一商人として
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著者名:相馬愛蔵 URL:../../index_pages/person1148

 先年店員の中に、仕着せの縞物(しまもの)を嫌い、絣(かすり)を自弁でつくったり、あるいは店服のルバシカを脱いで詰襟を借着して学生風を装うものなどがあって、私どもは大いにその不見識を戒め、そんな心がけでは何をしても成功おぼつかないと懇々説き聞かせたことでしたが、こういうことをするのは自分の選んだ職業を恥ずるものと認めなければならない。いやな仕事ならば断然止めて好む道に進むがよいのです。人身の売買など正しからぬことを業とするならばともかく、いやしくも商売に上下貴賤の差別はない。私は自分の仕事を神聖なものとして尊重し、一生をこれに打ち込んで恥じません。

    あくまで独創的に

 私たちは人々から折々妙な質問を受けます。それは『どういう方法で今日の繁栄をかち得たか』『商売のこつを教えてくれ』などと言われるのですが、いつも返答に窮し、あまりに世間の人の心持のちがいを知らされて、何ともいえぬ淋しさを感じます。
 私たちは最初からどうすれば繁昌するかなどと考えて商売に着手したのではない。もし私たちが商家に生れて、いわゆる商法に通じて家業を継承したのならば、あるいはこの質問に対して答える用意があったかもしれないが、私たちの発足はそれとはまるで違うのですから、コツなんていうものは全く知らない。しかしなおも答を求められるならば『私たちは全くの素人でしたから世間の伝統によらないで、自ら前人未踏の茨の道を大胆に開拓しました。素人だから本格的な商人の真似をせず、いっさい独創的に思いのままに仕事をして迷わなかった。今日はただその独創をもって貫いた結果というだけで、何が当った、こういうことで成功したなどとお話し出来るものは何もありません』と。しかし今一つ加えなければならぬことがあります。それは『金を儲けようとして商売をしなかったこと』です。
 中村屋で修業した人で、現在独立して店を持ち、相当にやっている人もかなりあって、非常に結構なことと喜んでいますが、中村屋の真の精神を会得している人は甚だ稀れです。人真似はいけない、何事も独創でなければならないことを中村屋の経営によってよく知っている筈なのに、さて独立して見ると他店を真似ないまでも、主人のしていることを形だけそっくり真似ているのです。中村屋式というのは人の書を額にして掲げ、その書に何らか背景のあることを示し、それをよりどころとするようなものではありません。自己の性格を生かして、あくまでも独自の道を歩むことであるのをまだ心づかないのはどうしたことかと思います。
 いついかなる場合でも正しきところに立ち、商人として充分おとくいの立場にもなって、なるべく薄利で商うようにすれば、志あれば道ありで、自ずからいかにすべきかを会得するでしょう。

    月給袋を入れる時

 我が中村屋では、いわゆる規則なるものを設けず、よかれあしかれ何事につけても主人対店員の間で解決し進行して、長い間いささかも不都合がなかったのでしたが、近年事業の拡張とともに人員増加し、したがって大小の事件頻々として起り、秩序が失われて思いもよらぬ弊害があらわれるようになりました。やむを得ず、私どもの最も嫌いな規則を立てて統制するという、まことに悲しい現象を見るに至りました。『こういう小むずかしい規則は昔はなかったのに』と、当時店員たちの間で不平の声がきかれたのも無理からぬことであります。
 最近に至っては出勤時間を記入する設備さえ出来て、機械そのものが正確に出勤時間を記入するので、庶務係に向かって時間の割引をせよなどと文句をいう必要がなくなりました。販売部、製品部、仕入部等々一々分業的に秩序正しく整理され、お役所のようだなどと皮肉を言われるくらいになった。しかしそうでもなければ二百七十名の従業員と、一日平均少なくも八千人のお客とを収容しなければならぬ現在、どうも治まりがつかぬ、何かしら規律統制を設けてそれによるほかないのです。
 その面倒な規則を守ってあなた方は正確に出勤する。最も早出は午前三時半までに。冬の朝、この寒天にと私は店の方を思いやり、白い息を吐きながら工場に駆けつける皆さんの姿を眼にえがくのです。次は午前七時、九時、正十二時と数回に別れてそれぞれ出勤し、仕事の終るまでは傍目もふらずに車輪になって活動する。あなた方の働きには森厳といおうか悲壮といおうか、真に言語に絶するものを感じ、私はその尊さに涙が溢れて来るのです。それがどの部も同様で、一人だってのらくらしている者はいない。時々おとくい先から店員が手間どって不都合だとお叱りを蒙るけれど、私はそういうお方に一度あなた方の仕事振りを見て頂きたいとさえ思うのです。
 甲乙のない皆さんの勤労に対して、不公平のない報酬を定めるということは難事中の難事です。渡された月給の袋の中を調べて見て、予期した以上の内容に微笑することはないであろう。が、こちらもその月給をおろそかにはその袋には入れません。毎月二十五日の夜から翌二十六日の午後まで、各部からの報告全部が集まって来る。その月の総売上げと大入袋の金額と回数、その他の材料を大卓上にならべておき、あなた方に渡す手当の明細書の各項目に一つ一つ書き込む。貯金幾何、これは独身者に限るものです。遅刻何回、事故休み何回、病気休み何回は規則に従って差し引き、俸給幾何(いくばく)、家持手当、子供老人手当、夕食代、これは所帯持ちに、配当、ボーナス等々合計○○○何々殿、年月日、と一人一人異なる事情と計算を書き上げる。
 これまでは千香子の仕事の領分として、だいたい書き上げたものを、主人と主婦がいま一度目を通して、誤りの有無、公平を欠くことはないかを調べる。遅刻と欠勤は理由の如何にかかわらず、必ず若干差し引かれる規定ではあるけれど、実際一家の働き手が病気した時は、見舞いという名義をもって補給してやらねばならぬ。そしてこれは単なる事務として他の家族に命ずる仕事ではないから、必ず主人自ら行います。こうして念には念を入れて公平を期するよう努力はしているけれど、それでも目こぼしや不行き届きがあるもので、あなた方から見れば定めし不平も不満もあるでしょう。
 全員ことごとく奮闘してくれるけれど、その中でも特に性質も善良、技術を懸命に研究する模範店員もあり、また同輩ばかりでなく、おとくいからもお小言を頂くような者もたまにはあるけれど、主人から見れば同じ吾が家の者、心得が宜しくないからといって、その者にばかり薄くするわけにはいかず、また優秀な者にばかり賞を与えることが出来ない場合もあり、与えるものの側にも相当の苦心と考慮のあるものだということを、あなた方もよく理解してもらいたいのです。
 こういう心持で、毎月質素な茶色の袋に、私たちの満腔の感謝と希望と祝福とをこめて月給を入れ、一つ一つ押し戴くようにして封をする。この時は誰も室に入ることを許さず、主人と私とただ二人で『有難う』を繰り返しながら仕事を終るのです。
 不徳な私たち、必ずしらずしらずの間にたくさんの不行き届きもあろうけれど、これは寛大な心をもってあなた方もゆるしてくれるでありましょう。

(「一商人として」岩波書店・昭和十三年初版刊)



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