一商人として
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著者名:相馬愛蔵 URL:../../index_pages/person1148

 昔は商家に奉公し、忠実に勤めて年期を明け、その後二、三年の礼奉公すれば、主人から店ののれんを分けてもらい、しかるべき場所において一店の主となることが出来たものである。それゆえ年期中は給与もなく、粗衣粗食、朝は早く起き夜は遅く寝て、いわゆる奉公人の分に甘んじ、じつにいじらしい勤め振りをしたものであった。
 主人もまた、子飼いの者が実直に勤めて年頃になれば、店の勢力範囲以外の地を見立ててそこに支店を出してやることは、本店の信用を高むることにもなるのであったから、主人もよくこの面倒を見てくれたものであった。むろんその時分は世間の様子が今と全く異っていた。町に交通機関はなく、ちょっとした用事にもいちいち使いを出すほかないのであったから、得意の範囲は自ずから定まり、どの商店もその近傍を得意として、古い取引の上に安定していた。
 ところが明治の末期になると電車が敷かれ電話がかかり、自転車は普及し、便利になったと思っていると今度は自動車、そのうちバスも行き渡って、その結果は今のように得意の範囲が拡がり、相当の店なれば市内一帯はもちろん郊外にも多くの客を持つ有様となり、また地方とは通信による商いもなかなか盛んになって来たのである。
 さてこうなると店員のために主家ののれんを分けることは甚だ困難で、また分けて見ても分け甲斐のないものになった。昔は本店まで行けないから支店で買い、お互いにそれが便利であったのだが、今のように交通が発達し、その機関を利用しての外出は苦労ではなく、遠方の買物もかえって一つの興味となった。支店を出しても支店の前は通り越して、やはり直接本店に行って買う。これでは支店の立ち行く筈はないのである。
 ことに昔は一軒の店を持つのも容易であった。店飾りなどもごく簡単で、もちろん借家に権利金もなかった。我々が本郷で中村屋を譲り受けた時なども、製造場その他いっさい付いている店が僅か七百円であった。それが今日はちょっと見込のある所は権利金だけでも数千円で、現に新宿目ぬきの場所は、間口一間当りの権利金が一万五千円から二万円という驚くべき高価に上がり、その他どこに行っても新たに店を持つことは昔よりはるかに困難となったのである。また一方には幾千万円の大資本を擁する百貨店が出現し、これが郊外遠くまでも配達網を布いての活躍で、小商店に一大脅威を与えており、これと戦って敗けずに行くには余程の覚悟を要するのである。
 また昔は僅々数十円の小資本でも、機に乗じ才智によって成功した例もあったが、今より後はかかる僥倖は望むべきでなく、何事も合理的方法によるほかない。
 それゆえ諸君は仮りにも夢を見てはならないのであって、奉公先を一生の親柱と頼み、すがってさえいれば何とかなるという時代ではないことをしっかり自覚し、そこに真剣な修業の覚悟が必要である。とにかく私として諸君に望むところは、諸君が我が中村屋を商業研究の道場と心得、仕入れ、製造、販売の研究はもちろん、朋輩に交じわる道、長上に対するの礼、人の上に立つ心得等に至るまで、充分に習得して真に一店の主人、一製造場の長たり得る資格を備え、いかなる苦境も自力で開いていくだけの人間修業をして欲しいのである。その上に事業に対する熱意があるならば、志は必ず酬いられねばならない。
 以上私はのれん分けの困難な理由、今の商売の容易でないことのみを述べたが、一方また現代は多くの新しい仕事と働き場所をもって諸君の進出を待っているのである。徳川時代三百年間に、日本の人口はおよそ二千五百万人から三千万人に増加したのみであるという。それが維新以来今日まで僅か七十年の間に三千万人の人口は七千万人に上り、しかもこれは内地在住の者のみを数えたのであって、この他に海外に出て大いに発展している同胞のあることを思えば、我々は何という勢い盛んな時代に生れたものであろう。そうして新時代の文化の複雑さはどれほど我々を恵み、我々の仕事をふやしていてくれるか知れない。のれん分けの望みこそ失せても、独自の道は開けている。諸君はこの新時代の新人として世に立つべく、大いに勇往邁進(まいしん)すべきである。研究を怠り、また己を鍛えることを忘れて青春の時代を漫然と過ごした者は、やがて世間に出て落伍者とならねばならない。我々は諸君の大切な若き日に充分の自覚と正しき努力とを望み、中村屋が諸君の真によき道場とならんことを願うものである。

    店員のために学校設立

 日々忙しい労務に従う店員諸君のために充分な休日を与えることと、修養勉学の機関をつくることとは、私の長年の願いであった。しかもこの二つは何でもなく出来そうに見えて、じつはなかなか難かしく、今も休みは不充分であり、ことに勉学の方は近年まで全く手をつけることが出来ないでいたのである。ただ夜分だけは早く休息させたいと思い、平日は午後七時閉店、日曜大祭日は特に忙しいことであるから五時閉店として、本郷から新宿に移転以来ずっとこれを実行して来たのであるが、その後新宿の盛り場としての発展と、別に述べたような百貨店の進出による事情などで、やむを得ず営業時間を九時までと改め、さらに十時まで延長、そこで三部制(販売部)を取ることになって、現在のように朝七時出は午後五時まで、九時出は七時まで、正午出は十時までの受持とし、各十時間勤務と改めたのであった。また月二回の全員定休日のほかに、交替でさらに月一回の休みをつくり、これでやや改善されたが、毎年四月、十二月などのとりわけ忙しい月はまだまだ過労の様子が見られ、さらに進んで一週一日の休みと勤務時間短縮の必要が考えられるのである。そうしてこれが実行されれば長年の我々の願いもようやく成就するのであって、今はその日の一日も早く至らんことを希望している。
 少年諸君のための勉学の道はようやく昭和十二年五月着手、矢吹慶輝博士の御指導によって、文学士谷山恵林氏以下五人の良師を得、工場の一部にとりあえずごく小規模の教室を設け、研成学院と名づけ、とにかく開校することが出来たのはまことに同慶に堪えない。しかし研成学院はまだ全く未知数に属し、成功か不成功か予想は許されないが、先生方の熱心と諸君の倦(う)まざる努力によって、好結果をあげることが出来ればまことに幸いである。五月十八日開校式の際私が諸君に述べたところをここに再録して、この稿を結ぶことにする。
 中村屋は諸君も御承知の通り、もう三十六年の歴史を有しております。初めのほどは、夜学をしたいという店員には通学の便利を与えておりました。そのため夜学に行く人も多くあり、現在計理士の新居氏や満鉄の図書館長勝家氏等も、その頃店で働きながら大学の夜学部に通うてあれだけの出世をしたのであります。しかしだんだん世の中が切迫して、学校の方も学課がむつかしくなり、また真剣に学ばなければ競争上やって行けないというようなことになり、我が中村屋も以前よりは幾倍忙しくなって、店に働きながら夜学に通うことはどうも無理だと考えているうちに、夜学に行く者はだいぶ健康を損じて、そのうちには死ぬ者さえも出たので、これではならぬ、二兎を追う者は一兎を獲ずという諺の通りで、学問もしよう、店の仕事もおぼえようというのでは双方とも駄目であると分ったので、学問をしたいものは他所に行き、商売に志すものは業務に専心すべしとして、十年ほど前から夜学に通うことを禁じてしまった。
 その結果病人は少なくなり、健康状態は著しく良くなったけれども、最近中村屋も、以前の十二、三時間も働いたのを十時間制に改めて、少しく時間に余裕が出来たところから、ひそかに会話等を習いに行く者もあると聞いたので、若い者の学問をしたいというこの希望の若干を叶(かな)えてやりたい、健康を悪くしない程度で、と考え、ようやくその案が立ち、またきわめて適任な先生が見当ったので、仕事のかたわらその休み時間を利用して学問を少しさせようじゃないかと、今度この学院を建てることにしたわけである。それゆえ各自には一週間僅か四時間だけの授業をするのみである。それくらいなら体にも仕事にも差支えなくて、かえってそこに面白味も出るだろう。この僅かの時間の勉強でもこれを長年続けるならば、人生に必要なる知識を得る不足はないと信じている。自分が先年欧州に行った時、識者の間でだいぶ問題になっているデンマークの国を訪ねて見た。この国は諸君も地理で知っていることであろうが、じつに小さい国で、我が九州にも及ばぬくらいの大きさである。さように小さく甚だ貧弱で気の毒な国であった。ところがそこにグルンドウィヒという偉い教育家が生れ、デンマークをいつまでもこういう憐れな国にしていてはならない、何とかしなければならぬというところから、この人の発案で、国民高等学校というのを拵(こしら)え、農家の子弟や商店の徒弟を冬の暇な時に集めて、少しばかりの学問を授ける。それも農家の子弟に農業のことを教えるのでなく、商店の者に商売のことを教えるのでもない。そういう職業には直接関係のない、国の歴史とか宗教とか、主として人間を高尚にする学問を教える。まあ大学の初歩のようなものである。
 その学校の成績が非常に宜しかったので、同じものが全国にいくつも建てられ、デンマークは今日では世界の模範国と称されるほどになった。それが僅か三、四十年前のことである。この学院もその国民高等学校の趣旨を少しくお手本に取ったものである。ここで諸君が仕事のかたわらの勉強によって、デンマークの学校と同じような効果が現れることになれば、諸君にとって、また我が日本国にとって非常によいことである。ここがうまく行けば余所(よそ)でも真似るようにならぬものでもなかろう。それは諸君の勉強の如何によるのである。こういう趣意であるから、そのつもりで奮発して下さい。
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 別記

    研成学院と往年の思い出

 私は自分の過去を語ることにはあまり興味がない。孫たちはだんだん大きくなるし、店には大勢の少年諸君が、希望に燃えて溌剌(はつらつ)として働いている。もし私によい思い出があって折にふれて話してやれるようだったら、私にとってもそれは明らかに喜びであるのだが、不幸にして私の過去は一向に味がなく、むしろ慚愧すべきもののみ多い。
 ところが今度中村屋は少年諸君のために学校を開いて、これに「研成学院」と命名した。私が幼年のころ学んだ小学校が「研成学校」であり、青年時代に同志と共に創立したのが「研成義塾」であって、私と研成という名には離れられない因縁があるらしい。そこでこの研成学校と研成義塾のことについて、一つは反省のため、また一つには研成学院のよき成長を祈るために、参考として書いておこうと思うのである。
 研成学校は明治五年の頃、長野県で最初に設けられた小学校であった。私の生れたのは信州安曇郡穂高村の白金という所で、この研成学校は、家から十二、三丁のところにあった。
 私の家は穂高村でもずいぶん古く、家で祀った産土神が現在村の氏神になっているほどで、祖父安兵衛までは代々庄屋を勤め、苗字帯刀御免、相馬という姓から見ても、また家伝の接骨術などあるのを見ても、ただの百姓ではないことは判っていたが、土蔵の梁から一巻の記録があらわれたのは、後に私たちが東京へ出てからのことで、それを発見したのは当時十歳で国許(くにもと)にいた安雄のいたずらの手柄ともいうべく、彼が土蔵の天井裏に這い上って、妙な包み物が梁にくくりつけてあるのを見つけ、それを取り下ろして調べて見ると、それが相馬家の系図であって、相馬は遠く平将門を祖とすることが判り、別に川中島の戦いにおける武田信玄の感状なども添うているところを見ると、私どもの祖先はその時代に武田の客将となって信州に入り、ついにそれが永住の地となったものであるらしい。
 私はそういう家に生れたが、二歳にして父を失い、七歳で母にも死に別れ、長兄夫婦に育てられた。長兄は私より十五歳上、嫂は十歳上であったから、まだ本当の若夫婦で、子供の養育に経験のある筈はない。ただ早く父母に別れた幼弟を憐れがって我が子のように鍾愛し、私が親のないことを不幸だと思ったことは一度もないくらい、それは大切にしてくれたものであった。
 私が十三歳になると、兄夫婦は私の教育を完全にしてやろうと考え、通学に不便なほどの道でもないのに、研成学校の寄宿舎に入れてくれた。費用もかかることであるのに、それを惜しまず兄がこの方法をとったことから見ても、当時の研成学校のいかに名高く、また地元の信頼を受けていたかが分るであろう。地元ばかりでなく、その名は信州全体に響いていたので、遠方から来て学ぶ者が少なくない。それゆえ校舎の二階に寄宿の設けが出来ていたのであった。
 兄はためを思うて入れてくれたのだが、寄宿舎生活は兄が考えていたような理想的なものではなかった。同じ年頃の者が揃うているのならよいが、なにぶん他にこれという学習機関のないその時分のことである。寄宿舎にいるのは私より三、四歳ないし十歳も年長の、もう立派な青年であった。したがって彼らはすでにさまざまな悪習慣をその身に持っている。そして指導者は一向にそれに気付かないのであったから、先生の眼を離れた二階ではいろいろ思いのほかのことが行われた。
 最年少者の私は家を出て最初のこの見聞に驚きながらも、しらずしらずこれが寄宿舎の風かと思うようにもなった。これはまことに不幸なことで、男ばかりの殺風景な寮舎の生活は決して健全なものではなかったのである。
 やがて私は松本の中学校に入ったが、ここの寄宿舎生活も、年少の身にとって決して幸福とはいえるものではなかった。ここでは後に帝大教授となった加藤正治(当時平林)氏など同級で、また先輩としては木下尚江氏、大場又二郎氏などを知り、ことに木下氏とは交遊最も長く五十年に及び、ついに昨年その死を見送ったが、この中学校を私は三年で出てしまった。私は数学だけは校中第一といわれるほど出来たが、英語は全く駄目であった。三年級も終りに近づく頃考えて見ると、どうもこの英語では進級出来そうもない。現級に止まるのはいやだし、面倒くさい、この勉強は飛ばしてしまえという気になり、三月早々退校して上京してしまった。何でもその中学校での思い出の中に、嫂の縫ってくれた赤い裏の羽織を着ていて大いに笑われたことがある。これで見ても中学生である当時の私の幼稚さ加減が判るようだが、兄夫婦は私の願いを容れて早稲田に学ぶことを許し、私は家から二十余里の道を歩いて途中一泊し、碓氷峠の麓のたしか今の横川駅から、生れて初めて汽車に乗って上京した。汽車はまだあれまでしか来ていなかったのである。
 早稲田大学はその時分東京専門学校といい、早稲田の土地も今とは大違いで、一面の田圃、ことに甚だしい低湿地で地盤がゆるく、田の畝を少し力を入れて踏むと四、五間先まで揺れたもので、稲田の間にはところどころ茗荷(みょうが)畑があり、これが早稲田の名物であった。大隈伯の邸宅と相対して、小高い茶畑の丘の一部に建てられたのが専門学校であった。たしか明治十五年創立で、当時は至って入学者少なく、明治十七年第一回の卒業生を出した時は、僅か十二名であったが、私の卒業した二十三年の第七回卒業生は、百八十四名、漸次増加して学校の勢力もまた上がって来ていた。総長は大隈さんで、高田早苗、坪内雄蔵、天野為之、三宅恒徳の四先生が中堅となり、外部から十数名の講師の応援があった。
 名高い坪内先生のシェークスピアの講演の人気は素晴しいもので、満堂立錐の地もなく、自分などは講義を聴くというよりは、シェークスピアの芝居を見せられているように思い、ただただ面白かった。高田先生の英国憲法、天野先生の経済学も呼び物であったが、三宅先生の法律はむずかしくて解りにくい。そこで生徒一同協議して三宅先生の講義を止めてもらいたいと、高田学長へ申し出たことがあった。
 当時私立学校では、いくぶん生徒をお客扱いする傾向があったので、生徒の申し出に対し、先生方には明らかに狼狽の色があり、我々の希望は達せられるものと信じていたのであるが、結果は意外にも天野先生に呼びつけられて、『生徒が先生に対してかれこれいうは不都合である、不満ならば退校せよ』と頭から叱りつけられ、そのままになってしまった。
 運動会に角力を取って五人を抜き、賞として鉛筆一打を貰ったなどの思い出もある。下宿では貸本屋が車を引いてまわって来るので、それをよく借りて読んだ。「佳人の奇遇」「雪中梅」「経国美談」等、おもに政治小説であった。
 同時代に在学した人では、金子馬治、津田左右吉、塩沢昌貞の諸博士および木下尚江、田川大吉郎、坪谷善四郎、森弁次郎の諸氏がある。また宮崎湖處子、安江稲次郎、宮井章景、三原武人の四人は特に兄弟のように親しくしたが、惜しいかな今はことごとく故人となった。
 しかし当時、私に最も大きな影響を与えたのは、学校よりも教会であった。私は早稲田に入ると、その十七歳の夏頃から友人に誘われて、牛込市ヶ谷の牛込教会へ行くようになった。十三歳の春に始まった私の寄宿舎ないし下宿屋生活はまことに殺風景で、いま思えば私はこの間にかなり人間としての自分を枯らしたように思うが、その反対に教会ではうるおいゆたかな雰囲気に浸ることが出来た。日曜日の午前十時から礼拝説教、それから教友らとパンの昼食を済まし、また午後の種々の集まりに出席するのであったが、ここでは年長者は父母の如く、あるいは兄姉の如く、若き者は弟妹の如くで、じつに和気靄々(あいあい)たるものがあった。私は宮崎湖處子、金子馬治、野々村戒三等の早稲田派は申すまでもないが、矢島楫子女史、大関和子、三谷民子女史とも相識り、また基督(キリスト)教界の元老押川方義、植村正久、内村鑑三、松村介石、本田庸一、小崎弘道、服部綾雄等の諸先生にも教えを受ける機会を得た。その他島田三郎、巌本善治、津田仙、山室軍平、また島田三郎氏からの縁で田口卯吉氏に接することを得たのも、この教えに連なった幸いというべきであろう。しかしまた当然の結果として、財界政界の方面には一人の友人をも持つことが出来なかったのである。また当時目白にはかの有名な雲照律師がおられたが、目白と早稲田と目と鼻の間でいながら、私は基督教徒であるため、ついに一度も律師の教えを聴きに行かなかった。今思えばじつに惜しいことをしたものである。その時分の基督教徒は仏教を時代後れとして、全く顧みなかったのである。
 早稲田を卒業すると私は一年ほど北海道に行った。この時分の北海道行きはまるで外国へでも行くようであった。まだ鉄道は青森まで通じていなかったので、横浜から船に乗り、函館を経て小樽に上陸、札幌に着いた。私は月給取りになるのがいやで、開墾最中の北海道なら何か面白い仕事があるだろうと、はるばる求めに行ったのであるが、実際私の目に映った当時の札幌は素晴しかった。内地ではいかに新しくといっても伝統があるから徐々に新様式を盛って行くが、北海道は全くの新天地、すべて米国式に思い切って目新しい。私はここへも教会の縁故で矢島楫子女史からそのお弟子の藤村頴子女史に紹介をもらって行ったのであった。女史は札幌の北星女学校に教鞭を取っておられたが、私はかねて津田仙氏、安藤太郎氏などの禁酒運動に共鳴して禁酒会員となっていたから、さらに女史とその夫君藤村信吉氏の紹介で、北海道における禁酒会長の伊藤一隆氏その他の人とも親しくすることが出来た。
 さて滞留一周年の実地見学で、私はいよいよ北海道が将来有望の地であることを信じ、とりあえず相当の土地を札幌郊外に購入することを思い立って、出資を郷里に求むべく大いに望みを抱いて帰郷した。
 しかしその話は郷里において長兄の賛成を得ることが出来ず、したがって私はそのまま郷里に止まるほかなかった。長兄夫婦には子供がなかったので、私を相続人に定めていたし、当時は北海道といっても田舎の者には想像もつかず、とにかくあまり遠方だからとて、ついに問題にならなかったのである。
 私はこの一年の北海道滞留中に、雇われることの嫌いな人間が、妙なことで至って不面目な給金取りの経験をした。それは札幌市内の桑園という土地で、信州出身の金子氏の家に客となっているうち、北海炭鉱会社の社長が、大邸宅を営造するに際し、大木を他から移植するために、三十人の臨時雇いを金子氏が頼まれた。ところがその人夫は二十九人まで出来て、あともう一人が急のことで間に合わない。そこで金子氏が折入っての頼みで、私はそこへ顔だけ出すことになった。むろん何の役にも立ちはしない。大木の後に取りついて、大勢と一緒にヤーと掛け声をするだけで、日給三十銭也の分配に預ったのである。当時札幌では手不足のため、どんな無能の者でも顔さえ出せば三十銭から三十五銭の手当をもらえたもので、この臨時雇いを出面取りといっていた。すなわち面さえ出せばよかったのである。当時の三十銭は今日の二円くらいに当る。とにかく六十九歳の今日までに、私が人から給金をもらったのは、後にも前にもこの時の三十銭限りである。

 郷里に帰って私は養蚕の研究をした。当時生糸の海外取引は非常な勢いで、年々増加するばかりであった。したがって養蚕は盛んで、これまで下々の下国といわれた信州も、養蚕でにわかに一王国を出現したかの観があった。しかし養蚕の方法に至っては、これに関する書もすでに百種くらい現れていたが、大同小異、特にこれはと敬服されるものもなかった。そして残念なことに私がこれらの書物によって教えられた養蚕は失敗が多く、期待していてくれる家人に対しても毎度面目ないことであった。私はこの不充分な研究書に愛想をつかしながらなおも良書を探していると、福島県の人半谷清寿氏著の「養蚕原論」があらわれ、私はこれを見て初めてここだなと肯くところがあったのである。
「養蚕原論」にヒントを得た私は、改めて根本的に研究し直すことを思い立ち、それから西は遠く丹波まで、また北に東に名のある養蚕地を訪ねて見学し、福島県では菅野、丹治、群馬では深沢、田島等の諸氏を訪問して直接教えを受け、その他多くの古老に質し、他方実地の研究も進んで確信を得たので、これを著述し、「蚕種製造論」と題して、田口卯吉氏の経済雑誌社から出版したことは前に述べた通りだ。(菊版百九十頁、定価五十銭、明治二十七年二月発行)
 ついで「秋蚕飼育法」(四六版八十頁、定価十五銭)を著し、友人竹沢章氏の蚕業新報社より発行したが、これは五万部も売れて、あれを読んでお蔭で好結果を得たといって礼状もたくさん来たし、わざわざ遠く九州辺りから私のところへ講習を受けに来た人も少なくなかった。私はその後養蚕から全く離れてしまったが、今でも養蚕の話を聞くと旧友に会ったようななつかしみを感ずるのである。

 蚕種製造家として郷里に落着くとともに、私の周囲には自然近辺の青年たちが集って来るようになった。都会に憧れ、新しい知識を求めてやまぬ田舎の若者たちにしてみれば、私が東京の学校を卒業して帰ったというだけで充分興味があったのであろう。私はこれらの青年に基督(キリスト)の話をし、禁酒をすすめた。若者たちはみなよく聴いてくれて、彼らはついに畑仕事の間にもふところに聖書を入れているまでになった。
 信州は維新当時廃仏毀釈の行われた所であるだけに、外来の新宗教の入り易い点があった。近村にはすでにメソヂスト派の牧師がおり、土地で名の知られている青年三沢亀太郎氏もすでに信者になっていた。私はこの三沢氏とともに牧師を援けて伝道演説をするようになり、寒い夜でも彼方の村此方の村と集まりに出かけて、ずいぶん熱心に説きまわった。また禁酒会を起し、会員数十名に上り、自分がその会長になった。これには内村鑑三先生や山室軍平氏なども応援演説に来会され、心から共鳴する青年が続々とあらわれて、中でも第一に殉教的熱情を示したものに井口喜源治氏があった。
 井口君は中学校での同級生で、当時穂高小学校の首席訓導であったが、彼の信仰はついにその教え子に及び、荻原守衛その他の生徒が信者になった。最初冷静に見て居った校長もこれに驚き、生徒が学校に来て基督教になるようでは父兄に対して相済まぬというわけで、井口氏を他校に転任させようとした。そこで井口氏の辞職となり、我々友人は井口氏を他村に送るに忍びず、また学校の態度にも憤慨したので、村の有力者臼井喜代氏や長兄安兵衛その他の有志と力を合わせ、新たに井口氏を推して研成義塾を設け、町村とは全く独立した高等科の単級教授を開始したのである。時は明治三十一年の秋、私も井口氏も同じ二十九歳であった。

 さて井口君はこの研成義塾を守って、去る昭和七年の十月病いを得て退くまで、じつに三十五年間全く一日の如く奮闘した。村の子供の多くは穂高小学校の尋常科を終るとそのままそこの高等科に残り、特に理解のある家の子弟だけが研成義塾に入った。私の長女の俊子なども高等科の課程はここで受けたのであった。
 そんなわけでむろん生徒の多かろうはずはなく、研成義塾の経営は初めから楽でなかったが、井口君は毅然として塾を守り、自分の理想とするところの教育を、信ずるままに行い来たった。井口君は厳粛な基督教徒であるとともに、一面また文学的で、かの正岡子規の流れを汲み、それが塾の教育にあらわれて、生徒の中には文芸美術を愛する者が多く、ついに芸術に身を捧げて世に知られたのは荻原守衛(碌山)であった。その他なお二、三その道に志した者があるが、現在評論家として聞える清沢冽氏、朝日新聞の久保田栄吉氏も、少年時代は研成義塾に学ばれたことである。
 井口氏は最初そういう事情で独立したのであったから、教育界からは一種の反逆児として見られ、世間一般からも甚だしく毛色が異って、円満に迎えられることが出来ず、社会的経済的に苦しめられたことは想像以上で、全く気の毒な有様であった。けれども一方、基督教界の人々には一個の英雄として尊敬され、内村先生なども氏を明治の中江藤樹、信濃聖人とまで賞讃されたものであった。
 私は井口君がその一生を通じてこの信念に専らにして、少しも遅滞するところなかった勇猛心に対して、心から敬意を捧げるものであるが、君をしてかかる不遇の生涯を送らしめたその源はといえば、自分が基督教と禁酒主義を故郷に移し入れたに因(よ)る。私はいまこれを思うてじつに感慨に堪えぬのである。
 当時の基督教は全く亜米利加直輸入で、我が国情の異なるままを疑いもせず行おうとした。私は基督教が日本の文化に与えた功績を決して見落すものではないが、これを丸呑みにしてことごとく欧米の風習通りに遵(したが)わねばならぬとした宗教界の先輩や牧師等の不見識は、玉に疵の憾みなきを得ない。
 前に、内村先生が中村屋の日曜休業を勧められたところでも述べたが、あれほどの先生ですらこの宗教の前にはやはりこの丸呑みをあえてして、選択の自由を失っているかの観があったのである。日本人としては根本的に首肯し難い、そして単に一つの風習にすぎないようなものでも、宗教の一要素である如く考えるところから、基督教に殉ずるためには信者はじつに世間を狭く、郷党や知友との反目も余儀なくさせられたものがあったのである。
 井口氏を初めとして、この塾に学んだ生徒およびこれに接近した人々も、宗教に対する勇猛心よりとはいえ、しらずしらずこの弊に陥り、世間から疎外され、いよいよ塾の存立を困難にさせられたのはじつに悲しむべく、いたましい次第であった。塾の卒業生前後およそ四百人、その大多数に対して、自分はじつに気の毒なことをしたと思う。自分は早く故郷を去り、基督教のこれらの慣習に対してさほど執着するには至らなかったが、井口君が病んで倒れるまでその信ずる所を変えなかった。今や報わるるところ少なく、戦い疲れて病いに臥すこの老友に対し、私は特に責任の大なるを感ずるのである。
 人のために善しと信じてしたことが、後になって意外の結果を来たす例は、私と井口君のことぱかりでなく、じつに世間に多いのである。いま私は中村屋に多数の若き人々を預り、これを思い出して責任を感ずることいっそう切である。中村屋が諸君の商業道場たることに万が一にも誤りあらば、諸君に対し、また父兄に対し、私は何と詫びることが出来るか。自分のかつての索莫たる寄宿舎生活をかえりみて、少年諸君の寮の生活を家庭的にあたたかに、また清浄にと願うはもとより、因縁尽きず、ここにまたささやかながら学舎を開いて、研成学院と名づけるにつけ、古を回顧して自ら警しむることかくの通りである。
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  主婦の言葉(相馬黒光)

    主婦の言葉

 今年もまた春が来て、二十三人の少年がこの中村屋に入店しました。私から見ればみな孫のような愛らしい少年たち、あなた方は父母の膝下を離れて雄々しくもよくここに来ました。各々割り当てられた部屋に荷物を下ろすともうその日から、中村屋店員としての基礎的訓練を受け、寄宿舎では監督の先生の指導によって、あなたがた自身の、そうして大勢と共同のよい生活をそこにつくるのです。あなた方はいまどんなに忙しく、体も心も緊張し、またどんなに希望に燃えていることでしょう。
 私は毎年新入店の人たちのために、雨天で店が少し閑散な時を選び、数回にわたって中村屋の歴史というような形式をもって、創業当時から現在までの経路を一通り話すことに決めていたのですが、私の健康が宜しくなかったために、昭和十二年度の新店員にはつい一回も話して上げることが出来ないで今日に至り、まことに申し訳ないことと思っています。この後にもまたこんなことがあるといけないと思い、主人のこの本が出来るにつけ、主婦としてあなた方に話して上げることを、ここに書き添えることに致しました。
 いったい店の歴史などと改っていうと、たいそう大袈裟に聞えます。けれども国に歴史あり家に父母祖父母の思い出があるように、どんなに微々たる一商店にもそれ相当の、後々へ語り継ぐべき苦心の物語があるものです。
 あなた方は学校で歴史を学び、一国の興亡、一族の栄枯盛衰、戦いの勝敗に、みなみなきっと多くの興味を感じたでしょう。その同じ興味をあなた方はやがて商業の世界、商店の栄枯の中に見出すようになるでしょう。平家にあらざれば人にあらずと全盛を誇った平家はどうしてあのような悲惨な最後を遂げましたか、それと同じ疑問がじきに商売の方にも見えて来ます。ある店は千客万来の大繁昌で、全店員一生懸命の働きをしても間に合わぬというのに、ある店では堂々たる店舗を構えながら門前雀羅(じゃくら)を張るが如しという不景気、また一族相率いていわゆる上り身代となって富み栄えると見れば、次には眷属(けんぞく)ことごとく没落の一途を辿り四方に離散する。いったいこれはどういうわけであろうか。どうすれば栄え、どうすれば衰えるのであろうか。その興廃の原因と結果とがはっきりと判ることによって、初めて自分の心構えと経営方針が確立されるのです。目の前に現れた結果は誰でも見ますが、大切なのは結果とともにその過程を見ることです。すなわち歴史を尊重する所以(ゆえん)です。歴史に暗く、方針の定まらない人は羅針盤を失った船のようなもので、前進どころかたちまち怒濤に押し流されて、ついに船体は転覆するほかありません。
 さて歴史のお講釈は止めにして早速お話に移りましょう。一通り順序を立てて主人の話のあった後ですから、私は断片的にいろいろのエピソードを拾って、中村屋の今昔を偲ぶことにしましょう。

    四畳半と三畳

 主人がこれまで機会のあるごとに話している中村屋創業時代の店員長束実(ながつかみのる)は、忠実で研究心が深く、その他なかなかよいところのある少年でした。その頃小店員を呼ぶのに名前に「どん」をつけたものです。どんは殿を略したもので、この呼びようには何となく家族的な親しみと、階級を超越した平等観念も含まれていて、それまでにそういう経験を持ったことのない私は、何どんと呼ぶ時にわかに自由な明るい感じと、一種のあたたかさ懐しさを覚えたものです。それゆえ今も私が思い出すのは実(みのる)ではなく、みいどんなのです。
 さてこの実(みのる)のみいどんは、どうしてか生れつきたいへんな煙草好きで、自分でもこれには全く困っていました。彼はクリスチャンの家庭に生れ、教会はもちろん、中村屋としても成年未満のうちは法度の煙草を、こればかりはどうもならずあの善良なみいどんが、人目を偸(ぬす)んでこっそりと喫っていたのは気の毒でした。
 人にはなくて七癖、みいどんにはもう一つ朝寝坊の癖がありました。その頃店員の室というのはやっと四畳半一間で、その中に六、七人が寝るのでしたから、夏の夜などとても暑苦しくて床に入れません。一人残らず夜露がしっとりするまで往来に床几を出して腰をかけているか、どこを当てともなくぶらついて戸外で涼を入れる。その留守の間にみいどんは一人さきに戻って来て、疲れた四肢を思う存分伸ばして、ぐっすり寝こんでしまうのです。そのうち一人帰り二人帰りしていつか寝床がなくなると、最後に帰ったものはみいどんをそっと抱え出してブリキ屋根の上に移して寝かせ、そのあとに割り込んで寝ました。翌朝みいどんは朝風に顔を吹かれて眼がさめるか人に呼び起されて、初めて自分の寝ているところに気がつき、寝た間のことを知るというふうで、当人の寝坊にも呆れましたが、私はそれより大勢を四畳半に寝かせる辛さが身にしみました。
 さて私たちはどうしていたかというと、昼なお暗い階下の三畳、そのまた一枚の畳は破れ箪笥と、先代から譲られた長火鉢が据っており、その前をすれすれに勝手兼工場と店との通路なので、正味のところ二畳だけが主人と安雄(当時二歳)と主婦の居間であり、寝室でもあれば食堂客間ともなってこの上なしの単純生活、いながらすべて弁じられて調法でもありましたが、その窮屈さはあなたがたにもよく想像してもらえるでしょう。
 けれどもその狭いことを誰も格別不平を申しませんでした。昔火事は江戸の花といって、半鐘がじゃんと鳴るとすぐ飛び出して火事場を見に行く、その勇ましさ景気のよさは今の東京人にはもう想像も出来ますまい。ある夜半鐘が寝しずまった町の静寂を破って鳴り出しました。遠方は一つばん、隣りの区は二つばん、区内は三つばん、近火ならば摺りばんといって、けたたましくじゃんじゃんじゃん続けざまに鳴るのでした。その夜は三つばんでしたから区内ではありましたが、昼間疲れていることではあり、一ぺん頭はもたげて見たが、『何だ三つばんか』でまた寝てしまうものが多かったのです。中に一人至って気の早い愛四郎というパンの仲職人が『ソラ火事だ』と真っ先に飛び出しました。
 間もなく鎮火して、愛四郎その他の者も戻ってもとの床に入りましたが、翌朝になって意外なことを発見しました。というのは、これも主人がよく話をする浅野民次郎の枕と敷蒲団が血でよごれていたのです。被害者の浅野さんは言いました。『昨晩火事があったことは知っているし、顔のところがひどく痛いと思ったがそのまま眠ってしまった。いったいどうしたのだろう』
 もう包み切れない加害者の愛四郎は白状しました。『それは俺かも知れない。火事場に飛び出す時、暗闇の中でぐにゃりと生温いものを踏みつけたと思ったが、どうも浅野さんの顔を踏んだらしい。お気の毒をしました』と、浅野すかさず『鼻はだ迷惑いたしてござりす』ござりますを仙台の田舎言葉で浅野さんはござりすと言いました。しばらくはこの真面目な人の洒落で一同笑いが止らなかったが、これも笑いごとではありませんでした。

    主婦の指導者おはつさん

 おはつさんは先代中村屋から店とともに受げ継いだ女中で、主婦の私より四つぐらい年上でしたから、その時分もう三十になっていました。生国は越後で眼に一丁字もない無学文盲でしたけれども、性来の利発もの、お世辞はないが実直でなかなかたのもしい女でした。私は女中を呼び捨てにしたことはなかったのです。必ず誰さんと呼び、今でも子供たちにもそうさせています。
 私はこのおはつさんを師匠として、店に来て下さるお客様への接しようから水引の掛け方、パンの扱い方など、何から何まで教わりました。お客様の顔を見るとすぐ『いらっしゃい』と、元気よく一種のアクセントをつけて迎えるのですが、新米の者にはこれがなかなか出て来ないもので、私が困っていると陰からおはつさんが『いらっしゃあい』と早速助けてくれたものです。
 おはつさんは馴れない主人を侮らずに大切にしてくれるとともに、職人や小僧(その時分は小僧といいました)たちにもちょうど弟か子供にするような態度で、それは親切に世話をしました。よくないと思うことは黙っていないで叱りました。朝二階を片付ける時、小僧が寝ている間に粗忽して蒲団を濡らしていることがあり、おはつさんはそれを見ると私に知れないよう、また朋輩に見られて顔をあかめないで済むよう、自分でそっと始末をし、目立たぬように干してやっていました。また忙しい中で手まめに綻びを縫ってやり、空模様があやしければ雨傘を忘れるなと気をつけてやる。万事この調子で、いろいろ心配りが多くて行きとどかぬ勝ちの私を扶(たす)けて、それはよくしてくれたものでした。
 このおはつさんに一つ不思議なことがありました。それは自分だけいつもおじやかお粥を食べていることで、私は気にかかり、ある時何故かとおはつさんに訊ねてみました。すると傍から職人が『ナーニおかみさん、御心配には及びませんよ。おはつさんは釜や飯櫃にくっついた御飯粒や種子飯(たねめし)(パンの発酵素をつくる)の残りを集めて煮てたべているのですよ』と代って返答したので初めて謎が解け、年若とはいえあまりに認識の足らなかった自分を恥しく思うとともに、おはつさんの心がけにはほとほと感心いたしました。
 仙台の生家にいる頃、お勝手の手伝いをさせられる時に私はたびたび母からお竹如来のはなしを聞かされ、物を粗末にしてはならないこと、水使いのあらい者は人使いもあらいものだから、井戸水でも一滴だって無駄にこぼしてはならないと言われたことを思い起し、我らのおはつさんもおはつ如来として祀(まつ)ってよい人だと思いました。
 お竹如来のことはその後も忘れませんでしたが、芝増上寺の末寺飯倉赤羽橋の心光院に今なお祀(まつ)られていることを最近に知り、それがまた故渡辺海旭先生と深い因縁のあることも分って、いまさらのように仏縁の尊さをしみじみと思うのであります。昔私が母から聞かされたように、あなた方もこの話をよく聞いておいて下さい。お竹如来の由来にはこう書いてあります。
     お竹大日如来流し板
慶長年間、江戸伝馬町佐久間某の婢に竹といふ慈悲仏性の女あり。台所の流しもとに布を張り、流るる飯粒を防ぎて己が食となし、己の食を乞食に与ふ。遂に生身の大日如来と化生し、流し板より光明を発したりと。霊像並びに流し板は今東京市麻布飯倉町赤羽心光院にまつる。
末世まで光る後光のさした下女  (江戸時代川柳)
雀子やお竹如来の流しもと    一茶
 今でも何ともいえぬ温さをもって思い出されるのは、おはつさんが、私の使い古したものを喜んで受けてくれて、幾年でも大切に保存し、その季節になるとちゃんと取り出して身につけていたということです。そういう親身な情とともに、私は今でも深くおはつさんに感謝しています。

    癲癇(てんかん)病みの喜どん

 喜(きい)どんの喜市はとても芝居好きで相撲狂でありました。彼は本郷から赤坂麹町まで卸(おろし)の配達に出ましたが、帰りには必ず神田の三崎町を通り、三崎座をのぞくことにきめていました。三崎座といっても今の人には解りませんが、歌扇という女役者が座頭(ざがしら)で男の立役を演じ、なかなか人気があっていわゆる民衆的な劇場として、三崎座のファンは相当多かったものです。喜どんも箱車を傍の空地に置き放しにして立見をやって帰ったものです。
 芝居好きの喜どんはまた小説類を濫読しました。むろん公然と許されているのではなく、隠れて読むのですが、芝居や小説から彼は決してよい刺激を受けなかったらしい。もちろん隠れてすることで自分に選択する力はないし、どんなものをどう読んでいたか喜どんの様子がだんだん解せなくなり、その間に私たちが気がつかなかったことも済まないことですが、ある日突然喜どんが卒倒し、それがただごとではないのに驚きました。卒倒して痙攣を起し泡を吹き、初めてこんな発作を見た私たちは急いで町医者を迎え、喜どんがこのまま絶命するのではないかとじつに心配しました。診断の結果医者は、『癲癇(てんかん)[#「癲癇」は底本では「癩癇」]です』といい、なかなか業病で時々ところきらわず発作するのだがそのまま死ぬものではない。ただ舌を噛んだり頭をひどく打ったりするといけないから、本人も周囲の者も常に注意して、人込みの中に行かぬよう、精神を刺激せぬよう、もし再発したならば周章(あわ)てないで、人のいない室に静かにねかせて鎮静するのを待つがいいと言われました。その後三、四回発作がありましたが、成年に至り、からだも心も健全に近づくにつれて次第に遠のきました。
 喜どんの発作は、芝居に夢中になったり小説に読み耽った後に起るのがきまりでしたが、これはあなた方もよく考えるべきことだと思います。

    路加少年

 路加(るか)という名はあなた方の耳にも珍しく聞えるでしょう。この少年は厳格なクリスチャンの家庭から託されたもので、新約聖書の中のルカというキリストの弟子の名を取ってこうつけたのだそうです。
 路加はミルク・ホールに食パン配達を受け持っていました。ミルク・ホールというのは現在の喫茶店をもっと簡単に原始的にしたもので、ミルクと食パン、それに低級な洋菓子風のものをおいて牛乳を提供し、おもに学生の便利を計ったものです。
 路加はそのミルク・ホールの女中と心安くなり関係して悪質の病毒を受け、一夜のうちに風眼にかかり、酷い痛みに苦しみました。主人の注意で取りあえず医者の診察を受けたところ、風眼と判り、すぐに手当をして間髪を入れずという危いところで失明を免れました。私は可憐な少年たちがこうした誘惑に陥り、健やかに清らかな生命を蝕ばまれるのを見せつけられてじつに悲しく、またそれらの少年をよく指導してやるべき主婦の身でいながらこんなに行きとどかないで、ほんとうに申し訳なく思いました。性の問題にはことに厳粛な思想を抱いている私は、それがためかえって実際に疎いところがあっていわゆる性教育に関して全然無知識でしたが、お互いにこの状態にいることのいかに危険であるかを痛感させられました。幸い路加少年は早く手当がとどいたので危いところで助かりました。もし当人が秘密にして姑息な方法で治そうとしていたら、可哀想に一生を暗闇(やみ)に葬らなくてはならないのでした。恐しいことです。

    浅野さんの懺悔

 浅野民次郎のことは「黙移」の中に詳しく書きましたから、ここでは最も尊い懺悔の一節だけを記すことにします。
 浅野さんは救世軍の兵士として、中村屋から毎晩行軍(街頭説教)に出かけました。当時救世軍はまだ甚だしい経済難のうちにあって、給与があまり僅少なためにたいていおかずを食べることが出来ず、塩など舐めて済ます有様でしたから、浅野さんは店で食事をするだけでも倖せだなどと言っていました。中村屋とてもその頃は充分な手当を支給出来なかったから、ずいぶん不自由な思いをさせたことでしょう。
 ある晩私たちは店を閉じてから例の三畳の間で帳面調べをしていましたが、そこへ浅野さんが入って来て、何か用事ありげにもじもじしています。そのうちに頭を膝まで下げ、低くてききとれないような声でこういいました。『国へ手紙を出そうとすると切手を買うお金がなかったので、悪いとは思いながら店の売上げから十銭無断で使いました。まことに申し訳ありません、お許し下さい』そして畳に頭をこすりつけて詫び入るのでした。
 これを聞いた私たちは叱るどころか、正直なその告白に非常に感激してしまって、『浅野さんよく言ってくれました、こういうことを行(や)らせた私たちこそ済まないのです』と言って後は言葉が出ず、三人は心の清々しさと嬉しさで胸がいっぱいになり、ともに涙に咽びました。浅野さんのこの時の清らかな懺悔は永久に天国の記録に残るでしょう。
 その後こういう美しいものにめぐり合わないのは何となく淋しく感じます。店員の数が増加するに従い、昔のような家族的なあたたかみの内に団欒する機会が失われ、予期しなかった冷たい規則を用いて警戒しなければならないようになったことは、ほんとうに困ったことであります。

    おまきさん

 大正四、五年頃中村屋に務めていたおまきさんは、なかなかのしっかり者でした。
 印度革命首領ラス・ビハリ・ボース氏に退去命令が下って、一時中村屋の一室に憂愁の幾月かを送らねばならなかったことは、主人や私の書いたものであなた方も知っているでしょう。当時おまきさんもこの事件につき、重大な任務を引き受けることを誓いました。普通の女ならば怖がって逃げ出すところを、おまきさんは大胆に沈着に自分の役割を果たしました。風俗習慣が違い、言葉の通じない外国人のボース氏を世話するのは容易なことではなかったし、秘密を守るためには肉親の者が死んだという知らせを受け取りながら、涙を隠してとうとう葬式にも行かなかったのです。私もまた行かせることが出来なかった。義のためには人はじつに辛いことがあるものだと、私もひそかに涙をしぼったことでした。でも店員一同はもちろん、女中までがあの潔い公憤をもって一身を顧みずボース氏の守護に努めたればこそ、ボース氏も生命を全うし、日本の面目も立ち、また私たちとしては頭山翁の信頼にいささか酬ゆることが出来たのです。あの時皆が私たちを助けてくれたことはじつにじつに今も肝に命じて忘れません。
 この事件も一段落ついて間もなく、おまきさんは暇をとって家庭の人となり、横浜に住んでいましたが、大正十二年大震災の時危く焼死を免れ、再びもとの仕事に着手して復活の途上にある時訪ねて来て、無事な顔を見せてくれました。が、その後どうしたか消息が絶えてしまい、今もって安否が知れない。印度問題でボース氏の活躍を見るこの頃、しきりに彼女のことが思い出されてなりません。願わくはどこにありても健全なれと祈ります。

    店葬のはじめ

 留吉さんは鋳造の大家山本安曇氏の弟で、中年で入店し、販売部で働いていた。中年者はどこでも歓迎されるものでなく、当人としても中途からでは何をしても成功覚束(おぼつか)ないと相場がきまっているが、留吉さんも初めのうちは小姑の多い中に来た嫁のように、何かにつけ気兼ねはあり、仕事に経験がなくてずいぶん骨が折れたようでした。しかし性質が非常に善良で真面目で、倦まず撓(たゆ)まず働くうちにだんだん仕事に馴れ、いよいよ熱を加えて来ると普通の人の三倍くらいの働きをして、とうとう古参の者を凌駕するに至りましたが、これはほんとうに異数のことでありました。
 惜しいかなある夏ふとしたことから病みつき、僅か数日にして暑苦しい倉庫の片隅で、朋輩の看護のうちに淋しく死んで行きました。その頃はまだ寄宿舎もなく、病人のために何の設備も出来てなかったので、どんなに行きとどかぬことであったかと、今思い出しても胸が痛くなる。それでも本人は不平を言わず、かえって朋輩のやさしい心に感謝して逝きました。
 私たちは故人の功績に報ゆるために、店葬として厚く弔いました。中村屋の店葬はこの人をもって嚆矢(こうし)とします。

    精一郎のこと

 精一郎は主人の甥で、福島高等商業を卒えて中村屋に実地修業に来ていました。主人の肉親というものはとかく僻(ひが)みをもって視られ易い傾向があるから、私は精一郎を褒めることは遠慮します。本人も常にこの事を心にかけて伯父である主人に告げ口でもしないかと他から思われるのを嫌がり、決して自分一人では私たちを訪ねることをしないばかりでなく、店で顔を合わしてもただ目礼して逃げるように行き過ぎたものです。
 しかし私はあなた方に精一郎のことばかりはぜひ言い遺しておかねばならない。現在中村屋の帳簿は株式に組織を改めて以来、整然として秩序が立ち整理されていますが、昭和三年春、主人が欧州に渡行する頃は帳簿といってもまだ完全なものではなかった。
 したがって主人の留守に私がその帳簿を見ても、内容をはっきり知ることが出来なかったのです。そこで精一郎を呼んでいろいろ質問してみると、倉庫と工場、販売と仕入れとの間に連絡もなければ明確な計算もなく、至って漠然たるものでした。それから精一郎と相談をして、主人の留守中に完全に整理し、帰朝の主人に一目瞭然の帳簿を呈して留守中の報告をしたい旨を希望して、尽力を頼みました。
 精一郎は涙ぐましきまでに精根を傾けて本格的に帳簿の整理を行いましたが、まだ後に倉庫の確立、仕入部と工場との浄化の実現という最も至難な仕事を遺して、洋々たる前途を望みながら惜しくも彼は逝ってしまいました。
 その前後に果たして中村屋内部の危機が迫って来ました。その結果として製パン工場に一大廓清が行われ、職長並びに部下数名の退店等のことがあって、各部戦々として不安の色がありましたが、歪めるものを直くするには周囲に多少の動揺は免れないものです。

    年始まわり

 本郷森川町といえば昔から学校街で、商店はほとんど教授方と学生目当てのものばかりでした。だから顧客の範囲も至って狭く、森川町一円、東片町、西片町、曙町、弥生町、少し離れて駕籠町、神明町辺りが止りでしたから、新年には顧客先を私自身一軒一軒年始まわりをしたものです。先代の中村さんは配達の小僧に名入りの手拭いを持たせてやったと聞きましたが、私どもはどうしても主婦自身伺うべきだと考えたのです。お勝手口から『中村屋でございます』と御挨拶すると、奥からわざわざ奥様がお出ましになって『まあ中村屋さん、こんな所からでなく玄関の方におまわり下さい』といとも御丁重な応待で、かえってこちらが恐縮しました。目白の女子大学の寮のお勝手口にもたびたび伺いました。これがまたお客様と店との親しみを深める因にもなり、双方で商売を離れた一種の情味を生じました。御用伺いに出る小僧に『この頃おかみさんの姿が見えないが、変りはないか』とお尋ねに預かり、私は産褥(さんじょく)でこれを聞いて心から有難く思い、またそちらにおめでたがあれば嬉しく、御不幸ときいては心が痛みました。
 新宿に移ってからはおとくいも多く、また広範囲にわたって、それに交通はまだ今のようでなく、ことに郊外は泥濘膝を没する有様でしたから、霜どけ路に進退きわまり立往生することもしばしばでしたが、年に一度の年始まわりだけはどうしても私がすることにしていました。それが昭和三年まで続きました。そのうち私はだんだん健康を害し、やむを得ず次女千香子に代理させました。千香子の結婚後は長男安雄が後を受けて年々続けて来たのでしたが、だんだんおとくいが増加し、また店に来て頂くお客様の方が幾倍する状態となってついに本郷以来の慣例を、不本意ながら廃せねばならない次第となりました。

    鳥居博士御一家

 考古学の泰斗(たいと)鳥居龍蔵博士の御家庭は、創業当時の中村屋にとり大切なおとくいでした。一つにはその思い出をあらたにし、またあなた方に学徳ともに高き先生のお教えを頂くために、先だって淀橋公会堂で博士の御講演をお願いしたのであります。当日私が先生を御紹介致すはずであったのを、病気のため出席出来ず、おいで頂いた先生に対してまことに申し訳ないことでありました。やむを得ず私は大意を認めて三松氏に託し、代読してもらいましたが、いまそれをここに記しておきます。
『鳥居博士は皆もすでに存じ上げている通り、日本における考古学の権威者として最も有名なお方であります。先生は昨年の春、南米ブラジルの招聘(しょうへい)により、御令息と一緒に彼の地へお出でになり、つい先だって研究を果たしてめでたく御帰朝になったのであります。さような専門的な学問と私ども小売商人とおよそ縁遠く、したがって先生に講演をお願いするなどということは御遠慮すべきでありましたかもしれませんが、あなた方のためにあえて先生を煩わすに至ったのはいささか因縁があるので、簡単にそれを申します。中村屋が初めて本郷に店を持って数年の間は、いわゆる創業時代でありまして、見るかげもない、まことにみすぼらしい三文店でありまして、むろん製品だってきわめて貧弱なものでありました。その頃鳥居先生は中村屋の近くにお住いで、私どもにはこういう微々たる時代に、今日ここに御出席下さいました奥様に始終御ひいきにして頂きまして、どんなに有難いことでありましたかしれません。そのうちに先生と奥様は前後して考古学研究のために蒙古の奥地においでになりました。また私どもは新宿に支店を設けて、毎朝本郷から新宿に通い、その後はさらに慌しい日を送るようになりましたので、一時先生にも御遠々しくなり、時々新聞や雑誌を通して、ますます研究の歩を進めておいでになる御様子を知り、主人とお噂申し上げて居りましたが、ついお伺いする機会もなくて居りました。ところが昨年南米ブラジルにおいでになることを新聞で知りまして、私はちょうど病床におりましたのですが、このたびこそはと起き上がり、主人を促して一緒に先生をお訪ねした次第でありました。本郷以来、春風秋雨幾十年は夢の間に過ぎ、鳥居先生は考古学の泰斗として外国にまでお名がひびき、ますます蘊蓄(うんちく)を深められつつあり、奥様もまた先生と同じ学問に志をたてられて、内助の功まことにお見事に、御令息御令嬢、一家をあげて同じ研究に精進せられているのはまことに驚異と申し上げねばなりません。総じて学者の仕事は地味で目に立ちませんから、一般の人には理解されにくいようでありますが、それだけ奥深く尊く、我々の文化の母胎は常にこういう専門的篤学者によってつくり出されつつあるのであります。あなた方はかような尊い学者のお仕事に対し、常に尊敬と感謝を捧げ、また鳥居先生のように一家をあげての御努力には大いに学ぶところがなくてはなりません。これを御紹介の辞といたします』
 当日先生には私どもの切なる願いを容れられ奥様と御同道でおいで下され、あなた方にじつによい御講演をして下さいました。まことに御縁というものは有難いもので、あなた方もよくこの縁を思うべきであります。いまや満州蒙古の問題の重要視せられる時、三十幾年前すでに鳥居博士御夫婦が多くの危険を冒して前人未踏の奥深く入り、貴重な研究を遂げられていたということは、じつに意義深く、皆さんもそのつもりで先生のお話をいっそう感銘もって伺ったことでありましょう。

    中村屋に女子を使わぬわけ

 本郷から新宿に支店を設けた頃のことでした。女学校出身でパン屋をしているということが二、三の新聞で紹介され、その記事に刺激され、東京はもとより地方の婦人たちから種々問合わせがあり、私はいちいち返事を書く暇もないので困っていました。そのうち山陰地方の○○○という小さな町の娘さんから手紙で、ぜひ店において商売を見習わしてくれと懇願して来ました。私どもも慎重に考えて、容易く引き受ける気はなかったのですが、あまりたび重なり余程熱心のようでしたし、その婦人がこちらのおとくいの親戚に当るということが判って見ると、どうもお断りしかねてついに承諾してしまいました。
 早速上京して私をたずねて来た本人を見ると少し意外でした。どうも商売見習いは口実で、他に何か曰くがあるらしく、果たして入店早々私の予感の間違いないことを示す行動がありました。それは医科大学生と称する従兄が同じく上京していて、その交渉が頻繁なところから店員たちの注目を惹き、ついに店員との間にも忌わしい問題を惹起したのです。まことに店としては由々しき大事で、やむを得ず退店してもらいましたが、母なる人が心配して引取りのため上京されたのに会って、初めて事情が判りました。何でもその娘は町で小町娘と評判されたものだそうで、もっとも私にはどこが美しいのか解りませんでしたが、そんなわけで身持がおさまらず、壻(むこ)を置き去りにして情夫の後を追いかけて来たのだということでした。そういうことも知らず上京の手蔓になった私は、お母様に対しても気の毒で、深く自分の軽率を恥じました。
 このことがあってから私は考えて、中村屋では女店員を使わぬことに決し、いかに別懇な間柄で頼まれても、こればかりは断って来ました。
 しかし三十年前と現在では時代も進み、婦人の職業も広くなり、それだけ自覚も出来て来たものとすれば、この鉄則も将来は破られる時が来るかも知れません。現在金銭登録器の前にいるもの、掃除の一部を担当しているものなど婦人もないではありませんが、これはみな店員の家族や私の親戚の者で、外から来た婦人でないことはあなた方もよく知っていると思います。

    店員の情操教育

 私は小学校時代から絵を見ることが好きで、したがって絵をかく人を友にし、自分は不器用で何も書けないけれど、いつとなく一通りの観賞眼は養われたように思います。本郷で営業していた頃は展覧会も今のようでなく、自分としてもずいぶん忙しく無理であったにかかわらず、上野の文展のはじまる秋には必ず時間の都合をして見に行き、こればかりは年々欠かしたことがなかったのです。
 それ以前から上野の美術学校には、先代中村屋がパンを配達していた関係上、私の代になってもそのまま配達をつづけていましたが、そのパンは別に学生さんが食べるのではなく、木炭画の練習に入用なのでした。その美術学生たちが自分で店頭に買物に来ることもあって、こちらも絵の話となると夢中になる方なので、出入りのはげしい店先で不似合な立ち話などしたものでしたが、そのうちだんだん昵懇(じっこん)になって、卒業製作の絵の具料や写生旅行の費用を一時立て替えてくれというわけで、小品などを預かり、ついそのままになったものもあります。
 そういうことがたび重なり、いつの間にやらいくつかの作品が手元に蒐(あつ)まり、それがまた店や居間に掲げられ、唯一の装飾となって、落着きのない騒がしい生活の中で、さながら沙漠のオアシスのような慰藉を与えてくれていました。
 現在持っている絵や彫刻はほとんど新宿に来てから、それぞれ自然な機縁によって手に入ったもので、本郷時代の作品に比して内容技巧二つながらすぐれたものであることは、画面のサインによっても判ることでしょう。
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