一商人として
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著者名:相馬愛蔵 URL:../../index_pages/person1148

 ここでは初め売上げに比して店が少々広すぎるぐらいであったが、その後売上げが漸次増加して甚だ手狭を感じるようになって、改めて奥行を三間半に拡張したが、店はいよいよ忙しくなって、拡げた所もじきに狭くなり、事情に応じて半間あるいは一間と奥行を延ばして行き、間口も五間を七間として、都合六、七回にわたって十二坪半から五十坪まで漸次建て増し、ある時は改造後ようやく六ヶ月でさらに改造の必要に迫られたことなどもあった。友人等は私のやり方があまりに姑息(こそく)で、かえって失費の多いことを指摘し、どうせ拡げるものなら将来のことも考えて、一挙に大拡張してしまってはと忠告してくれたほどであったが、私はこれには従わなかった。店が急に広くなってお客様がさびれ、ガランとしてしまう例はいくらもある。後から後からお客様で満たされる店の賑わいを当然であるかのように思い、建築費を節減しようとしてはるかの先を見越しての改築は後悔を招く場合が多い。私はこう考えていたので、その後もやはりお客様の増加に応じて少しずつ拡げて行き、再々増築の手数と費用を我慢したことであった。
 その後大正十二年、売上げ一ヶ年二十万円(一日平均五百余円)を見る頃になって、税務官との間に意見の相違を来たし、私個人の店を株式会社に改め、会社から家賃五百円を受け取ることにした。すなわち三分三厘に当る。
 最近には売上げもさらに増加して一ヶ月十八万円に達したが、家賃は四千五百円であるから二分五厘となり、すなわち八厘方格安となった。それだけ得意に対し勉強し得ることとなったのである。

    店の格を守る

 私は経済の点をしばらく離れて、店の「格」というものを考えて見る。人に人格のある如く、店にもいつとなくその店の「店格」というものが出来ている。この店格なるものについては、別に根本的に言って見るつもりであるが、とにかくここではその店の持前持味とでも解釈しようか、一つの商売を大切に護って相当年数を経て来た店というものは、長い間にその店独特の気分をつくり出しているものである。
 店の格などというと、階級的な意味に聞えるかも知れぬが、私が言うのはそれではなく、繩のれんには繩のれんの味があり、名物店には名物店の趣きがあり、扱うところの製品を主として店主の気風も自ずからそこに現れ、長年愛顧のお得意の趣味好尚に一致する何物かが、その根底に血脈をなしていることは争われぬのである。すなわちその店特有の空気というか色というか、それはどこがどうと言いようのないものではあるが、天井にも柱にも看板にも、あるいは明りの具合一つにも、きわめて自然に感じられる一種の馴染(なじみ)深さである。
 私はこの、古い店が持っている馴染深さ心安さを大切にせねばならぬと思う。もとより古い店の構造には今日から見て物足らなく思われるものがたくさんある。例えば現在三階を持つ中村屋にエレベーターのないことなども、あるいはその一つに数えられるかも知れない。このエレベーターのことも後でいうが、大勢おいで下さるお客様に店内が狭くて御迷惑をかけるということを第一として、我々はじつにその足らぬもの欠けているものを切々と感じ、それをも厭わずわざわざ中村屋に来て下さるお客様に対してこれではならぬと、改築の希望も出るのであるが、我々はここでもやはり分を忘れてはならぬのである。経費の点はしばらく措くとしても、大規模に改築すれば、この店が長い年月を重ねて徐々に恵まれたこの賑やかな雰囲気は失われてしまう。
 むろん新しく出来るものは、古くからあるものよりどんなに進んでいるか知れない。例えば照明のこと、ショー・ウィンドーの設け、売場の作り方、ケースの高さ等々研究の至らぬ方もなきこの頃である。下手なものの出来る筈はなく、改築とともに店は必ず見違えるほどの立派さ晴れがましさになるであろう。現にあちらでもこちらでも古い店が次第に改築されて、明るいモダンな構えになり、混雑して狭かった店が拡張されて綺麗に片づき、店員の手もふえ、用意万端整うて立派になりつつあるのを見受けるのである。
 けれどもその立派になった店構えが、妙によそよそしく感じられ、入口が何となく入りにくく思われたりするのは何故であろうか。むろん商売にもより、改築の効果大いにあらわれ整然として品格上がり、いっそうそれがお得意の好みに適するという場合もあるが、我々のような小売店で、しかも菓子屋のような商売は店頭の入り易いことが第一、たとえ雑然としていても、年中平均した賑わいを店内に持っていることが大切なのである。その点中村屋のような和風建築は、間口がことごとく開放されていて、たとえ手狭であっても全体としてはまだまだ寛濶な感じで、出入りし易いのではないかと思う。古い構えを長年守って来た老舗が入口の狭い洋風建築に改造して、売上げを半減したという話も耳にしたことである。
 じつにこの店構えというものは、床の高低一つでも大きな影響を及ぼすものであって、店の床は道路面から少しく爪先下りくらいになっているのが入り易く、また内の商品も床の低い方が賑やかに見えるなど、いろいろ微妙な点があり、古い店ではこの消息が自然に体得されており、目立たぬところに完全な備えが出来ていて、一つのいわゆる福相となって潜在するのである。ところがそういう店でもいよいよ改造という段になると、当然近代の新様式を取り入れるため、長い間に調うていた呼吸が破れ、たとえば地下室を造る必要上、床が路面より高くなって入りにくい構えになるなど、その他種々思わしからぬ個所が出来て、外見は立派になりながら人好きのせぬ店になり、一つには店内あまりに整然として広さが目立ち、お客の姿が急にまばらに見えるなど、改造とともに一頓挫を来たした形になる例が多く、しかもいったん改造し拡張してしまったものは、もう取返しがつかぬのである。
 さてこう述べてくると私の改築反対は著しく消極論のように聞え、諸君の盛んな意気に反する感があるかも知れぬが、私は決して消極的でも何でもなく、どこまでも内容の積極性を失わざらんがために、勢いにまかせて外形だおれに陥ることを避け、大いに自戒するのである。
 再び例をもっていえば、繩のれんの一杯茶屋の繁昌はどこまでも繩のれんの格においてのみ保たれるのであって、長年労働者を得意として発展した店が、財力豊かになって来たからとて、急に上流向きの立派な店構えに改築して、それで得意を失わずに済むものではなく、またにわかにかわって上流の客が来るものでもない。外観の整うたのに引きかえて内実が衰微して行くのは、むしろ当然のことと言わなくてはならない。と同時に上流向きの店は上流向きとしての格相応な構えがなくてはならぬであろう。同業の中に見ても、宮内省御用の虎屋には虎屋の構えがあり、また虎屋なればこそあの堂々たる城廓のような建築になっても商売繁昌するのであって、一般民衆相手の菓子店がもしも虎屋を真似たならば、おそらく客は寄りつくまい。中村屋は中村屋相応の格を守り、決して調子に乗ってはならない。

    商品の配達に要する失費

 店を改築して経費が嵩(かさ)めば今のように安く売ることが出来ず、売価が上がればそれに伴うサーヴィスとして、百貨店などのように無料配達の必要も起って、いよいよ経営の合理化に遠ざかることをすでに述べた。そこでこの配達費というものは商店経費の中のどのくらいの割合を占めるものであるか、少しこれについて考えて見よう。
 中村屋が無料配達を廃止したのは今から十年前のことであって、それまで開業以来ずっと無料配達のサーヴィスをしていたものであった。私の経験によると店頭売りの場合には店員一人で一日百円の商いをすることはさほど困難でないが、近まわりのお得意だけでもお届けすることになれば、その三分の一すなわち一人が三十円を売るだけのことも容易ではないのである。
 また遠方までお届けすることになると、さらに三倍くらいの時間と労力とを要する。そこで小店員一人の日当を二円と見ると、店頭売りの場合はその人件費も売上げの百分の二にすぎないが、近隣配達には百分の六となり、遠方配達にはじつに百分の十八となって、ほとんど利益の全部を配達のために失うこととなるのである。
 しかもこの百分の十八は、自転車や電車によった場合の計算であって、近頃のように配達の敏速を希望して自動車を用いることになると、さらに費用は倍加し、売上金高の三割以上を割(さ)かれることになる。自動車はフォード級の普通車を使用してすら、その買入費の消却と、その金利と税金、運転士給料、車庫料、消耗品とガソリン代等を合算すれば、一日当り平均十二、三円となる。中村屋の経験では自動車の配達能力は一台一日六十三軒のレコードもあるが、一ヶ月を平均すれば二十四、五軒にすぎないから、これに十二円を割り当てると、一軒当りの配給費はまさに五十銭である。それゆえ御註文品の金高があまりに小さい時はお断りするほかないことになる。現在百貨店が配達網を八方に布(ひ)き、また遠方には配給所を設けて、専らその合理化につとめていても、なおその費用の莫大なのに当惑しているときくが、まことにさようであろうと案ぜられる。
 しかし一般個人店では、まだそれほど配達の必要少なく、したがって経費に悩まされた経験がないため、遠方からの註文に接すると店の光栄として、僅少の品でも喜んで配達するようであるが、もし詳細に計算したならば、利益以上の経費を負担して損失となっている場合が多いことと思う。
 私が欧州を視察したのも早や十年の昔となったが、パリ、ロンドン、ベルリンなどの都市で、牛乳が我が一合当り邦貨三銭であった。当時日本では一合五銭ないし十銭、平均七銭というところであったから、物価の高い欧州に来てどうして牛乳だけがこう安いのかと不審に思うたことであった。しかし調べてみるとあちらでは牛乳はほとんど軒並みの需要で、しかも一戸当りだいたい一リットル(五合五勺)という好条件であって、各自近傍の得意を守り、遠方への配達をしない。少し離れたところに住むと、毎朝こちらから買いに出かけねばならぬのであった。私はこれを見てなるほどと思った。これだから配達費がごくいささかで済み、その安値で売って成り立つのであった。僅か一合の牛乳を遠方まで配達する日本の牛乳屋の不合理がいっそうこれで肯かれたのであった。数字にして比較して見ると、
欧州                    日本
一人の配達およそ一石            一人の配達およそ一斗
   (リットル入り百八十本)             (一合入り百本)
            円
原価 (一升二十銭) 二〇・〇〇        (一升二十銭) 二・〇〇
一人の給金       五・〇〇                二・五〇
 計         二五・〇〇                四・五〇
売上げ(一合三銭)  三〇・〇〇        (一合七銭)  七・〇〇
 差引収益       五・〇〇                二・五〇
 牛乳のようなものでは、配達料は経営費の大部分を占めるのであるから、この費目の軽減を計ることが経営上最も必要なことであった。そこで中村屋も開業以来の無料配達を改め、現在のように規定したのである。
一、近隣以外はことごとく配達料を申し受けること、但し牛乳は近隣といえども大瓶(二合五勺)三銭、小瓶(一合一勺)二銭の配達料を申し受ける。二、旧市内は電車賃往復分十四銭を申し受ける。郊外電車も同様で、乗換接続の場合は、双方の合計を申し受ける。三、金額五円以上の御註文はサーヴィスとして旧市内無料、但し郊外で電車賃十五銭以上の所は十四銭を差し引き、残額だけを申し受ける。四、配達は午前午後と各々一回とし、午前の分は前九時までに、午後の分は正午までに御註文を受けること。 右の通り実行して今日に至ったが、お得意でもよく理解し賛成して下さって、無料配達廃止の当初からきわめて好成績に行われて来たのはまことに喜ばしいことであった。すなわち配達料を申し受けるようになって以来、配達を望まれる御註文の金高は、それ以前の御註文の四、五倍のものになったから、配達費の負担が著しく軽減し、手軽なものはお客様御自身で快くお持ち帰りになるようになり、正価は正価、配達料は配達料とはっきりして、店頭の売価において従来よりいっそうの勉強が出来るようになった次第である。もし一般商店と同様に遠距離まで無料配達を続けていたとすれば、その費用として商品の価におよそ一割くらいを加えなくてはとうてい立ち行かぬところであった。お客様に対してどちらが親切な仕方であるか、それは自ずから判るところであろう。

    模倣を排す

 私は店格ということをいい、これを店の持前持味というように解釈したが、ここではその店格なるものの根本について話してみたい。
 人間はその面の異なる如く、その性質を異にし、神と崇められる者があれば悪魔と嫌われる者もあり、じつに千差万別、人生に複雑な妙味を現し、また尋常一様に見られる中にも個人個人で多少とも異なるところがあるものである。
 ところがその各自異なる人間の仕事であるにもかかわらず、商店にはとかく雷同性が多く、個性の認められる店はきわめて少ない。そしてこの雷同性がいつも共倒れの原因となっているのは、じつに悲しむべき現象である。かつて日露戦争直後、東京で最初にロシヤパンを売り出し、珍しいので相当繁昌した店があった。ところがたちまち十数店の同業者が同じロシヤパンを売り出し、競争となって共に没落してしまった。
 これなどほんの一例にすぎず、ある店が何か工夫して売行きよしと見ると、同業者は一斉にこれを模倣して、たちまちその特色を失わしめてしまうのが、ほとんど世間おきまりのようである。我が日本人は世界中で最も善良な性質の持主であるが、模倣に長じて独創に乏しいところはたしかに一大欠点といわねばならない。海外貿易に従事する人々の間でもこれが著しく、一人がある国の市場に適する商品を発見して商売に成功するのを見ると、他の貿易商たちも競うてこれを模し、たちまち市場を争うてついにはその貿易を破壊に導いた例が少なくない。また内地の都市あるいは地方にあっても、一般に独自性が乏しいため、どの店もおおかた似たりよったりで一向に特色がない。これでは存立の意義きわめて薄く、男子一生の仕事として生き甲斐あるものということは出来ない。
 私が店格を云々とするのはここであって、他人の境地を侵さぬことはもとより、平常自己の人格の向上を念願すると同様に、店そのものの本質的向上を計り、人格を磨くが如く店格を磨き、店の個性を樹立することに精進努力せねばならない。店の品格を高めることの必要なのはいうまでもなく、はっきりした特色を持ち、常にその長所を発揮することが大切なのであって、それはちょうど人が人格の高潔とともに才能を練磨すべきであると全く同様である。
 先頃も私は、日本全国から菓子の講習を受けに上京した人々に講話を望まれて話したことであったが、地方の菓子業者はたいてい東京の菓子を模倣することに全力を傾け、その地方特有の名物を軽視して顧みない風がある。むろん万人から見て東京は大いなる魅力であろうが、それはちょうど明治の初め西洋崇拝に駆られて、日本古来の美術工芸品を二束三文に外国に捨売りし、何でもかんでも舶来でなくては気が済まなかったのと同じことで、遠からず失うたものの価値が解り、必ず後悔する時が来るであろう。すなわち地方人はその地の特産を大切にし、保護するとともに一段の改善を加えて発達を図り、地方色を確保することが必要である。私は好んで各地を旅行するが、これはと思うような土地特有の名物に接することは至って少なく、たいがいは都会におけるありふれたものの模造であり、失望することが常である。先頃私の友人がギリシャに遊び、往昔文化の中心地であったアゼンの都において記念品を求めようとしたところ、眼につくものはたいてい日本製品か独逸品のみで、ギリシャ特有のものは何も見当らなかったということで、大いにその国土のために嘆かれたということである。
 私はこれらの話をして地方人の不心得を指摘し、大いに注意を喚起したのであったが、これはひとり地方だけのことでなく、都下屈指の商店にしても模倣を事として目前の安易に慣れているものが多いのである。いわゆる百貨店等に押されて次第に影の薄くなって行くという店は、たいてい特色なきこれらの店である。
 特色なき店はいかに大がかりな店構えをしても、そこに何の強味もない。独自の製品を持ち一個の店格を確立せる店は、小なりとも大いに発展し得る将来を持つというべきである。のみならずこうすることが真に商道に忠実なる者である。

    日本人の能率は欧米人に劣らず

 中村屋は本郷における創業の時代、女中も合わせてようやく四、五人の人に働いてもらっていたが、その後発展に伴うて一人二人と増し、だんだんふえて、ことに昭和四年頃からは年々三月の卒業期に二十人以上の少年店員を迎えることになって、創業三十七年の今年は二百七十人の多勢となり、この大勢の店員諸君が常に緊張して忙しい店を維持し、店の進展に伴って各自その全能力を発揮せんとして努めているのであって、最年少の新入店者に至るまで私はこれを自分と同じく商業に志す同志として迎え、かく多くのよき同志を得たことを常に感謝している次第である。
 さて諸君はことごとく我らのよき同志であるが、一面また「使う人と使われる人」の関係におかれているのであって、世上この「使う人と使われる人」の間ほど難かしいものはなく、ことにこの頃は時代の進歩につれて後から後からと新しい問題が提示されるのであって、主人としての責任は重く、我らは心を尽して諸君とともに万あやまりなきを期せねばならない。
 それゆえ自分は平常他人の話にも注意し、良きにつけ悪しきにつけ参考とすることを怠らないのであるが、一昨年米国を視察して帰られた藤原銀次郎氏のお話には、一方ならず興味を惹かれた。氏は米国においていろいろの会社の執務振りなども見て来られたが、米国の諸会社では、同程度の我が日本の会社の三分の一くらいの小人数で仕事をしているというお話であった。
 私はこれを聞いて考えた。日本の会社でアメリカの会社の三倍の人数を必要とするというのは、何に原因するのであるか。もし日本人の能率が米国人の能率の三分の一しかないのだとすれば、我ら日本人の将来はまことに憂うべきものである。しかし私はだんだんと調査して見たが、日本人の能率が米国人に比して劣っているとは思われない。劣っていないばかりか、彼より一段立ち勝っていると信じられるのである。それは彼の地における我が移民の活動に見ても、また人絹綿糸などで日本が英米を圧する勢いにあるのを見ても、すでに日本人の優秀さは充分立証されているのである。現にフォード会社の横浜における組立工場で、日本人の働きは、米国における同じ組立工場に比して、一割方も立ち勝ると聞いている。それが諸会社の使用人のみに逆の傾向を示すのは何故か。私はここに事業を行う者、またはそれに参加する者の大いに反省せねばならぬものを見るのである。
 聞くところによれば米国の会社では、重役が他の会社の重役を兼ねることはきわめて少なく、専心一つの業に当り、自ら使用人の先に立って働くという。その他大学の総長さんなどでも、自ら第一線に立っていっさいの用事を仲介なしで裁決するということである。
 これに反し日本の会社の重役なるものの中には、その資本力に任せて有利の事業と見れば八方に手を出し、一つの体で多くの会社の重役を兼ね、実際の働きにこれというものもなく、高級の自動車をあれからこれにと乗りまわして巨額の報酬を得ているものが多いのである。しかも使用人の俸給は著しく安いので彼らは内心不満なきを得ず、したがって責任を感ずることも薄く、仕事に対する態度も弛緩して人一人の持つ能力が発揮されていない。加うるに俸給が少ないため内職等に精力を消耗するので、これらが原因となって三倍もの人数を必要とすることになるのである。
 我が中村屋は一人一業の主義に基づき、全員緊張して仕事に当り、不平不満なく業を楽しむの域に近づいた結果、その能率いささか誇るに足るものがある。従来の菓子職人、特に日本菓子の人々は徳川時代よりの一種の悪習慣に禍いされて、半ば遊び半ば働くというふうであるから、彼ら一人の製造能率は一日十五円内外、二十円に達することは稀れであるが、我が中村屋の職人は一人一日平均五十円に達し、歳末や四月の花見時の如き繁忙の際には七十五円にも及ぶことがある。また我が喫茶部の成績も一ヶ年を通じて一人当り一日二十一円と記録され、丸の内のある有名なレストランの一日の売上げ八百五十円を百二十人で働いているのに対比し、ちょうど三倍となっている。私はこの体験よりして我々日本人の能率は米国人のそれに劣るものでないことを自信し、甚だ愉快に感ずる。

    少年店員の採用とその待遇法

 中村屋は毎年三月に少年店員を募集し、高等小学を卒業する少年を、直接親たちの手から引き受ける方針を取って来ている。むろん高等の教育を受けた青年の入店希望者もすこぶる多く、中等学校卒業者はもとより大学の商科その他の学府を出た人々もあり、ことにそれら高等教育を受けた人々の入店希望にはそれぞれ事情があって、特に頼み込まれる場合が多いのであるが、これまでの経験によると、だいたいとして長く学校生活をした人は店務には適せぬものが多い。もともとそれらの人々は官吏か大会社の社員になることを志望し、必死の努力で受験難を突破して学校に入り、ようやく卒業してみると意外の就職難でやむを得ず方針を変え、あるいは一時の腰掛けに商店に来るのであって、最初から商売に志すものとは自ずからその性質を異にする。また長い間勉強で神経を使い、試験で精力を消耗している上、二十五、六歳までペンより重いものを持ったことがなく、他人の命令で働いた習慣のない青年たちである。店に入って急に店の規律に服し、毎日同じような煩雑な、しかも相当筋肉労働にも従事せねばならぬのであるから、馴れた者にはさほどでないこともなかなかの負担で、我慢に我慢をしてようやく一日を終ることとなる。これでは店員として成績の上がる見込はないのである。それゆえせっかく入店しても結局中途で退店するものが多く、私どももまことに遺憾に思うことである。
 これに反し、小学卒業生は年少活発で何をするにも興味があり、元気で愉快に働くので、比較的容易に仕事に関する知識を会得し、一、二年後には早くも一通り役に立つようになる。結局仕事の優劣の差は、勤労に対する覚悟の如何(いかん)と業務に対する熱意の深浅によるものとして、私はこの点から小学卒業者を採用し、年少のうちから養成することに決めたのである。実際世間の例に見ても、大工左官の如き手練を要する者は、ぜひともこの少年時代から修業に入るを必要とし、また碁、将棋の如きもこの年代から始めるのでなければ大家名人と成り難く、飛行士なども同様と聞くが、小売商として成功を納めている者や、実業界に名を成し、相当に成功している人々の中にも、小学校以上の学歴を持たぬものが甚だ多いのである。
 しかしそれら小学校出身者は特に優秀なる人々を別として、一般には小成に安んずる傾向があり、高等教育を受けた人々に比し、志が低いと見られるのはこの人々の欠点とせねばなるまい。少年店員諸君はここに留意し、反省自重して理想を高く持ち、各々大を成すように心がけてもらいたいものである。
 こうして中村屋はまず少年店員養成の一途に決したのであるが、これはあるいは商売には学問不要の宣言をなすもののように見られるかも知れぬが、そうではなく、絶対に中等学校以上の教養ある人々を入れないという立て前でないこともここに一言しておきたい。高等の学問を身につけてその上で真剣に商業に打ち込むという者があれば、それは我々も同感するところである。現に同業のうちにも帝大出身の虎屋主人黒川氏あり、出版界に傑出する岩波茂雄氏など、まことに他の追随を許さぬものがあり、新時代の商業の理想は大いに教養ある人々によって行われねばならないのである。したがって少年店員諸君も、商売の実地修業とともに、高尚な知識に対しても敏感に、絶えず自己の向上を計るべきは無論である。
 さて入店後の給与および待遇については、諸君のすでに経験するところであるが、一通り順を追うて記して見ると、入店後徴兵検査までの約六年間を少年級として、少年寄宿舎に入れ、衣類医療等いっさいを主人持ちとして、小遣いは初め月に十四、五円(給与いっさいにて)、漸次増して三十円以上となる。この六年間は月々給与の約三分の一を本人に渡し、他の三分の二を主人が代って貯蓄銀行に預けておく。
 二十二歳になれば少年寄宿舎を出て、青年寄宿舎に入る。同時に衣類は自弁することとなり、給与は四十四、五円から漸次七十円に至る。衣類を自弁するため、月々給与の約半額を本人に渡し、残り半分を主人が代って貯金しておく。賄(まかな)いはいうまでもなく店持ちである。青年級は二十七歳で終る。
 二十八歳からはそれぞれ妻帯を許し、寄宿舎を出て一家を構える。俸給は月々全部を渡し、主人はもう預からない。
 家持店員の給与は七十五円ないし二百円であるが、一家を構えてみると今までの寄宿舎生活と違い、すべてが複雑になって来て、それぞれの事情により生活の難易が岐(わか)れて来る。もちろん中村屋で少年期から青年期を実直に働き、無用の散財をしなかった者はこの時分には相当の貯金が出来ているから、それを持って退店し、新たに自分の仕事を始めることが最も望ましいのであるが、引きつづき中村屋で働きたいと望む者には、なるべくその希望に添うことを方針としている。
 自分はいろいろ経営の合理化を研究して、店員全体の生活を裕(ゆた)かにするようにと努めているが、これでよしと安心の出来るにはまだまだ前途遼遠である。だいたい私が諸君に対する待遇の根幹とするところを述べて見ると、
一、店員はことごとく我らと一家族にして、また各々立派な紳士として、事業に参加するものであるから、我らはこれに対する感謝とともに、店主としてまた一家の家長として、常に一同の幸福増進を計るべきこと。二、店員並びにその家族全体に生活の不安を与えてはならないこと。三、店員中には夫婦共に働いて余裕の持てる家庭もあるが、子供が多く、また老人を抱えて倍の費用のかかる家もある。かように事情の異なるものに同じ給与ではかえって不公平となるゆえ、子供のある者には子供手当を付けること。七十歳以上の老人のある場合は老人手当を出すこと。四、店の利害と働く者の利害はすべて一致すべきもので、営業忙しく利益多き時は、その労苦に酬い、必ず利益を分配すること。五、老後の心配を少なくするため、十年以上の勤続者には店費にて保険を付けること。六、店は毎日同じような仕事の連続であるから、その慰安を図り娯楽を与え、またその機会に情操を養い、煩雑な日々の生活の中にも潤いのあるよう、観劇、旅行、会食等、すべて上品な趣味のものを選ぶこと。七、常識を養い、教養を深めるため、修養勉学の機会をつくること。八、主人および一族中いわゆる重役的存在として店務に参加するものの、店より受くる俸給は店の幹部級の者より薄給なるべきこと。 ここでは説明するためにこういう形になったが、我々の店に何もこんな箇条書が出来ているわけではない。規律はあっても店則がないのと同様、これは自ずと決定した我々の思想であり、また実行であるにすぎない。しかしまずこの条々についても少し実際的に言って見ると、
 子供手当及び老人手当は現在のところ一人につき四円ずつを出すことにしている。
 店の繁忙に伴う労苦に対する利益分配は、総売上げの三分と、一日七千二百円(売上げの増減に従い上下す)以上の売上げのあった日の二分、年度末の決算に当って純益の一割を全員に分配する。
 老後の用意については、早大総長田中穂積博士が、私立学校の教授に恩給の制度のないのを遺憾に思い、数年前から十年以上教務に服した先生方に対し、校費で千円の保険を付け、二十年以上の先生には二千円の保険を付けることにしたとの話を聞き、私も店員に同様の方法を取り、すなわち十年勤続者には千円を、二十年勤続者には二千円の保険を付けることにし、早速この昭和十二年二月から実行した次第である。
 店員の慰安の催しについては、以上の方法によってまず一通り生活に不安のない程度には達しているが、まだこの給与では娯楽を求め趣味を向上させることは難かしいのであるから、特にこちらでその機会をつくり、現在年二回以上の観劇と一回の角力(すもう)見物をそれぞれ一等席で招待し、また会食は一流料理店を選び、洋食の食べ方、食卓の作法など、少年店員たちもこの機会に自然に会得するよう心がけ、春秋の遠足、夏期の鎌倉における海水浴なども、不充分ながら心がけているところである。
 なお遠く旅行して見聞をひろめ、地方地方の特産または商業の様子などを見ることは大いに必要で、我々も差支えのない限り春秋には旅行を試みることにしているので、諸君にも行ける限りは行かせたいと思い、遠くへの旅行は毎年春秋二回、古参者から順々に同行二人を一組として、十日の休暇と旅費を給し、九州あるいは北海道と、それぞれ好みの所に年々かわるがわる旅行をさせている次第である。
 次に私および一族中の者の俸給が、店員の幹部級の者より薄給であるべしとの趣意は、改めて説明するまでもなく、前にも言った通り、いわゆる重役連の労せずして高級を食(は)む不合理を憎むからである。
 かく説き来れば中村屋の給与は相当宜(よろ)しいように見えるが、これでも製造部では製品売価の一割に足らず、販売部は売上げのおよそ六分七厘にしか当らない。これを米国百貨店の販売高の一割六分、独逸百貨店の同じく一割三分五厘に比すれば、その半額にも足らぬのである。私は店員への給与を世界の水準まで引き上ぐべきであると考える。重役だけが生活を向上して労務者の生活を改善し得ないならば、我々実業家の恥と言わねばなるまい。

    実世間を対手(あいて)とする商業道場

 愛児を中村屋に託さるる親たち、また当の少年店員諸君に対してはいうまでもなく、我々は深く責任を感じ、いかにしてその信頼に酬ゆべきかと常に種々苦心するところである。
 昔は商家に奉公し、忠実に勤めて年期を明け、その後二、三年の礼奉公すれば、主人から店ののれんを分けてもらい、しかるべき場所において一店の主となることが出来たものである。それゆえ年期中は給与もなく、粗衣粗食、朝は早く起き夜は遅く寝て、いわゆる奉公人の分に甘んじ、じつにいじらしい勤め振りをしたものであった。
 主人もまた、子飼いの者が実直に勤めて年頃になれば、店の勢力範囲以外の地を見立ててそこに支店を出してやることは、本店の信用を高むることにもなるのであったから、主人もよくこの面倒を見てくれたものであった。むろんその時分は世間の様子が今と全く異っていた。町に交通機関はなく、ちょっとした用事にもいちいち使いを出すほかないのであったから、得意の範囲は自ずから定まり、どの商店もその近傍を得意として、古い取引の上に安定していた。
 ところが明治の末期になると電車が敷かれ電話がかかり、自転車は普及し、便利になったと思っていると今度は自動車、そのうちバスも行き渡って、その結果は今のように得意の範囲が拡がり、相当の店なれば市内一帯はもちろん郊外にも多くの客を持つ有様となり、また地方とは通信による商いもなかなか盛んになって来たのである。
 さてこうなると店員のために主家ののれんを分けることは甚だ困難で、また分けて見ても分け甲斐のないものになった。昔は本店まで行けないから支店で買い、お互いにそれが便利であったのだが、今のように交通が発達し、その機関を利用しての外出は苦労ではなく、遠方の買物もかえって一つの興味となった。支店を出しても支店の前は通り越して、やはり直接本店に行って買う。これでは支店の立ち行く筈はないのである。
 ことに昔は一軒の店を持つのも容易であった。店飾りなどもごく簡単で、もちろん借家に権利金もなかった。我々が本郷で中村屋を譲り受けた時なども、製造場その他いっさい付いている店が僅か七百円であった。それが今日はちょっと見込のある所は権利金だけでも数千円で、現に新宿目ぬきの場所は、間口一間当りの権利金が一万五千円から二万円という驚くべき高価に上がり、その他どこに行っても新たに店を持つことは昔よりはるかに困難となったのである。また一方には幾千万円の大資本を擁する百貨店が出現し、これが郊外遠くまでも配達網を布いての活躍で、小商店に一大脅威を与えており、これと戦って敗けずに行くには余程の覚悟を要するのである。
 また昔は僅々数十円の小資本でも、機に乗じ才智によって成功した例もあったが、今より後はかかる僥倖は望むべきでなく、何事も合理的方法によるほかない。
 それゆえ諸君は仮りにも夢を見てはならないのであって、奉公先を一生の親柱と頼み、すがってさえいれば何とかなるという時代ではないことをしっかり自覚し、そこに真剣な修業の覚悟が必要である。とにかく私として諸君に望むところは、諸君が我が中村屋を商業研究の道場と心得、仕入れ、製造、販売の研究はもちろん、朋輩に交じわる道、長上に対するの礼、人の上に立つ心得等に至るまで、充分に習得して真に一店の主人、一製造場の長たり得る資格を備え、いかなる苦境も自力で開いていくだけの人間修業をして欲しいのである。その上に事業に対する熱意があるならば、志は必ず酬いられねばならない。
 以上私はのれん分けの困難な理由、今の商売の容易でないことのみを述べたが、一方また現代は多くの新しい仕事と働き場所をもって諸君の進出を待っているのである。徳川時代三百年間に、日本の人口はおよそ二千五百万人から三千万人に増加したのみであるという。それが維新以来今日まで僅か七十年の間に三千万人の人口は七千万人に上り、しかもこれは内地在住の者のみを数えたのであって、この他に海外に出て大いに発展している同胞のあることを思えば、我々は何という勢い盛んな時代に生れたものであろう。そうして新時代の文化の複雑さはどれほど我々を恵み、我々の仕事をふやしていてくれるか知れない。のれん分けの望みこそ失せても、独自の道は開けている。諸君はこの新時代の新人として世に立つべく、大いに勇往邁進(まいしん)すべきである。研究を怠り、また己を鍛えることを忘れて青春の時代を漫然と過ごした者は、やがて世間に出て落伍者とならねばならない。我々は諸君の大切な若き日に充分の自覚と正しき努力とを望み、中村屋が諸君の真によき道場とならんことを願うものである。

    店員のために学校設立

 日々忙しい労務に従う店員諸君のために充分な休日を与えることと、修養勉学の機関をつくることとは、私の長年の願いであった。しかもこの二つは何でもなく出来そうに見えて、じつはなかなか難かしく、今も休みは不充分であり、ことに勉学の方は近年まで全く手をつけることが出来ないでいたのである。ただ夜分だけは早く休息させたいと思い、平日は午後七時閉店、日曜大祭日は特に忙しいことであるから五時閉店として、本郷から新宿に移転以来ずっとこれを実行して来たのであるが、その後新宿の盛り場としての発展と、別に述べたような百貨店の進出による事情などで、やむを得ず営業時間を九時までと改め、さらに十時まで延長、そこで三部制(販売部)を取ることになって、現在のように朝七時出は午後五時まで、九時出は七時まで、正午出は十時までの受持とし、各十時間勤務と改めたのであった。また月二回の全員定休日のほかに、交替でさらに月一回の休みをつくり、これでやや改善されたが、毎年四月、十二月などのとりわけ忙しい月はまだまだ過労の様子が見られ、さらに進んで一週一日の休みと勤務時間短縮の必要が考えられるのである。そうしてこれが実行されれば長年の我々の願いもようやく成就するのであって、今はその日の一日も早く至らんことを希望している。
 少年諸君のための勉学の道はようやく昭和十二年五月着手、矢吹慶輝博士の御指導によって、文学士谷山恵林氏以下五人の良師を得、工場の一部にとりあえずごく小規模の教室を設け、研成学院と名づけ、とにかく開校することが出来たのはまことに同慶に堪えない。しかし研成学院はまだ全く未知数に属し、成功か不成功か予想は許されないが、先生方の熱心と諸君の倦(う)まざる努力によって、好結果をあげることが出来ればまことに幸いである。五月十八日開校式の際私が諸君に述べたところをここに再録して、この稿を結ぶことにする。
 中村屋は諸君も御承知の通り、もう三十六年の歴史を有しております。初めのほどは、夜学をしたいという店員には通学の便利を与えておりました。そのため夜学に行く人も多くあり、現在計理士の新居氏や満鉄の図書館長勝家氏等も、その頃店で働きながら大学の夜学部に通うてあれだけの出世をしたのであります。しかしだんだん世の中が切迫して、学校の方も学課がむつかしくなり、また真剣に学ばなければ競争上やって行けないというようなことになり、我が中村屋も以前よりは幾倍忙しくなって、店に働きながら夜学に通うことはどうも無理だと考えているうちに、夜学に行く者はだいぶ健康を損じて、そのうちには死ぬ者さえも出たので、これではならぬ、二兎を追う者は一兎を獲ずという諺の通りで、学問もしよう、店の仕事もおぼえようというのでは双方とも駄目であると分ったので、学問をしたいものは他所に行き、商売に志すものは業務に専心すべしとして、十年ほど前から夜学に通うことを禁じてしまった。
 その結果病人は少なくなり、健康状態は著しく良くなったけれども、最近中村屋も、以前の十二、三時間も働いたのを十時間制に改めて、少しく時間に余裕が出来たところから、ひそかに会話等を習いに行く者もあると聞いたので、若い者の学問をしたいというこの希望の若干を叶(かな)えてやりたい、健康を悪くしない程度で、と考え、ようやくその案が立ち、またきわめて適任な先生が見当ったので、仕事のかたわらその休み時間を利用して学問を少しさせようじゃないかと、今度この学院を建てることにしたわけである。それゆえ各自には一週間僅か四時間だけの授業をするのみである。それくらいなら体にも仕事にも差支えなくて、かえってそこに面白味も出るだろう。この僅かの時間の勉強でもこれを長年続けるならば、人生に必要なる知識を得る不足はないと信じている。自分が先年欧州に行った時、識者の間でだいぶ問題になっているデンマークの国を訪ねて見た。この国は諸君も地理で知っていることであろうが、じつに小さい国で、我が九州にも及ばぬくらいの大きさである。さように小さく甚だ貧弱で気の毒な国であった。ところがそこにグルンドウィヒという偉い教育家が生れ、デンマークをいつまでもこういう憐れな国にしていてはならない、何とかしなければならぬというところから、この人の発案で、国民高等学校というのを拵(こしら)え、農家の子弟や商店の徒弟を冬の暇な時に集めて、少しばかりの学問を授ける。それも農家の子弟に農業のことを教えるのでなく、商店の者に商売のことを教えるのでもない。そういう職業には直接関係のない、国の歴史とか宗教とか、主として人間を高尚にする学問を教える。まあ大学の初歩のようなものである。
 その学校の成績が非常に宜しかったので、同じものが全国にいくつも建てられ、デンマークは今日では世界の模範国と称されるほどになった。それが僅か三、四十年前のことである。この学院もその国民高等学校の趣旨を少しくお手本に取ったものである。ここで諸君が仕事のかたわらの勉強によって、デンマークの学校と同じような効果が現れることになれば、諸君にとって、また我が日本国にとって非常によいことである。ここがうまく行けば余所(よそ)でも真似るようにならぬものでもなかろう。それは諸君の勉強の如何によるのである。こういう趣意であるから、そのつもりで奮発して下さい。
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 別記

    研成学院と往年の思い出

 私は自分の過去を語ることにはあまり興味がない。孫たちはだんだん大きくなるし、店には大勢の少年諸君が、希望に燃えて溌剌(はつらつ)として働いている。もし私によい思い出があって折にふれて話してやれるようだったら、私にとってもそれは明らかに喜びであるのだが、不幸にして私の過去は一向に味がなく、むしろ慚愧すべきもののみ多い。
 ところが今度中村屋は少年諸君のために学校を開いて、これに「研成学院」と命名した。私が幼年のころ学んだ小学校が「研成学校」であり、青年時代に同志と共に創立したのが「研成義塾」であって、私と研成という名には離れられない因縁があるらしい。そこでこの研成学校と研成義塾のことについて、一つは反省のため、また一つには研成学院のよき成長を祈るために、参考として書いておこうと思うのである。
 研成学校は明治五年の頃、長野県で最初に設けられた小学校であった。私の生れたのは信州安曇郡穂高村の白金という所で、この研成学校は、家から十二、三丁のところにあった。
 私の家は穂高村でもずいぶん古く、家で祀った産土神が現在村の氏神になっているほどで、祖父安兵衛までは代々庄屋を勤め、苗字帯刀御免、相馬という姓から見ても、また家伝の接骨術などあるのを見ても、ただの百姓ではないことは判っていたが、土蔵の梁から一巻の記録があらわれたのは、後に私たちが東京へ出てからのことで、それを発見したのは当時十歳で国許(くにもと)にいた安雄のいたずらの手柄ともいうべく、彼が土蔵の天井裏に這い上って、妙な包み物が梁にくくりつけてあるのを見つけ、それを取り下ろして調べて見ると、それが相馬家の系図であって、相馬は遠く平将門を祖とすることが判り、別に川中島の戦いにおける武田信玄の感状なども添うているところを見ると、私どもの祖先はその時代に武田の客将となって信州に入り、ついにそれが永住の地となったものであるらしい。
 私はそういう家に生れたが、二歳にして父を失い、七歳で母にも死に別れ、長兄夫婦に育てられた。長兄は私より十五歳上、嫂は十歳上であったから、まだ本当の若夫婦で、子供の養育に経験のある筈はない。ただ早く父母に別れた幼弟を憐れがって我が子のように鍾愛し、私が親のないことを不幸だと思ったことは一度もないくらい、それは大切にしてくれたものであった。
 私が十三歳になると、兄夫婦は私の教育を完全にしてやろうと考え、通学に不便なほどの道でもないのに、研成学校の寄宿舎に入れてくれた。費用もかかることであるのに、それを惜しまず兄がこの方法をとったことから見ても、当時の研成学校のいかに名高く、また地元の信頼を受けていたかが分るであろう。地元ばかりでなく、その名は信州全体に響いていたので、遠方から来て学ぶ者が少なくない。それゆえ校舎の二階に寄宿の設けが出来ていたのであった。
 兄はためを思うて入れてくれたのだが、寄宿舎生活は兄が考えていたような理想的なものではなかった。同じ年頃の者が揃うているのならよいが、なにぶん他にこれという学習機関のないその時分のことである。寄宿舎にいるのは私より三、四歳ないし十歳も年長の、もう立派な青年であった。したがって彼らはすでにさまざまな悪習慣をその身に持っている。そして指導者は一向にそれに気付かないのであったから、先生の眼を離れた二階ではいろいろ思いのほかのことが行われた。
 最年少者の私は家を出て最初のこの見聞に驚きながらも、しらずしらずこれが寄宿舎の風かと思うようにもなった。これはまことに不幸なことで、男ばかりの殺風景な寮舎の生活は決して健全なものではなかったのである。
 やがて私は松本の中学校に入ったが、ここの寄宿舎生活も、年少の身にとって決して幸福とはいえるものではなかった。ここでは後に帝大教授となった加藤正治(当時平林)氏など同級で、また先輩としては木下尚江氏、大場又二郎氏などを知り、ことに木下氏とは交遊最も長く五十年に及び、ついに昨年その死を見送ったが、この中学校を私は三年で出てしまった。私は数学だけは校中第一といわれるほど出来たが、英語は全く駄目であった。三年級も終りに近づく頃考えて見ると、どうもこの英語では進級出来そうもない。現級に止まるのはいやだし、面倒くさい、この勉強は飛ばしてしまえという気になり、三月早々退校して上京してしまった。何でもその中学校での思い出の中に、嫂の縫ってくれた赤い裏の羽織を着ていて大いに笑われたことがある。これで見ても中学生である当時の私の幼稚さ加減が判るようだが、兄夫婦は私の願いを容れて早稲田に学ぶことを許し、私は家から二十余里の道を歩いて途中一泊し、碓氷峠の麓のたしか今の横川駅から、生れて初めて汽車に乗って上京した。汽車はまだあれまでしか来ていなかったのである。
 早稲田大学はその時分東京専門学校といい、早稲田の土地も今とは大違いで、一面の田圃、ことに甚だしい低湿地で地盤がゆるく、田の畝を少し力を入れて踏むと四、五間先まで揺れたもので、稲田の間にはところどころ茗荷(みょうが)畑があり、これが早稲田の名物であった。大隈伯の邸宅と相対して、小高い茶畑の丘の一部に建てられたのが専門学校であった。たしか明治十五年創立で、当時は至って入学者少なく、明治十七年第一回の卒業生を出した時は、僅か十二名であったが、私の卒業した二十三年の第七回卒業生は、百八十四名、漸次増加して学校の勢力もまた上がって来ていた。総長は大隈さんで、高田早苗、坪内雄蔵、天野為之、三宅恒徳の四先生が中堅となり、外部から十数名の講師の応援があった。
 名高い坪内先生のシェークスピアの講演の人気は素晴しいもので、満堂立錐の地もなく、自分などは講義を聴くというよりは、シェークスピアの芝居を見せられているように思い、ただただ面白かった。高田先生の英国憲法、天野先生の経済学も呼び物であったが、三宅先生の法律はむずかしくて解りにくい。そこで生徒一同協議して三宅先生の講義を止めてもらいたいと、高田学長へ申し出たことがあった。
 当時私立学校では、いくぶん生徒をお客扱いする傾向があったので、生徒の申し出に対し、先生方には明らかに狼狽の色があり、我々の希望は達せられるものと信じていたのであるが、結果は意外にも天野先生に呼びつけられて、『生徒が先生に対してかれこれいうは不都合である、不満ならば退校せよ』と頭から叱りつけられ、そのままになってしまった。
 運動会に角力を取って五人を抜き、賞として鉛筆一打を貰ったなどの思い出もある。下宿では貸本屋が車を引いてまわって来るので、それをよく借りて読んだ。「佳人の奇遇」「雪中梅」「経国美談」等、おもに政治小説であった。
 同時代に在学した人では、金子馬治、津田左右吉、塩沢昌貞の諸博士および木下尚江、田川大吉郎、坪谷善四郎、森弁次郎の諸氏がある。また宮崎湖處子、安江稲次郎、宮井章景、三原武人の四人は特に兄弟のように親しくしたが、惜しいかな今はことごとく故人となった。
 しかし当時、私に最も大きな影響を与えたのは、学校よりも教会であった。私は早稲田に入ると、その十七歳の夏頃から友人に誘われて、牛込市ヶ谷の牛込教会へ行くようになった。十三歳の春に始まった私の寄宿舎ないし下宿屋生活はまことに殺風景で、いま思えば私はこの間にかなり人間としての自分を枯らしたように思うが、その反対に教会ではうるおいゆたかな雰囲気に浸ることが出来た。日曜日の午前十時から礼拝説教、それから教友らとパンの昼食を済まし、また午後の種々の集まりに出席するのであったが、ここでは年長者は父母の如く、あるいは兄姉の如く、若き者は弟妹の如くで、じつに和気靄々(あいあい)たるものがあった。私は宮崎湖處子、金子馬治、野々村戒三等の早稲田派は申すまでもないが、矢島楫子女史、大関和子、三谷民子女史とも相識り、また基督(キリスト)教界の元老押川方義、植村正久、内村鑑三、松村介石、本田庸一、小崎弘道、服部綾雄等の諸先生にも教えを受ける機会を得た。その他島田三郎、巌本善治、津田仙、山室軍平、また島田三郎氏からの縁で田口卯吉氏に接することを得たのも、この教えに連なった幸いというべきであろう。しかしまた当然の結果として、財界政界の方面には一人の友人をも持つことが出来なかったのである。また当時目白にはかの有名な雲照律師がおられたが、目白と早稲田と目と鼻の間でいながら、私は基督教徒であるため、ついに一度も律師の教えを聴きに行かなかった。今思えばじつに惜しいことをしたものである。その時分の基督教徒は仏教を時代後れとして、全く顧みなかったのである。
 早稲田を卒業すると私は一年ほど北海道に行った。この時分の北海道行きはまるで外国へでも行くようであった。まだ鉄道は青森まで通じていなかったので、横浜から船に乗り、函館を経て小樽に上陸、札幌に着いた。私は月給取りになるのがいやで、開墾最中の北海道なら何か面白い仕事があるだろうと、はるばる求めに行ったのであるが、実際私の目に映った当時の札幌は素晴しかった。内地ではいかに新しくといっても伝統があるから徐々に新様式を盛って行くが、北海道は全くの新天地、すべて米国式に思い切って目新しい。私はここへも教会の縁故で矢島楫子女史からそのお弟子の藤村頴子女史に紹介をもらって行ったのであった。女史は札幌の北星女学校に教鞭を取っておられたが、私はかねて津田仙氏、安藤太郎氏などの禁酒運動に共鳴して禁酒会員となっていたから、さらに女史とその夫君藤村信吉氏の紹介で、北海道における禁酒会長の伊藤一隆氏その他の人とも親しくすることが出来た。
 さて滞留一周年の実地見学で、私はいよいよ北海道が将来有望の地であることを信じ、とりあえず相当の土地を札幌郊外に購入することを思い立って、出資を郷里に求むべく大いに望みを抱いて帰郷した。
 しかしその話は郷里において長兄の賛成を得ることが出来ず、したがって私はそのまま郷里に止まるほかなかった。長兄夫婦には子供がなかったので、私を相続人に定めていたし、当時は北海道といっても田舎の者には想像もつかず、とにかくあまり遠方だからとて、ついに問題にならなかったのである。
 私はこの一年の北海道滞留中に、雇われることの嫌いな人間が、妙なことで至って不面目な給金取りの経験をした。それは札幌市内の桑園という土地で、信州出身の金子氏の家に客となっているうち、北海炭鉱会社の社長が、大邸宅を営造するに際し、大木を他から移植するために、三十人の臨時雇いを金子氏が頼まれた。ところがその人夫は二十九人まで出来て、あともう一人が急のことで間に合わない。そこで金子氏が折入っての頼みで、私はそこへ顔だけ出すことになった。むろん何の役にも立ちはしない。大木の後に取りついて、大勢と一緒にヤーと掛け声をするだけで、日給三十銭也の分配に預ったのである。当時札幌では手不足のため、どんな無能の者でも顔さえ出せば三十銭から三十五銭の手当をもらえたもので、この臨時雇いを出面取りといっていた。すなわち面さえ出せばよかったのである。当時の三十銭は今日の二円くらいに当る。とにかく六十九歳の今日までに、私が人から給金をもらったのは、後にも前にもこの時の三十銭限りである。

 郷里に帰って私は養蚕の研究をした。当時生糸の海外取引は非常な勢いで、年々増加するばかりであった。したがって養蚕は盛んで、これまで下々の下国といわれた信州も、養蚕でにわかに一王国を出現したかの観があった。しかし養蚕の方法に至っては、これに関する書もすでに百種くらい現れていたが、大同小異、特にこれはと敬服されるものもなかった。そして残念なことに私がこれらの書物によって教えられた養蚕は失敗が多く、期待していてくれる家人に対しても毎度面目ないことであった。私はこの不充分な研究書に愛想をつかしながらなおも良書を探していると、福島県の人半谷清寿氏著の「養蚕原論」があらわれ、私はこれを見て初めてここだなと肯くところがあったのである。
「養蚕原論」にヒントを得た私は、改めて根本的に研究し直すことを思い立ち、それから西は遠く丹波まで、また北に東に名のある養蚕地を訪ねて見学し、福島県では菅野、丹治、群馬では深沢、田島等の諸氏を訪問して直接教えを受け、その他多くの古老に質し、他方実地の研究も進んで確信を得たので、これを著述し、「蚕種製造論」と題して、田口卯吉氏の経済雑誌社から出版したことは前に述べた通りだ。(菊版百九十頁、定価五十銭、明治二十七年二月発行)
 ついで「秋蚕飼育法」(四六版八十頁、定価十五銭)を著し、友人竹沢章氏の蚕業新報社より発行したが、これは五万部も売れて、あれを読んでお蔭で好結果を得たといって礼状もたくさん来たし、わざわざ遠く九州辺りから私のところへ講習を受けに来た人も少なくなかった。私はその後養蚕から全く離れてしまったが、今でも養蚕の話を聞くと旧友に会ったようななつかしみを感ずるのである。

 蚕種製造家として郷里に落着くとともに、私の周囲には自然近辺の青年たちが集って来るようになった。都会に憧れ、新しい知識を求めてやまぬ田舎の若者たちにしてみれば、私が東京の学校を卒業して帰ったというだけで充分興味があったのであろう。私はこれらの青年に基督(キリスト)の話をし、禁酒をすすめた。若者たちはみなよく聴いてくれて、彼らはついに畑仕事の間にもふところに聖書を入れているまでになった。
 信州は維新当時廃仏毀釈の行われた所であるだけに、外来の新宗教の入り易い点があった。近村にはすでにメソヂスト派の牧師がおり、土地で名の知られている青年三沢亀太郎氏もすでに信者になっていた。私はこの三沢氏とともに牧師を援けて伝道演説をするようになり、寒い夜でも彼方の村此方の村と集まりに出かけて、ずいぶん熱心に説きまわった。また禁酒会を起し、会員数十名に上り、自分がその会長になった。これには内村鑑三先生や山室軍平氏なども応援演説に来会され、心から共鳴する青年が続々とあらわれて、中でも第一に殉教的熱情を示したものに井口喜源治氏があった。
 井口君は中学校での同級生で、当時穂高小学校の首席訓導であったが、彼の信仰はついにその教え子に及び、荻原守衛その他の生徒が信者になった。最初冷静に見て居った校長もこれに驚き、生徒が学校に来て基督教になるようでは父兄に対して相済まぬというわけで、井口氏を他校に転任させようとした。そこで井口氏の辞職となり、我々友人は井口氏を他村に送るに忍びず、また学校の態度にも憤慨したので、村の有力者臼井喜代氏や長兄安兵衛その他の有志と力を合わせ、新たに井口氏を推して研成義塾を設け、町村とは全く独立した高等科の単級教授を開始したのである。時は明治三十一年の秋、私も井口氏も同じ二十九歳であった。

 さて井口君はこの研成義塾を守って、去る昭和七年の十月病いを得て退くまで、じつに三十五年間全く一日の如く奮闘した。村の子供の多くは穂高小学校の尋常科を終るとそのままそこの高等科に残り、特に理解のある家の子弟だけが研成義塾に入った。私の長女の俊子なども高等科の課程はここで受けたのであった。
 そんなわけでむろん生徒の多かろうはずはなく、研成義塾の経営は初めから楽でなかったが、井口君は毅然として塾を守り、自分の理想とするところの教育を、信ずるままに行い来たった。井口君は厳粛な基督教徒であるとともに、一面また文学的で、かの正岡子規の流れを汲み、それが塾の教育にあらわれて、生徒の中には文芸美術を愛する者が多く、ついに芸術に身を捧げて世に知られたのは荻原守衛(碌山)であった。その他なお二、三その道に志した者があるが、現在評論家として聞える清沢冽氏、朝日新聞の久保田栄吉氏も、少年時代は研成義塾に学ばれたことである。
 井口氏は最初そういう事情で独立したのであったから、教育界からは一種の反逆児として見られ、世間一般からも甚だしく毛色が異って、円満に迎えられることが出来ず、社会的経済的に苦しめられたことは想像以上で、全く気の毒な有様であった。けれども一方、基督教界の人々には一個の英雄として尊敬され、内村先生なども氏を明治の中江藤樹、信濃聖人とまで賞讃されたものであった。
 私は井口君がその一生を通じてこの信念に専らにして、少しも遅滞するところなかった勇猛心に対して、心から敬意を捧げるものであるが、君をしてかかる不遇の生涯を送らしめたその源はといえば、自分が基督教と禁酒主義を故郷に移し入れたに因(よ)る。私はいまこれを思うてじつに感慨に堪えぬのである。
 当時の基督教は全く亜米利加直輸入で、我が国情の異なるままを疑いもせず行おうとした。私は基督教が日本の文化に与えた功績を決して見落すものではないが、これを丸呑みにしてことごとく欧米の風習通りに遵(したが)わねばならぬとした宗教界の先輩や牧師等の不見識は、玉に疵の憾みなきを得ない。
 前に、内村先生が中村屋の日曜休業を勧められたところでも述べたが、あれほどの先生ですらこの宗教の前にはやはりこの丸呑みをあえてして、選択の自由を失っているかの観があったのである。日本人としては根本的に首肯し難い、そして単に一つの風習にすぎないようなものでも、宗教の一要素である如く考えるところから、基督教に殉ずるためには信者はじつに世間を狭く、郷党や知友との反目も余儀なくさせられたものがあったのである。
 井口氏を初めとして、この塾に学んだ生徒およびこれに接近した人々も、宗教に対する勇猛心よりとはいえ、しらずしらずこの弊に陥り、世間から疎外され、いよいよ塾の存立を困難にさせられたのはじつに悲しむべく、いたましい次第であった。塾の卒業生前後およそ四百人、その大多数に対して、自分はじつに気の毒なことをしたと思う。自分は早く故郷を去り、基督教のこれらの慣習に対してさほど執着するには至らなかったが、井口君が病んで倒れるまでその信ずる所を変えなかった。今や報わるるところ少なく、戦い疲れて病いに臥すこの老友に対し、私は特に責任の大なるを感ずるのである。
 人のために善しと信じてしたことが、後になって意外の結果を来たす例は、私と井口君のことぱかりでなく、じつに世間に多いのである。いま私は中村屋に多数の若き人々を預り、これを思い出して責任を感ずることいっそう切である。中村屋が諸君の商業道場たることに万が一にも誤りあらば、諸君に対し、また父兄に対し、私は何と詫びることが出来るか。
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