一商人として
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著者名:相馬愛蔵 URL:../../index_pages/person1148

 数えてみると今年はもうそれから十五年になるが、あの関東大震災は、我々が麹町に移ってから五ヶ月目の九月一日であった。当時の惨状はいまさらここに語るまでもないが、人口三百万を擁した東京市は、僅かに山の手の一部を残して他は烏有に帰し、交通機関はことごとく破壊停止し、多くの避難民は住むに家なく食うに食なき有様であった。
 中村屋は幸運にもこの災難を免れたが、電気も瓦斯(ガス)も水道も止ったのだから、パンも菓子も製造することが出来ない。しかし店頭には食なき人々が押し寄せて、パンはないか菓子はないかと求める有様に、私は商人の義務としても手を束ねていられる時ではないと思い、手のかからぬ能率的なものをと命じ、瓦斯も電気も水道も役に立たぬ中で、全員必死の働きをもってつくり出したのが、今も年々その日に記念販売をするいわゆる地震パン、地震饅頭、奉仕パンの三品であった。僅かにこの三品ではあったが、これだけでもただちに製造して間に合わせたのは中村屋だけで、したがって製品は、日本銀行の金庫を護る兵士たちのおやつにもなれば、さらに惨状の酷い横浜からもはるばる買いに来るという次第で、拵えても拵えても間に合わず、半日の製品が一時間の販売にも足りないという状況であった。
 余震は頻々として来たり、ぐらぐらと震動する工場の中は、尋常の心持ではとても仕事の出来るところではなかった。しかし店頭に山なす人々の要求を思えば、危険を顧みる暇もない。全く昼夜兼行全店員よくあれだけの働きが出来たと思う。夜半に中村屋の煙突から火の子が出たのを見て、誰しもこの折柄で昂奮していて、驚破(すわ)また火事よと駆けつけ『何だ中村屋か、人騒がせをしやがる』と腹を立てた人もあった。しかしそれを制して『中村屋は徹夜してパンを焼いてるんだ、この際これがただの商売気で出来ることかい』という多くの声があり、やはり心から心へ通じて真に涙ぐましいものがあった。当時下町の問屋はことごとく焼失して、材料を仕入れようにも残っていない。山の手の商店にあった僅かな品もたちまち引張り凧でからからになり、食料品缶詰は倍値に売られ、一袋四円の小麦粉が十六円まで奔騰した。
 私の店でも二日ほどで原料の砂糖と粉が切れてしまった。そこで至急使いを江東の大島方面に派し、砂糖会社と製粉会社に交渉した。するとこれらの会社では、問屋からの註文は絶え、地方への輸送の途も断たれていた矢先とて、大いに歓迎して、従来問屋から仕入れた値よりもかえって格安に売ってくれた。
 荷馬車数台に満載した砂糖と粉が店頭に着いた時は、『ああこれで原料の不安が解消した』と、思わず全員飛び出して万歳を叫んだ。この荷が手に入ったので私は店頭に張り出して、罹災者の方々へは小麦粉を原価の四円で分けて上げることにし、製品のパンや菓子も従前よりはおよそ一割方安く売ることが出来て、罹災者を初め物資欠乏の中にある人々へ、我が中村屋がいくらかでも務めることが出来たと思うと、私はじつに嬉しかった。
 何しろあの大震火災のことで、私の方も災禍を免れたといっても相当の損害はあったが、それも世間から見れば口にして言うほどのものでなく、一人の負傷者さえも出さなかったことは、全く神仏の加護によるものだと真実有難く思い、それがこの原価販売となっただけのことであったが、震災を一転機として店の売上げがたちまち三、四割方の増加となったのには驚かされた。後で耳に入ったところによれば、多くの店が幾割かの値上げをした際に、私の方が平常よりも勉強したことが特に目立ち、中村屋に好感を持って下さる方がふえたのだということで、私はまたここに天祐の上の天祐を感じ、罹災してついに立てなくなった人も多い中に何というもったいないことであろうと思った。
 それゆえこの大震災は、中村屋にとっては重々記念すべきであって、毎年九月一日には震災記念販売をし、当時の店員一同の働きをしのび、その三品をそのままの形で出して原価販売をする慣例となった。すなわち震災記念販売は中村屋の年中行事の一つとなり、お得意でも当時を思い出して、当日は特にわざわざ店を訪ねて下さる方が多く、それらのお客様としても記念販売の三品は、一種異なる愛着をもって年々変りなく迎えられている次第である。

    ウルスス氏と中村屋牧場

 ある日、西郷隆盛然たる一壮夫が私を訪ねて来た。大正十五年春のことである。
『私は北海道のトラピスト修道院に教頭をつとめて居りましたが、教義上のことで羅馬(ローマ)法王と争い、破門されて本日上京致しました。他に身寄りもありませんからなにぶん宜しくお願いいたします』
 紹介者もなく前触れもない全く突然の訪問であったが、我々には何となくこの仁が面白く思われ、一つにはかねてひそかに関心を持っているトラピスト修道院にいたというのにも心惹かれて、それ以来彼和田武夫氏は我が家の客となった。
 妻は彼を綽名してウルスス君と呼んでいた。ウルススとはシエンキエイッチ作「何処に行く」の中に出て来る巨人で、暴帝ネロの眼前で猛牛を圧殺して姫君を救うというその面影に彼が似ているというのであった。
 私はウルスス君を眺めていろいろ考えたが、菓子屋の中村屋にはこんな巨人に向く仕事がない。彼も自発的に巡査を志願して試験を受けに行った。どういうことを試験されたかと訊くと、
『富士山の高さは何程あるかと訊かれましたから、私は登ったことがないから知りませんと申しました。それから、泥棒を捕えた時はいかにすべきかと言いますから、私は、泥棒には将来を戒めて逃がしてやります、世間には泥棒などより悪いことをする奴がたくさんあります、その奴らを捕えないうちは小泥棒などは許してやるべきだと答えて来ました』
 これではもう落第に決まっていた。そこで、
『君は宗教のこと以外に、世間の仕事を何か知っているか』
 と聞いて見ると、彼は修道院において、ジョアンという世界的農学者(現在オランダの農科大学長をしている)から牧畜のことを学びましたということであった。
 ちょうどその頃、私は四男の文雄を南米ブラジルにやって、そこで彼の新天地を開拓させようと考えて、文雄もこのことを喜び、南米行の予備教育を受けるために、日本力行会(故島貫氏創立)の海外学校に在学中であった。そこで私が考えるのに、海外に移民する日本人が牧畜の知識を持っておらぬのが最大の欠点で、これがあれば彼地での発展に大いに役立つであろうと思われた。すなわち当時の力行会長永田氏にこのことを話し、乳牛持参の牧畜教師を雇ってくれますかというと、永田氏も大いに歓迎するということであった。私は早速七百五十円の乳牛一頭を買い、校庭に牧舎とウルスス君の住宅とを新築して、彼を学校に送った。
 ところが僅か二ヶ月で、海外学校にウルスス君を中心として事件が起った。何しろ羅馬法王と争うほどの熱血漢ウルススのことで、たちまち血気の学生の共鳴するところとなり、一にも和田、二にも和田で学校職員の手にあまり、今一歩で騒動が勃発するという報告に接した。私は困った。どうもそういう学校騒動のたまごを持ち込んだのでは、会長に対しても全く相済まぬことであった。そこで牧舎と住宅とはそのまま学校に寄付して、彼に牛を曳いて帰って来いと命じた。
 すると大きな体のウルスス君が牛を曳いてノッソリと帰って来たが、特別大きなこの二つの存在には、第一入れる場所からして無い。私も全く当惑した。ことここに至れば完全な牧場を設けて、この両者を活かすよりほかなしと決意した。
 そこで獣医学校の大槻雅得氏に設計を託し、三井家の牧場をも参酌して、きわめて小規模ながら牧場を自営することとなった。すなわちこれが仙川にある中村屋牧場である。
 この牧場はこんなわけで出来たが、今日では最も優良なる生乳と生クリームとを供給し、中村屋にとり、なくてならぬ存在となった。窮余の一策としてやむにやまれず設けたものが今日これだ。人間万事塞翁が何とやら、うまいことを言ったものだと思う。
 また私はこの牧場経営で、二年ほど苦労したが、その後欧州視察の旅で、この知識がたいへん役に立ち、あちらの農業視察に大いに便宜になった。欧州の農業経済を知るにはその基礎たる牧畜の知識を切要したからである。
 もう一つの幸いは、ウルスス君が私の所に来て以来、修道院製造のバター、チーズ、タニヨール、果物漬などを中村屋が取扱って全国に配布することになった。

    四囲の刺激に一段の飛躍

 三越が新宿に進出し、現在の二幸のところに支店を開いたのは大正十五年十月であった。まだその頃の新宿は新開の発展地とはいえ、これといって目に立つほどの商店もなかったから、三越支店の出現が、新宿一帯の地に与えた刺激は大きかった。地元の商店で多少ともその打撃を受けないものはなかったが、中村屋(当時売上げ月二万円程度)でも、月額千円に上った商品切手が全く出なくなり、その他の売上げにおいておよそ二千円を減じ、合わせて三千円の激減を見た。これらの客はすべて三越に吸収されたものであった。
 私は考えた。鳥なき里の蝙蝠(こうもり)という譬(たとえ)があるが、三越という大きな鳥が出現して中村屋がただちにこの打撃を被るのは、やはり中村屋の商売にまだ一人前として足らぬところがあるからである。これは大いに反省し環境に従って一段の飛躍を遂げるのでなかったら、せっかく独自の位置を築いて来た中村屋が、今後百貨店のおこぼれを頂戴する悲運に陥らぬとも限らぬ。これは一刻も猶予ならぬ、奮起するはこの時であると。
 私はこの難関突破の決意をもって、翌昭和二年一月、幹部会を開いた。ところが幹部めいめいの感ずるところもほとんど同じであって、誰一人弱音を吐くものはない。
『我々が多年努力して今日の繁栄を築いた新宿です。相手がどれほどの大資本であろうと、飛入り者の後について行けるものですか。御主人にもどうかこの辺御決心を願いたい』と、これが期せずして一致した意見であった。私も胸中を打ちあけ、一同に対策を諮(はか)ったところ、店員側は何よりもまず閉店時間を、これまでより二時間延長し、日曜日も平日の時間通り営業することを希望した。
 それまで中村屋は平日午後七時閉店、日曜大祭日は五時閉店のきまりであった。夏の夕の五時以後は盛り場の新宿のことで、優に半日分以上の売上げがある。私はそれを承知していたが、世間の人が一週に一度の日曜日を楽しんでいる時に、我が店員は平日よりもいっそう多忙に過ごすのである。せめて夜だけでもゆっくりさせてやりたいものだと考え、得意への御不便を察して恐縮しながらも、五時閉店を固守して来たのであった。
 それを今度は店員一同、店のために進んで時間延長を希望し、日曜祭日の夜の僅かな余裕も犠牲にしようというのである。私はこの一同の案を容れるとともに、七時以後の時間を甲乙二班に分って隔日交替とし、この時間における売上げの五分を、その日の当直店員に特別手当として支給することに決めた。
 次に、各工場の職長に日本一の技術者を招聘(しょうへい)したいという私のかねての宿望を実現することになり、二月初旬には日本菓子部に荒井公平、洋菓子部に高相鉄蔵、食パン部に石崎元次郎の三君の入店を見ることが出来た。喫茶部の開設を決定したのもこの時であった。これで中村屋の陣容はやや整い、目前の不利な形勢に対しても、これならば恐るるに足らぬという自信を持つことが出来たのである。店員一同の奮闘もまためざましかった。果たして形勢幾許(いくばく)もなくして回復し、その後売上げは急激な勢いをもって増大した。
 翌三年三月、私は欧州視察の旅に上ったが、ちょうど船が台湾沖にさしかかった時、私に無線電信が入った。私は妻が病床にあるところを発って来て、絶えずそのことが気にかかっていたから、電報ときいてぎょっとしたが、恐る恐る開いて見るとそれは店から打ったもので、「売上げ二千円を突破す」という吉報であった。
 そういうふうで、昭和三年は中村屋の素晴しい躍進を記録した年で、その売上げは三越支店開設当時に比し、優に二倍を超過した。この意味において三越の新宿進出は、中村屋を一人前に育ててくれたものとして大いに感謝に値するのである。

    純印度式のカリー・ライス

 中村屋の喫茶部開設については、その二、三年前からすでに気運が動いていた。今日でこそ新宿には多くの喫茶店が軒をならべ、各々その特色を発揮して景況いよいよ盛んだが、昭和二年にはまだ喫茶店らしいものは一軒も見当らなかったのである。しかし土地が次第に賑やかさを加えるにつれ、自然茶をのむところの必要も感じられ、中村屋のお得意からもちょっとした小休み程度の喫茶部を設けてほしいがという希望はたびたび出ていた。
 しかし私は、喫茶のような丁寧なお客扱いは容易に出来るものでないからと独りぎめにきめて、それまで手をつけなかったのであるが、婿のボースが、彼の祖国印度に対する日本人の認識の誤りがちなのを歎き、中村屋で喫茶部をおくならば、純印度の上品な趣味好尚を味わってもらうために、自分はぜひ印度のカリー・ライスを紹介したい、現在世間でライス・カレーと称して行われているものは、もとは印度から出て世界中に拡まったものだが、日本では次第に安い材料を用いるようになり、今では経済料理の一種としてひどく下等になっている。印度貴族の食するカリー・ライスは決してあんなものではない。肉は最上級の鶏肉を用いるのであるし、最上のバターと十数種の香料を加え、米もまた優良品を選んですべて充分の選択の上に調えられる最上の美味である。と熱心に喫茶部開設の希望をした。ボースはすでにその妻を失っていたが、その亡妻俊子は私の長女であった。英国政府の迫害の中にある印度志士の彼に嫁した俊子は心労の果てに若死したが、それ以来印度というものに対する我々が親愛の情もまたひとしおに深いわけであって、ボースの印度料理案が出るに及んで心動き、ちょうど店の新計画と一致して、いよいよ昭和二年六月喫茶部開設となり、同時に印度式カリー・ライスを公開したのである。
 果たして純印度式カリー・ライスは、洗練された味覚を持つ人々によろこび迎えられ、現在いよいよ好評であるが、純印度式であるとともに我々日本人の口にあうように、またその最上の美味を出すためには、一通りならず苦心した。まず問題は米であった。カリーに用いる米はカリーの汁をかけるとすうっと綺麗に平均して、よく浸み透るのでなくてはならない。初めは本場の印度から取り寄せて見たが、一斤(約三合)五十銭につき、見た眼にはじつに美事であったが、その味は日本人に向かなかった。
 そこで、先に新兵衛餅を教えてもらった畑中氏をまたまた煩わすと、氏はカリーに最も適当する白目という米のあることを教えてくれた。
『維新前、江戸は美食を競うところであって、ことに各藩の勘定方など、価の高下を問わず美味三昧を誇りとしたものであるが、この人たちは好んでこの白目米を用い、また一流の鳥料理、鰻屋にはぜひともなくてならぬ米であったから、他の一等米に比しておよそ三割方の高価であったが、毎年三千俵の売行きがあったものだ。維新とともにそういう微妙な舌の持主は落魄し、にわかに粗野な地方人の天下となったのであるから、爾来白目米を味わい分ける者もなく、今日では僅かに当時の百分の一くらいが用いられるだけで、それすら年々減少する傾あり、この珍品白目米も遠からず種切れとなる恐れがある』と。
 私は畑中氏からこれを聴いて、我が中村屋のカリー・ライスのためにぜひともこれを復興させねばならぬと感じ、早速産地埼玉県庁に照会して、時の産業課長近藤氏の賛助を得、農会長の肝いりで十二人の老農を選択してもらい、一等米より二割高で引き取ることを約束して、白目米三百俵の栽培を頼んだ。これが現在中村屋のカリー・ライスに用いている米である。明治初年、文人画家として令名のあった奥村晴湖女史は、古河藩の家老の娘として生れ、一生を美食で通したというが、女史は白目以外の米は口にしなかったそうで、実際白目米には他のいかなる米も及ばぬ味がある。私はこういう良い米を復興し保存し得たことをよろこんでいる。

 次はカリー・ライスの鶏肉、いかにして良き鶏肉を得るかということであった。私は欧州視察中パリの食料品市場を見て、鶏肉に大変な価格の開きのあることを発見した。下等品と最上品では一と四の割合であった。私は日本ではせいぜい一と二ぐらいの違いであったと思っていたから、フランス人がそこまで肉の優劣を味わい分けるのに感服し、帰朝の上は自分もフランスに劣らぬ優良鶏肉を作り出し、中村屋のカリー・ライスを一段と向上させなければならぬと考えた。しかしそういう知識の全くない私のことである。どうすれば最上の肉が得られるか、見当もつかない。よく肥えた最上の肉を納入せよと鳥屋に命じるだけであって、それ以上立ち入ることが出来なかった。するとある日一人のお客様が私に対して、
『お店のカリー・ライスはじつに美味しいが、惜しいことには肉がなってませんね』
 さてはと思って私はなおくわしく肉の批評を乞うと、
『この肉は鶏舎飼いの鳥で、普通品です』
『いや、優等の肉の筈です』
 と私が答えると、
『色が白くて、やわらかで味のないのが鶏舎飼いの証拠ですよ。上等の地どりなら色が赤くてもっと締って、味もはるかに優っている筈です』
 そこで私は鳥屋を呼んで、
『最優良品という条件で、値も高く買っているのに、鶏舎飼いを納めるとは怪しからんではないか』
 と詰問した。すると鳥屋は恐縮して、
『毎日これほど多数お使いになるのですから、地どりの上等だけで取り揃えることは困難なのです。時には御註文だけ揃わないことがあって、致し方なく普通品の中から上等のものを選んで混ぜることにもなりますが、どうか御辛抱を』
 という。
 それから私はこれまでの鳥屋まかせを改めて、専門の人々にも訊き、本格的に鶏肉の知識を漁った。江戸時代の第一流といわれた鳥料理店では、この原料の優良なものを集めることに非常な苦心をしたものだそうで、優等品は並品の三倍以上もするということが判った。しかし優良な地どりでも、フランスで四倍の高価を保っている肥育鶏にはやや劣る。で、この肥育鶏を用いることが出来れば申し分ないのだが、肥育鶏は今より十五年ほど前、岩崎家が千葉の末広農場で試みられたのが日本における最初で、この肉は当時外国公使館などで歓迎されたが、僅か数年の試験に五、六万円の赤字を出し、ついに中止されたとのことであった。しかしその後も、英国帰りの伴田という人が蒲田町でやっているということが判った。
 私は伴田氏の鶏舎を訪ねていろいろ実状を調べたところ、丸鳥で百匁七十銭程度に取引きされて、当時の並鳥二十銭に対して三倍半の値で、フランスの四倍にやや接近していたが、ここの肥育鶏は惜しいことに種々雑多の種類を集めたもので、味が平均せぬ憾みがあった。私はこれをさらに一歩進めて食用鶏として最も味の優れている軍鶏(しゃも)の一種とし、自分の手で飼育すれば完全なものが得られるのだという結論に達し、そこで初めて山梨県に飼育場を設けたのであった。
 飼育場主任としてこの仕事に当った河野豊信氏は、農林省の畜産試験場で養鶏の研究をしていた人で、ここに初めて本格的の肥育が試みられることになった。その後年々需要が増加し、そこだけの設備では供給が出来なくなったので千葉県に移転し、これでようやく一年間を通じて同じ優良鶏肉を供給し得る、完全な飼育場を持つことが出来たのである。
 こうして私のパリ以来の懸案は解決されたが、初め考えたよりもその実行ははるかに困難であった。カリー・ライスが好評なのでその後お客様から、『もし中村屋でビフテキを食べさせるならきっと最上のものが出来ると思うが、やって見ないか』というお勧めも出たが、私はその原料精選のことを考えて、今もって手を出し兼ねている。今日最上の牛肉は多く一流のスキ焼店に買い占められて、市中の肉屋の手に入ることはきわめて稀れである。それでは中村屋が真に美味しいビフテキを提供しようと思えばやはり軍鶏同様、自家経営で数百頭の牛を肥育するよりほかないのである。こう考えるから喫茶部にさらに一品の料理を加えるのもじつに容易でないのである。
 かつて石黒忠悳翁が明治初年の頃、八百善に行き、鯛料理を註文したところ、主人が出て『ここ数日、鯛が品切れでございます』と挨拶した。『それでも昨日某鯛料理店では百人ほどの膳に鯛をつけたが』と翁が怪しむと、主人は『地鯛なら何程でもありますが、手前のところでは興津鯛を用いますので』と。翁はこれをきいて『なるほど、さすが八百善だ』と感心されたということであるが、一流料理店の苦心の一通りでないことはこれによっても察しられる。

    印度志士の問題

 印度人のボースが私の聟(むこ)となり、日本に帰化し、中村屋の幹部として働くようになった因縁については、妻がすでに「黙移」の中に詳しく書いているから、それを参照してもらうことにして、私はむしろ「黙移」を補足する程度にごく大略を述べることにする。
 ボースは印度ベンゴールに生れた。階級の厳重な印度で彼の家は四階級の第二なる王族階級であった。彼は十六歳の時父のもとを離れ、祖国を英国の圧制より救わんとする革命運動に投じ、そのうちにラホールにおいて印度総督に爆弾を投じて以来、英国政府は彼の首に一万二千ルピーの懸賞金を付していた。
 しかも彼は巧みに英国の魔手を逃れ、大正四年六月日本に亡命した。英国政府も彼が日本に入ったことを察知し、内々探査を進めていたが、その年十一月、在日本の英国官憲はついにボースを発見、日本政府に迫って彼を国外に追放せしめようとした。しかしこういう政治犯は各国ともにこれを保護する習慣であるし、現に英国自身国際的先覚者をもって任じ、その本国では各国の亡命客をどこの国よりも多く保護しているくらいであるから、ボースを印度革命の志士だと言ったのでは、日本に対し目的を達することができない。そこで苦肉の策を案じ、ちょうど欧州大戦中であったから、ボースを世界の敵なる独逸(ドイツ)の秘密探偵として日本に潜入したものであるとなし、彼が日本から追われて領外に出るのを待って殺そうという計画を立てた。大英帝国ともあるものがじつに卑怯千万な話であったが、当時我が政府の外交に当る人々は、欧州列強に対し甚だ弱気で全く受身であったから、こんな侮蔑的要求をも拒否することが出来ず、ボース及び同志グプタの両志士に対し、一週間以内に国外へ退去することを命じた。
 このことが聞えると、言論機関は一斉に立って我が軟弱外交を攻撃し、気骨ある志士は猛然とこれを論難した。とりわけ頭山満翁を頭目として犬養毅、寺尾亨、内田良平、佃信夫、中村弼、杉山茂丸等数十名の同志は我が国の独立的体面を守らんがために政府に抗し、自ら躬(み)をもって両志士の生命を保護しようと盟(ちか)い、そこに必死の猛運動が起されたことはいうまでもない。しかし当局は英国政府の手前、退去命令を撤回することが出来ない。そのうちに一週間の期限も迫って第六日目となり、十二月一日、今や同志の生命は風前のともしびとなった。
 我ら夫婦もこれを日々の新聞紙上で承知して、志士の身の上が気の毒であり、また国家としても独探などとは口実と知りつつ他国の強要に従わねばならぬとは、何という残念なことであろうと考え、同志者の骨折りも水泡に帰して、彼ら二人もいよいよ明日は死地に赴くのかと感慨に耽る中にも、まだまだ最後ではない、何とか急に道が開けるかもしれないという気がしていた。すると偶然そこへ中村弼氏が買物に見えた。私はすぐに、どうなりましたかと訊ねた。氏は憮然として『絶望』だという答であった。私はその時どういうふうに言ったかおぼえていないが、家の裏に美術家たちのいた画室が空いているし、また我が家は外国人の出入りも多く年中雑然としているから、こういう所なら同志を匿(かく)まえるかも知れないという考えを、自ずと中村氏に洩らしたものであった。
 万策尽きた際とて、これが中村氏から同志の人々に伝えられ、あらためて頭山先生からお話があって、ボース、グプタの二氏を私に託されることとなった。
 その晩大きな黒い男二人は、退去の挨拶にまわった頭山邸から闇にまぎれて姿を消してしまった。警視庁の狼狽は一通りでなく、たちまち上を下への騒動で、大がかりな捜索をしたが、どうしても両人の行方は判らない。英国大使よりは、有名な日本の警視庁ともあるものが、色の異った大男二人を帝都の真ん中から取り逃して、行方が判らないなどとは奇怪至極だ、これは日本政府の八百長に違いないといって、毎日幾回となく外務省へ詰問的照会をする。その折衝に当った外務省の木村鋭市氏は、後に私に会った時『君のために三、四年の寿命を縮めた』と言われたが、私としてもあの厳しい捜索の中でよく匿し了せたと思い、氏の述懐をきくにつけてまたさらに感慨を深うした次第である。
 こうしてボース氏を匿まうこと四ヶ月半、その間に英国はますます猜疑の眼を光らし、態度はますます露骨になり、日本に対し無礼の事柄が少なくなかったので、さすが事勿(ことなか)れ主義の石井外務大臣もついに勘忍袋の緒が切れたのであろう、俄然態度を硬化し、両志士を秘かに保護する決意を告げて、頭山翁に面会を求めて来た。それは大正五年四月十五日のこと、会見の場所は四谷見付の三河屋であった。今はもうなくなったが三河屋は当時東京一の牛肉屋で、座敷も相当立派であったし、まだ明治気分の残っている時代のこととて、スキ焼を囲んで毎度知名の士の会合の場所となったものである。
 そこでボース氏の身柄もようやく安全となって、我々の手許を離れることになったが、この四ヶ月余の滞留で我々夫婦と彼とは親子のような情味を感ずるようになり、その後頭山先生の切望によって娘の俊子を彼に嫁がせた。したがってボースと中村屋との関係はいっそう密接となった次第である。
 いま一人のグプタ氏は我が家に滞留中行方不明となり、メキシコに亡命したと言われている。

    露国の盲詩人とルバシカ

 喫茶部では、純印度料理のカリー・ライスのほかに、露西亜料理のボルシチュを出し、また店員の制服はルバシカで、商品には露西亜チョコレートがある。これら露西亜物の因縁については、盲詩人エロシェンコのことを語らねばなるまい。
 妻は昔から文学好きで、私のところに来る前から黒光の名で何か書いていたが、特に露西亜文学に興味を持ち、早稲田の片上伸氏、昇曙夢氏、若くして死んだが桂井当之助氏などと親しくし、また在留の露西亜人で遊びに来るものが多かった。エロシェンコは初め神近市子氏の紹介で来たが、彼は盲学校に学ぶために日本に来たところ、その後に起った本国の革命騒ぎで送金が絶えて困っているということであった。我々は彼が盲人の身で異郷に来て寄る辺もないのを気の毒に思い、かつてボースを匿(かく)まった画室に住まわせて、二、三年の間、家の者同様に不自由な彼の身のまわりの世話などしてやっていた。
 彼は四歳にして失明し、光明を仰ぎ得ずに成長したからでもあろうが、見るところ著しく不平家であった。後、暁民会の高津正道氏等と交際するようになり、当局からボルシェヴィキの嫌疑を受け、退去命令を発せられて日本を去ったが、我ら夫婦は彼が滞留中の日常を通じて露西亜の衣食住に対し新たな興味を持ったのであった。ついに大正十一年六月ハルピンまで出かけて行って、露西亜料理や露西亜菓子を味わい、初めてそのうまさに驚いた。すなわち喫茶部開設に当って、カリー・ライスに対し露西亜のスープであるボルシチュを加えることにしたのである。
 エロシェンコは常にルバシカを着ていた。我々はそれを見て洋服よりもはるかに便利でかつ経済的であることを知り、店の制服として採用したのであった。有名なトルストイ伯も常にルバシカを愛用したと聞いている。
 今日でこそルバシカは珍しくもないが、中村屋で採用した当時はずいぶん目に立ち、ロシヤ服を着ているという廉(かど)で店員が警察に引き立てられたことなどもあった。
 エロシェンコの退去問題で警察と中村屋の間に一騒ぎあったことは「黙移」にも記されているが、私もまたここに自分のおぼえを書いておこう。それは大正十年五月のことである。警察が私の家からエロシェンコを引き立てようとした時、私は彼の保護者としての立場から当局と折衝して、『今日はすでに日没後でもあり、かつ行政処分は夜中に執行すべきものでもないから待ってもらいたい。明朝八時、私が彼に付き添って警察に出頭します』と保証したにもかかわらず、警察ではその夜の十時過ぎ、三十二名の警官が隊をなして私の家を襲い、この一盲人を引致し去った。その際警官隊の行動は狼藉を極め、争って屋内に闖入(ちんにゅう)し、私や妻の室まで土足で踏み荒し、言語道断の暴れようをして行った。
 私は警察の不法に驚き、忠良なる日本臣民としてこれを許しておけることでないと思った。私は滅多に怒らないが、この時は真に公憤を発したのである。
 翌早朝淀橋署の刑事主任が来て、前夜の無礼を陳謝し、署長も恐縮して、後刻お詑びに来るからという。私は署長が真に反省してあやまりに来るのならば、将来をよく戒めて公の手段を取ることは見合わせようと考えた。しかし署長はとうとう顔を出さず、この事件の始末に対し全く誠意のないことが知れた。
 そこで私は、警察官が乱入した際に落して行った眼鏡や手帳などを証拠品として、淀橋署長を相手に家宅侵入の告発をした。弁護士や友人たちは、警察を相手取っての訴訟は将来営業上に何かと祟られて煩(うる)さかろうから、思い止ってはどうかと忠告してくれたが、私はそういう意味で泣き寝入りする者が多く、ためにいっそう官憲の横暴が高まるのであると考えたので、多少の犠牲は覚悟の上で断然出訴したのであった。
 その結果は、淀橋署長黒葛原(つづらはら)氏の辞職となった。私もそれ以上の追及は気の毒と考えたので出訴を取り下げ、三十二名の警官たちに対しては、彼らはただ署長の命令で行ったまでのことであるから、別に問題としなかったのである。
 黒葛原(つづらはら)氏は去ったが、幸いにして私の真意は警察側に通じ、怨恨を残すどころか、これによって警察と中村屋は事件前よりかえって理解を進めた形となった。真剣に対立して見て初めて誠を感じ合ったというものであろう。
 警察側がただ一人の盲人を連れ行くために、夜中三十二名の警官を動員したなどは全く常識の沙汰でないが、これはボース事件の記憶からこのたびも私がエロシェンコを匿しはせぬかとの疑念から出たものであったろう。しかしそれとこれとは全然問題の性質が異い、エロシェンコに対しては私は最初から国法に服従せしめる方針をとり、その態度は自ずから明白であったのである。ただ警察は疑心暗鬼にとらわれたのであって、思えば黒葛原氏も気の毒なことであった。
 ボース事件も、この黒葛原氏が麻布署長の時代であったというが、同氏と中村屋とはよくよく因縁が深かったものだと思う。

    月餅の由来

 月餅も支那饅頭もこの頃では世間に広く行き渡ったが、私は先年支那に旅して初めてこれを味わい、支那みやげとして売り出したものであった。
 私が妻と支那見学に赴いたのは、昭和二年十月、ちょうど新宿に三越支店が乗り出して来た秋であった。当時支那は張作霖の全盛時代で、幣原外相の軟弱外交に足下を見透かされてか、日本人は至るところで馬鹿にされていた。私が奉天北京間の一等寝台券二枚を求めると、その一人分の室は満州兵のために横領され、我々両人はその一夜を寝ずに過ごさねばならなかった。もっともこんな目に遭ったのは我々ばかりでなく、白耳義公使が北京郊外の明の十三陵見物に行って、匪賊(ひぞく)のために素裸にされた事件もこの当時であった。
 そんなわけで、我々がぜひ見たいと思って行った大同の石仏も、そちらはことに危険だからと留められて、ついに見ずじまいで帰って来たが、北京では坂西閣下や多田中将(当時中佐)の斡旋で、宮殿も秘園も充分に見学し、僅かな日数ではあったけれど、とにかく老大国の支那というものの風貌に接することが出来たのは幸いであった。
 この北京見物においても私の興味を惹いたのは、北京城内にある大市場であった。南北二十五町、東西十町ぐらい、その広大な地域に数千戸の商店が軒をならべ、市民の生活に必要なものはことごとく揃っており、各種の遊戯場、温泉、料理店、全くお好み次第の盛観で、しかもこの地域には雨も降らず、風も吹かず、煩わしい馬車の通行もないのであるから、これは全く平面的大百貨店であった。
 当時この市場の近くに、近代的な高層建築の百貨店が出来ていたが、この方は至って淋しく、この大市場は殷賑(いんしん)を極めており、興味ある対照をなしていた。
 聞けばこの市場の販売力は、北京住民の必需品の約四割を占めるということであったが、その偉観には私も思わず驚嘆の声を発した。当時私は小売店の死命を制する百店貨に対して真剣に研究を進め、百貨店視察のために欧州に行く前でもあったから、特にこの市場に注意を惹かれたのであった。
 この旅中に日本人の一喇嘛(ラマ)僧に会い、支那では古来八月十五夜に「月餅」と称する菓子を拵え、これを月前に供えるとともに、親しい間に盛んに贈答が行われるという話を聞き、何となく彼我風俗の相似するのを感じて、我々はこの新菓をばこの旅行記念として日本への土産にしようと決めた。日本の十五夜に支那の月餅を売る、これもいささか日支の間に融和を図るものではあるまいか。
 ここに月餅の由来につき興味ある話があるから、少しこれを語ろう。
 明の時代のこと、蒙古から支那に伝来した喇嘛(ラマ)教が盛んになって、喇嘛僧の勢力が増大するにつれ、弊害百出し、社会を毒すること極度に達した。心ある人々これを憂い、饅頭の中に回章を秘めて同志の間に配布し、八月十五日の夜志士ら蹶起(けっき)して喇嘛僧を鏖殺(おうさつ)し、僅かに生き残った者は辛うじて蒙古に逃れ、支那には全く跡を絶った。しかし冠婚葬祭のすべてを喇嘛教の宗教的儀式によって行っていた長い間の習慣はなかなか消えるものでなく、秋至り十五夜を迎うるごとにいまさらの如く彼らをしのび、また回章を封じて配った饅頭の故事を記念して年々この菓子をつくり、贈答するに至ったもので、明月に因んでこれを月餅と称したのであるという。
 中村屋でも初めはこれを八月の一ヶ月だけ売ることにしていたが、一方支那饅頭の好評とともに、月餅を愛好される人も年々増加するので、その希望に従い、今では年中製造して売ることに改めたのである。
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 若き人々へ

    借金繰りまわしの苦心

 ここで私は少し中村屋創業時代の資金のことについて考えて見たい。『資金さえあればどんな仕事でも出来る』とは人のよくいうところであるが、幸いにどこからか資金が得られたにしても、金には利子がつく。また元金も漸次返却せねばならない。ところが利子も払い元金も返してなお利益のある仕事というものはきわめて少ない。何の仕事にしても、資本を借りてやっていくことはなかなか容易ではないのである。
 前にも記せし通り私が、本郷で中村屋を譲り受けた際には、友人望月氏から七百円を借り受け、それに子供の貯金三百円を加えて、都合一千円を資金として商売を始めたのであるが、幸い成績が悪くなかったからそれ以上の金融を必要とせず、国元からはいささかの補助も受けずにやり通せたのである。
 その後新宿に移って、今の土地を三千八百円の権利で譲り受け、そこへ今日中村屋の誇りとする欅柱の純日本家屋(新宿足袋屋の店)を譲り受けて追分から移し、裏手にパンと日本菓子の工場を建て、食堂、湯殿等も増築しておよそ三千円を費した。これがすべて借金になったことはいうまでもない。
 いまその借金を一々説明する要もないが、とにかく営業の進展とともに流動資本なども大きくなり、やむを得ず家屋を担保として銀行から借りねばならなかった。
 私は高利の金を使っては営業は立ち行かないと考えていたので、一割以上の利子は払わない方針であったのだが、保険金の内借りまでしてまだ足らず、ついに銀行から一割二分の利子で、ほかに借入れ手数料二分、期限の借換えの時に踊りと称して一ヶ月分の利子を取られたので、合計一割五分の高利を払って借金した。
 この高利には閉口した。ほかに預り金と貸家の敷金と、併せて九千余円の借金になった。この時のことである、私は国元へ墓詣りに行くと、父が八分の利子で人に金を貸している。それまで私は一度も父に金の話をしたことはなく、父もまた我々にいっさい干渉しなかったのであるが、なにぶんこちらも苦しんでいる時なので、父が銀行の高利な借金でも融通してくれたらと思い、話をして見た。すると父は、借金が九千円もあると聞いて驚き、『田舎の貴い金を、危い東京などに融通することは出来ない。ただしお前たちが東京でやりきれなくなった時は、何時でも帰って来るがよい。私は両手を開いて迎えてやるから』
 と、まことに父の言葉に無理はないのであった。私は親に対してよしないことを言ったものと後悔し、その後は金の話はいっさい耳に入れぬことにした。しかしその苦労はじつに一通りでなかったのである。幸い店の方は日に日に売上げを加えて行ったので、どうやらこの危機を脱することが出来たが、今思えばもしこの時田舎の父が、よしよしと言って金をまわしてくれたとしたら、おそらく気もゆるんで、かえって後に悔を残すことになっていたかも知れぬのである。(私は順養子となりしゆえ兄を敬して父と称す)
 私はこうして借金に苦心惨憺であったが、店はお蔭で繁昌していたから他人にはそれが判らず、余程の利益であろうと想像して、助力や借金を申し込む者が相当あって困った。内実この有様であるからやむを得ず拒絶すると、それらの人々の中には不人情だとか守銭奴だとか悪声を放つ者もあった。
 もう一つ忘れることの出来ないのは、友人某氏が手許に遊んでいる二千円を一割の利子で融通してくれた。私はその好意を感謝して期限も定めずに借りた。すると僅か二ヶ月ほどで、彼はその金を二割で貸し付けるところが出来たから即刻返してくれという。あまりに突然のことで、それは出来ないとはねつけると、
『俺は利子を普通二割取っている、それを君に半額に融通したのは、こちらで要る時にすぐ返してもらいたいと思ったからだ』
 と言って、妻にまで返金を強要するので、私もせん方なく、八方金策して一千五百円を集めたが、残り五百円はどうしても出来なかったので、友人望月氏に一時の融通を乞うた。
 しかしただちに私は望月氏に頼んだことを後悔した。望月氏は逼迫(ひっぱく)していた。にもかかわらず氏はこの申し出を快諾して、ただちにその五百円を調達してくれたのである。お蔭で急場を救われたものの私は氏の都合が気になって後で訊くと、
『いや、あの金は日歩十五銭(年利五割五分)の高利貸の金ですよ。あなたには毎度融通してもらっているから、たとえ日歩三十銭払っても日頃の好意に報いたいと思ったのですよ』
 望月氏は新聞配達業で金融にはずいぶん苦労していて、私もその窮状を見かね、氏には中村屋創業当時の恩義もあるので、およそ三ヶ年にわたって毎月末相談に応じて来たのであったが、私はいまこれを聞いて望月氏の誠意に涙をおぼえるとともに、よくよくの場合とはいえ、それほどまでにして金策をさせたかとじつに気の毒に堪えなかった。またこれによって、望月氏が常に日歩十五銭もの金を使って仕事していることを知り、ああ彼はこの高利のために生命を縮めるのではないかと歎息したが、果たして氏はついに病いに倒れた。私は若き人々に前者の轍を踏ませたくない。無理な金を使って仕事をすることは固く戒めなくてはならない。

    店舗の改造は考えもの

 現在中村屋では毎日八、九千人のお客を迎え、販売部に製造部に喫茶部に二百七十人のものが懸命に働きつづけてなお手まわりかねる有様であって、わざわざお出向き下さったお客様を毎度お待たせし、御迷惑をかけることの多いのを見て私はひそかに恐縮している次第である。店員諸子がこれではならぬと思い、店を改造し、手をふやし、千客万来に備えて遺憾なきようにしたいと希望するのも、まことに道理(もっとも)のことであり、主人として諸子の熱心を深く感謝する次第である。
 しかも私が諸子の熱望を制して、店舗改造拡張のことを実現するの道に出ないのは何故であるか、改めてここに思うところを述べ、諸君にも考えてもらいたいと思うのである。
 我々はまず、今日世間で中村屋中村屋と推奨して下さって、日々こんなに大勢買いに来て下さることを、真実に有難く思わなくてはならない。もとより店の発展は一朝一夕に招来されたものでなく、そこには三十七年の歴史があるが、しかもその長き年月の間には、努力しながら衰微して行った店も少なくないであろう。それを思えば中村屋はまことにもったいない幸せである。こうして共存共栄を願望すべき小売店として、一軒があまり大を成すことは考慮すべき問題ではなかろうか。
 我々のこの想いはすでに昨年末、ちん餅の価格を定める時にも問題となり、ようやくその一端を現したようなことであった。すなわち中村屋の餅は最上の新兵衛餅ひとすじであって、一般向きに備えているのではないから、御註文下さるのも自ずからきまった範囲のお得意である。これは餅に限ったことでなく、何品でも中村屋の製品はなるべく一つの分野に止め、他店の領分を侵さぬ方針なのである。しかもそれでも歳末のちん餅が比較的安く、そのため近所同業に迷惑を与えるというのでは、考えなくてはなるまい。そこで昨冬は、のし餅一枚につき一般の店より売価をおよそ十銭高くなるようにつけ、その代り目方で気を付けておいたようなことであった。
 ちん餅一つにしてもこれだけの心配りを要するのである。ましてこれ以上に店を拡張したり支店を設けなどして、今日以上の客を集めることは考えてはならない。かつて自分は大百貨店の脅威に対して、小売店として同志に呼びかけ、対抗策を極力主張したものである。どこまでも一小売店としての分に止まり、同業小売店と繁栄のよろこびを共にしてこそ本懐である。
 次に今日の繁昌は、ひとえにこれを社会一般の恩として感謝すべきであって、これをさらに明日においていっそうの期待を予想する不遜は許されるべきものではない。盈(み)つれば欠くるという。なおも店の拡張を計って天の冥護に離れ、人の同情を失えばどうなるか。思いをここに致せばなかなか現状の不自由等をかこつべきではないのである。
 さらに経済の実際より見るも、店を改造するには少なくとも三十万円を必要とする。また販売部を拡張すれば製造場も同時に取り拡げざるを得ず、これがためにさらに二十万円くらいの資金を要し、合計五十万円にも及び、その金利と償却、新たに嵩(かさ)む照明費と税金、使用人の増加等を計算する時は、今日の売価をおよそ六、七分方引き上げねば収支償うことができないのである。それではお客様へ行きとどくようにと思うての改造が、かえって負担をおかけする結果となり、まずそこから中村屋の商売の合理化は崩壊し始める。売品が高価となるからはそれに伴うサーヴィスとして、百貨店などのように遠方まで無料で配達するなどのことも必要となり、経費はいたずらに嵩むばかりで、経営に無理があればそれは必ずお客様に映じ、わざわざお出向き下さるお客も次第に減ずるであろう。よく売れていた店が広く堂々と改造され、面目一新してしかもにわかにさびれる例は、世間にあまりに多いのである。
 なおまたこれを店員全体の連絡の上からみても、好ましくない結果が想像されるのである。これまで中村屋では毎年二十名ないし三十名の新店員を迎えて来たが、これを十年二十年と続けて行ったならば、その多数の者の将来に対し、果たしてよく教育しまた遺憾なく指導することが出来るであろうか。現在だけの人数でさえ、その個々の人物性格を詳しく知ることは困難で、主人として欠くることの多いのを、その父兄に対し当人に対し申し訳なく思うているのに、さらに大勢となってはしらずしらず不行届き不親切となるのを免れまい。また多額の負債を負うて経営に無理が出来れば、その待遇を次第に改善していくことも難かしくなるわけではないか。
 以上、自分が改造を望まぬ所以(ゆえん)の大体を述べたが、なお細部にわたっては改めて語ることにしよう。

    売上げに対する家賃の程度

 商売と家賃の関係について考えて見る。
 商売をするには適当な場所を必要とし、その場所を得るためには相当の資金が要る。私のいう家賃とは、この場所を手に入れまたそれを維持するための費用であって、必ずしも家主に払う家賃に限るわけではない。例えば諸子が独立するとして、まず商売の発展しそうな場所を探し、そこに適当な借家をみつけて借り受ける。そうして月々家賃を払い店を経営して行くのであるが、借家によらないで最初から自分の家を持ち、いわゆる家賃というものを払わないで済む場合もあるであろう。しかしその場合も家賃を払わない代り、家屋の建築費およびその利子、地代、諸税、保険料を合算するとほぼ家賃と同額になる。いずれにしても家賃だけのものは要るのであるから、私は借家であると持家であるとによらず、商店経営の中のかなり重要な部分を占めるこの費目を等しく家賃として計上することにしている。
 売上げの金高に比較して家賃が高いと商売がやりにくい。実際家賃は商品の売価にそれがかかって行くので、いかに勉強したくても高い家賃を払って安く売ることが出来ない。『あの店のものは高い』と言われるのはそこで、客足少なくついに店は維持出来なくなる。表通りの堂々たる店に案外客が少なく、裏通りや狭い路地に意外に繁昌する店があるのは、みなこの家賃の多少に原因するのである。
 それゆえ商売をするには売上げに対して比較的家賃の安いことが大切で、家賃が安ければ安いだけ経営が楽なわけであるが、なかなかそう好都合にはいかない。ではどの程度の家賃なればやって行けるかということになるが、私はまず一日の売上高で、一ヶ月の家賃を支払えるくらいのところを適当と考える。すなわち売上げから言えば三分三厘を家賃に当てるのであって、この程度であれば売価に影響するほどのことなく、尋常に営業していくことが出来るのである。もっとも喫茶店などは少しく事情を異にし、売上金高が小額でしかも相当華麗な室を設備せねばならぬのであるから、その装飾費を含む家賃は売上げの三日分くらいを要することになるであろうし、これに反し売上金高が莫大で、しかも店に装飾の必要なき卸問屋などでは、売上げの百分の一以下の家賃で済むことになるであろう。しかしそういう商売は別として、普通の小売商で営業の成り立っている店なれば、その売上げ一日分と一ヶ月の家賃はほぼ同額、または売上げ以下で家賃が済んでいると見てよかろうと考えられるのである。
『初めのうちは辛抱が大切だ、辛抱して勉強してさえいれば次第に信用がついて売れるようになる』とは誰でも開業当初に思うことであるが、仮りに百円の家賃を払うて営業し、売上げが一日僅か三十円くらいよりない場合には、家賃が売上げの一割一分につくこととなるから、とうてい将来の見込なきものとして覚悟せねばなるまい。しかし百円の家賃で一日百円に近い売上げがあれば店は充分に成り立ち、さらに同じ家賃で売上げが少しずつでも向上して行くようになれば大いに有望で、もしその売上げが二百円にも達するならば、家賃の負担は著しく軽減して、僅かに売上高の一分七厘にすぎなくなり、それだけ商品を勉強することが出来て、その店はますます発展することになるのである。
 さて心得ねばならぬのは、店がどれほど繁昌するようになった後もこの原則は変らぬことである。繁昌するからといって店を壮大に拡張し、いわゆる家賃の負担が重くなれば、それはただちに商品に影響し、したがって店は下り坂となるであろう。すなわち改築の要迫るといわれる中村屋は、いまこの自戒すべき時に立っているのである。
 顧みれば三十七年間、我が中村屋の過去いろいろの時代について、売上げと家賃の大略をあげてみると、本郷時代の中村屋は間口三間半で家賃十三円であった。それで売上げは店売およそ八円で、配達と卸売りで五円、合計十三円でちょうど家賃と同格、新宿移転時は間口四間で家賃二十八円、売上げは一日二十五円ないし三十円であった。
 新宿移転後一年で現在の場所に移り、初めて自分の家を持ったが、間口五間、奥行二間半(十二坪半)、同時に日本菓子の製造を始めたので、売上げは一躍して七十円に上った。しかしこれまでの家賃に代るに地代十六円、建築費やその他の利子、家屋税、保険料を合算してやはり七十円ぐらいであった。
 ここでは初め売上げに比して店が少々広すぎるぐらいであったが、その後売上げが漸次増加して甚だ手狭を感じるようになって、改めて奥行を三間半に拡張したが、店はいよいよ忙しくなって、拡げた所もじきに狭くなり、事情に応じて半間あるいは一間と奥行を延ばして行き、間口も五間を七間として、都合六、七回にわたって十二坪半から五十坪まで漸次建て増し、ある時は改造後ようやく六ヶ月でさらに改造の必要に迫られたことなどもあった。友人等は私のやり方があまりに姑息(こそく)で、かえって失費の多いことを指摘し、どうせ拡げるものなら将来のことも考えて、一挙に大拡張してしまってはと忠告してくれたほどであったが、私はこれには従わなかった。店が急に広くなってお客様がさびれ、ガランとしてしまう例はいくらもある。後から後からお客様で満たされる店の賑わいを当然であるかのように思い、建築費を節減しようとしてはるかの先を見越しての改築は後悔を招く場合が多い。私はこう考えていたので、その後もやはりお客様の増加に応じて少しずつ拡げて行き、再々増築の手数と費用を我慢したことであった。
 その後大正十二年、売上げ一ヶ年二十万円(一日平均五百余円)を見る頃になって、税務官との間に意見の相違を来たし、私個人の店を株式会社に改め、会社から家賃五百円を受け取ることにした。すなわち三分三厘に当る。
 最近には売上げもさらに増加して一ヶ月十八万円に達したが、家賃は四千五百円であるから二分五厘となり、すなわち八厘方格安となった。それだけ得意に対し勉強し得ることとなったのである。

    店の格を守る

 私は経済の点をしばらく離れて、店の「格」というものを考えて見る。人に人格のある如く、店にもいつとなくその店の「店格」というものが出来ている。この店格なるものについては、別に根本的に言って見るつもりであるが、とにかくここではその店の持前持味とでも解釈しようか、一つの商売を大切に護って相当年数を経て来た店というものは、長い間にその店独特の気分をつくり出しているものである。
 店の格などというと、階級的な意味に聞えるかも知れぬが、私が言うのはそれではなく、繩のれんには繩のれんの味があり、名物店には名物店の趣きがあり、扱うところの製品を主として店主の気風も自ずからそこに現れ、長年愛顧のお得意の趣味好尚に一致する何物かが、その根底に血脈をなしていることは争われぬのである。すなわちその店特有の空気というか色というか、それはどこがどうと言いようのないものではあるが、天井にも柱にも看板にも、あるいは明りの具合一つにも、きわめて自然に感じられる一種の馴染(なじみ)深さである。
 私はこの、古い店が持っている馴染深さ心安さを大切にせねばならぬと思う。もとより古い店の構造には今日から見て物足らなく思われるものがたくさんある。例えば現在三階を持つ中村屋にエレベーターのないことなども、あるいはその一つに数えられるかも知れない。このエレベーターのことも後でいうが、大勢おいで下さるお客様に店内が狭くて御迷惑をかけるということを第一として、我々はじつにその足らぬもの欠けているものを切々と感じ、それをも厭わずわざわざ中村屋に来て下さるお客様に対してこれではならぬと、改築の希望も出るのであるが、我々はここでもやはり分を忘れてはならぬのである。経費の点はしばらく措くとしても、大規模に改築すれば、この店が長い年月を重ねて徐々に恵まれたこの賑やかな雰囲気は失われてしまう。
 むろん新しく出来るものは、古くからあるものよりどんなに進んでいるか知れない。例えば照明のこと、ショー・ウィンドーの設け、売場の作り方、ケースの高さ等々研究の至らぬ方もなきこの頃である。下手なものの出来る筈はなく、改築とともに店は必ず見違えるほどの立派さ晴れがましさになるであろう。現にあちらでもこちらでも古い店が次第に改築されて、明るいモダンな構えになり、混雑して狭かった店が拡張されて綺麗に片づき、店員の手もふえ、用意万端整うて立派になりつつあるのを見受けるのである。
 けれどもその立派になった店構えが、妙によそよそしく感じられ、入口が何となく入りにくく思われたりするのは何故であろうか。むろん商売にもより、改築の効果大いにあらわれ整然として品格上がり、いっそうそれがお得意の好みに適するという場合もあるが、我々のような小売店で、しかも菓子屋のような商売は店頭の入り易いことが第一、たとえ雑然としていても、年中平均した賑わいを店内に持っていることが大切なのである。その点中村屋のような和風建築は、間口がことごとく開放されていて、たとえ手狭であっても全体としてはまだまだ寛濶な感じで、出入りし易いのではないかと思う。古い構えを長年守って来た老舗が入口の狭い洋風建築に改造して、売上げを半減したという話も耳にしたことである。
 じつにこの店構えというものは、床の高低一つでも大きな影響を及ぼすものであって、店の床は道路面から少しく爪先下りくらいになっているのが入り易く、また内の商品も床の低い方が賑やかに見えるなど、いろいろ微妙な点があり、古い店ではこの消息が自然に体得されており、目立たぬところに完全な備えが出来ていて、一つのいわゆる福相となって潜在するのである。ところがそういう店でもいよいよ改造という段になると、当然近代の新様式を取り入れるため、長い間に調うていた呼吸が破れ、たとえば地下室を造る必要上、床が路面より高くなって入りにくい構えになるなど、その他種々思わしからぬ個所が出来て、外見は立派になりながら人好きのせぬ店になり、一つには店内あまりに整然として広さが目立ち、お客の姿が急にまばらに見えるなど、改造とともに一頓挫を来たした形になる例が多く、しかもいったん改造し拡張してしまったものは、もう取返しがつかぬのである。
 さてこう述べてくると私の改築反対は著しく消極論のように聞え、諸君の盛んな意気に反する感があるかも知れぬが、私は決して消極的でも何でもなく、どこまでも内容の積極性を失わざらんがために、勢いにまかせて外形だおれに陥ることを避け、大いに自戒するのである。
 再び例をもっていえば、繩のれんの一杯茶屋の繁昌はどこまでも繩のれんの格においてのみ保たれるのであって、長年労働者を得意として発展した店が、財力豊かになって来たからとて、急に上流向きの立派な店構えに改築して、それで得意を失わずに済むものではなく、またにわかにかわって上流の客が来るものでもない。外観の整うたのに引きかえて内実が衰微して行くのは、むしろ当然のことと言わなくてはならない。と同時に上流向きの店は上流向きとしての格相応な構えがなくてはならぬであろう。同業の中に見ても、宮内省御用の虎屋には虎屋の構えがあり、また虎屋なればこそあの堂々たる城廓のような建築になっても商売繁昌するのであって、一般民衆相手の菓子店がもしも虎屋を真似たならば、おそらく客は寄りつくまい。中村屋は中村屋相応の格を守り、決して調子に乗ってはならない。

    商品の配達に要する失費

 店を改築して経費が嵩(かさ)めば今のように安く売ることが出来ず、売価が上がればそれに伴うサーヴィスとして、百貨店などのように無料配達の必要も起って、いよいよ経営の合理化に遠ざかることをすでに述べた。そこでこの配達費というものは商店経費の中のどのくらいの割合を占めるものであるか、少しこれについて考えて見よう。
 中村屋が無料配達を廃止したのは今から十年前のことであって、それまで開業以来ずっと無料配達のサーヴィスをしていたものであった。私の経験によると店頭売りの場合には店員一人で一日百円の商いをすることはさほど困難でないが、近まわりのお得意だけでもお届けすることになれば、その三分の一すなわち一人が三十円を売るだけのことも容易ではないのである。
 また遠方までお届けすることになると、さらに三倍くらいの時間と労力とを要する。そこで小店員一人の日当を二円と見ると、店頭売りの場合はその人件費も売上げの百分の二にすぎないが、近隣配達には百分の六となり、遠方配達にはじつに百分の十八となって、ほとんど利益の全部を配達のために失うこととなるのである。
 しかもこの百分の十八は、自転車や電車によった場合の計算であって、近頃のように配達の敏速を希望して自動車を用いることになると、さらに費用は倍加し、売上金高の三割以上を割(さ)かれることになる。自動車はフォード級の普通車を使用してすら、その買入費の消却と、その金利と税金、運転士給料、車庫料、消耗品とガソリン代等を合算すれば、一日当り平均十二、三円となる。中村屋の経験では自動車の配達能力は一台一日六十三軒のレコードもあるが、一ヶ月を平均すれば二十四、五軒にすぎないから、これに十二円を割り当てると、一軒当りの配給費はまさに五十銭である。それゆえ御註文品の金高があまりに小さい時はお断りするほかないことになる。現在百貨店が配達網を八方に布(ひ)き、また遠方には配給所を設けて、専らその合理化につとめていても、なおその費用の莫大なのに当惑しているときくが、まことにさようであろうと案ぜられる。
 しかし一般個人店では、まだそれほど配達の必要少なく、したがって経費に悩まされた経験がないため、遠方からの註文に接すると店の光栄として、僅少の品でも喜んで配達するようであるが、もし詳細に計算したならば、利益以上の経費を負担して損失となっている場合が多いことと思う。
 私が欧州を視察したのも早や十年の昔となったが、パリ、ロンドン、ベルリンなどの都市で、牛乳が我が一合当り邦貨三銭であった。
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