一商人として
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著者名:相馬愛蔵 URL:../../index_pages/person1148

 井口氏は最初そういう事情で独立したのであったから、教育界からは一種の反逆児として見られ、世間一般からも甚だしく毛色が異って、円満に迎えられることが出来ず、社会的経済的に苦しめられたことは想像以上で、全く気の毒な有様であった。けれども一方、基督教界の人々には一個の英雄として尊敬され、内村先生なども氏を明治の中江藤樹、信濃聖人とまで賞讃されたものであった。
 私は井口君がその一生を通じてこの信念に専らにして、少しも遅滞するところなかった勇猛心に対して、心から敬意を捧げるものであるが、君をしてかかる不遇の生涯を送らしめたその源はといえば、自分が基督教と禁酒主義を故郷に移し入れたに因(よ)る。私はいまこれを思うてじつに感慨に堪えぬのである。
 当時の基督教は全く亜米利加直輸入で、我が国情の異なるままを疑いもせず行おうとした。私は基督教が日本の文化に与えた功績を決して見落すものではないが、これを丸呑みにしてことごとく欧米の風習通りに遵(したが)わねばならぬとした宗教界の先輩や牧師等の不見識は、玉に疵の憾みなきを得ない。
 前に、内村先生が中村屋の日曜休業を勧められたところでも述べたが、あれほどの先生ですらこの宗教の前にはやはりこの丸呑みをあえてして、選択の自由を失っているかの観があったのである。日本人としては根本的に首肯し難い、そして単に一つの風習にすぎないようなものでも、宗教の一要素である如く考えるところから、基督教に殉ずるためには信者はじつに世間を狭く、郷党や知友との反目も余儀なくさせられたものがあったのである。
 井口氏を初めとして、この塾に学んだ生徒およびこれに接近した人々も、宗教に対する勇猛心よりとはいえ、しらずしらずこの弊に陥り、世間から疎外され、いよいよ塾の存立を困難にさせられたのはじつに悲しむべく、いたましい次第であった。塾の卒業生前後およそ四百人、その大多数に対して、自分はじつに気の毒なことをしたと思う。自分は早く故郷を去り、基督教のこれらの慣習に対してさほど執着するには至らなかったが、井口君が病んで倒れるまでその信ずる所を変えなかった。今や報わるるところ少なく、戦い疲れて病いに臥すこの老友に対し、私は特に責任の大なるを感ずるのである。
 人のために善しと信じてしたことが、後になって意外の結果を来たす例は、私と井口君のことぱかりでなく、じつに世間に多いのである。いま私は中村屋に多数の若き人々を預り、これを思い出して責任を感ずることいっそう切である。中村屋が諸君の商業道場たることに万が一にも誤りあらば、諸君に対し、また父兄に対し、私は何と詫びることが出来るか。自分のかつての索莫たる寄宿舎生活をかえりみて、少年諸君の寮の生活を家庭的にあたたかに、また清浄にと願うはもとより、因縁尽きず、ここにまたささやかながら学舎を開いて、研成学院と名づけるにつけ、古を回顧して自ら警しむることかくの通りである。
[#改丁]

  主婦の言葉(相馬黒光)

    主婦の言葉

 今年もまた春が来て、二十三人の少年がこの中村屋に入店しました。私から見ればみな孫のような愛らしい少年たち、あなた方は父母の膝下を離れて雄々しくもよくここに来ました。各々割り当てられた部屋に荷物を下ろすともうその日から、中村屋店員としての基礎的訓練を受け、寄宿舎では監督の先生の指導によって、あなたがた自身の、そうして大勢と共同のよい生活をそこにつくるのです。あなた方はいまどんなに忙しく、体も心も緊張し、またどんなに希望に燃えていることでしょう。
 私は毎年新入店の人たちのために、雨天で店が少し閑散な時を選び、数回にわたって中村屋の歴史というような形式をもって、創業当時から現在までの経路を一通り話すことに決めていたのですが、私の健康が宜しくなかったために、昭和十二年度の新店員にはつい一回も話して上げることが出来ないで今日に至り、まことに申し訳ないことと思っています。この後にもまたこんなことがあるといけないと思い、主人のこの本が出来るにつけ、主婦としてあなた方に話して上げることを、ここに書き添えることに致しました。
 いったい店の歴史などと改っていうと、たいそう大袈裟に聞えます。けれども国に歴史あり家に父母祖父母の思い出があるように、どんなに微々たる一商店にもそれ相当の、後々へ語り継ぐべき苦心の物語があるものです。
 あなた方は学校で歴史を学び、一国の興亡、一族の栄枯盛衰、戦いの勝敗に、みなみなきっと多くの興味を感じたでしょう。その同じ興味をあなた方はやがて商業の世界、商店の栄枯の中に見出すようになるでしょう。平家にあらざれば人にあらずと全盛を誇った平家はどうしてあのような悲惨な最後を遂げましたか、それと同じ疑問がじきに商売の方にも見えて来ます。ある店は千客万来の大繁昌で、全店員一生懸命の働きをしても間に合わぬというのに、ある店では堂々たる店舗を構えながら門前雀羅(じゃくら)を張るが如しという不景気、また一族相率いていわゆる上り身代となって富み栄えると見れば、次には眷属(けんぞく)ことごとく没落の一途を辿り四方に離散する。いったいこれはどういうわけであろうか。どうすれば栄え、どうすれば衰えるのであろうか。その興廃の原因と結果とがはっきりと判ることによって、初めて自分の心構えと経営方針が確立されるのです。目の前に現れた結果は誰でも見ますが、大切なのは結果とともにその過程を見ることです。すなわち歴史を尊重する所以(ゆえん)です。歴史に暗く、方針の定まらない人は羅針盤を失った船のようなもので、前進どころかたちまち怒濤に押し流されて、ついに船体は転覆するほかありません。
 さて歴史のお講釈は止めにして早速お話に移りましょう。一通り順序を立てて主人の話のあった後ですから、私は断片的にいろいろのエピソードを拾って、中村屋の今昔を偲ぶことにしましょう。

    四畳半と三畳

 主人がこれまで機会のあるごとに話している中村屋創業時代の店員長束実(ながつかみのる)は、忠実で研究心が深く、その他なかなかよいところのある少年でした。その頃小店員を呼ぶのに名前に「どん」をつけたものです。どんは殿を略したもので、この呼びようには何となく家族的な親しみと、階級を超越した平等観念も含まれていて、それまでにそういう経験を持ったことのない私は、何どんと呼ぶ時にわかに自由な明るい感じと、一種のあたたかさ懐しさを覚えたものです。それゆえ今も私が思い出すのは実(みのる)ではなく、みいどんなのです。
 さてこの実(みのる)のみいどんは、どうしてか生れつきたいへんな煙草好きで、自分でもこれには全く困っていました。彼はクリスチャンの家庭に生れ、教会はもちろん、中村屋としても成年未満のうちは法度の煙草を、こればかりはどうもならずあの善良なみいどんが、人目を偸(ぬす)んでこっそりと喫っていたのは気の毒でした。
 人にはなくて七癖、みいどんにはもう一つ朝寝坊の癖がありました。その頃店員の室というのはやっと四畳半一間で、その中に六、七人が寝るのでしたから、夏の夜などとても暑苦しくて床に入れません。一人残らず夜露がしっとりするまで往来に床几を出して腰をかけているか、どこを当てともなくぶらついて戸外で涼を入れる。その留守の間にみいどんは一人さきに戻って来て、疲れた四肢を思う存分伸ばして、ぐっすり寝こんでしまうのです。そのうち一人帰り二人帰りしていつか寝床がなくなると、最後に帰ったものはみいどんをそっと抱え出してブリキ屋根の上に移して寝かせ、そのあとに割り込んで寝ました。翌朝みいどんは朝風に顔を吹かれて眼がさめるか人に呼び起されて、初めて自分の寝ているところに気がつき、寝た間のことを知るというふうで、当人の寝坊にも呆れましたが、私はそれより大勢を四畳半に寝かせる辛さが身にしみました。
 さて私たちはどうしていたかというと、昼なお暗い階下の三畳、そのまた一枚の畳は破れ箪笥と、先代から譲られた長火鉢が据っており、その前をすれすれに勝手兼工場と店との通路なので、正味のところ二畳だけが主人と安雄(当時二歳)と主婦の居間であり、寝室でもあれば食堂客間ともなってこの上なしの単純生活、いながらすべて弁じられて調法でもありましたが、その窮屈さはあなたがたにもよく想像してもらえるでしょう。
 けれどもその狭いことを誰も格別不平を申しませんでした。昔火事は江戸の花といって、半鐘がじゃんと鳴るとすぐ飛び出して火事場を見に行く、その勇ましさ景気のよさは今の東京人にはもう想像も出来ますまい。ある夜半鐘が寝しずまった町の静寂を破って鳴り出しました。遠方は一つばん、隣りの区は二つばん、区内は三つばん、近火ならば摺りばんといって、けたたましくじゃんじゃんじゃん続けざまに鳴るのでした。その夜は三つばんでしたから区内ではありましたが、昼間疲れていることではあり、一ぺん頭はもたげて見たが、『何だ三つばんか』でまた寝てしまうものが多かったのです。中に一人至って気の早い愛四郎というパンの仲職人が『ソラ火事だ』と真っ先に飛び出しました。
 間もなく鎮火して、愛四郎その他の者も戻ってもとの床に入りましたが、翌朝になって意外なことを発見しました。というのは、これも主人がよく話をする浅野民次郎の枕と敷蒲団が血でよごれていたのです。被害者の浅野さんは言いました。『昨晩火事があったことは知っているし、顔のところがひどく痛いと思ったがそのまま眠ってしまった。いったいどうしたのだろう』
 もう包み切れない加害者の愛四郎は白状しました。『それは俺かも知れない。火事場に飛び出す時、暗闇の中でぐにゃりと生温いものを踏みつけたと思ったが、どうも浅野さんの顔を踏んだらしい。お気の毒をしました』と、浅野すかさず『鼻はだ迷惑いたしてござりす』ござりますを仙台の田舎言葉で浅野さんはござりすと言いました。しばらくはこの真面目な人の洒落で一同笑いが止らなかったが、これも笑いごとではありませんでした。

    主婦の指導者おはつさん

 おはつさんは先代中村屋から店とともに受げ継いだ女中で、主婦の私より四つぐらい年上でしたから、その時分もう三十になっていました。生国は越後で眼に一丁字もない無学文盲でしたけれども、性来の利発もの、お世辞はないが実直でなかなかたのもしい女でした。私は女中を呼び捨てにしたことはなかったのです。必ず誰さんと呼び、今でも子供たちにもそうさせています。
 私はこのおはつさんを師匠として、店に来て下さるお客様への接しようから水引の掛け方、パンの扱い方など、何から何まで教わりました。お客様の顔を見るとすぐ『いらっしゃい』と、元気よく一種のアクセントをつけて迎えるのですが、新米の者にはこれがなかなか出て来ないもので、私が困っていると陰からおはつさんが『いらっしゃあい』と早速助けてくれたものです。
 おはつさんは馴れない主人を侮らずに大切にしてくれるとともに、職人や小僧(その時分は小僧といいました)たちにもちょうど弟か子供にするような態度で、それは親切に世話をしました。よくないと思うことは黙っていないで叱りました。朝二階を片付ける時、小僧が寝ている間に粗忽して蒲団を濡らしていることがあり、おはつさんはそれを見ると私に知れないよう、また朋輩に見られて顔をあかめないで済むよう、自分でそっと始末をし、目立たぬように干してやっていました。また忙しい中で手まめに綻びを縫ってやり、空模様があやしければ雨傘を忘れるなと気をつけてやる。万事この調子で、いろいろ心配りが多くて行きとどかぬ勝ちの私を扶(たす)けて、それはよくしてくれたものでした。
 このおはつさんに一つ不思議なことがありました。それは自分だけいつもおじやかお粥を食べていることで、私は気にかかり、ある時何故かとおはつさんに訊ねてみました。すると傍から職人が『ナーニおかみさん、御心配には及びませんよ。おはつさんは釜や飯櫃にくっついた御飯粒や種子飯(たねめし)(パンの発酵素をつくる)の残りを集めて煮てたべているのですよ』と代って返答したので初めて謎が解け、年若とはいえあまりに認識の足らなかった自分を恥しく思うとともに、おはつさんの心がけにはほとほと感心いたしました。
 仙台の生家にいる頃、お勝手の手伝いをさせられる時に私はたびたび母からお竹如来のはなしを聞かされ、物を粗末にしてはならないこと、水使いのあらい者は人使いもあらいものだから、井戸水でも一滴だって無駄にこぼしてはならないと言われたことを思い起し、我らのおはつさんもおはつ如来として祀(まつ)ってよい人だと思いました。
 お竹如来のことはその後も忘れませんでしたが、芝増上寺の末寺飯倉赤羽橋の心光院に今なお祀(まつ)られていることを最近に知り、それがまた故渡辺海旭先生と深い因縁のあることも分って、いまさらのように仏縁の尊さをしみじみと思うのであります。昔私が母から聞かされたように、あなた方もこの話をよく聞いておいて下さい。お竹如来の由来にはこう書いてあります。
     お竹大日如来流し板
慶長年間、江戸伝馬町佐久間某の婢に竹といふ慈悲仏性の女あり。台所の流しもとに布を張り、流るる飯粒を防ぎて己が食となし、己の食を乞食に与ふ。遂に生身の大日如来と化生し、流し板より光明を発したりと。霊像並びに流し板は今東京市麻布飯倉町赤羽心光院にまつる。
末世まで光る後光のさした下女  (江戸時代川柳)
雀子やお竹如来の流しもと    一茶
 今でも何ともいえぬ温さをもって思い出されるのは、おはつさんが、私の使い古したものを喜んで受けてくれて、幾年でも大切に保存し、その季節になるとちゃんと取り出して身につけていたということです。そういう親身な情とともに、私は今でも深くおはつさんに感謝しています。

    癲癇(てんかん)病みの喜どん

 喜(きい)どんの喜市はとても芝居好きで相撲狂でありました。彼は本郷から赤坂麹町まで卸(おろし)の配達に出ましたが、帰りには必ず神田の三崎町を通り、三崎座をのぞくことにきめていました。三崎座といっても今の人には解りませんが、歌扇という女役者が座頭(ざがしら)で男の立役を演じ、なかなか人気があっていわゆる民衆的な劇場として、三崎座のファンは相当多かったものです。喜どんも箱車を傍の空地に置き放しにして立見をやって帰ったものです。
 芝居好きの喜どんはまた小説類を濫読しました。むろん公然と許されているのではなく、隠れて読むのですが、芝居や小説から彼は決してよい刺激を受けなかったらしい。もちろん隠れてすることで自分に選択する力はないし、どんなものをどう読んでいたか喜どんの様子がだんだん解せなくなり、その間に私たちが気がつかなかったことも済まないことですが、ある日突然喜どんが卒倒し、それがただごとではないのに驚きました。卒倒して痙攣を起し泡を吹き、初めてこんな発作を見た私たちは急いで町医者を迎え、喜どんがこのまま絶命するのではないかとじつに心配しました。診断の結果医者は、『癲癇(てんかん)[#「癲癇」は底本では「癩癇」]です』といい、なかなか業病で時々ところきらわず発作するのだがそのまま死ぬものではない。ただ舌を噛んだり頭をひどく打ったりするといけないから、本人も周囲の者も常に注意して、人込みの中に行かぬよう、精神を刺激せぬよう、もし再発したならば周章(あわ)てないで、人のいない室に静かにねかせて鎮静するのを待つがいいと言われました。その後三、四回発作がありましたが、成年に至り、からだも心も健全に近づくにつれて次第に遠のきました。
 喜どんの発作は、芝居に夢中になったり小説に読み耽った後に起るのがきまりでしたが、これはあなた方もよく考えるべきことだと思います。

    路加少年

 路加(るか)という名はあなた方の耳にも珍しく聞えるでしょう。この少年は厳格なクリスチャンの家庭から託されたもので、新約聖書の中のルカというキリストの弟子の名を取ってこうつけたのだそうです。
 路加はミルク・ホールに食パン配達を受け持っていました。ミルク・ホールというのは現在の喫茶店をもっと簡単に原始的にしたもので、ミルクと食パン、それに低級な洋菓子風のものをおいて牛乳を提供し、おもに学生の便利を計ったものです。
 路加はそのミルク・ホールの女中と心安くなり関係して悪質の病毒を受け、一夜のうちに風眼にかかり、酷い痛みに苦しみました。主人の注意で取りあえず医者の診察を受けたところ、風眼と判り、すぐに手当をして間髪を入れずという危いところで失明を免れました。私は可憐な少年たちがこうした誘惑に陥り、健やかに清らかな生命を蝕ばまれるのを見せつけられてじつに悲しく、またそれらの少年をよく指導してやるべき主婦の身でいながらこんなに行きとどかないで、ほんとうに申し訳なく思いました。性の問題にはことに厳粛な思想を抱いている私は、それがためかえって実際に疎いところがあっていわゆる性教育に関して全然無知識でしたが、お互いにこの状態にいることのいかに危険であるかを痛感させられました。幸い路加少年は早く手当がとどいたので危いところで助かりました。もし当人が秘密にして姑息な方法で治そうとしていたら、可哀想に一生を暗闇(やみ)に葬らなくてはならないのでした。恐しいことです。

    浅野さんの懺悔

 浅野民次郎のことは「黙移」の中に詳しく書きましたから、ここでは最も尊い懺悔の一節だけを記すことにします。
 浅野さんは救世軍の兵士として、中村屋から毎晩行軍(街頭説教)に出かけました。当時救世軍はまだ甚だしい経済難のうちにあって、給与があまり僅少なためにたいていおかずを食べることが出来ず、塩など舐めて済ます有様でしたから、浅野さんは店で食事をするだけでも倖せだなどと言っていました。中村屋とてもその頃は充分な手当を支給出来なかったから、ずいぶん不自由な思いをさせたことでしょう。
 ある晩私たちは店を閉じてから例の三畳の間で帳面調べをしていましたが、そこへ浅野さんが入って来て、何か用事ありげにもじもじしています。そのうちに頭を膝まで下げ、低くてききとれないような声でこういいました。『国へ手紙を出そうとすると切手を買うお金がなかったので、悪いとは思いながら店の売上げから十銭無断で使いました。まことに申し訳ありません、お許し下さい』そして畳に頭をこすりつけて詫び入るのでした。
 これを聞いた私たちは叱るどころか、正直なその告白に非常に感激してしまって、『浅野さんよく言ってくれました、こういうことを行(や)らせた私たちこそ済まないのです』と言って後は言葉が出ず、三人は心の清々しさと嬉しさで胸がいっぱいになり、ともに涙に咽びました。浅野さんのこの時の清らかな懺悔は永久に天国の記録に残るでしょう。
 その後こういう美しいものにめぐり合わないのは何となく淋しく感じます。店員の数が増加するに従い、昔のような家族的なあたたかみの内に団欒する機会が失われ、予期しなかった冷たい規則を用いて警戒しなければならないようになったことは、ほんとうに困ったことであります。

    おまきさん

 大正四、五年頃中村屋に務めていたおまきさんは、なかなかのしっかり者でした。
 印度革命首領ラス・ビハリ・ボース氏に退去命令が下って、一時中村屋の一室に憂愁の幾月かを送らねばならなかったことは、主人や私の書いたものであなた方も知っているでしょう。当時おまきさんもこの事件につき、重大な任務を引き受けることを誓いました。普通の女ならば怖がって逃げ出すところを、おまきさんは大胆に沈着に自分の役割を果たしました。風俗習慣が違い、言葉の通じない外国人のボース氏を世話するのは容易なことではなかったし、秘密を守るためには肉親の者が死んだという知らせを受け取りながら、涙を隠してとうとう葬式にも行かなかったのです。私もまた行かせることが出来なかった。義のためには人はじつに辛いことがあるものだと、私もひそかに涙をしぼったことでした。でも店員一同はもちろん、女中までがあの潔い公憤をもって一身を顧みずボース氏の守護に努めたればこそ、ボース氏も生命を全うし、日本の面目も立ち、また私たちとしては頭山翁の信頼にいささか酬ゆることが出来たのです。あの時皆が私たちを助けてくれたことはじつにじつに今も肝に命じて忘れません。
 この事件も一段落ついて間もなく、おまきさんは暇をとって家庭の人となり、横浜に住んでいましたが、大正十二年大震災の時危く焼死を免れ、再びもとの仕事に着手して復活の途上にある時訪ねて来て、無事な顔を見せてくれました。が、その後どうしたか消息が絶えてしまい、今もって安否が知れない。印度問題でボース氏の活躍を見るこの頃、しきりに彼女のことが思い出されてなりません。願わくはどこにありても健全なれと祈ります。

    店葬のはじめ

 留吉さんは鋳造の大家山本安曇氏の弟で、中年で入店し、販売部で働いていた。中年者はどこでも歓迎されるものでなく、当人としても中途からでは何をしても成功覚束(おぼつか)ないと相場がきまっているが、留吉さんも初めのうちは小姑の多い中に来た嫁のように、何かにつけ気兼ねはあり、仕事に経験がなくてずいぶん骨が折れたようでした。しかし性質が非常に善良で真面目で、倦まず撓(たゆ)まず働くうちにだんだん仕事に馴れ、いよいよ熱を加えて来ると普通の人の三倍くらいの働きをして、とうとう古参の者を凌駕するに至りましたが、これはほんとうに異数のことでありました。
 惜しいかなある夏ふとしたことから病みつき、僅か数日にして暑苦しい倉庫の片隅で、朋輩の看護のうちに淋しく死んで行きました。その頃はまだ寄宿舎もなく、病人のために何の設備も出来てなかったので、どんなに行きとどかぬことであったかと、今思い出しても胸が痛くなる。それでも本人は不平を言わず、かえって朋輩のやさしい心に感謝して逝きました。
 私たちは故人の功績に報ゆるために、店葬として厚く弔いました。中村屋の店葬はこの人をもって嚆矢(こうし)とします。

    精一郎のこと

 精一郎は主人の甥で、福島高等商業を卒えて中村屋に実地修業に来ていました。主人の肉親というものはとかく僻(ひが)みをもって視られ易い傾向があるから、私は精一郎を褒めることは遠慮します。本人も常にこの事を心にかけて伯父である主人に告げ口でもしないかと他から思われるのを嫌がり、決して自分一人では私たちを訪ねることをしないばかりでなく、店で顔を合わしてもただ目礼して逃げるように行き過ぎたものです。
 しかし私はあなた方に精一郎のことばかりはぜひ言い遺しておかねばならない。現在中村屋の帳簿は株式に組織を改めて以来、整然として秩序が立ち整理されていますが、昭和三年春、主人が欧州に渡行する頃は帳簿といってもまだ完全なものではなかった。
 したがって主人の留守に私がその帳簿を見ても、内容をはっきり知ることが出来なかったのです。そこで精一郎を呼んでいろいろ質問してみると、倉庫と工場、販売と仕入れとの間に連絡もなければ明確な計算もなく、至って漠然たるものでした。それから精一郎と相談をして、主人の留守中に完全に整理し、帰朝の主人に一目瞭然の帳簿を呈して留守中の報告をしたい旨を希望して、尽力を頼みました。
 精一郎は涙ぐましきまでに精根を傾けて本格的に帳簿の整理を行いましたが、まだ後に倉庫の確立、仕入部と工場との浄化の実現という最も至難な仕事を遺して、洋々たる前途を望みながら惜しくも彼は逝ってしまいました。
 その前後に果たして中村屋内部の危機が迫って来ました。その結果として製パン工場に一大廓清が行われ、職長並びに部下数名の退店等のことがあって、各部戦々として不安の色がありましたが、歪めるものを直くするには周囲に多少の動揺は免れないものです。

    年始まわり

 本郷森川町といえば昔から学校街で、商店はほとんど教授方と学生目当てのものばかりでした。だから顧客の範囲も至って狭く、森川町一円、東片町、西片町、曙町、弥生町、少し離れて駕籠町、神明町辺りが止りでしたから、新年には顧客先を私自身一軒一軒年始まわりをしたものです。先代の中村さんは配達の小僧に名入りの手拭いを持たせてやったと聞きましたが、私どもはどうしても主婦自身伺うべきだと考えたのです。お勝手口から『中村屋でございます』と御挨拶すると、奥からわざわざ奥様がお出ましになって『まあ中村屋さん、こんな所からでなく玄関の方におまわり下さい』といとも御丁重な応待で、かえってこちらが恐縮しました。目白の女子大学の寮のお勝手口にもたびたび伺いました。これがまたお客様と店との親しみを深める因にもなり、双方で商売を離れた一種の情味を生じました。御用伺いに出る小僧に『この頃おかみさんの姿が見えないが、変りはないか』とお尋ねに預かり、私は産褥(さんじょく)でこれを聞いて心から有難く思い、またそちらにおめでたがあれば嬉しく、御不幸ときいては心が痛みました。
 新宿に移ってからはおとくいも多く、また広範囲にわたって、それに交通はまだ今のようでなく、ことに郊外は泥濘膝を没する有様でしたから、霜どけ路に進退きわまり立往生することもしばしばでしたが、年に一度の年始まわりだけはどうしても私がすることにしていました。それが昭和三年まで続きました。そのうち私はだんだん健康を害し、やむを得ず次女千香子に代理させました。千香子の結婚後は長男安雄が後を受けて年々続けて来たのでしたが、だんだんおとくいが増加し、また店に来て頂くお客様の方が幾倍する状態となってついに本郷以来の慣例を、不本意ながら廃せねばならない次第となりました。

    鳥居博士御一家

 考古学の泰斗(たいと)鳥居龍蔵博士の御家庭は、創業当時の中村屋にとり大切なおとくいでした。一つにはその思い出をあらたにし、またあなた方に学徳ともに高き先生のお教えを頂くために、先だって淀橋公会堂で博士の御講演をお願いしたのであります。当日私が先生を御紹介致すはずであったのを、病気のため出席出来ず、おいで頂いた先生に対してまことに申し訳ないことでありました。やむを得ず私は大意を認めて三松氏に託し、代読してもらいましたが、いまそれをここに記しておきます。
『鳥居博士は皆もすでに存じ上げている通り、日本における考古学の権威者として最も有名なお方であります。先生は昨年の春、南米ブラジルの招聘(しょうへい)により、御令息と一緒に彼の地へお出でになり、つい先だって研究を果たしてめでたく御帰朝になったのであります。さような専門的な学問と私ども小売商人とおよそ縁遠く、したがって先生に講演をお願いするなどということは御遠慮すべきでありましたかもしれませんが、あなた方のためにあえて先生を煩わすに至ったのはいささか因縁があるので、簡単にそれを申します。中村屋が初めて本郷に店を持って数年の間は、いわゆる創業時代でありまして、見るかげもない、まことにみすぼらしい三文店でありまして、むろん製品だってきわめて貧弱なものでありました。その頃鳥居先生は中村屋の近くにお住いで、私どもにはこういう微々たる時代に、今日ここに御出席下さいました奥様に始終御ひいきにして頂きまして、どんなに有難いことでありましたかしれません。そのうちに先生と奥様は前後して考古学研究のために蒙古の奥地においでになりました。また私どもは新宿に支店を設けて、毎朝本郷から新宿に通い、その後はさらに慌しい日を送るようになりましたので、一時先生にも御遠々しくなり、時々新聞や雑誌を通して、ますます研究の歩を進めておいでになる御様子を知り、主人とお噂申し上げて居りましたが、ついお伺いする機会もなくて居りました。ところが昨年南米ブラジルにおいでになることを新聞で知りまして、私はちょうど病床におりましたのですが、このたびこそはと起き上がり、主人を促して一緒に先生をお訪ねした次第でありました。本郷以来、春風秋雨幾十年は夢の間に過ぎ、鳥居先生は考古学の泰斗として外国にまでお名がひびき、ますます蘊蓄(うんちく)を深められつつあり、奥様もまた先生と同じ学問に志をたてられて、内助の功まことにお見事に、御令息御令嬢、一家をあげて同じ研究に精進せられているのはまことに驚異と申し上げねばなりません。総じて学者の仕事は地味で目に立ちませんから、一般の人には理解されにくいようでありますが、それだけ奥深く尊く、我々の文化の母胎は常にこういう専門的篤学者によってつくり出されつつあるのであります。あなた方はかような尊い学者のお仕事に対し、常に尊敬と感謝を捧げ、また鳥居先生のように一家をあげての御努力には大いに学ぶところがなくてはなりません。これを御紹介の辞といたします』
 当日先生には私どもの切なる願いを容れられ奥様と御同道でおいで下され、あなた方にじつによい御講演をして下さいました。まことに御縁というものは有難いもので、あなた方もよくこの縁を思うべきであります。いまや満州蒙古の問題の重要視せられる時、三十幾年前すでに鳥居博士御夫婦が多くの危険を冒して前人未踏の奥深く入り、貴重な研究を遂げられていたということは、じつに意義深く、皆さんもそのつもりで先生のお話をいっそう感銘もって伺ったことでありましょう。

    中村屋に女子を使わぬわけ

 本郷から新宿に支店を設けた頃のことでした。女学校出身でパン屋をしているということが二、三の新聞で紹介され、その記事に刺激され、東京はもとより地方の婦人たちから種々問合わせがあり、私はいちいち返事を書く暇もないので困っていました。そのうち山陰地方の○○○という小さな町の娘さんから手紙で、ぜひ店において商売を見習わしてくれと懇願して来ました。私どもも慎重に考えて、容易く引き受ける気はなかったのですが、あまりたび重なり余程熱心のようでしたし、その婦人がこちらのおとくいの親戚に当るということが判って見ると、どうもお断りしかねてついに承諾してしまいました。
 早速上京して私をたずねて来た本人を見ると少し意外でした。どうも商売見習いは口実で、他に何か曰くがあるらしく、果たして入店早々私の予感の間違いないことを示す行動がありました。それは医科大学生と称する従兄が同じく上京していて、その交渉が頻繁なところから店員たちの注目を惹き、ついに店員との間にも忌わしい問題を惹起したのです。まことに店としては由々しき大事で、やむを得ず退店してもらいましたが、母なる人が心配して引取りのため上京されたのに会って、初めて事情が判りました。何でもその娘は町で小町娘と評判されたものだそうで、もっとも私にはどこが美しいのか解りませんでしたが、そんなわけで身持がおさまらず、壻(むこ)を置き去りにして情夫の後を追いかけて来たのだということでした。そういうことも知らず上京の手蔓になった私は、お母様に対しても気の毒で、深く自分の軽率を恥じました。
 このことがあってから私は考えて、中村屋では女店員を使わぬことに決し、いかに別懇な間柄で頼まれても、こればかりは断って来ました。
 しかし三十年前と現在では時代も進み、婦人の職業も広くなり、それだけ自覚も出来て来たものとすれば、この鉄則も将来は破られる時が来るかも知れません。現在金銭登録器の前にいるもの、掃除の一部を担当しているものなど婦人もないではありませんが、これはみな店員の家族や私の親戚の者で、外から来た婦人でないことはあなた方もよく知っていると思います。

    店員の情操教育

 私は小学校時代から絵を見ることが好きで、したがって絵をかく人を友にし、自分は不器用で何も書けないけれど、いつとなく一通りの観賞眼は養われたように思います。本郷で営業していた頃は展覧会も今のようでなく、自分としてもずいぶん忙しく無理であったにかかわらず、上野の文展のはじまる秋には必ず時間の都合をして見に行き、こればかりは年々欠かしたことがなかったのです。
 それ以前から上野の美術学校には、先代中村屋がパンを配達していた関係上、私の代になってもそのまま配達をつづけていましたが、そのパンは別に学生さんが食べるのではなく、木炭画の練習に入用なのでした。その美術学生たちが自分で店頭に買物に来ることもあって、こちらも絵の話となると夢中になる方なので、出入りのはげしい店先で不似合な立ち話などしたものでしたが、そのうちだんだん昵懇(じっこん)になって、卒業製作の絵の具料や写生旅行の費用を一時立て替えてくれというわけで、小品などを預かり、ついそのままになったものもあります。
 そういうことがたび重なり、いつの間にやらいくつかの作品が手元に蒐(あつ)まり、それがまた店や居間に掲げられ、唯一の装飾となって、落着きのない騒がしい生活の中で、さながら沙漠のオアシスのような慰藉を与えてくれていました。
 現在持っている絵や彫刻はほとんど新宿に来てから、それぞれ自然な機縁によって手に入ったもので、本郷時代の作品に比して内容技巧二つながらすぐれたものであることは、画面のサインによっても判ることでしょう。ことに故荻原碌山の彫刻絵画、故柳敬助氏(この方は販売部主任山田健三氏の従兄でした)、故中村彝(つね)氏等いずれももとは中村屋の屋敷内に起臥し、食卓を共にした人々であり、じつに堂々たる美術家揃いでありました。詳しいことは「黙移」の中で述べています。
 いま喫茶部で使用しているブロンズの灰皿は、私の希望で碌山氏が粘土で作りかけ、出来上がらぬうちに氏は世を去りましたので、友人たちが故人の触(タッチ)を毀わさず残そうと、未成品のままブロンズにして永久に作者を偲ぶことにしたのです。鋳造を同郷の人山本安曇氏に依頼する時、碌山の遺族に二個、相馬家に二個、ほかに中村屋の分として一号より二十五号までナンバーを裏面に打ちこみ、非売品として喫茶部に備えたのでしたが、いつのまにか一個減り二個減りして、現在は十個ほど不足になっています。誰の手に持ち去られたものか、花ぬすびと同様ゆるしてのみいられぬところもあり、また失われるごとに係の者が責任を問われるので、最近は宴会の席以外には出さないことにしてしまいました。まことに不本意ではあるがやむを得ない次第であります。
 その他国宝とも称すべき頭山翁が書いて下された幅、かつて支那の大総統をした曹□の一筆の虎、支那僧密林師、犬養翁、また私の恩師渡辺海旭上人の偈文、現満州国皇帝の溥儀執政時代の御手蹟、小川芋銭氏の狐の嫁入り、良寛の扇面掛軸、明治大正昭和を通じてそれぞれ有名無名の人の優秀な油絵、チベットの喇嘛(ラマ)僧リンチェンラマより頂いた西蔵の貴重な経文等々、こう書きならべて見るとあなたがたにはことごとく見覚えのある懐しいものばかり、それが折々かけかえられることもみなよく知っているでしょう。
 そればかりでなく、中村屋の家具什器等々、豪華を誇るようなものは一つもないが、どの品だって価が安いから体裁がいいからといって手当り次第に買い集めたものではないのです。椅子テーブルの如き家具類にしても相当に心を払い、クロース、食器、掛紙、紙袋等、何かしら私たちの気持を含ませ、自ずとそこには一つの好尚(このみ)が現れている筈です。あるいは我々の道楽と簡単に見てしまう人もあるでしょうけれど、それにしてはあまりに犠牲が大きすぎるのです。
 人は神仏の前あるいは崇高な人格者に相対する時、自ずとそこに額づき、挙動をつつしみ、言葉も自ずから改まります。その通り私どもの商売に好意を寄せて下さるお客様に対しては、尊敬の念が湧き、感謝の心を起し、自ずから丁重に接するようになる筈です。いうまでもなくよい菓子を拵えて満足してもらいたいと思い、包み紙一つにも心して、よい感じを贈りたいと自ずといろいろ工夫するものです。ましてしばらくの憩いの場所となるお茶のテーブルに、皿の形さえあればよい、腰掛けの用にさえ足ればよいとは考えられない。またこの思いはあなた方店の人たちに対しても同様です。こういう私どもの心持が一つの表現となって製品と化し、食器となり、家具その他いっさいの内容外観をつくるのであります。この生きることだに容易でない世に自分の才分にもない油絵、彫刻、書画をもって店を荘厳することは過ぎたるわざかも知れないけれど、お客様も私どももあなた方もけわしい人生の行路を辿る間に、お互いの触れ合う僅かの機会をも空しくせず、芸術を通してしみじみ生けるいのちのよろこびを感じ、天のはかり知れざる恩恵を謝し、共にその魂の浄化せられんことを願うものであって、神も仏も必ずやゆるし給うことと信じます。
 しかしこれとて度を越す時は、道楽と虚栄に堕する危険があります。かえりみて警戒すべきことです。

 また年に一、二回の観劇会と相撲見物、その時あなた方は古参新参の別なく、みなが一等の席に坐り、上等の弁当を提供される。ある人これを見て、『店員に一等席は贅沢すぎる、二等でたくさんだ』と苦々しげに云いました。この人は私たちの精神を全然理解していないのでした。敬意をもって対するのにお客様であると店員であるとの差はない筈です。おとくいを大切にし、その人格を重んずるものが、家族の一員である店員を軽視し無視していいものであろうか。あなた方が勝手に芝居見物する時は、二等であろうが三等四等いずれにしようと自由だけれど、いやしくも主人が店員を招待するに店員はどこでもいいなどとはもってのほか、招待には招待の礼儀があります。ことに店員は年中人様にサーヴィスして上げて、自分たちがそれを受ける場合はないのです。せめて芝居見物の時だけでも、のびのびとして、楽しみを人と共に享(う)けねばならない。
 それからやはり年に二、三回、第一流の料理店で食事を共にします。ある時は西洋料理、ある時は日本料理、支那料理と、全員一堂に集って食卓を囲み、団欒をたのしむ。これも私どもは大切な年中行事の一つとして、そのつど相当の心づかいをしているのです。私はこれをあなた方の修業の一つだと心得ています。食物を扱う中村屋の者として、時々一流の料理屋で正式に食事し見学することは、当然必要なのです。皆さんは自分がお客様となって見てどんな気がするか、どんなことを求め、どんな不満を感ずるか、そうしてそれはただちに自分たちの平常のお客扱いに対する反省となる筈です。人の振り見て我が振り直せ、他店の使用人のサーヴィス、料理のよしあし、食器を運ぶ時に不愉快な様子はないか、さわがしい音は立たぬか、いろいろ自他を比較研究して、先輩の指導よりも有効に、自発的に多くの呼吸を知るのではなかろうか。またお客としての礼儀作法をおぼえる機会にもなるのです。
 絵を一つ観るとしても、私たち素人に本格的な観方の出来る筈はありません。この絵は良い、この彫刻はどうと言って見たところで、どうせ素人眼にすぎないのですけれど、それでも常にすぐれたものを数多く観ていると、いつかは少しずつ眼が養われて来て、あまり目先のものに惑わされなくなる、何となく鑑別(みわけ)が出来てほんとうによい作品の前には、自然と頭が下がるようになります。これに反し、これこそ立派な作品だといって示されても一向解することが出来ないなどは、いささか恥ずべきものであります。
 すぐれた絵や彫刻により、また建築あるいは家具装飾の高雅な趣味によって情操を養われ、洗練されれば、営々としてやむことなき生活戦線に疲れた時でも、機械化した工場に働く中でもどことなく心に余裕を保ち、まして夕ぐれ憩いの時が来れば、新月のさやかな光りも心にしみ、暁霜を踏んで工場に急ぐ時も頭上にかがやく明星に、若いあなた方の胸は歓喜に充たされるでしょう。私どもは何よりもまずよくものを感じ得る心にならねばなりません。その大いなる導きとして私はあなた方の前に、一つの額一枚の皿をも心して備えたいと思うのであります。

    年末ちん餅の思い出

 年末のちん餅についても、あらゆる科学と機械とを利用した現在の中村屋と、昔日の中村屋とを比較して、まことに隔世の感なきを得ません。
 昔は節季の餅は搗(つ)きのわるいものとして、おとくいも餅屋も通用して来たものですが、私たちが初めてちん餅をやった時の糯米(もちごめ)は、普通の搗き方ではとうてい上糯米の本質を発揮することが出来なかったのです。初め私たちは餅菓子屋の習慣にならって臨時に搗屋を雇ったものです。東京近郊から冬の閑散期一週間を市内の菓子屋に雇われて来る百姓の一団があり、それがみな元気溌剌としてほとんど疲労を知らぬ若者揃いでした。彼らは白いお米で生魚(なまざかな)が毎日食べられ、その上一日二円ぐらいの日当がもらえるのだから、いつも来年を約して村に戻って行ったものです。いまの仙川牧場はその頃から御縁がついていたのでした。
 さてその元気な人たちが交替に杵を取って搗くのですが、前にもいったように中村屋の糯米は普通品よりも品が硬くてなかなか杵が通らない。いくら元気でもだんだん疲れて来て、何本ときまっている杵の数も減り、搗く音も自然威勢よくひびかなくなる。私たちは直接働く人たちの眼には、戦場のような忙しい中をぶらぶらと見てまわり邪魔をするくらいにしか見えなかったかも知れないのですが、私たちはそうしていて決して遊んでいるのではなかった。職人たちが四斗樽に米を入れ、満々と水を張っておいて一眠りする、その間の見張り、米がふやけて樽から洩れそうになっていると見れば水を足し、火鉢の火が師走の夜風に煽られていれば黙って薬缶(やかん)をかけておく。一通り見まわりが済んで室に戻れば、主人は明日の餅の枚数に間違いはないか調べる。それを終って帯を解かずに床に入り、どうにかうとうとする頃には、工場で起きて餅搗きがはじまる。どしんどしん震動が夜の空気をふるわして枕にひびく。それもしまいには慣れるけれど、杵の数をかぞえていると少し足りない。はね起きて工場に下り、今のは杵の数が幾本少なかったと注意し、搗き手はまた文句をいうと煩さく思ったことであろうし、今から思えばずいぶん無理なことであったと気の毒にも思うのですが、よい餅を搗いておとくいの信頼に報いたいと一念それに励まされて、餅搗き中はしみじみ寝た夜もないのでした。また近所へは、のし餅を配り、夜中の騒がしさを一軒一軒お詑びして歩いたものです。
 三年目からは電力を用いて搗くことにしたので、搗きが若いという心配はなくなりましたが、今度は機械に故障が生じたら絶対絶命、仕事は全く不可能に陥る。これに対する苦心はまた格別で、手搗き時代の比ではなかった。機械が修繕されるまでみな手を空しくして待たねばならず、いたずらに時間が経って燃料は煙になってしまう。何よりもつらいのは明日の註文が後れて間に[#「間に」は底本では「問に」]合わなくなることでした。損失は諦めるとしても、節季の餅はどちら様でも祝儀のものですから間違いがあってはならぬ、この心配でほんとうに身も細るようでした。
 暁方からは配達、近所は籠に入れ自転車で、遠方は大八車でまわりました。雨や雪が降るとその運搬の苦労なこと一通りではなかったのです。その頃は何しろ道がわるく、屋敷町などは泥濘に車輪を喰い込まれて途方にくれることがしばしばで、夜九時過ぎになってやっと戻ることさえありました。南信から来た常どんはその頃まだ十四、五歳、小柄であったが、忙しいからお前も配達しろと先輩にいわれて、餅をのせ自転車で新宿御苑の塀に添うた片側路を雪を蹴って走るうち、中心を失って溝の中に転がり落ちた。ちょうど通りかかった職人風の人に救い上げられ、常どんはべそをかきながらぬれねずみになって戻って来ました。骨の髄までしみ透る寒さにふるえ、泣いて報告する常どんを見た時は「雪の日やあれも人の子樽ひろい」の句を思い、ひそかに憐れでなりませんでした。
 当時まだ小学生であった安雄も、餅搗きには印ばんてんや「あつし」を着て配達の手伝いをしました。冬の休みを利用して仙台から中学生の甥も見学だと称して出京し、安雄とコンビになって荷車の後押しや餅配達をやりました。
 その中でのおかしい話。西大久保のおとくいに夕方餅を配達すると、女中さんはこんな固いお餅じゃ切るのに骨が折れるのではないかとさんざんのお叱言、上餅は早く固くなるもので、陸稲(おかぼ)の粗悪な餅はいつまでもやわらかで伸びるものですが、安値な大福餅が夜になっても固くならないのは道理なのです。しかし先方の女中さんもこちらもそんなことを知らないからただ恐縮して、それならば搗きたてのお餅と取りかえて上げますといって、その餅を持ち帰りました。翌日甥と安雄はまだ温味の残っているのし餅をお届けしました。女中さんは大喜びで受け取ろうとすると、餅と餅がくっついて離れない。それを無理に引き離そうとして持ち上げたところ、四角にのした餅が伸びて形がつぶれてしまいました。けれど女中さんは自分の註文なので再び小僧を叱るわけには行かず、不承不承に受け取ったがいったいあの餅はどうなったろうという報告に、お気の毒やらおかしいやら、全く忙しい節季の仕事中には思わぬ笑いを恵まれました。現在の安雄は主人代理として、帳場で主人の傍に坐っているけれど、かつてはこうしてあなた方の仲間で、年末ばかりでなく五月の節句にも中学を休んでまで家業の手伝いをしたものです。

    一人一店主義の教訓

 中村屋は元来一小個人商店にすぎないものでしたが、税金の関係と当時の社会情勢に鑑み、大英断をもって株式組織に改めました。大正十二年の春でした。それまでは営業人の名は主婦良で、実際主婦が主になって営業をして来ましたが、株式会社にする時、主人を社長とし、主婦を大株主と定めたので、これは主人の書いたものですでにみな承知でしょう。
 ある秋のこと、松の実の相場が急に暴騰しました。私どもはその原因を調べるために両人同道で京城に行きましたが、調査して驚いたことは松の実の暴騰が仲買人の責任でもなく、荷主が悪いのでもなく、全くこれは私たち自身が値上げをしたようなものであったのです。京城の市場に行って見ると、田舎の百姓たちが一升二升あるいは三升と松の実を市場に持って来る。それを寄せ集めて何斗何石という数にまとめるのであって、内地で考えているように収穫の季節に大量仕入れをすることは、朝鮮人の手では不可能であったのです。もし一時に大量な仕入れをするならば勢い価が上がらざるを得ないわけで、私どもはその事情を知らずに、内地で秋の初めに一ヶ年使用する栗を仕入れする呼吸で松の実を多量に註文したものですから、京城では非常に驚き、にわかに諸所から少量ずつ松の実を集めるために、自然相場が上がったのでした。初め私どもは朝鮮人の仕事にもと思って取引をした松の実でしたが、商品として取り扱うのはまだまだいろいろ不便があって、結局内地人の手を経なければ商品にならないということになったのは、まことに残念でなりません。
 朝鮮からの帰途、下関に上陸、それから九州を一巡して帰京しましたが、その間三週間ほど留守にした次第です。ところが店に戻るや驚くべき報告に接しました。それは我々の不在中に、支店を代々木初台の市場に設けることに決定したという、全く寝耳に水とはこのことでした。当時支配人格で店の手伝いをしていた人と年長店員たちの思いつきだという。この人たちは何に血迷ったのでしょうか。
 千香子は幼少から店の手伝いをしていた関係上、主人の実印を預っていました。当時大学生であった安雄は古参の店員たちや支配人に説かれて賛成の意を表し、妹の千香子に実印を出させて契約証に捺印してしまったという。私は全身がふるえるほど、彼らの浅見と軽率が心外でならなかったのです。
 しかし私は思うところあって、直接そのことに関係した人たちには何も言わず、代表的に安雄一人を極度に叱りその不心得を責めました。主人や主婦の不在をことさらうかがったというわけでもなかったでしょうが、帰京の時期も判っているのに、それをも待ち切れず従来の方針を覆したことは、中村屋の存亡にもかかわる一大事でありました。
 初め中村屋を株式組織に改めた時、私たちは店員の年功者に一銭の払い込みもさせず、株式を贈与しました。それゆえその人たちは株主となり、自ずと権利を主張するようになったものと思われるが、これでは我々の好意がかえって彼らに害を与えたことになるのでした。彼らは権利は勝手に行使するが、義務のあることを知らない。それゆえこういう事態を惹き起したのではないか。これは悪かったと、私はまず自分たちを反省せずにはいられなかったのです。
 私は少しぐらいの損をしても早く取り消すことを主張しました。が主人は寛大に見て、せっかく皆がよかれと思ってしたことだからと言って、とにかく開店することにしました。私も不本意ながらしぶしぶ主人の言に従わざるを得なかったのです。大正十五年十二月でした。
 翌年の正月早々には文雄が南米に立つことになっていました。で、とりあえずそれまでの一月を最後の孝養として文雄がそちらの店番をすることになり、開店はたしか十二月の初め、いよいよ蓋をあけて見ると果たして店員たちの期待ははずれました。彼らはこの新しい支店で毎日三百円の売上げを予想しました。当時の中村屋としてはすでに相当繁昌していましたから、少し拍車をかければ現在のままでも三百円の増加を見ることは不可能ではなかったのですが、何を苦しんで四千円を投じて支店を設ける必要があったのか、あまりに認識の欠けているのを憫れまずにはいられない。
 とにかく開業当日に百円の売上げがありましたが、翌日は八十円に減じ、六十円になり、とうとう三十円台にまで落ちてしまった。店員たちも文雄が売上げの財布を持ち帰り、それを数えて見て、初めて自分たちの認識の誤りに気がついたが、もう遅かったのです。年末を目前に控えて中村屋は一大危機に直面しました。この上は少しでも犠牲を減ずるために、一日も早く閉店することを主人に進言しましたが、あくまで寛大な主人は『まあこの暮だけはこのままにしておけ』というので、仕方なしに来春を待つことにしました。
 二十五日は大正天皇の崩御遊ばされた悲しき日でありました。市民は御重態の発表を知るや、一刻も早く御悩の去らんことを祈りつつ、街々は迎春の用意に商店の軒先も注連繩(しめなわ)を張り、吉例の松飾りを立てつつ安き心はなかったのです。ついに陛下は神去りまして世はまるで火の消えたよう、あらゆるものは黒一色に塗りかえられてしまいました。
 かくて上下憂愁のうちに諒闇(りょうあん)の春を迎え、昭和二年の御代となりました。
 文雄は正月四日神戸を出帆して南米に向かいました。諒闇のこととて店でも新年宴会を慎しみ、丼で済ませ、地獄の釜の蓋もあくという正月十六日のお賽日は一日店を休ませました。それから株を与えてある店員十名を、改築前の広間に招き、主人から旧冬代々木初台に開設した支店を断然閉鎖すること、設備費数千円の損害は諸君の生きた学問の月謝として清く諦めること、閉鎖する支店に未練を持ち継続することを許さず、なお前に贈与した株式は払込額面の一割増しで主人が即時買い戻すことを通告して、現金を店員たちの前に出しました。もちろん彼らに異存のあろう筈はなく、時ならぬ現金を懐中にしてその場を引き下がりました。しかしひそかに冷汗を拭うた者もあることでしょう。
 私たち二人はかように清算したことによって気持も晴れ、多くの教訓を得て、もはや数千円の損失などは問題ではなく、これで我が中村屋も雨降って地固まる、いよいよここに基礎が定まりました。
 中村屋は今や年とともに外観内容ようやく整頓しつつあり、ますます発展の途上にあるのは有難いことではあるが、何時も順風に帆を上げて走れるものと思うてはいけない。すでにこれまでにたびたび停滞頓挫、また数々の失敗を体験していることを忘れてはならない。この失敗の上に初めて一人一業また一人一店の中村屋精神が定まったのであることを、皆さんもよくよく理解してもらいたいのであります。

    問屋のつけとどけを受けぬこと

 毎年正月の新年宴会は、中村屋の最も楽しい行事の一つとして、かなり賑やかに行われたものでした。
 問屋から贈られるいわゆる中元の品物は、七月十六日の盆休みに店員一同に分配するのに至極簡単でしたけれど、歳暮と年玉は山のように積まれ、私はそれをまとめて整理しておき、新年宴会の席上で福引として一同に分配しました。しかしなにぶん人数の多いことですから、私の方からも相当追加するのでなければみなに行き渡るだけはなかった。
 福引のことだから十四、五歳の小店員に、大人物のシャツや煙草が当ったり、職長級の人にお多福の面が行くというわけで、そのつど拍手喝釆しているけれど、その実、貰ってあまり有難いとも思えないものもあるわけです。ただ私は問屋が日頃の引立てに対する感謝の意としてきわめて素直に受け、主人が独りで納むべきものではないから、贈物全部を皆に分配して至極いい気持になっていたのでしたが、いつの間にか問屋と店員の間に忌わしい関係を生じて来ました。今まで正直一途の模範店員であったものが、この問屋の手管にしかと押えられ、しらずしらずに堕落しつつあることを知った時の私の失望と悲しみはどうであったか、これはあなた方にもよく聞いておいてもらいたいのです。
 これは問屋の主人よりも外交員が悪いのです。仕入部あるいは重要な地位にある店員を抱き込み、内々金品を与えて否応なしに人情に訴えて不正取引をやらせるのです。問屋のこの手にかかった番頭は二等品を納めておいて主人には一等品として支払わせて、その間の利益を着服するなど、だんだん深味に足を踏み込んで取返しのつかぬ始末となるのです。先方の番頭は充分世才に長じ、人情の弱点を心得ているから、決して初めからお金などを持っては来ないのです。例えば小手調べに活動の切符などを持って来て、お暇ならどうですという。こちらはたかが活動の切符だと気にもしないが、日付を見ると何日とある。ちょうど用事も片付いた、ただ捨てるのも惜しい気がしてうかと行って見る。次には芝居の切符を持って来る。これが無事通過すればもうしめたもの、今度は飲食店に誘う。この辺からフルスピードで魔窟に急転直下するのです。すでにここまで転落すれば給与される金ではとうてい足りないから、朋輩に金を借り、ついには主人の金品を胡魔化(ごまか)す、仕入部と工場に忌わしい連絡が結ばれる、とうとう陥る所までおちて馘首(かくしゅ)され、昨日の店員も今日からは他人となり縁が絶えてしまう。こうして将来ある青年をあたら中途で堕落させたことも幾度か、やはりここにも主人として重大な責任のあることを思い、深く心を悩ますのです。
 ついに長年行われていた中元歳暮の旧慣を廃し、絶対に問屋からつけとどけの物品を受けないことにして、ただちに問屋にその旨通告して諒解を乞うた。それでも名実ともに物を贈らぬ受けとらぬという店の鉄則を実行するには、相当の年数を要しました。

    商人の妻はお内儀さん

 私は本郷に店を持つとともに、先代中村屋のいっさいを継承しました。店員女中ばかりでなく、主婦をお内儀(かみ)さんと呼ばせることまで受けつぎました。いったい小売商人の家内を誰も奥さんとはいいません。奥さんは官吏あるいは教職にある人の夫人等、すべて月給生活をしている人の夫人にふさわしい称号ですが、小売店の主婦をお内儀(かみ)さんというのはこれも最も適当な称び方だと思うのです。それゆえ私は今でもあなた方にお内儀さんといわせ、奥さんとは決して称ばせない。うっかりあなた方が奥さんと私を呼ぶと、私はそっぽを向いて返事をしません。
 もし皆さんがお内儀さんというのを奥さんというのより低いと思うならば、それはたいへんな間違いです。夫人あるいは奥さんの仕事の範囲は、いわゆる奥の仕事で、おもに家庭に属する雑多なものです。が、お内儀さんの方は少しく趣きを異にして、家業の仕事の過半を受け持ち、中にはほとんど八、九分まで担当し、残る一、二分が主人の領分となっている家もあるのです。別に権利義務を云々しなくともお内儀さんの命令は行われ、自ずから威厳が保たれる。いうまでもなくこれはそのお内儀さんの徳と手腕によることで、お内儀さんだからいうことをきくというのではありませんが、とにかくお内儀さんは決して軽蔑どころでなく、正に千鈞の重みを感ぜしめる。それだのに女はどうしてお内儀さんといわれるのを好まないのであろうか。少なくともあなた方は店頭(みせさき)で私を奥さんと呼ばないように注意して下さい。

    主人主婦と店員の例会

 主人は病気でない限り毎日店に出勤して、報告を聴取したり指図したり、工場を見まわり、店や喫茶部の飾りつけに注意を与えたり、またものの決裁と人事に関するいっさいを主人自らやっていることをあなた方はよく知っている。しかし全店員と顔を合わせることはほとんど不可能です。まして私は二十年来病弱の身となり、昔のように立ち働いたり店頭に立って若い皆さんと仕事をするということは出来ない。したがって店に行くことさえも甚だ稀れになってほんとうに申し訳ないことです。
 だから途中から入店した人で全然顔を見たことのないのも出て来て、毎月、月給の袋に名を書く時いつも済まない済まないと心の中にお詑びをしています。それで私は主人と相談をして、あなた方に時々宅まで来てもらって挨拶をしたり近づきにもなったり、古参の人たちとも親しみ合っておかなければ、私として安んじないのです。毎月というわけにもいかないが、店の都合のよい時に例会を催すことにしたのは、あの大震災後間もない頃であったと記憶しています。
 なかなか大勢だから一時に集まることは出来ません。やむを得ず全員を七、八回にわけて来てもらい、一緒にお弁当を頂きながら、互いに自由に話すことは、昼間忙しく働いて疲れているあなた方としては迷惑でもあろうが、私には非常なよろこびなのです。いかに弁松の弁当がおいしいとしても、七、八回同じものを食べつづけることはいささか閉口するのですが、いいえそれのみならず、皆が食べ残した野菜、焼ざかな、漬物はもちろん、御飯もみな整理して、主人はじめ一家で頂くので、時々一日三回もこのおあまりをお惣菜にすることがある。が、そんな辛抱は何でもないのです。同じものを同じ食卓で頂くということは、それだけでも私にはどんなに嬉しいことか。さながら骨肉相あたため、心と心とが結びつくように感じるのです。それから和気藹々(あいあい)たる中に各職場の苦心と労力をさらによく理解することが出来、例会より受ける功徳はじつに大きいのです。

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