一商人として
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著者名:相馬愛蔵 URL:../../index_pages/person1148

 この事件も一段落ついて間もなく、おまきさんは暇をとって家庭の人となり、横浜に住んでいましたが、大正十二年大震災の時危く焼死を免れ、再びもとの仕事に着手して復活の途上にある時訪ねて来て、無事な顔を見せてくれました。が、その後どうしたか消息が絶えてしまい、今もって安否が知れない。印度問題でボース氏の活躍を見るこの頃、しきりに彼女のことが思い出されてなりません。願わくはどこにありても健全なれと祈ります。

    店葬のはじめ

 留吉さんは鋳造の大家山本安曇氏の弟で、中年で入店し、販売部で働いていた。中年者はどこでも歓迎されるものでなく、当人としても中途からでは何をしても成功覚束(おぼつか)ないと相場がきまっているが、留吉さんも初めのうちは小姑の多い中に来た嫁のように、何かにつけ気兼ねはあり、仕事に経験がなくてずいぶん骨が折れたようでした。しかし性質が非常に善良で真面目で、倦まず撓(たゆ)まず働くうちにだんだん仕事に馴れ、いよいよ熱を加えて来ると普通の人の三倍くらいの働きをして、とうとう古参の者を凌駕するに至りましたが、これはほんとうに異数のことでありました。
 惜しいかなある夏ふとしたことから病みつき、僅か数日にして暑苦しい倉庫の片隅で、朋輩の看護のうちに淋しく死んで行きました。その頃はまだ寄宿舎もなく、病人のために何の設備も出来てなかったので、どんなに行きとどかぬことであったかと、今思い出しても胸が痛くなる。それでも本人は不平を言わず、かえって朋輩のやさしい心に感謝して逝きました。
 私たちは故人の功績に報ゆるために、店葬として厚く弔いました。中村屋の店葬はこの人をもって嚆矢(こうし)とします。

    精一郎のこと

 精一郎は主人の甥で、福島高等商業を卒えて中村屋に実地修業に来ていました。主人の肉親というものはとかく僻(ひが)みをもって視られ易い傾向があるから、私は精一郎を褒めることは遠慮します。本人も常にこの事を心にかけて伯父である主人に告げ口でもしないかと他から思われるのを嫌がり、決して自分一人では私たちを訪ねることをしないばかりでなく、店で顔を合わしてもただ目礼して逃げるように行き過ぎたものです。
 しかし私はあなた方に精一郎のことばかりはぜひ言い遺しておかねばならない。現在中村屋の帳簿は株式に組織を改めて以来、整然として秩序が立ち整理されていますが、昭和三年春、主人が欧州に渡行する頃は帳簿といってもまだ完全なものではなかった。
 したがって主人の留守に私がその帳簿を見ても、内容をはっきり知ることが出来なかったのです。そこで精一郎を呼んでいろいろ質問してみると、倉庫と工場、販売と仕入れとの間に連絡もなければ明確な計算もなく、至って漠然たるものでした。それから精一郎と相談をして、主人の留守中に完全に整理し、帰朝の主人に一目瞭然の帳簿を呈して留守中の報告をしたい旨を希望して、尽力を頼みました。
 精一郎は涙ぐましきまでに精根を傾けて本格的に帳簿の整理を行いましたが、まだ後に倉庫の確立、仕入部と工場との浄化の実現という最も至難な仕事を遺して、洋々たる前途を望みながら惜しくも彼は逝ってしまいました。
 その前後に果たして中村屋内部の危機が迫って来ました。その結果として製パン工場に一大廓清が行われ、職長並びに部下数名の退店等のことがあって、各部戦々として不安の色がありましたが、歪めるものを直くするには周囲に多少の動揺は免れないものです。

    年始まわり

 本郷森川町といえば昔から学校街で、商店はほとんど教授方と学生目当てのものばかりでした。だから顧客の範囲も至って狭く、森川町一円、東片町、西片町、曙町、弥生町、少し離れて駕籠町、神明町辺りが止りでしたから、新年には顧客先を私自身一軒一軒年始まわりをしたものです。先代の中村さんは配達の小僧に名入りの手拭いを持たせてやったと聞きましたが、私どもはどうしても主婦自身伺うべきだと考えたのです。お勝手口から『中村屋でございます』と御挨拶すると、奥からわざわざ奥様がお出ましになって『まあ中村屋さん、こんな所からでなく玄関の方におまわり下さい』といとも御丁重な応待で、かえってこちらが恐縮しました。目白の女子大学の寮のお勝手口にもたびたび伺いました。これがまたお客様と店との親しみを深める因にもなり、双方で商売を離れた一種の情味を生じました。御用伺いに出る小僧に『この頃おかみさんの姿が見えないが、変りはないか』とお尋ねに預かり、私は産褥(さんじょく)でこれを聞いて心から有難く思い、またそちらにおめでたがあれば嬉しく、御不幸ときいては心が痛みました。
 新宿に移ってからはおとくいも多く、また広範囲にわたって、それに交通はまだ今のようでなく、ことに郊外は泥濘膝を没する有様でしたから、霜どけ路に進退きわまり立往生することもしばしばでしたが、年に一度の年始まわりだけはどうしても私がすることにしていました。それが昭和三年まで続きました。そのうち私はだんだん健康を害し、やむを得ず次女千香子に代理させました。千香子の結婚後は長男安雄が後を受けて年々続けて来たのでしたが、だんだんおとくいが増加し、また店に来て頂くお客様の方が幾倍する状態となってついに本郷以来の慣例を、不本意ながら廃せねばならない次第となりました。

    鳥居博士御一家

 考古学の泰斗(たいと)鳥居龍蔵博士の御家庭は、創業当時の中村屋にとり大切なおとくいでした。一つにはその思い出をあらたにし、またあなた方に学徳ともに高き先生のお教えを頂くために、先だって淀橋公会堂で博士の御講演をお願いしたのであります。当日私が先生を御紹介致すはずであったのを、病気のため出席出来ず、おいで頂いた先生に対してまことに申し訳ないことでありました。やむを得ず私は大意を認めて三松氏に託し、代読してもらいましたが、いまそれをここに記しておきます。
『鳥居博士は皆もすでに存じ上げている通り、日本における考古学の権威者として最も有名なお方であります。先生は昨年の春、南米ブラジルの招聘(しょうへい)により、御令息と一緒に彼の地へお出でになり、つい先だって研究を果たしてめでたく御帰朝になったのであります。さような専門的な学問と私ども小売商人とおよそ縁遠く、したがって先生に講演をお願いするなどということは御遠慮すべきでありましたかもしれませんが、あなた方のためにあえて先生を煩わすに至ったのはいささか因縁があるので、簡単にそれを申します。中村屋が初めて本郷に店を持って数年の間は、いわゆる創業時代でありまして、見るかげもない、まことにみすぼらしい三文店でありまして、むろん製品だってきわめて貧弱なものでありました。その頃鳥居先生は中村屋の近くにお住いで、私どもにはこういう微々たる時代に、今日ここに御出席下さいました奥様に始終御ひいきにして頂きまして、どんなに有難いことでありましたかしれません。そのうちに先生と奥様は前後して考古学研究のために蒙古の奥地においでになりました。また私どもは新宿に支店を設けて、毎朝本郷から新宿に通い、その後はさらに慌しい日を送るようになりましたので、一時先生にも御遠々しくなり、時々新聞や雑誌を通して、ますます研究の歩を進めておいでになる御様子を知り、主人とお噂申し上げて居りましたが、ついお伺いする機会もなくて居りました。ところが昨年南米ブラジルにおいでになることを新聞で知りまして、私はちょうど病床におりましたのですが、このたびこそはと起き上がり、主人を促して一緒に先生をお訪ねした次第でありました。本郷以来、春風秋雨幾十年は夢の間に過ぎ、鳥居先生は考古学の泰斗として外国にまでお名がひびき、ますます蘊蓄(うんちく)を深められつつあり、奥様もまた先生と同じ学問に志をたてられて、内助の功まことにお見事に、御令息御令嬢、一家をあげて同じ研究に精進せられているのはまことに驚異と申し上げねばなりません。総じて学者の仕事は地味で目に立ちませんから、一般の人には理解されにくいようでありますが、それだけ奥深く尊く、我々の文化の母胎は常にこういう専門的篤学者によってつくり出されつつあるのであります。あなた方はかような尊い学者のお仕事に対し、常に尊敬と感謝を捧げ、また鳥居先生のように一家をあげての御努力には大いに学ぶところがなくてはなりません。これを御紹介の辞といたします』
 当日先生には私どもの切なる願いを容れられ奥様と御同道でおいで下され、あなた方にじつによい御講演をして下さいました。まことに御縁というものは有難いもので、あなた方もよくこの縁を思うべきであります。いまや満州蒙古の問題の重要視せられる時、三十幾年前すでに鳥居博士御夫婦が多くの危険を冒して前人未踏の奥深く入り、貴重な研究を遂げられていたということは、じつに意義深く、皆さんもそのつもりで先生のお話をいっそう感銘もって伺ったことでありましょう。

    中村屋に女子を使わぬわけ

 本郷から新宿に支店を設けた頃のことでした。女学校出身でパン屋をしているということが二、三の新聞で紹介され、その記事に刺激され、東京はもとより地方の婦人たちから種々問合わせがあり、私はいちいち返事を書く暇もないので困っていました。そのうち山陰地方の○○○という小さな町の娘さんから手紙で、ぜひ店において商売を見習わしてくれと懇願して来ました。私どもも慎重に考えて、容易く引き受ける気はなかったのですが、あまりたび重なり余程熱心のようでしたし、その婦人がこちらのおとくいの親戚に当るということが判って見ると、どうもお断りしかねてついに承諾してしまいました。
 早速上京して私をたずねて来た本人を見ると少し意外でした。どうも商売見習いは口実で、他に何か曰くがあるらしく、果たして入店早々私の予感の間違いないことを示す行動がありました。それは医科大学生と称する従兄が同じく上京していて、その交渉が頻繁なところから店員たちの注目を惹き、ついに店員との間にも忌わしい問題を惹起したのです。まことに店としては由々しき大事で、やむを得ず退店してもらいましたが、母なる人が心配して引取りのため上京されたのに会って、初めて事情が判りました。何でもその娘は町で小町娘と評判されたものだそうで、もっとも私にはどこが美しいのか解りませんでしたが、そんなわけで身持がおさまらず、壻(むこ)を置き去りにして情夫の後を追いかけて来たのだということでした。そういうことも知らず上京の手蔓になった私は、お母様に対しても気の毒で、深く自分の軽率を恥じました。
 このことがあってから私は考えて、中村屋では女店員を使わぬことに決し、いかに別懇な間柄で頼まれても、こればかりは断って来ました。
 しかし三十年前と現在では時代も進み、婦人の職業も広くなり、それだけ自覚も出来て来たものとすれば、この鉄則も将来は破られる時が来るかも知れません。現在金銭登録器の前にいるもの、掃除の一部を担当しているものなど婦人もないではありませんが、これはみな店員の家族や私の親戚の者で、外から来た婦人でないことはあなた方もよく知っていると思います。

    店員の情操教育

 私は小学校時代から絵を見ることが好きで、したがって絵をかく人を友にし、自分は不器用で何も書けないけれど、いつとなく一通りの観賞眼は養われたように思います。本郷で営業していた頃は展覧会も今のようでなく、自分としてもずいぶん忙しく無理であったにかかわらず、上野の文展のはじまる秋には必ず時間の都合をして見に行き、こればかりは年々欠かしたことがなかったのです。
 それ以前から上野の美術学校には、先代中村屋がパンを配達していた関係上、私の代になってもそのまま配達をつづけていましたが、そのパンは別に学生さんが食べるのではなく、木炭画の練習に入用なのでした。その美術学生たちが自分で店頭に買物に来ることもあって、こちらも絵の話となると夢中になる方なので、出入りのはげしい店先で不似合な立ち話などしたものでしたが、そのうちだんだん昵懇(じっこん)になって、卒業製作の絵の具料や写生旅行の費用を一時立て替えてくれというわけで、小品などを預かり、ついそのままになったものもあります。
 そういうことがたび重なり、いつの間にやらいくつかの作品が手元に蒐(あつ)まり、それがまた店や居間に掲げられ、唯一の装飾となって、落着きのない騒がしい生活の中で、さながら沙漠のオアシスのような慰藉を与えてくれていました。
 現在持っている絵や彫刻はほとんど新宿に来てから、それぞれ自然な機縁によって手に入ったもので、本郷時代の作品に比して内容技巧二つながらすぐれたものであることは、画面のサインによっても判ることでしょう。ことに故荻原碌山の彫刻絵画、故柳敬助氏(この方は販売部主任山田健三氏の従兄でした)、故中村彝(つね)氏等いずれももとは中村屋の屋敷内に起臥し、食卓を共にした人々であり、じつに堂々たる美術家揃いでありました。詳しいことは「黙移」の中で述べています。
 いま喫茶部で使用しているブロンズの灰皿は、私の希望で碌山氏が粘土で作りかけ、出来上がらぬうちに氏は世を去りましたので、友人たちが故人の触(タッチ)を毀わさず残そうと、未成品のままブロンズにして永久に作者を偲ぶことにしたのです。鋳造を同郷の人山本安曇氏に依頼する時、碌山の遺族に二個、相馬家に二個、ほかに中村屋の分として一号より二十五号までナンバーを裏面に打ちこみ、非売品として喫茶部に備えたのでしたが、いつのまにか一個減り二個減りして、現在は十個ほど不足になっています。誰の手に持ち去られたものか、花ぬすびと同様ゆるしてのみいられぬところもあり、また失われるごとに係の者が責任を問われるので、最近は宴会の席以外には出さないことにしてしまいました。まことに不本意ではあるがやむを得ない次第であります。
 その他国宝とも称すべき頭山翁が書いて下された幅、かつて支那の大総統をした曹□の一筆の虎、支那僧密林師、犬養翁、また私の恩師渡辺海旭上人の偈文、現満州国皇帝の溥儀執政時代の御手蹟、小川芋銭氏の狐の嫁入り、良寛の扇面掛軸、明治大正昭和を通じてそれぞれ有名無名の人の優秀な油絵、チベットの喇嘛(ラマ)僧リンチェンラマより頂いた西蔵の貴重な経文等々、こう書きならべて見るとあなたがたにはことごとく見覚えのある懐しいものばかり、それが折々かけかえられることもみなよく知っているでしょう。
 そればかりでなく、中村屋の家具什器等々、豪華を誇るようなものは一つもないが、どの品だって価が安いから体裁がいいからといって手当り次第に買い集めたものではないのです。椅子テーブルの如き家具類にしても相当に心を払い、クロース、食器、掛紙、紙袋等、何かしら私たちの気持を含ませ、自ずとそこには一つの好尚(このみ)が現れている筈です。あるいは我々の道楽と簡単に見てしまう人もあるでしょうけれど、それにしてはあまりに犠牲が大きすぎるのです。
 人は神仏の前あるいは崇高な人格者に相対する時、自ずとそこに額づき、挙動をつつしみ、言葉も自ずから改まります。その通り私どもの商売に好意を寄せて下さるお客様に対しては、尊敬の念が湧き、感謝の心を起し、自ずから丁重に接するようになる筈です。いうまでもなくよい菓子を拵えて満足してもらいたいと思い、包み紙一つにも心して、よい感じを贈りたいと自ずといろいろ工夫するものです。ましてしばらくの憩いの場所となるお茶のテーブルに、皿の形さえあればよい、腰掛けの用にさえ足ればよいとは考えられない。またこの思いはあなた方店の人たちに対しても同様です。こういう私どもの心持が一つの表現となって製品と化し、食器となり、家具その他いっさいの内容外観をつくるのであります。この生きることだに容易でない世に自分の才分にもない油絵、彫刻、書画をもって店を荘厳することは過ぎたるわざかも知れないけれど、お客様も私どももあなた方もけわしい人生の行路を辿る間に、お互いの触れ合う僅かの機会をも空しくせず、芸術を通してしみじみ生けるいのちのよろこびを感じ、天のはかり知れざる恩恵を謝し、共にその魂の浄化せられんことを願うものであって、神も仏も必ずやゆるし給うことと信じます。
 しかしこれとて度を越す時は、道楽と虚栄に堕する危険があります。かえりみて警戒すべきことです。

 また年に一、二回の観劇会と相撲見物、その時あなた方は古参新参の別なく、みなが一等の席に坐り、上等の弁当を提供される。ある人これを見て、『店員に一等席は贅沢すぎる、二等でたくさんだ』と苦々しげに云いました。この人は私たちの精神を全然理解していないのでした。敬意をもって対するのにお客様であると店員であるとの差はない筈です。おとくいを大切にし、その人格を重んずるものが、家族の一員である店員を軽視し無視していいものであろうか。あなた方が勝手に芝居見物する時は、二等であろうが三等四等いずれにしようと自由だけれど、いやしくも主人が店員を招待するに店員はどこでもいいなどとはもってのほか、招待には招待の礼儀があります。ことに店員は年中人様にサーヴィスして上げて、自分たちがそれを受ける場合はないのです。せめて芝居見物の時だけでも、のびのびとして、楽しみを人と共に享(う)けねばならない。
 それからやはり年に二、三回、第一流の料理店で食事を共にします。ある時は西洋料理、ある時は日本料理、支那料理と、全員一堂に集って食卓を囲み、団欒をたのしむ。これも私どもは大切な年中行事の一つとして、そのつど相当の心づかいをしているのです。私はこれをあなた方の修業の一つだと心得ています。食物を扱う中村屋の者として、時々一流の料理屋で正式に食事し見学することは、当然必要なのです。皆さんは自分がお客様となって見てどんな気がするか、どんなことを求め、どんな不満を感ずるか、そうしてそれはただちに自分たちの平常のお客扱いに対する反省となる筈です。人の振り見て我が振り直せ、他店の使用人のサーヴィス、料理のよしあし、食器を運ぶ時に不愉快な様子はないか、さわがしい音は立たぬか、いろいろ自他を比較研究して、先輩の指導よりも有効に、自発的に多くの呼吸を知るのではなかろうか。またお客としての礼儀作法をおぼえる機会にもなるのです。
 絵を一つ観るとしても、私たち素人に本格的な観方の出来る筈はありません。この絵は良い、この彫刻はどうと言って見たところで、どうせ素人眼にすぎないのですけれど、それでも常にすぐれたものを数多く観ていると、いつかは少しずつ眼が養われて来て、あまり目先のものに惑わされなくなる、何となく鑑別(みわけ)が出来てほんとうによい作品の前には、自然と頭が下がるようになります。これに反し、これこそ立派な作品だといって示されても一向解することが出来ないなどは、いささか恥ずべきものであります。
 すぐれた絵や彫刻により、また建築あるいは家具装飾の高雅な趣味によって情操を養われ、洗練されれば、営々としてやむことなき生活戦線に疲れた時でも、機械化した工場に働く中でもどことなく心に余裕を保ち、まして夕ぐれ憩いの時が来れば、新月のさやかな光りも心にしみ、暁霜を踏んで工場に急ぐ時も頭上にかがやく明星に、若いあなた方の胸は歓喜に充たされるでしょう。私どもは何よりもまずよくものを感じ得る心にならねばなりません。その大いなる導きとして私はあなた方の前に、一つの額一枚の皿をも心して備えたいと思うのであります。

    年末ちん餅の思い出

 年末のちん餅についても、あらゆる科学と機械とを利用した現在の中村屋と、昔日の中村屋とを比較して、まことに隔世の感なきを得ません。
 昔は節季の餅は搗(つ)きのわるいものとして、おとくいも餅屋も通用して来たものですが、私たちが初めてちん餅をやった時の糯米(もちごめ)は、普通の搗き方ではとうてい上糯米の本質を発揮することが出来なかったのです。初め私たちは餅菓子屋の習慣にならって臨時に搗屋を雇ったものです。東京近郊から冬の閑散期一週間を市内の菓子屋に雇われて来る百姓の一団があり、それがみな元気溌剌としてほとんど疲労を知らぬ若者揃いでした。彼らは白いお米で生魚(なまざかな)が毎日食べられ、その上一日二円ぐらいの日当がもらえるのだから、いつも来年を約して村に戻って行ったものです。いまの仙川牧場はその頃から御縁がついていたのでした。
 さてその元気な人たちが交替に杵を取って搗くのですが、前にもいったように中村屋の糯米は普通品よりも品が硬くてなかなか杵が通らない。いくら元気でもだんだん疲れて来て、何本ときまっている杵の数も減り、搗く音も自然威勢よくひびかなくなる。私たちは直接働く人たちの眼には、戦場のような忙しい中をぶらぶらと見てまわり邪魔をするくらいにしか見えなかったかも知れないのですが、私たちはそうしていて決して遊んでいるのではなかった。職人たちが四斗樽に米を入れ、満々と水を張っておいて一眠りする、その間の見張り、米がふやけて樽から洩れそうになっていると見れば水を足し、火鉢の火が師走の夜風に煽られていれば黙って薬缶(やかん)をかけておく。一通り見まわりが済んで室に戻れば、主人は明日の餅の枚数に間違いはないか調べる。それを終って帯を解かずに床に入り、どうにかうとうとする頃には、工場で起きて餅搗きがはじまる。どしんどしん震動が夜の空気をふるわして枕にひびく。それもしまいには慣れるけれど、杵の数をかぞえていると少し足りない。はね起きて工場に下り、今のは杵の数が幾本少なかったと注意し、搗き手はまた文句をいうと煩さく思ったことであろうし、今から思えばずいぶん無理なことであったと気の毒にも思うのですが、よい餅を搗いておとくいの信頼に報いたいと一念それに励まされて、餅搗き中はしみじみ寝た夜もないのでした。また近所へは、のし餅を配り、夜中の騒がしさを一軒一軒お詑びして歩いたものです。
 三年目からは電力を用いて搗くことにしたので、搗きが若いという心配はなくなりましたが、今度は機械に故障が生じたら絶対絶命、仕事は全く不可能に陥る。これに対する苦心はまた格別で、手搗き時代の比ではなかった。機械が修繕されるまでみな手を空しくして待たねばならず、いたずらに時間が経って燃料は煙になってしまう。何よりもつらいのは明日の註文が後れて間に[#「間に」は底本では「問に」]合わなくなることでした。損失は諦めるとしても、節季の餅はどちら様でも祝儀のものですから間違いがあってはならぬ、この心配でほんとうに身も細るようでした。
 暁方からは配達、近所は籠に入れ自転車で、遠方は大八車でまわりました。雨や雪が降るとその運搬の苦労なこと一通りではなかったのです。その頃は何しろ道がわるく、屋敷町などは泥濘に車輪を喰い込まれて途方にくれることがしばしばで、夜九時過ぎになってやっと戻ることさえありました。南信から来た常どんはその頃まだ十四、五歳、小柄であったが、忙しいからお前も配達しろと先輩にいわれて、餅をのせ自転車で新宿御苑の塀に添うた片側路を雪を蹴って走るうち、中心を失って溝の中に転がり落ちた。ちょうど通りかかった職人風の人に救い上げられ、常どんはべそをかきながらぬれねずみになって戻って来ました。骨の髄までしみ透る寒さにふるえ、泣いて報告する常どんを見た時は「雪の日やあれも人の子樽ひろい」の句を思い、ひそかに憐れでなりませんでした。
 当時まだ小学生であった安雄も、餅搗きには印ばんてんや「あつし」を着て配達の手伝いをしました。冬の休みを利用して仙台から中学生の甥も見学だと称して出京し、安雄とコンビになって荷車の後押しや餅配達をやりました。
 その中でのおかしい話。西大久保のおとくいに夕方餅を配達すると、女中さんはこんな固いお餅じゃ切るのに骨が折れるのではないかとさんざんのお叱言、上餅は早く固くなるもので、陸稲(おかぼ)の粗悪な餅はいつまでもやわらかで伸びるものですが、安値な大福餅が夜になっても固くならないのは道理なのです。しかし先方の女中さんもこちらもそんなことを知らないからただ恐縮して、それならば搗きたてのお餅と取りかえて上げますといって、その餅を持ち帰りました。翌日甥と安雄はまだ温味の残っているのし餅をお届けしました。女中さんは大喜びで受け取ろうとすると、餅と餅がくっついて離れない。それを無理に引き離そうとして持ち上げたところ、四角にのした餅が伸びて形がつぶれてしまいました。けれど女中さんは自分の註文なので再び小僧を叱るわけには行かず、不承不承に受け取ったがいったいあの餅はどうなったろうという報告に、お気の毒やらおかしいやら、全く忙しい節季の仕事中には思わぬ笑いを恵まれました。現在の安雄は主人代理として、帳場で主人の傍に坐っているけれど、かつてはこうしてあなた方の仲間で、年末ばかりでなく五月の節句にも中学を休んでまで家業の手伝いをしたものです。

    一人一店主義の教訓

 中村屋は元来一小個人商店にすぎないものでしたが、税金の関係と当時の社会情勢に鑑み、大英断をもって株式組織に改めました。大正十二年の春でした。それまでは営業人の名は主婦良で、実際主婦が主になって営業をして来ましたが、株式会社にする時、主人を社長とし、主婦を大株主と定めたので、これは主人の書いたものですでにみな承知でしょう。
 ある秋のこと、松の実の相場が急に暴騰しました。私どもはその原因を調べるために両人同道で京城に行きましたが、調査して驚いたことは松の実の暴騰が仲買人の責任でもなく、荷主が悪いのでもなく、全くこれは私たち自身が値上げをしたようなものであったのです。京城の市場に行って見ると、田舎の百姓たちが一升二升あるいは三升と松の実を市場に持って来る。それを寄せ集めて何斗何石という数にまとめるのであって、内地で考えているように収穫の季節に大量仕入れをすることは、朝鮮人の手では不可能であったのです。もし一時に大量な仕入れをするならば勢い価が上がらざるを得ないわけで、私どもはその事情を知らずに、内地で秋の初めに一ヶ年使用する栗を仕入れする呼吸で松の実を多量に註文したものですから、京城では非常に驚き、にわかに諸所から少量ずつ松の実を集めるために、自然相場が上がったのでした。初め私どもは朝鮮人の仕事にもと思って取引をした松の実でしたが、商品として取り扱うのはまだまだいろいろ不便があって、結局内地人の手を経なければ商品にならないということになったのは、まことに残念でなりません。
 朝鮮からの帰途、下関に上陸、それから九州を一巡して帰京しましたが、その間三週間ほど留守にした次第です。ところが店に戻るや驚くべき報告に接しました。それは我々の不在中に、支店を代々木初台の市場に設けることに決定したという、全く寝耳に水とはこのことでした。当時支配人格で店の手伝いをしていた人と年長店員たちの思いつきだという。この人たちは何に血迷ったのでしょうか。
 千香子は幼少から店の手伝いをしていた関係上、主人の実印を預っていました。当時大学生であった安雄は古参の店員たちや支配人に説かれて賛成の意を表し、妹の千香子に実印を出させて契約証に捺印してしまったという。私は全身がふるえるほど、彼らの浅見と軽率が心外でならなかったのです。
 しかし私は思うところあって、直接そのことに関係した人たちには何も言わず、代表的に安雄一人を極度に叱りその不心得を責めました。主人や主婦の不在をことさらうかがったというわけでもなかったでしょうが、帰京の時期も判っているのに、それをも待ち切れず従来の方針を覆したことは、中村屋の存亡にもかかわる一大事でありました。
 初め中村屋を株式組織に改めた時、私たちは店員の年功者に一銭の払い込みもさせず、株式を贈与しました。それゆえその人たちは株主となり、自ずと権利を主張するようになったものと思われるが、これでは我々の好意がかえって彼らに害を与えたことになるのでした。彼らは権利は勝手に行使するが、義務のあることを知らない。それゆえこういう事態を惹き起したのではないか。これは悪かったと、私はまず自分たちを反省せずにはいられなかったのです。
 私は少しぐらいの損をしても早く取り消すことを主張しました。が主人は寛大に見て、せっかく皆がよかれと思ってしたことだからと言って、とにかく開店することにしました。私も不本意ながらしぶしぶ主人の言に従わざるを得なかったのです。大正十五年十二月でした。
 翌年の正月早々には文雄が南米に立つことになっていました。で、とりあえずそれまでの一月を最後の孝養として文雄がそちらの店番をすることになり、開店はたしか十二月の初め、いよいよ蓋をあけて見ると果たして店員たちの期待ははずれました。彼らはこの新しい支店で毎日三百円の売上げを予想しました。当時の中村屋としてはすでに相当繁昌していましたから、少し拍車をかければ現在のままでも三百円の増加を見ることは不可能ではなかったのですが、何を苦しんで四千円を投じて支店を設ける必要があったのか、あまりに認識の欠けているのを憫れまずにはいられない。
 とにかく開業当日に百円の売上げがありましたが、翌日は八十円に減じ、六十円になり、とうとう三十円台にまで落ちてしまった。店員たちも文雄が売上げの財布を持ち帰り、それを数えて見て、初めて自分たちの認識の誤りに気がついたが、もう遅かったのです。年末を目前に控えて中村屋は一大危機に直面しました。この上は少しでも犠牲を減ずるために、一日も早く閉店することを主人に進言しましたが、あくまで寛大な主人は『まあこの暮だけはこのままにしておけ』というので、仕方なしに来春を待つことにしました。
 二十五日は大正天皇の崩御遊ばされた悲しき日でありました。市民は御重態の発表を知るや、一刻も早く御悩の去らんことを祈りつつ、街々は迎春の用意に商店の軒先も注連繩(しめなわ)を張り、吉例の松飾りを立てつつ安き心はなかったのです。ついに陛下は神去りまして世はまるで火の消えたよう、あらゆるものは黒一色に塗りかえられてしまいました。
 かくて上下憂愁のうちに諒闇(りょうあん)の春を迎え、昭和二年の御代となりました。
 文雄は正月四日神戸を出帆して南米に向かいました。諒闇のこととて店でも新年宴会を慎しみ、丼で済ませ、地獄の釜の蓋もあくという正月十六日のお賽日は一日店を休ませました。それから株を与えてある店員十名を、改築前の広間に招き、主人から旧冬代々木初台に開設した支店を断然閉鎖すること、設備費数千円の損害は諸君の生きた学問の月謝として清く諦めること、閉鎖する支店に未練を持ち継続することを許さず、なお前に贈与した株式は払込額面の一割増しで主人が即時買い戻すことを通告して、現金を店員たちの前に出しました。もちろん彼らに異存のあろう筈はなく、時ならぬ現金を懐中にしてその場を引き下がりました。しかしひそかに冷汗を拭うた者もあることでしょう。
 私たち二人はかように清算したことによって気持も晴れ、多くの教訓を得て、もはや数千円の損失などは問題ではなく、これで我が中村屋も雨降って地固まる、いよいよここに基礎が定まりました。
 中村屋は今や年とともに外観内容ようやく整頓しつつあり、ますます発展の途上にあるのは有難いことではあるが、何時も順風に帆を上げて走れるものと思うてはいけない。すでにこれまでにたびたび停滞頓挫、また数々の失敗を体験していることを忘れてはならない。この失敗の上に初めて一人一業また一人一店の中村屋精神が定まったのであることを、皆さんもよくよく理解してもらいたいのであります。

    問屋のつけとどけを受けぬこと

 毎年正月の新年宴会は、中村屋の最も楽しい行事の一つとして、かなり賑やかに行われたものでした。
 問屋から贈られるいわゆる中元の品物は、七月十六日の盆休みに店員一同に分配するのに至極簡単でしたけれど、歳暮と年玉は山のように積まれ、私はそれをまとめて整理しておき、新年宴会の席上で福引として一同に分配しました。しかしなにぶん人数の多いことですから、私の方からも相当追加するのでなければみなに行き渡るだけはなかった。
 福引のことだから十四、五歳の小店員に、大人物のシャツや煙草が当ったり、職長級の人にお多福の面が行くというわけで、そのつど拍手喝釆しているけれど、その実、貰ってあまり有難いとも思えないものもあるわけです。ただ私は問屋が日頃の引立てに対する感謝の意としてきわめて素直に受け、主人が独りで納むべきものではないから、贈物全部を皆に分配して至極いい気持になっていたのでしたが、いつの間にか問屋と店員の間に忌わしい関係を生じて来ました。今まで正直一途の模範店員であったものが、この問屋の手管にしかと押えられ、しらずしらずに堕落しつつあることを知った時の私の失望と悲しみはどうであったか、これはあなた方にもよく聞いておいてもらいたいのです。
 これは問屋の主人よりも外交員が悪いのです。仕入部あるいは重要な地位にある店員を抱き込み、内々金品を与えて否応なしに人情に訴えて不正取引をやらせるのです。問屋のこの手にかかった番頭は二等品を納めておいて主人には一等品として支払わせて、その間の利益を着服するなど、だんだん深味に足を踏み込んで取返しのつかぬ始末となるのです。先方の番頭は充分世才に長じ、人情の弱点を心得ているから、決して初めからお金などを持っては来ないのです。例えば小手調べに活動の切符などを持って来て、お暇ならどうですという。こちらはたかが活動の切符だと気にもしないが、日付を見ると何日とある。ちょうど用事も片付いた、ただ捨てるのも惜しい気がしてうかと行って見る。次には芝居の切符を持って来る。これが無事通過すればもうしめたもの、今度は飲食店に誘う。この辺からフルスピードで魔窟に急転直下するのです。すでにここまで転落すれば給与される金ではとうてい足りないから、朋輩に金を借り、ついには主人の金品を胡魔化(ごまか)す、仕入部と工場に忌わしい連絡が結ばれる、とうとう陥る所までおちて馘首(かくしゅ)され、昨日の店員も今日からは他人となり縁が絶えてしまう。こうして将来ある青年をあたら中途で堕落させたことも幾度か、やはりここにも主人として重大な責任のあることを思い、深く心を悩ますのです。
 ついに長年行われていた中元歳暮の旧慣を廃し、絶対に問屋からつけとどけの物品を受けないことにして、ただちに問屋にその旨通告して諒解を乞うた。それでも名実ともに物を贈らぬ受けとらぬという店の鉄則を実行するには、相当の年数を要しました。

    商人の妻はお内儀さん

 私は本郷に店を持つとともに、先代中村屋のいっさいを継承しました。店員女中ばかりでなく、主婦をお内儀(かみ)さんと呼ばせることまで受けつぎました。いったい小売商人の家内を誰も奥さんとはいいません。奥さんは官吏あるいは教職にある人の夫人等、すべて月給生活をしている人の夫人にふさわしい称号ですが、小売店の主婦をお内儀(かみ)さんというのはこれも最も適当な称び方だと思うのです。それゆえ私は今でもあなた方にお内儀さんといわせ、奥さんとは決して称ばせない。うっかりあなた方が奥さんと私を呼ぶと、私はそっぽを向いて返事をしません。
 もし皆さんがお内儀さんというのを奥さんというのより低いと思うならば、それはたいへんな間違いです。夫人あるいは奥さんの仕事の範囲は、いわゆる奥の仕事で、おもに家庭に属する雑多なものです。が、お内儀さんの方は少しく趣きを異にして、家業の仕事の過半を受け持ち、中にはほとんど八、九分まで担当し、残る一、二分が主人の領分となっている家もあるのです。別に権利義務を云々しなくともお内儀さんの命令は行われ、自ずから威厳が保たれる。いうまでもなくこれはそのお内儀さんの徳と手腕によることで、お内儀さんだからいうことをきくというのではありませんが、とにかくお内儀さんは決して軽蔑どころでなく、正に千鈞の重みを感ぜしめる。それだのに女はどうしてお内儀さんといわれるのを好まないのであろうか。少なくともあなた方は店頭(みせさき)で私を奥さんと呼ばないように注意して下さい。

    主人主婦と店員の例会

 主人は病気でない限り毎日店に出勤して、報告を聴取したり指図したり、工場を見まわり、店や喫茶部の飾りつけに注意を与えたり、またものの決裁と人事に関するいっさいを主人自らやっていることをあなた方はよく知っている。しかし全店員と顔を合わせることはほとんど不可能です。まして私は二十年来病弱の身となり、昔のように立ち働いたり店頭に立って若い皆さんと仕事をするということは出来ない。したがって店に行くことさえも甚だ稀れになってほんとうに申し訳ないことです。
 だから途中から入店した人で全然顔を見たことのないのも出て来て、毎月、月給の袋に名を書く時いつも済まない済まないと心の中にお詑びをしています。それで私は主人と相談をして、あなた方に時々宅まで来てもらって挨拶をしたり近づきにもなったり、古参の人たちとも親しみ合っておかなければ、私として安んじないのです。毎月というわけにもいかないが、店の都合のよい時に例会を催すことにしたのは、あの大震災後間もない頃であったと記憶しています。
 なかなか大勢だから一時に集まることは出来ません。やむを得ず全員を七、八回にわけて来てもらい、一緒にお弁当を頂きながら、互いに自由に話すことは、昼間忙しく働いて疲れているあなた方としては迷惑でもあろうが、私には非常なよろこびなのです。いかに弁松の弁当がおいしいとしても、七、八回同じものを食べつづけることはいささか閉口するのですが、いいえそれのみならず、皆が食べ残した野菜、焼ざかな、漬物はもちろん、御飯もみな整理して、主人はじめ一家で頂くので、時々一日三回もこのおあまりをお惣菜にすることがある。が、そんな辛抱は何でもないのです。同じものを同じ食卓で頂くということは、それだけでも私にはどんなに嬉しいことか。さながら骨肉相あたため、心と心とが結びつくように感じるのです。それから和気藹々(あいあい)たる中に各職場の苦心と労力をさらによく理解することが出来、例会より受ける功徳はじつに大きいのです。
 いま一つ嬉しいことがあります。それは店員一同が差別なく雑然として食卓につき、弁当を食べるという簡単なことであるけれど、回を重ねるに従って、腰の掛けようからお箸の持ち方まで、一々誰が指図するでなく自ずと心持から整って、静かに行儀よく行われるようになり、残しても御飯とお菜とを別々に綺麗にのこす。果物の皮を床に落さず、きまりよく片寄せておく。初めはまごまごして箸を取った少年も、後には『頂きます』といい、箸をおく時は『ごちそうさま』というようになる。いつとなく皆の態度が上がって来ました。あなた方が帰って行った後、女中たちと一緒に一通り食卓をしらべて見て、私はその食卓の整然としているのに嬉しくて有難くて涙がにじんで来るのです。私たちの店員はこんなに行儀のよい子供であることを、いつも心から感謝し、なおこの上にもよかれかしと祈るのです。

    開眼の降誕仏

 新店員を試験する時、私は必ず『あなたの家では何の宗教を信じているか』と尋ねて見る。三分の二までは仏教という答、もちろん日蓮宗[#「日蓮宗」は底本では「日連宗」]とか真宗とか宗旨はそれぞれ違いますが。
 日本の文化は昔、支那、朝鮮を通して仏教がもたらしたものであることは、皆もすでに学んで知っているでしょう。そして支那や朝鮮の文化はまた印度を母胎としています。すなわち釈尊の誕生された国が根元地というわけです。
 後代仏教が既成宗教として種々の弊害を生じ、従来の信望を失い、また廃仏毀釈の憂き目に逢って、一時仏教の勢力は全く地を払った時代もあったにかかわらず、何の時代でも文化の上に仏教の恩恵に預らないことはなかったといって差支えないくらい、日本国民の魂には深く何ものかを植えつけられて来ました。昔は四月八日には仏教を信じると信じないとにかかわらず、日本中至るところで釈尊の誕生を祭りました。これはもう仏教徒だけの仕事でなく、一般に普遍して民衆的行事の一つとなっていたのです。ちょうどクリスチャンでなくとも十二月二十五日にはサンタクロースやツリーを飾り、綺麗なデコレーションを施し、これが暮の街のショーウィンドーの王座を占めるようになったと同じであります。そしてこのクリスト教とともに欧米の文化を取り入れ、それに心酔するようになってから、我々はいつとはなしに釈尊降誕の日を忘れ、クリスマスにばかり力を入れるようになり、まことに遺憾なことであります。ことに東京でこの傾向が甚だしいのです。
 そこで私は今一度お釈迦様の誕生日を思い出し、全国に釈迦降誕会の行事を復活させたいと思い、昭和三年初めて降誕会を兼ねて、我が中村屋で花祭りをすることにしたのです。そして幼い頃の釈迦だんごを思い出し、さらに新しい工夫を加えて、現在行われている釈迦だんごを作り、中村屋考案の供物としました。ボース氏の母国印度で行われる「シガラ」「パイエス」等も新製して供物とし、おとくいにも提供することになりました。
 毎年花祭りの頃、店でお祭りする降誕仏は大内青圃氏に託して製作したものです。故渡辺海旭師にお願いして厳粛に開眼の式を行い、供養をしました。供養の時には製作者青圃氏と令兄青坡氏、相馬家一同列席し、大導師渡辺師はじつに敬虔なる態度をもって、献香読経をして下さいましたが、居ならぶものみな荘厳の気に打たれ、それよりこのかた真に敬虔なるおもいをもってこのみほとけをおまつりして参りました。すなわち毎年四月一日から八日まで開扉して店でお祭りし、来店されたお客様にも拝んで頂いています。かように魂のこもった開眼の仏なのですから、あなた方も粗略にしてはなりません。

    物故店員慰霊祭

  物故店員氏名

相馬精一郎 浅野民次郎 長束実  山本留吉

吉川浪雄  角田良雄  平野寅三 金谷信夫

はつ    飯田千代  遠藤倉次

 これらの人々もかつてはあなた方と同様に、中村屋のためによく働きよく忍んでくれたのですが、不幸短命にして今日の中村屋を見ることができず、私どもももはや何をもってしても報ゆる道なく、まことに残念でなりません。こういう人たちの努力が礎石となって今日の中村屋を築き上げたのだから、私どもは永久にこの人々を忘れてはならない。いうまでもなく今より薄給で、芝居を見せてやったこともなければ、御馳走もしてやれなかった。娯楽室も図書室も与えられなかった。見学旅行もさせられなかった。せめて生き残っている人たちは追善供養を営みその冥福を祈りたい。すなわち年に一回春の彼岸に増上寺において大島徹水猊下御導師のもとに、あなた方とともに物故店員の法要を行う次第です。
 またこのほど阿彌陀如来を迎え奉り、開眼の供養をして食堂に安置し、位牌をまつり、あなた方の合掌の縁としました。

    動物供養のこと

 あなた方は日々その職場にあって、一日平均七十貫(五千個)の地玉子と、百ポンドのフレッシュ・バタ、牛乳九斗(十三頭の乳牛を要す)、三十五貫(五十羽)の鶏肉、三十八貫(八頭ぐらい)の豚肉と若干の牛肉、魚貝、野菜等の原料を用いる。この他に店員二百七十名の食事に要するものがあるが、これは別として、以上の原料はことごとくあなた方の手によって菓子となり、料理となって顧客に提供されるのであります。これが休日を除いて毎日毎日繰り返される。思えば私どもが生物の生命を絶ち、またその恵みに浴することのまことに恐るべき大いさ深さ。おろそかに看過してはならないことです。
 けれども皆さんは、自分の料理する鶏がどこで、誰によって、いかにして飼育されるか、恐らく知っている人は少ないでしょう。仕事が大きくなり、何部何々部と分科的になれば互いに自分の領分に籠り、また実際担任以外の仕事に及ぶことは困難に相違ないが、それでは製品の筋道が判らず、自信をもって顧客に進めることが出来ません。それで私は現在中村屋の軍鶏(しゃも)の肥育飼いと牛乳について少し話をしておきます。
 中村屋で鶏というのは軍鶏のことで、鶏肉としてはこれが最上の品です。まず雛鶏を六ヶ月ぐらい飼育しておき、それから三、四週間暗室の独房(バッターリ)に一羽ずつ入れ、滋味あるどろどろの餌を管を通して与える。運動を止められるので鶏は肥って肉は柔かになる。これがすなわち肥育飼いです。こうして鶏が卵を生む性能が出て溌剌として見事な若鶏となるのを待ち、まだ雌雄接しないうちに鶏舎から中村屋の料理室へ毎朝提供されるのです。
 この鶏舎は初め甲府市外の素封家河野氏邸にあって、令息豊信氏がシェパード犬を愛育する傍ら鶏を飼って居られたものです。豊信氏は安雄とはシェパード犬研究のお仲間で親交あり、中村屋の仕事をよく理解して趣意に賛成せられ、私どももついにこの方に中村屋鶏舎場の場主兼経営者として、協同協力をお願いすることになったのです。その後仕事が大きくなって千葉地方の広い所に鶏舎を移し、ますます新しい研究へと目夜精進されています。両親の愛と物質的にも恵まれて世の辛酸を知らず成長したいわゆるお坊ちゃまは、たいてい肉体的勤労を厭い、白き手を誇る傾きがある中に、氏が現代の科学的立場に立ち、自ら土に親しんで実生活に邁進(まいしん)されるのはまことに頼もしい限りです。
 元来軍鶏は喧嘩鶏といって、絶えず仲間同志蹴合いをする特異性を持っていますが、喧嘩に勝った鶏は揚々として首を高くもたげて四辺を睥睨(へいげい)し、あたかも凱旋将軍の如くでますます飼主に重んぜられる。これに反し敗れた鶏は意気消沈して、一時に肉が落ち味も劣ってしまう。それゆえ鶏が闘って敗れればそれはもう中村屋の使用鶏にはなれないのです。たちまち二位三位に落とされてはねのけられ、もう一等級には入れられないで、他へ売られて行くのです。
 だから飼主は鶏に喧嘩をさせないように、絶えず注意しなければならない。大風が吹いて樹木がざわざわする夜などは飼主の心配は一通りでない。神経質で気のあらい軍鶏は荒天に刺激されて鶏舎の中で大騒ぎをはじめる。そして鶏は肉痩せ、大風の後には相当の損害を覚悟せねばならないのです。
 餌は科学的研究によって各種のものを選び、ヴィタミンE補給のために日光によく曝してから与える。容器その他の物ことごとく清潔に洗い、鶏舎の内外塵一つ落ちていないほど清掃が行きとどいています。たまにはあなた方も誘い合わせて、千葉県木更津にこの鶏舎を見学するとよいと思います。

 中村屋牧場は乳牛十数頭を飼えるだけの最も小規模なものですが、自家製品の原料または飲用としての牛乳を得るに恥かしくないだけの自信を持っています。警視庁の調査によると中村屋牧場の牛乳には、普通乳の百分の一しか黴菌を含んでいないこと、脂肪率も三・八くらいありと証明され、しばしばお褒めに預っている。脂肪の多いのは餌が良いからで、黴菌の少ないのは搾乳の前に乳房と乳首とをよく拭いて消毒し、清潔にしてしぼるからです。しかしどんなによく乳首を消毒しても、最初に搾った五勺ぐらいの乳は有菌ですから捨てなければならない。この最初の乳が全体の乳にまじると、その黴菌はたちまち繁殖して、幾百万という菌になるのです。
 牧場主任の和田武夫氏は「黙移」の中に書いている通り一風変った経歴を持ち、なかなか面白い人物ですが、この人のいうところによれば、牛を飼うには人間に対すると全く同じに慈悲と親切をもってしなければならない。それでこそ牛も初めて素直になり、穏やかに人間の意に従う。実際牧夫が乳房を搾っても牛は乳量をたくさんに出さないが、主任が手をかけて搾ると気持よさそうに眼を細め、じいっとしていて濃厚な良い乳を多量に出します。牡牛は気が荒くてなかなか牧夫のいうことを聞かないものですが、もしこちらで腹を立てて打ちなどすると、その一度だけで、もう良い牛にはなりません。中村屋の牡牛が牝牛のように柔和従順であるのは、ひとえに和田主任の愛育によるものであることを知らなければならない。
 中村屋牧場はこうしてたしかに牛の平和郷ですが、ここにもいたましい犠牲を出すことがあります。それは生れた牛が牡牛であると、しばらく飼い育てた上、食用として人手に渡さねばならない。また怪我をしたり、子を生まなくて乳牛の用をなさぬようになればこれも屠殺場に送られる(病牛や斃死した牛は食用として許されません)のです。
 こう考えて来るとあなた方の胸にも、人に栄養を提供してたおれて行く生物のいたましさを感じるでしょう。年々増上寺における動物供養は、私どもの生物に対する追善の心よりするのであって、皆さんもどうか当日は心から合掌礼拝してその霊を慰め、冥福を祈って下さい。
 三河の国では年に一度百姓たちが集まって、虫供養ということをするそうです。これは平常田や畑へ出て働くうち、鋤鍬の先に触れて死ぬ虫を憐み、また作物を育てるためには害虫駆除をして思わぬ殺生をするので、百姓たちの心に自ずからこの仏心が生ずるのだとききました。私たちもまことに同感です。

    現れた力と潜んでいる力

 江戸ツ児は総じて早熟で、敏捷で物わかりが宜しいから、入店するやただちに何かしら役に立ちます。しかし惜しいことに根気がなくて物事長つづきしません。目先のきく割合に大成しない傾向があるのです。これに反し、地方出の少年はすべて鈍重で物わかりがわるく、したがって急には役に立たないが、辛抱強くて指導さえ宜しければ[#「宜しければ」は底本では「宣しければ」]必ずよい店員になります。それをみわけて誤らぬように常に注意するのが主人や先輩のつとめであり、誰もその責任は充分感じているのですが、現れた才にはつい眩惑され勝ちなものです。
 店員の間に、誰は無能なのに高給を食んでいるなどと不平をいうものもありそうだが、一見無能力者のようでも真直な人は、一家にも一商店にも一団体にも重きをなすものだということを、普通の人は知らないのかと思います。
 メーテルリンクという人の脚本の中には、きっと老い朽ちた老人が、ぼんやりと椅子に腰をかけていねむりをしているのが出ています。そして血気盛りの若者たちが瞬間の後に襲って来る一家の不幸を知らずに笑い興じている時、そのいねむりをしている老人だけは予知していて、自ずと暗示に富んだ独白をする場面がある。正直な無能力者は眼に見えて有能なものより、かえって一段上のつとめをすることがあるのです。これはむろん頂門の一針、主人側の注意すべきことです。

    新製品を売り出すまで

 世間には自分の店で販売する品を、絶えずあれかこれかと変える人があるようです。中村屋では新しい製品を売り出すまでには、数年少なくも三、四年の月日を研究のためにかけている。例えば松の実にしても主人と二度朝鮮に行ったばかりでなく、これをいかに用いるべきかを研究するのに三年かかり、約一ヶ年というもの松の実の試験を右川学士に依頼し、そこでようやく現在のような製品を得て、自信をもって売り出すことが出来たのです。黒光餅、黒光かきもち、かりんとう、駄菓子、塩釜など、いずれも思いついてから数年を費して研究したもので、最近では蜜豆、しる粉なども相当長い時を経てようやく売り出した次第です。にわかに思いつきで店に出したようなものは一種もないというところですが、ただ一つあります。それは毎年晩春の頃柏餅に次いで売り出す葉桜餅です。これは主人が書いている通り、にわかの註文取消しから莫大の損失を招くところを、主人の機智で危いところを救われ、期せずして加えられた記念すべき品です。これぞ禍いを変じて福となした好適例で、長く店にいい伝え、あなた方の心構えに備えたいものです。
 しかしこの葉桜餅は全く異例であって、いつもかように突発的に新製品を出しても売れるものと思ったら、たいへんな間違いです。軽率に店頭に出して一向に顧みられず、やむを得ず後退させるようなことがあれば、それは一代の不面目、あたかも戦いに敗れて兵を退(ひ)くのと同じ恥辱であります。それなればこそ前もって種々の方面から研究し、遺憾なく準備する必要があるのです。よく売れる品には売れるだけの苦心が前に払われていることを、繰り返し言っておきます。

    自分の仕事に自信を持つこと

 先年店員の中に、仕着せの縞物(しまもの)を嫌い、絣(かすり)を自弁でつくったり、あるいは店服のルバシカを脱いで詰襟を借着して学生風を装うものなどがあって、私どもは大いにその不見識を戒め、そんな心がけでは何をしても成功おぼつかないと懇々説き聞かせたことでしたが、こういうことをするのは自分の選んだ職業を恥ずるものと認めなければならない。いやな仕事ならば断然止めて好む道に進むがよいのです。人身の売買など正しからぬことを業とするならばともかく、いやしくも商売に上下貴賤の差別はない。私は自分の仕事を神聖なものとして尊重し、一生をこれに打ち込んで恥じません。

    あくまで独創的に

 私たちは人々から折々妙な質問を受けます。それは『どういう方法で今日の繁栄をかち得たか』『商売のこつを教えてくれ』などと言われるのですが、いつも返答に窮し、あまりに世間の人の心持のちがいを知らされて、何ともいえぬ淋しさを感じます。
 私たちは最初からどうすれば繁昌するかなどと考えて商売に着手したのではない。もし私たちが商家に生れて、いわゆる商法に通じて家業を継承したのならば、あるいはこの質問に対して答える用意があったかもしれないが、私たちの発足はそれとはまるで違うのですから、コツなんていうものは全く知らない。しかしなおも答を求められるならば『私たちは全くの素人でしたから世間の伝統によらないで、自ら前人未踏の茨の道を大胆に開拓しました。素人だから本格的な商人の真似をせず、いっさい独創的に思いのままに仕事をして迷わなかった。今日はただその独創をもって貫いた結果というだけで、何が当った、こういうことで成功したなどとお話し出来るものは何もありません』と。しかし今一つ加えなければならぬことがあります。それは『金を儲けようとして商売をしなかったこと』です。
 中村屋で修業した人で、現在独立して店を持ち、相当にやっている人もかなりあって、非常に結構なことと喜んでいますが、中村屋の真の精神を会得している人は甚だ稀れです。人真似はいけない、何事も独創でなければならないことを中村屋の経営によってよく知っている筈なのに、さて独立して見ると他店を真似ないまでも、主人のしていることを形だけそっくり真似ているのです。中村屋式というのは人の書を額にして掲げ、その書に何らか背景のあることを示し、それをよりどころとするようなものではありません。自己の性格を生かして、あくまでも独自の道を歩むことであるのをまだ心づかないのはどうしたことかと思います。
 いついかなる場合でも正しきところに立ち、商人として充分おとくいの立場にもなって、なるべく薄利で商うようにすれば、志あれば道ありで、自ずからいかにすべきかを会得するでしょう。

    月給袋を入れる時

 我が中村屋では、いわゆる規則なるものを設けず、よかれあしかれ何事につけても主人対店員の間で解決し進行して、長い間いささかも不都合がなかったのでしたが、近年事業の拡張とともに人員増加し、したがって大小の事件頻々として起り、秩序が失われて思いもよらぬ弊害があらわれるようになりました。やむを得ず、私どもの最も嫌いな規則を立てて統制するという、まことに悲しい現象を見るに至りました。『こういう小むずかしい規則は昔はなかったのに』と、当時店員たちの間で不平の声がきかれたのも無理からぬことであります。
 最近に至っては出勤時間を記入する設備さえ出来て、機械そのものが正確に出勤時間を記入するので、庶務係に向かって時間の割引をせよなどと文句をいう必要がなくなりました。販売部、製品部、仕入部等々一々分業的に秩序正しく整理され、お役所のようだなどと皮肉を言われるくらいになった。しかしそうでもなければ二百七十名の従業員と、一日平均少なくも八千人のお客とを収容しなければならぬ現在、どうも治まりがつかぬ、何かしら規律統制を設けてそれによるほかないのです。
 その面倒な規則を守ってあなた方は正確に出勤する。最も早出は午前三時半までに。冬の朝、この寒天にと私は店の方を思いやり、白い息を吐きながら工場に駆けつける皆さんの姿を眼にえがくのです。次は午前七時、九時、正十二時と数回に別れてそれぞれ出勤し、仕事の終るまでは傍目もふらずに車輪になって活動する。あなた方の働きには森厳といおうか悲壮といおうか、真に言語に絶するものを感じ、私はその尊さに涙が溢れて来るのです。それがどの部も同様で、一人だってのらくらしている者はいない。時々おとくい先から店員が手間どって不都合だとお叱りを蒙るけれど、私はそういうお方に一度あなた方の仕事振りを見て頂きたいとさえ思うのです。
 甲乙のない皆さんの勤労に対して、不公平のない報酬を定めるということは難事中の難事です。渡された月給の袋の中を調べて見て、予期した以上の内容に微笑することはないであろう。が、こちらもその月給をおろそかにはその袋には入れません。毎月二十五日の夜から翌二十六日の午後まで、各部からの報告全部が集まって来る。その月の総売上げと大入袋の金額と回数、その他の材料を大卓上にならべておき、あなた方に渡す手当の明細書の各項目に一つ一つ書き込む。貯金幾何、これは独身者に限るものです。遅刻何回、事故休み何回、病気休み何回は規則に従って差し引き、俸給幾何(いくばく)、家持手当、子供老人手当、夕食代、これは所帯持ちに、配当、ボーナス等々合計○○○何々殿、年月日、と一人一人異なる事情と計算を書き上げる。
 これまでは千香子の仕事の領分として、だいたい書き上げたものを、主人と主婦がいま一度目を通して、誤りの有無、公平を欠くことはないかを調べる。遅刻と欠勤は理由の如何にかかわらず、必ず若干差し引かれる規定ではあるけれど、実際一家の働き手が病気した時は、見舞いという名義をもって補給してやらねばならぬ。そしてこれは単なる事務として他の家族に命ずる仕事ではないから、必ず主人自ら行います。こうして念には念を入れて公平を期するよう努力はしているけれど、それでも目こぼしや不行き届きがあるもので、あなた方から見れば定めし不平も不満もあるでしょう。

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