一商人として
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著者名:相馬愛蔵 URL:../../index_pages/person1148

 その面倒な規則を守ってあなた方は正確に出勤する。最も早出は午前三時半までに。冬の朝、この寒天にと私は店の方を思いやり、白い息を吐きながら工場に駆けつける皆さんの姿を眼にえがくのです。次は午前七時、九時、正十二時と数回に別れてそれぞれ出勤し、仕事の終るまでは傍目もふらずに車輪になって活動する。あなた方の働きには森厳といおうか悲壮といおうか、真に言語に絶するものを感じ、私はその尊さに涙が溢れて来るのです。それがどの部も同様で、一人だってのらくらしている者はいない。時々おとくい先から店員が手間どって不都合だとお叱りを蒙るけれど、私はそういうお方に一度あなた方の仕事振りを見て頂きたいとさえ思うのです。
 甲乙のない皆さんの勤労に対して、不公平のない報酬を定めるということは難事中の難事です。渡された月給の袋の中を調べて見て、予期した以上の内容に微笑することはないであろう。が、こちらもその月給をおろそかにはその袋には入れません。毎月二十五日の夜から翌二十六日の午後まで、各部からの報告全部が集まって来る。その月の総売上げと大入袋の金額と回数、その他の材料を大卓上にならべておき、あなた方に渡す手当の明細書の各項目に一つ一つ書き込む。貯金幾何、これは独身者に限るものです。遅刻何回、事故休み何回、病気休み何回は規則に従って差し引き、俸給幾何(いくばく)、家持手当、子供老人手当、夕食代、これは所帯持ちに、配当、ボーナス等々合計○○○何々殿、年月日、と一人一人異なる事情と計算を書き上げる。
 これまでは千香子の仕事の領分として、だいたい書き上げたものを、主人と主婦がいま一度目を通して、誤りの有無、公平を欠くことはないかを調べる。遅刻と欠勤は理由の如何にかかわらず、必ず若干差し引かれる規定ではあるけれど、実際一家の働き手が病気した時は、見舞いという名義をもって補給してやらねばならぬ。そしてこれは単なる事務として他の家族に命ずる仕事ではないから、必ず主人自ら行います。こうして念には念を入れて公平を期するよう努力はしているけれど、それでも目こぼしや不行き届きがあるもので、あなた方から見れば定めし不平も不満もあるでしょう。
 全員ことごとく奮闘してくれるけれど、その中でも特に性質も善良、技術を懸命に研究する模範店員もあり、また同輩ばかりでなく、おとくいからもお小言を頂くような者もたまにはあるけれど、主人から見れば同じ吾が家の者、心得が宜しくないからといって、その者にばかり薄くするわけにはいかず、また優秀な者にばかり賞を与えることが出来ない場合もあり、与えるものの側にも相当の苦心と考慮のあるものだということを、あなた方もよく理解してもらいたいのです。
 こういう心持で、毎月質素な茶色の袋に、私たちの満腔の感謝と希望と祝福とをこめて月給を入れ、一つ一つ押し戴くようにして封をする。この時は誰も室に入ることを許さず、主人と私とただ二人で『有難う』を繰り返しながら仕事を終るのです。
 不徳な私たち、必ずしらずしらずの間にたくさんの不行き届きもあろうけれど、これは寛大な心をもってあなた方もゆるしてくれるでありましょう。

(「一商人として」岩波書店・昭和十三年初版刊)



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