人口論
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:マルサストマス・ロバート 

 社会の中流及び上流階級のものすら、家族を養うことが困難であるために、またはその階級から下落することを恐れて、印度のある地方の人民は、多数の子供が生れないようにするために、極めて惨酷な手段をとるに至っている。ベナレス州の一地方ジュナポオルの辺境のある種族に、女児を殺す習慣のあることは、十分に証明されている。母親は彼らを餓死させるのを余儀なくされた。人々はかかる惨酷な習慣の理由として、その娘に適当な配偶者を得るには、非常な費用がかかることを挙げていた。これにはただ一つの例外の村があったが、そこには数人の老嬢がいた。
 かかる原則によれば当然に種族は永続し得ないということになるであろう。しかしこの一般原則に対する特殊の例外と他の種族との通婚が、種族維持の目的には十分であった。東印度会社はこれらの人民に、この非人道的な慣行を継続しないという約束を無理にさせたのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Asiatic Researches, vol. iv. p. 354.
 マラバアル海岸地方では、ネイル族は正則の婚姻を行わず、そして相続権は兄弟の母に属するか、または姉妹の息子に属するが、それは子供の父は常に不確実ということになっているからである。
 婆羅門の間では、一人以上の兄弟がある揚合には、そのうち長兄のみが結婚する。かくして独身生活を送る弟達は、ネイル族風の結婚をせずに、ネイル族の女子と同棲する。長兄に息子がいない場合に、はじめて次兄が結婚する。
 ネイル族の間では、一人のネイル女子が二人または四人またはおそらくそれ以上の男性と契るのが習慣である。
 大工、鍛冶屋、その他の如き下層階級は、その上層者を模倣しているが、違うところは、血統に間隙が生ずるのを防ぐ目的で一人の女子に対する共同関係を兄弟及び血縁男子に限っている点である1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. vol. v. p. 14.
 モンテスキウは、マラバアル海岸地方の、ネイル族のこの習慣に注目し、そしてこれを、この階級の者が兵士としてより自由にその職務の要求に応じ得るよう、その家族的紐帯を弱めんがために採用されたという過程に基いて、説明している。しかし私としては、特にこの習慣は他の階級もこれを採用しているのであるから、大家族から生ずる貧困の恐怖から発生したと考えるのが、より妥当であると考えたい1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Esprit des Loix, liv. xvi. c. 5.
 西蔵に関するタアナアの記述によれば、この国ではこの種の習慣が一段に広く行かれている。タアナア氏は、これが起原の問題に絶対的な結論を与えようとはせずに、それは、瘠せた国にとり人口が過大になることを恐れて生じたものであるという、仮説をとっている。東方を広汎に旅行したのであるから、彼はおそらく、過剰人口より必然的に生ずる結果を観察するようになり、その結果としてこれらの結果を正しく看取する極めて少数の著者の一人となっているのである。彼はこの問題につき極めてはっきりと自見を述べているが、右の習慣に関して曰く、『瘠せた国における過剰の人口は一切の災難の中で最大のものでなけれぱならず、そして永久の闘争または永久の欠乏を生むことは確実である。社会の中で最も活動的な最も有能な部分が、移住して、運命の戦士または好運の商人となるか、しからざれば彼らが故国に留る場合には、彼らはその乏しい収穫にある不時の不作が起った結果として飢饉の餌食となるかの、いずれかを余儀なくされなければならぬ。かくの如くに家族全体を一緒に婚姻の絆に結びつけることによって、過度に急速な人口増加はおそらく妨げられ、そして、地球上における最も肥沃な地方にも拡がることが出来、また世界中で最も富んだ、最も生産的な、そして最も人口稠密な国にさえ最も非人道な最も不自然な慣行を発生せしめることの出来る、恐怖が防止されたのである。私はここに支那帝国を暗示するが、ここでは母親は、多人数の家族を養育する見込がないので、生れたばかりの幼児を畠に棄てて殺すのである。これはいかに憎むべき罪悪であるとしても、確かに決して稀れではないのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。』
 1) Turner's Embassy to Tibet, part ii. c. x. p. 351.
 地球上のほとんどあらゆる国において、個人は私的利益の考慮に導かれて、人口の自然増加を抑圧する傾向ある習慣を帯びざるを得ない。しかし西蔵はおそらく、かかる習慣があまねく政府によって奨励され、そして人口を奨励するよりもむしろ抑圧することが公の目的であるように思われる唯一の国であろう。
 ブウティアは、生涯の始めに、独身状態を続けて出世をするようにすすめられる。けだしいかなる婚姻もほとんど確実に、地位の向上または政治的に重要な職への昇進の障害となるからである。人口はかくの如くして、野心と宗教との二つの有力な障害によって妨げられる。そして全く政治的なまたは宗教的な職務に没頭する上流階級のものは、農民や労働者に、畠を耕しまたその勤労によって生きるものに、種族の増殖に専心することを委ねるのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. c. i. p. 172.
 かくて宗教的隠遁は頻々と行われ1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、また僧院や尼僧院の数は非常に大である。最も厳重な法律が、女子がたまたま僧院の内部で、または男子が尼僧院の内部で、一夜を過すのを防ぐために、存在している。そして、凌辱を防ぎ、また両性の聖職に対する尊敬を確立するために、規則が完全に出来ているのである。
 1) Id.
 国民は二つのはっきりと分れた階級に分割されているが、それは現世の仕事を行うものと、天上との交渉を管掌するものとである。いかなる俗人の干渉も、決して、僧侶の定まった職務を妨げることはない。僧侶は、相互の契約によって、一切の霊界の仕事を掌(つかさど)り、そして俗人はその労働によって国家を富まし人口を繁殖せしめるのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. c. viii. p. 312.
 しかし、俗人の間ですら、人口増殖の仕事ははなはだ冷淡にしか行われていない。一家族のすべての兄弟は、年齢や数に制限なしに、一人の女子とその運命を結びつけるが、この女子は長兄の選んだものであり、家の主婦と考えられている。そして兄弟の別々の職業の利潤がどれだけであろうと、その結果は共同の財産に流れ込むのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. c. I. p. 348, 350.
 夫の数は明かには定められておらず、また何の制限も設けられていない。時には小家族に男が一人しかいない場合もある。そしてその数は、タアナアの云うところによれば、テシュウ・ルウムブウの身分のある一人の土人が、当時五人の兄弟が一人の女と同一の結婚をして、極めて幸福に共棲していることを指摘したが、この数を越すことは滅多にないであろう。この種の共棲関係は下層階級にのみ限られているものではなく、しばしば最も富める家庭にも見られるところである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. c. x. p. 349.
 かかる習慣は、かくも多数の僧侶の独身生活と相俟って、最も有力に人口に対する予防的妨げとして作用しなければならぬことは明かである。しかし、この過度の妨げにもかかわらず、土壌の自然的不毛に関するタアナア氏の記述から見るに、人口は生前資料の水準にまで圧迫されていることがわかるであろう。そしてこれはテシュウ・ルウムブウにおける乞食の数によって確証されるように思われる。これらの乞食や彼らを養う慈善に関するタアナア氏の記述は、月並なものではあるが、しかも極めて正常かつ重要なものであり、従って何度反復しても過ぎることのないものである。
 彼は曰く、『かくて私は意外にも、私が絶えず平穏な規則的な世の動きを見て来たところに、私が考えてみたこともない貧窮と怠惰の大衆を発見した。しかし、無差別な慈善の存在する場合には常にその恩恵の対象物に事欠くことはなく、与うべき施物以上に多数の希望者を常に寄せ集めるものなることに考え至った時、私はこれに少しも驚かなかった。テシュウ・ルウムブウでは人間は誰も欠乏に悩むことは出来ない。おそらく世界中で最も大きな最も逞ましい体躯をもつムッスルマン族の大衆ですらが、哀れな生活を辛うじて維持するだけのものに頼っているのは、人間のこの性向に基づくものである。そしてこの外になお、私は三百人を下らない印度人、ゴザイン族、及びサンニアス族が、毎日この場所で、ラマの恩恵で養われる、と聞いたのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。』
 1) Id. c. ix. p. 330.
[#改ページ]

    第十二章 支那及び日本における人口に対する妨げについて

 支那の人口に関して最近与えられている記述は極めて驚くべきものがあり、ために多くの読者の信念を驚かし、そして彼らをして、言葉を知らぬためにある偶然の誤謬が計算の中に潜入したに違いないか、またはサア・ジョオジ・スタウントンに情報を与えた宦官が、お国自慢に誘われて(これはどこにもあることだが、しかし支那では特に甚だしい)、彼れの国の力と資源とを誇張するに至ったのに違いないと想像せしめるものがある。この二つはいずれも非常に有り得ないことでないことを認めなければならない。同時にまた、サア・ジョオジ・スタウントンが述べていることは、十分信ずるに足る他の記述と、本質的に違ってはおらず、そして少しでも矛盾を含んでいるどころか、この国を訪れたすべての著述者が一致している支那の肥沃度のことを振返ってみるならば、いかにも本当らしいことが、わかるであろう。
 デュアルドによれば、康□帝の治世の始めに行われた戸口調では、戸数は一一、〇五二、八七二戸、兵役可能の男子は五九、七八八、三六四であることがわかった。しかも皇族や宮廷の官吏や宦官や兵役済の兵士や進士や挙士や博士や僧侶や二十歳以下の青年や、また海上生活者や河で小舟に生活する多数の者は、この数字の中に含まれていないのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Duhalde's Hist. of China, 2 vols. folio, 1738, vol. i. p. 244.
 一国の兵役適齢男子数が全人口に対する比率は、一般に一対四と見積られている。そこで五九、七八八、三六四に四を乗ずると、結果は二三九、一五三、四五六となる。しかしこの問題に関する一般の計算では、青年は二十歳未満でも兵役に堪えるものと考えられている。従って吾々は、右の数字に四以上の数を乗じなければならぬはずである。この戸口調から除外されたものは、社会のほとんどすべての上層階級、及び極めて多数の下層階級を含むように思われる。これら一切の事情を考慮に入れるときには、デュアルドによれば、全人口はサア・ジョオジ・スタウントンが挙げている三三三、〇〇〇、〇〇〇よりも著しく少いものではないことが、わかるであろう1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Embassy to China, vol. ii. Appen. p. 615. 4to.
 兵役可能の男子の数に比較して戸数の少ないのは、デュアルドのこの記述の顕著な点であるが、これは、サア・ジョオジ・スタウントンが、支那においては一般的であると云っている習慣によって説明される。一個の住宅に属する囲いの中に、三代に亙る家族全部が、各々の妻子全部と共に一緒にいるのがしばしば見られる、と彼は云っている。一つの部屋が各家族の全員用に充てられ、各人は、わずかに天井から垂れた茣蓙(ござ)で区劃された別々の寝床に寝るのである。一つの共通の部屋が食事のために用いられる1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。支那では、その外になお莫大な数の奴隷がいるが2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]、彼らはもちろんその属する家族の一員と考えらるべきであろう。これら二つの事情は、おそらく、右の記述における一見矛盾と思われる点を、説明するに足るであろう。
 1) Id. Appen. p. 155.
 2) Duhalde's China, vol. i. p. 278.
 この人口を説明するためには、支那の気候は何らか特別に子供の出生に好都合であり、そして女子は世界の他のいずれの地方におけるよりも多産的であるという、モンテスキウの仮説1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]に頼る必要はないであろう。かかる結果を生ずるに主として寄与した原因は次の如くであると思われる。
 1) Esprit des Loix, liv. viii. c. xxi.
 第一に、自然的の土壌の優秀、及び温帯中最も温暖な地方に占めるその有利な位置、すなわち土地の生産物に最も好都合な地勢、がそれである。デュアルドは、支那中に見られる豊饒について長い一章を充てているが、その中で彼は、他の王国が提供し得るほとんど一切のものは支那で見出すことが出来、また支那は他のどこでも見られないものを無数に産出する、と云っている。この豊饒は――と彼は云う――土壌は深く、住民はあくまで勤勉であり、また国土を灌漑する多数の湖水や運河によるものと、され得よう1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Duhalde's China, vol. i. p. 314.
 第二に、この国の初まり以来農業に対し与えられている非常に大きな奨励があるが、これは人民の労働を最大多量の人類の生活資料の生産に向けて来ているものである。デュアルドは云う、これら人民をして、土地の耕作にかかる信じ得ざるほどの労苦を払わせるものは、単に彼らの私的利害のみではなく、またむしろ農業に対する彼らの尊敬、及びこの国の初まり以来皇帝自身が常にそれに対し払い来った崇敬の念である、と。最も名声ある皇帝は、農民の地位から帝位に即いた。他の一皇帝は、その時まで水で覆われていた数箇所の低地方から運河によって水を海に吐き出し、そしてこの運河を土壌を肥沃ならしめるために利用する方法を、発見した1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。彼はそのほかになお、土地を施肥し耕耘し灌漑することによって土地を耕作する方法について数冊の書物を書いた。その他多くの皇帝は農法に対する熱意を示し、またそれを促進するために法律を制定した。しかし農業を最も尊重したのは紀元前一七九年に統治した文王である。この王は、自己の国が戦争のために荒廃したのを見て、その宮殿に附属する土地を自ら耕作して手本を示し、その臣下に自己の土地を耕作させることにしたので、宮廷の大臣や大官はこれに倣わざるを得なかった2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. p. 274.
 2) Id. p. 275.
 これが起原となっていると思われている一大祭典が、毎年あらゆる支那の都市で、太陽が宝瓶の十五度に入る日に、厳かに行われるが、支那人はこの日をもって立春としている。皇帝は、自らの手本によって農民を鼓舞せんがために自ら臨御し、荘重に数歩の土地を耕作する。そしてあらゆる都市の宦官は同一の儀式を行う1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。皇族やその他の顕紳は皇帝に倣って鋤をとるのであるが、この儀式の前には春の犠牲が捧げられ、これは皇帝が祭主としてその人民のために豊富な収穫を得んがために上帝に捧げるのである。
 1) Id. p. 275.
 デュアルドの時代に統治した皇帝は、非常に荘厳にこの祭典を行い、また他の点で農民に対する異常な配慮を示した。彼らの労働を奨励するために、彼はすべての都市の総督に命じて、各自の管轄内で農業に従事する者で、農業に熱心で、立派な評判をもち、一家が和合し、隣人と相和し、節倹を旨とし、一切の浪費をしないという点で最もすぐれた者を、毎年皇帝に報告させることとした1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。宦官は各自の州において、勤勉な耕作者を表彰し、また士地を放置する者を譴責したのである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. p. 276.
 2) Lettres Edif. tom. xix. p. 132.
 政治の全部が家長的性質をもち、そして皇帝が人民の父及び教化の源泉として尊敬される国においては、農業に払われるこれらの尊敬は有力な効果をもっと考えて差支えない。階級の順位においては、農民は商人または工人の上に置かれている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。そして下層階級のものの野心の大目的は、一片の土地を所有するようになることである。支那では、製造業者の数は、農民の数に比較して極めて小である2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。そして極小の例外を除いて、この帝国の全表面は、人間の食物の生産のみに当てられている。牧草地は全くなく、また牧揚は極めて少ない。そして、いかなる種類の家畜にしろ、家畜を養うための燕麦(えんばく)や豆や蕪菁(かぶ)を作っている畑もない。道路にとられる土地はほとんどなく、道路は数が少なく、また狭く、主たる交通は水路によっている。共有地もなければ、また大地主の怠慢や気迷や遊猟のために荒蕪に委ねられている土地もない。耕作し得る土地で休耕地となっているものはない。土壌は、熱い恵みの太陽の下で、大抵二毛作が出来る。これは土壌[#「壌」は底本では「譲」]に改良を加え、また客土、施肥、灌漑、及びあらゆる周到適切な勤労によって土壌の欠陥を補う結果である。富者や権力者の奢侈に奉仕し、または何の実益もない仕事に従事するために、人間の労働が農業からそらされることはほとんどない。支那軍の兵士ですら、短期間の衛兵服務と訓練その他時折の任務の時の外は、大抵農業に従事する。生活資料の分量は、また、他国では通常用いないような動物や植物を食物に充てることによっても、増加されるのである3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Duhalde's China, vol. i. p. 272.
 2) Embassy to China, Staunton, vol. ii. p. 544.
 3) Id. p. 545.
 サア・ジョオジ・スタウントンが与えている以上の記述は、デュアルドや他のジェスイット僧によって確認されているが、彼らはいずれも、土地の施肥、耕耘、灌漑に当っての支那人の倦まざる勤勉と、人間の莫大な生活資料を生産する上での彼らの成功とを、叙説する点で、一致している1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。かかる農業制度が人口に及ぼす影響は明白でなければならない。
 1) Duhalde, chapter on Agriculture, vol. i. p. 272 ; chapter on Plenty, p. 314.
 最後に、結婚に対し与えられている著しい奨励があるが、これは、国の莫大な生産物を極めて少額に分割するという結果をもたらし、またその結果として、支那をして、世界中の他のいずれの国よりも、その生活資料に比例して人口稠密な国たらしめているのである。
 支那人は結婚に二つの目的を認めている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。第一は先祖の祭りを絶やさないということであり、第二は種の増殖である。デュアルドは、両親に対する子供の尊敬と服従とはその政治の大原則であるが、これは死後にまでも続くものであり、この義務はあたかも生ける人に対する如くに行われる、と云っている。かかる原理の結果として、父親は、その子供を全部結婚させてしまわないと、一種の不名誉を感じ心安からず思うのである。そして兄は、父から何も相続しなくとも、弟妹を養いこれを結婚させなければならぬのであるが、これは、もって家が廃絶し祖先がその子孫から当然受くべき尊敬と奉仕を受け得なくなるのを、避けんがためである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Lettres Edif. et Curieuses, tom. xxiii. p. 448.
 2) Duhalde's China, vol. i. p. 303.
 サア・ジョオジ・スタウントンは、何事であれ強力に推奨され一般に実行されるものは、遂には一種の宗教的義務として考えられるに至るものであり、従って支那では、将来の家族を養う見込みが少しでもありさえすれば、結婚はかかる宗教的義務として常に行われる、と述べている。しかしながら、この見込みは常に必ずしも実現されず、その場合には、子供はそのあわれな両親に遺棄される1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかし両親が子供をかくの如く遺棄することを許されるという事実ですらが、疑いもなく、結婚を容易にし人口増加を奨励する傾向をもつこととなるのである。すなわちこの最後の手段が前もって考慮に入っているから、結婚することはそれほど恐れられていないし、そして親たるの感情が働くので、常に、最もひどい必要に迫られた場合を除き、かかる手段は避けることとなるであろう。その上、子供達特に息子達はその両親を養う義務があるのであるから2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]、貧乏人にとっては結婚は慎慮に発する手段なのである。
 1) Embassy to China, vol. ii. p. 157.
 2) Id. p. 157.
 結婚に対するかかる奨励の結果として、富者の間では、財産が分割されることとなるが、これはそれ自身として人口を増殖させる有力な傾向を有っている。支那においては、人々の地位の不平等よりも財産の不平等の方が少い。代々の父親がその息子達に平等に財産を分って遺贈するので、土地所有の分割は極めて適度である。死んだ両親の全財産をただ一人の息子が相続するようなことは、ほとんど全くない。そして早婚が一般に行われているので、この財産が傍系相続により増加するということは余りない1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。これらの原因は絶えず富を均等化する傾向をもつ。従って、自分自身それを増加するために少しも努力しなくてもよいほどの富の蓄積を相続するものはほとんどない。支那人の間では、三代以上も同じ家で大きな財産が続くことは滅多にない、とよく云われている2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. p. 151.
 2) Id. p. 152.
 結婚の奨励が貧民に対し及ぼす結果は、労働の報酬を能う限り低くしておき、従って彼らを極度の赤貧状態に圧迫抑止するということ、これである。サア・ジョオジ・スタウントンは、労働の価格は一般に、食料品の価格に対し、どこにおいても、普通人が耐え得る最小限度であり、そして、食堂の兵士の如くに大家族をなして一緒に暮すことから利益を得、またかかる食堂が[#「が」は底本では「か」]経営に最大の節約を実行しているにもかかわらず、彼らは植物性食物をとるだけで、何らかの動物性食物は極めて稀れでありかつ少量である、と云っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. p. 156.
 デュアルドは、支那人の悲痛な勤勉と、彼らが生活資料獲得のために頼るところの、他国には知られぬ諸々の工風考案を記述した後、曰く、『しかし、支那住民の非常な真摯と勤勉とにもかかわらず、彼らの中の莫大の数の者がひどく窮乏に苦しんでいることを、告白しなければならぬ。彼らの中のある者は、貧しくてその子供に普通の必要品を与えることが出来ないので、これを街頭に遺棄する。』………『北京や広東の如き大都市においては、この恐るべき光景は日常のことである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。』
 1) Duhalde's China, vol. i. p. 277.
 ジェスイット僧プレマアルは同教団の一友に書簡を送って曰く、『私はあなたに、逆説的に見えるかもしれないが、絶対に真実な、一つの事実を告げよう。それは、世界中で最も富み最も繁栄せるこの帝国は、ある意味においては、あらゆる国々の中で最も貧しい最も惨めな国である、ということこれである。この国は、いかに面積が大で肥沃であるにしろ、その住民を養うに足りない。彼らを安楽にするには、四倍の領土が必要であろう。広東だけでも、誇張なしに、百万以上の人間が居り、また三、四リイグを距(へだ)てた一都市にはこれ以上の人間がいる。しからば誰がこの省の住民を数え得ようか。しかし、そのいずれもが同じくらいの人口を有つ十五大省を包含する全帝国に比すれば、これくらいが何であろうか。かかる計算はそもそも幾何に達するであろうか。しかもこの限りない人口の三分の一は、適当に生きて行けるだけの米をほとんど見出し得ないであろう。
『極度の窮乏が人民を駆って最も恐るべき蛮行に走らせることは周知の事実である。支那にあって事物を綿密に検討する観察者にとっては、母親がその子供を殺したり遺棄したりし、両親がわずかの金でその娘を売り、また人々は利己的で、盗賊の数は多いという事実を見ても、驚きはしないであろう。驚くことはむしろ、これ以上更に恐るべきことが起らず、そして、この国では非常に頻々と起る飢饉の時に、数百万の人間が、吾々がヨオロッパ史上で実例を見るような恐るべき蛮行に訴えることなく、餓死して行く、という事実である。
『ヨオロッパにおける如くに、貧民は怠惰なのであって、働きさえすれば生活資料が得られるのだ、とは支那では云い得ない。これらの貧民の労働と努力とは想像に絶する。支那人は、時には膝まで水に入って、土を掘り、そして晩には小匙一杯の米を食い、またそれを煮た不味い水を飲んで、喜んでいる。これが一般に彼らが食う全部である1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。』
 1) Lettres Edif. et Curieuses, tom. xvi. p. 394 et seq.
 この記述の大部分はデュアルドの中で繰返されている。そして若干の誇張があるにしても、これは、支那において人口がいかなる程度に無理強いに増加させられているかということと、及びその結果たる困窮の状況とを、はっきりと示している。土壌が肥沃であり農業が奨励されているために当然に生じた人口は、真正にして望ましいものと考え得ようが、しかし結婚の奨励によって附加された全人口は、啻にそれ自身においてそれだけの純然たる窮乏の附加であるばかりでなく、更に他の人が享受し得べかりし幸福を全く奪ったものである。
 支那の面積はフランスの面積の約八倍と見積られている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。フランスの人口がわずかに二千六百万としても、その八倍は二〇八、〇〇〇、〇〇〇となろう。そして上述の人口増加の三大原因を考慮すれば、支那とフランスとの人口密度比例が、三三三対二〇八、すなわち約三対二であるといっても、信じられぬこととは思われないであろう。
 1) Embassy to China, Staunton, vol. ii. p. 546.
 人口増加の自然的傾向はどこにおいても極めて大であるから、あるいずれかの国の人口が到達している高度を説明することは一般に容易であろう。それよりももっと困難な、もっと興味ある研究点は、人口のそれ以上の増加を停止せしめている直接的原因を辿ることである。増殖力は、支那の人口を、アメリカ諸州の人口と同様に容易に、二十五年にして倍加するであろうが、しかし、土壌はかかる追加人口を明かに養い得ないから、かかることのあり得ないことがわかるのである。しからばこの強力な増殖力は支那ではどうなっているのであろうか。そして人口を生活資料の水準に抑止しておく抑制の種類や、幼死の形態は、いかなるものであろうか。
 支那における異常な結婚に対する奨励にもかかわらず、吾々は、人口に対する予防的妨げが働いていないと想像するならば、おそらく誤謬に陥るであろう。デュアルドは、僧侶の数は遥かに百万を超え、そのうち北京には独身者が二千おり、そのほか勅許によって各地に建立された寺院に三十五万おり、また文人の独身者だけで約九万いる、と云っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Duhalde's China, vol. i. p. 244.
 貧民は家族を養い得る見込みが少しでもあればおそらく常に結婚するであろうし、また殺児が許されているからこの点の大きな危険を喜んで冒すであろうが、しかし彼らは疑いもなく、その子供を全部遺棄し、または自分自身や家族を奴隷に売らざるを得ないことが確実であれば、結婚を躊躇するであろう。そして下層階級の人口の極貧により、右の確実性はしばしば実現するであろう。しかしデュアルドによれば、人口に対する予防的妨げが主として作用するのは、支那において窮乏の結果その数が莫大に上るところの奴隷自身の間のことである。人は時に、非常に安い価格で、その子供を、また自分自身や妻をさえも売る。普通の方法は、買戻条件付での身売りであり、かくて多数の下僕下婢が一家族に結合されることとなる。ヒュウムは、古代人の間における奴隷制の慣行を論ずるに当って、一般に、奴隷を子供から育てるよりも成人の奴隷を買った方が安いと云っているが、これはその通りである。この言葉は支那人に特に当てはまるように思われる。すべての著述家は、支那に不作が頻々と起ることを、一致して述べているが、かかる時期には、おそらく多数の奴隷がほんの生きるだけの代償で売られることであろう。従って一家の家長にとっては、その奴隷に出産を奨励するのは大抵不得策であろう。従って吾々は、支那ではヨオロッパと同様に、召使の大部分は独身である、と想像し得よう。
 1) Id. p. 278.『この帝国の窮乏と大人口とは、そこにこの莫大な奴隷を生ぜしめる。一家のほとんどすべての下男、及び概してすべての下女は、奴隷である。』Lettres Edif. tom. xix. p.145.
 罪悪的な性交から生ずる人口に対する妨げは、支那では非常に多くはないように思れれる。女子はおとなしくひかえ目で、姦通は滅多にないと云われている。しかしながら蓄妾は一般に行われており、大都市では公娼が登録されている。しかしその数は多くなく、サア・ジョオジ・スタウントンによれば、未婚者や家族から離れている夫の少数者に釣合っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Embassy to China, vol. ii. p. 157.
 疾病による人口に対する積極的妨げは、かなり著しいけれども、予想されるほどは大ではないように思われる。気候は一般に非常に健康的である。宣教師の一人は、疫病(ペスト)や伝染病は、一世紀に一度も起らぬとまで云っているが1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、しかし、他の人々はそれは決してそれほど稀ではないように云っているから、これは疑いもなく誤りである。一般に一定の墳墓をもたない貧民の埋葬に関する宦官へのある訓令には、伝染病が流行する時には、遠距離まで空気が感染されるほど道路が屍体で蔽われる、と述べられている2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。そして伝染病の年に関する説明が3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]、そのすぐ後に出ているが、これはいわばそれが稀でないことを意味するように思われる。毎月一日と十五日とに宦官は集合し、その人民に長い講話をするが、その際各知事は家族の者に訓示する家父の役割をする4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]。デュアルドが示しているかかる講話の一つには次の如き章句がある、『伝染病が穀物の不作と相俟って到る処を荒廃させる年が時々発生するが、かかる年に気をつけなければならぬ。かかる際における君らの義務は、君らの同胞に憐愍の情をもち、そして手離し得るものは何でも手離して彼らを援助するにある5)[#「5)」は縦中横、行右小書き]。』
 1) Lettres Edif. tom. xxii. p. 187.
 2) Id. tom. xix. p. 126.
 3) Id. p. 127.
 4) Duhalde's China, vol. i. p. 254.
 5) Id. p. 256.
 通常そうであるように、おそらく伝染病は子供の上に最も激しく落ちかかるであろう。ジェスイット僧の一人は、親が貧しいために生れると同時に殺される嬰児の数を論じて、曰く、『北京の諸々の教会堂で、この種の子供で洗礼をうけるものの数が、五、六千を算せぬ年は、滅多にない。この数は、吾々の維持し得る牧師の数によって多くもなれば少くもなる。もし吾々が十分の数を有っていれば、彼らの仕事は、遺棄されて死に瀕している嬰児の世話にのみ限られる必要はない。彼らにとってその熱意を発揮すべき機会は他にもあろうし、なかんずく天然痘や伝染病が信じられぬほどの数の子供を奪い去る時期において然りである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。』実際、下層階級の人々の極端な窮乏によって、その両親があらゆる困難をおかして育てようと企てる子供の大部分を殺してしまう傾向のある疾病が生み出されぬと想像することは、ほとんど不可能である。
 1) Lettres Edif. tom. xix. p. 100.
 実際に遺棄される子供の数に関しては、ほんの推測をしてみることすら困難である。しかしもし支那人の著述者自身を信頼するならば、この慣行はごく一般的であるに違いない。政府は、たびたびこれを止めようと企てたが、しかし常に失敗に終った。人道と叡智とをもって聞えたある宦官の著わした前記の教訓書では、自己の管区に捨児養育院を設置することが提議されており、また今日では廃止されている同種の昔の施設1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]のことが述べてある。この書物には、頻々たる小児遺棄と、それを促す恐るべき貧困とが詳しく述べてある。彼は曰く、『吾々は、彼ら自身の子供に必要な養分を与え得ないほど貧しい人民を見る。かくも多数を彼らが遺棄するのはこの故なのである。帝都や省の首府や最も商業殷賑な箇所においてその数は最も著しいが、しかしそれほど人の繁くない地方や田舎においてすら、多くの遺棄が見られる。都市では家屋が密集しているので、この慣行はいっそう目につくが、しかし到るところでかかる憐れな不幸な子供は救助を必要としているのである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。』
 1) Ibid. p. 110.
 2) Id. p. 111.
 同書には、小児の溺殺を禁止する勅令の一部が次の如く載っている、『生れたばかりのいたいけな嬰児が無慈悲にも波に投ぜられる時、生の享受がはじまるや否や直ちにそれが失われる時、母は生を与え、子は生を受けたと云い得ようか。両親の貧困がこの罪の原因である。彼らは自らを養うに足るものすらほとんど持たず、いわんや子守に支払いかつ子供の養育に必要な費用をととのえることはいっそう出来ない。かくて彼らは絶望に陥る。一人を生かさんがために二人が苦しむに耐えずして、夫の生命を保たんがために、母はその子供を犠牲とするに同意する。しかしながら親たるの感情にとり極めてつらいものであるが、しかし終には意を決し、そして彼ら自身の生命を延ばすためにその子供の生命を断つのは止むを得ないと考えるのである。もし彼らがその子供を秘密の場所に遺棄するならば、嬰児の泣声は彼らの憐愍の情をかき立てるであろう。そこで彼らはどうするか。彼らはこれを川の流れに投じ、もって直ちにその姿が見えなくなり、またそれが即座に一切の生命の機会を失うようにするのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。』
 1) Id. p. 124.
 かかる記述は、殺児の一般的流行に関する最も信憑すべき文献であるように思われる。
 サア・ジョウジ・スタウントンは、彼が集め得た最良の情報からして、北京において年々遺棄される子供の数は約二千であると云っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかしこの数は年によって甚だしく変動し、そして季節の豊凶に依存すること極めて大であるに違いなかろう。ある大きな伝染病や破壊的な飢饉の後には、その数はおそらく極めて小であろう。稠密な人口に戻れば、それが徐々として増加すべきことは当然である。そして平均生産物が既に過剰人口を養うに足りないという時期に不作が生じた時にそれは疑いもなく最大である。
 1) Embassy to China, vol. ii. p. 159.
 かかる不作は稀ではないようであり、そしてそれに伴う飢饉が、おそらく、支那人口に対する一切の積極的妨げの中で最も有力なものである。もっともある時代においては、戦争及び内乱による積極的妨げは小さなものではなかった1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。支那王国の年代記には、飢饉のことがしばしば述べてある2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。そしてもしこれが著しく荒廃的で破壊的でなかったのならば、これはこの帝国の最も重大な事件や革命などと一緒に記されるはずはないのである。
 1) Annals of the Chinese Monarchs. Duhalde's China, vol. i. p. 136.
 2) Id.
 ジェスイット僧の一人は、宦官が人民に対する最大の憐愍を装う場合は、旱魃か、多雨か、または、時に数省を席捲する蝗の大群の如きある他の事件のために、彼らが不作を懸念する場合である、と云っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。ここに列挙した原因はおそらく、支那において主として不作を惹き起す原因であろう。そしてこれらのものが述べられている有様から見ると、それは稀なことではないように思われる。
 1) Lettres Edif. tom. xix. p. 154.
 ミイアズは、収穫が全部駄目になり、これに次いで飢饉を起した、猛烈な旋風のことを語っている。同一の原因と――と彼は云う――並びに甚だしい飢饉とにより、支那の南部諸州全部に一七八七年に最も恐るべき飢饉が蔓延し、それによって信じられぬほどの人が死滅した。広東では、飢えに瀕した貧民が最後の息を引取っているのを見るのは珍らしくなかったが、他方母親はその嬰児を殺すのを義務と考え、著者は手間どる死の苦悶から救うために老人に運命の一撃を与えるのを義務と考えていたのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Meares's Voyage, ch. vii. p. 92.
 ジェスイット僧パレンニムは王立学会の一員に書翰を送って曰く、『貴君がほとんど信ずることの出来ないもう一つのことは、飢饉が支那では極めて頻々と起るということである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。』そしてこの書翰の終りで彼は、もし飢饉が時々支那の巨大な人口を滅じないならば、支那は平和に暮せないであろう、と云っている2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。彼はかかる頻々たる飢饉の原因を調査しようと努め、そしてまず飢饉に際して支那は隣国から援助を受けることは出来ず、従って必然的に自己の諸省からその資源の全部を引出さなければならぬ、と云っているが3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]、これはその通りである。彼は次に、遅延や不正があるので、公共の穀倉を開いて最も惨害のひどい地方を救おうとする皇帝の意思が、しばしば達せられない、と述べている。過度の飢饉か不意の洪水かのためにある省に不作が起る時には、偉い宦官は公共の穀倉に助けを求めるが、しかしそれはしばしば、これを管理する下級宦官の不正のために全く空になっている。そこで尋問や調査が行われるが、一般にかかる好ましくない情報を宮廷に知らせたがらない。しかし終には記録が提出される。かかる記録は多くの人の手を経るので、当分の間は皇帝の手許に達しない。そこで国家の大官は集合して人民の窮乏を救うべき方法を審議すべきことを命ぜられる。かくする中に、人民に対する憐愍の情が一杯に表示された布告が全国に発表される。ついに会議の決議が公布される。しかし他の無数の儀式が徒らにその実行をおくらしてしまう。ところが苦しんでいるものは救済が届かぬうちに餓死してしまう。この最後を待たぬものは全力を出して他の地方に匐(は)って行き、そこで食物を得ようとするが、しかしその大部分は途上に斃れてしまうのである4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Lettres Edif. et Curieuses, tom. xxii. p. 174.
 2) Id. p. 186.
 3) Id. p. 175.
 4) Id. p. 180.
 飢饉が起った時、宮廷が人民を救う何かの努力をしないと、たちまち掠奪者の小群が集まり、次第にその数を増して、その省の平安を害するに至る。だから多くの命令が常に発せられ、そして飢饉が終るまで人民を慰藉する運動が引き続いて行われる。そして入民を救う動機は純真な憐愍の情よりはむしろ国家の必要にあるのであるから、人民は、その必要が要求する時期と仕方で救われることは、少なかろう1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. p. 187.
 この研究の中で挙げてある最後の飢饉の原因で、著者が大いに重大視しているものは、酒を造るために穀物が非常に多く消費されるという事実である1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかし彼がこれを飢饉の原因として述べているのは、明かに非常に大きな誤りである。しかもグロジエ僧正の支那に関する一般的記述の中でも同じ誤りが再び現れており、そして上記の原因がこの飢饉という害悪の大源泉の一つと考えられている2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。しかし実際は、この原因の一切の傾向は、これと正反対である。穀物を必要な食物として用いる以外の何らかの用途に消費することは、人口が生活資料の極限に達するに先だってこれを妨げることとなる。そして飢饉の際には穀物はこの特殊の用途から引去られ得るのであるから、かくして開かれる公共の穀倉は、他のいかなる方法によって作られるよりもより豊富なものとなる。かかる消費がひとたび確立され、永久的になる時には、その結果は、あたかも土地の一部分がその上に住む人間全部と共に、この国から取り除かれたと、全く同一である。残余の人々は、平年作の年には、以前と全く同一の状態にあり、より良くもより悪くもならないであろうが、しかし飢饉の時には、この土地の生産物は、彼らがそれを食うのを助力する人の消費は少しもなしに、彼らに返されるのである。支那は、醸造所がなければ、確かに現在より人口が多いであろう。しかし不作に際しては、資源は現在よりも更に少いことであろう。そして同じ大きさの原因が作用する限り、右の結果として、より多く飢饉の厄を蒙り、かつその飢饉はより苛酷なものとなるであろう。
 1) Id. p. 184.
 2) Vol i. b. iv. c. iii. p. 396. 8vo. Eng. tran.
 日本の状態は多くの点において支那の状態に似ているから、従ってこれを詳論することは過度の反覆になってしまうであろう。モンテスキウは、この国の人口稠密なことを、女の出生がより大であることに帰している1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかしこの人口稠密の主たる原因は、疑いもなく、支那の場合と同様に、住民の倦むことなき勤勉が今日まで常に主として農業に向けられて来たことにある。
 1) Liv. xxiii. c. xii. 時に人口問題を理解しているように思われるモンテスキウが、また時にはこのようなことを云うのは、驚くべきことである。
 トゥンベルクの日本に関する記述の序言を読むと、その住民がかくも幸福に豊かに暮していると称せられる国の人口に対する妨げを辿るのは、極度に困難に思われるであろう。しかし彼自身の著書の後の方を読んでみると、序言から得られる印象と矛盾して来る。またケンプフェルの貴重な日本史においては、これらの妨げは十分に明瞭である。彼が載せている、日本で著わされた二つの年代史の抜萃には1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、この記録の始まって以来起った種々なる死亡や疫病や飢饉や流血戦争やその他の破壊原因に関して、極めて興味ある記述が与えられている。日本人が支那人と違うところは、それが遥かにより好戦的、擾乱的、放縦、かつ野心的なことにある。そしてケンプフェルの記述からすれば、支那における殺児による人口に対する妨げと対応するものは、日本では性に関する行状がより放縦であり、戦争や内乱がより多数である事実であることがわかるであろう。疾病及び飢饉による人口に対する積極的妨げに関しては、両国はほとんど同等の水準にあるように思われる。
 1) Book ii.
[#改丁]

    第十三章 ギリシア人における人口に対する妨げについて

 その歴史の初期におけるギリシア人及びロウマ人の間におけるより平等な財産の分割、及び彼らの勤労が主として農業に向けられていた事実が、大いに人口を奨励する傾向があったに違いないことは、一般に認められているところであり、また実際疑問の余地がないであろう。農業は、啻にヒュウムの云う如くに1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、大衆の生存にとり主として必要な種類の産業であるのみならず、また事実上それは、大衆がそれにより生存し得るただ一つの種類の産業であって、かくも多数者が養われているかに見える近代世界の多数の技術や製造業の一切は、それが農業生産物の分量を増加し、その分配を便宜ならしめる傾向があるという範囲以外においては、人口を増加せしめる何らの傾向をも有たないのである。
 1) Essay xi. p. 467. 4to. edit.
 特殊な原因の作用によって、土地所有が非常に大きく分割されている国においては、これらの技術や製造業は、何らかの大きな人口の存在にとり絶対に必要である。これがなかったならば、近代ヨオロッパには人が住んでいなかったことであろう。しかし土地所有が小さく分割されている国においては、これらに対する同じ必要は存在しない。分割そのものが直ちに一大目的を、すなわち分配の目的を、達する。そして、もし戦闘を行い国家の勢力と威厳を保持するための人間に対する需要が恒常であるとすれば、吾々は容易に、この動機は、家族に対する自然的執着と相俟って、各土地所有者を誘って、最大多数の子孫を養い得るようにその土地を極度まで耕作せしめるに足る力をもつものと、考え得よう。
 ギリシア及びロウマの歴史の初期に、人民が小さな国家に分たれていたことは、この動機により以上の力を与えるものであった。自由市民の数がおそらく一、二万を越えなかった処では、各個人は当然に自分自身の努力の価値を感得したであろう。そして、彼れの属する国家が、嫉妬深い油断なき競争の真ただ中に位置を占めているので、その防衛と安全とのためには主として人口に依存しなければならぬという事実を知り、従って彼に割当てられた土地を放置しておくのは市民たるの義務に欠けるものと感じたことであろう。これらの原因は、人間の人為的欲求が農業奨励の干渉を行うを俟たずして、農業に対する多大の注意を生み出したように思われる。人口は土地の生産物にこれよりも早い速度で随伴した。そして過剰の人口が戦争や疾病で除去されなかった時には、それは頻々たる植民に吐け口を見出したのであった。かかる頻々たる植民の必要は、国家の小なることと相俟って、あらゆる心あるものにこの問題につき思い当らせたのであるが、これはまた当時の立法者や哲学者に、生活資料以上に増加せんとする強力な人口の傾向を、指示せずにはおかなかったのである。そして彼らは、現代の政治家や先覚者と同様に、社会の幸福と安寧とにかくも深遠な影響を与える問題の考察を看過しなかった。この困難を除去するために彼らの採った野蛮な便法を吾々がいかに正常に呪詛し得るとしても、吾々は、彼らがこれに気がつき、またこれを考察して除去しなければ、それだけで彼らの最良の計画に成る共和主義的平等と幸福の計画を破壊するに足るものであることに十分気がついたことに対し、その洞察力にある程度の名誉を認めざるを得ないのである。
 植民する力は必然的に制限されている。そして、ある期間が過ぎると、この目的に特に適した国にとっては、故国を去った市民が定着するに適した空地を見出すことは、不可能ではないとしても、極度に困難となるであろう。従って植民の外に他の方法を考えることが必要であったのである。
 殺児の慣行はおそらく、ギリシアにおいて最も早い時代から行われていたものであろう。それが存在することが見られたアメリカの諸地方においては、それは、頻々たる飢饉と不断の戦争に曝されている蒙昧放浪的な生活において多くの子供を育てることの極度に困難なるに発したものであることがわかる。吾々は容易に、ギリシア人の祖先、すなわち同国の原住民の間においても、それは同じ起原から起ったものと、考え得よう。そしてソロンが小児遺棄を許した時には、おそらく彼は単に、既に行われていた慣習に法律上の認可を与えただけのことなのであろう。
 彼は疑いもなくどの許可に二つの目的を有っていたのである。第一に、これは最も明白なことであるが、普遍的の貧困及び不満を惹き起す如き過剰の人口を防止すること。第二に、過大な家族の恐怖従ってまた結婚に対する主たる障害を除去して、もって領土が養い得る水準までに人口を維持すること、これである。この慣行の支那における結果から見ると、これは前者よりも後者の目的により多く役立つものと考えるべき理由がある。しかし、立法者がこのことを理解しないか、または当時の野蛮な風習が両親を誘って貧乏よりも殺児を選ばせたとしても、この慣行は右の両目的に極めてよく役立ち、そして、事態が許す限り完全にかつ不断に、食物とこれを消費する人口との間の必要な比例を維持するに役立つように、思われるのである。
 ギリシアの政治学者は、この比例と、人口の不足または過剰から必然的に生ずべき、一方においては劣弱、他の一方においては貧困、という害悪に注目することが、極めて重大事なることを力説し、その結果として、望ましき相対的比例を維持する各種の方法を提議している。
 プラトンは、法律に関するその著の中で考察している共和国において、自由市民と住居との数を、五千と四十に限定している。そして彼は、もし各家族の父がその息子の一人を自己の所有する地所の相続人に選び、また法律に従ってその娘を結婚させ、その他に息子があれば、子供のない市民に養子にやれば、この数は維持し得ると考えた。しかし子供の数が全体として多過ぎるか少な過ぎる場合には、治安官は特にこの点を考慮に入れ、五千人、四十戸という同一数が依然維持されるように考案すべきである。この目的を達するには多くの方法がある、と彼は考えた。増殖が急速に過ぎ、または緩慢に過ぎる時には、名誉不名誉の表章を適当に分ち、また年長者に事情に応じて増殖を防止しまたは促進するように勧告して、これを妨げたり奨励したりすることが出来よう1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Plato de Legibus, lib. v.
 その『哲学的国家論1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]』において、彼はもっと詳しくこの問題を論じ、そして提議して曰く、男子の中で最も優秀な者が女子の中で最も優秀な者と結婚し、劣等な市民は劣等な女子と結婚し、そして前者の子供は育てるけれども後者の子供は育てないこととする。法定のある祭日に、婚約した青年男女は集合し、厳粛な儀式の下に結合する。しかし結婚の数は治安官によって決定されるべきである。すなわち戦争、疾病、その他の原因による人口の減少を考慮に入れ、彼らは、国家の資源及び需要に従って、多過ぎもせず少な過ぎもしないような市民の比例に出来るだけ近い数を、維持するであろう。かくの如くして最も優秀な市民から生れた子供は、市内の特別の場所に住みこの任務に充てられているある保姆の処へ連れて行かるべきである。しかし劣等な市民や、手足の不完全な者から生れた子供は、どこかわからない場所に埋めらるべきである。
 1) Plato de Republic□, lib. v.
 次に彼は進んで、結婚適齢を考察し、そしてこれを決定して女子は二十歳、男子は三十歳であるとしている。女子は、二十歳から始めて四十歳になるまで、国家のために子供を産むべきであり、男子はこの点に関するその義務を、三十歳より五十歳に至るまで、果たすべきである。もし男子がこの期間の以前か以後かに子供を世に造るならば、その行為は、あたかも結婚式も挙げずに、もっぱらふしだらにそそのかされて、子供を産んだ場合と同一の犯罪的並びに涜神的行為として考察さるべきである。もし子供を産んでもよい年齢にある男子が、これも適齢の女子と結ばれたが、ただし保安官による結婚式を挙げないという場合には、これと同一の規則が適用される。すなわち彼は、国家に対し、私生の、涜神的な、血族相姦の子供を与えたものと考えらるべきである。[#「。」は底本では欠落]両性が国家に子供を提供すべき適齢を過ぎた時にも、プラトンは性交の大きな自由を認めているが、しかし子供を産んではならないとした。万一子供が生きて生れるような場合には、これは両親がそれを養い得ない場合と同様な方法で遺棄さるべきである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Plato de Repub. lib. v.
 これらの章句から見ると、プラトンが生活資料以上に増加せんとする人口の傾向を、十分に知っていたことは、明かである。それを妨げるための彼れの方法は、実際非難すべきものである。しかしこの方法それ自体とそれが用いらるべき範囲とは、彼がこの困難の重大性をいかによく知っていたかを、証示するものである。彼は確かに、小さな共和国においてこれを考えたに違いないが、戦争によって比較的多数の人が減少することを考慮しつつ、しかもなお彼が、すべての劣等な、より不完全な市民の子供を殺し、かつ指定年齢、指定形式によらずに生れたすべての子供を殺し、結婚年齢をおそくさせ、結局これらの結婚の数を調制しようと、提議し得たとすれば、彼れの経験と理性とは強力に、人口増加の原理の偉大な力とこれを妨げる必要とを、彼に指示したに違いないのである。
 アリストテレエスは、この必要を、更にいっそう明かに認めたように思われる。彼は結婚適齢を定めて、男子は三十七歳、女子は十八歳としているが、これは云うまでもなく、多数の女子をして独身生活を余儀なくさせるに違いない。けだし三十七歳の男子は決して十八歳の女子ほど多くはあり得ないからである。しかも、彼は男子の婚期をかくもおそく定めたけれども、彼はそれでも子供の数が多くなり過ぎるかもしれぬと考え、各結婚に許される子供の数を調制すべきことを提議し、もし女子が指定数を産んだ後に姙娠するならば胎児が生れないうちに堕胎を行うべきことを提議している。
 国家のために子供を産む期間は、男子にあっては五十四または五十五歳をもって終るべきであるが、けだし老齢者の子供は若過ぎる者の子供と同様に、身心共に不完全であるからである。両性が指定の年齢を過ぎた時にも、彼らは関係を続けることは許される。しかしプラトンの共和国におけると同様に、その結果たる子供は産んではならぬのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Aristotelis Opera de Repub. lib. vii. c. xvi.
 アリストテレエスは、プラトンが法律に関するその著において提議した共和国の長所を論じつつ、プラトンは人口問題に決して十分な注意を払っていないと云い、また、子供の数を制限することなくして財産を平等ならしめることの矛盾を、非難している。この問題に関する法律は、財産が平等化されている国家においては、他の国家におけるよりもはるかに明確かつ正確なることを要する、とアリストテレエスは云っているが、これは非常に正しい。通常の政府の下においては、人口の増加は単に土地所有をいっそう細分せしめるだけであろう。しかるにかかる共和国においては、土地が平等な、いわば基本的な部分にまで圧縮されているので、それ以上細分することが出来ないから、過剰なものは全く衣食に事欠くであろう1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) De Repub. lib. ii. c. vi. Gillies's Aristot. vol. ii. b. ii. p. 87. 原文参照の煩を好まぬ人々の便宜のために、私は同時にギリイズの飜訳を引用するが、しかし彼れの目的は自由訳であるため、ある章句は全然省略されており、またある章句に彼は文字通りの意味を与えていないところがある。
 次いで彼は、あらゆる場合において子供の比例を調制し、もってそれが適当な数を超過しないようにすることが、必要であると云う。このことをなすに当って、死亡と不姙とはもちろん考慮に入れられなければならない。しかし、一般の国家における如くに、各人が欲しいだけの子供を自由に持ち得るならば、その必然的結果は貧困でなければならず、そしてこの貧困は悪事と暴動の母である。この理由によって、最も古い政治学者の一人、コリントのフェイドンはプラトンのそれとは正反対の規定を採用し、そして財産を平等化せずして人口を制限したのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) De Repub. lib. ii. c. vii. Gillies's Aristot. vol. ii. b. ii. p. 87.
 最も健全な制度として市民の間に富を平等にすることを提議したカルケドンのファレアスについてその後の方で論ずる際に、彼は再びプラトンの財産に関する規定に言及し、かくの如くに財産の範囲を規定せんとする者は、同時に子供の数をも規定することが絶対に必要であることを無視してはならぬ、と云っている。けだし、もし子供が彼らを養う資料以上に増殖するならば、この法律は必然的に蹂躪され、諸家族は突如として富裕から乞食の状態に追い込まれるであろう――これは公共の安寧にとり常に危険なる革命である、と1)[#「1)」は縦中横、行右小書き、「1」が底本では「2」]。
 1) De Repub. lib. ii. c. vii. Gillies's Aristot. vol. ii. b. ii. p. 91.
 これらの章句から見ると、アリストテレエスは明かに、人類の強大な増加傾向が、厳重なかつ積極的な法律によって妨げられない限り、財産の平等に基礎を置くあらゆる制度にとり、絶対に致命的であることを認めたことがわかる。そしてこの種のあらゆる制度に対する最も有力な反対論は、確かに、アリストテレエス自身が提議せる如き法律が必要だという事実である。
 彼がその後スパルタに関して述べている所から見ると、彼が人口原理を十分に理解していたことが、更にいっそう明かにわかる。相続法が不用意であるために、スパルタにおける土地所有は少数者の独占となってしまっており、その結果としてこの国の人口は大いに減少せしめられた。この害悪を救治し、不断の戦争に人間を供給するために、リコルゴス以前の諸王は、外国人を帰化させるのが常であった。しかしながら、アリストテレエスによれば、財産をもっと平等にすることによって市民の数を増加した方がはるかによかったことであろう。しかし、子供に関する法律は、この改善と正反対のものであった。立法者は、多くの市民を得ようと望んで、子供の増殖を出来るだけ奨励した。三人の息子をもつ男子は夜警の任務を免除され、そして四人の息子をもつ男は、一切の公共の負担から全く免除された。しかし、アリストテレエスが極めて正当に述べているように、多数の子供の出生は、土地の分割が依然として同一なのであるから、必然的に単に貧困の蓄積をもたらすのみであることは、明かである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) De Repub. lib. ii. c. ix. Gillies's Aristot. vol. ii. b. ii. p. 107.
 彼はこの点で、リコルゴスその他多くの立法者が陥っている誤謬をはっきりと認め、そして、これを養うために適当なものを与えることなくして、子供の出生を奨励したところで、多大の貧困を招くという犠牲を払いながら、それによって得る人口は極めて小であるということを、十分理解しているように、思われる。

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:333 KB

担当:undef