当世二人娘
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著者名:清水紫琴 

 その機を察して抜目なき甲田、一方よりは軽井の口軽を利用し、思ひ切つてこれに利を啗はせ、いよいよ我が器量勝れたる男なることを、君子の父母に吹聴さするの材料に供ふるなど、諸般の手配ことごとく調ひて、今はただその本尊たる君子の、心機一転を竣つのみの、有望なる時とはなりぬ。

   その六

 花子は我が心に許せし人の、手折りて后その色香に飽き、よその垣根を覗へりとも、更に心付しよしなけれども、近頃は何となくこれも疎々しく、よそにて逢はむ約束をも違うる事の多かるを、少しく訝しと思はぬにはあらねど、逢へばいつに変はらぬ優しさ、やがては準備も調はなむに、結婚の日はおほよそいつ頃、新婚旅行はどこへして、世帯はかくかくして持つべしなど、嬉しき事のみいはるるままに、よもさる事はと心を許し、ただ一筋に公の務め、遑なきままにかくぞとのみ思ひ込みてあながちに疑はず。いづれにも我が大事な殿御、御用の間を欠かさぬがお為と、すまぬ心を我から制して、怨みがましきことなどいひたる事もなかりしに、ある日君子の方へも出入りせる女髪結の、何心なき噂ばなし、竹村様のお嬢様には、御養子にでも御出来なされてか、立派なる旦那様を時々御見受け申しまする。それはそれは通らしい御方と、この女甲田に岡惚してか、聞きもせぬにその顔だち、身のまわりのはなし、花子はただソーソーとのみ聞き流して心にはとめず。されどさる事あらむには、君子の我が方へ告げ越さぬ筈はなし。殊には君子も我と同じく、よそへ嫁入るべき身とこそ聞きつるをと、更に誠とは思はねど、我も甲田の事に拘らひてより、久しく君子をおとづれねば、明日あたりは行きても見むかと思へる折しも、その日ゆくりなくも君子の来りたれば、殊の外打喜び、わずか一ヶ月二タ月のほどなれど、久しく逢見ぬ心地するなど例の如く親しく語らひゐたる内に、君子はふと甲田の噂を始めぬ。
 花子さんアノ甲田さんネ、あの方は私はたいへんいやな方だと思つてましたが、この間から時々家へいらつしやるもんですから、少しお話してみましたが、見掛けよりはしつかりした方ですネー。この詞を聞きたる花子ハツと思ひて、面の色も変はりしにぞ轟く胸をやうやく抑へて、ヲヤ甲田さんがあなたの処へいらつしやいますのハアいらつしやいますよたびたびヲヤと花子はしばし無言にて君子の顔を眺めゐしが、いよいよ確かめたくなりてや、詞も自ら急激になり、なぜでしやう、どうしたんでしやうと重ねかけて問ひぬ。君子は少しもその間の消息を知らねば、これは一向平気なものにて、なアにネ、父が碁が好きなもんですから、いつも碁の相手をする骨董屋が、あの方も碁が好きだからツて連れて来たんですよ。花子はホツと一息したれど、思ひ合はする女髪結の話もあり、まだまだ油断するところでなしと、いつそう詞を進めて、なほも委しく問ひかけぬ。さうそれであなたもお心易くなさるの。いいゑ、心易くといふ程でもありませんが、ついお茶のお給仕なんぞに出される事があるもんですから、それで分つてきましたよ。何がです。その御気性がですサと君子はどこまでも平気なり。花子はいよいよ胸躍らせソーといひたるまま、何事をか深く考へゐる様子なり。君子は少しもそれに気注かず、何ですとネーあの方も奥様のお在りなすつた方ですとネー、花子は耳に入りしや否や、無言のままに打沈めり。どういふ御都合で御離縁になつたのでしやう、あなたそれ御存知なのと君子は再び花子に問へど、花子は依然無言なり。君子は更に詞を継ぎて、エあなた御存知でしやう、エとしばしばいはれて心付きしにぞ、花子はものいはむもうるさければにや、存じませんよ私はと素気なくのみいひ放ちぬ。ソー、でもあなた御存知の筈じやアありませんかと、お兄様のお友達だと、いつか仰しやつたじやありませんかと、これはまた是非聞きたげなるがいよいよ訝しく、さてはそれかと思へば思ふほど、唇重く頭痛みて、今は得堪ぬまでになりしかば、花子は右の手にて額を押へながら、傍に在りし机の上に肱かけぬ。君子はそれにて始めて会得したらむやうに、ヲヤあなたお加減がお悪いの、道理で今日は、何だか変だと思ひましたよ。それではまたゆつくり伺ふ事にして、今日はもうお暇といたしませう。実はネ、今日はあなたによく伺つた上で、御相談したい事があつて、上つたのですけれど、お加減が悪くてはいけません。どうぞ直ぐお横におなりなさいまし、いづれまたちかぢかに伺ひますからと口には他日を契れども、心はいつもの如く花子が引留めて、いいから話していらつしやいよといひくるるならむと思ひの外、これはいかなる事やらむ、花子は少しも留めむとはせず。ソーせつかくいらしつたのにネーと義理にも搆ひませぬとはいはず、我から立ちて玄関へ送り出るもそこそこに、君子が下駄穿き終りし頃には、はやバダバダと奥の方へ駈け込みし不思議に、君子は驚きて振り向きぬ。

 甲田は最早時機到来、次回君子の家をおとづれたる時には、いかにもして好機を見出し、少しく我が意中を傾潟してみむ。おそらく掌中の玉たるを失はざらむ。しかして君子の意思一度我に向へるを。隠微の間にだも認むるを得なば、さてこそ全くしめたものなり。多日の焦思を癒すもはやちかちか。その上の手筈はかくかくと、君子を連れ出す場所さへに予定しつ、婦人の操を弄ぶを、この上なき能と心得る色の餓鬼こそ恐ろしき。折しも花子の方より、是非是非急に御目にかかり、御はなし申し度き事あれば、直ぐにも御返事下されたしとの郵書来りぬ。君子の事に□(かか)らひてよりは、忘るるともなく忘れゐしなれど、もとよりこれもいな舟の、いなにはあらず思へるにて、捨小舟としたる心にもあらず。ただ流れゆく水性の、移る心に任せつつ、かしこの花ここの月よと浮かるるなれば、かくいはれてはこれもまた憎からず。さては忙中の一閑これもまた妙ならむ。かれといひこれといひ、いづれも絶世の佳人なるを、色男には誰がなると、独り顎(あご)を撫(な)でゐたり。

   その七

 春は花いざ見にごんせ東山、それは西なる京なれど、東の京の花もまた、東叡山にしくものなければ、弥生の春の花見時、雲か霞と見紛ふは、花のみならで人もまた尊き卑しき差別なく、老も若きも打ち連れて、衣香扇影ざんざめきたる花の下、汁も膾も桜とて、舌鼓うつものあれば、瓢の底を叩くもあり。花さへ酒の香に酔ひて、いとど色増す美しさに、下戸も団子を喰ひ飽きてうつとり眺めゐるもあり。心々に花莚さすがに広き山内も、人の頭に埋められぬ。
 君子は今日の好天気に、久し振りの花見せばやと、珍しく父の思ひ立ちに、母とともに連られて、そこよここよ人に押されて見歩行きしが、父の大張込にて昼食は桜雲台の、八百膳といふ心搆へも、あまりの人出に思わくを替へ、と、鶯溪へ折れて温泉に浴しながら、ゆるゆるとうちくつろぐ事となりしに、ここはまた別世界の、ひつそりとしたるが君子の気に入り、父母がささ事の隙に、我は庭下駄はきてそこら見ありきしが、奥まりたる離れ座敷に人のけはひして、男女のささやき聞こへしかば、ハツと思ひて引返さむとしたりしかど、何となくその声音聞き覚へあるやうなれば、よしなき事とは思ひながら徒然なるままに聞き耳立てにしに、思ひきやこれは、甲田と花子の話し声ならむとは。
 ほんとにあなたはひどい方ですよ、私に隠して君子さん許へなんか遊びにいらつしつて。なアに隠すも何もありやアしない、行つたつて不思議はないじやありませんか。ではなぜおつしやらないの。別にいふ必要がないんですもの。何必要のない事はありませんわ、君子さんといふ美しい方がいらつしやるのですもの、お父さんばツかしじやありませんから……。アハハハハこれは妙だ、君子さんが居たつていいじやありませんか、それがなぜいけないの。なぜつてそれは――それはあなたのお心に聞いてご覧なさいまし、君子さんが居るからいらつしやるのでしやう。これは大笑ひハハハハでは娘のある処へは、いつさい行ツちやア悪ひといふんですか。なアにさうじやアありません、別に何のおつもりもなければ。つもりツて何のつもりハテナ――。宜しいいくらでもおとぼけなさい、どうせ私は口不調法ですから君子さんには叶ひませんわ。フフフムではあなた妙に疑ぐつてるんですな、これは恠しからん、実に驚いた、さう気を廻しちやア身躰の毒ですよ、もつと大きく気をお持ちなさい。搆(かま)ひませんよ、どうせ私は捨ものですから、と花子はいつしか涙声になり、それで分りました、式を挙げるまでは誰にもいはないやうに、そして君子さんには決して僕の名前を告げちやアいけない、なるべくあんな生意気な人とは交際(つきあ)はないやうになさいなんて、甘く私をお瞞しなすつたのも、みんなそんな思召があつたからなんでしやうとこの声ははや打曇りてよくは聞こへず。甲田は背を撫でて介抱するやらむ、さらさらと衣の音して、宜しいそれでは早くあなたの御安心なさるやうに致しませう、つい財政を整へてからと思ふので、延引してたんですけれど、近い内に式を挙げませう、さうすれば御安心が出来るでしやうからと、嘘か誠かいと慰め顔にいへるも憎らしく汚らはしく、君子は最早聞くに得堪へず。悚然(しようぜん)として忍び足にそこを立去りぬ。
 さて我が座敷へ戻りて、考ふれば考ふるほど、甲田憎く花子憐れなれど、幸にその身のみは過慮の空しからで、毒蛇の口を遁れたるを喜び、直ぐにも父母にこの一条打明けて、再び甲田を寄付けぬ事にして貰ひたしと、思ふ心ははやりしかど、更に思へばさては我友の為包ましき事をも、いはでかなふまじきをと思ひ返して、この一条は深く我が胸一ツに蔵め置きつ。翌日何気なきさまにて再び花子の方を訪ひたきよし母に乞ひ、新たに花子より聞得たる躰にもてなして、その約束の人はやはり甲田なりしよし告げたれど、父は君子の詞のあまりに前後矛盾せるを恠みてや、たやすくは信すべき気もなく、これは君子の甲田方へ嫁ぐを好まぬより、事を搆へて否まむとするならむと、さまざまにその不心得を諭したりしかど、君子ははや充分の証跡を押へたる上の事なれば、それとはいはぬ詞の内にも、自らなる力は籠りて、遂には父を動かしけむ。さらばともかく今一応甲田の素行を探らせてみやうといふ事になり。さすがにこの度は念入れて、それそれの手蔓求め出したればにや、甲田の内幕ことごとく曝露(ばくろ)して、思ひの外の事を聞くのみなれば、父もいたく打驚きて、さては今の人といふものは、身分のある人でも油断の出来ぬものじやなと、始めて我が眼の晦みゐしを悔ひ、それについても憎きは軽井、危く我が娘を芸者か妾同様にさるるところであつたと、かくなりては一轍なる老人気質、明日ともいはず直ぐに軽井を呼付けて、子細はいはねど覚へがあろうと、それが出入りとともに、甲田の来訪結婚の約をも併せて謝絶しぬ。
 これにて君子も、我が身の上は安心したれど、深くも花子の身を憂ひ、しばしばそれとなく注意を与へしかど、花子は一度君子を疑ひたる上の事なれば、何事をも直ぐやかには聞かず。ひとへに君子の、その身の望みを充たさむとて、我を離間するなりとのみ思ひ僻み、果ては君子を疎んじ恨み、たまたま来り訪ふ事あるも、病に托して逢はぬまでになり行きしかば、君子はそれを情けなき限りに思へども、さてその上の術(てだて)もあらねば、やがては迷ひの雲霧も晴れて、真如の月を見る事もやと、心ならずも打過ぎぬ。

 その翌年君子はある方へ嫁したりとか聞けど、花子は今も娘の名にて依然本郷なる兄の方にあり。甲田との人に知られぬ通ひ路絶へずや否、それはもとより知るよしなけれど、甲田の方には妻か妾か、花子にはあらぬ年若く美しき女の、新たに迎へられて侍れるがありとぞ。(『世界之日本』一八九七年三月)




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