一商人として
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:相馬愛蔵 URL:../../index_pages/person1148

 警察側がただ一人の盲人を連れ行くために、夜中三十二名の警官を動員したなどは全く常識の沙汰でないが、これはボース事件の記憶からこのたびも私がエロシェンコを匿しはせぬかとの疑念から出たものであったろう。しかしそれとこれとは全然問題の性質が異い、エロシェンコに対しては私は最初から国法に服従せしめる方針をとり、その態度は自ずから明白であったのである。ただ警察は疑心暗鬼にとらわれたのであって、思えば黒葛原氏も気の毒なことであった。
 ボース事件も、この黒葛原氏が麻布署長の時代であったというが、同氏と中村屋とはよくよく因縁が深かったものだと思う。

    月餅の由来

 月餅も支那饅頭もこの頃では世間に広く行き渡ったが、私は先年支那に旅して初めてこれを味わい、支那みやげとして売り出したものであった。
 私が妻と支那見学に赴いたのは、昭和二年十月、ちょうど新宿に三越支店が乗り出して来た秋であった。当時支那は張作霖の全盛時代で、幣原外相の軟弱外交に足下を見透かされてか、日本人は至るところで馬鹿にされていた。私が奉天北京間の一等寝台券二枚を求めると、その一人分の室は満州兵のために横領され、我々両人はその一夜を寝ずに過ごさねばならなかった。もっともこんな目に遭ったのは我々ばかりでなく、白耳義公使が北京郊外の明の十三陵見物に行って、匪賊(ひぞく)のために素裸にされた事件もこの当時であった。
 そんなわけで、我々がぜひ見たいと思って行った大同の石仏も、そちらはことに危険だからと留められて、ついに見ずじまいで帰って来たが、北京では坂西閣下や多田中将(当時中佐)の斡旋で、宮殿も秘園も充分に見学し、僅かな日数ではあったけれど、とにかく老大国の支那というものの風貌に接することが出来たのは幸いであった。
 この北京見物においても私の興味を惹いたのは、北京城内にある大市場であった。南北二十五町、東西十町ぐらい、その広大な地域に数千戸の商店が軒をならべ、市民の生活に必要なものはことごとく揃っており、各種の遊戯場、温泉、料理店、全くお好み次第の盛観で、しかもこの地域には雨も降らず、風も吹かず、煩わしい馬車の通行もないのであるから、これは全く平面的大百貨店であった。
 当時この市場の近くに、近代的な高層建築の百貨店が出来ていたが、この方は至って淋しく、この大市場は殷賑(いんしん)を極めており、興味ある対照をなしていた。
 聞けばこの市場の販売力は、北京住民の必需品の約四割を占めるということであったが、その偉観には私も思わず驚嘆の声を発した。当時私は小売店の死命を制する百店貨に対して真剣に研究を進め、百貨店視察のために欧州に行く前でもあったから、特にこの市場に注意を惹かれたのであった。
 この旅中に日本人の一喇嘛(ラマ)僧に会い、支那では古来八月十五夜に「月餅」と称する菓子を拵え、これを月前に供えるとともに、親しい間に盛んに贈答が行われるという話を聞き、何となく彼我風俗の相似するのを感じて、我々はこの新菓をばこの旅行記念として日本への土産にしようと決めた。日本の十五夜に支那の月餅を売る、これもいささか日支の間に融和を図るものではあるまいか。
 ここに月餅の由来につき興味ある話があるから、少しこれを語ろう。
 明の時代のこと、蒙古から支那に伝来した喇嘛(ラマ)教が盛んになって、喇嘛僧の勢力が増大するにつれ、弊害百出し、社会を毒すること極度に達した。心ある人々これを憂い、饅頭の中に回章を秘めて同志の間に配布し、八月十五日の夜志士ら蹶起(けっき)して喇嘛僧を鏖殺(おうさつ)し、僅かに生き残った者は辛うじて蒙古に逃れ、支那には全く跡を絶った。しかし冠婚葬祭のすべてを喇嘛教の宗教的儀式によって行っていた長い間の習慣はなかなか消えるものでなく、秋至り十五夜を迎うるごとにいまさらの如く彼らをしのび、また回章を封じて配った饅頭の故事を記念して年々この菓子をつくり、贈答するに至ったもので、明月に因んでこれを月餅と称したのであるという。
 中村屋でも初めはこれを八月の一ヶ月だけ売ることにしていたが、一方支那饅頭の好評とともに、月餅を愛好される人も年々増加するので、その希望に従い、今では年中製造して売ることに改めたのである。
[#改丁]

 若き人々へ

    借金繰りまわしの苦心

 ここで私は少し中村屋創業時代の資金のことについて考えて見たい。『資金さえあればどんな仕事でも出来る』とは人のよくいうところであるが、幸いにどこからか資金が得られたにしても、金には利子がつく。また元金も漸次返却せねばならない。ところが利子も払い元金も返してなお利益のある仕事というものはきわめて少ない。何の仕事にしても、資本を借りてやっていくことはなかなか容易ではないのである。
 前にも記せし通り私が、本郷で中村屋を譲り受けた際には、友人望月氏から七百円を借り受け、それに子供の貯金三百円を加えて、都合一千円を資金として商売を始めたのであるが、幸い成績が悪くなかったからそれ以上の金融を必要とせず、国元からはいささかの補助も受けずにやり通せたのである。
 その後新宿に移って、今の土地を三千八百円の権利で譲り受け、そこへ今日中村屋の誇りとする欅柱の純日本家屋(新宿足袋屋の店)を譲り受けて追分から移し、裏手にパンと日本菓子の工場を建て、食堂、湯殿等も増築しておよそ三千円を費した。これがすべて借金になったことはいうまでもない。
 いまその借金を一々説明する要もないが、とにかく営業の進展とともに流動資本なども大きくなり、やむを得ず家屋を担保として銀行から借りねばならなかった。
 私は高利の金を使っては営業は立ち行かないと考えていたので、一割以上の利子は払わない方針であったのだが、保険金の内借りまでしてまだ足らず、ついに銀行から一割二分の利子で、ほかに借入れ手数料二分、期限の借換えの時に踊りと称して一ヶ月分の利子を取られたので、合計一割五分の高利を払って借金した。
 この高利には閉口した。ほかに預り金と貸家の敷金と、併せて九千余円の借金になった。この時のことである、私は国元へ墓詣りに行くと、父が八分の利子で人に金を貸している。それまで私は一度も父に金の話をしたことはなく、父もまた我々にいっさい干渉しなかったのであるが、なにぶんこちらも苦しんでいる時なので、父が銀行の高利な借金でも融通してくれたらと思い、話をして見た。すると父は、借金が九千円もあると聞いて驚き、『田舎の貴い金を、危い東京などに融通することは出来ない。ただしお前たちが東京でやりきれなくなった時は、何時でも帰って来るがよい。私は両手を開いて迎えてやるから』
 と、まことに父の言葉に無理はないのであった。私は親に対してよしないことを言ったものと後悔し、その後は金の話はいっさい耳に入れぬことにした。しかしその苦労はじつに一通りでなかったのである。幸い店の方は日に日に売上げを加えて行ったので、どうやらこの危機を脱することが出来たが、今思えばもしこの時田舎の父が、よしよしと言って金をまわしてくれたとしたら、おそらく気もゆるんで、かえって後に悔を残すことになっていたかも知れぬのである。(私は順養子となりしゆえ兄を敬して父と称す)
 私はこうして借金に苦心惨憺であったが、店はお蔭で繁昌していたから他人にはそれが判らず、余程の利益であろうと想像して、助力や借金を申し込む者が相当あって困った。内実この有様であるからやむを得ず拒絶すると、それらの人々の中には不人情だとか守銭奴だとか悪声を放つ者もあった。
 もう一つ忘れることの出来ないのは、友人某氏が手許に遊んでいる二千円を一割の利子で融通してくれた。私はその好意を感謝して期限も定めずに借りた。すると僅か二ヶ月ほどで、彼はその金を二割で貸し付けるところが出来たから即刻返してくれという。あまりに突然のことで、それは出来ないとはねつけると、
『俺は利子を普通二割取っている、それを君に半額に融通したのは、こちらで要る時にすぐ返してもらいたいと思ったからだ』
 と言って、妻にまで返金を強要するので、私もせん方なく、八方金策して一千五百円を集めたが、残り五百円はどうしても出来なかったので、友人望月氏に一時の融通を乞うた。
 しかしただちに私は望月氏に頼んだことを後悔した。望月氏は逼迫(ひっぱく)していた。にもかかわらず氏はこの申し出を快諾して、ただちにその五百円を調達してくれたのである。お蔭で急場を救われたものの私は氏の都合が気になって後で訊くと、
『いや、あの金は日歩十五銭(年利五割五分)の高利貸の金ですよ。あなたには毎度融通してもらっているから、たとえ日歩三十銭払っても日頃の好意に報いたいと思ったのですよ』
 望月氏は新聞配達業で金融にはずいぶん苦労していて、私もその窮状を見かね、氏には中村屋創業当時の恩義もあるので、およそ三ヶ年にわたって毎月末相談に応じて来たのであったが、私はいまこれを聞いて望月氏の誠意に涙をおぼえるとともに、よくよくの場合とはいえ、それほどまでにして金策をさせたかとじつに気の毒に堪えなかった。またこれによって、望月氏が常に日歩十五銭もの金を使って仕事していることを知り、ああ彼はこの高利のために生命を縮めるのではないかと歎息したが、果たして氏はついに病いに倒れた。私は若き人々に前者の轍を踏ませたくない。無理な金を使って仕事をすることは固く戒めなくてはならない。

    店舗の改造は考えもの

 現在中村屋では毎日八、九千人のお客を迎え、販売部に製造部に喫茶部に二百七十人のものが懸命に働きつづけてなお手まわりかねる有様であって、わざわざお出向き下さったお客様を毎度お待たせし、御迷惑をかけることの多いのを見て私はひそかに恐縮している次第である。店員諸子がこれではならぬと思い、店を改造し、手をふやし、千客万来に備えて遺憾なきようにしたいと希望するのも、まことに道理(もっとも)のことであり、主人として諸子の熱心を深く感謝する次第である。
 しかも私が諸子の熱望を制して、店舗改造拡張のことを実現するの道に出ないのは何故であるか、改めてここに思うところを述べ、諸君にも考えてもらいたいと思うのである。
 我々はまず、今日世間で中村屋中村屋と推奨して下さって、日々こんなに大勢買いに来て下さることを、真実に有難く思わなくてはならない。もとより店の発展は一朝一夕に招来されたものでなく、そこには三十七年の歴史があるが、しかもその長き年月の間には、努力しながら衰微して行った店も少なくないであろう。それを思えば中村屋はまことにもったいない幸せである。こうして共存共栄を願望すべき小売店として、一軒があまり大を成すことは考慮すべき問題ではなかろうか。
 我々のこの想いはすでに昨年末、ちん餅の価格を定める時にも問題となり、ようやくその一端を現したようなことであった。すなわち中村屋の餅は最上の新兵衛餅ひとすじであって、一般向きに備えているのではないから、御註文下さるのも自ずからきまった範囲のお得意である。これは餅に限ったことでなく、何品でも中村屋の製品はなるべく一つの分野に止め、他店の領分を侵さぬ方針なのである。しかもそれでも歳末のちん餅が比較的安く、そのため近所同業に迷惑を与えるというのでは、考えなくてはなるまい。そこで昨冬は、のし餅一枚につき一般の店より売価をおよそ十銭高くなるようにつけ、その代り目方で気を付けておいたようなことであった。
 ちん餅一つにしてもこれだけの心配りを要するのである。ましてこれ以上に店を拡張したり支店を設けなどして、今日以上の客を集めることは考えてはならない。かつて自分は大百貨店の脅威に対して、小売店として同志に呼びかけ、対抗策を極力主張したものである。どこまでも一小売店としての分に止まり、同業小売店と繁栄のよろこびを共にしてこそ本懐である。
 次に今日の繁昌は、ひとえにこれを社会一般の恩として感謝すべきであって、これをさらに明日においていっそうの期待を予想する不遜は許されるべきものではない。盈(み)つれば欠くるという。なおも店の拡張を計って天の冥護に離れ、人の同情を失えばどうなるか。思いをここに致せばなかなか現状の不自由等をかこつべきではないのである。
 さらに経済の実際より見るも、店を改造するには少なくとも三十万円を必要とする。また販売部を拡張すれば製造場も同時に取り拡げざるを得ず、これがためにさらに二十万円くらいの資金を要し、合計五十万円にも及び、その金利と償却、新たに嵩(かさ)む照明費と税金、使用人の増加等を計算する時は、今日の売価をおよそ六、七分方引き上げねば収支償うことができないのである。それではお客様へ行きとどくようにと思うての改造が、かえって負担をおかけする結果となり、まずそこから中村屋の商売の合理化は崩壊し始める。売品が高価となるからはそれに伴うサーヴィスとして、百貨店などのように遠方まで無料で配達するなどのことも必要となり、経費はいたずらに嵩むばかりで、経営に無理があればそれは必ずお客様に映じ、わざわざお出向き下さるお客も次第に減ずるであろう。よく売れていた店が広く堂々と改造され、面目一新してしかもにわかにさびれる例は、世間にあまりに多いのである。
 なおまたこれを店員全体の連絡の上からみても、好ましくない結果が想像されるのである。これまで中村屋では毎年二十名ないし三十名の新店員を迎えて来たが、これを十年二十年と続けて行ったならば、その多数の者の将来に対し、果たしてよく教育しまた遺憾なく指導することが出来るであろうか。現在だけの人数でさえ、その個々の人物性格を詳しく知ることは困難で、主人として欠くることの多いのを、その父兄に対し当人に対し申し訳なく思うているのに、さらに大勢となってはしらずしらず不行届き不親切となるのを免れまい。また多額の負債を負うて経営に無理が出来れば、その待遇を次第に改善していくことも難かしくなるわけではないか。
 以上、自分が改造を望まぬ所以(ゆえん)の大体を述べたが、なお細部にわたっては改めて語ることにしよう。

    売上げに対する家賃の程度

 商売と家賃の関係について考えて見る。
 商売をするには適当な場所を必要とし、その場所を得るためには相当の資金が要る。私のいう家賃とは、この場所を手に入れまたそれを維持するための費用であって、必ずしも家主に払う家賃に限るわけではない。例えば諸子が独立するとして、まず商売の発展しそうな場所を探し、そこに適当な借家をみつけて借り受ける。そうして月々家賃を払い店を経営して行くのであるが、借家によらないで最初から自分の家を持ち、いわゆる家賃というものを払わないで済む場合もあるであろう。しかしその場合も家賃を払わない代り、家屋の建築費およびその利子、地代、諸税、保険料を合算するとほぼ家賃と同額になる。いずれにしても家賃だけのものは要るのであるから、私は借家であると持家であるとによらず、商店経営の中のかなり重要な部分を占めるこの費目を等しく家賃として計上することにしている。
 売上げの金高に比較して家賃が高いと商売がやりにくい。実際家賃は商品の売価にそれがかかって行くので、いかに勉強したくても高い家賃を払って安く売ることが出来ない。『あの店のものは高い』と言われるのはそこで、客足少なくついに店は維持出来なくなる。表通りの堂々たる店に案外客が少なく、裏通りや狭い路地に意外に繁昌する店があるのは、みなこの家賃の多少に原因するのである。
 それゆえ商売をするには売上げに対して比較的家賃の安いことが大切で、家賃が安ければ安いだけ経営が楽なわけであるが、なかなかそう好都合にはいかない。ではどの程度の家賃なればやって行けるかということになるが、私はまず一日の売上高で、一ヶ月の家賃を支払えるくらいのところを適当と考える。すなわち売上げから言えば三分三厘を家賃に当てるのであって、この程度であれば売価に影響するほどのことなく、尋常に営業していくことが出来るのである。もっとも喫茶店などは少しく事情を異にし、売上金高が小額でしかも相当華麗な室を設備せねばならぬのであるから、その装飾費を含む家賃は売上げの三日分くらいを要することになるであろうし、これに反し売上金高が莫大で、しかも店に装飾の必要なき卸問屋などでは、売上げの百分の一以下の家賃で済むことになるであろう。しかしそういう商売は別として、普通の小売商で営業の成り立っている店なれば、その売上げ一日分と一ヶ月の家賃はほぼ同額、または売上げ以下で家賃が済んでいると見てよかろうと考えられるのである。
『初めのうちは辛抱が大切だ、辛抱して勉強してさえいれば次第に信用がついて売れるようになる』とは誰でも開業当初に思うことであるが、仮りに百円の家賃を払うて営業し、売上げが一日僅か三十円くらいよりない場合には、家賃が売上げの一割一分につくこととなるから、とうてい将来の見込なきものとして覚悟せねばなるまい。しかし百円の家賃で一日百円に近い売上げがあれば店は充分に成り立ち、さらに同じ家賃で売上げが少しずつでも向上して行くようになれば大いに有望で、もしその売上げが二百円にも達するならば、家賃の負担は著しく軽減して、僅かに売上高の一分七厘にすぎなくなり、それだけ商品を勉強することが出来て、その店はますます発展することになるのである。
 さて心得ねばならぬのは、店がどれほど繁昌するようになった後もこの原則は変らぬことである。繁昌するからといって店を壮大に拡張し、いわゆる家賃の負担が重くなれば、それはただちに商品に影響し、したがって店は下り坂となるであろう。すなわち改築の要迫るといわれる中村屋は、いまこの自戒すべき時に立っているのである。
 顧みれば三十七年間、我が中村屋の過去いろいろの時代について、売上げと家賃の大略をあげてみると、本郷時代の中村屋は間口三間半で家賃十三円であった。それで売上げは店売およそ八円で、配達と卸売りで五円、合計十三円でちょうど家賃と同格、新宿移転時は間口四間で家賃二十八円、売上げは一日二十五円ないし三十円であった。
 新宿移転後一年で現在の場所に移り、初めて自分の家を持ったが、間口五間、奥行二間半(十二坪半)、同時に日本菓子の製造を始めたので、売上げは一躍して七十円に上った。しかしこれまでの家賃に代るに地代十六円、建築費やその他の利子、家屋税、保険料を合算してやはり七十円ぐらいであった。
 ここでは初め売上げに比して店が少々広すぎるぐらいであったが、その後売上げが漸次増加して甚だ手狭を感じるようになって、改めて奥行を三間半に拡張したが、店はいよいよ忙しくなって、拡げた所もじきに狭くなり、事情に応じて半間あるいは一間と奥行を延ばして行き、間口も五間を七間として、都合六、七回にわたって十二坪半から五十坪まで漸次建て増し、ある時は改造後ようやく六ヶ月でさらに改造の必要に迫られたことなどもあった。友人等は私のやり方があまりに姑息(こそく)で、かえって失費の多いことを指摘し、どうせ拡げるものなら将来のことも考えて、一挙に大拡張してしまってはと忠告してくれたほどであったが、私はこれには従わなかった。店が急に広くなってお客様がさびれ、ガランとしてしまう例はいくらもある。後から後からお客様で満たされる店の賑わいを当然であるかのように思い、建築費を節減しようとしてはるかの先を見越しての改築は後悔を招く場合が多い。私はこう考えていたので、その後もやはりお客様の増加に応じて少しずつ拡げて行き、再々増築の手数と費用を我慢したことであった。
 その後大正十二年、売上げ一ヶ年二十万円(一日平均五百余円)を見る頃になって、税務官との間に意見の相違を来たし、私個人の店を株式会社に改め、会社から家賃五百円を受け取ることにした。すなわち三分三厘に当る。
 最近には売上げもさらに増加して一ヶ月十八万円に達したが、家賃は四千五百円であるから二分五厘となり、すなわち八厘方格安となった。それだけ得意に対し勉強し得ることとなったのである。

    店の格を守る

 私は経済の点をしばらく離れて、店の「格」というものを考えて見る。人に人格のある如く、店にもいつとなくその店の「店格」というものが出来ている。この店格なるものについては、別に根本的に言って見るつもりであるが、とにかくここではその店の持前持味とでも解釈しようか、一つの商売を大切に護って相当年数を経て来た店というものは、長い間にその店独特の気分をつくり出しているものである。
 店の格などというと、階級的な意味に聞えるかも知れぬが、私が言うのはそれではなく、繩のれんには繩のれんの味があり、名物店には名物店の趣きがあり、扱うところの製品を主として店主の気風も自ずからそこに現れ、長年愛顧のお得意の趣味好尚に一致する何物かが、その根底に血脈をなしていることは争われぬのである。すなわちその店特有の空気というか色というか、それはどこがどうと言いようのないものではあるが、天井にも柱にも看板にも、あるいは明りの具合一つにも、きわめて自然に感じられる一種の馴染(なじみ)深さである。
 私はこの、古い店が持っている馴染深さ心安さを大切にせねばならぬと思う。もとより古い店の構造には今日から見て物足らなく思われるものがたくさんある。例えば現在三階を持つ中村屋にエレベーターのないことなども、あるいはその一つに数えられるかも知れない。このエレベーターのことも後でいうが、大勢おいで下さるお客様に店内が狭くて御迷惑をかけるということを第一として、我々はじつにその足らぬもの欠けているものを切々と感じ、それをも厭わずわざわざ中村屋に来て下さるお客様に対してこれではならぬと、改築の希望も出るのであるが、我々はここでもやはり分を忘れてはならぬのである。経費の点はしばらく措くとしても、大規模に改築すれば、この店が長い年月を重ねて徐々に恵まれたこの賑やかな雰囲気は失われてしまう。
 むろん新しく出来るものは、古くからあるものよりどんなに進んでいるか知れない。例えば照明のこと、ショー・ウィンドーの設け、売場の作り方、ケースの高さ等々研究の至らぬ方もなきこの頃である。下手なものの出来る筈はなく、改築とともに店は必ず見違えるほどの立派さ晴れがましさになるであろう。現にあちらでもこちらでも古い店が次第に改築されて、明るいモダンな構えになり、混雑して狭かった店が拡張されて綺麗に片づき、店員の手もふえ、用意万端整うて立派になりつつあるのを見受けるのである。
 けれどもその立派になった店構えが、妙によそよそしく感じられ、入口が何となく入りにくく思われたりするのは何故であろうか。むろん商売にもより、改築の効果大いにあらわれ整然として品格上がり、いっそうそれがお得意の好みに適するという場合もあるが、我々のような小売店で、しかも菓子屋のような商売は店頭の入り易いことが第一、たとえ雑然としていても、年中平均した賑わいを店内に持っていることが大切なのである。その点中村屋のような和風建築は、間口がことごとく開放されていて、たとえ手狭であっても全体としてはまだまだ寛濶な感じで、出入りし易いのではないかと思う。古い構えを長年守って来た老舗が入口の狭い洋風建築に改造して、売上げを半減したという話も耳にしたことである。
 じつにこの店構えというものは、床の高低一つでも大きな影響を及ぼすものであって、店の床は道路面から少しく爪先下りくらいになっているのが入り易く、また内の商品も床の低い方が賑やかに見えるなど、いろいろ微妙な点があり、古い店ではこの消息が自然に体得されており、目立たぬところに完全な備えが出来ていて、一つのいわゆる福相となって潜在するのである。ところがそういう店でもいよいよ改造という段になると、当然近代の新様式を取り入れるため、長い間に調うていた呼吸が破れ、たとえば地下室を造る必要上、床が路面より高くなって入りにくい構えになるなど、その他種々思わしからぬ個所が出来て、外見は立派になりながら人好きのせぬ店になり、一つには店内あまりに整然として広さが目立ち、お客の姿が急にまばらに見えるなど、改造とともに一頓挫を来たした形になる例が多く、しかもいったん改造し拡張してしまったものは、もう取返しがつかぬのである。
 さてこう述べてくると私の改築反対は著しく消極論のように聞え、諸君の盛んな意気に反する感があるかも知れぬが、私は決して消極的でも何でもなく、どこまでも内容の積極性を失わざらんがために、勢いにまかせて外形だおれに陥ることを避け、大いに自戒するのである。
 再び例をもっていえば、繩のれんの一杯茶屋の繁昌はどこまでも繩のれんの格においてのみ保たれるのであって、長年労働者を得意として発展した店が、財力豊かになって来たからとて、急に上流向きの立派な店構えに改築して、それで得意を失わずに済むものではなく、またにわかにかわって上流の客が来るものでもない。外観の整うたのに引きかえて内実が衰微して行くのは、むしろ当然のことと言わなくてはならない。と同時に上流向きの店は上流向きとしての格相応な構えがなくてはならぬであろう。同業の中に見ても、宮内省御用の虎屋には虎屋の構えがあり、また虎屋なればこそあの堂々たる城廓のような建築になっても商売繁昌するのであって、一般民衆相手の菓子店がもしも虎屋を真似たならば、おそらく客は寄りつくまい。中村屋は中村屋相応の格を守り、決して調子に乗ってはならない。

    商品の配達に要する失費

 店を改築して経費が嵩(かさ)めば今のように安く売ることが出来ず、売価が上がればそれに伴うサーヴィスとして、百貨店などのように無料配達の必要も起って、いよいよ経営の合理化に遠ざかることをすでに述べた。そこでこの配達費というものは商店経費の中のどのくらいの割合を占めるものであるか、少しこれについて考えて見よう。
 中村屋が無料配達を廃止したのは今から十年前のことであって、それまで開業以来ずっと無料配達のサーヴィスをしていたものであった。私の経験によると店頭売りの場合には店員一人で一日百円の商いをすることはさほど困難でないが、近まわりのお得意だけでもお届けすることになれば、その三分の一すなわち一人が三十円を売るだけのことも容易ではないのである。
 また遠方までお届けすることになると、さらに三倍くらいの時間と労力とを要する。そこで小店員一人の日当を二円と見ると、店頭売りの場合はその人件費も売上げの百分の二にすぎないが、近隣配達には百分の六となり、遠方配達にはじつに百分の十八となって、ほとんど利益の全部を配達のために失うこととなるのである。
 しかもこの百分の十八は、自転車や電車によった場合の計算であって、近頃のように配達の敏速を希望して自動車を用いることになると、さらに費用は倍加し、売上金高の三割以上を割(さ)かれることになる。自動車はフォード級の普通車を使用してすら、その買入費の消却と、その金利と税金、運転士給料、車庫料、消耗品とガソリン代等を合算すれば、一日当り平均十二、三円となる。中村屋の経験では自動車の配達能力は一台一日六十三軒のレコードもあるが、一ヶ月を平均すれば二十四、五軒にすぎないから、これに十二円を割り当てると、一軒当りの配給費はまさに五十銭である。それゆえ御註文品の金高があまりに小さい時はお断りするほかないことになる。現在百貨店が配達網を八方に布(ひ)き、また遠方には配給所を設けて、専らその合理化につとめていても、なおその費用の莫大なのに当惑しているときくが、まことにさようであろうと案ぜられる。
 しかし一般個人店では、まだそれほど配達の必要少なく、したがって経費に悩まされた経験がないため、遠方からの註文に接すると店の光栄として、僅少の品でも喜んで配達するようであるが、もし詳細に計算したならば、利益以上の経費を負担して損失となっている場合が多いことと思う。
 私が欧州を視察したのも早や十年の昔となったが、パリ、ロンドン、ベルリンなどの都市で、牛乳が我が一合当り邦貨三銭であった。当時日本では一合五銭ないし十銭、平均七銭というところであったから、物価の高い欧州に来てどうして牛乳だけがこう安いのかと不審に思うたことであった。しかし調べてみるとあちらでは牛乳はほとんど軒並みの需要で、しかも一戸当りだいたい一リットル(五合五勺)という好条件であって、各自近傍の得意を守り、遠方への配達をしない。少し離れたところに住むと、毎朝こちらから買いに出かけねばならぬのであった。私はこれを見てなるほどと思った。これだから配達費がごくいささかで済み、その安値で売って成り立つのであった。僅か一合の牛乳を遠方まで配達する日本の牛乳屋の不合理がいっそうこれで肯かれたのであった。数字にして比較して見ると、
欧州                    日本
一人の配達およそ一石            一人の配達およそ一斗
   (リットル入り百八十本)             (一合入り百本)
            円
原価 (一升二十銭) 二〇・〇〇        (一升二十銭) 二・〇〇
一人の給金       五・〇〇                二・五〇
 計         二五・〇〇                四・五〇
売上げ(一合三銭)  三〇・〇〇        (一合七銭)  七・〇〇
 差引収益       五・〇〇                二・五〇
 牛乳のようなものでは、配達料は経営費の大部分を占めるのであるから、この費目の軽減を計ることが経営上最も必要なことであった。そこで中村屋も開業以来の無料配達を改め、現在のように規定したのである。
一、近隣以外はことごとく配達料を申し受けること、但し牛乳は近隣といえども大瓶(二合五勺)三銭、小瓶(一合一勺)二銭の配達料を申し受ける。二、旧市内は電車賃往復分十四銭を申し受ける。郊外電車も同様で、乗換接続の場合は、双方の合計を申し受ける。三、金額五円以上の御註文はサーヴィスとして旧市内無料、但し郊外で電車賃十五銭以上の所は十四銭を差し引き、残額だけを申し受ける。四、配達は午前午後と各々一回とし、午前の分は前九時までに、午後の分は正午までに御註文を受けること。 右の通り実行して今日に至ったが、お得意でもよく理解し賛成して下さって、無料配達廃止の当初からきわめて好成績に行われて来たのはまことに喜ばしいことであった。すなわち配達料を申し受けるようになって以来、配達を望まれる御註文の金高は、それ以前の御註文の四、五倍のものになったから、配達費の負担が著しく軽減し、手軽なものはお客様御自身で快くお持ち帰りになるようになり、正価は正価、配達料は配達料とはっきりして、店頭の売価において従来よりいっそうの勉強が出来るようになった次第である。もし一般商店と同様に遠距離まで無料配達を続けていたとすれば、その費用として商品の価におよそ一割くらいを加えなくてはとうてい立ち行かぬところであった。お客様に対してどちらが親切な仕方であるか、それは自ずから判るところであろう。

    模倣を排す

 私は店格ということをいい、これを店の持前持味というように解釈したが、ここではその店格なるものの根本について話してみたい。
 人間はその面の異なる如く、その性質を異にし、神と崇められる者があれば悪魔と嫌われる者もあり、じつに千差万別、人生に複雑な妙味を現し、また尋常一様に見られる中にも個人個人で多少とも異なるところがあるものである。
 ところがその各自異なる人間の仕事であるにもかかわらず、商店にはとかく雷同性が多く、個性の認められる店はきわめて少ない。そしてこの雷同性がいつも共倒れの原因となっているのは、じつに悲しむべき現象である。かつて日露戦争直後、東京で最初にロシヤパンを売り出し、珍しいので相当繁昌した店があった。ところがたちまち十数店の同業者が同じロシヤパンを売り出し、競争となって共に没落してしまった。
 これなどほんの一例にすぎず、ある店が何か工夫して売行きよしと見ると、同業者は一斉にこれを模倣して、たちまちその特色を失わしめてしまうのが、ほとんど世間おきまりのようである。我が日本人は世界中で最も善良な性質の持主であるが、模倣に長じて独創に乏しいところはたしかに一大欠点といわねばならない。海外貿易に従事する人々の間でもこれが著しく、一人がある国の市場に適する商品を発見して商売に成功するのを見ると、他の貿易商たちも競うてこれを模し、たちまち市場を争うてついにはその貿易を破壊に導いた例が少なくない。また内地の都市あるいは地方にあっても、一般に独自性が乏しいため、どの店もおおかた似たりよったりで一向に特色がない。これでは存立の意義きわめて薄く、男子一生の仕事として生き甲斐あるものということは出来ない。
 私が店格を云々とするのはここであって、他人の境地を侵さぬことはもとより、平常自己の人格の向上を念願すると同様に、店そのものの本質的向上を計り、人格を磨くが如く店格を磨き、店の個性を樹立することに精進努力せねばならない。店の品格を高めることの必要なのはいうまでもなく、はっきりした特色を持ち、常にその長所を発揮することが大切なのであって、それはちょうど人が人格の高潔とともに才能を練磨すべきであると全く同様である。
 先頃も私は、日本全国から菓子の講習を受けに上京した人々に講話を望まれて話したことであったが、地方の菓子業者はたいてい東京の菓子を模倣することに全力を傾け、その地方特有の名物を軽視して顧みない風がある。むろん万人から見て東京は大いなる魅力であろうが、それはちょうど明治の初め西洋崇拝に駆られて、日本古来の美術工芸品を二束三文に外国に捨売りし、何でもかんでも舶来でなくては気が済まなかったのと同じことで、遠からず失うたものの価値が解り、必ず後悔する時が来るであろう。すなわち地方人はその地の特産を大切にし、保護するとともに一段の改善を加えて発達を図り、地方色を確保することが必要である。私は好んで各地を旅行するが、これはと思うような土地特有の名物に接することは至って少なく、たいがいは都会におけるありふれたものの模造であり、失望することが常である。先頃私の友人がギリシャに遊び、往昔文化の中心地であったアゼンの都において記念品を求めようとしたところ、眼につくものはたいてい日本製品か独逸品のみで、ギリシャ特有のものは何も見当らなかったということで、大いにその国土のために嘆かれたということである。
 私はこれらの話をして地方人の不心得を指摘し、大いに注意を喚起したのであったが、これはひとり地方だけのことでなく、都下屈指の商店にしても模倣を事として目前の安易に慣れているものが多いのである。いわゆる百貨店等に押されて次第に影の薄くなって行くという店は、たいてい特色なきこれらの店である。
 特色なき店はいかに大がかりな店構えをしても、そこに何の強味もない。独自の製品を持ち一個の店格を確立せる店は、小なりとも大いに発展し得る将来を持つというべきである。のみならずこうすることが真に商道に忠実なる者である。

    日本人の能率は欧米人に劣らず

 中村屋は本郷における創業の時代、女中も合わせてようやく四、五人の人に働いてもらっていたが、その後発展に伴うて一人二人と増し、だんだんふえて、ことに昭和四年頃からは年々三月の卒業期に二十人以上の少年店員を迎えることになって、創業三十七年の今年は二百七十人の多勢となり、この大勢の店員諸君が常に緊張して忙しい店を維持し、店の進展に伴って各自その全能力を発揮せんとして努めているのであって、最年少の新入店者に至るまで私はこれを自分と同じく商業に志す同志として迎え、かく多くのよき同志を得たことを常に感謝している次第である。
 さて諸君はことごとく我らのよき同志であるが、一面また「使う人と使われる人」の関係におかれているのであって、世上この「使う人と使われる人」の間ほど難かしいものはなく、ことにこの頃は時代の進歩につれて後から後からと新しい問題が提示されるのであって、主人としての責任は重く、我らは心を尽して諸君とともに万あやまりなきを期せねばならない。
 それゆえ自分は平常他人の話にも注意し、良きにつけ悪しきにつけ参考とすることを怠らないのであるが、一昨年米国を視察して帰られた藤原銀次郎氏のお話には、一方ならず興味を惹かれた。氏は米国においていろいろの会社の執務振りなども見て来られたが、米国の諸会社では、同程度の我が日本の会社の三分の一くらいの小人数で仕事をしているというお話であった。
 私はこれを聞いて考えた。日本の会社でアメリカの会社の三倍の人数を必要とするというのは、何に原因するのであるか。もし日本人の能率が米国人の能率の三分の一しかないのだとすれば、我ら日本人の将来はまことに憂うべきものである。しかし私はだんだんと調査して見たが、日本人の能率が米国人に比して劣っているとは思われない。劣っていないばかりか、彼より一段立ち勝っていると信じられるのである。それは彼の地における我が移民の活動に見ても、また人絹綿糸などで日本が英米を圧する勢いにあるのを見ても、すでに日本人の優秀さは充分立証されているのである。現にフォード会社の横浜における組立工場で、日本人の働きは、米国における同じ組立工場に比して、一割方も立ち勝ると聞いている。それが諸会社の使用人のみに逆の傾向を示すのは何故か。私はここに事業を行う者、またはそれに参加する者の大いに反省せねばならぬものを見るのである。
 聞くところによれば米国の会社では、重役が他の会社の重役を兼ねることはきわめて少なく、専心一つの業に当り、自ら使用人の先に立って働くという。その他大学の総長さんなどでも、自ら第一線に立っていっさいの用事を仲介なしで裁決するということである。
 これに反し日本の会社の重役なるものの中には、その資本力に任せて有利の事業と見れば八方に手を出し、一つの体で多くの会社の重役を兼ね、実際の働きにこれというものもなく、高級の自動車をあれからこれにと乗りまわして巨額の報酬を得ているものが多いのである。しかも使用人の俸給は著しく安いので彼らは内心不満なきを得ず、したがって責任を感ずることも薄く、仕事に対する態度も弛緩して人一人の持つ能力が発揮されていない。加うるに俸給が少ないため内職等に精力を消耗するので、これらが原因となって三倍もの人数を必要とすることになるのである。
 我が中村屋は一人一業の主義に基づき、全員緊張して仕事に当り、不平不満なく業を楽しむの域に近づいた結果、その能率いささか誇るに足るものがある。従来の菓子職人、特に日本菓子の人々は徳川時代よりの一種の悪習慣に禍いされて、半ば遊び半ば働くというふうであるから、彼ら一人の製造能率は一日十五円内外、二十円に達することは稀れであるが、我が中村屋の職人は一人一日平均五十円に達し、歳末や四月の花見時の如き繁忙の際には七十五円にも及ぶことがある。また我が喫茶部の成績も一ヶ年を通じて一人当り一日二十一円と記録され、丸の内のある有名なレストランの一日の売上げ八百五十円を百二十人で働いているのに対比し、ちょうど三倍となっている。私はこの体験よりして我々日本人の能率は米国人のそれに劣るものでないことを自信し、甚だ愉快に感ずる。

    少年店員の採用とその待遇法

 中村屋は毎年三月に少年店員を募集し、高等小学を卒業する少年を、直接親たちの手から引き受ける方針を取って来ている。むろん高等の教育を受けた青年の入店希望者もすこぶる多く、中等学校卒業者はもとより大学の商科その他の学府を出た人々もあり、ことにそれら高等教育を受けた人々の入店希望にはそれぞれ事情があって、特に頼み込まれる場合が多いのであるが、これまでの経験によると、だいたいとして長く学校生活をした人は店務には適せぬものが多い。もともとそれらの人々は官吏か大会社の社員になることを志望し、必死の努力で受験難を突破して学校に入り、ようやく卒業してみると意外の就職難でやむを得ず方針を変え、あるいは一時の腰掛けに商店に来るのであって、最初から商売に志すものとは自ずからその性質を異にする。また長い間勉強で神経を使い、試験で精力を消耗している上、二十五、六歳までペンより重いものを持ったことがなく、他人の命令で働いた習慣のない青年たちである。店に入って急に店の規律に服し、毎日同じような煩雑な、しかも相当筋肉労働にも従事せねばならぬのであるから、馴れた者にはさほどでないこともなかなかの負担で、我慢に我慢をしてようやく一日を終ることとなる。これでは店員として成績の上がる見込はないのである。それゆえせっかく入店しても結局中途で退店するものが多く、私どももまことに遺憾に思うことである。
 これに反し、小学卒業生は年少活発で何をするにも興味があり、元気で愉快に働くので、比較的容易に仕事に関する知識を会得し、一、二年後には早くも一通り役に立つようになる。結局仕事の優劣の差は、勤労に対する覚悟の如何(いかん)と業務に対する熱意の深浅によるものとして、私はこの点から小学卒業者を採用し、年少のうちから養成することに決めたのである。実際世間の例に見ても、大工左官の如き手練を要する者は、ぜひともこの少年時代から修業に入るを必要とし、また碁、将棋の如きもこの年代から始めるのでなければ大家名人と成り難く、飛行士なども同様と聞くが、小売商として成功を納めている者や、実業界に名を成し、相当に成功している人々の中にも、小学校以上の学歴を持たぬものが甚だ多いのである。
 しかしそれら小学校出身者は特に優秀なる人々を別として、一般には小成に安んずる傾向があり、高等教育を受けた人々に比し、志が低いと見られるのはこの人々の欠点とせねばなるまい。少年店員諸君はここに留意し、反省自重して理想を高く持ち、各々大を成すように心がけてもらいたいものである。
 こうして中村屋はまず少年店員養成の一途に決したのであるが、これはあるいは商売には学問不要の宣言をなすもののように見られるかも知れぬが、そうではなく、絶対に中等学校以上の教養ある人々を入れないという立て前でないこともここに一言しておきたい。高等の学問を身につけてその上で真剣に商業に打ち込むという者があれば、それは我々も同感するところである。現に同業のうちにも帝大出身の虎屋主人黒川氏あり、出版界に傑出する岩波茂雄氏など、まことに他の追随を許さぬものがあり、新時代の商業の理想は大いに教養ある人々によって行われねばならないのである。したがって少年店員諸君も、商売の実地修業とともに、高尚な知識に対しても敏感に、絶えず自己の向上を計るべきは無論である。
 さて入店後の給与および待遇については、諸君のすでに経験するところであるが、一通り順を追うて記して見ると、入店後徴兵検査までの約六年間を少年級として、少年寄宿舎に入れ、衣類医療等いっさいを主人持ちとして、小遣いは初め月に十四、五円(給与いっさいにて)、漸次増して三十円以上となる。この六年間は月々給与の約三分の一を本人に渡し、他の三分の二を主人が代って貯蓄銀行に預けておく。
 二十二歳になれば少年寄宿舎を出て、青年寄宿舎に入る。同時に衣類は自弁することとなり、給与は四十四、五円から漸次七十円に至る。衣類を自弁するため、月々給与の約半額を本人に渡し、残り半分を主人が代って貯金しておく。賄(まかな)いはいうまでもなく店持ちである。青年級は二十七歳で終る。
 二十八歳からはそれぞれ妻帯を許し、寄宿舎を出て一家を構える。俸給は月々全部を渡し、主人はもう預からない。
 家持店員の給与は七十五円ないし二百円であるが、一家を構えてみると今までの寄宿舎生活と違い、すべてが複雑になって来て、それぞれの事情により生活の難易が岐(わか)れて来る。もちろん中村屋で少年期から青年期を実直に働き、無用の散財をしなかった者はこの時分には相当の貯金が出来ているから、それを持って退店し、新たに自分の仕事を始めることが最も望ましいのであるが、引きつづき中村屋で働きたいと望む者には、なるべくその希望に添うことを方針としている。
 自分はいろいろ経営の合理化を研究して、店員全体の生活を裕(ゆた)かにするようにと努めているが、これでよしと安心の出来るにはまだまだ前途遼遠である。だいたい私が諸君に対する待遇の根幹とするところを述べて見ると、
一、店員はことごとく我らと一家族にして、また各々立派な紳士として、事業に参加するものであるから、我らはこれに対する感謝とともに、店主としてまた一家の家長として、常に一同の幸福増進を計るべきこと。二、店員並びにその家族全体に生活の不安を与えてはならないこと。三、店員中には夫婦共に働いて余裕の持てる家庭もあるが、子供が多く、また老人を抱えて倍の費用のかかる家もある。かように事情の異なるものに同じ給与ではかえって不公平となるゆえ、子供のある者には子供手当を付けること。七十歳以上の老人のある場合は老人手当を出すこと。四、店の利害と働く者の利害はすべて一致すべきもので、営業忙しく利益多き時は、その労苦に酬い、必ず利益を分配すること。五、老後の心配を少なくするため、十年以上の勤続者には店費にて保険を付けること。六、店は毎日同じような仕事の連続であるから、その慰安を図り娯楽を与え、またその機会に情操を養い、煩雑な日々の生活の中にも潤いのあるよう、観劇、旅行、会食等、すべて上品な趣味のものを選ぶこと。七、常識を養い、教養を深めるため、修養勉学の機会をつくること。八、主人および一族中いわゆる重役的存在として店務に参加するものの、店より受くる俸給は店の幹部級の者より薄給なるべきこと。 ここでは説明するためにこういう形になったが、我々の店に何もこんな箇条書が出来ているわけではない。規律はあっても店則がないのと同様、これは自ずと決定した我々の思想であり、また実行であるにすぎない。しかしまずこの条々についても少し実際的に言って見ると、
 子供手当及び老人手当は現在のところ一人につき四円ずつを出すことにしている。
 店の繁忙に伴う労苦に対する利益分配は、総売上げの三分と、一日七千二百円(売上げの増減に従い上下す)以上の売上げのあった日の二分、年度末の決算に当って純益の一割を全員に分配する。
 老後の用意については、早大総長田中穂積博士が、私立学校の教授に恩給の制度のないのを遺憾に思い、数年前から十年以上教務に服した先生方に対し、校費で千円の保険を付け、二十年以上の先生には二千円の保険を付けることにしたとの話を聞き、私も店員に同様の方法を取り、すなわち十年勤続者には千円を、二十年勤続者には二千円の保険を付けることにし、早速この昭和十二年二月から実行した次第である。
 店員の慰安の催しについては、以上の方法によってまず一通り生活に不安のない程度には達しているが、まだこの給与では娯楽を求め趣味を向上させることは難かしいのであるから、特にこちらでその機会をつくり、現在年二回以上の観劇と一回の角力(すもう)見物をそれぞれ一等席で招待し、また会食は一流料理店を選び、洋食の食べ方、食卓の作法など、少年店員たちもこの機会に自然に会得するよう心がけ、春秋の遠足、夏期の鎌倉における海水浴なども、不充分ながら心がけているところである。
 なお遠く旅行して見聞をひろめ、地方地方の特産または商業の様子などを見ることは大いに必要で、我々も差支えのない限り春秋には旅行を試みることにしているので、諸君にも行ける限りは行かせたいと思い、遠くへの旅行は毎年春秋二回、古参者から順々に同行二人を一組として、十日の休暇と旅費を給し、九州あるいは北海道と、それぞれ好みの所に年々かわるがわる旅行をさせている次第である。
 次に私および一族中の者の俸給が、店員の幹部級の者より薄給であるべしとの趣意は、改めて説明するまでもなく、前にも言った通り、いわゆる重役連の労せずして高級を食(は)む不合理を憎むからである。
 かく説き来れば中村屋の給与は相当宜(よろ)しいように見えるが、これでも製造部では製品売価の一割に足らず、販売部は売上げのおよそ六分七厘にしか当らない。これを米国百貨店の販売高の一割六分、独逸百貨店の同じく一割三分五厘に比すれば、その半額にも足らぬのである。私は店員への給与を世界の水準まで引き上ぐべきであると考える。重役だけが生活を向上して労務者の生活を改善し得ないならば、我々実業家の恥と言わねばなるまい。

    実世間を対手(あいて)とする商業道場

 愛児を中村屋に託さるる親たち、また当の少年店員諸君に対してはいうまでもなく、我々は深く責任を感じ、いかにしてその信頼に酬ゆべきかと常に種々苦心するところである。
 昔は商家に奉公し、忠実に勤めて年期を明け、その後二、三年の礼奉公すれば、主人から店ののれんを分けてもらい、しかるべき場所において一店の主となることが出来たものである。それゆえ年期中は給与もなく、粗衣粗食、朝は早く起き夜は遅く寝て、いわゆる奉公人の分に甘んじ、じつにいじらしい勤め振りをしたものであった。
 主人もまた、子飼いの者が実直に勤めて年頃になれば、店の勢力範囲以外の地を見立ててそこに支店を出してやることは、本店の信用を高むることにもなるのであったから、主人もよくこの面倒を見てくれたものであった。むろんその時分は世間の様子が今と全く異っていた。町に交通機関はなく、ちょっとした用事にもいちいち使いを出すほかないのであったから、得意の範囲は自ずから定まり、どの商店もその近傍を得意として、古い取引の上に安定していた。
 ところが明治の末期になると電車が敷かれ電話がかかり、自転車は普及し、便利になったと思っていると今度は自動車、そのうちバスも行き渡って、その結果は今のように得意の範囲が拡がり、相当の店なれば市内一帯はもちろん郊外にも多くの客を持つ有様となり、また地方とは通信による商いもなかなか盛んになって来たのである。
 さてこうなると店員のために主家ののれんを分けることは甚だ困難で、また分けて見ても分け甲斐のないものになった。昔は本店まで行けないから支店で買い、お互いにそれが便利であったのだが、今のように交通が発達し、その機関を利用しての外出は苦労ではなく、遠方の買物もかえって一つの興味となった。支店を出しても支店の前は通り越して、やはり直接本店に行って買う。これでは支店の立ち行く筈はないのである。
 ことに昔は一軒の店を持つのも容易であった。店飾りなどもごく簡単で、もちろん借家に権利金もなかった。我々が本郷で中村屋を譲り受けた時なども、製造場その他いっさい付いている店が僅か七百円であった。それが今日はちょっと見込のある所は権利金だけでも数千円で、現に新宿目ぬきの場所は、間口一間当りの権利金が一万五千円から二万円という驚くべき高価に上がり、その他どこに行っても新たに店を持つことは昔よりはるかに困難となったのである。また一方には幾千万円の大資本を擁する百貨店が出現し、これが郊外遠くまでも配達網を布いての活躍で、小商店に一大脅威を与えており、これと戦って敗けずに行くには余程の覚悟を要するのである。
 また昔は僅々数十円の小資本でも、機に乗じ才智によって成功した例もあったが、今より後はかかる僥倖は望むべきでなく、何事も合理的方法によるほかない。
 それゆえ諸君は仮りにも夢を見てはならないのであって、奉公先を一生の親柱と頼み、すがってさえいれば何とかなるという時代ではないことをしっかり自覚し、そこに真剣な修業の覚悟が必要である。とにかく私として諸君に望むところは、諸君が我が中村屋を商業研究の道場と心得、仕入れ、製造、販売の研究はもちろん、朋輩に交じわる道、長上に対するの礼、人の上に立つ心得等に至るまで、充分に習得して真に一店の主人、一製造場の長たり得る資格を備え、いかなる苦境も自力で開いていくだけの人間修業をして欲しいのである。その上に事業に対する熱意があるならば、志は必ず酬いられねばならない。
 以上私はのれん分けの困難な理由、今の商売の容易でないことのみを述べたが、一方また現代は多くの新しい仕事と働き場所をもって諸君の進出を待っているのである。徳川時代三百年間に、日本の人口はおよそ二千五百万人から三千万人に増加したのみであるという。それが維新以来今日まで僅か七十年の間に三千万人の人口は七千万人に上り、しかもこれは内地在住の者のみを数えたのであって、この他に海外に出て大いに発展している同胞のあることを思えば、我々は何という勢い盛んな時代に生れたものであろう。そうして新時代の文化の複雑さはどれほど我々を恵み、我々の仕事をふやしていてくれるか知れない。のれん分けの望みこそ失せても、独自の道は開けている。諸君はこの新時代の新人として世に立つべく、大いに勇往邁進(まいしん)すべきである。研究を怠り、また己を鍛えることを忘れて青春の時代を漫然と過ごした者は、やがて世間に出て落伍者とならねばならない。我々は諸君の大切な若き日に充分の自覚と正しき努力とを望み、中村屋が諸君の真によき道場とならんことを願うものである。

    店員のために学校設立

 日々忙しい労務に従う店員諸君のために充分な休日を与えることと、修養勉学の機関をつくることとは、私の長年の願いであった。しかもこの二つは何でもなく出来そうに見えて、じつはなかなか難かしく、今も休みは不充分であり、ことに勉学の方は近年まで全く手をつけることが出来ないでいたのである。ただ夜分だけは早く休息させたいと思い、平日は午後七時閉店、日曜大祭日は特に忙しいことであるから五時閉店として、本郷から新宿に移転以来ずっとこれを実行して来たのであるが、その後新宿の盛り場としての発展と、別に述べたような百貨店の進出による事情などで、やむを得ず営業時間を九時までと改め、さらに十時まで延長、そこで三部制(販売部)を取ることになって、現在のように朝七時出は午後五時まで、九時出は七時まで、正午出は十時までの受持とし、各十時間勤務と改めたのであった。また月二回の全員定休日のほかに、交替でさらに月一回の休みをつくり、これでやや改善されたが、毎年四月、十二月などのとりわけ忙しい月はまだまだ過労の様子が見られ、さらに進んで一週一日の休みと勤務時間短縮の必要が考えられるのである。そうしてこれが実行されれば長年の我々の願いもようやく成就するのであって、今はその日の一日も早く至らんことを希望している。
 少年諸君のための勉学の道はようやく昭和十二年五月着手、矢吹慶輝博士の御指導によって、文学士谷山恵林氏以下五人の良師を得、工場の一部にとりあえずごく小規模の教室を設け、研成学院と名づけ、とにかく開校することが出来たのはまことに同慶に堪えない。しかし研成学院はまだ全く未知数に属し、成功か不成功か予想は許されないが、先生方の熱心と諸君の倦(う)まざる努力によって、好結果をあげることが出来ればまことに幸いである。五月十八日開校式の際私が諸君に述べたところをここに再録して、この稿を結ぶことにする。
 中村屋は諸君も御承知の通り、もう三十六年の歴史を有しております。初めのほどは、夜学をしたいという店員には通学の便利を与えておりました。そのため夜学に行く人も多くあり、現在計理士の新居氏や満鉄の図書館長勝家氏等も、その頃店で働きながら大学の夜学部に通うてあれだけの出世をしたのであります。しかしだんだん世の中が切迫して、学校の方も学課がむつかしくなり、また真剣に学ばなければ競争上やって行けないというようなことになり、我が中村屋も以前よりは幾倍忙しくなって、店に働きながら夜学に通うことはどうも無理だと考えているうちに、夜学に行く者はだいぶ健康を損じて、そのうちには死ぬ者さえも出たので、これではならぬ、二兎を追う者は一兎を獲ずという諺の通りで、学問もしよう、店の仕事もおぼえようというのでは双方とも駄目であると分ったので、学問をしたいものは他所に行き、商売に志すものは業務に専心すべしとして、十年ほど前から夜学に通うことを禁じてしまった。
 その結果病人は少なくなり、健康状態は著しく良くなったけれども、最近中村屋も、以前の十二、三時間も働いたのを十時間制に改めて、少しく時間に余裕が出来たところから、ひそかに会話等を習いに行く者もあると聞いたので、若い者の学問をしたいというこの希望の若干を叶(かな)えてやりたい、健康を悪くしない程度で、と考え、ようやくその案が立ち、またきわめて適任な先生が見当ったので、仕事のかたわらその休み時間を利用して学問を少しさせようじゃないかと、今度この学院を建てることにしたわけである。それゆえ各自には一週間僅か四時間だけの授業をするのみである。それくらいなら体にも仕事にも差支えなくて、かえってそこに面白味も出るだろう。この僅かの時間の勉強でもこれを長年続けるならば、人生に必要なる知識を得る不足はないと信じている。自分が先年欧州に行った時、識者の間でだいぶ問題になっているデンマークの国を訪ねて見た。この国は諸君も地理で知っていることであろうが、じつに小さい国で、我が九州にも及ばぬくらいの大きさである。さように小さく甚だ貧弱で気の毒な国であった。ところがそこにグルンドウィヒという偉い教育家が生れ、デンマークをいつまでもこういう憐れな国にしていてはならない、何とかしなければならぬというところから、この人の発案で、国民高等学校というのを拵(こしら)え、農家の子弟や商店の徒弟を冬の暇な時に集めて、少しばかりの学問を授ける。それも農家の子弟に農業のことを教えるのでなく、商店の者に商売のことを教えるのでもない。そういう職業には直接関係のない、国の歴史とか宗教とか、主として人間を高尚にする学問を教える。まあ大学の初歩のようなものである。
 その学校の成績が非常に宜しかったので、同じものが全国にいくつも建てられ、デンマークは今日では世界の模範国と称されるほどになった。それが僅か三、四十年前のことである。この学院もその国民高等学校の趣旨を少しくお手本に取ったものである。ここで諸君が仕事のかたわらの勉強によって、デンマークの学校と同じような効果が現れることになれば、諸君にとって、また我が日本国にとって非常によいことである。ここがうまく行けば余所(よそ)でも真似るようにならぬものでもなかろう。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:231 KB

担当:undef