. 305.
 6) Id. c. iii. p. 316.
 7) Voyage de P□rouse, c. ix. p. 403.
 かかる事情の下において、流行病がひとたび彼らの間に現れる時には、いかに恐るべき荒廃を作り出さねばならぬかは容易に想像し得よう。そして、彼らの家の空気は最も混雑した都会の空気よりも澄んでいることはあり得ぬのであるから、上に述べた程度の不潔がこの種の疾病を作り出すべきことは、当然のことと思われる。
 幼年期の危険と疾病から免れた者は絶えず戦争のおそれに曝らされている。そしてアメリカ土人の戦争行動は極度に用心深く行われるにもかかわらず、しかも、平和な時期はほとんどないのであるから、戦争で失われる彼らの数は大きなものである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。アメリカ土人の中最も野蛮なものでも各団体が自分の領土に対して有つ権利のことはよく知っている2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。そして他の団体が自分達の猟場の獲物を殺すのを防ぐのは最も重大なことであるから、彼らはこの民族的財産を最大の注意をもって番をする。かくて無数の戦争原因が必然的に起る。隣り合う民族は互に不断の敵対状態にある3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。一種族における膨脹行為は、まさに近隣者に対する侵略行為となる。けだしその増加した人を養うためにはより以上の領域が必要であろうからである。この場合においては、当然に、双方の損害によって勢力の均衡が回復されるか、または弱い方の団体が絶滅され、またはその土地から駆逐されるまで、続けられるであろう。敵の侵入が彼らの耕地を荒廃し、または彼らをその猟場から駆逐する時には、彼らは滅多に持運び得る貯えを有たないのであるから、一般に極度の欠乏に陥れられる。侵略された地域の全人民はしばしば森林や山の中にのがれなければならないが、この森林や山は彼らに生活資料を何も与えることが出来ず、従ってそこで多くの者は死んでしまうのである4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]。こうして逃げる場合には自分を守る者は自分だけである。子供はその親を離れ、親はその子供達を他人と考える。人情の絆はもはや働かない。父親は一つのナイフや一つの斧でその息子を売る5)[#「5)」は縦中横、行右小書き]。あらゆる種類の飢饉と窮乏とが、剣を免れた人間を完全に滅ぼしてしまう。かくして全種族がしばしば絶滅されてしまうのである6)[#「6)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Charlevoix, Hist. de la Nouv. France, tom. iii. 202, 203, 429.
 2) Robertson, b. iv. p. 147.
 3) Id. b. iv. p. 147. Lettres Edif. tom. viii. p. 40, 86, and passim. Cook's Third Voy. vol. ii. p. 324. Meares's Voy. ch. xxiv. p. 267.
 4) Id. b. iv. p. 172. Charlevoix, Nouv. France, tom. iii. p. 203.
 5) Lettres Edif. tom. viii. p. 346.
 6) Robertson, b. iv. p. 172. Account of North America, by Major Rogers, p. 250.
 かかる事態は、一般に蒙昧人に、またなかんずくアメリカ土人に見られる、かの獰猛な戦闘精神を醸成するに有力に寄与したものである。彼らの戦闘目的は征服ではなくして殺すことである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。戦勝者の生命は敵の死に依存する。そして敵が恨みと復讐心をもって追いかけているので、彼は絶えず打負かされた場合の窮状のことばかり考えているようである。イロクォイ族の間では、敵に戦をしかける決意を示す言葉は、『行こう、そしてあの民族を食おう』というのである。もし彼らが近隣の種族の援助を仰ぐ場合には、その敵の肉で作った汁を食うように招待する2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。アブナアキイ族の間では、その戦士の一団が敵地に入った時には、それは一般に三十人または四十人から成る若干の部隊に分れ、そして酋長はその各々に云う、『お前はあの村を食ってよい、お前はあの村』等、と3)[#「3)」は縦中横、行右小書き、「)」が底本では欠落]。こういう表現法は、戦争で得た捕虜を食う習慣がもはや存在しない種族の言葉に残っている。しかしながら食人の風は、疑いもなく新世界の多くの地方に広く行われていたのである4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]。そして、ロバトスン博士の意見とは反対に、私は、この習慣は後になって他の動機により継続されたということもあろうが、その起源は極端な欠乏に違いない、と考えざるを得ない。この恐るべき御馳走を、必要に迫られたのでない悪(にく)むべき情欲に帰し、最も人道的な文明的な人民の間ですら時に他のあらゆる感情に打克つところの自己保存の大法則に帰しないのは、人性と蒙昧状態に対する余りよいお世辞ではないようである。それがこの原因から時偶(ときたま)にせよ行われるに至った後は、敵の御馳走にされるかもしれぬという蒙昧人の恐怖は、恨や復讐の精神を著しくかき立て、その結果として、飢に迫られない場合にも捕虜を食うようになるのであろう。
 1) Robertson, b. iv. p. 150.
 2) Id. p. 164.
 3) Lettres Edif. tom. vi. p. 205.
 4) Robertson, b. iv. p. 164.
 宣教師達は、人間の肉が手に入りさえすれば、何か珍らしい動物の肉を食うのと同じに、これを食う、若干の民族のことを語っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。これはおそらく誇張されているかもしれぬ。もっともアメリカ西北方海岸の最近の航海記や、キャプテン・クックのニュウ・ジイランド南島の社会状態に関する記述は2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]、大いにこれを裏書しているようである、が。ヌウトカ・サウンド人は食人種であるらしい3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。そして、この地方の酋長マクインナは、この恐るべき御馳走が非常に好きで、故に冷酷にも、この不自然な食欲を充たすために、満月のたびに一人ずつ奴隷を殺すと云われている4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Lettres Edif. tom. viii. p. 105, 271; tom. vi. p. 266.
 2) 常に慎重なキャプテン・クックすら、ニュウ・ジイランド土人について次の如く云っている、『彼らがこの種の食物が大好物であることは、明かすぎるほど明かである。』Second Voyage vol. i. p. 246. また最後の航海記では、彼らの絶え間ない争闘について曰く、『またおそらくおいしい御馳走に対する願望が少なからざる刺戟をなすものであろう。』Vol. i. p. 137.
 3) Cook's Third Voyage, vol. ii. p. 271.
 4) Meares's Voyage, ch. xxiv. p. 255.
 自己保存という優越原則は、蒙昧人の心の中で、彼れの属する社会の安全と力とに極めて密接に結びついているので、もっと開けた国民の間に見られるような戦争上の名誉や勇気という観念を少しも許さない。彼が見張っている敵から逃げ、そして自分自身の体に、従って自分の団体に、危険を及ぼすに違いない闘争を避けるのが、アメリカ土人にとって名誉な行為なのである。武装を整え抵抗の準備をしている敵を攻撃するには、十対一という優勢が必要である。そしてそんな時でさえ各人は第一に進むのを恐れるのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。最も優れた戦士の大きな目的は、狡智と詐術のあらゆる術策と、彼れの智恵が考え得るあらゆる戦略と奇襲によって、自己の最小の損失で敵を弱め亡すことである。敵と同等の条件で戦うのは最上の愚とされている。戦士は名誉な死とは考えられず2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]、不運と考えられ、死者の軽率不慎慮として記憶される。しかし、幾日も幾日も機をうかがい、最も安全な、最も抵抗力の少い時に敵を襲い、深夜に敵に接近してその小屋に火を放ち、敵が裸で無防禦で焔から逃げるところを虐殺するのは3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]、名誉な行為なのであり、これは感謝する仲間の胸に永久に記憶されるであろう。
 1) Lettres Edif. tom. vi. p. 360.
 2) Charlevoix, No. Fr. tom. iii. p. 376.
 3) Robertson, b. iv. p. 155. Lettres Edif. tom. vi. p. 182, 360.
 かかる戦法は明かに、蒙昧生活の困難と危険の下において若い人間を育てるのに伴う困難を意識するから生じたものである。そして強大な破壊原因は、ある場合には、人口を生活資料よりもはるかに低く保っておくほどに大であろう。しかしアメリカ土人がその社会の縮少を恐れる様を現わし、またそれを拡大せんとする明かな希望を現わすということは、一般に事実もその通りであるということの証拠ではない。各々の社会で相食い合うようなその国はおそらく増加人口を養い得ず、一種族の力の増加は、それに対し、比較的弱くなったその敵から新しい生活資料の源泉を新しく奪う途を与える。そして反対に、その成員の減少は、残った成員に対し前よりも豊富に食物を与えるどころか、かえってより強い種族の侵略による絶滅や飢饉を蒙らしめることとなるのである。
 本来は単にグアラニイ族の一小部分に過ぎなかったシリグアンヌ族は、彼らのパラグアイの故国を去って、ペルウに近い山中に定着した。彼らはこの新しい国で十分な生活資料を見出し、急速に増加し、近隣を攻撃し、そして優れた勇気と優れた財産とによって次第にこれを絶滅し、その土地を奪った。広大な土地を占領し、そして数年にして三四千人から三万人に増加したが1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、近隣のより弱い種族は日に日に飢饉と剣とによって減少して行った。』
 1) Lettres Edif. tom. viii. p. 243.『シリグアンヌ族は恐ろしく増加し、わずか数年にしてその数は三万に上った。』
 かかる事例は、アメリカ土人ですら、好都合の事情の下においては急速に増加するものであることを証明し、またあらゆる種族がその成員の減少を恐れ、そして現実に所有する領土内の食物の豊富を仮定せずしてしばしばその成員の増加を希望することを1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、十分に説明するものである。
 1) Lafitau, tom. ii. p. 163.
 上述の、アメリカ土人の人口に影響を及ぼす諸原因は1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、主として生活資料の多少により左右されるものであることは、湖水や川に近いか、土地の肥沃度が優れているか、または改良がより進んでいるので、食物がより豊富になっている一切の地方において、土人の種族がより多く、またその各種族の成員の数も多いという事実によって、十分に証明される。オリノコ河に接する地方の奥地では、どちらへ数百哩(マイル)行っても、一軒の小屋もなく、一匹の動物の足跡も見られない。気候がより厳しく、土地がより瘠せている、北アメリカのある地方では、荒廃は更にいっそう甚しい。数百リイグ四方の広大な土地を通っても、無住の平原と森林とがあるだけである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。宣教師は十二日間ただの一人にも出会うことなく旅をしたと云い3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]、また非常に広大な土地にわずか三、四の散在する部落が見られただけであるとも云っている4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]。かかる荒野のある所は鳥獣を全然産せず5)[#「5)」は縦中横、行右小書き]、従って全く人影がない。ある程度鳥獣のいる他の場所では、狩猟期になると猟の部隊がやって来、獲物の有るに従って各地に天幕を張って止り、従って文字通りそこで産する生活資料の量に比例して人が住むことになるのである6)[#「6)」は縦中横、行右小書き]。
 1) これらの原因は、おそらく、人口を生活資料の水準に抑止して余りあるように、思われるであろう。そしてそれは実際、インディアンの女子の出産性の小なることの報道が、普遍的に、または大体にでも、本当であるならば、その通りであろう。おそらくある記述は誇張であろうが、どれがそうかは云いにくい。そしてこれら一切の誇張を斟酌しても、それは右の点を確立するに十分足るものであることが、認められなければならない。
 2) Robertson, b. iv. p. 129, 130.
 3) Lettres Edif. tom. vi. p. 357.
 4) Id. p. 321.
 5) Id. tom. ix. p. 145.
 6) Id. tom. vi. p. 66, 81, 345; tom. ix. p. 145.
 アメリカの他の地方は人口が比較的稠密であると云われている。例えば北部大湖水に接した地方、ミシシッピイ河の両岸、ルイジアナ、及び南アメリカの諸地方がこれである。この地方では、その地が鳥獣や魚を産する多少や、住民の農業上の進歩に比例して、村は大きく、またそれは互に接近している1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。メキシコ及びペルウという人口稠密の大帝国のインディアンは、疑いもなく、もっと野蛮な彼らの同胞と同じ祖先から発し、そして本来は同じ習慣を有っていたに違いない。しかし一連の諸事情により、彼らがその農業を改良し拡張するに至った時から、男子の冷淡や女子の破壊的習慣にもかかわらず、大きな人口が急速に伴生したのである。かかる習慣は実際境遇の変化に従って大いに変化した。そして不断の流浪と困難との生活に代ったより静かな定住的生活は、直ちに女子をより多産的ならしめ、そして同時に彼らをしてより大きな家族を世話し得せしめるに至るであろう。
 1) Id. tom. ix. p. 90, 142. Robertson, b. iv. p. 141.
 歴史家が述べているアメリカ大陸を概観すると、人口は、各地の住民が、その現実の勤労と進歩との状態において、獲得し得る食物量と、ほとんど全く比例して、地上に拡っているように思われる。そしてほとんど例外なく、人口は、その限界に及ばないよりはこれを緊密に圧迫していることは、アメリカのあらゆる地方において食物の欠乏から窮乏が頻々と起ることで、わかるのである。
 ロバトスン博士によれば、野蛮な民族が飢饉により蒙る悲惨な状態の顕著な事例が起っている。その一つとして、彼は、フロリダの蒙昧人の間でほとんど九年も住んだスペインの探検家の一人、アルヴァル・ヌウニェス・カベサ・デ・ヴァカの書いている記述を述べている。彼は、この蒙昧人は、あらゆる種類の農業を知らず、主として各種の植物の根を食べて生きているが、これを得るのは非常に困難であり、それをたずねてあちらこちらとさまよう、と云っている。時には彼らは鳥獣を殺し、時には魚を取るが、その量は極めて少く、従って彼らは、飢餓の余り、蜘蛛、蟻の卵、芋虫、とかげ、蛇、及び一種の滑土を喰うの止むなきに至る。そこで――と彼は云う――この国に石があったなら、彼らはこれを呑んだことだろうと思う、と。彼らは魚や蛇の骨を貯えておき、これを粉にして食べる。彼らがそれほど飢餓に悩まないのは、オプンチアすなわちさぼてんの実が熟する季節だけである。しかし彼らはこれを探すためには、時にその通常の居住地から遠くまで旅行しなければならない。他の場所で、彼は、土人はしばしば食物なしに二、三日を過さざるを得ない窮状にある、と述べている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Robertson, note 28 to p. 117, b. iv.
 エリスは、そのハドソン湾航海記において、その近隣のインディアンが極度の欠乏に悩んでいる有様を、悲痛な語調で述べている。気候の厳しいことを述べた後、彼は曰く、『厳しい寒さから生ずるこれらの困難が大であるとはいえ、それは食糧の不足とそれを獲得する困難よりははるかに劣る、と正当に云い得よう。工場で話されておりかつ本当のことだと知られている一つの物語は、十分にこのことを証明し、そして憐み深い読者にこれらの不幸な人が曝されている窮状を正しく察せしめるであろう。』それから彼は、一人の貧しいインディアンとその妻のことを述べているが、彼らは狩猟がうまくいかないため、衣服として着ていたすべての皮を食った後、その子供の二人の肉を食ってしまうという恐るべき行為に追いつめられたのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き、「1」が底本では欠落]。他の場所では彼は曰く、『夏に、取引に工場へやって来たインディアンは、期待していた後援が来ないので、数千枚の海狸の皮の毛を焼き取らざるをえないことが、時々あった2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。』
 1) Robertson, p. 196
 2) P. 194.
 蒙昧生活と文明生活との比較において絶えず最も矛盾した推理を行っているレイナル僧正は、ある場所で、蒙昧人は間違いなく適当な生活資料を得ていると云いながら、しかもカナダの民族について記しているところでは、彼らは鳥獣や魚の豊富な国に住むにもかかわらず、ある季節には、また時には一年中、この資源を得られないと述べ、かくて生ずる飢饉は、余りに相互に離れ合っているので助け合うことの出来ないこれら人民の間に、大きな破滅をもたらす、と云っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Raynal, Histoire des Indes, tom. viii. l. xv. p. 22.
 シャルルボワは宣教師が蒙る不便と窮状とを述べているが、その中で、彼がこれまで述べた害悪よりももっと大きな害悪が一再ならず起るが、それに比べれば一切の他のものは何でもないと云わねばならぬ、と云っている。これは飢饉である。なるほど――と彼は云う――蒙昧人がその飢餓に堪える忍耐力は、飢餓に対する不用意と匹敵するが、しかし彼らは時にその維持能力以上のひどい目にあうのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Hist. N. Fr. tom. iii. p. 338.
 アメリカ土人の大部分では、農業上若干進歩しているものでさえ、一年のある季節には森林の中に散らばり、一年の食料の主要部分として狩猟の獲物で数ヵ月暮すのが、一般の習慣である1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。その部落に残っていれば彼らは確実に飢饉に会わなければならぬが2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]、森林へ行ったからとて、必ずしもそれから確実に免れるとはきまっていない。鳥獣に不足のないところですら、最も優れた猟人でさえ時に獲物の得られぬことがある3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。しかもこの獲物のないときには、狩猟者や旅行者は、森林の中で最も惨酷な欠乏に曝されるのである4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]。インディアンは狩猟に出掛けている時には時に三、四日も食物なしで過さざるを得ない5)[#「5)」は縦中横、行右小書き]。そしてある宣教師は、あるイロクォイ族について、それがちょうどこういう場合に遭遇し、自分の持っていた皮や、靴や、樹皮を食った後、遂に困った挙句、仲間の一部を犠牲にして残りのものを救った、と述べている6)[#「6)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Lettres Edif. tom. vi. p. 66, 81, 345; ix. 145.
 2) Id. tom. vi. p. 82, 196, 197, 215; ix. 145.
 3) Charlevoix, N. Fr. tom. iii. p. 201. Hennepin, M□urs des Sauv. p. 78.
 4) Lettres Edif. tom. vi. p. 167, 220.
 5) Id. tom. vi. p. 33.
 6) Id. tom. vi. p. 71.
 南アメリカの多くの地方では、インディアンは極度の窮乏生活を送っており1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、そして時に絶対的な飢饉で亡ぼされる2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。島々は肥沃のように見えるけれども、その生産物の水準まで人口が一杯になっていたのである。もし少数のスペイン人がいずれかの地方に定着するならば、そのわずかの余りの人口の増加でさえ、直ちにひどい食料の欠乏を惹き起した3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。栄えたメキシコ帝国もこの点では同じ状態であった。そして国会はしばしば、その少数の兵士のために食糧を獲得するのに最大の困難を感じたのである4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]。パラグアイの布教区のように、ジェスイット僧があらゆる配慮と用心とを払っており、またその人口が頻々たる流行病により低く保たれている所でさえ、欠乏の圧迫が全然存在せぬわけでは決してない。聖ミカエル教会の布教区のインディアンは一時非常に増加して、その附近の耕作し得る土地の生産は、それを養うに必要な穀物の半ばにしか当らなかった、と云われている5)[#「5)」は縦中横、行右小書き]。長期の旱魃はしばしば彼らの家畜を殺し6)[#「6)」は縦中横、行右小書き]、凶作を起した。そしてかかる場合には、教区のあるものは最も甚しい窮乏に陥り、その近隣のものの援助がなければ飢饉で亡びてしまったことであろう7)[#「7)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Lettres Edif. tom. vii. p. 383; ix. 140.
 2) Id. tom. viii. p. 79.
 3) Robertson, b. iv. p. 121. Burke's America vol. i. p. 30.
 4) Robertson, b. viii. p. 212.
 5) Lettres Edif. tom. ix. p. 381.
 6) Id. tom. ix. p. 191.
 7) Id. tom. ix. p. 206, 380.
 アメリカ西北岸地方への最近の航海記は、蒙昧生活における頻々たる欠乏の圧迫に関するかかる記述を確証し、そして一般に自然のままで与えられる食物収獲として最も豊富な漁撈も、不確実な資源でしかないことを、示している。ヌウトカ・サウンド近海は、住民が漁業の出来ないほどに凍ることはほとんどまたは全くない。しかし、彼らが極めて用心深く冬の用意に魚を貯え、そして注意深く寒い季節の用意に、出来るものならいかなる食物でも調理し貯蔵する事実から見ると、かかる時期には海で魚が取れないことは明かである。そして彼らはしばしば、寒い季節には、食糧の不足から非常な困難を蒙るように思われる1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。マッケイ氏という人が、一七八六年から一七八七年に至る間ヌウトカ・サウンドに滞在していた間に、冬の寒さが長く続き厳しかったので、飢饉が発生した。乾魚の貯えはなくなってしまい、そして新しい魚はどんなものも取れなかった。従って土人は一定の配給で我慢しなければならなくなり、そして酋長は我国人に毎日、規定の食糧、乾鰊の頭七個を持って来た。ミイアズ氏は、この紳士の報道を熟読すれば、人道心を有つ人は何人も戦慄を感ずるであろう、と云っている2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Meares's Voyage, ch. xxiv. p. 266.
 2) Id. ch. xi. p. 132.
 キャプテン・ヴァンクウヴァは、ヌウトカ・サウンド北方の人民のあるものは、松の木の内皮と海扇貝(ほたてがい)とで作った練りものを食って非常に悲惨な生活をしている、と語っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。ボオトに乗って出たある時、一隊のインディアンに出会ったが、彼らは若干の比目魚を持っていたので、非常に高い価格を申し出たけれども、一匹も分けてはくれなかった。これはキャプテン・ヴァンクウヴァの云うように、珍しいことであり、非常に食糧の乏しいことを物語るものである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。一七九四年にヌウトカ・サウンドでは魚が非常に欠乏して、べらぼうな高価になった。季節が悪かったか不用意であったかして、そのために住民は冬の間食物の欠乏により最大の窮状に陥ったのである3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Vancouver's Voyage, vol. ii. b. ii. c. ii. p. 273.
 2) Id. p. 282.
 3) Id. vol. iii. b. vi. c. i. p. 304.
 ペルウズはポオト・フランソアの近隣のインディアンは、夏の間は漁撈により最も豊かに暮すが、しかし冬には欠乏により死滅に瀕する、と述べている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Voyage de P□rouse, ch. ix. p. 400.
 従って、ケイムズ卿が想像しているように、アメリカ土人の種族は、牧畜または農業状態をして彼らに必要ならしめるに足るほど増加したことがない1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、というのではなくて、何らかの原因によって、かかるより豊富な食物獲得方法を十分に採用せず、従って人口稠密になるほど増加しなかったのである。もしも飢餓のみで、アメリカの蒙昧種族の習慣がかくの如く変り得るのであるならば、私は、狩猟民族や漁撈民族が一つでも残っているとは考えられない。しかしこの飢餓という刺戟に加うるに、ある好都合な一連の事情が、この目的のためには必要なのであることは、明かである。そして疑いもなくかかる牧畜または農業という食物獲得手段は、おそらく、まず、それに最も適した土地において、そしてその地の自然的肥沃度が、より多くの人間が一緒に住むことを許すことによって、人間の発明力を発揮させるに最も都合の好い機会を与えた土地において、発明され改良されることであろう。
 1) Sketches of the History of Man, vol. i. p. 99, 105. 8vo. 2nd edit.
 吾々が今まで考察して来た所のアメリカ土人の大部分にあっては、極めて高い程度の平等が行われているので、各社会の全成員は、蒙昧生活の一般的困難と随時的飢饉の圧迫とをほとんど等しく分け合っているのである。しかし南方諸民族の多く1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、例えばボゴタにいるもの、ナッチェス族2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]、特にメキシコやペルウにおいては、大きな階級差別が行われていて、下層階級は絶対的隷従の状態にあるので3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]、おそらくは、生活資料が欠乏する時には、かかる階級が主として被害を受け、そして、人口に対する積極的妨げはほとんどもっぱらこの社会部分に働くのである。
 1) Robertson, b. iv. p. 141.
 2) Lettres Edif. tom. vii. p. 21. Robertson, b. iv. p, 139.
 3) Robertson, b. vii. p. 109, 242.
 アメリカ・インディアンの間に起った極めて異常な人口減少は、ある人にとっては、ここに樹立せんとする理論と矛盾するように見えるかもしれない。しかしこの急速な減少の原因は、すべて、上述の人口に対する三大妨げに帰することが見られるであろう。そしてこれらの妨げは、特殊の事情によっては異常な力で作用するが、ある場合には、人口増加の原理よりもより強くはありえないであろう、とは主張されていないのである。
 インディアンの酒精飲料に対する飽くことを知らぬ愛好は1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、シャルルボワによれば、表現しようのない烈しいものであるが2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]、これは彼らの間に、しばしば死に至る争闘を絶えずひき起し、また彼らの生活様式からいって闘うことの出来ない新しい一系列の疾病に彼らを曝らし、かつ生殖能力をその本源そのものにおいて死滅させるのであるから、これだけで現在の如き人口減退を生み出すに足る罪悪と考え得よう。これに加うるに、ほとんどあらゆる所において、ヨオロッパ人とのインディアンの接触は、インディアンの意気を喪失させ、彼らの勤労心を弱めまたは誤った方向に向け、その結果として生活資料の源泉を減少する傾向のあることを、考えなければならない。サント・ドミンゴにおいては、インディアンはその残酷な圧制者を飢え死にさせるために、故意にその土地の耕作を放棄した3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。ペルウ及びチリイにおいては、土人の強制労働は、地面の耕作ではなく地下の穴掘へと、致命的な転化をさせられた。そして北方種族においては、ヨオロッパの酒精飲料を買おうという極度の願望から、彼らの大部分のものの勤労は、ただこれとに交換のために収穫増加に向けられることとなったが4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]、その結果として、彼らの注意をより収穫の多い生活資料の源泉へは向けず、同時に狩猟の生産物も急速に破壊するという傾向を有ったことであろう。アメリカの既知のすべての地方の野獣の数は、人間の数よりも以上に減少している5)[#「5)」は縦中横、行右小書き]。農業に対する注意は至る処でヨオロッパ人との接触から最初に期待された如くに増大するよりもむしろ稀薄となった。南アメリカであろうが北アメリカであろうが、そのいずれの地方においても、その数が減少した結果非常に豊かに生活するようになったインディアン民族があるという話は、聞かない。従って、現在ですら、上述のあらゆる有力な破壊原因があるにもかかわらず、アメリカ民族の平均人口は、ほとんど例外なしに、彼らの現在の勤労状態において獲得し得る平均食物量と、均等になっている、と云っても、大きな間違いはないであろう。
 1) Major Roger's Account of North America, p. 210.
 2) Charlevoix, tom. iii. p. 302.
 3) Robertson, b. ii. p. 185. Burke's America vol. i. p. 300.
 4) Charlevoix, N. Fr. tom. iii. p. 260.
 5) インディアンの間に火器が一般に採用されたことが、おそらく、大いに野獣を減少したことであろう。
[#改丁]

    第五章 南洋諸島における人口に対する妨げについて

 レイナル僧正は、ブリテン諸島の昔の状態と、島嶼民一般について語って、曰く、『人口の増進をおくらせる無数の奇妙な制度の起源を、吾々はこれらの人民の中に見る。食人、男子の去勢、女子の陰部封鎖、晩婚、処女の奉献、独身の称揚、余りに若く母となる少女に対し行われる処罰等がこれである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。』島嶼における人口の過剰により起ったかかる習慣は、大陸にもたらされ、大陸の学者は今日なおこれが理由の発見に努めている、と彼は云っている。僧正は、敵に囲まれたアメリカの蒙昧種族や、他国に取巻かれてそれと同じ地位にある開けた人口稠密な国民は、多くの点で島嶼民と類似の境遇にあるものであることに、気がついていないように思われる。大陸では、島ほどには、人口のより以上の増加に対する障壁ははっきりとは劃されておらずまた普通の観察者にわかるわけではないけれども、しかもそれはほとんど打ち超え難い障害をなしている。そして、自国における窮情に我慢出来ないで国を去って外国に移った人も、そこで確実に救われるとは限らない。
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