人口論
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著者名:マルサストマス・ロバート 

    第一章 問題の要旨――人口及び食物の増加率

 社会の改善に関する研究において、当然現れ来たるこの問題の研究方法は次の如くである、――
 一、幸福に向っての人類の進歩を在来阻害し来った諸原因を探究すること、及び、
 二、将来におけるかかる原因の全的または部分的除去の蓋然性を検討すること。
 この問題に十分に立入り、そして人類の改善に在来影響を及ぼした一切の原因を列挙することは、一個人の力では到底出来ないことである。本著の主たる目的は、人類の性質そのものと密接に結びついている一大原因の及ぼす影響を検討するにあるが、これは、社会始って以来不断にかつ有力に働いて来ているにもかかわらず、本問題を取扱った諸論者によってはほとんど注意を払われていないものである。この原因の存在することを証明する事実はなるほどしばしば述べられ認められているが、その自然的必然的結果はほとんど全く看過されている。しかしおそらくかかる結果の中には、あらゆる時代の有智の慈善家が絶えずその是正を目的としたところの、かの罪悪と窮乏、及び自然の恵みの不平等な分配の、非常に多くの部分を、数えることが出来よう。
 私の云う原因というのは、それに対して備えられた養分以上に増加せんとする一切の生物の不断の傾向のことである(訳註)。
〔訳註〕マルサスの意識においては、第一版の直接目標はゴドウィン、コンドルセエ流の思想の克服であり、その基礎理論として人口理論が用いられたのであるが、第二版以下ではこの基礎理論の説述そのものが主題となっている。このことは第一版と第二版以下各版との冒頭の文を比較すると最もよくわかる。第一版の冒頭は次の如くである。
『近年自然科学上に行われた予想外の大発見、印刷術の拡大による一般知識の普及、教養ある社会や教養のない社会にすら拡がっている熱心不羈の研究心、政治問題に投ぜられた人を眩惑驚倒せしめる著大の新光明、特に火焔の彗星の如くに新生命新気力をもって鼓舞するかまたは地上の畏縮せる住民を焦烙破滅せしめずんばおかぬ政治線上の恐るべき現象たるフランス革命は、すべて相共に多数の有能の士をして、吾々は、最も重大なる変化、ある程度に人類の将来の運命を決すべき変化の、大時代に、触れているのであるとの意見を、懐(いだ)かしめるに至っている。
『云う所によれば今や大問題が発せられているのである、曰く、人間は今後加速度的に、在来考え及ばなかった無限の改善に向って出発し進み行くであろうか、または幸福と窮乏との間の永久的擺動(はいどう)に運命づけられ、あらゆる努力を払ってなお所期の目標から測り知れぬ遠きになお止るであろうか、と。
『しかし人類を愛する物が誰もこの面倒な不安の解決をいかに熱心に期待しなければならなくとも、また研究心に富む者がその将来如何を教うべき光明をどんなものであろうといかに切に歓迎しようとも、この重大なる問題を論ずる両方面の論者がなお互いに隔絶していて手を握らないのは、惜しみても余りあるところである。彼等の相互の議論は公平な検討を受けていない。問題はより少数の点に集中還元されておらず、理論上ですら決定に近づいているとは思われない。
『現存事態を擁護する者は、一派の思弁的哲学者を遇するに狡猾な陰謀家をもってし、彼等は慈善を褒めそやして魅惑的なもっと幸福な社会状態を劃(えが)き上げ現存制度を破壊し自分達の野心の深謀を進めさえすればよいとしているか、または乱暴な気違いの狂熱家であってその馬鹿々々しい思索や飛んでもない背理は理性ある何人もそれに注意を払う必要のないものである、と考えがちである。
『人間と社会との可完全化性を擁護する者は、現存制度の防衛者をこれ以上の軽蔑をもって応酬している。すなわちこれに烙印するに最も惨めな狭隘な偏見の奴隷をもってし、またただ自分がそれにより利益を得るので市民社会の弊害を防衛するものなりとしている。更にまたこれを劃くに利益のために悟性を売買するの徒なりとし、またその精神力は偉大にして高尚なるものはいずれもこれを把握する力なく、身の前五碼(ヤード)以上を見る明なく、従って叡智に富む人類の恩人の見解を取容れることは全然出来ないものとしている。
『かくてこの敵対の中にあって真理の大道は苦難せざるを得ない。この問題を論ずる両方面にはいずれも真によい議論があるのだけれども、それは正当の力を発揮するを許されないでいる。双方は自説を執って、反対側の者が述べる所を注意して自説を訂正改善しようとはしない。
『現存秩序を擁護する者は一切の政治的思弁を概括的に否としている。彼は退いて社会の可完全化性推論の論拠を検討することすらしないであろう。いわんやその誤りを公平に指摘するの労を採るが如きことはなかろう。
『思弁的理論家もまた同じく真理の大道を犯している。彼はもっと幸福な社会状態の有様を最も魅惑的に描き上げてこれのみに眼を止めて、一切の現存制度を口を極めて罵倒して喜んでおり、その才能を用いて弊害を除くべき最良最安全の方法を考えることなく、また理論上ですら完全へと向う人間の進歩を脅かす恐るべき障害に気づいているようにも思えない。
『正しい理論は常に実験によって確証されるというのは学問上認められた真理である。しかし実地の上では最も知識が広くかつ鋭い人にもほとんど予見し得ないような多くの摩擦や多数の微細な事情が起るので、経験に照してもなお正しかったものでなければいかなる理論も大抵の問題について正しいものとは云い得ない。従って経験に照してみない理論は、それに対する反対論をすべて念入りに考察し、これを十分にかつ首尾一貫して反駁してしまうまでは、おそらくそうであろうということは出来ず、いわんや正しいとすることは出来ない。
『私は人間と社会との可完全化性を論じたものを二三読んで非常に愉快であった。私は彼等が提供している、人を魅了するような光景に興奮と興味とを覚えた。私はこのような幸福な改良を熱心に希望している。しかしその途上には大きなしかも私の考えでは打克ち得ない困難があると思う。この困難を説明するのが私の今の目的であるが、しかし同時に私はこれをもって、革進を擁護するものを打倒する理由だといって歓喜しているものでは決してなく、この困難が完全に排除されるほど私にとって愉快のことはないということを、ここに宣明しておく次第である。
『私が述べようとする最も重要な議論は確かに新奇なものではない。その基礎たる原理は一部分はヒュウムが述べた所であり、またアダム・スミス博士は更に広くこれを述べている。ウォレイス氏もこれを述べ今の問題に適用しているが、もっともそれに十分の重きを置いて説いてはいない。そしておそらくこれは私の知らない多数の論者が述べていることであろう。従ってもしこれが正当十分に反駁されていたのであるならば、私はこれを今まで私が見たものとはやや異った見地で論じようとは思うが、それにしてもこれをもう一度述べる気にはならなかったことであろう。
『人類の可完全化性を弁護する人々がこのことを何故に無視するかは容易には説明がつかない。私はゴドウィンやコンドルセエの如き人々の才能を疑うことは出来ない。私は彼らの公正を疑おうとは思わない。私の見る所ではこの困難は打克ち得ないものであるがおそらく他の人も大抵はそう思うことであろう。しかるにその才能と智力とが周知なこれ等の人々はこれにほとんど留意しようとはせず一貫した熱意と信念とをもってかかる思索の道を進めているのである。彼らは故意にかかる諸論に眼を閉じているのであると云う権利は確かに私にはない。私としてはむしろ、かかる議論が私にはいかに真であると思われて止まないとしても、かかる人々がこれを無視しているのであるからその真なることを疑うのが本当であろう。しかしこの点においては吾々は誰でも誤謬に陥るの傾向を余りにも有(も)ち過ぎていることを認めなければならない。もし私が一杯の葡萄酒がある人に何度も出されているのにその人がこれに見向きもしないのを見るならば、私はその人が盲目であるか無作法な人だと考える気になるに違いない。しかしもっと正しい理論は、私の眼がどうかしていたのであり、出されたものは葡萄酒ではなかったということを、私に教えるかもしれない。
『議論に入るに当って、私は、一切の臆説を、すなわち正しい学問的根拠によればそれが実現するであろうとは考えられない仮定を、この問題から切離してしまうことを、前提しなければならない。ある論者は人は終(つい)には駝鳥になるものと考えると私に云うかもしれない。私はこれをうまい具合に否定することは出来ない。しかし彼が思慮ある何人かを同意見ならしめようと思うならば、彼は、人類の首は徐々として長くなって来ており、唇はますます固く大きくなって来ており、足は日に日にその形を変えており頭髪は羽毛に変りはじめているということを、まず証明しなければならない。そしてかような素晴らしい変化が本当に起っているということが証示されない中(うち)は、人間が駝鳥になれば幸福になるとしゃべり立て、その走力と飛翔力を述べ立て、人間は一切のつまらぬ贅沢を問題にしなくなり、生活必需品の蒐集にのみ当り、従って各人の労働分担額は軽微となり閑な時間は十分になる、と云ってみたところで、それは確かに時間つぶし議論つぶしに過ぎない。』
 フランクリン博士は、動植物が密集しそして相互の生活資料を妨害し合うことから生ずるものを除いては、その出産性に対する限界はない、と云っている。彼は云う、地球の表面に他の植物がないならば、徐々としてただの一種たとえば茴香が蔓延して全土を蔽(おお)ってしまい、またそれに他の住民がいないならば、それは数世紀にして、ただの一国民たとえば英蘭人で充ち満ちるであろう、と1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Franklin's Miscell. p. 9.
 これは議論の余地なく本当である。動植物界を通じて、自然は生命の種子を、最も惜しみなく気前よく播き散らしたが、しかしそれを養うに必要な余地と養分とについては比較的これを惜しんだ。この土地に含まれた生命の種子は、もし自由にのびることが出来るならば、数千年にして数百万の世界を満たすであろう。だが、必然という、緊急普遍の自然法則は、それを一定の限界以内に抑制する。動物の種と植物の種とはこの大制限法則の下に萎縮し、そして人間も、いかなる理性の努力によっても、それから逃れることは出来ないのである(訳註)。
〔訳註〕このパラグラフは第一版に若干加筆せるものの再録である。1st ed., pp. 14-15.
 なお第二版以下では、右の二つのパラグラフが示す如くに、問題提起後、直ちに人口と食物との両増加力の不等が説かれているが、第一版ではこれに先立って、有名な『公準』(postulata)が出て来る。すなわち右に引用した第一版からの文に続いて、次の如くある、――
『私は二つの公準を置いて差支えないと考える。
『第一に、食物は人間の生存に必要であるということ。
『第二に、両性間の情欲は必然であり、そしてほとんどその現状を維持するであろうということ。
『これ等の二法則は、吾々が人類について少しでも知識を有つに至った時以来、吾々の天性の確定法であったように思われる。そして吾々は今までこれに何の変化も見なかったのであるから、最初に宇宙の秩序を作り上げそして自分の創造物のために今なお確定法に従ってその各種の働きの一切を行っている神が直接に手を下さない限り、以上の事実が現在とは異るものとなるであろうと結論するの権利は、吾々にはないのである。
『私の知る限りでは地上において人間が終には食物なくして生きて行けるようになろうと考えた論者はない。しかしゴドウィン氏は両性間の情欲はその中(うち)になくなるであろうと推論している。だが彼はその著のこの部分は臆説の範囲にそれた所であると云っているから、私はここではただ人間の可完全化性を証明せんとする議論は、人間が蒙昧状態から今まで遂げて来た大きな進歩とそれがどの点に至ったら停止するかは云い難いという点から引出すのが最もよい、と述べるに止めて置こう。ところが今までは両性間の情欲は少しも消滅には向っていない。それは現在なお二千年または四千年前と同じ力で存在しているように思われる。現在個人的例外はあるが、しかしそれはいつでもあったことである。そしてこれ等の例外はその数を増すとは思われないから、ただ例外があるというだけのことで、この例外がその中に原則となり原則が例外となると推測するのは、確かに極めて非学問的な論法であろう。
『しからば私の公準は認められたものとして、私は云う、人口増加力は人間に生活資料を生産する土地の力よりも、不定限に大きい、と。』
 植物と非理性的動物においては、問題は簡単である。彼らはすべて有力な本能によってその種の増加へと駆り立てられる。そしてこの本能はその子孫の養育に関する疑惑によって妨げられることはない。従って、自由のあるところ常に増加力は発揮される。そして過剰な結果は、後に至って、余地と養分との不足によって抑圧される(訳註)。
〔訳註〕最後の部分は第二版では次の如くなっている、――
『そして過剰な結果は、後に至って、余地と養分との不足によって抑圧されるが、これは植物と動物に共通なことであり、また動物にあっては、相互の餌となることによって抑圧される。』
 なお第一版では、この全パラグラフは、『植物と動物においては』の語にはじまり、『養育に関する疑惑』が『養育に関する推理または疑惑』とあって、以下第二版の形のままとなっており、更に第二版以下のこのパラグラフの頭と共に、場所がここからはずっと離れて、現われている。1st ed., ch. II. pp. 27-28. そしてこの次のパラグラフに該当するところには、ただ次の如くあるに過ぎない。
『植物と動物にあっては、その結果は、種子の濫費、疾病及び早死である。人類にあっては窮乏及び罪悪である。前者たる窮乏はその絶対に必然的な帰結である。罪悪は著しく蓋然的な帰結である、従って吾々はそれが大いに瀰漫(びまん)しているのを見るのであるが、しかしおそらくこれを絶対に必然的な帰結と呼んではならぬであろう。道徳上の苛責は害悪へのあらゆる誘惑に抗するにある。』1st ed., pp. 15-16,
 この妨げの人間に与える影響はもっと複雑である。等しく有力な本能によってその種の増加へと駆り立てられるが、理性はその進行を妨げ、そして彼に、生活資料を与え得ない者を世に生み出しているのではないか、と訊ねる。もし彼がこの自然の示唆に耳を傾けるならば、この抑制は余りにもしばしば罪悪を生み出す。もしこの示唆を聞かぬならば、人類の種は不断に生活資料以上に増加しようと努めていることになろう。しかし、食物をして人間の生活に必要ならしめるところのわが天性の法則によって、人口はそれを養い得る最低の養分以上に実際に増加することは決して出来ないのであるから、食物獲得の困難から生ずる人口に対する強力な妨げが不断に作用していなければならない。この困難はどこかに落ちて来なければならず、そして必然的に人類の大きな部分によって、何らかの形の窮乏または窮乏の恐怖として、痛烈に感ぜられなければならない(訳註)。
〔訳註〕このパラグラフの後半は 1st ed., p. 14. の各所からの書き集めである。
 人口が生活資料以上に増加せんとするこの不断の傾向を有つこと、及びそれがこれら諸原因によってその自然的水準に抑止されていることは、人類が経過した種々なる社会状態を概観すれば十分わかるであろう。しかし、この概観へと進むに先立って、もしそれが完全に自由に働くがままに委ねられていたら人工の自然的増加はどんなものであろうか、また人類勤労の最適事情の下における土地の生産物の増加率はどのくらいが期待出来るかを、確かめようとする方が、おそらくこの問題をはっきり理解するに都合よいであろう(訳註)。
〔訳註〕第二版にはこれに続いて次の一文がある。
『これら二つの増加率を比較すれば、吾々は、上述せる生活資料以上に増加せんとする人口の傾向の力を判断し得るであろう。』
 行状は極めて純潔簡素であり、生活資料は極めて豊富であり、ために、一家を養う困難から生ずる早婚に対する妨げが何も存在したことはなく、また悪習や都市や不健康な職業や過労によって人類の種の浪費が生じたこともない国は、今まで知られていないことが、認められるであろう。従って、吾々の知るいかなる状態においても、人口の力が完全に自由に働くがままに委ねられたことはないのである。
 結婚に関する法律が制定されていようが、いまいが、自然と道徳との教えるところは、年早く一人の婦人に愛着することであるように思われる。そしてかかる愛着の結果たるべき結婚に対し、いかなる種類の妨害もなく、そしてその後に至って人口減退の原因もないならば、人類の増加は明かに、今まで知られているいかなる増加よりも遥かにより大であろう(訳註)。
〔訳註〕以上の二つのパラグラフは 1st ed., pp. 18-19. に、これとほぼ一致する記述がある。
 生活資料はヨオロッパの近代諸国のいずれよりもより十分であり、人民の行状はより純潔であり、そして早婚に対する妨げはより少い、アメリカの北部諸州においては、人口は、一世紀半以上も引続いて、二十五年以内に倍加したことがわかっている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかも、この期間内ですら、都市のあるものにおいては死亡は出生を超過したが2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]、これは、この不足を補充した地方においては、増加は一般平均よりも遥かに急速であったに違いないことを、明かに証明する事情である。
 1) ある最近の計算と見積りによれば、最初のアメリカ植民から一八〇〇年に至る間において、倍加期間は二十年をやや上廻る程度でしかなかった。第二篇第十一章におけるアメリカの人口の増加に関する註を参照。(訳註――この註は第三版より現る。なお本文の前半は 1st ed., p. 20. から加筆の上第二版に採用され、更に全部は第三版にて若干加筆さる。)
 2) Price's Observ. on Revers. Pay. vol. i. p. 274, 4th edit.
 唯一の職業は農業であり、そして悪習や不健康な職業はほとんど知られていない、奥地の植民地においては、人口は十五年にして倍加したことがわかっている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。この異常な増加でさえ、おそらく、極度の人口増加力には及ばないであろう。新しい国を開発するには非常に過酷な労働が必要であり、かかる場所は一般に特に健康的とは考えられず、またおそらく住民は時々インディアンの襲撃を受けるであろうが、これは若干の人命を損じ、またはとにかく勤労の結果を減少することであろう。
 1) Price's Observ. on Revers. Pay. vol. i. p. 282, 4th edit.
 出生の死亡に対する比が三対一の比例である場合に、三六分の一という死亡率に基いて計算された、オイラアの表によれば、倍加期間はわずか一二年五分の四であろう1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかもこの比例は、啻(ただ)に蓋然的な仮定であるばかりでなく、一国以上において短期間に実際起ったところのものである。
 1) 第二篇第四章末尾の本表を参照。
 サア・ウィリアム・ペティは、倍加は、十年というが如き短期間に可能である、と想定している1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Polit. Arith. p. 14.
 しかし、吾々が全く確実に真理の範囲内にあらんがために、吾々は、これらの増加率の中で最もおそいもの、すなわち一切の共在する証言が一致し、そして生殖のみによるものなることが繰返して確証された一つの率を、とることとしよう。
 従って私は、人口は、妨げられない時は、二十五年ごとに倍加し続け、または幾何級数で増加する、と云って間違いなかろう(訳註)。
〔訳註〕これとほとんど同一文は 1st ed., p. 21. にある。
 土地の生産物が増加すると想像される比率を決定することはそれほど容易ではないであろう。しかしながら、これについては、限られた領域におけるその増加率は、人口増加率とは、全然その性質を異にしなければならぬ、と全く確信し得よう。十億人は一千人と全然同じく容易に人口増加力によって二十五年ごとに倍加される。しかし、この大きい方の数字から生じた増加分を養うための食物は、決して小さい方のそれと同様に容易には獲得されないであろう。人間は必然的に余地によって制限される。一エイカア一エイカアと加えられて遂に一切の肥沃な土地が占有された暁には、年々の食物増加は、既に所有されている土地の改良に依存しなければならぬ。これは、一切の土壌の性質上、逓増はせず、徐々に逓減するところの、基金である。しかし人口は、食物がそれに与えられるならば、少しもその力を減ずることなく増加し続け、そしてある時期の増加は次の時期にはより大なる増加力を与え、かくてはてしなく続くであろう。
 支那や日本について記したものから見ると、人類の勤労をいかによく向けてみたところで、これらの国の生産物は多年を経て一度ですら倍加し得ようかと、立派に疑うことが出来よう。なるほど地球上には、今まで耕作されず、またほとんど占有されていないところが、たくさんある。しかし、これら人口稀薄な地方の住民でさえ、これを絶滅し、またはこれを餓死するに違いない一隅においやるの権利は、道徳上の観点から疑問を挿み得よう。彼らの精神を進歩させ彼らの勤労を指導するという過程は、必然的に徐々たるものであろう。そしてこの期間に、人口は規則正しく増加し行く生産物と歩調を合せるであろうから、高度の知識と勤労とが直ちに肥沃な未占有地に働きかけることになるということは、ほとんどないであろう。新植民地で時に起る如くに、かかる事態が生じたとしても、幾何級数は異常に急速に増加するので、この利点は永続し得ないであろう。もしアメリカ合衆国が増加し続けるならば――これは確かに事実であろう、もっともその速度は前と同じではなかろうが――インディアンはますます奥地へとおいやられ、遂にはこの全種族は絶滅され、そして領地はそれ以上拡張し得なくなるであろう(訳註)。
〔訳註〕『そして領地はそれ以上……』は第五版より現る。
 右に述べたところは、ある程度、土壌が不完全にしか耕作されていない一切の地方にあてはめることが出来る。アジアやアフリカの最大部分の住民を絶滅するということは、一瞬といえども許され得ない思想である。韃靼人や黒人の種々なる種族を文明化しその勤労を指導するということは、確かに、著しく長時間を要し、しかもその成功の程度も確実性も当てにならぬ仕事であろう。
 ヨオロッパは決してその極点まで人口が稠密になっていない。ヨオロッパには、人類の勤労が最良の指導を受け得る可能性が最も多い。農学は英蘭(イングランド)及び蘇格蘭(スコットランド)において大いに研究されて来ている。そしてなおこれら諸国には広大な未耕地がある。そこで、改良に最も好都合な事情の下において我国の生産物がどんな比率で増加すると想像し得るかを、考えてみよう。
 もし、最良可能の政策により、また大きな農業奨励により、この島国の平均生産物が最初の二十五年で倍加され得る、と認められるならば、これはおそらく、合理的に期待し得る以上の増加を認めていることになろう。
 次の二十五年に、生産物が四倍にされ得ると想像することは、不可能である。これは地質に関する吾々の一切の知識に反するであろう。不毛地の改良は時間と労働とを要する仕事であろう。そして農業上の問題を少しでも知っているものには、耕作が拡張されるに比例して、以前の平均生産物に年々加えられ得る増加は、徐々にかつ規則正しく、逓減して行かなければならぬことは、明かでなければならない。そこで、人口と食物との増加をよりよく比較し得んがために、正確をよそおうことなくして、土地の性質に関し吾々が有ついかなる経験が保証するよりも以上に明かに土地の生産力にとり有利な過程をしてみよう。
 以前の平均生産物に対し加えられる、年々の増加が減少することなくして――これは確かに減少するであろうが――依然同一であり、そしてわが島国の生産物が二十五年ごとに、現在の生産額と等量だけ増加され得る、と仮定しよう。最大の楽天家といえどもこれ以上に大きな増加を仮定することは出来ない。かくて数世紀にしてこの島国は寸地も余さず花園のようになるであろう(訳註)。
〔訳註〕以上三つのパラグラフに該当するものは、1st ed., pp. 21-22. にある。ただし農業生産の特殊性に関する説明が詳細になっている。
 もしこの仮定が地球全体にあてはめられ、そしてもし土地が与える人間の生活資料が二十五年ごとに現在の生産額だけ増加され得ることが認められるならば、これは、あらゆる可能な人類の努力がなし得ると吾々が想像し得る遥か以上の増加率を仮定することになるであろう。
 従って、土地の現在の平均状態を考慮して、生活資料は、人類の勤労に最も好都合な事情の下において、算術級数以上に速(すみや)かにはおそらく増加せしめられ得ない、と立派に云えるであろう(訳註)。
〔訳註〕このパラグラフに該当するものは、1st ed., p. 23.
 これら二つの異る増加率を一緒にした場合に必然的に生ずる結果は、極めて驚くべきものがあろう。この島国の人口を一千百万とし、現在の生産物はこの数を容易に養うに等しいものであると仮定しよう。最初の二十五年では、人口は二千二百万となり、また食物も倍加されるから生活資料はこの増加に等しいであろう。次の二十五年では、人口は四千四百万となり、生活資料はわずかに三千四百万を養うにに等しいだけであろう。その次の時期には、人口は八千八百万となり、生活資料はちょうどその半数を養うに等しいだけであろう。かくて最初の一世紀の終りには、人口は一億七千六百万となり、生活資料はわずかに五千五百万を養うに等しいのみであり、一億二千百万の人口は全く食物を与えられないということになるであろう(訳註)。
〔訳註〕このパラグラフに該当するものは、1st ed., pp. 23-24.
 この島国の代りに地球全体をとれば、移民はもちろん別問題になる。そして、現在の人口を十億に等しいと仮定すれば、人類は一、二、四、八、一六、三二、六四、一二八、二五六と増加し、そして生活資料は一、二、三、四、五、六、七、八、九と増加するであろう。二世紀すれば、人口の生活資料に対する比は二五六対九となり、三世紀すれば四〇九六対一三となり、そして二千年たてばその開きはほとんど計算し得なくなるであろう。
 右の仮定においては、土地の生産物に対してはいかなる限界もおかなかった。それは永久に増加し、そして指示し得るいかなる数よりも大となるであろう。しかもなお人口増加力はあらゆる時期において極めて優越するので、人類の増加は、より大なる力に対する妨げとして働くところの、かの強力なる必然の法則の不断の作用によってのみ、生活資料の水準に抑止され得るのである(訳註)。
〔訳註〕以上二つのパラグラフに該当するものは、1st ed., pp. 25-26.
[#改丁]

    第二章 人口に対する一般的妨げとその働き方について

 しからば、人口に対する窮極的妨げは、人口と食物とが増加する率が異るところから必然的に生ずる、食物の不足であることがわかる。
 直接的妨げは、生活資料の稀少によって発するように思われる一切の慣習と一切の疾病、及び、この稀少とは関係がないが、時期に先立って人類の体躯を弱めかつ破壊する傾向のある、道徳的たると物理的たるとを問わず、一切の原因であると云い得よう(訳註)。
〔訳註〕以上全部は第三版より現る。
 あらゆる社会において不断に多かれ少なかれ有力に働いており、そして人口を生活資料の水準に保っている、人口に対するかかる妨げは、二つの一般的部類に分類され得よう、――すなわち予防的妨げと積極的妨げとに。
 予防的妨げは、自発的である限りにおいて(訳註1)、人間に特有なものであり、人間をして遠い結果を秤量し得せしめる理性力の優越特性に発するものである。植物及び非理性的動物の不定限の増加に対する妨げは、すべて、積極的であるか、または予防的であるとしても非自発的である(訳註2)。しかし人間は、自己の周囲を見廻わし、そして大きな家族を有つ者をしばしば圧迫する窮情を見る時には、また現在ほとんど自分で消費しているその現在の財産か稼ぎ高を考え、そしてそれにほとんど加えるところなくしてこれをおそらく七人または八人に分たねばならぬ場合の各人の分前を計算してみる時には、彼がその思考の趣(おもむ)くままに従うならば、彼がおそらくはこの世にもたらすべき子供達を養うことが出来るであろうか、という疑惑を感ぜざるを得ないのである。平等社会(訳註3)という風なものがあり得るとすれば、かかる社会では、これは簡単な問題であろう。だが現在の社会状態においては、他の考慮が起って来る。彼は世におけるその地位を低め、そして以前の習慣を著しく抛棄せざるを得なくなりはしないであろうか。何かの仕事が現れて来て、それにより、一家を維持することを合理的に希望し得ようか。とにかく彼は、独身の場合よりも大きな困難と激しい労働とに身を委ねることにはならないであろうか。自分自身が身につけていると同じ教育と進歩とをその子供達に譲ることが出来ないのではなかろうか。大家族を有つならば、彼が出来るだけ努力しても、襤褸(らんる)と赤貧と、及びその結果たる社会における堕落とから、彼らを救い得るということでさえ、確信し得るだろうか。そしてその独立を失い、かつ慈善の乏しい手に暮しを頼らざるを得ないという、切端(せっぱ)つまった地位に立つことにはならぬであろうか、と。
〔訳註[#「註」は底本では欠落]1〕『自発的である限りにおいて』なる句は第3版より現る。
〔訳註2〕この一文は第二版では次の如くである、――
『植物及び動物は、明かに、その子孫の将来の養育については何の疑問も有たない。従って彼らの不定限の増加に対する妨げは、すべて積極的である。』
〔訳註3〕この個所以下と次のパラグラフとは、1st ed., p. 28. からの書き写しである。
 かかる考慮が払われればこそ、あらゆる文明諸国の多数のものは、一人の婦人に愛着するという自然の命に服さずにいるように思われるし、また確かに服さずにいるのである(訳註)。
〔訳註〕第一版ではこれに続いて次の一文があったのであるが、第二版以下ではこれを削除し、その代りとしてこれ以下の記述が現れたのである。
『そしてこの抑制は、絶対的にではないとしても、ほとんど必然的に、罪悪を生み出す。しかしすべての社会では、最も罪悪の多い社会ですら、道徳的な結合に向う傾向は非常に強く、従って人口の増加に向う不断の努力がある訳である。この不断の努力は、同じく不断に、社会の下層階級を困窮に陥らしめ、その境遇の何らかの永久的大改善を妨げる傾向があるのである。』
 もしこの抑制が罪悪を生み出さないならば(訳註)、これは疑いもなく人口原理から生じ得る最小の害悪である。強力な自然的性向に対する抑制たることを考えれば、ある程度の一時的不幸をもたらすことは認めなければならぬが、しかし人口に対する他の妨げのいずれから生ずる害悪と比べても明かに軽微な不幸であり、そして道徳的因子の不断の職務たる永久的満足のための一時的満足の犠牲という、その外にも数多い場合と同一性質のものに過ぎない。
〔訳註〕第二版ではここに次の挿入句が入る、――
『これは多くの場合において事実であり、また中流及び上流の婦人の間では極めて一般的なことであるが、』
 なおこのパラグラフの最後の『そして道徳的因子の……』以下は第三版より現る。
 その他第三版以下で用語上の修正が若干ある。
 この抑制が罪悪を生み出す時には、これに伴う害悪は余りにも顕著である。子供の出生を妨げるほどの乱交は最も明かに人性の尊厳を低下するように思われる。それは必ずや男子に影響を与えるが、それが女性の人格を堕落せしめ、その一切の愛らしい女らしい特性を破壊する傾向よりも明かなものは、他にあり得ない。これに加うるに、あらゆる大都市に溢れている、かの不幸な女性のそれをもってするならば、おそらく他の人生のいかなる部門よりも大きな本当の惨情と多大の窮乏とが見られるということになる。
 性に関する道徳の一般的腐敗が一切の社会階級に瀰漫する時には、その結果は必然的に、家庭的幸福の源泉を害し、夫婦と親子の愛情を弱め、父母が一緒に子供を世話し教育する努力と熱意とを減少しなければならぬ、――かかる結果たるや必ず社会の一般的幸福及び道義の決定的減少を伴うものであり、特に私通を行うため、及びその結果を隠蔽するための、術策の必要は、必然的に他の多くの罪悪に導くにおいてを[#「を」は底本では「お」]やである。
 人口に対する積極的妨げは極度に多種多様あり、そして、罪悪から起ろうと窮乏から起ろうと、何らかの程度において人間の天寿を短縮するに役立つあらゆる原因を含むものである。従ってこの部類の下には、一切の不健康な職業、過酷な労働や寒暑への暴露、極貧、子供の養育不十分、大都市、あらゆる種類の不節制、一切の普通の病気や伝染病、戦争、悪疫、及び飢饉が挙げられ得よう。
 私が予防的及び積極的妨げの部類の下に分類した人口の増加に対するこれらの障害を検討すると、それがすべて道徳的抑制、罪悪、及び窮乏になることがわかるであろう。
 予防的妨げの中、不正常な満足を伴わない結婚の抑制は、正当に、道徳的抑制1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]と名づけられ得よう。
 1) 私がここで道徳的という言葉をその最も限られた意味に用いていることがわかるであろう。道徳的抑制とは、慎慮的動機に発する結婚の抑制で、この抑制の期間中厳重に道徳的な行為を行うことを、意味するものと理解されたい。そして私は意識的にこういう意味から離れたことはないのである。その結果と関係のない結婚の抑制を云おうと思う時は、私はそれを、慎慮的抑制と呼ぶか、または予防的妨げの一部――たしかにこれは予防的妨げの主たる部分である――と呼んでいるのである。
 私は、各種の社会段階を通観しているところで、人口を防止する上において道徳的抑制に十分の重要性を認めていないといって、攻撃されている。しかしここで述べたところの、この言葉の限られた意味を観るならば、この点について私は大きな誤(あやま)ちは犯していないことがわかると思う。私が誤っているのなら私は非常に嬉しい(訳註――この註は第三版より現る)。
 乱交、不自然な情欲、婚床の冒涜(ぼうとく)、私通の結果を隠蔽するための不当な術策は、明かに罪悪の部類に属する予防的妨げである。
 積極的妨げの中、自然法則から不可避的に起ると思われるものは、もっぱら窮乏と呼び得よう。そして、戦争、不節制、その他多くの吾々の力で避け得るものの如き、吾々が明かに自ら招来したものは、混合的性質を有っている。それは罪悪によってもたらされ、そしてその結果は窮乏である1)[#「1)」は縦中横、行右小書き、「1」が底本では欠落]。
 1) 罪悪の一般的結果は窮乏であり、そしてこの結果が一行為が罪悪と呼ばれる正確な理由なのであるから、ここでは窮乏という言葉だけで十分であり、両者を用いるのは、余計なことだ、と思われるかもしれない。しかし罪悪という言葉を拒否すると、吾々の言葉と観念とに大きな混乱が起ることとなろう。吾々は特に、その一般的傾向が窮乏を生み出し、従って創造者の命と道徳論者の戒律によって禁ぜられている行為――もっともその直接のまたは個人的の結果においては、それはおそらくその正反対を生み出すであろうが――を、区別したいのである。吾々の一切の情欲の満足は、その直接の結果においては幸福であり、窮乏ではない。そして個人的な場合には、その遠い結果でさえ(少くともこの世においては)おそらく同じ名称の下に属するであろう。両当事者の幸福を増加ししかも何人をも害することなき、婦人とのある私通があったこともあろう。従ってかかる個人的行動は窮乏の部類の下に属することは出来ない。しかしそれでもなおそれは罪悪である、けだし明かな戒律を破る行動は、その個人的結果がどうあろうと、それが窮乏を生み出す一般的傾向ある故に、このように名づけられるのであるから。そして何人も、両性間の私通が社会の幸福を害する一般的傾向を疑うことは出来ない。
 これら一切の予防的並びに積極的妨げをまとめた合計が人口に対する直接的妨げをなすものである。そして全生殖力の発揮が許されないあらゆる国においては、予防的妨げと積極的妨げとは反比例的に動かなければならぬことは明かである。換言すれば、その原因の何たるを問わず、自然的に不健康であるか、または大きな死亡のある国では、予防的妨げはほとんど行われないであろう。反対に、自然的に健康であり、予防的妨げが大きな力で働いているのが見られる国では、積極的妨げはほとんど行われず、または死亡は極めて小であろう(訳註)。
〔訳註〕このパラグラフ全部は第三版より現る。
 あらゆる国においては、これらの妨げのあるものは、その力の大小こそあれ、絶えず働いている。しかしそれが広く普及しているにもかかわらず、生活資料以上に増加せんとする人口の不断の努力のない国はほとんどない。この不断の努力は、同じく不断に、社会の下層階級を困窮に陥らしめ、その境遇の何らかの永久的大改善を妨げる傾向があるのである(訳註)。
〔訳註〕これに該当する文が第一版にあることは、この前四つ目の訳註を参照。
 かかる結果は(訳註)、社会の現状においては、次の如くして生み出されるように思われる。吾々はある国の生活資料が、その住民を容易に養うにちょうど等しいものと、仮定しよう。最も罪悪の多い社会ですら作用していることが見られる人口増加へ向かっての不断の努力は、生活資料が増加しないうちに人口を増加せしめる。従って、以前には一千百万を養った食物は今度は一千百五十万に分たれなければならぬ。貧民の生活はその結果としていっそう悪くならなければならず、そしてその多くは極貧に陥らなければならぬ。労働者の数もまた市場における仕事の比例以上になるので、労働の価格は下落する傾向がなければならず、他方食物の価格は同時に騰貴するであろう。従って労働者は、前に稼いだと同じだけを稼ぐために、より多くの仕事をしなければならぬ。この困窮期には、結婚の阻害と一家を養う困難とは極めて大となり、ために人口の増進は遅延させられるであろう。しかるに、労働の低廉と労働者の豊富と彼らが勤労を増加しなければならぬ必要とは、耕作者を奨励して、新地を開き既耕地をより完全に施肥し改良するために、より多くの労働をその土地に投ぜしめ、かくて遂に生活資料は人口に対して、出発点の時期と同じ比例となるであろう。労働者の境遇はこの時にはまたもかなりよくなり、人口に対する抑制はある程度緩められる。そして、短期間の後に、幸福に関しての同じ後退前進の運動が繰返されるのである。
〔訳註〕本章のこれ以下の部分については、cf. 1st ed., ch. II., pp. 29 et seq.
 この種の擺動はおそらく普通の人にははっきりと見えないであろう。そして最も注意深い観察者にとってすら、その時期を計ることは困難であろう。しかし、古国の大部分では、この種のある交替運動が、私がここに述べたよりは遥かに不明瞭かつ不規則ではあるが、存在することは、この問題を深く考察する思慮ある人のよく疑い得るところではないのである。
 この擺動が、当然予想されるほどは今まで述べられておらず、またそれほどはっきりは経験によって確かめられていない、一つの主要な理由は、吾々が所有する人類の歴史が一般に単に上流階級のみの歴史であるからである。吾々は、人類のうちでかかる後退前進の運動が主として起る部分の行状と習慣とについて、当てになる記述はたくさん有っていない。一つの民族、一つの時代につき、この種の満足な歴史をつくるためには、多数の注意深い観察者が、不断の細心の注意をもって、社会の下層階級の状態とそれに影響を及ぼした原因とに関する、地方的なまた一般的な記述を行うことが必要であろう。そしてこの問題に関して正確な推論をひき出すためには、かかる歴史家が数世紀に亙(わた)って続いて出ることが必要であろう。この方面の統計的知識は、近年、ある国々において取扱われている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。そして吾々は、かかる研究の進歩から人類社会の内部構造をもっとはっきり知り得るに至ることを期待し得よう。しかしこの科学はなおその幼年期にあり、そしてそれに関する知識を得ることが望ましい諸題目の多くは、取扱われていないかまたは十分正確に述べてないかである。かかるものとして数え得るものとしては、結婚数に対する成年数の比例、結婚の抑制の結果として悪習が普及している程度、社会の最も困窮している部分の子供ともっと楽に暮している者の子供との死亡率の比較、真実労働価格の変動、一定の期間の異る時期における、安易と幸福とに関しての、社会の下層階級の境遇の、眼に見える相違、及びこの問題において最も重要なものたる出生、死亡、及び結婚の非常に正確な記録である。
 1) サア・ジョン・シンクレイアが蘇格蘭(スコットランド)で配附した適切な質問と、彼がこの地方で集めた貴重な報告とは、彼に最高の名誉を与えるものであり、そしてこれらの報告は、永久に、この蘇格蘭(スコットランド)僧侶の学識、良智、教養の偉大な金字塔として残るであろう。隣接諸教区がこれと一緒になっていないのは遺憾なことであるが、もし一緒になっていたら、特定教区の状態を理解する上にも想起する上にも記憶に役立ったことであろう。この中にあらわれている反覆や前後矛盾する意見は、私の見解によれば、それほど非難するに当らない。けだしかかる調査の結果はいかなる個人の調査の結果よりも信頼し得るものであるからである。ある練達の士がかかる結果を引き出すとすれば、なるほど多くの貴重な時間は節約されるであろうが、その結果はそれほど満足なものではないであろう。もしこの仕事が附属的事項について若干手を加えられ、過去一五〇年に亙る正確完全な記録簿を含んでいたならば、それは測り知れぬ価値を有ち、そして一国の内部的状態に関し今まで世界にない完全な姿を表現したことであろう。しかしこの手を加えるという最後の最も重要な仕事は、いかに骨を折っても出来なかったことであろう。
 かかる細目を含んだ忠実な歴史があるならば、それは人口に対する不断の妨げがいかに働くかを大いに明かにする傾向を有ち、そしておそらく、上述の逆転進転の運動の存在を立証するであろう。もっともその振動の時期は多くの介在的原因によって必然的に不規則たらしめられざるを得ない。かかる原因とは、例えば、ある工業の興起または衰頽、農業の企業精神の普及の多少、年の豊凶、戦争、疾病流行期、貧民法、移民、その他類似の性質の諸原因が、それである。
 この擺動を普通の人の眼につかぬようにするにおそらく最も寄与した事情は、労働の名目価格と真実価格との相違である。労働の名目価格が普遍的に下落するというのはごく稀である。しかし、食料品の名目価格が徐々として騰貴して来ているのに労働の名目価格がしばしば依然同一であるという風な場合を、吾々はよく知っている。このことは実際、商工業の増大が、市場に投じ込まれる新らしい労働者を雇傭し、かつその供給の増加によって貨幣価格が低下するのを妨げるに、足るという場合には、一般的に起ることであろう1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかし、同一の貨幣労賃を受取る労働者数の増加は、必然的にその競争によって、穀物の貨幣価格を騰貴せしめるであろう(訳註1)。これは事実上労働の価格の真実下落であり、そしてこの期間中は、社会の下層階級の境遇は徐々として悪化して行かなければならぬ。しかし農業者と資本家とは、労働の真実低廉によって富んで行く。彼らの資本が増加するので、より多数の人間を雇傭し得るようになる。そして、人口はおそらく、一家を養う困難の増加によってある妨げを蒙ったであろうから、労働に対する需要は、一定の期間後には、供給に比例して大となり、そしてその価格は、その自然的水準に帰着するに委ねられるならば、もちろん騰貴するであろう。かくの如くして、労働の労賃は、従ってまた社会の下層階級の境遇は、労働の価格が名目上は少しも下落しなかろうとも、進転逆転の運動をすることであろう(訳註2)。
 1) もし年々市場に投じ込まれる新らしい労働者が、農業以外に雇傭口を見出さないならば、彼らの競争は労働の貨幣価格を下落せしめて、もって、人口の増加がより以上の穀物に対する有効需要をもたらすのを、妨げるに至るであろう。換言すれば、もし地主及び農業者が、彼らが生産し得る生産物の追加分と引替えに単に農業労働量の追加しか得られないならば、彼らはこれを生産しようとは企てないであろう(訳註――この註は第五版より現る)。
〔訳註1〕『このことは実際……騰貴せしめるであろう。』は第五版より現る。
〔訳註2〕ここの所には第一版からのかなりの訂正削除がある。第一版では次の如し、――
『労働の名目価格が普遍的に下落するというのはごく稀である。しかし、食料品の名目価格が徐々として増加して来ているのに労働の名目価格がしばしば依然同一であるという風な場合を、吾々はよく知っている。これは実際上労働の価格の真実下落であり、そしてこの期間中は、社会の下層階級の境遇は徐々としてますます悪化して行かなければならぬ。しかし農業者と資本家とは労働の真実低廉によって富んで行く。彼の資本の増加によって前よりも多くの人手を雇傭することが出来るようになる。従って仕事は多くなり、その結果として労働の価格は騰貴するはずである。しかし、教会法のあるためか、または富者は団結し易いが貧民はそれが困難であるというもっと一般的な原因かのために、多かれ少なかれどの社会にもある、労働市場における自由の欠除のために、おそらく凶作の年が起り、叫声は余りにも声高となり必要は余りにも明かとなってもはや抗し得なくなるまでは、労働の価格は右の当然騰貴すべき時期にも騰貴せず、その上しばらくの間依然として低いままになっているのである。
『かくして労働の価格騰貴の原因は隠蔽される。そして富者は、その騰貴を許したのは、凶作のことを考えて憐憫と恩恵から行ったことだとする。そして豊作の年がまた来るとその価格が再び下落しないという最も不合理な不平を並べ立てる。しかし彼等が少しでも考えてみたら、彼等自身の不正な陰謀がなければそれは遥か以前に騰貴していなければならなかったはずであることが、わかることであろう。
『しかし富者が不正な団結をしてしばしば貧民の困窮を長びかせるに役立っているとはいえ、しかもいかなる形の社会でも、不平等の社会では人類の大部分にまた万人が平等の社会では万人に及ぼすところの、窮乏のほとんど不断の作用を妨げることは出来ないであろう。』
 規則的な労働の価格の存在しない蒙昧社会にも、同様な擺動が起ったことはほとんど疑い得ない。人口がほとんど食物の極限まで増加した時には、すべての予防的及び積極的妨げが当然にその働く力を増加する。性に関する悪習はいっそう一般的となり、子供の遺棄はその頻度を増し、そして戦争と伝染病の機会と惨禍とは著しく増大するであろう。そしてこれらの原因は、おそらく、人口が食物の水準以下に低下するまで、その作用を続けるであろう。そしてその時には、食物が比較的豊富になるので人口増加が再び始まり、そして一定期間後、そのより以上の増加はまたも同一の原因によって妨げられるであろう1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) サア・ジェイムズ・スチュワアトは、極めて適切にも、蕃殖力を、可変的な重りを載せられた発条に喩えているが(Polit. Econ. vol. i. b. i. c. 4, p. 20.)これはもちろん上述したと全く同種の擺動を生ずるであろう。彼は、その『経済学』の第一篇において、人口問題の多くの部分を極めてよく説明している。
 しかし、種々なる国におけるかかる進転逆転の運動を確証するためには、明かに吾々が所有しているよりも詳細な歴史が必要なのであり、また文明の進歩は当然にこの運動を緩和する傾向があるものであるが、吾々はここではこの運動を確証しようとは試みず、ただ次の命題を証明しようと思う、――
一、人口は必然的に生活資料によって制限される。二、人口は、ある極めて有力にして顕著なる妨げにより阻止されぬ限り1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、生活資料が増加する場合には普(あまね)く増加する。三、これらの妨げ、及び優勢な人口増加力を抑圧し、その結果を生活資料と平衡せしめる妨げは、すべて、道徳的抑制、罪悪、及び窮乏のいずれかとすることが出来る。 1) 私はこのような用心深い表現法を採ったが、けだし私は、人口が生活資料の水準に達しない若干の場合がある、と信ずるからである。しかしこれらは極端な場合である。したがって概言すれば、次のように云い得よう、
 二、人口は生活資料が増加する場合には常に増加する。
 三、優勢な人口増加力を抑圧しその結果を生活資料と平衡せしめる妨げは、すべて、道徳的抑制、罪悪、及び窮乏のいずれかとすることが出来る。
 ここに生活資料の増加とは、社会の大衆をしてより多くの食物を支配し得せしめる如き増加の意であることを、観られたい。特定社会の現実の状態において、下層階級には分配されず、従って人口に対し何らの刺戟も与えないような、増加が、確かに起り得よう(訳註)。
〔訳註〕この註は第三版より現る。ただし『ここに生活資料の増加とは』以下は第五版より現る。
 なお右に現れた三命題は第一版では次の形で現れている、――
『人口は生活資料なくしては増加し得ないということは、極めて明かな命題であって何らの例証をも必要としない。
『人口は生活資料がある場合には常に増加することは在来のあらゆる民族の歴史が十分にこれを証明するであろう。
『そして、優勢な人口増加力は罪悪または窮乏を生ぜずしては妨げられ得ず、人生という杯に盛られたこのたっぷりとした苦味とそれを生じたと思われる物理的原因の永続性とは、余りにも確実な証拠を有っている。』
 これらの命題の第一はほとんど例証を必要としない。第二と第三とは、過去及び現在の社会状態における人口に対する直接的妨げを通観すれば、十分に確証されるであろう。
 この通観が以下の諸章の主題である。
[#改丁]

    第三章 人類社会の最低段階における人口に対する妨げについて(訳註)

〔訳註〕第二版以後の形における『人口論』の全四篇の中、その前半の二篇は、人口原理の存在とその作用とを過去及び現在の事実から実証しようとする部分であって、いわば歴史篇とも呼ばるべきものである。この歴史篇はしばしば第二版以後からはじめて現れたものの如く説かれているが、なるほどそれは第二版以後著しく増補されはしたけれども、決して第二版をまってはじめて現れたものでは決してなく、既に第一版にも明かに現れているところである。この歴史篇は、少くとも第一篇の関する限りでは、第二版以後は極めて僅少の附加が加えられているだけであるから、比較は主として第一版と第二版以後との差異に関して行われるべきである。そこで便宜上、第一篇の範囲に属する第一版の総括的記述のうち、人類の最低段階に関する記述をここに掲げることとし、第二段階に関しては第一版の記述は第二版以後では第六章に再現するから、これはそこにゆずり、その他個々の文に関しての比較は、各々関係の場所に訳註を附することとする。第一版における右に該当するものは次に如くである、――
 第三章――『狩猟が主たる職業であり唯一の食物獲得法となっている人類の最も蒙昧な状態にあっては、生活資料は広大な地域に散在しているので、人口は必然的に比較的稀薄でなければならない。……
『しからば吾々は、以上の概観から、またはむしろ狩猟民族に関して参照し得る記述からして、次の如く推論し得ないであろうか、すなわち彼らの人口は食物が不足なために稀薄であり、もし食物がもっと豊富にあるならば、それは直ちに増加すべく、また蒙昧人では、罪悪を別とすれば、窮乏が、優勢なる人口増加力を圧縮しその結果を生活資料と等しくしておく妨げである、と。少数の地方的な一時的の例外を別とすれば、この妨げが現在不断にあらゆる蒙昧民族に対し働いていることは、実際の観察と経験とが吾々に物語るところであり、そして理論は、これは一千年の昔にも現在とほとんど同じ力で働きまた一千年後もほぼ同じほどであろうということを、指示しているのである。』
 ただし第一版では狩猟状態に関する事実はアメリカ・インディアンのものが大部分を占めるのであり、右の引用も大体インディアンに関する総括をなすものである。
 ティエラ・デル・フエゴの惨めな住民は、あまねく旅行家により、人類の最低水準にあるものとされている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き、「1」が底本では欠落]。しかしながら、彼らの家庭的習慣や行状を記したものはほとんどない。彼らの荒凉たる国と悲惨な生活状態は、かかる知識を伝うべき彼らとの交渉を妨げている。しかし吾々は、その外貌そのものが半ば餓死の姿を示しており、寒さにふるえ垢と虱とに蔽われながら世界中で最も悪い気候の中に住み、しかもその厳しさを緩和し生活をいくらかもっと楽しくする便宜を自ら備えるの智恵を有たない、蒙昧人における、人口に対する妨げが、いかなるものであるかは、これを知るに当惑しないのである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Cook's First Voy. vol. ii. p. 59.
 2) Cook's second Voy. vol. ii. p. 187.
 これに次いで、智恵と資源ではこれとほとんど等しく低いものとして、ヴァン・ディーメン島の土人が挙げられている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかし最近の記述の示すところによると、東洋のアンダアマン諸島には、これよりもっとみすぼらしい蒙昧人が住んでいる。従来旅行家が蒙昧人の生活について述べているあらゆることも、この種族の野蛮さには及ばないと云われている。彼らの時間は全部食物の捜索に費やされる。そして彼らの森林は動物をほとんどまたは全く産せず、また食用植物もほとんど産しないので、彼らは岩を攀(よ)じ登ったり、あてのない魚肉を探すために海辺を徘徊したりすることを、主な仕事としているが、それも暴風雨の季節にはしばしば全く無駄になってしまう。彼らの身長は滅多に五呎(フィート)を超えず、その腹は膨れ上り、肩は高く、頭は大きく、そして四肢は不釣合に瘠(や)せている。彼らの容貌は、極端な窮状、飢餓と獰猛との恐るべき混合を現わしており、そして彼らの瘠せかつ病んだ姿態は、明かに、健康な食物の不足を物語っている。この不幸な人間中のある者は、飢餓の最終段階に瀕していることが見出されたのである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Vancouver's Voy. vol. ii. b. iii. c. i. p. 13.
 2) Symes's Embassy to Ava, ch. i. p. 129, and Asiatic Researches, vol. iv. p. 401.
 これより一段階進んだ人類としては、吾々は、ニュウ・オランダの住民を挙げ得ようが、その一部については、久しくポオト・ジャクソンに住んでいて、その習慣や行状をしばしば実見する機会を有った一人の人から、信ずるに足る報告を得ている。キャプテン・クックの第一航海記の報告者は、ニュウ・オランダの東海岸では極めて少数の住民しか見られず、その荒廃せる状態からしてこれ以上の人間を養うことは明かに不可能である、と述べた後、曰く、『この地方の住民がどうして現在養っているような人口に減らされたのかは、おそらくなかなか推断しにくい。それがニュウ・ジイランドの住民のように、食物を争って相互の手で殺し合ったのか、偶発的の飢饉で一掃されたのか、または種族の増加を妨げる何らかの原因があるのかの判定は、将来の探検家に委ねられていることでなければならぬ1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Cook's First Voy. vol. iii. p. 240.
 コリンズ氏がこの蒙昧人について述べているところは、思うに、ある程度まで満足な答を与えるものであろう。それによると彼らの身長は一般に高くなく、身体はがっちりともしていない。彼らの腕や脛や腿は瘠せているが、それは彼らの生活様式が貧弱なためである。海岸に住むものは、食物としてはほとんど全く魚肉にたより、時に小さなゴム樹の幹の中にいるかなり大きな蛆を見出してほっとしている。森林には動物が非常に少く、それを獲るには非常に大きな労働がいるので、奥地の土人も海岸のものと同様に貧しい境遇にある。彼らは蜜や、むささび、袋鼠のような小動物を求めて、非常に高い木に登らざるをえない。幹が非常に高くしかも枝のない時には――これは密林での通例であるが――これは非常に骨の折れる労働であり、左手で木を抱きながら、一歩ごとに順次その石斧で刻目を作って、登るのである。その最初の枝に達するまで八十呎(フィート)の高さに至るまでもこのようにして刻目をつけられた木が見られたが、ここまで登らなければ、飢えた蒙昧人はこれほどの骨折りに対する何らかの報酬を手に入れることを望み得なかったのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Collins's Account of New South Wales, Appendix, p. 549. 4to.
 森林は、そこで時に見出される動物を別とすればほとんど食物を与えない。少しばかりの漿果(しょうか)、やまいも、羊歯(しだ)の根、種々な灌木の花が、植物性食物の目録の全部をなすものである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1) Id. Appen. p. 557. 4to.
 子供づれの一人の土人がホオクスベリ河の岸で、我国の移民にびっくりして、独木舟で逃げ去ったが、その後に彼れの食物と彼れの胃の腑の繊細加減を示す見本を残して行った。彼は、穴だらけの水に濡れた木の一片から、大きな虫をほじり出して食っていたのである。虫とその居場所とのにおいはこの上もなく臭気のはなはだしいものであった。かかる虫はこの土地の言葉ではカアブロオと呼ばれている。そして奥地に住む土人の一種族は、この胸の悪くなる虫を食うところから、カアブロガアルと呼ばれている。森林の土人もまた、羊歯の根と大小の蟻をまぜて作ったねり物を食っており、また産卵期には蟻の卵も加えている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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