一商人として
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著者名:相馬愛蔵 URL:../../index_pages/person1148

 調べて見ると仕入原価が四十二銭、五十銭の売価は不当ではないのだが、他に同じ製品を四十銭で売る店があるとは不思議なことであった。そこで○○百貨店を調べるとまさしく四十銭に違いない。問屋に照会したところ問屋の仕入原価が四十銭、問屋も驚いて会社に厳談に及ぶと、会社の言い分は、
『○○百貨店は毎日六百缶(七斤入り)を現金取引ですから、特別待遇です』
 これでは商業道徳も何もあったものではない。私はただちに佐久間ドロップの販売を中止した。問屋も会社との取引を拒絶した。ここまで来ると会社もさすがにその非を覚ったのであろう、○○百貨店の安売りも間もなく中止されたのであった。
 さてまた森永のことにかえるが、社長森永氏が中村屋を訪問せられた際、私は二十年前、氏が某百貨店に示された毅然たる態度を称賛し、お互いに商売はかくありたいものだというと、氏は憮然として、『その後同業者もいくつか出来まして、競争と自衛上から、今日では売りくずし販売も前のように強くは抑えることが出来なくなりました』と答えられた。そこに自ずから会社の苦心も窺(うかが)われるのであるが、景品付き販売や温泉招待や、やむを得ず行われるらしいこの競争によって無益に失われる莫大な費用を製品の向上に向けられたなら、販売者にとっても購買者にとってもどれほど幸いであろう。私は自分が正価販売をして、確実な商法の喜びを知るとともに、森永明治の二大会社初め他の同業者にも切にこれを勧めるものである。
[#改丁]

 新宿中村屋として

    新宿へ進出の前後と土地の変遷

 本郷中村屋としての我々の第五年はこうしていよいよ順調に進み、よそ目には申し分なく見えたかも知れないのであるが、じつは非常な苦境に立たされていた。その事情は私が新たに語るまでもなく、妻がその著「黙移」の中で詳しく述べているから、ここにはそれを引くことにする。
 日露戦争の三十七、八年までは、中村屋はまず順調に進んでおりました。どうせパン屋のことですから華々しい発展は望まれませんが、静止の状態でいたことは一月もなく、売行きはいつも上向いておりました。それが小口商いのことですから、店頭の出入りは人目に立ち『あの店は売れるぞ』というふうに印象されたと見えまして、税務署の追求が止まず、ある時署員が主人の留守に調べに来ました。私はそれに対してありのままに答えました。箱車二台、従業員は主人を加えて五人、そして売上げです。この売上高が問題で、それによる税務署の査定通り税金を払ったのでは、小店は立ち行かないのでした。
 それでどこの店でもたいてい売上高を実際より下げて届け、税務署はその届け出の額に何程かの推定を加えて、税額を定めるのでありました。私にはどうしてもその下げていうことが出来ず、ありのままを言ってしまったのでしたから、当時の中村屋の店としては、分不相応な税金を納めねばならぬことになりました。これは何と申しても私一生の失敗であると、いまでも主人の前に頭が上がらないのであります。
 よく売れるといっても知れたもので、一日の売上げ小売りが十円に達した日には、西洋料理と称して店員には一皿[#「一皿」は底本では「一血」]八銭のフライを祝ってやる定めにしていたことによっても、およその様子は解って頂けると思います。ただでさえ戦後は税金が上がりますのに、こんなことで中村屋は立ち行く筈もなく、私のあやまちと申しますか、心弱さと申しますか、とにかく自分ゆえこんなことになったと思い、一倍苦しうございました。
『仕方がない、言ってしまったことは取り返せません。この上はもっと売上げを増すより道はない。一つ何とか工夫しましょう』
 これはその時期せずして一致した私ども両人の考えでした。しかしこちらでそう思いましたからといって、急にそれだけ多く買いに来て下さるものではありませんし、売るには売るだけの道をつけねばなりません。それにはどうしてもどこか有望な場所に支店を持つよりほかないのでした。大学正門前のパン屋としては、私どもはもう出来るだけの発展をしていました。場所柄お客様はほとんど学生ですし、大学、一高の先生方といっても、パンでは日に何程も買って下されるものではない、と言って高級な品を造って見たところで、銀座や日本橋――当時京橋、日本橋付近が商業の中心地でした――の客が本郷森川町に見えるものではなし、ここでは、たとえ税金の問題が起らなくとも、私どもの力がこの店以上に伸びてくれば、早晩よりよき場所へ移転の説が起らずにはいないところでありました。
 支店を設けるにしても、移転するにしても、これはなかなか冒険です。見込違いをした日には現在以上の苦境に立たされることになります。とその頃ある地方の呉服屋の次男で、救世軍に入ったがために家を勘当された人がありまして、日曜だけは救世軍兵士として行軍することを条件にして、店員の一人に加わっておりましたが、まずこの人を郊外の将来有望と思われる方面へ行商に出して見ることに致しました。――(「黙移」)
 当時我々が郊外において将来有望の地と見込をつけたのは、文士村と称されていた大久保の新開地、淀橋、角筈、千駄ヶ谷方面であったが、本郷からこの辺まで約二里半の道である。じつに行商係の苦労も容易でなかった。この行商には救世軍兵士の浅野以前に狩野という店員がこれに当って、最初の苦労をしたのであるが、一日ようやく五十銭程度の売上げで、これでは結局中止のほかあるまいと悲観された。しかしなお断念せずに浅野をこれに向けて見たのであった。
 浅野は宮城県涌谷町の呉服屋の二男であったが、親の反対を押し切って、救世軍に身を投じた青年で、その純情と努力と熱と、彼は入店の初めから、興味ある□話を中村屋に残している。彼が狩野に代って行商に出ると、悲観されていたこの方面の形勢が一変して、一年の後にはもう彼一人では得意先をまわり切れぬという盛況となった。すなわち狩野では出来ないことが浅野では出来たのである。これを見ても適材を適所におくということがいかに大切であるか、人間に向き不向きのあるのも免れ難いこととして、人を用いる場合にはよくよく注意せねばならぬことである。再び「黙移」を引用。

 ――その頃大久保の新開地は水野葉舟、吉江孤雁、国木田独歩――間もなく茅ヶ崎南湖院に入院――、戸川秋骨先生、それに島崎藤村先生、島崎先生は三人のお子を失われてから新片町に移転されましたが、とにかくそういう方々のよりあいで一時は文士村と称されたものでありまして、また淀橋の櫟林の聖者としてお名のひびいた内村鑑三先生、その隣りのレバノン教会牧師福田錠二氏などが、その行商の最初の得意となって御後援下されて、この文士村の知名の方々へも御用聞きに伺いまして、それぞれお引立てに預かるようになりました。初めは一週に一度ずつまわることにしておりました。この救世軍の人がじつによく出来た人で、頭のてっぺんから足の先まで忠実に充ち溢れている、というような、また時間を最も正確に守り、お約束の時間には必ず配達してお間に合わせるので、本郷中村屋のパンの評判が上がり、したがってお得意も日に日に増え、一週に二度となり三度になり、おやつ頃にはよそからお買いにならずに待っていて下さるようになりました。
 それがだんだんと拡がり、千駄ヶ谷方面、代々木、柏木と、もうとうていまわり切れないほど広範囲にお得意を持つようになって、すると今度はそのお得意様の方から『どうだ一つこちらへ支店を出しては』というお心入れで、私は、それをききました時は有難さに泣き、ああもったいないと思いました。その番頭はお得意のお引立てにいっそう力を得まして、支店候補地をあらかじめ見て来たといって『千駄ヶ谷駅付近が最も有望です』という報告でした。
 しかしその時私は四度目のお産の後、肥立が思わしくなく、床に就きがちでしたところへ、僅か半年でそのみどり児を失い、その悲しみや内外の心労と疲れから全く絶望の状態に陥っておりまして、気力もなく昏々と眠りつづけておりました。その中で、はっと気がつき『これではいけない』と起き上がりました。『店の人たちがあんなに働いて開拓していてくれるのに、これは早く見に行かなくては』と思うと、もう一時もじっとしていられなくなり、起きると早速支度して、主人とその人と三人で支店を出す場所を探しに出かけました。――(「黙移」)

 ここにもある通り、その時浅野はお得意の最も集中した千駄ヶ谷を主として、今の代々木駅付近を希望したので、我々は浅野につれられてそちらから初めに見てまわり、新宿の方へ出たのであった。いかにも千駄ヶ谷は屋敷町で得意の数は多かったが、私は将来の発展の上から市内電車の終点以外に適地はないという断定を下し、すなわち新宿終点に眼をつけたのである。ちょうどそこに二間まぐち、三軒続きの新築貸家が出来かかっていたので、早速その二戸分を家賃二十八円で借り受け、ただちに開店の用意をした。
 この場所は、現在の六間道路の所で、その三軒長屋の一つが今の洋品店、日の出屋になっている。
 さていよいよ支店を出す段になって、全く予期せぬことが起った。それはこの支店を預って大いに働いてくれる筈であった浅野が、突然郷里に呼びかえされてしまったことで、彼もここまで運んで来ながら心残りであったろうし、私もせっかく着手する仕事にちょっと中心を失ったかたちであった。やむを得ず他の店員を留守番としてそこにおき、妻が毎日本郷から出張することにして開店した。明治四十年の十二月十五日であった。するとその開店第一日の売上げが、すでに六年間辛苦して築き上げた本郷本店の売上高を凌駕した。この一事でも、新宿という土地の将来伸びる勢いが早くもはっきりとうかがわれるのであった。
 しかし当時の新宿の見すぼらしさは、いまどこと言って較べて見る土地もないくらい、町はずれの野趣といっても、それがじつに殺風景でちょっと裏手に入れば野便所があり、電車は単線で、所々に引込線が引かれ、筋向かいの豆腐屋の屋根のブリキ板が、風にあおられてバタバタと音を立てているなど、こんな荒(すさ)んだ場末もなかった。でもそれは新宿の外形であって、もうその土地には興隆の気運が眼に見えぬうちに萌していた。
 さて支店は売上げが日に日に向上し、将来有望と見極めがついて来るとともに、今度は店の狭さが問題になって来た。何しろ奥行は二間半にすぎず、裏に余裕がないので製造場を設けることが出来ない。どうかも少し広い所へ移りたいものと考えていると、私が前から関係していた蚕業会社の桑苗部主任の桑原宏という老人がひょっこり見えて、ちょうど近所に売家があるが買わないかという話で、渡りに舟と私は早速その所有主真上正房氏に会い、交渉すること僅か十五分間で、建物四棟と借地二百六十坪の権利を三千八百円で買約した。それがすなわち現在中村屋の地で、今日から見ればこれを手に入れたことは全く得難き幸いであった。明治四十二年春のことであった。
 さていささか余談にわたるが、私が新宿に来たこの前後数年間が、あの辺の地価権利などの変動の最も激しかった時で、新宿変遷史の一端ともなるであろうから、少しその当時の状況を述べておこう。
 私に今の場所を売ってくれた真上氏は、それより三年前にこれを他から五百五十円で買い取ったものであった。それを私は三千八百円で譲り受けたのであるから、この土地は三年間に七倍となったわけで、当時の田舎くさい新宿にじつはもうこれだけの景気が動いていたのである。さらにこの三千八百円の場所は三十年後の今日、地上権一坪平均千円として二十六万円、すなわち七十倍という躍進ぶりである。
 また同じ真上氏は現在住友銀行支店となっている場所を、三十八年に一坪十円で買ったところ、五ヶ月後には十五円で売れた。さらに一ヶ月後にはこの十五円の地を浅田という人が三十円で買った。これなどは僅か六ヶ月の間に三倍となったのである。この浅田氏の浅田銀行が代って現在の住友銀行になった。
 また私が最初権利なしで二十八円の家賃で借りた家から現在のところへ移ることが知れると、六百円くらいの権利金なら出すからという希望者がたくさん現れた。しかし私は缶詰の知識を私に与えてくれた豊田氏の御子息が、その希望者の一人であったので、一ヶ年半の間に私が家主に支払った家賃の四百二十円でこの人に譲った。つまり一ヶ年半を無家賃で住んだことになったのである。
 しかしまさか新宿が今のようになろうとは誰しも予測し得なかったから、ある友人などは私が三千八百円という大金をこんな場末に投げ出すくらいなら、四谷の方に相当の所があるではないか、こんな所はよせと言って忠告したもので、実際その時分は四谷塩町付近が山の手銀座と称されて、市内屈指の繁栄地であった。幸いにして私の見込は違わなかったが、いろいろこうして思い出して見ると、じつに今昔の感が深い。
 新宿駅は明治四十年にはまだ今の西武電車の発着所の所にあって、やっと四間に八間くらいの至って貧弱なものであった。それが急に拡張することになって、隣地角筈一番地を当時の地主武井守正氏に一坪十円で交渉を進めたが、武井氏は二十円を主張して譲らなかった。鉄道省側は、十年前坪二円であったものを二十円とは強欲過ぎると反感を起し、急に計画を変えて今の甲州街道の高い不便な場所を買った。ところがその後十年にもならぬうちに新宿駅はまたも拡張を余儀なくされ、以前二十円といわれて交渉成立しなかった地を、今度は同じ武井氏から八十円で買い取ったという話である。
 それから中村屋の西隣りに育英堂という新聞配達店があったが、借財整理のために、土地二百九十坪家屋つきで三万五千円で売りたいといい、私に交渉があった。私も新宿には大いに希望を持っていたから、買い入れる心組みで、まず中村屋の地主渡辺氏に相談した。渡辺氏は地主である上に早稲田関係の先輩でもあってかねて懇意にしており、また内々隣りの地に野心のあることも解っていたから、それを出し抜いて独りで買うということは私には出来なかったのである。
 すると渡辺氏はすでにこの土地に一万三千円貸し付けて居り、中村屋の土地とそれとを併せて五百五十坪の一画にすることをかねてより楽しみにしていたということで、この土地はぜひこちらに譲ってもらいたいと言う。そこで私も氏の懇望にまかせ、交渉をよして見ていた。
 ところが渡辺氏はこの土地の価格を二万五、六千円と踏んでそれより出そうとしなかったので、交渉成立せず、とうとう高野果物店の手に入ってしまった。高野氏はこの時停車場の拡張で立退きを命ぜられて行き場に困っていた折柄なので、一方の交渉が破れるやただちに言い値の三万五千円で買い取ったのであった。こんなわけでいったん私の門前まで来たこの幸運は高野氏へまわったのである。しかし私にはぜひこれがなくてはならぬというのではなかったから、必要に迫られた高野氏の方へまわったのが自然で、大いに結構であったと思う。この時大正七年であったが、それから二十年経った今日では、三万五千円が三十倍以上の価格に上がり、驚くべき莫大なものとなった。
 この直後の大正八年、現在の三越支店の所に郵便局があったが、これが移転することになって、その跡百六十坪の権利が売りに出た。これは私が友人務台氏に勧めて五千円で買わせておいたが、その後活動写真武蔵野館の発起者が一万八千円で務台氏から譲り受け、ただちに倍額の三万六千円で会社に提供した。その後十余年を経て昭和六年に三越が十倍の三十五万円で買い受け、そこに現在の支店が建設されたのである。

    賃餅の予約と新兵衛餅

 新宿に移って二年目、現在の場所を手に入れた私は、裏の空地に製造場も出来たので、これまではパン一式であったが、ここで一つ日本菓子の製造を始めようと思い立った。パンだけでは商いがあまりに細く、夏忙しい代りに冬閑散で、早くいえば商売にむらがある。そこでパンとは反対に、冬忙しく夏閑散な日本菓子を持って来て、互いに長短相補おうというのであって、これが具合よく行けば中村屋の経営は初めて合理化するのであった。
 しかし日本菓子は私にとり未経験であると同時に、お得意の方でもパン屋が急に日本菓子を売り出して買って頂けるものかどうか、これは少し難かしい問題であった。
 で、何とか一工夫して中村屋の新たに製造して売り出す日本菓子は、特に材料を精選した優良品であるということを、お得意に知ってもらわなくてはならぬと思い、そこで思いついたのが歳末の賃餅であった。上等の餅を勉強して売り出せば、それが機縁になって日本菓子のお得意が得られる。私はこう思うたので、餅米はどんなものを選ぶべきか、幸いこれには米穀研究の権威者と称された畑中吉五郎氏が私の親戚であったから、早速氏を訪ねて相談した。すると畑中氏は、
『今日東京で餅を売るといって、ただの上餅では、たとえ原価で売ったところが、第一流の客を引くことは出来ないであろう。そこでこれは大奮発だが、旧幕時代将軍家御用となっていた新兵衛餅というのがある。これならばたしかに天下一品、こういう餅を賃餅にして売り出したら、君の思いつきはたしかに成功するであろう』
 といって、その新兵衛餅について教えてくれた。私は氏の説に従い、すぐに産地に行って新兵衛餅百俵を買い入れ、その売渡し証を取って帰り、これを写真に撮って広告に□入し、往昔徳川将軍家御用であった天下一品の新兵衛餅百俵を、表記買入れの実費をもって予約販売致します。但し予約期限は十二月十五日限り、それ以後は時の相場通り値上げする旨を発表した。
 この計画は大成功でした。十五日までに百俵の餅は全部予約済みとなり、約六百軒のお得意を得ることが出来た。そして畑中氏の説に違わず、この新兵衛餅は探しても他では得られぬ最上等の餅であったから、この評判は延いて日本菓子の紹介となり、一ヶ年後にはパンよりも日本菓子の方が成績を上げて、中村屋の総売上げは急に倍加し、完全に販売能率の平均を見ることが出来たのであった。

 しかしながら新兵衛餅にも不作の年はあった。新兵衛餅を産する所は、埼玉県越ヶ谷、新兵衛新田と称し、昔は沼地であったものを埋め立てて田としたのであるから、傍を流れる綾瀬川が増水するとたちまち浸水し、せっかくの最上餅も、三流以下の品に落ちてしまう。
 それゆえ、この土地に限って出水の季節に先立ち、一ヶ月も早く刈り入れるのであるが、それでも水害を蒙ることがある。私は初めのうちそれを知らなかったから、浸水した餅を最上餅として売り出し、後で品質の劣ったことが判ってそれを全部引き取り、改めて他の餅を納めてお客様にお詫びしたことがある。
 それ以来私は米の成熟期と収穫期と、二度は必ず産地に出向き、実地を視察することにしている。
 ある年、関東地方は雨天続きで、糯米の品質が劣って、いかに新兵衛でも例年通りの最上の餅とはいえまいという見込であった。そこで私は広く日本全国の作柄を調査してみたが、その結果日本海方面はこちらとは反対に、例年にない好天気であったことを知り、秋田から餅米を取りよせて新兵衛餅と比較して見た。すると果たしてこの年は秋田餅の方が優れていたから、これを用いてお得意に配り、値も安くて品も良かったと好評を博したことがあった。
 この場合、私が秋田餅の上出来なのを知らず、例年通り新兵衛餅を天下一品として納めていたとしたら、せっかく得たお得意を失い、中村屋の信用をおとすところであったのである。
 こんなふうで、天下一品と折紙のついた原料を扱うからといって、決して安心は出来ない。四囲の状況に照して注意を怠らず、研究心強く、またその労を厭うところがあってはならないのだということを、その時しみじみ感じたことであった。

    良い品を廉く

 私が静坐の岡田虎次郎先生を知ったのは明治四十五年の春であった。その動機は妻が「黙移」に書いているからここには省くが、とにかく先生はその時代におけるたしかに驚嘆すべき存在であった。その教えを受けるものには大学教授あり、富豪あり、宗教家あり、貴族あり、学生あり、また狂える婦人あり、病める者あり、じつに社会各層を網羅し、人生の諸相をここに集めたかの観があり、それらの人々がじつに絶対の信頼をもって先生の教えに服していたこと、まことに不思議なほどであった。かの有名な栃木鎮台田中正造翁もその一人であったが、翁はこの二十歳も年少な岡田先生を評して、
『聖人とはこの方のことでしょう、古来支那に孔子出で、印度に釈迦あり、猶太に基督(キリスト)が生れ、聖人はみな外国にあって、まだ我が日本には出なかったのであるが、今度こそは我が国にも聖人が生れました』
 と言い、崇敬措かなかったものである。私などは先生のような大人物を評価するなど思いも及ばぬことであるが、かつて聖書で、基督の徳を慕うて集まった数百人の男女が、ホザナよホザナよと讃えつつ村から村へと続いたというところを読んで、これは後世信者が基督の徳を誇張してこのように書いたものであるとのみ考えていたことを思い、ああ見なければ解らぬものだ、現にこういう事実が眼の前にあるではないか、聖書にある基督のことも決して誇張ではなかったのだと感じ入ったほどで、実際岡田先生の静坐会に参加する人々、またどこまでもと先生の後をついて歩く人々は、雲の如くであったと言っても過言でない。
 先生は当時、もの淋しい日暮里駅の上にある本行寺という寺の本堂を朝々の静坐道場としておられたが、どんな寒い冬の朝でも道場は暗いうちから満堂立錐の余地なく、後(おく)れたものは廊下の板の上に坐っていた。この朝の静坐が済んでから、毎週二回、我が中村屋でも第二の会が催され、ここにも毎回十数人の人々が集まり、約十年ほども引きつづき行われたのであるが、惜しいかな、先生は大正九年の十月十七日に急逝せられた。
 岡田先生は何事でも三段論法で断言されるのであったが、私に教えて言われるには、『商売を繁昌させるのは難かしいことではない、良い品を廉(やす)く売ればよろしい』
 わかり切ったことのようであるが、先生はこの鉄則を私に教えられたのであった。すなわち「良い品を廉く」を店の標語(モットー)として中村屋は今日に至ったのである。
 さて「良い品を廉く」というと、そこに連想されるものは薄利多売であるが、私は必ずしも多売を目的としなかった。良い品のその「良い」ことを落さぬためには、常に製品を内輪に見積って、どんなことがあっても翌日にまわるような売れ残りを拵えてはならない。すなわちここが大切の思い切りどころであって、多量に製造して販売能力の精一杯まで当てにするという方針は私のとらないところであった。
 たとえば今日は百円くらいの売行きはあろうと思っても、夕立その他の万一の故障に備えて、その八掛け八十円だけの製造に止める。したがって毎日早く売り切れてしまうから、中村屋の品は新しいということがお得意にも判り、あの店のものならばと期待してもらえるのである。
 しかし遅く見えたお客に『今日はもう売り切れました』と言って断るのはまことに辛いことであるし、またたしかに惜しい。そこでつい余分に製造するのが人情である。その余分に製造したのが売り切れれば結構だが、三日に一度くらいは売れ残り、これを捨てるのは惜しいというわけで、翌朝蒸し返し、あるいは造り直して売る。いかに精選した原料を用いてあっても、蒸し返しや造り直しでは味が死んでしまっていて、出来立ての品とは較べものにならぬ。客は失望し、その店の信用は漸次失墜する。こんなことは私が言うまでもなく、誰でも判っている筈なのだが、その判っていることを人はやはり繰り返すのである。店員諸子も他日中村屋を離れて自分の店を持つ暁には、こういう迷いに陥らぬよう、いつも内輪目の手堅い商売を目指してもらいたいものである。
 中村屋では生菓子類は午後三時のおやつまでを限りとして売り切れる程度の製造に止めているから、たまたままとまった註文でも来ると、午前中に売り切れとなってしまうこともあって、お客様には不便を掛けてまことに申し訳ないのであるが、このくらいの内輪にしていてさえ、大夕立、大雪などに見舞われると、数十円の生菓子を残すことがある。もっともそんなことは年にまず三、四回あるかないかのものであるから、私はそういう時はその菓子を、日頃世話になる銀行とか郵便局、また育児院などへ寄贈し、どんなにそれが多量でも翌朝へ持ち越すことは決してしない。現在中村屋の繁昌はこうしてあらゆる角度から間違いのないことを期し、新しく良い品を廉く売ることによって招来されたものであって、決して華々しい商略で戦い勝ったというような性質のものではないのである。

 しかしまだここに一つの問題が残っている。いかに見込の八掛けで手がたく構えていたとしても、前日より用意しなければならぬパンの原料が、次の日の悪天候で処分し尽せぬということは時に免れぬものである。この場合これをいかにすべきかと百方苦心したが、今から十年ほど前にその解決策を発見した。すなわち前日仕込んだものを全部パンに製造しては売れ残る恐れありと見るや、その余分だけを「ラスク」(乾パンの菓子)に製するのである。しかしこの場合、その製品たる「ラスク」をどう処分するかが問題で、これには別途の販路がなければならない。当時「ラスク」は市価一斤(百二十匁)七十銭で、相当高級品として上流家庭に需要のあったものであるが、私の「ラスク」はパンの廃物利用として造り出されたのであるから、その値段は一般民衆に得意を見出す程度のものにしたいと考えた。
 そこで「ラスク」の原価調査をしてみると、一斤の原料費が三十五銭、製造費十五銭、卸売費五銭で、合計五十五銭、そこへ小売店の販売差益十五銭を加えて七十銭となっていることが判った。私はこの七十銭の市価に対して、原料費の三十五銭と雑費の五銭を加えて、四十銭で売り出すことに決めた。職人等はそんな安値で売る品物ではないと言って強く反対したが、私は、このラスクは元来がパンの過剰処分であるから、普通の商品並みにすることはよくない。原料代を回収することが出来れば、工場費も燃料も職人の給料も、全然見る必要がないという見解であった。ただこの安値で売ることはラスクの製造販売業者に対して気の毒であったが、私の店では天候急変の日の過剰処分以外には製造しないのであったから、他店に甚だしい迷惑はかけなかったことと思う。
 さて出来上がった数百斤のラスクを店頭に出した成績はというと、非常な歓迎を受け、僅々二、三時間で全部売り切れとなった。爾来十年、大雨大雪の後には、ラスクが出来ているかと言ってわざわざ来店されるお客があるほどで、私の方でも心楽しくこれを店頭に出すことが出来るのである。パンの原料をラスクにするという、これだけなら判って見れば何でもないが、要はそれをいかに売るかの気転にある。

    物価の騰落に処する小売商の覚悟

 大正四年から大正八年までの五年間は、欧州大戦の影響を受けて物価暴騰し、またその後は急落して、昨日の成金は今日その居所をさえ失うという有様で、我々のような小売商の中にも騰落に際し方針を誤ったために、多年の信用を一朝にして失い、閉店倒産したものが少なくなかった。大正四年開戦の当初は諸物価一時下落したが、たちまちにして騰勢に変じ、漸次その勢いを増して今日は昨日より明日はまた今日よりも騰(あが)るというふうで、株式も土地も各種材料も買えば必ず儲かるのであったから、日頃着実な地方の農家までが競って思惑株に手を出し、また土地の買占めをするものがあったりして、ほとんど国をあげて投機の熱病に罹(かか)った観があった。ところが大正八年三月の停戦と同時に物価急落し、それまで隆々旭の昇るが如き勢いであった神戸の鈴木、横浜の茂木などが、千万の富を負債にかえて没落したのもこの時であった。
 しかしまた一方には少数ながら騰落に処して少しも損害を被らなかったものもあるのであって、それらの商店はどういう用意を持っていたか、大いにここは吟味を要するところである。私に言わせるならば、物価暴騰の際には何時かそれが旧態に復する日があることを予想すべきであって、その考えもなしに景気の好調にまかせて買い進み、上が上にも利を占めようとするなどはじつに愚かの極みである。物価が正常のところに復するのはいつであるか、その時期は容易に判らぬとしても、十円に仕入れたものが景気に乗って二十円三十円にも売れるなどということは決して尋常の沙汰でなく、儲かってもそれは不当利得である。すなわちその不当なる利益は別途に貯えておき、やがての反動期に備えるのが商人としての良心であり、また一般人の常識であらねばならない。
 我々の同業者の中でも、景気に乗って思惑買いをして、一時は大いに儲けたものもあった。何しろ当時は一俵二十二円であった砂糖が、三十円になり四十円になり、終には五十五円にまで騰り、この調子では七十円くらいまで行くかも知れぬと予想されたものであった。そこで五十余円の砂糖を幾百俵も買って予想の高値を当て込んだ同業者があったが、気の毒にも次に来たものは滅茶滅茶の暴落であった。
 私は最初から、思惑買いはさておき、実際に使用する砂糖でさえも買置きせず、必要量だけを購入してこの変則の場合を凌いでいたので、五十五円が一時に三十円まで下落した際も、私のところには一俵の手持もなかった。つまり不当の利を得ようとしなかった代りに損をせず、すぐに安くなった砂糖を使うことが出来たのである。むろん私は世間で投機熱がいかに流行しても、株に手を出すなどということはなかったから、好景気に際して厘毛の利益も得なかった代り、この急落によって少しも打撃を被ることもなく、したがって中村屋は安泰であった。
 しかし大戦当初よりのことを考えると、中村屋のような地道な店は、世間が成金成金でお祭り騒ぎをする中にあって、ずいぶん割の悪い人知れぬ苦心をしたものであった。材料は騰貴し、世間には金が洪水をなしているような話であっても、その半面には直接好景気のお蔭を被らぬ俸給生活者の生活苦の声があり、小売商はその間にあって、一方からは高い材料を買い、一方へはそんなに高く売れないという状態であった。それゆえ砂糖は二倍半まで上がったにかかわらず、菓子の売価は前後二回の値上げで、一本十五銭の羊羹を二十三銭に改め、約五割ほどの引上げをした程度に止まるのであったから、同業者は内実みな赤字となって困難した。それでも世間一般好景気の手前、泣言もいえぬという有様であった。
 しかしその赤字は停戦となって物価急落後の一年間に、だいたい補充することが出来た。それは前にも言ったように、中村屋は高値を見込んでの思惑買いというものをいっさいしていなかったから、すぐに安くなった材料を使えたこと、材料は下がってもいったん価格の上がった菓子はすぐ下がるというものでなく、なお相場の落着きを見るまで当分そのままに置かれていたから、これまでの赤字に引きかえ、普通以上の利益となったこと、もう一つはいかに原料高で赤字となって苦しい時も、平和回復の時を信じて原料を落さず、いつも最良の品を用いて来たことにより、お得意がいよいよ増加し、売上げが多くなって確実に繁昌の度を加えたこと等々、およそ世の投機的商才とは全然相反する誠実と辛抱の結果として、きわめて自然に持ち来たらされたものであった。同業者中にはここまで辛抱が出来ず、原料高に堪えかねて材料を落し、あるいは分量を減じて赤字から免れることに腐心するうち、次第に得意の信用を失い、ようやく平和となって利益の見られる時分には売れ高著しく減じて、とうとう破産したものも少なくない。
 私は店員諸子に言っておく。欧州大戦で私が経験したほどのことはなくても、物価が急に騰貴し、原料高で赤字に苦しむことは今後もあるであろう。その時は焦ってはいかぬ、常時における若干の利益は得意よりの預り物と考えて、力の能(あと)う限り辛抱し、預金の返済をするつもりで勉強することが必要である。そうすれば販売価格の引き上げられる時、または原料下落の場合に、出しただけのものはきっと戻されて来るものである。あまりに小心に目前の赤字を免れようとして値上げを急ぎ、また品質を落すなどのことは、商人として慎しむべきの第一である。

    朝鮮土産と不老長寿

 大正十一年、私は妻と共に朝鮮に旅行した。それまでにもちょいちょい小旅行を試みたことはあるが、両人共にこうしてやや遠くまで出かけられるようになったことは、新宿に移ってから十五年、店の成長とともに、我らと寝食を共にして来た店員の成長したことをも語るものであって、留守を預けて出るにつけてもこのことは思われ、ここにも新たに店主としての喜びがあった。
 朝鮮旅行の目的は、一般に視察と称するような堅いものではなかったが、さりとて単なる遊びの旅でもなく、まず朝鮮の家庭訪問というところであった。我々はかねて、新たに同胞となったこの半島の人々に対しては一段と親しくし、互いに心と心をよく通じ合うようにせねばならぬと考えていたので、在京学生の青年たちにも喜んで接し、折に触れては家庭に招待して食事を共にするなど少しばかりの世話ぶりをしたのが、青年たちの父兄に喜ばれ、ぜひ朝鮮を見に来てくれと彼方此方(あちこち)から招きを受けるようになり、とうとうこの訪間となったのであった。
 私はこの旅行によって初めて松の実というものを味わった。我々は京城に入っても内地人経営の旅館には入らず、朝鮮の宿に泊り、かの地の旧家であるところの家庭に彼方此方招かれて御馳走になった。朝鮮上流家庭の婦人はめったに屋外に出ることがなく、他人には顔も見せぬ慣しだが、料理には至って堪能で、どちらの家庭で御馳走になっても夫人令嬢の手料理で、じつに心地よくもてなされた。その料理の中に松の実があって、私はその味わいの上品な濃厚さに感心し、支那人がこれを不老長寿の霊薬とし、朝鮮でも比類なき最上の滋味とするいわれになるほどと肯いた。
 そこで私の朝鮮土産は松の実ときまり、古来仙薬の如くに尊ばれるからには必ず何か科学的根拠があろうと考えたので、帰京後鈴木梅太郎博士に研究を依頼し、農大鈴木研究室において右川鼎造学士担当、約一ヶ年に渉る動物試験の結果、松の実中にはヴィタミンBを多量に含み、副食物として、また嗜好品としてきわめて優良であり、特に米を主食物とする我が日本人には栄養価大にして精気を加えるものであることが証明された。
 そこで種々研究して、まずこれを瓶詰として売り出し、さらにこれを菓子に用いようとしてずいぶん苦心した。なにぶん松の実は日本菓子には調和しにくい性質なので、この研究には数年を費し、何十度という試みをした結果、とうとう松の実カステラをつくり出した。
 苦心の甲斐あってこれが大いに世に迎えられ、売行きが増加するにつけて、松の実の買付けも多くなったので産地でも相場が上がり、このことによってまた半島の同胞に喜んでもらうことが出来たのは、私にとってまことに松の実の不老長寿以上の喜びであった。

    個人商店を株式会社に改む

 大正十二年中村屋の売上高は一ヶ年二十万円に達した。これに対して税務署は、純所得をこの売上高の一割五分として三万円に査定するということであったが、そうすると税金だけで六千円近くになる。
 税務署のかかる追求には、中村屋は本郷以来相当悩まされ、どれほど折衝したか知れないが、ついにここに至って、査定通りの税金を払ったのでは立ち行かぬということになった。
 中村屋はよく売れるには相違ないが、至って地味な経営で安全第一主義であるから、利益率は売上げの増加に反比例してかえって減じているほどであった。むろん私が言う安全第一は消極的の意味ではないが、優良な品を売ることが店の眼目であれば、製造に関する諸設備も絶えず改善されねばならず、店員の待遇も漸次引き上げて、日々の繁忙の間に犠牲者を出さぬよう出来得る限り生活の安全を計るべきであるし、店が発展すればそれにも増して経営費率が上がり、利益はかえって少なくなる有様であった。したがって純益は三万円どころか、その税金の六千円だけもむずかしい実状であった。
 そしてこれはひとり中村屋に限ったことではなく、世間の健実な商店の経験するところであるが、税務官にはこの理由が理解しにくいと見え、店が発展して来ればどこでも必ずこの問題に悩まされるのであった。
 中村屋はついに窮余の末、十二年四月急に株式会社組織に改めた。その結果純所得が約五分の一の六千三百円に決定され、税金は、私の個人所得をも加えて千五百円となった。すなわち中村屋は個人商店を株式会社に改めて、初めて税金が負担に堪え得る程度のところに落着いたのであった。当時税務署の課税方針には、個人商店に対するのと、株式会社や百貨店に対するのと、じつにこれだけの相違があった。しかしこの不合理も近年は大いに改まり、会社組織と個人店の間に著しき相違を見ざるに至った。
 さて株式会社中村屋は資本金十五万円とし、全株の半分を妻良の名義にし、残りの半分をば私と婿のボース、伜や娘、功労ある店員十名の間に分配した。
 中村屋が全株の半分を主婦の所有としたについては、一通りその理由を説明せねばなるまい。私はこの会社組織に改まると同時に社長となったが、本郷中村屋の初めからここに至る二十年の長年月、中村屋の名義人は私ではなくて相馬良であり、同時に彼女が事実上の責任者であった。創業当時私は郷里に蚕種製造の仕事を残して来ており、これがために毎年三ヶ月は郷里に帰り、パン屋として最も忙しい夏期をいつも留守にしていたのであった。また日本蚕業会社の重役としておよそ十年間はこれに関与していたから、中村屋のために専心働いたのは後の五年だけであった。それゆえ中村屋の基礎を築いた創業以来の十五ヶ年は、店は全く妻の双肩にあった訳で、中村屋の今日を成したものは大部分彼女の力である。元来小売商売は男子よりもむしろ主婦の活躍舞台であって、同業者の中でも本郷三丁目の岡野さん、本所の寿徳庵さん、銀座の木村屋さんなど、揃いも揃って主婦の働きによって今日の大を成したものである。私の妻は生れつきの熱情をこの環境に傾け尽したのであって、齢ようやく定まるに及んで病弱の身となったのにも、若き日の苦闘のほどは察しられるであろう。株分配の期に当りその功労を第一とするは、中村屋として当然のことであった。
 株式組織となるとともに十二年四月末日、我々家族は麹町平河町に住居を移し、新宿の家は全体を店として使うことになった。

    関東大震災とその教訓

 数えてみると今年はもうそれから十五年になるが、あの関東大震災は、我々が麹町に移ってから五ヶ月目の九月一日であった。当時の惨状はいまさらここに語るまでもないが、人口三百万を擁した東京市は、僅かに山の手の一部を残して他は烏有に帰し、交通機関はことごとく破壊停止し、多くの避難民は住むに家なく食うに食なき有様であった。
 中村屋は幸運にもこの災難を免れたが、電気も瓦斯(ガス)も水道も止ったのだから、パンも菓子も製造することが出来ない。しかし店頭には食なき人々が押し寄せて、パンはないか菓子はないかと求める有様に、私は商人の義務としても手を束ねていられる時ではないと思い、手のかからぬ能率的なものをと命じ、瓦斯も電気も水道も役に立たぬ中で、全員必死の働きをもってつくり出したのが、今も年々その日に記念販売をするいわゆる地震パン、地震饅頭、奉仕パンの三品であった。僅かにこの三品ではあったが、これだけでもただちに製造して間に合わせたのは中村屋だけで、したがって製品は、日本銀行の金庫を護る兵士たちのおやつにもなれば、さらに惨状の酷い横浜からもはるばる買いに来るという次第で、拵えても拵えても間に合わず、半日の製品が一時間の販売にも足りないという状況であった。
 余震は頻々として来たり、ぐらぐらと震動する工場の中は、尋常の心持ではとても仕事の出来るところではなかった。しかし店頭に山なす人々の要求を思えば、危険を顧みる暇もない。全く昼夜兼行全店員よくあれだけの働きが出来たと思う。夜半に中村屋の煙突から火の子が出たのを見て、誰しもこの折柄で昂奮していて、驚破(すわ)また火事よと駆けつけ『何だ中村屋か、人騒がせをしやがる』と腹を立てた人もあった。しかしそれを制して『中村屋は徹夜してパンを焼いてるんだ、この際これがただの商売気で出来ることかい』という多くの声があり、やはり心から心へ通じて真に涙ぐましいものがあった。当時下町の問屋はことごとく焼失して、材料を仕入れようにも残っていない。山の手の商店にあった僅かな品もたちまち引張り凧でからからになり、食料品缶詰は倍値に売られ、一袋四円の小麦粉が十六円まで奔騰した。
 私の店でも二日ほどで原料の砂糖と粉が切れてしまった。そこで至急使いを江東の大島方面に派し、砂糖会社と製粉会社に交渉した。するとこれらの会社では、問屋からの註文は絶え、地方への輸送の途も断たれていた矢先とて、大いに歓迎して、従来問屋から仕入れた値よりもかえって格安に売ってくれた。
 荷馬車数台に満載した砂糖と粉が店頭に着いた時は、『ああこれで原料の不安が解消した』と、思わず全員飛び出して万歳を叫んだ。この荷が手に入ったので私は店頭に張り出して、罹災者の方々へは小麦粉を原価の四円で分けて上げることにし、製品のパンや菓子も従前よりはおよそ一割方安く売ることが出来て、罹災者を初め物資欠乏の中にある人々へ、我が中村屋がいくらかでも務めることが出来たと思うと、私はじつに嬉しかった。
 何しろあの大震火災のことで、私の方も災禍を免れたといっても相当の損害はあったが、それも世間から見れば口にして言うほどのものでなく、一人の負傷者さえも出さなかったことは、全く神仏の加護によるものだと真実有難く思い、それがこの原価販売となっただけのことであったが、震災を一転機として店の売上げがたちまち三、四割方の増加となったのには驚かされた。後で耳に入ったところによれば、多くの店が幾割かの値上げをした際に、私の方が平常よりも勉強したことが特に目立ち、中村屋に好感を持って下さる方がふえたのだということで、私はまたここに天祐の上の天祐を感じ、罹災してついに立てなくなった人も多い中に何というもったいないことであろうと思った。
 それゆえこの大震災は、中村屋にとっては重々記念すべきであって、毎年九月一日には震災記念販売をし、当時の店員一同の働きをしのび、その三品をそのままの形で出して原価販売をする慣例となった。すなわち震災記念販売は中村屋の年中行事の一つとなり、お得意でも当時を思い出して、当日は特にわざわざ店を訪ねて下さる方が多く、それらのお客様としても記念販売の三品は、一種異なる愛着をもって年々変りなく迎えられている次第である。

    ウルスス氏と中村屋牧場

 ある日、西郷隆盛然たる一壮夫が私を訪ねて来た。大正十五年春のことである。
『私は北海道のトラピスト修道院に教頭をつとめて居りましたが、教義上のことで羅馬(ローマ)法王と争い、破門されて本日上京致しました。他に身寄りもありませんからなにぶん宜しくお願いいたします』
 紹介者もなく前触れもない全く突然の訪問であったが、我々には何となくこの仁が面白く思われ、一つにはかねてひそかに関心を持っているトラピスト修道院にいたというのにも心惹かれて、それ以来彼和田武夫氏は我が家の客となった。
 妻は彼を綽名してウルスス君と呼んでいた。ウルススとはシエンキエイッチ作「何処に行く」の中に出て来る巨人で、暴帝ネロの眼前で猛牛を圧殺して姫君を救うというその面影に彼が似ているというのであった。
 私はウルスス君を眺めていろいろ考えたが、菓子屋の中村屋にはこんな巨人に向く仕事がない。彼も自発的に巡査を志願して試験を受けに行った。どういうことを試験されたかと訊くと、
『富士山の高さは何程あるかと訊かれましたから、私は登ったことがないから知りませんと申しました。それから、泥棒を捕えた時はいかにすべきかと言いますから、私は、泥棒には将来を戒めて逃がしてやります、世間には泥棒などより悪いことをする奴がたくさんあります、その奴らを捕えないうちは小泥棒などは許してやるべきだと答えて来ました』
 これではもう落第に決まっていた。そこで、
『君は宗教のこと以外に、世間の仕事を何か知っているか』
 と聞いて見ると、彼は修道院において、ジョアンという世界的農学者(現在オランダの農科大学長をしている)から牧畜のことを学びましたということであった。
 ちょうどその頃、私は四男の文雄を南米ブラジルにやって、そこで彼の新天地を開拓させようと考えて、文雄もこのことを喜び、南米行の予備教育を受けるために、日本力行会(故島貫氏創立)の海外学校に在学中であった。そこで私が考えるのに、海外に移民する日本人が牧畜の知識を持っておらぬのが最大の欠点で、これがあれば彼地での発展に大いに役立つであろうと思われた。すなわち当時の力行会長永田氏にこのことを話し、乳牛持参の牧畜教師を雇ってくれますかというと、永田氏も大いに歓迎するということであった。私は早速七百五十円の乳牛一頭を買い、校庭に牧舎とウルスス君の住宅とを新築して、彼を学校に送った。
 ところが僅か二ヶ月で、海外学校にウルスス君を中心として事件が起った。何しろ羅馬法王と争うほどの熱血漢ウルススのことで、たちまち血気の学生の共鳴するところとなり、一にも和田、二にも和田で学校職員の手にあまり、今一歩で騒動が勃発するという報告に接した。私は困った。どうもそういう学校騒動のたまごを持ち込んだのでは、会長に対しても全く相済まぬことであった。そこで牧舎と住宅とはそのまま学校に寄付して、彼に牛を曳いて帰って来いと命じた。
 すると大きな体のウルスス君が牛を曳いてノッソリと帰って来たが、特別大きなこの二つの存在には、第一入れる場所からして無い。私も全く当惑した。ことここに至れば完全な牧場を設けて、この両者を活かすよりほかなしと決意した。
 そこで獣医学校の大槻雅得氏に設計を託し、三井家の牧場をも参酌して、きわめて小規模ながら牧場を自営することとなった。すなわちこれが仙川にある中村屋牧場である。
 この牧場はこんなわけで出来たが、今日では最も優良なる生乳と生クリームとを供給し、中村屋にとり、なくてならぬ存在となった。窮余の一策としてやむにやまれず設けたものが今日これだ。人間万事塞翁が何とやら、うまいことを言ったものだと思う。
 また私はこの牧場経営で、二年ほど苦労したが、その後欧州視察の旅で、この知識がたいへん役に立ち、あちらの農業視察に大いに便宜になった。欧州の農業経済を知るにはその基礎たる牧畜の知識を切要したからである。
 もう一つの幸いは、ウルスス君が私の所に来て以来、修道院製造のバター、チーズ、タニヨール、果物漬などを中村屋が取扱って全国に配布することになった。

    四囲の刺激に一段の飛躍

 三越が新宿に進出し、現在の二幸のところに支店を開いたのは大正十五年十月であった。まだその頃の新宿は新開の発展地とはいえ、これといって目に立つほどの商店もなかったから、三越支店の出現が、新宿一帯の地に与えた刺激は大きかった。地元の商店で多少ともその打撃を受けないものはなかったが、中村屋(当時売上げ月二万円程度)でも、月額千円に上った商品切手が全く出なくなり、その他の売上げにおいておよそ二千円を減じ、合わせて三千円の激減を見た。これらの客はすべて三越に吸収されたものであった。
 私は考えた。鳥なき里の蝙蝠(こうもり)という譬(たとえ)があるが、三越という大きな鳥が出現して中村屋がただちにこの打撃を被るのは、やはり中村屋の商売にまだ一人前として足らぬところがあるからである。これは大いに反省し環境に従って一段の飛躍を遂げるのでなかったら、せっかく独自の位置を築いて来た中村屋が、今後百貨店のおこぼれを頂戴する悲運に陥らぬとも限らぬ。これは一刻も猶予ならぬ、奮起するはこの時であると。
 私はこの難関突破の決意をもって、翌昭和二年一月、幹部会を開いた。ところが幹部めいめいの感ずるところもほとんど同じであって、誰一人弱音を吐くものはない。
『我々が多年努力して今日の繁栄を築いた新宿です。相手がどれほどの大資本であろうと、飛入り者の後について行けるものですか。御主人にもどうかこの辺御決心を願いたい』と、これが期せずして一致した意見であった。私も胸中を打ちあけ、一同に対策を諮(はか)ったところ、店員側は何よりもまず閉店時間を、これまでより二時間延長し、日曜日も平日の時間通り営業することを希望した。
 それまで中村屋は平日午後七時閉店、日曜大祭日は五時閉店のきまりであった。夏の夕の五時以後は盛り場の新宿のことで、優に半日分以上の売上げがある。私はそれを承知していたが、世間の人が一週に一度の日曜日を楽しんでいる時に、我が店員は平日よりもいっそう多忙に過ごすのである。せめて夜だけでもゆっくりさせてやりたいものだと考え、得意への御不便を察して恐縮しながらも、五時閉店を固守して来たのであった。
 それを今度は店員一同、店のために進んで時間延長を希望し、日曜祭日の夜の僅かな余裕も犠牲にしようというのである。私はこの一同の案を容れるとともに、七時以後の時間を甲乙二班に分って隔日交替とし、この時間における売上げの五分を、その日の当直店員に特別手当として支給することに決めた。
 次に、各工場の職長に日本一の技術者を招聘(しょうへい)したいという私のかねての宿望を実現することになり、二月初旬には日本菓子部に荒井公平、洋菓子部に高相鉄蔵、食パン部に石崎元次郎の三君の入店を見ることが出来た。喫茶部の開設を決定したのもこの時であった。これで中村屋の陣容はやや整い、目前の不利な形勢に対しても、これならば恐るるに足らぬという自信を持つことが出来たのである。店員一同の奮闘もまためざましかった。果たして形勢幾許(いくばく)もなくして回復し、その後売上げは急激な勢いをもって増大した。
 翌三年三月、私は欧州視察の旅に上ったが、ちょうど船が台湾沖にさしかかった時、私に無線電信が入った。私は妻が病床にあるところを発って来て、絶えずそのことが気にかかっていたから、電報ときいてぎょっとしたが、恐る恐る開いて見るとそれは店から打ったもので、「売上げ二千円を突破す」という吉報であった。
 そういうふうで、昭和三年は中村屋の素晴しい躍進を記録した年で、その売上げは三越支店開設当時に比し、優に二倍を超過した。この意味において三越の新宿進出は、中村屋を一人前に育ててくれたものとして大いに感謝に値するのである。

    純印度式のカリー・ライス

 中村屋の喫茶部開設については、その二、三年前からすでに気運が動いていた。今日でこそ新宿には多くの喫茶店が軒をならべ、各々その特色を発揮して景況いよいよ盛んだが、昭和二年にはまだ喫茶店らしいものは一軒も見当らなかったのである。しかし土地が次第に賑やかさを加えるにつれ、自然茶をのむところの必要も感じられ、中村屋のお得意からもちょっとした小休み程度の喫茶部を設けてほしいがという希望はたびたび出ていた。
 しかし私は、喫茶のような丁寧なお客扱いは容易に出来るものでないからと独りぎめにきめて、それまで手をつけなかったのであるが、婿のボースが、彼の祖国印度に対する日本人の認識の誤りがちなのを歎き、中村屋で喫茶部をおくならば、純印度の上品な趣味好尚を味わってもらうために、自分はぜひ印度のカリー・ライスを紹介したい、現在世間でライス・カレーと称して行われているものは、もとは印度から出て世界中に拡まったものだが、日本では次第に安い材料を用いるようになり、今では経済料理の一種としてひどく下等になっている。印度貴族の食するカリー・ライスは決してあんなものではない。肉は最上級の鶏肉を用いるのであるし、最上のバターと十数種の香料を加え、米もまた優良品を選んですべて充分の選択の上に調えられる最上の美味である。と熱心に喫茶部開設の希望をした。ボースはすでにその妻を失っていたが、その亡妻俊子は私の長女であった。英国政府の迫害の中にある印度志士の彼に嫁した俊子は心労の果てに若死したが、それ以来印度というものに対する我々が親愛の情もまたひとしおに深いわけであって、ボースの印度料理案が出るに及んで心動き、ちょうど店の新計画と一致して、いよいよ昭和二年六月喫茶部開設となり、同時に印度式カリー・ライスを公開したのである。
 果たして純印度式カリー・ライスは、洗練された味覚を持つ人々によろこび迎えられ、現在いよいよ好評であるが、純印度式であるとともに我々日本人の口にあうように、またその最上の美味を出すためには、一通りならず苦心した。まず問題は米であった。カリーに用いる米はカリーの汁をかけるとすうっと綺麗に平均して、よく浸み透るのでなくてはならない。初めは本場の印度から取り寄せて見たが、一斤(約三合)五十銭につき、見た眼にはじつに美事であったが、その味は日本人に向かなかった。
 そこで、先に新兵衛餅を教えてもらった畑中氏をまたまた煩わすと、氏はカリーに最も適当する白目という米のあることを教えてくれた。
『維新前、江戸は美食を競うところであって、ことに各藩の勘定方など、価の高下を問わず美味三昧を誇りとしたものであるが、この人たちは好んでこの白目米を用い、また一流の鳥料理、鰻屋にはぜひともなくてならぬ米であったから、他の一等米に比しておよそ三割方の高価であったが、毎年三千俵の売行きがあったものだ。維新とともにそういう微妙な舌の持主は落魄し、にわかに粗野な地方人の天下となったのであるから、爾来白目米を味わい分ける者もなく、今日では僅かに当時の百分の一くらいが用いられるだけで、それすら年々減少する傾あり、この珍品白目米も遠からず種切れとなる恐れがある』と。
 私は畑中氏からこれを聴いて、我が中村屋のカリー・ライスのためにぜひともこれを復興させねばならぬと感じ、早速産地埼玉県庁に照会して、時の産業課長近藤氏の賛助を得、農会長の肝いりで十二人の老農を選択してもらい、一等米より二割高で引き取ることを約束して、白目米三百俵の栽培を頼んだ。これが現在中村屋のカリー・ライスに用いている米である。明治初年、文人画家として令名のあった奥村晴湖女史は、古河藩の家老の娘として生れ、一生を美食で通したというが、女史は白目以外の米は口にしなかったそうで、実際白目米には他のいかなる米も及ばぬ味がある。私はこういう良い米を復興し保存し得たことをよろこんでいる。

 次はカリー・ライスの鶏肉、いかにして良き鶏肉を得るかということであった。私は欧州視察中パリの食料品市場を見て、鶏肉に大変な価格の開きのあることを発見した。下等品と最上品では一と四の割合であった。私は日本ではせいぜい一と二ぐらいの違いであったと思っていたから、フランス人がそこまで肉の優劣を味わい分けるのに感服し、帰朝の上は自分もフランスに劣らぬ優良鶏肉を作り出し、中村屋のカリー・ライスを一段と向上させなければならぬと考えた。しかしそういう知識の全くない私のことである。どうすれば最上の肉が得られるか、見当もつかない。よく肥えた最上の肉を納入せよと鳥屋に命じるだけであって、それ以上立ち入ることが出来なかった。するとある日一人のお客様が私に対して、
『お店のカリー・ライスはじつに美味しいが、惜しいことには肉がなってませんね』
 さてはと思って私はなおくわしく肉の批評を乞うと、
『この肉は鶏舎飼いの鳥で、普通品です』
『いや、優等の肉の筈です』
 と私が答えると、
『色が白くて、やわらかで味のないのが鶏舎飼いの証拠ですよ。上等の地どりなら色が赤くてもっと締って、味もはるかに優っている筈です』
 そこで私は鳥屋を呼んで、
『最優良品という条件で、値も高く買っているのに、鶏舎飼いを納めるとは怪しからんではないか』
 と詰問した。すると鳥屋は恐縮して、
『毎日これほど多数お使いになるのですから、地どりの上等だけで取り揃えることは困難なのです。時には御註文だけ揃わないことがあって、致し方なく普通品の中から上等のものを選んで混ぜることにもなりますが、どうか御辛抱を』
 という。
 それから私はこれまでの鳥屋まかせを改めて、専門の人々にも訊き、本格的に鶏肉の知識を漁った。江戸時代の第一流といわれた鳥料理店では、この原料の優良なものを集めることに非常な苦心をしたものだそうで、優等品は並品の三倍以上もするということが判った。しかし優良な地どりでも、フランスで四倍の高価を保っている肥育鶏にはやや劣る。で、この肥育鶏を用いることが出来れば申し分ないのだが、肥育鶏は今より十五年ほど前、岩崎家が千葉の末広農場で試みられたのが日本における最初で、この肉は当時外国公使館などで歓迎されたが、僅か数年の試験に五、六万円の赤字を出し、ついに中止されたとのことであった。しかしその後も、英国帰りの伴田という人が蒲田町でやっているということが判った。
 私は伴田氏の鶏舎を訪ねていろいろ実状を調べたところ、丸鳥で百匁七十銭程度に取引きされて、当時の並鳥二十銭に対して三倍半の値で、フランスの四倍にやや接近していたが、ここの肥育鶏は惜しいことに種々雑多の種類を集めたもので、味が平均せぬ憾みがあった。私はこれをさらに一歩進めて食用鶏として最も味の優れている軍鶏(しゃも)の一種とし、自分の手で飼育すれば完全なものが得られるのだという結論に達し、そこで初めて山梨県に飼育場を設けたのであった。
 飼育場主任としてこの仕事に当った河野豊信氏は、農林省の畜産試験場で養鶏の研究をしていた人で、ここに初めて本格的の肥育が試みられることになった。その後年々需要が増加し、そこだけの設備では供給が出来なくなったので千葉県に移転し、これでようやく一年間を通じて同じ優良鶏肉を供給し得る、完全な飼育場を持つことが出来たのである。
 こうして私のパリ以来の懸案は解決されたが、初め考えたよりもその実行ははるかに困難であった。カリー・ライスが好評なのでその後お客様から、『もし中村屋でビフテキを食べさせるならきっと最上のものが出来ると思うが、やって見ないか』というお勧めも出たが、私はその原料精選のことを考えて、今もって手を出し兼ねている。今日最上の牛肉は多く一流のスキ焼店に買い占められて、市中の肉屋の手に入ることはきわめて稀れである。
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